詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(59)

2013-09-23 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(59)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「そのあと」は、まるできのう読んだ詩のつづきのように感じられる。

そのあとがある
大切なひとを失ったあと
もうあとはないと思ったあと
すべては終わったと知ったあとにも
終わらないそのあとがある

そのあとは一筋に
霧の中へ消えている
そのあとは限りなく
青くひろがっている

そのあとがある
世界に そして
ひとりひとりの心に

 「過去」は「記憶」され、「記憶」は忘れないように「記録」される。そして、「終わる」。でも、「終わり」にできない気持ちというものがある。「終わり」にできない気持ちがあるから「記憶」し、「記録」されるのかもしれないけれど、すべてに「終わり」というものがない。
 生きているからね。
 「終わりにしよう」と思ったときから「始まり」がある。

 2連目がおもしろいなあ。
 終わったあとも何かがつづいていて「霧の中へ消えている」。えっ、「終わり」って、そんなあいまいで頼りない感じだけ?と思ったら、すぐに明るい希望のように「限りなく/青くひろがっている」。これは「霧」が「青く」とも読めるのだけれど、私は、野原と青空を想像した。ひろびろと光が満ちている。その「青」は空の青であり、宇宙の青だと思った。ここで「宇宙」が出てくるのは、谷川の詩が私の「肉体」の中に入っているからだね。私の「肉体」は「青」から「宇宙」を思い出してしまう。
 そこに「そのあと」がある。「未来」がある。
 谷川は「ひとりひとりの心に」と書いている。私は「ひとりひとりの肉体に」と書き直したい。書き直して読んでしまう。
 それが、谷川の詩を読んだ、「そのあと」の私である。



 どこかで遠し番号を間違えたみたい。「日記」のタイトルは(59)になっているけれど、今回が(60)。「再読」は終わりです。



こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版
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谷川俊太郎『こころ』(58)

2013-09-22 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(58)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「記憶と記録」は対句のようにしてことばが動く。

こっちでは
水に流してしまった過去を
あっちでは
ごつい石に刻んでいる

 最初の2行が「記憶」、次が「記録」ということになるのだろう。「ごつい石に刻んで」が、不思議となつかしい。「肉体」的である。これが10ギガのメモリーに書き込み、だったりすると、なんだかうさんくさい。「肉体」で苦労して石にことばを刻む。その肉体の動きがなつかしいのだ。きっとワープロで刻んだ記録--それもメモリーのなかに入ってしまうと、直接見えないので、もう何もおぼえていないに等しいね。
 おぼえる、思い出すは、「肉体」の仕事なのだ。
 で、肉体の仕事だから、たぶん石に刻んだことは、刻むことで肉体から捨てるということもできるのだと思う。メモリーに刻んだのでは、この「捨てる」ときの、さっぱり感がないね。「ざまをみろ」という感じが。
 (と、きょうは、前に書いた感想とはまったく違ったところへことばが動いているなあ、と思う。きのう、きょう、私に何か記憶しておかなければならないようなこと、記録しておかなければならないことがあったのかなあ……。ことばへの感想は、日々かわるものだなあ。)

記憶は浮気者
記録は律儀者

 そうとはかぎらないかもしれない、ときょうの私は思う。「記録」は変更がきかない。たしかに石に刻んだ文字はかわらない。だから「律儀者」。そうかな? 「記録」そのものはかわらなくても、それは書いた人(刻んだ人)がそう思うだけで、読んだ人は違うだろうなあ。最初は感動しても、あるときはバカだなあと思うかもしれない。「いま」とあわなくなってしまう「記録」というものがある。それでも「律儀者」という具合に重宝されるかというと、そうではなく、逆に抹消(削除)されるということもあるだろうなあ。「記憶」以上に「やっかい者」かもしれない。

だがいずれ過去は負ける
現在に負ける
未来に負ける

 負けたふりをして、身を隠していて、そのあと突然あらわれてくるという逆襲もあるな、きっと。

忘れまいとしても
身内から遠ざかり
他人行儀に
後ろ姿しか見せてくれない

 あるいは逆に、忘れようとしても忘れられず、体の奥にひそんでいて、ある瞬間に体を突き破って暴れ出し、その後ろ姿を呆然とみつめることしかできないということもあるかもしれない。
 そういうとき、「記憶」「記録」「過去」は「未来」になっている。

 谷川の詩の最後の「主語」は「過去」なのか「記憶」なのか「記録」なのか、断定はできないが、「記憶」「記録」を含めた「過去」なのだろうけれど、その「過去」と「対句」を構成するかもしれない「未来」のことを、私は、ふいに思ったのだった。

二十億光年の孤独
谷川 俊太郎
サンリオ
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谷川俊太郎『こころ』(57)

2013-09-21 23:15:13 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(57)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「ゆらゆら」は「ゆれる」こころを描いている。「ゆれる」というのは不安定な状態だが、谷川のこの詩は不安定な気持ちにならない。

ゆらゆら揺れる
揺れている
気づかずにいつの間にか
揺れ始めている

 ここまでは、「不安定」へつながることば。「気づかずに」「いつの間にか」というのは気持ちがよくてということもあるかもしれないが、「こころが揺れる」となれば、やはり「不安」の強い。これは、「流通イメージ」というものだろうけれど。

揺れている
木々が
こころが
私が
世界も
ゆるやかに揺れて
揺られて
不安

 ほら、やっぱり「不安」。
 それなのに、

でも赤ん坊のように
身をまかせて
ゆらゆら

 赤ん坊も、力のない感じ、弱い印象があるので、「不安」を増幅させるはずなのに、「身をまかせて」で印象ががらりと変わる。何か、愛情につつまれている感じになる。
 あ、そうか。
 激しくゆさぶられるのではなくて、「ゆらゆら」なら、どこかに「配慮」があるのかもしれない。そういう「感じ」がどこかにあって、その見落としているものを谷川はすばやくつかみとってくるのだろう。
 「身をまかせ」ることの不思議なあたたかさ。
 「身をまかせる」ように「こころをまかせる」と、こころのなかに「安心」が生まれるのだろう。「不安」が消えるのかもしれない。


大人になるまでに読みたい15歳の詩 全3巻
谷川 俊太郎,青木 健/和合 亮一/蜂飼 耳
ゆまに書房
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谷川俊太郎『こころ』(56)

2013-09-20 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(56)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「絶望」という詩。この詩でも私は「本能」ということばをつかいながら読んでしまう。

絶望していると君は言う
だが君は生きている
絶望が終点ではないと
君のいのちは知っているから

 この「君」を私は、途中から「本能」と読んでしまう。

絶望していると君は言う
だが「本能」は生きている
絶望が終点ではないと
「本能」は知っているから

 引用した最終行では「本能」は「君のいのち」と入れ替わる。「いのち」が「本能」なのだ。あらゆる規制から無垢な「いのち」が「本能」なのだ。
 「絶望」は「本能」の近くにまでおしよせてくる何かである。
 それは「本能の肉体(いのち)」を傷つける前に、「こころ」を傷つける。「こころ」が傷ついて「絶望」する。その絶望に対して、「本能のいのち」は「本能の肉体」はまだ生きていると主張する。「本能のいのち」は「本能」に「肉体」があることに気がついている。知っている。

絶望からしか
本当の現実は見えない
本当の希望は生まれない
君はいま出発点に立っている

 この4行を、私の「本能」は次のように「誤読」する。

こころの絶望からしか
「本能」の現実(本能の肉体)は見えない
「本能のいのち」は生まれない
君の「本能」は出発点に立っている

 「本能のいのち」を生み出そうとしている。君の肉体のなかに、まだいのちになる前の「本能のいのち」がうごめいて、生まれようとしている。無垢で純粋な力が生まれようとしている。
 「絶望」は陣痛なのである。


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谷川俊太郎『こころ』(55)

2013-09-19 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(55)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「心は」は難解な詩である。

見えてしまうものに
目をつぶる
聞こえてくるものに
耳をふさぐ

 さらりと読んでしまうが、主語は何? 「肉体」かな? つまり「私の肉体」。

見えてしまうものに
「私の肉体である」目をつぶる
聞こえてくるものに
「私の肉体である」耳をふさぐ

 うーん、変だ。何か間違っている。
 ややこしいね。もっと簡単に「私は」と言った方がいいのかな?

見えてしまうものに
「私は」目をつぶる
聞こえてくるものに
「私は」耳をふさぐ

 すっきりした。私は「肉体」にこだわりすぎているのかもしれないなあ。でも、すっきりしすぎる感じもする。何かが違うような気がする。私が最初にこのしにつまずいたときの感じからすると「私」が主語ではないような気がする。
 谷川はタイトルで「心は」と書いている。ためしに「主語」にしてみる?

見えてしまうものに
「心は」目をつぶる
聞こえてくるものに
「心は」耳をふさぐ

 あ、これが一番いい感じ。
 でも、「論理的」に考えようとすると、おかしい。
 「見えてしまうもの」。それを見たくないから、目を閉じる。そうすると、目を閉じるように命令したのは心かもしれないけれど、実際に目を閉じるのは「心」じゃないね。あくまで「肉眼である目」だね。目が目をつぶる。
 この印象があって、私は最初に「私の肉体」を主語にしてしまったのである。
 最初に戻ってしまった。

 別な視点から、ことばを動かしてみる。
 「心は」目をつぶるということは……心は「見なかった」ことにしたいのかな? 聞かなかったことにしたいのかな?
 肉体が体験したのに、それがなかったことにする、といってもそれが実際になくなるわけではない。そうすると、それは「心」の中の仕事? あるいは「頭(精神)」のなかでの仕事?
 その仕事を、でも谷川は「目」「耳」という馴染みのある「肉体」であらわしている。目や耳の動きであらわしている。
 「心」あるいは「頭(精神)」の運動を、肉体を比喩としてつかっていることになるのかな?
 ことばが堂々巡りをしてしまう。

 さらに、そのときの「仕事」は、具体的に考えると、わからなくなるなあ。

心はときに
五感を裏切り
六感を信じない
心はときに
自らを偽っていることに
気づかない

 「五感」あるいは「六感」というのは肉体のなかにある「感覚」。「心」を肉体の比喩で動かしてみると、その動きが「五感/六感」という肉体のなかにあるものを裏切ったり、信じていないことがわかる。
 そのとき「心」は何をしている。
 「心」は自分を偽っている。
 見えてしまうもの--それはほんとうは見たいもの。
 聞こえてくるもの--それは聞きたいもの。
 臭ってくるもの--それはかぎたいもの。
 あるいは見なければならない、聞かなければならない、嗅がなければならないものかもしれない。
 本能が本能の力で無意識に見て、聞いて、嗅いでしまうもの--それを遮断しようとするは、本能を裏切ること、と谷川は言っているのかもしれない。

 この「本能」ということばにたどりつくと、私はまた最初の「主語」で「私の肉体」と書いたところに戻ってしまう。

見えてしまうものに
「本能は」目をつぶる(ことはできない)
聞こえてくるものに
「本能は」耳をふさぐ(ことはできない)

 私は谷川が書いていないことばを補いながら読んでしまう。「誤読」してしまう。

心はときに
五感を裏切り
六感を信じない
心はときに
自ら「の本能」を偽っていることに
気づかない

 このとき、「心」とは何の規制も受けない、無意識の「心」、純粋な心ではなく、○○はしてはいけない、というような「流通概念になってしまっている社会的規制」で教育された心である。そういう「社会的規制」が人間の行動を抑制する。「本能」を傷つける。そういうことに「社会的教育を受けた心」は気がつかない。

 谷川が書いていないこと書きすぎているだろうか。
 でも、こんなふうに逸脱して読んでしまうのが、きっと詩なのだと思う。
 作者がどう思っているかは関係がない。詩人のことばに触発されて、どんどんことばが動いていってしまう。それが詩なのだと思う。
 「難解」で「誤読」を誘ってこそ、詩なのである。

 谷川が、その読み方は間違っていると指摘したとしても、そう読むことは私の本能の形なのだ。本能に正直になれば、どうしても作者の思いとは違うところへいってしまう。私は谷川ではないのだから。
手紙
谷川 俊太郎
集英社
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谷川俊太郎『こころ』(54)

2013-09-18 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(54)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「腑に落ちる」は変な詩である。何が変化というと「論理」的ではない。--というのは、言い方がよくないが。論理を超えるのが詩なのだから、詩が論理的手あるはずはないのだが。でも、谷川の詩は論理を踏まえながら、論理を超える、論理を突き破るところにひとを驚かす要素があって、あ、そうなのか、そういうふうにことばになるのか、という驚きがあって、それが特徴となっている。
 「腑に落ちる」には、その論理を突き破る論理、という特徴から少しずれている。そのために、何か奇妙な感じになる。でも、その奇妙な感じが、いいなあとも思うのだが。

 1連目は「腑に落ちる」ということばをつかって、「腑」って、どこ?と問いかける。「下腹あたり」を指さしながら、質問されたひとは「どこかこのあたり」と答えている。それに対する2連目。

そこには頭も心もないから
落ちてきたのは言葉じゃない
それじゃいったい何なんだ
分かりませんと当人は
さっき泣きじゃくったせいか
つき物が落ちたみたいに涼しい顔

 「言葉」を受け止めるのは「頭」か「心」かのどちらかであるという前提で、谷川は「腑に落ちた」のは「言葉」ではない、と主張している。そして、それでは「腑に落ちる」というとき、何が腑に落ちるのか、というようなことをさらに問いかけるのだけれど、
 うーん、
 禅問答みたいでわからない。
 谷川の「論理」は「禅問答」とは遠い世界だと思っていたが、ここでは「論理」が何かを超越している感じ。
 で、「わからない」と言ったひとは、「涼しい顔」。
 この「超越」の仕方が、かなり変わっている。

 いつか、ここに書かれていることが、ぱっとわかるときが来るかもしれないけれど、どうにも「論理」がつかみきれない。どんな具合に「論理」を破って、そこに詩が出現するのか、その「構造」のようなものが見えない。
 だからこそ、この詩が気にかかる、気にかかって、それがいい感じなのである。「肉体」を刺戟してくる感じが妙なのである。
 「腑に落ちる」の「腑」が肉体だから?
 かもしれない。
 「腑」と「涼しい顔」が向き合っている。「腑」と「顔」が向き合って、その向き合った部分に、顔は「涼しい」という感覚をねじ込む。そこがおもしろい。でも、そのことをこれ以上は書けない。どう書いていいかわからない。

 というよりも、というか……。
 書きながら、私には気になって仕方のないことがひとつある。
 最後から2行目--これが、私の「記憶」と違っている。私は記憶力はよくないし、詩を暗唱するということもないのだが、引用しながら、あれっ、

さっき泣きじゃくった「くせに」

 じゃなかったのか。そう思ったのだ。
 この詩が朝日新聞に載ったとき、その感想を書いたはずだから、そのときの引用と比較してみればわかることかもしれないが。
 どうして、そう思ったのかなあ。
 「……せいか」だと、順接というのだろうか、論理がまっすぐに進んでいく。「……くせに」だと逆接になる。あることがらが「反対」の方向に向かうとき、「……くせに」になる。
 たぶん私は、谷川の詩は「論理を否定する論理」の形として生まれると思い込んでいて、そのために「……せいか」という「逆接」の運動を無意識のうちに持ち込んでいたのである。

 で、そのことを考えると。
 そうか、この詩を変だなあとどこかで感じたのは、この詩が逆接による論理の破壊ではないからだな、ということがわかる。
 順接によって、論理を超越していくのだ。破壊ではなく、論理を土台にして、別の次元へ飛んでしまう。それこそ、泣いていたのに、泣いていたことなどなかったかのように、涼しい顔をしている。そんなこと、あったっけ、という顔をしている。
 逆接による論理の破壊(論理の否定)よりも、順接による論理の超越(無意味への飛躍)の方が、なにか「絶対的」なものを感じさせるね。強いね。
 その「強さ」を私は受け止められなくて、変だなあ、と感じたのだろう。



 私の、この谷川俊太郎「心」再読の感想は、論理をととのえないことを自分に課しながら書いている。読み返さない。書き直さない。思いつくまま、という「ライブ」の感覚。とはいえ、今回の感想は、あまりにも飛躍が多いかな。支離滅裂かな?
 でも、ふらふらしながら「順接による論理の超越=詩」というところへ、突然、たどりつけたのはなんとなく気持ちがいい。
 多くの抒情詩は「逆接の抒情詩」(敗北の抒情詩)である。どういうことかというと、ほんとうはこれこれのことがしたいという青春の夢があるが、それは実現することなく破れた、そして精神が哀しみを発見した、という感じ。青春が敗北するということが、「逆接」なのだ。
 谷川の、この詩の「抒情」というか「感情」の動きは、夢が破れた(?)けれど、そんなことは気にしない。「敗北」に美なんか探し出さない。「負けちゃった、泣いちゃった」と、さっさと切り上げて、別なことをしはじめる。
 なんといえばいいのかなあ。(と書きながら、私は考えるのである。時間かせぎだね。)
 それはきっと、「無意味の抒情詩」なのである。
 多くの抒情詩が「逆接の抒情詩」「敗北の抒情詩」であるのに対し、たの「腑に落ちる」は「超越/無意味の抒情詩」である。「超越」が「無意味」であるのは、「超越」したとき、それまでの「意味」が「意味」でなくなるからだ。(と、論理を偽装しておく。)
 この「無意味の抒情詩」が「腑」という「肉体」を露骨に表現することばといっしょに動いているところが、とてもおもしろい。




手紙
谷川 俊太郎
集英社
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谷川俊太郎『こころ』(53)

2013-09-17 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
 論理というものはいいかげんなものだと私は思っている。ことばをつないでいけば、どんな論理にでもなる。そして、それがいいかげんなものだからこそ、そこには必ず矛盾が入る余地がある。この矛盾を、非論理的なこと、無意味ととらえるか、それとも
 詩
 ととらえるか……。

 逆の言い方をしてみる。何かを論理的に考えつづける。そうすると、論理が論理自身を裏切るときがある。この逸脱を偶然ととらえるか、必然ととらえるか。矛盾ととらえるか、詩、ととらえるか。
 谷川は、きっと、詩というに違いない。
 谷川の詩は、いつでも「論理」を含んでいる。そして、その論理が破れるときをぱっと取り出す。詩にする。
 「孤独」も、そういう作品だ。

この孤独は誰にも
邪魔されたくない
と思った森の中のひとりの午後
そのひとときを支えてくれる
いくつもの顔が浮かんだ
今ここにいて欲しくない
でもいつもそこにいて欲しい

 「孤独」といいながら、「孤独」を感じるためには「孤独」ではない状態が必要。これは「論理」の矛盾である。
 「孤独」を邪魔されたくない。でも、こうして「孤独」でいられるのは、私が孤独でいることを許してくれるひとがいるからである。支えてくれるひとがいるからである。たとえばサラリーマンだったら、平日の午後にひとりで森の中にいることはほとんど不可能。平日にひとりで森にいることができるとしたら、代わりに誰かが仕事をしている。--俗なたとえだけれど。
 そして、この「論理」は矛盾しているけれど、「論理」と考えるから矛盾なのであって、「感情の運動」と考えれば矛盾ではない。感情というのは、もともと勝手気ままなのである。「論理」とは相いれないものなのである。「感情」に「論理」があるとすれば、それは「動く(変わる)」という「真実(真理)」というものである。「変わる(変わりつづける)」ということ(運動)が「普遍」なのである。
 普通は変わらないものを普遍というが、変わりつづけるということが変わらないとき(運動しつづけるとき)、変わる(運動する/動く)が「普遍」になる。

嫌われているとしても
嫌われることでひとりでない
忘れられているとしても
私は忘れない
孤独はひとりではない

 「孤独」とは「ひとりでいること」である。けれど谷川は「孤独はひとりではない」という。そして、そのことを私たちは「感情の論理」として受け止める。
 「頭の論理」が破綻し、それを突き破って「感情の論理」があらわれるとき、「頭の意味」が破られ「感情の論理」が新しい「意味」として噴出してくる瞬間が詩なのである。
 「頭の論理」から「感情の論理」へのワープ。それが詩。
 谷川が「頭の論理(流通論理/流通言語)」を多用するのは、それを否定し、打ち破り、「感情の論理」を噴出させれば詩になると知っているからである。「感情の論理」は「頭」を経由せず、直接感情に触れる。
 この接触は、ちょっと大げさに言えば、神に直接触れるのに似ている。その接触は「理不尽」というか「超論理」である。「頭」で「論理」を積み重ねても神には触れることができない。「頭」を否定し「こころ」で直接、触れるしかない。

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谷川 俊太郎,広瀬 弦
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谷川俊太郎『こころ』(52)

2013-09-16 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(52)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「心の居場所」。

今日から逃れられないのに
心は昨日へ行きたがる
そわそわ明日へも行きたがる
今日は仮の宿なのだろうか

 この1連目はだれもが思うようなことを、だれもがつかうようなことばで書いている。ように見えるけれど。うーん、3行目の「そわそわ」がきっとなかなか出てこない。「昨日へ」行くときは、どんな気持ちで? すぐには出てこないね。きっと昨日はよかったという感じなのだろうけれど。で、おなじように3行目に「そわそわ」がなくて、そこに好きなことばをいれていいよ、と言われたとき、私は「そわそわ」は自分の肉体から出てこない。谷川が「そわそわ」と書いているので、そのまま読んで「そわそわ」を思い出すことしかできないなあ。
 ここがきっと谷川の詩のすごいところ。
 「そわそわ」ということばはだれでもがつかうし、その意味も知っている。だから「そわそわ明日へも行きたがる」という行を読んだとき、何でもないように読んでしまう。特別かわったことが書いてあるようには感じにくい。
 でも、とっても変わっているのだ。
 変わっていることがわからないくらいに変わっているのだ。

 3連目も、たぶん、同じ。

宇宙の大洋に漂う
小さな小さなプランクトン
自分の居場所も分からずに
心はうろうろおろおろ迷子です

 最終行の「うろうろおろおろ」ではなく--1行目の「宇宙の大洋」。「地球」じゃない。これが、とっても変わっている。不思議。谷川にしか書けない。
 「宇宙の大洋」ということばを読むと、「宇宙」のなかに「地球」があり、その「地球」にある「大洋」を想像する。太平洋とか、大西洋とか。
 谷川は「地球」ということばを書いていないのに、「地球」を補って読んでしまう。
 しかし、だからといって「大洋」を地球にしばりつけて「わかる」わけではない。太平洋とか大西洋とかを想像すると書いたことと矛盾するのだけれど、太平洋、大西洋と思うのは、あとからのこじつけで、私は実は、すぐに「宇宙」浮かんでいる「水の球体」としての「地球」、「青い星」を思い浮かべた。「地球」は「宇宙」に浮かんでいる「丸い大洋」なのだ。
 それは「宇宙」から見ると、とても小さい。その小さい「大洋」のなかで、さらにさらに小さいプランクトンのような「心」。
 でも、小さいのだけれど、それは「宇宙」と直接向き合っている。「地球」を経由しないで「宇宙」と向き合っている。そのとき「地球(陸地)」は消えている。あくまで「大洋/水の塊」として「宇宙」に生きている。

 だれもが知っていることばだけれど、そのつかい方はとても変わっている。そこに谷川の「肉体/思想」がある。
 だれもが知っていることばで語られる「思想/肉体」を、それが独特のものであるとわかるように把握し直すのはむずかしいね。
「脱構築」とか私には正確に書くことができないあれやこれやの外国語で語られる「思想」--それは見たことのないキーワードといっしょに語られるので、そのキーワードさえつかいこなせば(?)、その思想を特徴づけることができるけれど。
 「そわそわ」とか「宇宙(の大洋)」ということばは谷川のキーワードであると言っても、それを説明し直すのがむずかしい。
手紙
谷川 俊太郎
集英社
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谷川俊太郎『こころ』(51)

2013-09-15 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(51)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 きのうの「買い物」が大人向けの詩だとしたら、「こころから」はそれを子ども向けに書き直したものと言えるかもしれない。サブタイトルに「子どもたちに」ということばがそえられている。

こころはいれもの
なんでもいれておける
だしいれはじゆうだけれど
ださずにいるほうがいいものも
だしたほうがいいものも
それはじぶんできめなければ

 自分できめなければいけない、というのはそれはそうだけれど、むずかしいね。こういうむずかしいことも平気で(?)子どもに向けて言ってしまうのが谷川の谷川らしいところなのかなあ。
 そのあと谷川はかなりこわいことを言う。

こころからだしている
みえないぎらぎら
みえないほんわか
みえないねばねば
みえないさらさら
こころからでてしまう
みえないじぶん

 出したものがこころのなかに入れておいたものだとして、その出したものだけが出るわけではない。意識しないものも出てしまう。そして、これは何かを出したときだけとはかぎらない。きのう読んだ詩を子どもが読んでいるとはかぎらないが、もし読んでいるとするなら、きっと気づく。
 「隠している」ということだって出てしまうのである。
 何でも「出し入れ自由」というのは自分勝手な思い込みにすぎないかもしれない。
 出て行ってしまうのは「みえないじぶん」。自分には見えないけれど、それは他人には見えてしまう。他人にも見えないなら「見えない自分」というのは存在しない。

 こんなこわいことを子どもに言ってしまっていいのかな?

 こわいことだから、子どもに言ってしまいたいのかもしれない。言わなければならないのかもしれない。大人になってから、それがわかるためには、何もわからないうちに、その「ことば」を覚えておかないといけない。ひとは聞いて覚えたことしか思い出せない。わかることができないのだから。
 思い出せる?
 「みえないじぶん」が「こころからでてしまう」と気づいたのはいつか。そして、それに気づいたとき、どうしてそう気づいたのか。誰が教えてくれたのか。
 「教訓」ではなく、「肉体」をのぞくとき、どうしてもつかみきれない「子ども」がどこかにいて、笑っているような気持ちになる。「何もかも知ってるよ」と残酷に笑っている。
 --こんなことは、谷川は書いてはいないのだけれどね。書いていないから、読んでしまうのである。




こころ
クリエーター情報なし
朝日新聞出版
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谷川俊太郎『こころ』(50)

2013-09-14 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(50)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「買い物」という作品はかなり奇妙な作品である。

隠しているのではない
秘密にしておきたいわけでもない
やましいことは何一つない
誰に話してもかまわない
ささやかな買い物 でも
知っているのは世界中で
自分ひとりだけ

 何を買ったのか。「隠しているのではない」とわざわざ書くのは「隠している」ということの強調である。そのあとの「秘密」「やましいこと」も否定することで、逆に「秘密」と「やましさ」を浮かびあがらせる。「隠しているわけではない」が「隠している」ということを知ってもらいたい。
 矛盾したものが、私たちのこころにはある。その矛盾は、そしてこんなふうに少しずつもらすような形で解きほぐすのかな?

 もし、買ったものが「形」のあるもので、人の前でつかうことのあるものだったら、それは「買った」と言わなくても「買った」ということがわかる。人の目の触れるところでつかうものではないのかな?
 --という具合に「妄想」を拡大していくと、うーん、これは「買った人」の秘密ではなく、読者の秘密を暴くようなものだね。秘密が暴かれるようなものだね。
 どこか「共犯者」になったような気持ちになる。
 こういう不気味な「ひとつ」へと誘う詩もあるのだ。

いつかは忘れてしまうだろう
私の心のジグソーの一片
でもそんなかけらが合わさって
私という人間がいる
不思議

 谷川が何を買ったか、「いつか忘れてしまう」ように、読者(私、谷内)も、そのことばによってどんな「妄想」を抱いたのか忘れてしまうだろう。でも、そういう「忘れてしまったこと」を含めてたしかに「私」という人間はできあがっている。

 その一方、私たちは、そういうことを忘れながらも「覚えている」。覚えているので、ときどき思い出す。思い出しながら、「覚えていること」の、たぶん「覚える」という動詞のなかで「ひとつ」になる。
 言い換えると「隠しているのではない」「秘密ではない」「やましいことはない」という否定の仕方で自分を納得させたという「矛盾」のなかで「ひとつ」になる。「矛盾」と書いたけれど、まあ、それは「矛盾」ではなく、もっとほかのことばの方が適切なのだろうけれど。

ままです すきです すてきです (幼児絵本シリーズ)
谷川 俊太郎
福音館書店
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谷川俊太郎『こころ』(49)

2013-09-13 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(49)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「こころ」シリーズは毎月一回(たしか第一月曜日)に朝日新聞の夕刊に連載されたものだけれど、こうやって一冊になって読んでみると、ときどき毎月書いたというより、一回に何作かつづけて書いたのではと思うことがある。
 「ふたつの幸せ」と「一心」は「ふたつ」「一」と違うし、一方が「幸せ」なのに他方は苦悩のようなものを描いているから、まったく違うと言えるのだけれど。でも、その違うこと「ふたつ」と「一」、「幸せ」と「苦悩」の関係が「呼応」のように思える。一方を書いた瞬間、その奥からふっと沸き上がってくる「反論(?)」のようなものに見える。
 その「一心」。

生きのびるために
生きているのではない
死を避けるために
生きているのではない

そよ風の快さに和む心と
竜巻の禍々しさに怯える心は
別々の心ではない
同じひとつの私の心

 正反対とさえいえるものまで「ひとつ」のこころ。こころが、そんなふうにどこまでいっても「ひとつ」なら、「肉体」はどうなんだろう。
 たとえばきのう読んだ詩の「少女」と「老人」。彼らの「幸せなこころ」はひとつ。ひとつになっている。そうであるなら「肉体」は? 別々? 別々だとしたら、いったい「どこで」ひとつになっているのだろう。

 こんなことは、ややこしく考えない方がいいに決まっている。そよ風に和むこころと竜巻に怯えるこころが「ひとつ」になるところで「ひとつ」になっている。矛盾したものが、矛盾しているからこそ、それが「ひとつ」である場所があるのだ。
 で、どこ?

 「ありとある」ところ。「ありとある」時間。「ありとある」という無数が「ひとつ」。
 だから、最後に美しい哲学が。

死すべきからだのうちに
生き生きと生きる心がひそむ
悲喜こもごもの
生々流転の

 谷川にとって「生々流転」するのは「肉体」ではなく「こころ」。「ひとつ」のこころが、いくつもの時代、いくつもの「肉体」を流転する。流転することが「生きる」こと。「生きる」とき、そこが「ひとつ」の場所であり、時であり、肉体。

 あ、「意味」にならない「感想」を書きたいのに、どうしてもこんなことを書いてしまう。困ったなあ。


新装版 谷川俊太郎の問う言葉答える言葉
谷川俊太郎
イースト・プレス
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谷川俊太郎『こころ』(48)

2013-09-12 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(48)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「ふたつの幸せ」は、谷川の詩の秘密を語っているかもしれない。

心のなかで何かが爆発したみたいに
いま幸せだ!って思う
理由なんて分かんない
ただ訳もなく突然幸せになる瞬間
晴れてても曇りでも雨でも雪でも
まわりは不幸せな人でいっぱい
私だって悩みがいっぱい
でもなんだろね ほんと
あっという間に消えるんだけど
その瞬間の喜びは忘れない
そんなことってない?

老人は微笑んで少女を見つめる
爆発とはほど遠いが
いまの穏やかな幸せに包まれて

 「ふたつの幸せ」とは少女の幸せと老人の幸せのことだろう。しかし「ふたつ」と書いているけれど、私には「ひとつ」に見える。別々に感じられない。
 で、谷川の詩の秘密--というとおおげさだけれど。
 「他人の幸せ」を「自分の幸せ」として受け止める力。他人と「ひとつ」になる力だと思う。その「他人」というものを、そして、谷川は選ばない。
 この詩の場合、谷川を「老人」と仮定すれば、老人は「少女」の幸せと一体になっている。この無秩序(?)といってもかまわないような区別のなさ--それが「ありとある」につながるのだと思うけれど、その力がすごい。
 無秩序(制限がない)から、少女もそのまま老人に近づいてくる、とも言えるね。

 そして、この詩は、またその「ふたつ」の幸せ、少女と老人の幸せを見ている谷川の幸せを描いているという具合にも読むことができる。谷川は「老人」ではなく、ふたりから離れたところにいる。離れたところにいるんだけれど、ふたりと一体になっている。
 そう考えると、あるいは少女こそが谷川かもしれない。
 谷川が老人に向かって「理由なんて分かんない」幸せを語っている。そのとき谷川は「少女」になっている。
 たぶん、これが、つまり谷川=少女が、詩の本質かもしれない。少女になる、なれる、という幸せ。少女になって谷川が動く幸せ。
 それをそのまま書くのが気恥ずかしい。だから老人を登場させた、とも読むことができる。
 でも、どんなふうに書いても「幸せ」というのは、結局「ひとつ」。だから、あえて「ふたつ」書いたのかもしれない。

女に
谷川 俊太郎
集英社
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谷川俊太郎『こころ』(47)

2013-09-11 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(47)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「私の昔」は「自画像」のつづき。--であるかどうかは、まあ、わからない。私が「自画像」のつづきとして読んでしまうということ。「自画像」というのは、「いま/ここ」にあらわれた「過去(昔)」のこと。昔があって、いまがある。
 でも、谷川は、そんなふうに簡単に「時間」を「いま-昔」ととらえない。「自画像」を見ようとすると、「自画像」なんだろうけれど、「顔」ではないものが見えてくる。「時間」というものが。「時間」をどう考えるか--という「哲学」がいっしょに動いていることに気がつく。「ちんこい目」「シミ」ではないものが見えてくる。

私の昔はいつなんだろう
去年がまるで昨日のようで
子ども時代もまだ生々しくて
生まれた日から今日までが
ちっとも歴史になってくれない

 うーん。「昔」とはいつか、たしかにわからないね。きのうも去年も子ども時代も、「思い出す」という動詞のなかでは「距離」の違いがない。「時間」は一直線の線状に1分とか1時間とか1年とか--時計や暦のようにはならんでいない。
 それはいいんだけれど。それはわかるんだけれど。

ちっとも歴史になってくれない

 あ、ここで「歴史」ということばが動くのか。私は「歴史」というものを自分が生まれる前のこと、と思い込んでいるので、びっくりしてしまう。
 谷川にとって「未来-現在-過去」という線状の時間の配列が「歴史」。その時間の区分が時計で測れるとおりになっているというのが「歴史」なんだね。
 ちょっとびっくりする。
 この「歴史」の対極にあるのが「昔」ということになる。

還暦古希から喜寿傘寿
すぎればめでたい二度童子
時間は心で伸びて縮んで
暦とは似ても似つかない

 「時間」には2種類ある。「歴史/暦」のように、計測され配列された時間。時計がいっしょにある。もうひとつは「心」が引き寄せたり遠ざけたりする時間。自在に伸び縮みする。これは「心の時間」、「心」が「時間」なのだ。時計ではなく。

 ここに書かれているのは「時間に対する哲学」というの名の「自画像」。
 その最後は、やっぱり谷川にしか書けない不思議な飛躍を含んでいる。

私の昔はいつなんだろう
誕生以前を遡り
ビッグバンまで伸びているか

 「私の昔」は「私が誕生してから」としか私は考えたことがないが、谷川はそういう「流通概念(流通哲学?)」を簡単にたたき壊す。谷川が生まれる前も含めて「昔」。なぜなら、生まれる前のことも「心」は思い描くことができるからね。
 で、どこまで「心」は思い描けるか。引き寄せることができるか。いいかえると、どこまで行ってしまえるか。

ビッグバンまで

 「ビッグバン」は宇宙のはじまり。谷川のすぐそばにはいつでも「宇宙」がある。それも見上げる宇宙、観測する宇宙ではない。いっしょに生きている宇宙。
 宇宙ということばをつかうとき、谷川は宇宙を思い描いているのではなく、宇宙に「なっている」。谷川はいつでも「宇宙」に「なる」詩人なのだ。「宇宙」とは「ありとある」生き物の動く世界である。
地球へのピクニック (ジュニアポエムシリーズ 14)
谷川俊太郎
銀の鈴社
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谷川俊太郎『こころ』(46)

2013-09-10 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(46)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「シミ」という作品も「自画像」である--と書いてしまうと、谷川俊太郎の「罠」にはまってしまうかもしれない。谷川は、そのつど自分ではないだれかに「なる」。だから、どんなに谷川らしく書かれていても、それは「自画像」ではない。
 むしろ、それは読者の「自画像」である。そこで読者は自分自身の「こころ」をととのえている。

妬みと怒りで汚れた心を
哀しみが洗ってくれたが
シミは残った
洗っても洗っても
落ちないシミ
今度はそのシミに腹を立てる

 ほら、思いあたるでしょ?
 「思いあたる」ことを思い出しながら、おぼえていることを思い出しながら、そのとき、私たちは自分が自分になったのか、それとも谷川になったのかわからない。区別がつかなくなる。
 「なる」ということのなかで重なってしまう。
 で、このままでは、なんだか落ち着かない。
 自分であることはちょっと面倒くさい。自分ではなくなりたい。自分ではできないことを、谷川のことばを借りて、やってしまいたい。つまり、ほんとうに谷川になってしまいたい。谷川が谷川をことばでととのえるように、自分もととのえられたい。
 大丈夫、谷川は最後まできちんと私たちを導いてくれる。ことばをきちんと動かして、知らなかったところへ連れて行ってくれる。あ、こんな道があったのか、こんなととのえ方があったのかと誘ってくれる。

真っ白な心なんてつまらない
シミのない心なんて信用できない
と思うのは負け惜しみじゃない
できればシミもこみで
キラキラしたいのだ
(万華鏡のように?)

 突然の「キラキラ」と「万華鏡」。それは、すぐには何のことかわからない。いや、わかるけれど、自分のことばで言いなおすことができない。谷川が見せてくれた「キラキラ」と「万華鏡」を見つめるだけである。そうか、これが「キラキラ」か。これが「万華鏡か」という感じ。
 で、この不思議な誘いが誘いとして成立(?)するためには、それまでのことばは、「ありとある生き物」の「自画像」でなくてはならない。普遍--というより、平凡と言っていいかもしれない。そういうことばをとおって(おぼえていることばを思い出して)、それから突然、ふっと飛躍する。

キラキラ
万華鏡

 それは、それまでの「シミ」につながる「意味」からふっきれている。無意味の「キラキラ」「万華鏡」という「もの/こと」。
 そこで見るのは「過去の自画像」ではなく、「未来の自画像」でもなく、まだ生まれていない「自画像」である。まだ「生まれていない」から、だれもが谷川といっしょに「生まれる」ことができる。

クレーの絵本
パウル・クレー,谷川 俊太郎
講談社
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谷川俊太郎『こころ』(45)

2013-09-09 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
 「鏡」は谷川俊太郎の「自画像」。誕生日に書いたもののよう。

なるほどこれが「私」という奴か
ちんこい目が二つありふれた耳が二つ
鼻と口とが一つずつ
中身はさっぱり見えないが
たぶんしっちゃかめっちゃかだろう
とまれまた一つ歳を重ねて
おめでとうと言っておく

 そうか、「ちんこい目」か。私は二度谷川に会ったことがある。会いに行った。たしかに目は小さい。しかし、私には小さいよりも、丸い、という印象が強い。まん丸い。だから「ちんこい」か……。
 耳、鼻、口に「特徴」は書いていない。谷川自身、目が他の人と違っていると感じているのだろうか。
 でも、そういう外見のことを書きたかったわけではないね。この詩は。
 その書きたいことは後回しにして。

 なぜ、人間は自画像を書くとき「目」にこだわるのだろうか。(ゴッホのように耳にこだわった画家もいるけれど。)4行目に「見えない」ということば、目につながる動詞が出てくるのも、興味深い。
 人間の思考の「定型」が、そのまま自然に谷川のなかにある、ということだろうか。

 で、その「定型」は、谷川の場合、次のような変奏をともなう。

お日様は今日も上って
富士山もちゃんとそびえているから
私も平気で生きていく
もちろんあなたといっしょに
ありとある生き物といっしょに

 最初の2行は、日本人の「定型」かな。「あなたといっしょに」というのは、祈りのようだ。幸福は自分ひとりではありえない。「あなた」がいてこそ。
 ここまでは、「定型」だと思う。
 でも、最後の1行は違う。
 「ありとある」が、何気なく書かれているけれど、谷川にしか書けない。谷川のキーワードだ。
 谷川は、この詩集のなかで少女になったり、女になったりしている。それは、しかし、単に文法の問題ではないのだと思う。「主語」を少女にしたり、女にしたりして書いているのではなく、少女になったり女になったりしている。歳をとった谷川ではなく、別の人間になって書いている。「ありとある」人間に谷川は「なる」。
 そんなことは書いていない。谷川は「いっしょに」と書いているだけである。だから谷川は「少女といっしょに」「女といっしょに」書いている、といった方がいい--という見方(読み方)があると思う。たしかに、そうとらえた方が、いいのかもしれないが。
 でも、その「いっしょに」というとき、谷川には「自他の区別」というものがない。そもそも谷川は何かを区別するという意識がないのかもしれない、と私は思っている。「ありとある」ものが谷川である。谷川は「ありとある」ものであり、「ありとある」ことである。区別がない。
 これが、もしかすると谷川のことばが平気で「定型」を動く理由かもしれない。「定型」を平気で書いてしまう理由かもしれない。
 「ちんこい目」と谷川は書いている。たしかに谷川の目は小さいとは思うけれど、その小ささは、かといって特別なものではない。人間の顔として不自然ではない。区別していうほどのものではない。区別など、ないのだ。「ありとある」目は、見るときに働く。見るということをするのが目であるという点では「ありとあるもの」が同じである。少女も女も、きっと動物も「ありとある」ものが谷川と同じように目をつかって生きている。目をつかって何かをつかみとるとき、谷川は谷川ではなく、「ありとある」ものになる。
 そのとき「定型」は「原型」になる。何の「原型」か。「生き物」の「生きる」の「原型」であると思う。
 「ありとある」という表現に戻ってみるべきかもしれない。谷川は「ありとあらゆる(すべての)」ではなく「ありとある」と書いている。その「ある」とは「生る(ある)」である。「生き物」とは「生きている物(もの)」というよりも「生まれてくるもの」、この世に「あらわれる」ものである。それは英語で言えばbe動詞のbeである。
 さっき私は、谷川は少女や女に「なる」と書いたけれど。
 「なる」と「ある」は、どこかで同じものである。だからハムレットの有名な台詞は、

なすべきかなさざるべきか、それが問題だ
生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ

 という具合に、同じ「be」がまるで違ったことばのように訳されもする。「なる」と「なす」は違うという指摘があるかもしれないが、「なした」結果が「なる」(なった)である。「なる」「ある」「生きる」が谷川の肉体のなかでは区別がない。それは、あるときは「なる」、あるときは「ある」、そしてあるときは「生きる」という具合にことばをかえてあらわれるが同じものである。
 「ある」と谷川が感じているもの、それはすべて谷川の「自画像」である。
 「ちんこい目」というのは、他人が見つめたときに見える谷川のひとつの形にすぎない。そうわかっているから、谷川は平気で「定型」を書くのだ。
 「ありとある」詩があつまったときにだけ、谷川の「自画像」があらわれる。








地球へのピクニック (ジュニアポエムシリーズ 14)
谷川俊太郎
銀の鈴社
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