詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(189)(未刊・補遺14)

2014-09-26 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(189)

 「敵」はソフィストの「認識」を書いている。あるいは、ことば(認識)への評価の問題について書いている。名声は羨みの種を蒔く。「きみらには敵がいる」というコンスルに対してひとりのソフィストが答える。

「わたしどもと同世代の敵は大丈夫でございます。
わたしどもの敵は後から来るのでございます。新手のソフィストどもです。
われわれが老いさらばえて、みじめに寝台に横たわり、
あるものははやハデスに入った時です。今の
ことばとわれわれの本はおかしく思われ、滑稽にも思われましょうな。
敵がソフィストの道を変え、文体を変え、流行を変えるからでございます。
私たちも、過去をそういうふうに変えてきましたもの。
私らが正確、美的といたすものを
敵は無趣味、表面的といたすでございましょう。

 ことばはいつでも言いかえられる。批判される。新しい基準が提唱され、文体も変われば流行も変わる。それは自分たちがしてきこことと同じだ。同じことが繰り返される。それがことばの「歴史」なのだとソフィストは言っている。
 これは「意味」が非常に強い詩である。「意味」が強すぎて、おもしろみに欠けるが、カヴァフィスの実際の詩のことを思うと、興味深いものがある。カヴァフィスは歴史から題材を多くとっている。「墓碑銘」のようなものもたくさん書いている。それは、史実を踏まえながらも、カヴァフィスのことばで脚色されている。つまり、「過去の書き換え」をやっている。
 そうすると、カヴァフィスもソフィスト?
 あるいはソフィストというのは、一種の詩人?
 そうなのかもしれない。人のいわなかったことばを発する。人のいわなかったことばで人をめざめさせ、新しいことばの「流行」をつくる。--これはソフィストか詩人か、よくわからない。

 この作品は、そういう「意味」とは別に、奇妙なおもしろさがある。中井久夫の訳がかなり風変わりだ。「わたしども」「われわれ」「私たち」「私ら」と「主語」の表記が少しずつ違う。(引用の後の方には「私ども」も登場する。)ふつう、こういう「話法」はとられない。「主語」の書き方はひとつだ。
 これは中井久夫が「わざと」そうしたのだろうか。
 ことば、文体、表記は、常に変わるものである。そういうことを、のちのソフィストの実際として語るのではなく、いま/ここで話していることばさえ変わる。中井は、そういうことを「実践的」に提示して見せているのだろうか。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

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4400円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。
メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
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代金は本が到着後、銀行振込(メールでお知らせします)でお願いします。

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