詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(132)

2019-04-30 10:00:51 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
132 古代以来ギリシャの

 「アンティオキアが誇るのは、」と書き出され、さまざまなものが語られる。

だが、それらを差し置いてアンティオキアは誇る、
古代以来ギリシャの都市であったことを、
イオを通じてアルゴスに繋がる系譜を、
イナコスの娘の名誉のために
アルゴスの植民者たちによって造られた町であることを。

 「繋がる系譜」は「歴史」である。「時間」である、と言い換えた方がいいだろう。

 池澤は、この事情を簡潔に書いている。

ギリシャはローマのように統一された広大な領土は持たなかったが、地中海の諸地域に植民都市を築いた。シリアのアンティオキアもその一つである。

 ローマ帝国は「領土」(空間)を支配する。一方、ギリシャは「空間」の大きさは気にしない。「時間」が連続していればいい。精神(文化)は「時間」をつないで生きていく。精神が歴史そのものになる。言い換えるなら「歴史」を支配する。
 「領土」は「広がる」が「時間」は「つながる」。「繋がる」という動詞をカヴァフィスが次がんテイクことに注目したい。
 ことばは、その国民の精神の結晶である。カヴァフィスはギリシャ語を書くことで、ギリシャの歴史を書く。精神に新しいいのちを吹き込む。




カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
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山本育夫『ボイスの印象』(2)

2019-04-29 18:40:37 | 詩集
山本育夫『ボイスの印象』(2)(書肆・博物誌、1984年09月10日発行)

 山本育夫『ボイスの印象』の感想のつづき。
 きのうは「初版本」への印象を書きすぎた(かもしれない)。でも、書きたいことを書いてしまわないと、ことばは動いてくれない。
 詩集のタイトルにもなっている「ボイスの印象」を読む。(35年前に読んだときは何を考えたか、ぜんぜん思い出せない。どこかで感想を書いたかもしれないけれど、それも思い出せない。)

くるぶしの所、ここ、ここ、ねっ
声の輪の中で
際立つ
変声があったの
指し示されれば注目をひく
ということになる
むりやりみせつけられてばかり
きたな
印象はあるが前後の膨らみは
脱ぎすてられて
痩せている
たまらない
かさかさした昼飯までつきあう
やたらにカタカナの多い放送が
流れていた
道端の石をどけると
地下水が流れているのがのぞけて
しばらく
A氏とうるおっている
タクシーをとめ
意外な顔を残して
三丁目まで

(坊主頭は苦手だ
(刈りあげもいただけないね

二つ三つ
ボイスの印象がはりあってきて
洋書までは
目を通せない

 「ボイスの印象」。詩集には「Impression Joseph Beuys 」とある。正確には「ジョセフ・ボイスの印象」ということか。私は、このひとのことを知らない。ネットで見れば何か載っているだろうが、そういうものを見たところで(読んだところで)、結局何もわからないだろう。そこには「他人が書いた要約」があるだけで、「要約」を通して、私の感想が動くわけではない。わからないままに、山本が書いていることばを手がかりにボイスについて考える。

くるぶしの所、ここ、ここ、ねっ

 というのは、たぶんボイスの作品を見て、誰かがそう言ったのだ。絵か、写真か、彫刻か。あるいは小説、詩ということも考えられるが、私は彫刻を想像した。
 で、想像すると同時に、「ボイスの印象」というのは、もしかするとボイスの作品に対する印象ではなく、それについて語った「声(ボイス)」に対する印象かもしれないとも思った。
 一行目に続いて、二行目の頭に「声」が出てくる。さらにその声は「変声」と言いなおされている。何かを主張したいとき、声のトーンが変わる。その変化にうながされて、山本は彫刻の「くるぶし」、「指し示された」ところを見たのだろう。
 指し示されて、ふと「むりやりみせつけられてきたな」(指し示されたものを見るように強制されてきたな)と「過去」を思い出している。
 人の意見(声)を聞くと、何事かを知らされる。刺激を受けて自分の「印象」が変わったりする。ある時は「膨らみ」、ある時は「痩せる」。それは自分の意見か、それとも「作品の見え方」か。まあ、考えてもしようがない。
 いっしょに作品を見ている人と(何人いるかわからないが)、昼食へ行く。そのレストラン(?)では「カタカナの多い放送」が流れていた。内容ではなく、「カタカナ」だったことを覚えている。これは、私が山本の「初版本」を「ザラ紙」と「活版活字」と記憶しているようなもので、どうでもいいことだが、そのどうでもいいことの方がたぶん重要なのだ。
 それからどういうわけか道端の石をどけて、地下水を見る。ほんとうかな? 用水路でも見たのを、言い換えたのかもしれない。水を見て、ちょっと気分が変わる。「昼飯」は「かさかさ」していた。水を見て「うるおった」。気分の変化だ。
 それからタクシーに乗った。ひとりで? それともA氏と? まあ、どうでもいい。「三丁目まで」は運転手に対する指示だな。
 タクシーの中で、ふたりは会話したか。あるいは、山本がひとりで思ったことか。「坊主頭」というのはボイスの頭のことか。それとも「くるぶし」を指し示したひとか。あるいはA氏か。
 これもどうでもいいことだが、そういうどうでもいいことが、大事なことのようにして「ボイスの印象」に紛れ込む。自分の印象と他人の語った印象。いろいろな印象が「張り合う」ように動き始める。ほかのひとの「印象(意見)」はどういうものか。「洋書」まで調べてみる気にはならない。
 という具合に読み進むと、この詩の中に「ストーリー」ができる。「時間」が動く。
 でもね。
 詩は、そういう「ストーリー」(意味)とは関係がない。「ストーリー」は、ことばを「意味」として理解するために捏造するものだ。言い換えると、私の書いた「ストーリー」は、ほかの人の手にかかればまったく違うものになる。いや、そんなことを考えるまでもなく、山本が書いたのはまったく別なことであり、私の「解釈」は「誤読」である、というだけで充分である。山本が「そんなことは書いていない」と言えば、それでおしまい。でも、私は気にしない。「意味」というのは、各自のものであって、私がどういう「意味」を読み取るかは、書いた山本とは関係がない。

 あ、書きたいことと、だんだんずれてしまう。

 私が書きたかったのは……。

くるぶしの所、ここ、ここ、ねっ

 この書き出しに、私がひっぱられるということ。何が書いてあるかわからない。わからないけれど「くるぶし」が問題になっていることはわかる。そして「ここ、ここ、ねっ」と指し示されたことがわかる。
 ボイスの作品(ということにしておく)がどういうものかわからないから、その「指し示し」(指摘)が正しいかどうかはわからないが、あるひとが、そこを指し示したということがわかる。それだけではなく、それを指し示したのは、そのひとにとって、その部分が指し示すに値するものだったということがわかる。こういう「印象」は、また「初版本」に戻ってしまうが、「ザラ紙」と「活版活字」のようなものである。強烈な力で、「もの」の過去をひっぱってくる。「ここ、ここ、ねっ」と言うとき、そのひとは、くるぶしだけを見ているのではない。そのひとの見てきたいくつもの「くるぶし」があって、それがいま目の前にある「くるぶし」をまったく別なものにしている。
 「くるぶし」の「ここ」には、ボイスのつくったくるぶし以外のものが「過去」として噴出してきていて、それがボイスのくるぶしを支えている。というのは事実かどうかはわからないが、指し示したひとには、そう見えていたのだと思う。
 同時に山本が見た「くるぶし」の記憶を揺さぶる。揺さぶられてさらに目の前にある「くるぶし」が変わってしまう。
 「ことば」は「いま」そこにあるのだが、「ことば」はそのまま「時間」そのものであり、「いま」なのに「過去」を含む。そして、「過去」を含むだけではなく「未来」をも含む。つまり、「いま」発せられたことばが、必然的に「未来」へと「印象」を動かしていく。あ、これは言い方を間違えた。「いま」発せられたことばに刺戟を受けて、「印象」が変化してしまう。それは「未来」へ向かっての変化なのか、それとも「過去」が変化したのか。「過去」であったとしても、「変わる」というのは「いま」から先の動きなので「未来」か。
 しかも、ややこしいことに。
 この「過去-いま-未来」というのは、「時間」なのに一直線ではない。
 脇から(無意識の領域)からも、何事かがやってくる。道端の石、みたいに。レストランのカタカナ放送みたいに。それがみんな「いま」をひっかきまわす。
 「ボイスの印象」というものが「中心」にあって、それが「いま」をつくっているのだが、そのまわりのいろいろなものが同時に「過去」をかかえこみ、また「未来」を含んで動いている。
 「いま」ここには「ボイスの作品」と「印象」だけがあるのではなく、同時に存在するすべてが「ボイスの作品」と「印象」に反映している。
 そういう運動が山本の詩の中で起きている。
 「ストーリー」にしてしまうと、「時間」が整理され、「意味」が必然的に生まれてきてしまうが、そういうことは「無意味」。重要なのは「いま」という瞬間が、「過去」であり、同時に「未来」であると実感できる「ことば」の「もの」性のなかにあるということ。

 結論を想定せずに書き始めるし、読み返すのも目が悪いので面倒なので、できない。だから、私の書いていることは「でたらめ」になっているかもしれないが、きょう考えたのは、これ。
 35年前にも評判になったと思うが、いまの方がより伝わるかもしれない。「現代詩」のことばは35年前とはずいぶん変わってきた。山本のことばは「時代」を先取りしすぎていたかもしれない、と思うのだ。





*

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ボイスの印象 (1984年)
山本 育夫
書肆・博物誌
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思想犯

2019-04-29 10:15:27 | 自民党憲法改正草案を読む
思想犯
             自民党憲法改正草案を読む/番外258(情報の読み方)

 「週刊朝日」のネット版「AERAdot.」(https://dot.asahi.com/wa/2019042700025.html?fbclid=IwAR3arjNtTKqQDBIinRx2o4DkXvxoI08rNabFOZoUTBtTthXvvlnyAkfXsU0)(2019.4.27 22:48 )に、こういう見出しの記事があった。

悠仁さまの机に刃物、思想犯を重点捜査 内部事情に詳しい者の犯行か?

 「思想犯」ということばにびっくりした。
 4 月26日悠仁が通う中学校に不審者が侵入し、悠仁の机の上に包丁が置いてあった。その事件の続報である。
 本文に、こういうくだりの文章がある。

犯人のねらいは何なのか。警視庁捜査関係者が言う。
「平成から令和へ、改元直前の犯行ということで、ほぼ間違いなく、思想犯。包丁を置くという行為が、秋篠宮殿下に対する脅しのメッセージだろう」

 私はむしろ「平成から令和へ、改元直前」に「思想犯」ということばがつかわれたことに、事件以上の重大性を感じる。
 「思想犯」とは何を指すのか。
 「思想」がなぜ「犯罪(犯行)」なのか。
 ここには「思想」を取り締まろうとする「意図」が見える。「警視庁捜査関係者」は「思想」を取り締まり始めたのである。

 思い出すのは、いまの天皇が1975年に沖縄を訪問したときの事件だ。いまの天皇と皇后に向かって、ひめゆりの壕から火炎瓶が投げつけられた。投げつけたのは、いわゆる「過激派」である。このとき、彼らのことを「思想犯」とは呼んでいなかった、と思う。
 正確な記憶ではないが、「思想犯」ということばを新聞では見かけなかった。
 目の前にいる天皇(当時は皇太子)に向かって火炎瓶を投げつけるのと、誰もいない机の上に包丁を置くのでは、どちらが危険化。どちらが重い犯罪か。火炎瓶を投げつける方だろう。それでも、その犯行者を「思想犯」とは呼ばなかった。

 なぜ、いま「思想犯」なのか。

 国民の「思想」を取り締まる、いや「思想」を基準に国民を取り締まるということが、安倍の狙っている憲法改正を先取りする形で進んでいるのだ。
 記事には、こういう文章もある。

「思想犯でも右か左か、絞り込めていない。防犯カメラの映像と似た風貌の過去の思想犯をデータベースからリストアップしている。」

警視庁では防犯カメラの解析による男の割り出しと、思想犯のチェックとの両面から捜査を行っている。

 捜査当局は「思想犯」という「項目」をすでに持っている。どういう「思想」が「犯罪」なのか、それを規定した「法律」は何なのか。国民には知らせず、警察は特定の始祖を「犯罪」であると認定しているということだ。
 
 「平成から令和へ、改元直前」。国民の関心が「皇室」に向けられている。「天皇の強制生前退位」は「おめでたい」かどうかわからないが、「新天皇の即位」は多くの国民にとっては「おめでたい」ことなのだろう。少なくとも「新天皇の即位に反対」という表立った声は聞かない。「慶事を狙っての犯行は許せない」という声は、多くの国民に受け入れやすいものである。
 こういう「浮かれた」状態のときに、「思想犯」を復活させれば、「思想犯」ということば、すーっと受け入れられてしまうだろう。
 どちらかといえば「安倍批判」と受け止められている朝日新聞の、その傘下の「週刊朝日」の記事に「思想犯」ということばが、捜査関係者の声とはいえ、そのまま掲載されていることが、それを証明している。
 たとえ捜査関係者がそう言ったのだとしても、ふつうなら、それに対する「批判」のようなものが同時に書かれるはずだが、私の読んだ限り、「思想犯」という発言に対する批判は書かれていない。
 安倍の「洗脳作戦」に、朝日新聞(週刊朝日)の記者さえも、完全に犯されてしまっているということだ。記者は少なくとも「思想犯」の定義を聞き出すべきだし、どんな具合に「思想犯」が認定されているのか記事にしないといけない。それを怠っているのは、洗脳されているとしかいいようがない。

 犯行の現場が「学校」であること、「思想犯」ということばがつかわれてたことから、私は別なことも考えた。
 安倍は「教育の無償化」を憲法改正の一項目に掲げているが、そのとき「無償化」の対象となるのは、どういう教育か。
 何度も何度も書いてきたが、安倍批判(権力批判)をする「学問」(教育)も「無償化」の対象となるか。
 きっとならない。
 安倍批判をすれば、それだけで「思想犯」と認定され、取り締まられる。すぐには逮捕されないかもしれないが、監視が強化されるだろう。国民の自由が侵害される。
 安倍を肯定する「教育」だけが推進される。つまり「洗脳教育」が大手を振るって行われることになる。
 憲法に保障された「思想の自由」は完全になくなる。
 「思想の自由」を奪うために、今回の事件が利用されようとしている。

 あるいは、今回の事件は、「思想の自由」を奪うため、「思想犯」というものを復活させるために、安倍一派が仕組んだものであるとさえ考えてみる必要がある。だいたい、ある時間帯に教室に誰もいない(包丁を置ける)ということを部外者が知ることはむずかしい。誰が、どうやって情報を流したのか。よほどの「組織」がなければ、こういうことはできない。
 ただ一方的に情報を提供するだけではなく、その日、ほんとうに予定通りに授業が進んでいるのか、など、綿密な情報が必要になる。
 「天皇の強制生前退位」スクープ報道のように、「裏」の動きの方が重要だ。

 私は「天皇の強制生前退位」報道以来、安倍の狙いは悠仁を天皇にすること、悠仁天皇を誕生させた権力者として力を振るい続けること(独裁をつづけること)にあると見ている。
 すでに捜査当局は、安倍にこびへつらって「思想犯」ということばを先取りしてつかっている。「思想犯」ということばをつかうことが、その関係者を「出世」させることになるからだ。取り締まらなければならないのは、まず思想だ、ということを明確にした「立役者」である。
 容疑者が判明し、逮捕されれば「思想犯」ということばは、もっと大手を振るってマスコミに登場するだろう。
 どのマスコミが、「思想犯」ということばに対し最初に異議をとなえるか、そういうことも注目してみないといけない。

 それにしても。
 「思想犯でも右か左か、絞り込めていない。防犯カメラの映像と似た風貌の過去の思想犯をデータベースからリストアップしている。」というのは、恐ろしいことばである。「思想犯」が「データベース化」されていることを捜査関係者は公言している。
 この記事を読んでいる、あなた。あなたも「思想犯」のデータベースに入ることになるかもしれない。誰がいつ、どんな記事を読んだか、「いいね」ボタンを押したか、あるいは反論したか。そういうことは調べてデータベース化することなど、とても簡単なはずだ。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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池澤夏樹のカヴァフィス(131)

2019-04-29 08:51:06 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
131 二人の若い男、二十三ないし二十四歳

 この詩にも「常套句」がすばやく動いている。夜、カフェで男が男を待っている。なかなかやってこない。

機械的に新聞を読むのにも
厭きはてた。三シリングという淋しい持金が
残りは一シリングだけ、長く待つために
コーヒーやコニャックに費やしたのだ。
煙草も全部喫ってしまった。

 「常套句」というより「常套行動」というべきか。待ちくたびれた、けれど待つしかない。そういうとき相手が誰であれ、同じようなことをしながら待つだろう。その行動(詩に書かれた肉体)に読者の肉体が重なる。重なりの中に、誰もが知っている「時間」が噴出してくる。
 自分のしていることがいやになった瞬間、待ち人が来る。しかも「賭博」で稼いだ大金(六十ポンド)を持って。大金は二人を(待っていた男を)よみがえらせる。二人は、

悪の館へ行った。寝室を一つ借り
高価な飲物を買って飲んだ。

朝の四時に近い頃、その
高価な飲物を空にして、二人は
幸福な愛に身をまかせた。

 「悪の館」「高価な飲物」「幸福な愛」。何一つ「具体的」には書かれていない。「抽象的」だ。しかし、その「抽象」には「世間」が知っている「具体」がつまっている。読者がそれぞれの体験を、その「抽象」に投げ込むようにしてことばを読む。あるいは、ことばが読者の体験した「具体」を詩の中に引き込んでしまう。
 「具体的」に描写されていたなら、読者は、この「体験」は自分のものではない、と冷めた感じで読んでしまう。「抽象」だからこそ、逆に「具体的」になる。それが「常套句」の力だ。

 池澤は「六十ポンドは百二十万円である」と教えてくれている。


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山本育夫『ボイスの印象』

2019-04-28 19:13:16 | 詩集
山本育夫『ボイスの印象』(書肆・博物誌、1984年09月10日発行)

 山本育夫『ボイスの印象』が復刻された。奥付は初版のときのままなので、それをそのまま記しておく。30年以上前、正確に言えば35年前に発行されている。そのときの本は私の手元には残っていないが、印象は残っている。そして、再度読み直したときの今よりも、やはり最初の印象の方が強い。「いま」を突き破って、「過去」が噴出してくる。
 復刻本は、初版を写真製版したものである。そのため、つるりとした仕上がりになっていて、それがどうも私には気に食わない。
 初版は、薄茶色の「ザラ紙」に活版活字で印刷されていた。(写植ではなく、活版活字だったと思う。)その「手触り」が「美術品」のように「肉体」に迫ってきた。「ことば」よりも、「もの」の印象が強かった。「もの」と戦って、立ち上がってくることばというものを感じた。ことばまでが「もの」になろうとしていた。それが、初版本で読んだときの印象である。
 で、正直に言えば、実はそれしか覚えていない。
 読み返すと、いくつかの詩篇はたしかに読んだかもしれないという記憶があるが、ことばよりも、やはり「もの」だったのだと思う。

 で。

 再び読んでみて、「もの」の印象が初版本より薄れたために、「ことば」が見えてきた、という部分がある。そのことから書いてみる。
 巻頭の「水の周辺」。

坂から泳ぎ着く、水着の、ぐしょぐしょ
濡れそぼった不安、いや
とうにゆき過ぎている、昼の船着場に、
鳥肌も立つ、
思わず驚いてしまう、
すれ違ったそれと、
いきなりきしりたってしまう、誰もが
言わなかったことだ、訳せば
「感情の、忘失。」という巨大な看板の
横文字が剥げかかっている、

 まだまだつづくのだが、とりあえず10行引用した。
 何が書いてあるか。わかったようで、わからない。それでいいと思う。「ことば」ではなく「もの」なのだから。つまり、ここに書かれている「ことば」は「意味」を前面に出しているというよりも「意味」を隠している。しかし、「もの」の「意味」というのは隠しても隠しても見えてしまうものである。
 たとえば「水着」。それが「濡れ」ているなら、水着を着ている人は泳いでいたのだろう。「坂から泳ぎ着く」と、普通は言わない。だから「水着」がいっそう「もの」に見えてしまう。ほんとうは「泳いだ」を隠している。さらには「裸」を隠している。「ぐしょぐょし」とか「濡れそぼった」は「水着」であるけれど、同時に「水着」が隠している「裸」のことかもしれない。
 もちろん、そんなことは山本は書いていない。
 書いていないが、その「隠している過去」が噴出してくる。「もの」としての「ことば」の奥から。そのとき、私が「隠している過去」と書いたものは、山本が隠しているのか、「水着」が隠しているか、それともその「ことば」を読んだ私が隠していたものか。これを区別し、識別するのは、かなりむずかしい。「もの」とはそういう「過去」を勝手に存在させてしまうものだからだ。
 この詩を離れて、身近な「もの」その「もの」について考えてみれば、わかる。「コップ」がある。ガラス製である。水を入れて飲むことができる、とわかるのは、私がコップをつかったことがあるからである。そして、ただ水を飲むだけではなく、このコップいいなあ、と思ったり、このコップ嫌だなあ、と思ったりする。縁が汚れていれば、誰かが飲んだ後だ、洗ってない、と思ったりする。クリスタルでできていれば、これは高いぞと思ったりする。過去にそういうものを見た、そして高いと思ったというようなことが、瞬間的に「目の前」にあらわれてくる。目の前にある「コップ」だけではなく、私の「過去」にある「コップ」が、「過去」そのものとして、目の前にあらわれてくる。
 こういう「もの」の作用、「もの」の存在の仕方を、私は拒絶することができない。どうしても「もの」に引きずられてしまう。
 で、詩に戻る。
 同じことが起きるのだ。
 ひとつひとつの「ことば」が「もの」となってあらわれ、「過去」を目の前に、いまあるものとしてひっぱりだす。
 山本の「ことば」は、わかるようでわからないのは、そこに「学校文法の脈略」がないからだ。「主語」「述語」「目的語」さらには「修飾語」の関係が整然としていない。どのことばとどのことばをどうつないでいけばいいのか、どのことばを基本にして「文章」にすれば「時間」が「物語」として動くのか、その「脈絡」がわからない。けれど、ことばのひとつひとつは、たしかにそこにある。「もの」としてある。そして、そのひとつひとつが「過去」を持っている。

「感情の、忘失。」

 このカギ括弧の中に入ったことばは、「ことば」なのに「もの」であることを、いっそう強調している。山本のことばではないかもしれない。「看板」とあるが、どこかですでに存在していた。それを読んだ。その「読んだ」という「過去」、それが噴出してきている。
 「水着の、ぐしょぐしょ」、隠している「裸」(繰り返すが、書いていない)は、「忘失」したものなのか、もしそうだとして「忘失」したのは「裸」なのか、「感情」なのか。
 そういうことも思うのである。

 唐突に書いてしまえば、こういう「分断された過去」を、それが噴出してくるままに定着させるのが詩の力だろう。
 「整理」すれば、「物語」としてわかりやすくなる。しかし、散文ではないのだから、論理的秩序(整理された秩序)はいらない。「結論」というのは、いずれにしろまやかしである。いつでも否定され、乗り越えられるためにある。そういうものから逸脱する、あるいはそういう「整理(秩序)」を破壊し、未分化の渾沌に引き返し、瞬間瞬間の「分節」の輝きに「何かを見た」と思えばそれでいいのだろう。
 「意味」は、それぞれが勝手につくればいい。人間はどんなときも自分の「意味」しか生きることができない。山本の書きたいことなど無視してもかまわない。

 と、書いて思うのは、やはり初版本の「ザラ紙」である。読みにくい本の手触りである。あの本をつくったとき、山本は「他人の意味」など無視していたと思う。自分で書いたことばなのだから、「意味」はわかる。ことばを読まなくても「意味」は存在している。その存在しているという事実があるから、あとは関係がない。他人が読みにくかろうとどうだろうと、知ったことではない。
 その「わがまま」のなかに、山本のほんとうの「過去(時間)」があったのではないか、と復刻本を読みながら思う。この詩集が「わるい」というのではないが、初版本は嫉妬せずにはいられない「存在感」をもった、とてもいい詩集だった。そこには何か「絶対的」なものがあった。

(注)
アマゾンには「初版本」があるみたいだ。
下のリンク参照。

ボイスの印象 (1984年)
山本 育夫
書肆・博物誌


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池澤夏樹のカヴァフィス(130)

2019-04-28 08:21:33 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
                         2019年04月28日(日曜日)
130 一八九六年の日々

 「彼の名誉はすっかり地に落ちた。」と始まる。「性的な傾向がその理由だった。」と説明した後、

世間というものはまこと了見が狭い。
やがて彼は持っていた僅かな金を失い、
社会的な地位を失い、評判を落とした。
三十歳近いというのに一年と続いた職がなかった。
少なくともまっとうな職はなかったのだ。
時には恥知らずと見なされるような取引の
仲立ちで稼いでその場その場を凌いだ。
一緒にいるところを何度か見られたら
その相手も悪評を被るような、そんな男になった。

 この素早い描写がとてもいい。ことばのスピードに詩がある。
 特に「少なくともまっとうな職はなかったのだ。」と書いた後、それを「時には恥知らずと見なされるような取引の/仲立ちで稼いでその場その場を凌いだ。」と言いなおす、その反復の切り詰めたスピードがいい。
 散文(小説)だと、実際に「仲立ち」のシーン、金のやりとり、あるいは「商談」が描かれる。当然、そこには「彼」以外の人間が出てきて、動く。他人の動きとの対比の中で「彼」の姿が鮮明になる。
 詩は、そういう余分を必要としない。むだを省いて「音」を響かせる。
 この一連目を受けて、二連目は「しかし話をここで終えてはならない。それは不公平だ。」という行から、「彼」の「美しさ」が語られる。
 このこと対して、池澤は、

 ものごとの評価の二面性を前半と後半で鮮やかに対比させる作品である。

 と書いている。
 たしかに対比させているが、後半は他のカヴァフィスの作品と似通っている。
 おもしろいのは、やはり前半だ。先に描写のスピードについて書いたが、このスピードは「世間(の了見)」のスピードである。言い換えると「紋切り型」、さらに言い換えると「常套句」。カヴァフィスは、ほんとうに「常套句」に精通している。シェークスピアだ。「常套句」というのは、世間の中を何度も何度も通り抜け完成されたもの。だから、そこには世間が凝縮している。「恥知らず」というひとことで、それがどんなものか、世間の読者は一読して「具体的」に納得する。どんなに「抽象的」に書いても、「具体的」になってしまうのが「常套句」の力だ。



カヴァフィス全詩
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池澤夏樹のカヴァフィス(129)

2019-04-27 10:46:26 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
129 アンナ・ダラシニ

アレクシス・コムネノスは
母の名誉を讃えるべく出した勅令の中に
(その人こそ職務に於いても礼節においても
特筆に値する際だった知性の持ち主)
多くの修辞を並べた。
ここではその一つだけをお目にかけよう、
美しくもまた高潔な一つを--
「『私の』とか『あなたの』という冷たい言葉を決して使われなかった。」

 全行である。最終行「私の」「あなたの」は「冷たい言葉」なのか。「私の本」「あなたの目」は冷たい言葉か。
 前に書かれていることばと関連づけながら、「意味」を特定しないといけない。
 「職務」が重要だ。「職務」を「私物化しなかった」ということだろう。「職務」に「これは私のもの」「これはあなたのもの」という基準を持ち込まなかっただけではない。「自他」を区別しないというだけではない。「これは私のもの」「これはあなたのもの」を否定するのだ。すべては「国民のもの」。
 この「国民のもの」という基準をしっかりと持ち、守り通せるのが「知性」ということになる。「国民のもの」という基準しか持たないことが、国事において「高潔」であり、「美しい」と呼ばれるゆえんなのだ。

 この文章を書きながら、私はもちろん、いまの日本の首相、安倍を思い描いている。安倍には「国民のもの」という基準がない。すべては「私のもの」という認識である。すべては「私のもの」だから、利用できるときは利用し、邪魔になったらさっさと捨てる。天皇をも政治に利用している。

 池澤は、こう書いている。

 一〇八一年、東ローマ皇帝アレクシス・コムネノスは出陣に際して、後に残すすべての国事を母であるアンナ・ダラシニに託した。それを着実に果たしたのが讃辞の理由であり、「職務に於いても」の理由である。

 「も」をどう読むかはむずかしいが、私は「追加」ではなく「強調」と読みたい。
 カヴァフィスが、「多くの讃辞」のなかから、この「一つ(一行)」を取り出していることに、「あたたかな知性」を感じる。





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池澤夏樹のカヴァフィス(128)

2019-04-26 10:45:18 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
128 ユリアヌスとアンティオキアの民

美しい暮しぶり、日々の多種多様な
悦楽、肉体へのエロティックな傾倒と芸術との
究極の結びつきの場であるあのまばゆい劇場、
などなどをどうして彼らは
放棄することができたのだ?

 池澤の註釈。

この詩でユリアヌスは快楽主義者だったアンティオキア人がなぜ禁欲主義になったか問うている。

 「意味」はそうだろうが、詩は「意味」とは別なところにある。
 この一連目、「などなど」と書いてあるが、「などなど」がそれではなにかとなると、わからない。「劇場」(演劇/芝居)のことしか書いていない。
 「演劇」とは究極の芸術である。「肉体」がいちばんエロティックに輝く瞬間を取り出して見せるのが「演劇」ということなのだろう。「美しい暮し」も「日々の多種多様な/悦楽」も、「肉体」を修飾することばである。
 カヴァフィスは「芝居」は書いていないようだが、やっぱりギリシャのシェークスピアなのだ。「詩」を「演劇」と見ている。「肉体」を見せる。それから「肉体」にことばをぶつけ、動かして見せる。「肉体」が動くのか、ことばが動くのか、区別はできない。
 詩の最後、

彼らは間違いなくCを選び
間違いなくKを、百回でも、選んだだろう。

 Cはキリスト、Kはコンスタンティウスの頭文字。ユリアヌスは嫌われていた、と書いているのだが、どうにも不思議。
 池澤の「意味」を借りて言えば、ユリアヌスがアンティオキアの住民に嫌われていたということを詩にする理由はどこにあるか。
 むしろ、ユリアヌスを生き生きと描きたくて、わざとユリアヌスを批判しているアンティオキアの住民の姿を最後に対比させたのではないか、と思う。



カヴァフィス全詩
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細田傳造『みちゆき』

2019-04-26 08:25:23 | 詩集
細田傳造『みちゆき』(書肆山田、2019年05月10日発行)

 細田傳造『みちゆき』は、谷川俊太郎『普通の人々』(きのうの日記、参照)とはまったく違う詩集である。あたりまえだが、あたりまえのことを書くのが「批評」だと思うので、そのあたりまえのことを少し書いてみる。
 「鍵」という作品。

童女はわたしをキライだと言った
おしゃべりだからキライだと言った
だから近所の無口のおじいさんになった
おたがいに
道で出会うと黙って
ちいさなおじぎをしてすれちがった
童女が少女になった日
おしゃべりにもどっていいよと告げにきた
へいきになったからしゃべりな
その日少女とバスに乗った
後部座席で堰をきって
わたしはしゃべった
鍵束を見せて
鍵の
ひとつひとつの用途と由来について
しゃべった
七個目の最後の鍵を見て少女が言った
このきんいろの鍵はしってるよ
あたしが生まれた家の鍵
清瀧の
滝壺の鍵

 最後の二行「清瀧の/滝壺の鍵」、これは「固有名詞」なので、具体的に何を指しているかわからない。特に「清瀧」がわからない。しかし、そのことばのまえに「生まれた家」があるので、少女の生まれた家のある場所が「清瀧」なのだろうと、「意味」は推測できる。「滝壺」はその家の「比喩」かもしれない。正確にはわからないが、なんなく「わかった」気持ちになる。
 さて。
 一息おいて、ここからが本題。
 最後の二行を脇においていうのだが、細田のことばも谷川のことばも、「わからない」ことばはない。みんな知っている。でも、「知っている」と「わかる/わからない」は微妙に違う。
 「童女」と「少女」。その違いはまた脇においておいて言うのだが、そのことばが指し示しているものは「わかる」。つまり、勝手に想像することができる。自分の知っているだれそれを思い浮かべることもできるし、街で見かけた名前を知らないこどもを思い浮かべることもできる。これは「童女」「少女」を「意味」として理解しているということになる。
 でも、どんな人間でもそうだが、どんなことばにも、それぞれの「過去」がある。生きてきた「時間」というものがある。それは「固有名詞」をつけられていなくても、確実に存在する。そして、その「固有名詞」の部分(時間)を私は知らない。言いなおすと、細田がここで書いている「童女」「少女」を私は実際に知っているわけではない。だから、その「童女」「少女」のなかの、私の知らない「時間」がことばの奥からむき出しになってあらわれると、私はとまどう。

童女はわたしをキライだと言った

 こどもがおじいさんを「キライ」ということは、よくある。そういう瞬間を見てきたことがあるから、私は「意味」はわかる。しかし、その具体的な「肉体」は、私は「頭で想像する」だけであって、ほんとうは知らない。知らないけれど「意味」がわかるので、理解したつもりになる。
 こういう「ずれ」を細田は丁寧に、具体的に描く。しかも、「肉体」として描く。「おしゃべりだからキライ」、「近所のおじいさんになった」。そのあと、

道で出会うと黙って
ちいさなおじぎをしてすれちがった

 、ここには確かな「肉体」がある。「肉体」なので、それは「童女」と「わたし(細田)」のものだが、「黙って」「小さなおじぎをして」「すれちがった」を、私は私の「肉体」で反芻することができる。反芻するとき、私はたとえば喧嘩しただそれそれとか、大嫌いな会社のだれそれとかを思い浮かべ、そういう「出会い方(別れ方)」はあると納得できる。相手はこどもだが、細田は対等の大人の感覚で「童女」「少女」と向き合っている。それは言い換えれば「童女」「少女」が大人と同じように「過去」を持ってい生きていることを尊重することでもある。その「過去」がどんなものか、明確には書かれていないが、誰にでも「過去」は存在し、それがその人間をつくっている。
 私の体験と細田の体験(ここに書かれていること)が、出会って、「共通の意味」を体験しながら、同時に「共通ではないもの」を受け止める。この「共通ではないもの」を「固有」のものと呼ぶことができるのだが、この「固有」の登場のさせ方が、細田の場合、独特である。「固有」のつかみ方が、それこそ「固有」なのである。
 きのう読んだ谷川の「普通の人々」の「寿子」の場合、

並んでいる商品をしげしげと見る
買わない自分に満足する

 は「固有」ではあるけれど、どこか「抽象」である。「意味」の領域の方が広い、と言えばいいか。
 「篤」の

羊歯の化石を貰う

 になると、ほとんど「抽象」でしかない。何か珍しいものを貰うという「意味」としてしか私にはつかみとることができない。
 細田の場合は、書いていることが「抽象(意味)」を突き破っている。「過去」が噴出してくる。
 芝居の批評の仕方に、「役者の存在感」という言い方があるが、細田のことばにはそれに似たもの者がある。ことばのなかに、すでに「来歴」がある。「演技(意味、ストーリー)」を見せる前に、役者自身がもっている「来歴」を見せ、それで「意味」をかき消していく。かき消してもかき消してもあらわれてしまうのが「意味」だから、そういうものはほっておいて、「存在感」を出してしまえば、それが観客をひっぱっていく。
 それに似た「味」がある。
 谷川の場合は、むしろ「存在感」を消し、「意味」の領域が広いことばの使い方をする。だから「寿子」「篤」という名前が書かれているにもかかわらず、それが誰かわからない。「若い女」や「若い男」になってしまう。
 細田の場合、「童女」「少女」としか書かれていないのに、そのこどもには絶対に名前があるということを感じさせる。私はたまたま名前を知らないが、細田は名前を知っている。知っているから、その名前は「肉体」にしみついているから、ことばにする必要がない。つまり細田の「肉体」になってしまっている、ということを感じさせる。
 この自分たちだけが知っていること、「肉体にしみついていること」が、途中の「鍵」と「おしゃべり」を通って、最後に、ばっと噴出してくる。

あたしが生まれた家の鍵
清瀧の
滝壺の鍵

 ひとはだれでも「生まれた家」を持っている。けれども、その家はひとりひとりが違う。そして、その家で育ってきた「時間」もまたひとりひとりが違う。
 この作品の「童女」「少女」は「おじいさんはキライ、おしゃべりだからキライ」と言うことができる家で育ってきた。「わたし(細田)」はそういうことばを聞いて「無口のおじいさんになる」時間を生きてきた。二人は別々の「時間」を、固有の時間を生きてきた。けれども、その固有の時間を生きるときも「清瀧の家」は、なんというか、変わらずに存在した。そのことは、二人は知ってる。
 そして、そうわかった瞬間。
 あ、ふたりはそれぞれ「固有の時間」だけれど、同時に「共通の時間」というものを生きて、それを抱えて動いていることがわかる。
 で、これが、まるで「道行」のように思えてくる。
 「道行」というのは、かなわぬ恋を成就させるために、男と女が死に向かって旅立つことだが、「童女/少女」と「わたし(細田)」の関係は、それに重なって見える。「道行の恋」のなかの「時間」は「固有」と「共有」がぶつかりあって、まったく別の「固有」を生み出されたものだが、生み出された瞬間に、またそれぞれの「固有」を照らし返すという仕組みにもなっている。

 とてもいい詩だなあ。いい詩集だな。
 「砂浜にて」「沼」「鳥を撃つ」「田部井さんの家の庭」についても書きたいことがあったのだが、長くなったのでまた別の機会に、書けたら書くことにしよう。

 



*

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アルメ時代 17 本

2019-04-25 16:00:35 | アルメ時代
17 本



 その本を読み始めたのはいつのことだったか。誰も登場せず、何もはじまりそうもない描写がつづいた。二ページと読みつづけられない本であった。しかし、別の本を読み、次に何を読もうかと思いあぐねたとき、ふと手にしてしまう本だった。疲れたときにだけ見えてしまう水錆びの描写とか、風が吹いていくときに見える水の深さとかが、確かな文体で書かれていた。
 くりかえしているうちに、徐々に描写がずれてくるのに気づいた。コップの水が乾燥した季節のために蒸発したり、午後の湿気にくずれたバラが夜明けに新しい風をひきよせたり。あるいはトラとして書かれていたものが膝の上の猫に姿を変え、汗ばんだ毛の闇へと指を滑り込ませてくれと懇願したり。さらには、夏の光にたたかれて麦わら帽子だけになった少女が、大人の顔で記憶を振り返ったり。
 一般に書物は私たちに刺戟を与えるものである。ある描写を手がかりに、あ、あれはこういうことだったのか、と気づいたりする。この作者は私が言いたくて言い切れなかったことを美しい形で表現してくれている。そうした発見の楽しさのために本は読まれる。しかし、この本は違った。逆に現実を呼吸して描写を変えていくようなのである。だから、次にどのような描写があらわれ、本の世界がどう変わるかといった予測はまったくつかない。
 一ページ、時として一行しか読み進めない理由はそこにある。逆に言えば激しい吸引力に耐えられるだけの現実が私にはなくなってしまったということかもしれない。幼年期のむごたらしさも思春期の猥雑さや気まぐれ、恋愛期の加虐性被虐性も吸収され、分離整頓されて、ささやかな陰影に変わってしまった。何の彩りも描写に与えることができないので、ことばが私を裏切るように次々に形を変えていくようである。本を閉じなければならない。しかし一行も読み通すことができないので閉じることもできない--そうした葛藤に激しい汗を流すことだけが現実となる日々もあった。
 本ほんらいの姿を求めて新刊本を取り寄せてみたが手遅れだった。あらゆる活字と文体がかよわくふるえている。記憶され、あの本にのみこまれてしまうことを恐れている。主人公の苦悩や絶望を生成するストーリー、時間を空間や存在に転換する構造だけは、けっしてのみこまれないことを悟ってか、強固に構えている。しかし、それは主人公の感情の充実が強い文体で新しいいのちを手にいれるということは別の問題である。その強固さはかえって空虚さをきわだたせるだけである。読者と筆者の感性、あるいはくらい情熱の接点である描写そのものは、読み進めば読み進むほど魅力がなくなっていくる。察するに、この筆者もあの本を読んでいるらしい。なまなましい感覚や錯誤といった知的発見はすべてのみこまれ、計算と学習によって表現できるストーリーしか残らなくなったらしい。
 ページを開かなくても、本が私を通して現実を吸収し、刻々と姿を変えているのがわかった。アスファルトの油膜が不気味な水たまり、女の乳房の影に汗という星が輝くときの宇宙に似た青さ、存在から抽出され、やがて全体をひとつの色調に変える強い印象、つまり解放された現実が、時として本を開けと命じるからである。読み返し、本の文体がどのように変化したか確かめよと命じるからである。




(アルメ239 、1986年2月10日)
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谷川俊太郎『普通の人々』

2019-04-25 14:53:12 | 詩集
谷川俊太郎『普通の人々』(スイッチ・パブリッシング、2019年04月22日発行)
普通の人々
ヤマグチ カヨ
スイッチパブリッシング

 谷川俊太郎『普通の人々』には固有名詞がたくさん出てくる。詩集のタイトルにもなっている「普通の人々」。

寿子は
闊達なリズムで街を歩く
気ままに立ち止まる
並んでいる商品をしげしげと見る
買わない自分に満足する

 昨年出た『バームクーヘン』には固有名詞はなかった。「ぼく」や「わたし」、「チチ」や「ハハ」は登場した。しかし、「主役」が谷川かというと、そうでもない。谷川の中に生きているさまざまな年齢、性別の谷川が反映されている。「さまざまな性別」というと「生物学」的にはありえないことだけれど、「心理的」にはありうる。「こころ」には「性別」などなく、あるのはただ「個別」。「こころの性別」は社会的につくられた「習慣」のようなもので、そんな「おおざっぱ」な区別は無視して、もっとひとりひとりを見た方が楽しいだろう。そういう意味での「楽しい性別」がさまざまなことばで書かれていた。
 今回の詩集は、その「楽しい性別(個性のひとつ)」に、それぞれの「名前」を与えることで、「バームクーヘン(年輪)」ではなく、木のさまざまな幹や枝、葉の形、色、花の匂いや木の実の味を明確にしている。
 「明確にしている」と書いたのだけれど。
 でも、読むと、その「個別」が「個別ではない」とも感じる。
 たとえば、最初に引用した「寿子」は、ほんとうに「寿子」なのか。『バームクーヘン』に出てきた「わたし」ではないのか。たとえば、チチに恋人がいると気づいた「わたし」、ハハには内緒にしておこうと思っている「わたし」ではないと言えるだろうか。
 さらに、谷川であってもいいし、ある日の私(谷内)の姿を描写されたのかもしれない。「名前」を「寿子」にしているだけであって、それは誰であるかは、ほんとうはわからない。「寿子」と書かれているけれど、「私」を重ねて読んでしまう。あるいは、知っている誰かを重ねて読んでしまう。
 「歩く」「立ち止まる」「見る」「買わない」「満足する」。その「動詞」に思い当たることがあるからだ。どの「動詞」も経験したことがある。だから、それを「寿子の動詞」と思わず、「自分の動詞」と思う。動詞の中で肉体が重なり、肉体が重なった瞬間、私は「寿子」になってしまう。
 小説だと、主人公が多くの動詞を生きるので、その動詞のなかには自分では体験できないこともあり、完全に主人公の肉体と重ねることができないこともある。もちろん詩の場合も、そういうことはあるのだけれど、この谷川の詩集の登場人物は「普通の人々」のせいか、たいていのことは自分の肉体で「追体験」できる。「追体験」するというよりも、自分がしてきた「体験」を思い出すことができる、と言った方がいいかもしれない。
 さて。
 それでは、そのあと、いったい何が起きるのか。

篤は
ワインリストを手にして
卓の下で足を組む
自分を平凡だと思う
羊歯の化石を貰う

 二連目で「寿子」は消える。「篤」か。これは「寿子」とどういう関係? 夫婦? 恋人? 他人? つまり無関係な登場人物? ふたりはこれから出会う?
 先回りして言うと、そういうことはわからない。詩の中ではそういうことは起きないが、詩がおわったところ(書かれていないところ)では、何が起きているかわからない。
 わからないのだけれど、わからないままに、こういう「人間」はいるなあ、と思う。ある日の「私」かもしれない、とも思う。「羊歯の化石を貰う」というのは、特別なことだと思う。少なくとも私は貰ったことがない。見たこともない。この瞬間、私とは重ならないからこそ、「篤」という「固有名詞」をもった人間が存在するのだと気づき、それがまた逆に「私」という人間が存在するということも気づかせてくれる。
 ここから一連目に戻ると、「私」ではない誰かがウインドゥーを見つめ、買わずに立ち去っていく姿を見たことがある、というようなことも思い出す。しかし、そのとき「満足」したかどうかはわからないのだけれど。たぶん、そんな具合にして「納得」というか、自分に何かを言いきかせて買わないことがあったことを思い出したりしている。思い出した瞬間、私は「見る人」ではなく「見られる人」であったと錯覚することもできる。他人と私が交錯する。
 「羊歯の化石を貰う」という体験を私はしたことがない。うらやましいなあ、という気持ちがあって、それが私と「篤」を交錯させる。「うらやましい」という気持ちの中では「篤」と私は入れかわっているかもしれない。

有希彦は
仔犬を拾う
文学全集を捨てる
老樹に見惚れる
雑音に耳をすます

アンリは
あれこれ比較している
踏切で空を見上げる
なまぬるい炭酸水を飲む
蟻を踏む

 登場人物がかわるたびに、世界のあり方もなんとなく違ってくる。
 「雑音に耳を澄ます」。うーん、したことがない。雑音に耳をすますと何が聞こえるのだろうか。沈黙か。隠れている音楽か。音を「雑音」にかえる力か。私の知らないものが、そこにある。知らないものだけれど、耳を澄ませば聞こえるかもしれない、聞きたいという欲望をさそう。
 ことばが「肉体」に働きかけ、「肉体」を動かし始めている。
 「踏切で空を見上げる」というのは、よほどのことがないかぎり、ただなんとなく、つまりほとんど無意識でしてしまうこと。ぼんやりしている。誰でもができる。でも、意識してしたことはない。それを意識してすることもできる。
 こんど踏切を渡ることがあったら、空を見上げたい、と思う。踏切の手前、遮断機のところかもしれない。欲望というには大げさすぎるけれど、ことばが「欲望」になって「肉体」を動かそうとしている。
 「なまぬるい炭酸水を飲む」は、いつのまにかぬるくなってしまっていたということかもしれないが、あえてそうなるまでほうっておいて、「ぼんやり」を楽しむ、無意味を楽しむこともできる。そういうこともしてみたい。
 「蟻を踏む」は残酷だろうか。残酷なら残酷でいい。残酷になってみるのも、「肉体」の何かを解放してくれるだろう。

 ことばは行動を描写するだけではなく、欲望を誘い出す。それは解放するということかもしれない。なんとなく、「肉体」がゆったりしてくるのを感じる。
 もし、そういうことをしているのを人に咎められたら、「あ、これは私ではなく、アンリです(有希彦です、篤です、寿子です)」と逃げることができる。どこへ逃げているのかわからないけれど。
 人間はだれでも「ひとり」だけれど、その「ひとり」はほんとうは「ひとり」ではなく、どこかでつながっている。その「つながり」は、ときには「つながる」ことを拒むという関係かもしれないし、絶対に「一体」にはなれないことを告げるつながりかもしれない。
 あ、矛盾しているか、私の書いていることは。
 
 そんなことを思っていると、突然「固有名詞」を含まない連があらわれる。

普通の人々はそうではない人々に
ひけめを感じさせないように
心を砕いている
それが偽善であることにも
薄々気づいている

 私は、びっくりした。ここに書かれていることを、私は感じたことがない。そんなことに「心を砕いた」ということがない。もともと、私になんに対しても「心を砕く」というめんどうくさいことをしない人間なのかもしれないが、どういうことをすれば「心を砕く」ことになるのか。さっぱりわからない。
 私は普通の人ではない?
 多くの人は、ほんとうにこんなことを考える?
 「名前」はつけられていないが、(後半に「無名氏」が登場する連もあるが)、私はここで、「他人」にぶつかったという気持ちになる。そして、動けなくなる。詩は最後まで読んだが、(最終蓮の「私」は谷川の自画像か、と思ったりしたが)、この5行が気になって、ことばが動かなくなる。

 詩のことばは「肉体」の動きを誘う。忘れていたことを思い出させてくれる。これからできることも教えてくれる。
 それとは逆に、突然、肉体の前に壁のように立ち現れて、その壁しか見えなくさせてしまうこともある。
 わけのわからない何かが、さまざまな「固有名詞」のばらばらを、どこかでギュッとつなぎとめているのかもしれない。このわけのわからない「闇」のようなところを通ると、「人間」がひとりひとりの「名前」をもった存在にかわるのかもしれない。

 私は、ふと井筒俊彦の「無分節」ということばを思い出す。私は「無」にまではとてもたどりつけないので、もっと身近に引き寄せて「未分節」ということばに置き換えて、あれこれ考えるのだが。「分節が無い」ではなく「未だ分節されていない」と考え、ことばを動かすのだが。
 谷川が今回の詩集で書いたのは「分節」されていない「領域」を人間が通過し、通過するたびに複数の違う人間に「分節」されるが、それは「分節」されていない「領域」から見つめなおせば「ひとり」としてとらえなおすことができる。そして、この人間の「往復運動」をことばにしたものが詩である、ということになるのかもしれない。
 「無」が見えたとは私には言えないが、ふっと、いままで触れることのできなかった遠いものが感じられたような気がした。絶対的に「わからない」ものが存在することの「透明さ」が、そこにある。

 あ、何を書いているかわからないね。
 もうすでに私のことばは嘘になっているかもしれないが、これ以上書くともっと嘘になってしまう。
 別の日に、また考えよう。



 



*

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池澤夏樹のカヴァフィス(127)

2019-04-25 09:25:07 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
127 シリアを去るソフィストに

あなたはアンティオキアについて本を書こうと
考えておられる。それならばメビスのことを
必ずお書きになるよう。
間違いなくアンティオキアで最も美しい

 この前半のことばは、最後にこう言いなおされる。

アンティオキアで、とわたしは言ったけれど
アレクサンドリアでも同じこと、ローマにさえ
メビスほど魅力あふれた若者はいないのだ。

 街が比較される。規模としては、アンティオキアがいちばん小さいのだろう。アレクサンドリア、ローマと順に大きくなるが、そういう街の大きさ(人口の多さ)を超えて、メビスが傑出している。
 彼がアレクサンドリア、ローマへ行かないのは、彼を目当ての人がアレクサンドリア、ローマからもやってくるということだろう。
 詩のなかほど、

最も讃えられる有名な若者。彼と同じことをして
同じだけの報酬を得られる者は
他にいない。メビスと共にほんの二、三日
暮すだけで人は百スタテルも払うのだ。

 この部分が、他の街からも人がやってくることを証明している。よそから来た、もう機会がないと思うからこそ、大金をつかっても惜しくはない。
 メビスの魅力を書いているというよりも、その魅力にとりつかれた人のことを書いている。

 池澤は、こう書いている。

カヴァフィスに多々ある若者の美貌を讃える詩のひとつ。ただし彼は高等娼婦のようにプロフェッショナルである。

 この見方は、少し冷たくて、寂しい。「美貌」については、カヴァフィスは「アンティオキアで最も美しい」とありきたりの「慣用句」ですませている。あとは「金」のことが書かれているが、金は若者にではなく、彼を目当ての人間に属するものだろう。




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スティーブン・スピルバーグ監督「ジョーズ」(★★★★+★)

2019-04-24 20:53:30 | 午前十時の映画祭
スティーブン・スピルバーグ監督「ジョーズ」(★★★★+★)

監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 ロバート・ショウ、ロイ・シャイダー、リチャード・ドレイファス

 この映画で見たいシーンは、やっぱり最初の、若い女性がジョーズに襲われるシーン。冒頭の海中のシーン、あの音楽がいったん中断し、浜辺の若者集団(ヒッピー? いま、このことばを知っている人が何人いるか)のシーンがあって、女が海に入ると再び音楽、ズーン、ズーン、ズンズンズンズンズンッとスピードがあがってくる。いやあ、わくわくしますねえ。
 この女を海中から撮るときは、女はなぜかバック(背泳)で泳いでいる。これって、性器が映らないようにって、ことなんだけれど。こういう「遊び」のシーンが、1970年代の映画には必要だったんだねえ。そのころは私も若かったから、一種の「わくわく」感で見たことは確かなので、悪口は言えないけれど。
 で、そのあと。
 ジョーズが女性を襲う。ここ、問題は、ここ。変でしょ? あのジョーズに噛まれて、女が異変に気づく。それが、最初はまるで小さい魚に足の指でもつつかれたような感じ。それから噛まれていると気づく。こういうとき、何が噛んだか、それを見るのがふつうだけれど、女は見ない。見ないまま、助けを求める。その助けを求める女の上半身が水上を左右に走る。ジョースがひっぱり回している。こういうことって、ある? あの巨大なジョーズが、ぱくっ。女の体は一気に噛みちぎられそう。とても「助けて」なんて、叫んでいる暇はないし、その女の体をわざわざ水上に見えるようにジョーズがふりまわすなんてこともありえない。
 と、いいながら。
 見たいのは、ここなんだよなあ。こんなシーン、映画でないと見られない。泳いでいた女が突然見えなくなる、というのではぜんぜんおもしろくない。推理小説ではないのだからね。
 ありえない、でも、女の方からすれば、こうでしかない。即死かもしれないけれど、ジョーズに襲われた、えっ、どうしよう、助けて、早く助けて、助けてくれないと死んでしまう。必死に叫んでいる。きっと、それはとてつもなく長い時間。その「ありえない切実な時間」を、観客は、自分は大丈夫、映画を見てるんだからと半分安心しながら、自分こと、自分の恐怖として体験する。
 そして、女が水中に引き込まれたあと、なんとなく安心する。半分安心ではなく、完全に安心する。さあ、映画がはじまるぞ、と思いなおすといえばいいのか。

 見るものを見てしまうと、あとは、余裕(?)で見てしまうというか、半分よそ見をしながら映画を見てしまう。
 そしてよそ見をしながら気づいたことがある。
 この映画では「眼鏡」が以外に働いている。ロイ・シャイダーとリチャード・ドレイファスが眼鏡をかけているが、もうひとり、二番目の犠牲者になった少年の母親がやはり眼鏡をかけている。それに対してロバート・ショウと市長が眼鏡をかけていない。ここに「キャラクター」が反映されている。眼鏡をかけている登場人物は、舞台の「島」からみると「部外者」、よそ者。少年の母親は島の住民だが、息子がジョーズに殺されたことによって、島の住民からは違った立場になってしまった。彼女は「守られる人」から「守る人」になった。「島を守るための人」が眼鏡をかけているのだ。島の人ではない、という「アイデンティティ」のようなものだ。
 ロバート・ショーは「守る人」なのに眼鏡をかけていない、と反論する人もいるかもしれないが、彼はまた「立場」が違う。ロバート・ショーは島を守っているのではなく、自分を守っている。鮫に復讐するために戦っている。島の人を守りたいからではない。もうひとりの眼鏡をかけていない重要人物、市長もまた自分を守っている。保身のために行動している。人食い鮫があらわれた、ということでバカンス客がやってこなくなれば、島の経済は成り立たない。それでは市長の職を奪われてしまう。関心は住民、バカンス客の安全ではなく、自分の「地位」。
 このあたりの「細工」がなかなか手が込んでいておもしろい。ロイ・シャイダーがジョーズ退治にゆくとき、妻がちゃんと「予備の眼鏡は靴下といっしょに入れてある」というようなことをさりげなく言うのもいいなあ。ロイ・シャイダーが泳げないという設定も、「よそ者」を強調していておもしろい。
 それから。
 このころのスピルバーグは、小柄な役者が好きだったんだねえ、と思ったりした。ロバート・ショウ、ロイ・シャイダー、リチャード・ドレイファスは三人とも小さい。小さいと、なんというか、「人間(役者)」がスクリーンを動かしていくというよりも、「ストーリー(映像の変化)」がスクリーンを動かしていくという感じになる。役者のダイナミックな表情や動きにひっぱられてスクリーンに釘付けになるという感じではない。「未知との遭遇」のトリュフォーも小柄だった。「インディ・ジョーンズ」のハリソン・フォードは小柄ではないかもしれないが、存在感が薄っぺらい。リーアム・ニーソンとか、ダニエル・デイ・ルイス、トム・ハンクスのような大柄な役者をスクリーンに定着させる技術をまだ確立していなかったのかもしれない。スピルバーグがどんな役者をつかってきたか、それを辿りなおすことでスピルバーグのやっていることが、また違って見えてくるかもしれない。
 見落としてきたスピルバーグの発見という意味では、制作しているという「ウエストサイド物語」に、私はとても期待している。音楽とスピルバーグは、どう向き合うのか。バーブラ・ストライザンドが「イエントル」を監督したころ、どこかで二人が目をあわせ、そのとき火花が散ったというような記事を読んだ記憶がかすかにあるが、そのころから「音楽」を映画にすることに関心があったのだろうか。「ウエストサイド」の音楽は変えようがない。それを、どう使いこなすのか。私は、わくわくを通り越して、実は、ドキドキしている。見たい。

 (午前10時の映画祭、2019年04月23日、中州大洋1)


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16 犬

2019-04-24 11:45:02 | アルメ時代
16 犬



木枯らしの底辺を犬が走っていく
あの犬は何度も見たことがある
茶色のどこにでもいるただの雑種だ
夏は脳を沸騰させ冬は脳からこごえる
だからといって過敏ではない
少し毛の汚れた犬である
水銀灯の硬質な光をのがれて
郵便局の裏で時々吐瀉物を食べている
縄張りを持たないからいつも小走りである
飼い犬の鎖の長さの一鼻先をかすめることを得意としている
立ち止まるのは信号を渡るときだけである
けっして一匹では渡らない
人の影に隠れて渡る
よらば大樹の影ということばを曲解している
そのくせ知恵があると自負している
低い視線を持っている
そのことが自慢であるのか
足元をするりとぬけてゆき
ズボンの裾を気にする男を振り返ったりもする
尻尾をクリルと曲げて
すっとんきょうなリズムで
春には恋人をつれて歩いたこともあったが
どうせ行きずりだと思っているのか
耳が折れタビをはいた駄犬であった
毛並みのいいのには手をださない
相手のいるのにも手をださない
つまらない自制心だけはある
ようするに痛い目にあいたくないだけである
分を守ることが大切だとつぶやいているが
欲望だけはあるらしく
秋には赤鼻のセックスをなめ
最後かもしれないたかぶりにふるえていた
横丁を曲がり路地を抜け
高速道路下の安全地帯へたどりつく前に
肥満体の飼い犬に横取りされて
高い高い空を眺めることもあった
草を噛んで吐いて草を噛んで吐いて
胃と腸をしずめる日日を繰り返し
水に映った自画像を消すように
蓋のはがれたドブ水をなめた午後
名前を呼ばれることだけを求めて
改札口にまぎれこんだりもした
もはやだれも出歩かない深更
激しく心をひきつけたのは
二丁目の電器屋がしまい忘れたビクターの犬である
思い出したように通るトラックのライトに浮かび
再び闇にのまれて微動だにしない
汗と毛のにおいを持たず一点を見つめて思索している
昼間は水をぶっかけられるので近づきはしないが
かならず反対側を通って観察する
(不動の姿勢 ふむ
あれがいわゆる悟りというものだろうか)
小走りで考える
考えながら走りながらも
ガキとだけはぶつからぬ発射神経を持っている
とりわけ雨上がりには注意する
閉じ込められたからといって反動で過激になるやつは嫌いだ
呼ばれても振り向かない
近づいてきたらぐっとひきつけて突然走り出す
それが今風だと信じている
似たようなブチと真顔で話し合うこともある
聞こえないふりをするのは賛成だ
しかし少しずつ足を速めて逃げ出す方がよかないかね
相槌はそうかねの一点張りである
つまりスタイルは変えない主義である
体になじんだものだけを信じている
保守的と呼ばれることを恥じない
ただ反動的という批判には開き直れない
火曜日は葵ビルのゴミ出し場に弁当のクズが出る
菜食主義者なので必ずカツが残っている
といった最新情報はすぐにおいかける
行けばきまって先着者に追い払われる
それでもこりるといったことがない
覇気がないなどという中傷は耳に入らない
楽しみはかぎなれない小便の上に小便をかけることである
そのために見慣れないチビを尾行することもある
間違っても強いやつの上にはかけない
一匹狼だと思い込んでいる
ビル風にあおられながら
きょうは荒野を疾走しているつもりである



(アルメ238 、1985年12月25日)
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池澤夏樹のカヴァフィス(126)

2019-04-24 10:18:04 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
126 司祭と信徒の大いなる行進

街路を、広場を、城門を
それぞれの暮らしぶりを映した姿で練り歩く。
堂々たる行列の先頭を行くのは
見目よき白衣の若者が
両の腕を上げて掲げた十字架、
我らの力、我らの希望、聖なる十字架。

 「街路を、広場を、城門を」という畳みかけるリズム、それに呼応して響きわたる「我らの力、我らの希望、聖なる十字架」のリズム。この直前には「見目よく白衣の若者が/両の腕を上げて掲げた十字架」という長くてうねるようなリズムがある。このうねりが、うねりであることをこらえきれずに炸裂して「我らの力、我らの希望、聖なる十字架」になったことがわかる。
 カヴァフィスは、やっぱり耳の詩人だ。
 原文を読まずに(ギリシャ語の音を聞かずに)、こういうことは乱暴かもしれないが、「音」には二種類ある。物理的な音と、意識の音。ギリシャ語を聞いていないのだから、物理的な音はわからない。けれど、ことばの運動が明らかにする意識の音なら翻訳されたもの(日本語)でもわかる。私が聞いているのは、「意識の音」だ。
 対象をつかみとり、つなぎあわせ、世界に作り替えていくときの「意識」が聞いている「音」、「意識」が出している「音」。「音のスピード」が正確だ。乱れない。
 カヴァフィスとは異質の音だが、私は西脇にも「意識の音楽」を感じる。「物理的な音」も西脇の場合は美しいが、「意識の音」が「ほんもの」を感じさせる。まるででたらめを書いているようなのに、「手触り」がある。もちろん「意識の手触り」であるが。
 前半の「豪華」なリズムに対して、後半は対照的だ。

年ごとのキリスト教の祭礼だが
今年はまた格別に華やかだ。
帝国はようやく解放された。
神に背いた忌まわしいユリアヌス帝は
もういない。

 「華やか」ということばがあるにもかかわらず、聞こえてくるのは寂しい音楽。この寂しさは、カヴァフィスがユリアヌスに肩入れしていることを感じさせる。
 池澤の註釈によれば、

カヴァフィスはこの異端の皇帝について七篇の詩を書いている--



カヴァフィス全詩
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評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
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