詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(191)(未刊・補遺16)

2014-09-28 11:07:37 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(191)(未刊・補遺16)2014年09月28日(日曜日)

 「庭付きの家」は庭付きの家がほしい、という欲望を描いている。しかし家でも庭でもなく、ほんとうは動物が飼いたい。そのためには庭付きの家が必要だ。どんな動物を飼うのか。

何をさておき猫が七匹。二匹はつやのよい黒猫。
二匹は雪白の白猫。対照さ。

 残り三匹については書いていないが、「対照」ということばがここで出てくるのが面白い。対照によって、それぞれが明確になる。「一九〇六年六月二七日午後二時」では嘆く母親と絞首刑された息子の沈黙が対照になっていた。嘆く母親は大地を転がりまわる。息子は空中に「若い形のよい身体」をまっすぐに垂れさがらせている。
 この猫の後の「対照」がおもしろい。

目立つ鸚鵡が一羽。派手にいわれた通りを
しゃべくるのが聞きたい。
犬は三匹でいい。
馬も二頭いるといいな(小さい馬がすてきだね)。
それから必ずあの愛らしいすばらしい獣、
そう、ロバ、だらしなくロバに乗り、
あの頭をなでるためさ。

 鸚鵡が「派手にいわれた通りを/しゃべくる」のなら、犬は黙っていわれた通りをするのだろう。不思議な「対照」がそこに省略されている。
 さらに馬とロバ。ロバは何頭とは書かれていないが、一頭だろう。馬は乗るため、ロバも乗るためだが、乗ってどこかへ行くことを目的とはしていない。乗って、そのロバの頭をなでる。何かを伝える、無意味なことを伝えて、時間をすごす。「一体」になって時間をすごすためである。
 そのロバを「愛らしいすばらしい獣」と呼ぶのに対し、カヴァフィス自身を「だらしなく(乗る)」と描写し、対比させているのもおもしろい。「だらしない」時間を受け入れてくれる動物がほしいのだ。
 ただ「だらしない」時間をすごしたい。そのために庭付きの家がほしい。「だらしない」感じをカムフラージュするために、馬が、犬が、鸚鵡が、猫が必要なのだ。
 引用では省略した部分に、庭には花や樹木、野菜はあった方がいい。あってしかるべきだ。「見た目がよいから」とある。ロバだけを飼って、だらしなく乗って、頭をなでているだけでは「見た目」はよくない。それを偽装するために、ほかの動物たちも飼いたい、ということなのかもしれない。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

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