詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フリオ・リャマサーレス『狼たちの月』

2008-05-31 10:09:29 | その他(音楽、小説etc)
 フリオ・リャマサーレス『狼たちの月』(木村栄一訳、ヴィレッジブックス、2007年12月15日発行)
 スペイン内戦の抵抗軍を描いている。抵抗軍といっても、敗北し、山の中に逃れた数人の行動だ。しかも、一人減り、二人減り、たった一人になってしまう。
 木村栄一が「清冽な透明感が作品全体をひたしていて、人物たちの救いようのない悲劇的な運命がみごとに昇華させられてい」る、と書いている。
 私も、その透明感に引き込まれた。

 縦断で身体中穴だらけにされたヒルドは空を見上げたまま、大きな血の海に横たわっているが、その目には星空が映っていた。

 これは誇張かもしれない。「目に星空が映っていた。」はリアリズムとはいえないかもしれない。しかし、リアリズムを超越して胸に迫ってくる。山の中を逃げ回り、荒れた岩、人間を拒絶する雪、無関係に輝く月や星……そういう描写のあとでは、これがリアルに感じられる。
 文学はあくまでことばである。
 ことばがつくりだす世界が少しずつ具体的になってゆき、そのなかでことばが新たに動きだす。現実の描写にしばられるのではなく、現実から出発して、ことばがことばでしかとらえられない世界を手に入れる。
 それが、この「目には星空が映っていた。」
 主人公は、ここではヒデルの目を見ているだけではない。ヒデルそのものになっている。ヒデルそのものになって、絶望し、空を見ている。死ぬ瞬間、ヒデルは、広大な星空を見たのである。孤独に耐えながら輝く一個一個の星たち。内戦も、抵抗も、飢えも、絶望も無視して、非情に存在しているものたち。
 非情こそが人間を美しくする。透明にする。

 ラ・リャナバの通りでは犬と月だけが目を覚ましている。犬たちの吠える声に追いたてられるようにしてわれわれは村外れへと向かう。しかし、月は今夜一晩中付き合うつもりか、われわれのそばを離れようとしない。

 「われわれのそばを離れようとしない。」これは、いわば「同情」である。しかし宇宙の「同情」は「非情」なのである。人間の思いを無視する。無関係に動いている。「われわれ」は月が隠れ、夜が暗闇であることを望んでいる。しかし、月はそんな望みを無視する。無視するだけではなく「いっしょについていってやるよ、夜道を照らしてやるよ」と「同情」のお節介をする。この矛盾。
 --そして、その瞬間、この風景が美しく見える。
 人間のさまざまな思いを無視して、世界が存在することを美しさが見える。美しさだけが見える。世界はこんなに美しい。しかし、その美しさは私のものではない。そのときの哀しさ。哀しみが透明になっていく。その瞬間。
 私はこういう瞬間を生きている人間が好きだ。こういう瞬間を生きている人間を描くことばがとても好きだ。大好きだ。
 人間を助けるものは何もない。それでも人間は生きている。生きて、世界の(宇宙の)美しさと拮抗している。透明な孤独。透明な哀しみ。それが、とても好きだ。この感覚があって(この感覚を通って)、人間は、それぞれの「情」の衣裳を脱ぎ捨て、素裸に鳴る。肉体そのものになる。

 マリーアは背中を向けたままぼくのほうにそっと身を寄せる。
「山の匂いがするわ」と彼女が言う。「狼みたい」
「じゃあ、ぼくは人間じゃないのかい?」
 マリーアは向き直ると、じっとぼくを見詰める。スリップの下の、長い間抱かれていなかったせいで熱くもえている身体の震えが感じられる。孤独な日を送っている美しい女性の身体の震え。

 この美しさはたまらない。どんな絵も写真も彫刻もとらえることのできない美しさである。ことばだけがとらえることのできる美しさだ。ことばのなかで、世界の一瞬、世界の断片が、世界そのもの、宇宙そのものになる。
 いのちになる。

 小説を読む。それは「いのち」を読むことである。「いのち」を発見することである、と思う。「いのち」にはさまざまな形がある。「いのち」はいつでも存在している。存在しているけれど、見えない。見ているつもりでも見えない。それが作者のことばを通り抜けることで、「いのち」が浮かび上がってくる。
 最初に引用した「目には星空が映っていた。」も同じだ。そのことばのなかに何が見えるかといえば「いのち」が見えるのだ。星空ではない。星空を見つめ、生きている人間の「いのち」が見えるのだ。



 美しい描写がたくさん出てくるが、あとふたつ引用しておく。引用部分だけでは、あまりその美しさが伝わらないかもしれない。ぜひ、小説を読んで、その美しい行に出会ってほしい。

 ぼくは起き上がると、彼の横に腰を下ろす。ヒルドはヒースの根か何かを刻んでいる。することが何もない気の遠くなるほど長い時間をやり過ごすために、彼は次から次へと何かを刻んでいるが、結局みんな火の中に投げ入れる。


 何度となく洞窟から飛び出して、山の中を何時間もあてどなくさまよい、むだと知りつつ完璧な静寂がもたらす狂気から逃れようとした。やがて、静寂が目の前にあって、いつも付きまとってくるが、これだけは避けようがないということを少しずつ受け入れるようになった。少しずつ、彼、つまり静寂が今の自分に残されたたった一人の友達なのだということを認めるようになった。
 死を相手に長い戦いを続けている今では、静寂こそがぼくの最良の盟友なのだ。洞窟に戻ると、静寂はまるで犬のようにうれしそうにぼくを入り口まで迎えにきてくれる。

 「静寂はまるで犬のようにうれしそうにぼくを入り口まで迎えにきてくれる。」このことばを動かしている「いのち」へのいとおしさが苦しい。哀しい。せつない。人間は、ここまで孤独・静寂と生きて行けるのか。生きながら、「いのち」をなつかしむものなのか。「いのち」をなつかしむことができるものなのか。
 不思議な感動に襲われる。




狼たちの月
フリオ・リャマサーレス
ヴィレッジブックス

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広田修「探索」

2008-05-30 10:12:17 | 詩(雑誌・同人誌)
 広田修「探索」(「現代詩手帖」2008年06月号)
 新人作品欄。瀬尾育生が選んでいる。
 接続と断絶について考えた。ある意識がつながっていく。どんな意識もつながるものなのだが、ともかく意識をつなげていく。そして、それがある飽和状態に達したら、そこから飛躍する。断絶を導入する。その瞬間に「詩」があらわれる。
 これはいつの時代でも同じである。
 白い便器。それは私たちをトイレへつれていく。便器はトイレの意識、汚いものというとつながっている。そこに「泉」というタイトルがつけられる。一瞬、意識が切断される。その瞬間の驚き。そこに詩がある。切断された意識が、どこへ向かうか。森の中の泉か。あるいは街中の公園の、たとえば噴水という泉か。その音か。あるいは、その水がまき散らす真夏の太陽の乱反射か。
 意識は新しい接続をもとめて動き、動くことで古い意識を捨てて行く。その動きのなかに詩はあらわれる。
 広田修は、この方法を、広田の「論理」意識のなかで独特な方法で展開して見せる。そのとき、論理のことばが詩になる。
 「1」の部分。

川の表面に見えない川が重なっているので、刻み採る、反転したウグイスを読むための辞書を踏みながら。いくつかの水分子に哀しみを含ませて川をさかのぼらせる。川を構成する無数の小さな川のそれぞれにふさわしい概念を盗み出した。故障した川には技師を呼ぶ。エンジンに苔を生やしてもらう。

 このなかに出てくる「読む」。「反転したウグイスを読む」の「読む」がこの詩の独自性、オリジナリティーである。
 ウグイスの姿なら「見る」。ウグイスの声なら「聞く」。日本語は、ふつうそんなふうにつかう。「読む」。それは、人間が意識して、能動的にする作業である。「見る」「聞く」は受動的な行為である。「ウグイスを読む」ということは、「私」がなんらかの意識を持って、ウグイスの何かを探ることである。
 「読む」は「探る」。
 これは新しい日本語のつかいかたではない。「こころを読む」と言えば、「こころを探る」ことである。「行間を読む」と言えば、書かれていないことばを探ることである。
 ただし、いままで誰も「ウグイスを読む」という風には使ってこなかった。広田が考え出したことである。ここにオリジナリティーがある。そして、このオリジナリティー、「わざと」そういうことばを使うところから、広田のことばは動いていくのである。
 「読む」ということ自体、意識の接続である。
 「川」を探る。ウグイスを脇においておいて(たぶん、この脇においておく、ということも広田の「論理詩」の特徴である。この脇においておく、という行為は、別のことばで言えば「伏線」になる)、広田は「川」の方を持続させる。たとえば「水分子」というような、一種の「理系=論理的」な偽装によって、持続を強調する。
 そして、持続させておいて、もう一度「読む」に似た能動的な働きかけをする。

いくつかの水分に哀しみを含ませて川をさかのぼらせる。

 水は普通は川を「さかのぼり」はしない。ただ低い方へ流れるだけである。それを「さかのぼらせる」というのは人為的な行為、積極的な能動である。こういうことは、意識の持続がないとできない。「水分に哀しみを含ませて」の「含ませて」も同じである。ここには、人為がある。「わざと」がある。
 そして、その「わざと」にはもう一つ特徴がある。

いくつかの水分に哀しみを含ませて

 このことばのなかの「哀しみ」。抒情。センチメンタル。人為は、感情によって動かされている。あるいは、感情の方へ動くように仕向けられている。完全な「論理」、感情を排除した「数学」ではなく、逆に感情をたっぷり盛り込むための新しい「器」として広田は「論理」を利用する。感情を抱え込ませて、論理を維持する。接続の運動をつづける。
 感情・抒情・センチメンタルにももちろん独自の「論理」はあるが、それをその独自の「論理」(古典をとおして培われてきた日本語の美意識)ではなく、一見「理系」に見える「論理」のなかで持続すると、どうしても、そこに無理がくる。持続できなくなる。その瞬間に、広田は、その持続をぱっと放してしまう。別のことばで言えば「断絶」を持ち込む。

それぞれにふさわしい概念を盗み出した。

 この行の「盗み出した」。このことばが「断絶」を生み出す。「見えない川」に始まり、「水分子」「哀しみ」「小さな川」と、いわば「繊細」なものへと持続させてきた意識が「盗み出す」という乱暴な行為(これも能動である)によって破壊される。
 ただし。
 これからが重要である。--と強調しておこう。
 その「乱暴」は、やはりセンチメンタルなのである。何かを盗むというのは「ほめられた」行為ではない。盗むという行為は、後ろめたい感情を誘い出す。こころの痛みを誘い出す。何かを盗まざるを得ないのは一種の「敗北」である。あるものを正当な手段で手に入れることができないからこそ、ひとは「盗む」。
 そこには「哀しみ」が含まれる。「哀しみ」は人間の、とても自然な感情である。
 それゆえに、この「盗み出す」は「哀しい」自然、たとえば「川」や「ウグイス」と触れ合って、詩になるのだ。「盗み出した」ということばが登場した瞬間から、ことばは「論理」を追わなくなる。「論理」を追わずに、かつて「脇においてきた」もの、「ウグイス」と一体になる。

 もう少し別な角度から補足し直せば。
 「盗み出す」対象が、「川」「ウグイス」という「自然」ではなく、「概念」であることも、それまでの精神の持続・維持とは正反対である。「わたし」が「読」んでいたのは「ウグイス」であって、「概念」ではなかった。
 そして、「正反対」であることによって、「ウグイス」という「自然」が、この突然の詩の出現の「伏線」となるのである。「伏線」は最初から「伏線」なのではなく、ある状況が出現することで、時間をさかのぼって「伏線」にかわるのである。
 「便器」と「泉」のような、異質なものの衝突、意識の接続と断絶が、ここではそんなふうに演出されている。詩として表現されている。

 意識を「論理」として持続・維持しながら、ある瞬間にそれを放棄し、突然、抒情・センチメンタルを噴出させる。「論理」の持続・維持が飽和状態になり、そこから感情が噴出し、世界を一気にかえていく。このカタルシス。
 「2」の部分は、そういうことばの振幅がより大きくなり、「論理」は消えかかっている。広田にとって「論理」はたぶん抒情の噴出を導き出すための偽装なのである。

スクリャービンの気孔から巻いてゆく指々を看取る。痛いのはここから何㎞の地点? 人生に苦悩するときの時給はいくら? あまりに鍵盤を折檻するので見ながらつづら折りになる。髪は鉱物。手は気体。午後にはラフマニノフの散乱。靴音を拾い集めるのは火を炊くためであって、種を撒くためではない。

 「指」(「指々」とはなんとむちゃくちゃな「複数形」だろう。この強引な「複数」にも偽装論理が潜んでいる)、「痛み」という抒情・センチメンタルから始まり、「髪は鉱物。手は気体。」という「非論理」(これは「論理」を強調するためその「補色」のようなものである)を経て、

ラフマニノフの散乱。

 これは美しい。

髪は鉱物。手は気体。午後にはラフマニノフの散乱。

 この非論理から、非であることを利用して、抒情・センチメンタルを爆発させるこの部部は、ほんとうに美しい。美しいということば以外に、私は、何も思いつかない。私は抒情・センチメンタルは好きではないのだが、こんなに美しいものなら、センチメンタルもいいものだなあ、と批判を忘れて、ただ酔ってしまう。

 広田のことばの魅力は、論理-非論理-抒情・センチメンタルの爆発という動きのなかにあるのだと思った。




現代詩手帖 2008年 06月号 [雑誌]

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文月悠光「黒髪」

2008-05-29 10:41:50 | 詩(雑誌・同人誌)
 文月悠光「黒髪」(「現代詩手帖」2008年06月号)
 1篇の詩のなかで、ことばの「形式」がかわる。改行で書かれていたことばが、改行をやめる。さらには、改行をやめたことばの1行の長さがかわる。そしてまた改行にもどる。そんなふうにして文月悠光は「黒髪」という作品を書いている。

青いバスのなかで
黄色い声たちが高くのぼり、
天井にぶつかっては乱舞する。
私の耳には少し遅れて届いてくるので
その合間をはかり、すばやく耳をそばだてる。
息を、殺す、私。
けして聞き逃さないように。
バスの窓に映った“黒髪”に手ぐしを入れると、私の手
はあっけなく毛先まで行きつき、誰かの肩をなでる。指
先に頭皮のにおいが残り、指紋が身をよじってうずを巻
く。私は困惑する。とらわれる、生身の髪をとかした確
かな感覚。おそるおそる窓ガラスに鼻を寄せ、映る気配
を嗅ぎ当てる。生あたたかな息づかいが迫り、“私”を
白く曇らせた。

(絡み合うさだめだろうか、互いに自らの汚れを示し合い、あわよくば隣人になすりつけ
る。やがて汚れが繊維を舐め尽くし、そこから滲み出てくるのは、うっとりとしした臭気。
モップの毛束を、作業服の女は手に取った。緑色のゴム手袋がなまめかしく光る。

 この詩を読みながら私が感じたのは、しかし、リズムの変化ではない。改行のことばが散文形式にかわる。その散文が、散文でありながら、行の長さをかえる。一瞬、その詩の形を見たとき、私は、視覚のなかの「耳」がリズムを探しているのに気がついた。けれども、そこには「耳」に響いてくるリズムの変化はなかった。
 文月は徹底的に「視覚」の詩人である。「聴覚」は「視覚」のあとに、思い出したようについてくるだけなのかもしれない。
 「青いバス」「黄色い声」「緑色のゴム手袋」。青+黄=緑。そういう変化がこの作品のなかにある。それは文月が実際に見たものであるかどうかはわからない。「黄色い声」というのはだいたい「視覚」ではとらえられないものである。「視覚」を借りているだけのことである。しかし、たぶん文月にとっては、この「黄色い声」は「視覚」を借りた聴覚のためのことばではなく、あくまで「視覚」が先にあり、そのあとに「聴覚」がやってきているのである。
 「天井にぶつかっては乱舞する」声も、まず「乱舞」が「見える」のである。声が聞こえる前に、声が「見える」。そして、そのあとに「聴覚」が目覚める。

私の耳にはすこし遅れて届いてくるので

 これは「わざと」書かれたことば、技巧のことばではない。文月は、そうではなくて、逆に「正直に」書いているのだ。
 この「正直さ」に私はかなり驚いてしまった。
 文月は文月の肉体のなかにある感覚を、そのずれをしっかりと認識し、それをことばに定着させようとしているのである。
 文月の「視覚」と「聴覚」にはずれがある。--文学というのは、たいていの場合(私が文学と感じることばの場合のことであるが)、そのことばのなかで感覚の融合がある。感覚が融合して、それまでの感覚ではとらえきれなかったものを一瞬にして把握する。
 いまでは常套句になってしまっているが、「黄色い声」には「視覚」と「聴覚」が融合している。そういう表現が「文学」である。
 しかし、文月は、そういう「融合」を、むしろ分離する。とけあわせずに、分離させ、その隙間、ずののようなもののなかへ入ってゆく。そこにはたとえば触覚だとか嗅覚もからんではくるのだが、それは「方便」であり、あくまでも「視覚」で感覚が融合する世界へ分け入ってゆく。
 そうしたことを書いているのが「バスの窓に映った……」以後の行である。
 「黒髪」は「白い」(息)、息によって「白く」曇ったバスの窓のなかで、書かれてはいないけれど「灰色」になっている。「灰色」の世界を、文月は、「撫でる」「嗅ぎ当てる」というような感覚に分類する。しかし、その分類を基本で支えているのは「視覚」である。

 「色」はふれあうことで、融合し、別の「色」にかわる。そのことを文月は「(絡み合う定めだろうか、」からはじまる部分で書いている。
 「黒髪」「白く曇る(窓)」の部分で書かれなかった「灰色」が「灰色」と書かれないまま、「モップ」のなかでうごめく。

互いに自らの汚れを示し合い、あわよくば隣人になすりつける。やがて汚れが繊維を舐め尽くし、そこから滲み出てくるのは、うっとりとしした臭気。

 しかし、ここでも「視覚」が基本なのだ。「視覚」が世界を分析し、統合するのである。「汚れを示し合」うのを文月は「見る」。見ることがあって、はじめてことばは視覚を離れることができる。視覚から出発しないことには、世界のなかへは入ってゆけないのだ。
 「隣人」というのはモップの房同士のことである。モップの房は、普通は「ひとかたまり」のものとして認識される。一本一本個別には認識されない。しかし、文月は認識してしまう。かたまり(群)ではなく、一本一本。それが「見える」からこそ「隣人」ということばが登場する。そして「視覚」でそんなふうにモップを分析したあと、「なすりつける」「舐め尽くす」というような触覚があらわれてくる。そして、「臭気」という嗅覚も追いかけてくる。
 このことばの動き、ことばの「正直さ」はおもしろいなあ、と思う。
 
 なぜ文月が、行かえ、1行が短い散文形式、長い散文形式、行かえとスタイルの混在した作品を書くのか、その「根本」は私にはまだわからないけれど、そこには「視覚」が潜んでいる。「視覚」を優先させて世界へ接近していく「思想」が潜んでいる。
 そのことを強く感じた。



現代詩手帖 2008年 06月号 [雑誌]

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岡井隆「百年の後」

2008-05-28 01:52:30 | 詩(雑誌・同人誌)
 岡井隆「百年の後」(「現代詩手帖」2008年06月号)
 岡井隆の散文力(?)というのだろうか、ことばの動きは、まったくゆるみがない。それはぐねぐねとうねったときにいっそう力を発揮する。ぐねぐねうねるのに、きわめて論理的なのである。論理的といっても、その論理は意識の流れ(あ、こういう言い方は古いかも)の論理であって、いわゆる「科学的論理」の類ではない。意識の流れが、何かにぶつかると、そのぶつかったことを利用してするりとうねる。そのうねりに無理がない、ということである。論理的=無理がない。これが、たぶん岡井の散文力なのである。ふいに私は吉田健一を思い出してしまうのだが、岡井の散文力は吉田健一の文章の力に似ている。何かにぶつかっても、そのぶつかったことを、水が岩をこえるように、あるいは岩を抱き込んで流れるように、するりと流れていく。するりだけてはなく、きらりと光ながら流れていく。そのときの、するり、きらり、に乱れがない。乱れているのに、その乱れ方に何か一定の力(水量の確かさ)があり、そのために安定して見えるのである。
 
「向う岸に菜を洗ひゐし人去りて妊婦と気づく百年の後」(前登志夫)を五行に分けて板書してゐると教室のあちらこちらで笑ひ声が起きるので耳ざはりだと思ひながらとはいつても「百年の後」の結びの四文字を書くまでは失笑はされなかつたのだから此の五音四文字が人々の意識の歩みをつまづかせたに違ひなくさりとてここで振り向いて注釈するのもあざといやうでむろん「妊婦」つていふのがかつて妊婦だつたことのなる聴き手たちをしげきしたのにはこちらが「思想」の外は懐妊したとこのないジェンダーであつてみれば(二三のわかりやすくまた周知の前例をあげる気にもならないほど)重い性差のひびきが笑ひにはこもつてをりさう思つて改めて読み直してみれば

 どこで引用をやめるべきなのかわからないことばである。うねりに無理がないので、どうしてもひきずられてしまうのである。
 この引用の部分で、私が「きらり」と感じるのは

こちらが「思想」の外は懐妊したとこのないジェンダーであつてみれば

 この部分の「思想」であるけれど、そういう「きらり」よりもすごいのは、実は「するり」である。「きらり」は誰にでもというと語弊があるけれど、ある程度ことばを書いている人なら可能なことだろうと思う。もっとも、たいていは「きらり」ではなく、「きらきら」しすぎて、うんざりするのだが……。
 私が「するり」と感じるのは「こちらが」である。
 私は、この「こちらが」のひとことにうなってしまった。
 「私」でも「ぼく」でもなく、「こちら」。それは「あちら」を前提としている。そして、「こちら」とあちら」はつながっている。この「つながり」。そこに、私が感じている岡井の思想がある。「つながり」を維持したまま、ことばが動いていく。意識の流れとは、別のことばで言えば、意識の「つながり」である。そして、そのつながりは、岡井に逢っては「こちら」「あちら」という別個のものを前提としたつながりなのである。「こちら」と「あちら」には、ほんとうは断絶がある。断絶があってもいい。しかし、それを断絶にさせずに「つなげる」。「こちら」と「あちら」として存在させ、それを「つなげる」。そのとき、ことばはうねるのだ。

重い性差のひびきが笑ひにはこもつてをりさう思つて改めて読み直してみれば「向う岸」も或いはそこいらの野川の向う岸ではなく対岸の大河かも知れず「菜」の青さも大儀さうにかすかに膨れた腹部を回転させつつ遠ざかる女の姿も実は見えないものを見ているかも知れず

 「つながり」ながら、ことばは「向う岸」まで動いてゆく。それは「川」の「向う岸」をこえて「彼岸」まで行ってしまう。と、岡井は書いてはいないが、私は「誤読」して、「彼岸」を想像する。そして、「彼岸」を想像すると「見えないもの」というものが、実にくっきりと見えてくる。
 「見えないもの」とは「現実」(此岸)のことがらではないからである。「彼岸」だからである。
 そして、「見えないものを見ている」というのは、実は、その「彼岸」が未知のものではなく、熟知したものだからである。人間は「此岸」のことは何もわからない。しかし、「彼岸」のことはよく知っている。周知している。人間は誰でも、その前にあることは何もわからないが、「彼岸」にあることはよく知っている。だからこそ、「此岸」から「彼岸」へ動いてゆくのだ。「此岸」を「彼岸」に「つなげる」ことができるのだ。

 この「此岸」「彼岸」の関係を、岡井は、前の歌から離れ、ジュール・シュペルヴィルの「馬」に結びつけて書いている。
 その部分は引用しないが(「現代詩手帖」06月号で読んでください)、そこに「百年」に類似した「時間」が登場する。「二萬世紀」という時間が登場する。書かれた瞬間に「百年」と「二萬世紀」は、その「数字」違うにもかかわらず、ぴったりさ重なり合う。
 それは螺旋階段がぐるりとまわることで重なり合うのに似ている。この「ぐるり」を「うねり」と読み替えてほしい。そうすれば、私が岡井のことばに見ているものが見えるだろうと思う。

 それはもしかすると「まだ誰も見た事もないもの」であるかもしれないし、「まだ見た事もないもの」といえるのは、実はそれが周知のことだからかもしれない。周知なのだけれど、周知のものとはほんの少し違っている。だから正直に言おうとすると「まだ見た事もないもの」というのであって、そういいながら「あ、これは、あれだよ」と承知している。
 この阿吽の呼吸のようなことばの動き、意識の流れを、岡井はすべてことばにすることができる。ことばにしている。あ、教養のある人のことばとはすごいものだと、ただただ感心するしかない。





岡井隆全歌集〈第4巻〉1994‐2003
岡井 隆
思潮社

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内山登美子「降る、さらさらと」

2008-05-27 10:33:37 | 詩(雑誌・同人誌)
 内山登美子「降る、さらさらと」(「現代詩2008」2008年06月01日発行)
 時間をどうとらえるか。過去-現在-未来と一直線に進むものと見るか。あるいは春-夏-秋-冬、そしてふたたび春-夏-秋-冬のように、繰り返すものと見るか。たいていはどちらかである。どちらであっても、そんなに珍しい(?)ものではない。
 内山は、時間を繰り返すもの、と見ている。「降る、さらさらと」には、そういう感覚が静かに書かれている。

言葉にはならないものが降る
仰いでいた天が
大きく傾(かし)いで
さらさらと 銀の
砂子のようなものを降らせている

私の躯も ぐっと傾いだようだ
なにやら 一回転したみたいだ
それが一瞬のことであったか
あるいは
百代の彼方までめぐってきたものか

てのひらを見る
斜めに 一文字 古い傷が走っている

あの時のものだ
よろけて 倒れて 一回転した あの時
夢中で掴んだ草の名は知らない
草は私を草むらから引き起こしたが
強靱な草はまた鋭利な鋼だった
血がにじんだ
痛みはあとからきた

これも一瞬のことであったか
あるいは 長い長い時間の痛みか

よくわからないものが降る
天は 時折 傾く

 雪。雪の季節になると古傷が痛む。一瞬にして、過去が現実に重なる。過去が現実に噴出してきて、現在を一瞬見えなくさせる。雪ではなく、内山は古傷を見る。寒さではなく、痛みを感じる。--こういうとき、内山は、過去と現在の関係を「一回転」ととらえている。その「一回転」のなかに、内山の時間感覚がある。
 こういう感覚自体には、私はすでに驚かない。「輪廻する時間」というものに、私はすでに驚かなくなってしまっている。
 しかし、一か所、とても驚いた。
 「一回転」を「傾ぐ」と結びつけている点である。
 輪廻というとおおげさかもしれないけれど、時間が回転する、過去が現在に甦るとき、そこには「軸」の傾きが影響している--そういう視点に驚いた。確かにそうなのだろう。地球に関して言えば、四季は、地軸が傾いているから起きる。宇宙の動き、宇宙の摂理、宇宙の真理と、内山は、意識してのことなのか無意識のことなのか1篇の作品だけではわからないが(私は内山の作品を読んだことがない、たぶん読んだことがないと思う)、内山の哲学は、輪廻というような東洋の哲学とは別のものと結びついている。抽象的なものではなく、物理的、科学的なものと結びついている。きわめて論理的である。
 それはたとえば、次の行、独特な行に端的にあらわれている。

草は私を草むらから引き起こした

 これは草を掴んだから「私」はがけ(たぶん)をころがり落ちることなく、身を立て直すことができた。草を掴んでいなかったら「私」はがけしたにころがり、草の上に倒れていた。
 「草は私を草むらから引き起こしたが」は正確に(?)言えば、「私の掴んだ草は、私が倒れるはずだった草むらから、私を引き起こした状態にした、つまり私は草を掴んだがゆえに草むらに倒れずにすんだ」なのである。
 「私」ではなく「草」を主語にして、一連の運動を書き換えているのである。
 天動説から地動説への移行のような、視点の変化がその1行に凝縮している。その視点を内山は「感覚」ではなく、きちんと「物理」で説明している。
 この感覚が「傾ぐ」を季節の巡り、雪から引き出している。雪が降るのは地球の軸(地軸)が傾いているから。地軸の傾きゆえに、四季は存在する。

 最終行の「天は 時折 傾く」は正確には、「天は 時折 地球が傾いていることを思い出させる」である。
 天がそうであるなら、私たち人間もどこかにその傾きに呼応するように傾きを持っている。そして、その傾きゆえに、人間は季節のように、ある思いを時折思いめぐらす。季節のように定期的にではないかもしれないが、同じことを感じるのである。それは個人のことでもあれば、「百代」をこえる時代、他人が感じたことがらのこともある。人間は、そして、その傾きの重なり、繰り返される同じ思いによって、互いに結びつく。--内山の哲学は、そういうところまで探り当てているようである。直感としてというより、しずかに現実を、物理をみつめることによって。このしっかりした視点ゆえに、ことばが清潔さを保っているのだと思った。





あなたの詩わたしの詩 PART2 (2) (集英社文庫 64C)

集英社

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原子朗「雛まつりの歎語」

2008-05-26 11:02:44 | 詩(雑誌・同人誌)
 原子朗「雛まつりの歎語」(「現代詩2008」2008年06月01日発行)
 雛祭りの託して「反戦」の願いを書いている。2連目からがとてもおもしろい。

しろざけをふるまってください
あなたのもものはなをうるませ
おとこたちの血をぬきとってください
骨のずいまで
あふれるあなたのむねのしろざけを
おとこのあしのうらにぬめらせ くすぐり
あなたの乳くびさながらに
あられもないもものあられのあられ星
もう二度と立てなくしてください

あなたがあんまりすがしがおなので
あるいはおとこたちがあなたになれすぎ
もしかしたらあなたがなれすぎ
おとこたちはあなたからはなれていき
鉄のカプセルをそらに発射させようとしています
そしてアンポ インポとわめきあっています
おとこたちの根源 雛よ
いますぐおとこたちをあなたの部屋に
そしていつまでも雛まつりを
まいにち いちんちしろざけを
つよいなさけを
陶酔を
ふくよかなひしもちのまくらを
地上にみたせ
雛まつり

 「戦争反対」ということばに異議を唱えるのはなかなかむずかしい。
 戦争には反対である。でも、反戦運動には参加したくない。声をあわせて「戦争反対」と叫びながらデモをするのは、なんとなく自分が自分でなくなるような気持ちがする。確かに戦争には反対だけれど、「戦争反対」と叫びながら歩くと、戦争に反対する理由が「自分は戦場へ行って死にたくないだけなのだ」という気持ちをどこかでごまかしている、「正義」を掲げて自分の不正(? 不道徳、不正直)を隠している--そんな感じもする。「世界平和」ではなく、自分の平和を願っている、という感じを、「正義」を旗印にして、みんなでごまかしている、という感じもする。
 原の詩は、そういう「正義」の方へは行かない。「正義」を旗印にして、戦争反対とはいわない。自己中心的である。「おとこ」が出てくるが、それは「正義」をふりかざす「男」ではない。「男」という概念になるまえの、もっとやわらかな「にくたい」のまま登場してくる。
 そのやわらかな「にくたい」と響きあう「おと」がとてもいい。この詩は「おと」が魅力的だ。「おと」が、ことばを概念になってしまうのを防いでいる。「戦争反対」が「戦争反対」ということばに結晶し、「頭」のなかのことばになってしまうのを防ぎながら、「にくたい」の内部と結びつく。「頭」ではなく、「ほんのう」と結びつく。「怒り」ではなく「わらい」と結びつき、緊張を解きほぐす。
 「戦争反対」と声に出して叫ぶことは緊張する。「戦争なんか、いやだよ」とぼそっとつぶやくと、にくたいがゆるむ。そういう感じがいっぱいに広がっている。
 
 「おと」がほんとうにいいのだ。
 詩は、あるいはことばは、文字で伝えることもできるが、声で伝えることもできる。原の詩は声で(「こえ」で、とひらがなで書いた方がいいかもしれない)伝える詩である。いっしょに、その場にいて、相手の「にくたい」を見ながら、相手の反応にあわせて「こえ」の調子をかえる。「こえ」の色をかえる。そうやって伝える詩である。(文字で伝える詩は、相手の反応を見ながら「字」をかえる、という芸当ができない。)相手の反応にあわせる、というのはことばを「頭」から「にくたい」へと引き下ろすことでもある。相手の「にくたい」の生きてきた時間(体験)に常に直接触れるようにしながら「こえ」をかえる。

あられもないもものあられのあられ星

 このことば遊び。ことばが「意味」になってしまうのを防ぎながら、ちらりちらりと、まるでおんなが着物のすそを翻して、その奥のやわはだを見せるような、チラリズム。その、ちらりちらりの「おと」。
 さらには、

そしてアンポ インポとわめきあっています

 という戯れ口のひびき。
 それは「戦争反対」を絶対に「頭」には渡さないぞ、という原の強い意志さえ感じさせる「おと」である。「戦争」というのはいつでも「にくたい」を無視している。「にくたい」の存在を「概念」(数)にしてしまっている。
 そういう「概念」から、ことばを奪い返し、「にくたい」のなかで、もう一度、まったく別のことばを鍛え上げる。原の試みていることは、そういうことだと思う。

 美しい行はいつくもいくつも出てくる。

あふれるあなたのむねのしろざけを
おとこのあしのうらにぬめらせ くすぐり

 私は、この2行が好きだ。
 「あふれるあなたのむねのしろざけを」の「あ」「お」(「の」「ろ」「を」に含まれる「お」)の変化が美しい。「おとこのあしのうらにぬめらせ くすぐり」の「おと」のゆらぎが楽しい。「のうらにぬめらせ」の「な行」「ら行」の「おと」の動き、そのときの舌と口蓋のくっついたり離れたりする感触がディープキスのように気持ちがいいし、「くすぐり」というときの舌の動き、濁音「ぐ」のときの喉の奥の広がりも快感である。
 ことばの「意味」ではなく、ことばの「おと」が直接、「にくたい」を刺激する。「にくたい」はこんなに楽しく、豊かだと、それこそ「くすぐる」のである。

まいにち いちんちしろざけを
つよいなさけを

 もとても好きだ。「まいにち いちんち」の「い」の「おと」、そして「いちんち」の口語のひびき。さらに「しろざけ」と「なさけ」の押韻。

 たっぷりと酔える詩である。


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時里二郎「キツネ その二」

2008-05-25 01:30:53 | 詩(雑誌・同人誌)
 時里二郎「キツネ その二」(ロッジア」2、2008年05月31日発行)

 時里のことばは虚構を追いかける。そして、その虚構のなかで、虚構と現実がひっくり返る。虚構はことばでできているが、虚構をていねいにていねいに、さらにていねいに築き上げていく内に、ことばの方が現実をうわまわってしまい、ことばこそが現実であり、そのことばを動かしている「私」の方が虚構なのではないか、というところまで進んでゆく。

 ぼくは口に出しはしなかったが、彼の言葉を継いで、もっとやっかいな推論にたどり着いていた。本が作り上げたものがしばしばぼくたちの前に現れるということは、ぼくたちもまた、本を蔵した空間に巣くう世界の残像ではないのかと。

 こうした文学のなか(ことばのなか)で世界の虚構と現実が逆転するという作風は時里独自のものではない。中国には夢のなかで蝶を見たのか、それとも蝶が夢見たのかという詩があるし、ボルヘスはその作品に一編の小説も捧げている。
 そうしたことを踏まえて、時里のことばの特徴をあげるならば、時里は、そういうことをはっきりと自覚しているということである。いま引用した行のうちに、その自覚を裏付けることばがある。

彼のことばを継いで、

 ことばを「継いで」ゆく。それが時里の「思想」である。
 ことばを新しくつくりだすのではない。ことばはいつでも、すでに存在している。そしてあらゆることは書かれてしまっている。ギリシャの時代から「もうすべて書かれてしまった。書くことは何もない」という考えは存在している。だから、ことばは書いていくものではない。「継いで」ゆくものなのだ。
 「キツネ その二」という作品は、次のように書きはじめられている。

 ぼくがその大学図書館で初めて与えられた仕事はキツネ探しだった。その旧館の閉架式書庫のなかのどこかに潜んでいる。それを見つけ出してもらいたいというのである。最初は冗談だとばかり思っていた。それが剥製のキツネだと知らされても腑に落ちない話だった。

 ここにすでに、ことばを「継いで」ゆく基本的な姿勢がある。キツネは実際に存在するかどうかわからない。あくまで「腑に落ちない話」の「話」なのである。「はなし」というのは「ことば」である。時里は、この語られた「ことば」(話)を「継いで」ゆくのである。
 現実を追っていくのではない。「話」から出発して、現実を追うというよりは、現実を歪めてゆくのである。ことばのなかへ入っていくのである。なぜ、そんなふうな「話」が存在しうるのか--それを追っていくのである。
 こういう姿勢をさらに強調するのが「閉架式書庫」の「閉」である。「ぼく」は「図書館」という建物のなかの(つまり閉ざされた空間のなかの)、さらに閉ざされたもののなかへ入っていく。「ことば」のなかの、閉ざされたことばのなかの、さらに奥へ奥へと入っていく。けっして外へは出ない。「話」の外へは出ないで、閉ざされたものの内部を、さらに閉ざしながら、ことばを「継いで」ゆく。
 時里にとって、ことばとは何かを開いてゆくものではなく、何かを閉ざすためのものである。閉ざしながらことばを「継いで」ゆくとき、ことばが濃密になる。ことばの空間がびっしり埋められてしまって、外部への出口を一切なくしてしまう。そういう状況に達したとき、その内部は外部と同じものである。外部は内部を「閉ざして」存在する。一方、内部は外部を「開いて」存在する。
 矛盾した言い方になるが、完全に閉ざしてしまうと、外部は内部へは入ってこれない。内部は外部へは出てゆけない。相互に出入りはできなくなる。出入りができなければ、内部も外部もなくなる。相対的なあり方にすぎなくなる。あるのは、ただことばが作り上げた「話」だけである。どちらを「現実」と思うにしても、それは「思う」ときに現れてくるものにすぎない。
 時里がつかっていたことばを借りれば「推論」するときにだけ、外部と内部は現れてくるのであって、そのどちらが外部・内部であるかは、判断する基準がない。
 時里がめざしている「文学空間」は、そういう世界である。そして、その世界をつくるエネルギーというか、運動の基本が「ことばを継いで」ゆくということなのである。

 *

 時里は「『歌稿ノオト』注釈」を書いているが、これもまたことばを「継いで」ゆく作業である。「父」の残したノート。そこに書かれていることばを「継いで」ゆく。注釈とは、時里にとってことばを「継いで」ゆく作業である。分析するのではない。ただ「継いで」ゆく。「継いで」ゆくことで、ことばがどこまで動いてゆけるかを確かめる。
 ことばを「継いで」「継いで」「継いで」「継いで」ゆくとき、そして、それを「継ぎきって」完結したとき、ことばの「内部」は「外部」を上回るのである。
 宇宙は広い。無限大である。しかし、脳もまた無限大である。その内部は宇宙の外部を想像できるほどに大きい。頭蓋骨の内部、その脳の内部が、宇宙を上回るということはあり得るのである。
 宇宙は何も想像しない。ところが人間はことばを「継いで」想像する。その想像は、脳は宇宙よりも広大であり、宇宙は脳の内部に存在するのだという矛盾さえも想像できるほどなのである。そういう世界へ、ことばを「継いで」ゆけば必ず到達できる--時里を突き動かしているのは、そういう思いである。そういう思想である。




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高橋伴明監督「丘を越えて」

2008-05-24 08:49:37 | 映画
監督 高橋伴明 出演 西田敏行、池脇千鶴

 三味線がとても効果的である。とても色っぽい。最後にラジオ体操と「丘を越えて」の伴奏をする。このときが非常にいい。三味線に、この映画のすべてがある。
 映画は菊池寛を秘書の目をとおして描いている。そして、その秘書の目というのが三味線の目なのである。若い秘書と三味線を弾かない。しかし、彼女の母は三味線を弾き、その音、そのリズムが若い秘書の肉体になじんでいる。昭和の初期なのだが、女性はまだ着物をきており、そのこころはまだ江戸時代である。その「江戸」を三味線が代弁しているのである。古い。そして古いけれど、新しい音楽を奏でることができる。外から入ってきた音楽を三味線で伴奏する。新しいメロディーと古いこころがいっしょになって動いていく。そのときの新鮮な新鮮な動き。--この映画は、古いこころのまま生きている若い秘書が、それまで知らなかった新しいものに触れる。たとえば文士。菊池寛。そして、その新しいものに触れながら、そのなかにある古いものを発見する。
 若い秘書は江戸のこころを持っているがゆえに、菊池寛の江戸のこころをきちんと受け止める。人情。涙。そういうものをしっかり受け止めながら、その古いものが新しい「文学」をつくっていくその瞬間に立ち会う。古いものと新しいものがぶつかりあう瞬間に立ち会っていく。その衝突と、そこから生まれてくるものに、そっと伴奏をそえる。母親が弾く三味線のように。
 そこに「色」がにじみでる。「艶」がにじみでる。いいなあ。とても、とても、とても、いい。全面に出るのではなく、伴奏--脇で控える。あるいは、すっと身を引く。それでも隠し通せないものがある。それが「色」「艶」。にじみでる、としかいいようのないもの。粋である。自己主張しないことで、しっかりと存在感を浮かび上がらせる。この「色」「艶」の美しさは、絶品としかいいようがない。
 映画では、菊池寛と秘書、文藝春秋の社員の若い男と秘書、菊池寛の運転手と秘書、という三つの恋(いずれも相手は若い秘書)が描かれるが、これも「色」「艶」に花を添えている。そういうストーリーは、すべて三味線のおもしろさを浮かび上がらせる小道具である。三味線が小道具なのではなく、ストーリーが、役者が小道具なのである。このアンサンブルの処理の仕方は、ほんとうにすばらしい。

 いつくもすばらしいシーンがあるが、映画のタイトルにもなっている「丘を越えて」を三味線で歌うシーンは、スクリーンで見ているのがもったいない。スクリーンじゃなくて、その音を生で聞きたい。私は思わず席を立ち上がりそうになりましたよ。ほんとうに。生きているというのは、ほんとうにすばらしい。生きているというのは、こんなに色っぽく、艶っぽく、美しいのか--その美しさを、直に見たい、聞きたい、という思いと襲われました。
 これは、それにつづく出演者全員での「丘を越えて」のダンスにもつながる。丘の上で、全員でダンスを踊る。そのシーンの美しさ。「 丘を越えて」という曲に託された思いを、出演者が踊って表現する。生きる喜び、生きる願い、命があることの美しさ--そういうものが、ぱあーっと広がる。
 私は音痴で歌を歌うことはないが、映画館を出たあと、歩きながら思わず「丘を越えて」を口ずさんでいた。思わず、歌を口ずさみたくなるように、この映画はできている。そしてまた、あ、どこかで三味線を習いたいなあ、という思いにもさせてくれる。

 私は不勉強で高橋伴明の映画を見るのは今回が初めてなのだが、こんなにおもしろい監督とは知らなかった。朝鮮へ帰る若い編集者と秘書の最後のダンスのときの、「君を忘れない」という字幕のつかい方も気に入った。粋である。
 

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阿部日奈子「今様のレッスン」

2008-05-23 00:55:01 | 詩(雑誌・同人誌)
 阿部日奈子「今様のレッスン」(「ユルトラ・バルズ」15、2008年05月15日発行)
 阿部日奈子のことばの魅力は、叩いても壊れない、ということだと思う。あ、このことば、触れただけで砕け散りそう、という繊細なことばの対極にある。頑丈である。その頑丈さは、たぶん豊富な読書量にある。広範な読書量にある。
 「今様のレッスン」の書き出しの2連。

恋幸彦の間夫日記
秘密の手帖が盗まれて
令閨令嬢大弱り
懸賞金で取り戻せ

きょうの授業はイマヨウの作り方でした
みんな指を折り折り吟じていたけれど
そろいもそろって不道徳なので
先生は渋い顔でした

  1行目の「恋幸彦の間夫日記」が、もう「文学」以外の何者でもない。「文学」を読んでいないと、こういうことばは出てこない。日常では、こんなことばは誰もいわない。そして、それを強靱にさせているのが「文学」でありながら、「俗」であることだ。「聖」ではなく、「俗」。すでに「文学」として存在することばのなかに「俗」を紛れ込ませる。「恋」だの「間夫」だの。もちろん「恋」も「間夫」も「文学」には出てくるが、それは「恋」とか「間夫」ということばを排除して書かれている。「恋」「間夫」ということばをつかわずに「恋」「間夫」を描くのが「文学」である。
 「恋」「間夫」と書いてないけれど、ことばからそれを読み取るのが「俗人」の読書である。阿部は、わざと「俗人」になって、ことばを鍛えている。強靱にしている。
 「純粋」なものは美しいけれど、衝撃に弱い。混じり合っているものは、「純粋」ではないかもしれないが、混じり合うことで互いを補いあう。強くなる。

 2連目の「そろいもそろって不道徳なので」の「不道徳」ということばの使い方は絶妙である。いや、「そろいもそろって」という「口語」の使い方の方がもっと絶妙であるかもしれない。「文学」が排除した常套句をわざと使い、「文学」ではないことばを装いながら、その偽装を「文学」にする。

 阿部の詩は、「偽装の文学」なのである。

 「偽装の文学」といっても、それが「偽物」という意味ではない。「偽装」には「技巧」がいる。「技巧」のない「偽装」は単なる嘘である。「偽装」には「私」ではないものへの徹底した考察がなければならない。「他者」への徹底した観察、分析がないと、偽装は不完全である。ばれてしまう。どこまで完全に「偽装」できるか、どこまで「私」を排除しながら「他人」を演技できるか。
 偽装・演技するときのエネルギー、その熱意。それが阿部に「文学」を分析させ、また「俗」を分析させ、それを結合させる。「偽装」でしかありえない迷宮は、現実を引き剥がす。現実の奥に潜んでいるものをあばきだす。阿部が明らかになるのではない。阿部のことばに触れた読者の現実があばかれる。

ラヴィアンローズいろあせて
アヴェクモンマリうざったく
ドールハウスは窮屈と
浮かれプティット出奔す

先生は言います
きみたちはまだ性欲が物欲を上回っているからなぁ
大人になると色恋沙汰は面倒で
鼻息も荒く銀行に駆け込むようになるんだよ

 あ、フランス語。
 読んだ瞬間、そんな思いが頭をよぎらないだろうか。そして、そのフランス語に、「俗」まみれの「いろあせて」「うざったく」というようなことばが結びつく。そのときの、何とも言えない「超俗」の感じ。「超俗」といっても、「俗」が「俗」を超えるのではなく、「俗」のなかに落ち込んでいく。もうこれ以上落ちる先がないくらいに落ち込んで、そこで平然としている。
 壊れずに、平然としている。
 そこであばかれているのは、たとえば、「あ、フランス語」とふと頭をよぎった私の現実なのである。こういう現実のあばかれ方は、すごい。あばかれてしまって、もうとりつくろいようがない。
 もし、このあばかれた現実から逃げる(?)道があるとすれば、4連目、先生の口調をまねて、先生のいったことを口移しに言ってみるしかない。そういうせりふをいつかいうために、「きみたちはまだ……」の3行をまるごと覚え込むしかない。
 そして、阿部のことばをまるごと覚え込み、それをいつか使ってやろう--そう思ったとき、私たちは、もう完全に阿部に取り込まれている。阿部のことばのなかでだけ生きている。もう、阿部のことばを叩く壊す方法はなくなっているのだ。

 阿部のことば、「きみたちはまだ……」を使ってみたいというのは、阿部のことばで「私」を「偽装」することだ。阿部の「偽装」に取り込まれて、私もまた「偽装」するしかない--そんなふうに、二重に、三重に、あるいはもっともっと重なり合った世界へと、私は入って行き、そこに何かあるとすれば、その「重なり合い」というものしかないということを知らされる。
 ことばは重なり合い、「偽装」は重なり合い、その重なりあいの隙間に、現実がこぼれてゆくのだ。重なりあいのなかで、現実は、批判され続けるのである。「文学」の、そして「ことば」の現実が。

 ことばがことばを批評し、文学が文学を批評する。批判する。俗が俗を批評し、批判する。そこから現実が、ことばが文学に寄り掛かっているという現実があばかれる。






海曜日の女たち
阿部 日奈子
書肆山田

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杉本徹「灰と紫」

2008-05-22 09:25:36 | 詩(雑誌・同人誌)
 杉本徹「灰と紫」(「ユルトラ・バルズ」15、2008年05月15日発行)
 詩はことばである、と書いてしまうと、ほんとうは何も書くことがなくなってしまう。しかし、ひさびさに「詩はことばである」と書きたくなった。杉本徹「灰と紫」のなかに美しい行がある。独立して輝いている。

わたしが植えたイデュメアの樹は
音のない天体に揺らぎ
……いつか人影のような昼を告げるだろう
水を掬うてのひらに、わずかな逆光の歌声が射すと
その掌の象りは永遠に十二月のまま、都市の
暗がりの羅針となり、……
忘却の北、忘却という廃線!

 書き出しの7行だが、その7行目で私は立ち止まってしまう。

忘却の北、忘却という廃線!

 こういうことばに出会うと、動けなくなる。杉本が何を書きたいかなど、どうでもいい、と思ってしまう。暗い北へ伸びる廃線。それが「羅針盤」のように誘う。忘却へと誘う。あ、私はとてもセンチメンタルな人間なのだと思い、センチメンタルであることがうれしくなる。その廃線がどこにあるか、私は知らない。杉本が具体的にどの廃線をイメージしながら書いたのか、どうでもいい。私には私の、暗い北を指した廃線がある、と気がつく。そして、それは必然的に「物語」を含んでいる。この物語に、もちろん杉本は関係ない。ただ、私の意識だけが暴走する。「忘却の北、忘却という廃線!」ということばに誘われて。
 詩はことばである。
 そのことばを通って、読者は、自分の望む方向へ突き進む。その方向が作者の書いたものと一致するかどうかは関係がない。ただ、そこを通ってどこかへ突き進むことができるかどうか、どこかへ進む運動のエネルギーになるかどうかが問題なのだ。
 詩はことばである。したがって、それは誤読されなければならない。正確に、つまり、作者の書いた意図のとおりに読んでいるかぎりは、それは詩にはなり得ない。作者の書いた意図とは違った具合にことばを読む。そのとき、私たちは実感はしていないけれど、そこには作者の感情と読者の感情のことばにできない衝突がある。それは一種の「ビッグバン」である。そこから、いままで存在しなかったことばが動きはじめる。読者のなかで、かってにことばが動き、かってに読者自身のイメージを展開する。
 それはほんとうにビッグバンとしかいいようがない。ことばは全方向に散らばり、燃え上がり、宇宙に輝く星になる。どの星が一番好きか、ということは、見るひとの気分(?)によって違ってくる。夜の星座を見上げ、北極星を頼りにするひともいれば、見えない南十字星にあこがれるひともいる。シリウスに焦がれるひともいる。読者はかってにさまざまな輝きを結びつけて、そこに自分自身の「物語」(想像力がつくりあげるイメージ)を追いかける。
 私は4行目の「逆光の歌声」ということばも好きである。透き通った声、透き通ったメロディー(きっと短調)が一瞬輝くのを感じる。それは音であると同時に、色であり、においでもある。肉体全部をいっきにとらえてしまう何かである。
 詩は、次のようにつづいている。

忘却の北、忘却という廃線!
七つの曲りかどのある記憶から、剥がれ落ちていった
すれ違う靴音の砕いた凍る葉の、脈拍へ
「雪の舞う旧約にそって、ひとりは六十年歩いた」
「ひとりは閃光(エクラ)の名を呼び当ててのち、残像の風を生きた」

 いったん詩のことばにとらえられると、あとはもう好きなことばを追いかけるだけである。「七つの曲りかどのある記憶」の「七つ」さえも美しい。単なる数字なのに、数字を超越してことばを誘う。「残像の風」もいい。「凍る葉の、脈拍」もいい。

 そんなふうに好きなことばを拾い上げながら、私はひとつのことに気がついた。「凍る葉の、脈拍」のなかの読点「、」。一瞬の呼吸。この読点は、「忘却の北、忘却という廃線!」のなかにもある。この一呼吸は、あることばから、別の次元へ飛躍するための「跳躍台」のようなものである。読点「、」がないと、たぶん奇妙な、べったりしたことばの羅列になる。ことばの羅列ではなく、ことばからことばへのジャンプ。その瞬間に、たぶん詩はある。ジャンプを誘うことばが詩なのである。
 このことばのジャンプ、飛躍には、たぶん音楽でいう「和音」のような一種の法則がある。きちんとした「何度」という決まりがある。この「決まり」をたぶん天性の詩人は自然に身につけている。そして、「和音」の美しさで自然にことばをととのえてしまうのだと思う。
 「忘却の北、忘却という廃線!」と「凍る葉の、脈拍へ」というときの読点の感じは、私には同じ広がり、飛躍の大きさに感じられる。
 この飛躍の大きさ(音楽でいう「和音」のたとえば「三度」の「三」のようなもの)は、ほかにも共通する。たとえば、ここでは連全体を引用しないが、「六千年の静脈の、うすい色彩」も、「忘却の北、忘却という廃線!」と同じ広がりである。

 杉本の書いている詩を、そういうことばの「音楽」として見ていくと、「和音」が何種類もあり、それが複合してひとつの楽曲のようになっていることにも気がつく。

写本とは、くちずさむもの
行きずりの冬の地が、照らすとき

 この2行の読点「、」の感じ。
 さらには、「その掌の象りは永遠に十二月のまま、都市の」と「あるフリーウェイの消えゆく西空をながめつつ、税関で」という行の呼吸。

 詩はことばである。別の表現で言えば、「詩は意味ではない」。
 私は杉本の詩を読みながら、意味など考えていない。ただ、ことばの飛躍、その飛躍のリズムが誘い出すものに体全体を預けている。酔っている。こういう瞬間が、私は好きである。詩は、たぶん私にとっては「音楽」と同じようなものなのだ。「音楽」にも「意味」があるというひとはいるかもしれないが、私は「意味」を感じない。メロディーとリズムが、私を、いま、ここから違う時間、違う場所へつれていく。そこで私は私のことばではあらわすことのできないものを、ただ感じている。こういう「感じ」があるのだ、と感じている。それに似たものを、私は杉本のことばから受け取る。




十字公園
杉本 徹
ふらんす堂

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坂多瑩子「悪意」

2008-05-21 02:01:46 | 詩(雑誌・同人誌)
 坂多瑩子「悪意」(「鰐組」227 、2008年04月01日発行)
 一読して、あ、いい詩だなあ、と思っても、なかなかそのいいと感じたことをことばにできない。そういう詩がある。こういう詩が一番手ごわい。坂多瑩子の「悪意」はそういう詩である。
 電車のなかで見かけた風景。人物。そこで、不思議なことが起きる。

標準と少しはずれたアクセントで
いつもの車内放送があった
座席はほぼ満席だったが
誰もが消えかかっているようで
そのせいかとても静かだ
白いソックス洗ってくれる?
突然言われた

 さりげなくはじまる。「誰もが消えかかっているようで」と感情の通路を通って、突然、「洗ってくれる?」。奇妙にも生々しい。とても生々しい。「消えかかっている」「とても静か」の雰囲気とまったく違っている。そのまったく違っているという感じが有無をいわさず迫ってくる。
 坂多瑩子はこれをどうやって回避するのだろうか。

電車は走っている
髪を三つ編みにしたその子はにっとわらった
わたしはきっとどきまぎしていたのだ
洗ってくれる?じゃなく
はいてくれる?と聞こえた

 聞こえたことばを、聞こえなかったことばに置き換える。「洗ってくれる?」と言われても電車の中では洗えない。不可能である。だから、可能なことに置き換えてみる。「どぎまぎ」したまま。「はいてくれる?」。これも奇妙な会話(依頼)だけれど、「洗ってくれる?」よりは可能性としては高い。そこへ逃げ込んでみる。しかし、逃げ込んでみれば、そこは安定した場所、隠れ家ではない。よりいっそう身ぐるみを剥がれ、無防備な「わたし」になってゆくしかない。

手渡されたソックスをはいてみた
綿の厚手のソックスでゴムがゆるんでいる
ずるずるとさがる
さがりはじめるとゆっくりだが
ちっともとまらない
くるぶし手とまるはずが
とまらない
深い井戸に落としたみたいに
どこまでも落下していく

 だんだん、取りかえしがつかなくなる。ソックスの世界に引き込まれていく。この感じが、とてもスムーズ(? スムーズと言っては、たぶんいけないんだろうけれど)で、とても不思議である。悪夢とわかっていながら見続ける夢のように、これが夢であると言い聞かせれば言い聞かせるほど、夢は、むくむくと太り続ける。

その子は青い制服を着て白い靴をはいていた
その子は低い声でわらった
しつこくわらう
耳障りなので
両手で耳をふさいだ すると
わらう声は
わたしの内部から聞こえてくるようだった
車内はがらんとして
ごくふつうの日の光に照らされていた

 坂多の書いていることは「白昼夢」なのか。
 たぶん、そう考えると、読んでいてとても落ち着く。「白昼夢」の証拠(?)を「わたしの内部から聞こえてくる」という行に求めれば、とても簡単にこの詩の世界は説明がつく。
 気がつけば(夢から覚めれば)、「車内」は「ごくふつうの日の光に照らされてい」るだけである。「がらん」としている。「座席がほぼ満席だった」というのは勘違いである。
 だが、ほんとうに「夢」であったのなら、そんなものはわざわざ書く必要がない。

 坂多は何が書きたかったのか。

 坂多はルーズソックスをはいた高校生(?)に違和感を感じている。その違和感を感じている視線に高校生も反応する。そして、そこに一種の敵意のようなものがぶつかりあい、それが「悪意」となって、「空気」を歪める。そういう感じをことばに定着させたかったのだと思う。
 問題は、その「空気」の歪みを、どんなふうに説明できるか、ということである。批評は、それを説明できないかぎり批評にはなりえない。そして、私はそれを説明することばを持っていない。

 一方で、私には、坂多の今回の詩のなかのいくつかのことばが、とても生々しく感じられる。そうい強い印象がある。そしてこの印象の強さが、この詩を「いい詩」だと感じさせるのである。--私が生々しく感じることば、そこにたぶん、この詩をきちんと評価するための出発点があるのだろう、という気がする。
 気になることばのひとつが「わらう」である。「笑う」ではなく「わらう」。「低い声でわらった」という行があるが、その「わらう」はとても低い。とても暗い。それは「肉体」のなかでの「声」である。外には出てこない。「空気」にまで、ならない。「空気」にならないことによって、より深い「空気」に鳴る。「肉体」のなかにある「空気」に。胸の中にある「空気」に。あるいは血液中の酸素も、その「空気」かもしれない。「肉体」にあたためられて、「肉体」の内部で動いている「空気」なのかもしれない。

 「耳をふさいだ」と坂多は「ふさぐ」も「わらう」と同じように「ひらがな」で書いている。この「ひらがな」になにか秘密がある。「さがる」「とまる」「はく」も「ひらがな」である。
 漢字で書くと、それらの動詞はみな「絵」になる。イメージがくっきりと浮かぶ。(私だけの場合かもしれないが。)だが、ひらがなだとイメージではなく「運動」になる。動いている、その動き。動きがかかえこむ「時間」というものが浮かび上がってくる。

 この作品には、動きと時間が書かれている。そしてそれは、「絵」になるのではなく、「絵」になる前のもの、あるいは「絵」を拒絶したものになる。
 この作品は、どの行をとってみても、一瞬「絵」そのものである。きちんとしたイメージが浮かぶ。ところが、そのイメージははっきりと浮かび上がりながら、浮かびあがり続けていることを拒絶する。動いていってしまう。動いているという印象がそのつど強くなる。けっして、その全体像を、全体像として留めていてくれない。
 そのかわりに、不定形の(うごめいている)肉体が感じられる。動きつづいている、という感じがする。この動くは 100メートル競走のようにすばやく動く動きではなく、椅子に座って少し姿勢を変えるような、自分のなかだけで感じるような動きである。

 「悪意」というものがあるとしたら、たしかに、そんなふうに動き続け、うまくとらえることのできない何かかもしれない。--と書いてきてわかるのは、私は、詩についてよりも、「悪意」というものについて書こうとしている。詩から逸脱しはじめている、ということである。詩から逸脱させる力が、坂多のこの詩にはあるということかもしれない。詩を忘れ、詩から逸脱していくことを勧める詩。
 矛盾している。
 そして、その矛盾の中に、たぶん私の一番好きなものがある。詩を読む理由がある。でも、それを書き表すことばを私はまだ持っていいない。

 (書きはじめてみたが、やはり書きとすことができない。どう書いていいか私にはよくわからない。このまま「中断」しておく。いつか、この文章を整理し直すことができるかもしれない。永遠にその時間はやってこないかもしれないが。)


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マイク・ニコルズ監督「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」

2008-05-20 09:20:31 | 映画
監督 マイク・ニコルズ 出演 トム・ハンクス、ジュリア・ロバーツ、フィリップ・シーモア・ホフマン

 ひとりでソ連のアフガン侵攻を防いだアメリカの下院議員の実話--という触れ込みである。予告編はコメディータッチであった。アフガン侵攻と、その攻防をどんなふうにコメディーにするのか、マイク・ニコルズの手腕を見たくて、とても期待した。トム・ハンクス、フィリップ・シーモア・ホフマンにも期待した。
 だが、期待外れであった。
 アメリカの国際戦略がいかにいいかげんであるか、という部分はコメディーにまだなりうる。実際、チャーリー・ウィルソンが他の国会議員を抱き込んでいく様子は、笑いの中に現実のうさんくささをぷんぷんさせて、なかなかおもしろい。
 だが、ソ連のアフガン侵攻が引き起こした問題はコメディーではあり得ない。それを解決するためにチャーリー・ウィルソンがとった方法はコメディーではあり得ない。
 アメリカがアフガンへ大量の武器を提供した。周囲の国も同じである。この映画には武器の提供しか描かれていないが、武器が提供されるとき、武器の製造が必要である。影で軍需産業がうるおっている。そういうことも、この映画では描かれていない。そして、そのてとき提供した武器が、テロを産む温床になった。これが現実の現在の世界の姿なのに、そのことがアフガンに学校を造らなかった、というエピソードに置き換えられている。チャーリー・ウィルソンはソ連を撤退させたあとのアフガンのことも考えていたが、他の議員が考えなかったために、うまくいかなかった、という調子に歪められている。チャーリー・ウィルソンのアフガンに学校をという提案が受け入れられていれば、世界はちがっていた、という具合に歴史が歪められている。
 この映画では、チャーリー・ウィルソンはあくまで善意のひとである、と強調されている。アフガン問題に真剣になったのは難民キャンプを視察し、難民の悲惨な生活を目の当たりにしたことがきっかけである。弱者に対するやさしい視点をチャーリー・ウィルソンは持っていた。映画の最後に描かれる学校建設の提案がそのことを雄弁に語っている--とこの映画は締めくくるのだけれど。
 違うだろう、そうじゃないだろう、と叫びたくなるような、なんとも「胸くその悪い」映画である。
 トム・ハンクスは、この「善意」の国会議員を、純真なこころを強調するように演技している。しかし、「善意」の人間であるはずのない人間の「善意」を強調しても、その人が「善意」のひとにかわるわけではない。最後にトム・ハンクスは非常に苦い表情を見せる。それはチャーリー・ウィルソンの苦渋をあらわしているのだけれど、そんな「表情」ですませられる問題ではないだろう。これはトム・ハンクスの映画人生のなかでの「汚点」というべき作品である。
 私はトム・ハンクスのファンではないのだけれど、思わず、あ、失敗したな、トム・ハンクスは失敗してしまったな、と思ってしまった。そういう意味では、最後の表情は、チャーリー・ウィルソンの顔ではなく、トム・ハンクス自身の顔になってしまっている。



 マイク・ニコルズは「卒業」で自分が何者であるかわからない青年をていねいに描いた。(前半がとてもすばらしい。)「善意」に考えれば、この映画でマイク・ニコルズは自分が何者であるかわからない国会議員の内面の動きを描き出そうとしたのかもしれない。確かにそう思って思い返せばそれなりに見ることのできる映画である。
 しかし、私は、どうしても 9・11を思い出してしまう。テロを思い出してしまう。
 アメリカの国際戦略は武力による解決ではなく、学校を建設するなどの地道な支援に変更すべきである--という主張がこの映画にはある、と言おうとすれば言えるけれど、これはあまりにも唐突である。唐突である、というのは、ようするに付け焼い刃、ごまかしである。こんなごまかしで、映画を締めくくってほしくない。

 この映画は見てはいけません。少し早いけれど2008年のワースト1はこの映画です。「醜悪」ということばは、このような映画のためにある。





マイク・ニコルズを見るなら、やっぱり、これ。

卒業 デジタルニューマスター版

東北新社

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村永美和子『半なまの顔』

2008-05-20 08:30:48 | 詩集
 村永美和子『半なまの顔』(ジャプラン「かごしま文庫」、2008年03月20日発行)
 「周期-ショベル・カーが」の後半がおもしろかった。

ある日 ショベル・カーが
響きと組んで地団駄 開始
崖も墓も木々も根こそぎ 掘り起こし
だんだらの段差つきで あらわれたのは
身ぐるみ剥がされの
太陽

橋の下で寝る年寄りは 横目をつかう
太陽の煮ころがし--
焼けたフライパンのにおい
この刻 おれの腹がすく

 地上の余分なもの(?)が取り除かれる。その瞬間、視線が、地上ではなく、反対側の空に向かう。空が地上までおりてきた感じ。それが「身ぐるみ剥がされの/太陽」。太陽はもともと何も着ていないのだけれど、地上にむき出しになった感じを「身ぐるみ剥がされ」と、肉体にぐいと近づける感じがおもしろい。
 肉体に近づくからこそ「太陽の煮ころがし」「おれの腹がすく」が真実になる。その途中の「焼けたフライパンのにおい」の嗅覚の統合も、世界を豊かにしている。

 ただし、この詩は詩集のなかでは異質で、この作品が村永の本質かどうかというと、私にはちょっとわからない。保留、という感じだ。



詩人藤田文江―支え合った同時代の詩人たち
村永 美和子
本多企画

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 広岡曜子「春の嵐」

2008-05-19 10:40:40 | 詩(雑誌・同人誌)
 広岡曜子「春の嵐」(「ことのは」2、2008年04月25日発行)
 広岡のことばは繰り返す。反復する。ことばは現実を反復するもの--といってしまえばそれまでだけれど、現実をことばで反復し、そのことばをもう一度反復する。そうすることで、無意識で向き合っていた現実・現実と向き合っている無意識--その奥の方へ静かに身を沈めていく。その静けさが、あ、これは反復することで、繰り返し同じものをみつめることでつかみ取った何かなのだという印象を確かなものにする。
 「春の嵐」の全行。

いやなことがあると
私は猫に逢う
いきなり背中から猫を抱きしめる

猫の
ふわりとまるい背中に顔をうずめて
いっしょに
ゆっくり ゆっくり
息をする

気まぐれな桜が一枚
灰色の屋根に舞い落ちる
猫といっしょに
その不思議なものをみつめる

風の流れる方向に
ふたりして首をかたむけ

そうして
いつしか私も
まるい背中になって
「居る」ということそのものになって
猫の喉の奥のほうで鳴り響く
安らぎに
身をまかせていく

 2連目の「ゆっくり ゆっくり」の繰り返し。何でもないことばのようであるけれど、これが「ゆっくり」と一回だけだったら、広岡のことばは動いて行かない。くりかえすことで、ゆっくりを確認する。そうすると「いっしょに」がとけあう。一体になる。一体にはならない別の存在、舞い散る桜の一枚が、「私」と「猫」の一体感をさらに強くする。だからこそ、3連目で「猫といっしょに」と「いっしょに」がもう一度反復される。反復することで、しっかりと現実のなかにある「一体感」を確認する。その結果、

風の流れる方向に
ふたりして首をかたむけ

 「私」と「猫」とで「ふたり」。国語の教科書からは逸脱した数の数え方(単位の取り方)にたどりつく。こういう乱れがあって、はじめて、

「居る」ということそのものになって

 という「哲学」のようなことばが生まれる。「哲学」というのは、乱れである。それまでのことばがうまく語れないこと、それを何とか別のことばで言い換えようとして乱れてしまうことば。乱れることで、いま、ここ、ではない深みへ(あるいは高みへ、さらには広がりへといってもいいけれど)、動いて行くことである。
 こういう動きへたどりつくために、広岡がとる方法が「繰り返し」「反復」である。

 「桜」にもおなじような繰り返しがある。

黒光りする古い虫籠窓のその奥で
とんとん……
と、狭い箱段をあがっていく若き日の母の白い足首

(略)

とんとん とんとん、と
何本もの傷ついた 旧い町家の暗く急な階段をあがって

 「とんとん」が繰り返される。そのとき広岡の感覚は「耳」だけではない。視覚は、実際には見ていないけれど「白い足首」を見ている。かつて見たものを思い出し、そのいま、実際にはみていないものが、「音」といっしょに動いている。この聴覚と視覚の融合は、さらに「母」の、そして「女」の時間へと重なって行く。京都の町の女たちの生き方、暮らしへと重なって行く。(詩には書かれているけれど、長くなるのでここでは省略)
 広岡にとって繰り返すこと、反復することは、いま、ここを超えて、いま・ここにはない真実(ここにはないけれど、ここの「奥」には常に生きている真実--哲学)を抱きしめている。





落葉の杖
広岡 曜子
詩学社

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金井雄二「奏楽堂」

2008-05-18 08:10:49 | 詩(雑誌・同人誌)
 金井雄二「奏楽堂」(「独合点」93、2008年05月05日発行)
 「奏楽堂」には独特の呼吸がある。その書き出し。

ふたつに折りたたまれていて
腰かけるには
座る部分を
手でおろさなければならない、の

 読点「、」があって、「の」。ここには金井だけかいるのではなく、もうひとりがいることがわかる。その相手に向かって、金井が説明している。そういう感じを、相手を出さずに描写している。呼吸で、二人の関係を説明している。「奏楽堂」へ金井は何回か来ている。しかし、相手ははじめててである。そういう関係も「、の」という、口語の呼吸だけで浮かび上がらせている。
 この「、の」はさらにつづく。
 そして、その過程で少しずつかわってゆく。

かすかにギィーッという
扉をあけるような音がする
たたまれていた口を
自分の手でひらく、の
ばね仕掛けになっているから
元にもどろうとするところを
手は
やさしくその反発力を
少しのあいだだけ
大事にうけとめておいて
ススッと自分のお尻をのせる、の

 金井ではない相手の人に静かに説明をする--そういうスタイルのことばだけれど、その1行1行のなかの「動詞」のやわらかさが、肉体の動きが金井自身の内部で動いているように感じられる。説明と言うより、自分で自分の記憶を静かに復習している感じがするのである。
 「、」のは、そういう自分自身の感覚を浮き彫りにしたあと、さらに変質する。大きく変わる。
 起承転結という形式がある。最初の4行が「起」ならば、いま引用した12行は「承」である。そして、「転」は部分。

ぼくはそうやって
小さな座席にすわり
音のしないコンサート・ホールに
腰かけてじっとしている
でも一度だけぼくの真横で
かすかにギィーッという
扉をあけるような音を
君がさせた、の

 これは、相手に椅子の取り扱い方を説明するときの「、の」の呼吸ではない。そうではなくて、自分自身に言い聞かせる呼吸である。思い出しているのだ。金井は、かつて誰かときたコンサートホールでのできごとを思い出しているのである。思い出して、自分自身の肉体に、その記憶を語りかけている。
 そして「結」。

人がいないコンサート・ホールに
腰かけてじっとしている
こんな静かなコンサートを
ぼく
聞いたことがない、よ

 「、の」は「、よ」にかわっている。もう、誰にも話しかけてはいない。相手に話しかけていない。自分自身に話しかけている。ここにいない相手に話しかけている。

 この詩は、ふたりでコンサートホールにきて、だまって座っているという詩にも読むことができるが、私は、そうではなく、金井がひとりでコンサートホールにやってきて、昔の記憶を追体験しているという風に感じた。
 そして、そうやって読んでみると、最初の方(起・承)の「、の」は、金井の呼吸とういよりは相手の呼吸のようにも感じられる。誰かが金井に説明してくれた。「、の」というリズムで。そして、その呼吸を、つまり相手の肉体のありようそのものを思い出しているとき、相手の肉体のもうひとつの動き、「かすかにギィーッという/扉をあけるような音を/君がさせた」を思い出したのだ。「、の」という相手の呼吸そのままに思い出し、その呼吸を金井はここで思い出しているのだ。
 「人がいないコンサート・ホール」。そこには金井と誰か以外はいない、というのではなく、いまは金井しかいないのである。そして「ギィーッ」という音は実際に存在しない。金井の記憶のなかにだけある。
 沈黙のなかで記憶が奏でる音。
 たしかにこれ以上「静かなコンサート」はないだろう。

 金井は、その静かな悲しみのコンサートを「、よ」と愛しい人から受け取った呼吸そのままに、ここにはいない相手に向かって、そっとつぶやいている。
 そんなふうにして読むと、書き出しの「ふたつに折りたたまれていた」の「ふたつ」にも特別な意味が見えてくる。それから展開されるさまざまな行のやわらかな動詞の動きにも愛の動きが見えてくる。

 ひさびさに美しい美しい恋愛の詩を読んだ。




にぎる。
金井 雄二
思潮社

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