詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長田弘『最後の詩集』

2015-06-30 09:26:26 | 長田弘「最後の詩集」
長田弘『最後の詩集』(みすず書房、2015年07月01日発行)

 長田弘『最後の詩集』はほんとうに長田にとっての最後の詩集。もう新しい作品を読むことはできない。何だか、悔しい。悔しいけれど、まず、詩集を残してくれてありがとうと言わなければならないだろう。ほんとうに、ありがとうございます。
 この詩集を読むと、長田が「青」が好きだったことがわかる。長田にとって「青」とは「透明」でもある。そしてそれは「光」でもある。巻頭の「シシリアン・ブルー」を読むとそのことが伝わってくる。

どこまでも、どこまでも
空。どこまでも、どこまでも海。
どこまでも、どこまでも
海から走ってくる光。
遠く、空の青、海の青のかさなり。
散乱する透明な水の、
微粒子の色。晴れあがった
朝の波の色。空色。水色。

 二行目で、空と海はすでに「一体(ひとつ)」になっている。「青」の「かさなり」の「かさなり」のなかに「空」と「海」があり、そこから「光」が生まれる。そこから「光」が走ってくる。走ってくるとき、その動きのなかに「透明」が散乱する。「空色。水色。」そういうことばになって「散乱する」。「散乱する」のだが、それは、ばらばらになってしまうのではなく、「かさなり」が広がるということだ。この「広がり」を長田は「どこまでも、どこまでも」と書いている。繰り返しているのは、その「どこまでも」がずっとつづくからである。ずっとつづきながら、あるとき「空」になり、あるとき「海」になる。そして「青」になり、「透明」になり、「光」になる。ことばは変化するけれど、そこに「ある」ものは「ひとつ」。それが二行目、「空」と「海」を「一行」のなかに書いてしまっているところに象徴的にあらわれている。
 「青」についてのことばは、さらに「散乱」し、さまざまな「色」を動きつづける。

どこまで空なのか。どこから海なのか。
見えるすべて青。すべてちがう青。
藍、縹(はなだ)、紺、瑠璃、すべてが、
永遠と混ざりあっている。

 さまざまに「散乱する」が、それは「永遠」と「混ざりあっている」。それぞれのなかに「永遠」の「かさなり」がある。「永遠」と「ひとつ」になっている。「ひとつ」になっているからこそ、それを「すべて」という一語で長田は呼ぶ。
 長田はこの光景を、「イタリア、シチリアのエリチェ」の、「三千年近くも前に、フェニキュア人が/断崖絶壁の上に築いた石の砦」から見ている。そして、その見ている「青/光/透明」を再び言い直している。

フェニキュア人の砦からは、
世界のすべてが見えた。
文明とは何だ。--この世で
もっともよい眺望を発見するという、
それだけに尽きることだったのでないか。

 「文明」を定義して、長田は「もっともよい眺望を発見する」ことと言う。この「文明」を「詩」と置き換えると、長田の詩の「本質」を定義したことになるだろう。
 いま長田は「フェニキュア人の砦から」空と海を見つめている。見つめるだけでは「眺望」にならない。見つめたものを「ことば」にすることで「眺望」は完成する。いま見ているもの、見えているものに、もっともいい「ことば」は何か。それを探しながら、長田は詩を書いている。そして、「どこまでも」ということばをつかみ、「青/光/透明」ということばのなかに「散乱」させる。ことばはさまざまに「散乱」しながら視覚を「どこまでも」広げていく。「眺望」に変えていく。そして、それが完成したとき、そこに「永遠」が見える。「青と混ざりあっている永遠」から「永遠」が「透明な光」となって純粋に輝く。
 でも、それではまぶしすぎて、見えない。だから、長田は、もう一度言い直す。

ブルー、シシリアン・ブルー!

 シチリアで発見した青。シチリアで出会った色。
 「シシリアン・ブルー」は単に「青」の種類を書いているわけではない。そこには長田の「出会い」を大切にする生き方がこめられている。シチリアに行き、そこで色に出会っている。その出会いを忘れないようにするために「シシリアン・ブルー」と叫んでいる。絶対的な(抽象的な)「永遠」から少し引き返し、「現実」と切り結んでいる。「シシリアン(シチリアの)」ということばで「現実」を生きている。
 何かに出会い、その出会ったものを、もっともよく「眺望」できることばにする。そうすることで、一瞬一瞬、長田は生まれ変わっている。
 この詩集には、そういう作品が収められている。

 この「眺望」と「詩」の関係は、「詩って何だと思う?」では、

窓を開け、空の色を知るにも
必要なのは、詩だ。

 という形で言い直されている。ことばを通して、空の色を「知る」。そこにあるものを「見る」だけではなく「知る」ためには「ことば」が必要であり、見えたものを「ことば」にしたとき、「眺望」がはっきりする。その「眺望」を完成させる「ことばの動き」。それが詩である。
 さらに、この作品のなかで長田は、

人に必要となるものはふたつ、
歩くこと、そして詩だ。

 と書く。この「歩く」は、何かと出会うことと同じ意味である。「歩く」ことで自分から出て行く。いまの「眺望」を捨てて、ちがう「眺望」に出会う。たとえばシチリアに行く。そこで美しい空と海の光景に出会う。それをことばにする。そのとき世界が広がる。人間が大きくなる。そうやって長田は生きてきた。
 長田のそういう「歩き方」を支えるものに、ひとつ大切なものがある。他人のことばだ。読書だ。他人のことばとしっかり向き合う。そして自分のことばをととのえなおす。
 「円柱のある風景」は同じくシチリアを書いたものだが、そこには和辻哲郎の『イタリア古寺巡礼』の一節(ギリシャ文明/建築に触れた文章)が引用されている。和辻のことばを通りながら、長田は長田のことばの動きをととのえ、和辻の書かなかったところを「眺望」している。長田が何から影響を受けているか、それをどう受け止めて自分をととのえたか。そういうことを正直に書いている。ここにも「出会い」を大切にし、そこから「永遠」へ近づいていこうとする長田の姿勢が見える。

 詩集には、新聞に発表されたエッセイ(大橋歩のイラストつき)もおさめれらている。長田の静かな生き方が滲んでいる。
 詩集のカバーは、「シシリアン・ブルー」ではなく、少しくすんだような、まぶしすぎる空の奥の、暗さを含んだ青色だが、これが逆に詩集のなかの「透明」な感じと響きあっている。とても美しい一冊だ。
最後の詩集
長田 弘
みすず書房
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水田宗子『東京のサバス』

2015-06-29 10:14:40 | 詩集
水田宗子『東京のサバス』(思潮社、2015年04月20日発行)

 水田宗子『東京のサバス』は、巻頭に興味深い三行が横書きで書かれている。正確にいうと、フランス語(たぶん)の三行と日本語の三行なのだが。

今日おばあちゃんが死んだ
いや明日かも知れない
東京は一日早いのだから

 「時間」の問題がさりげなく書かれている。「時間」には絶対的な時間と、方便のための時間がある。「一日(日付)」の区切りは方便の方である。そしてひとはときとして方便に振り回されて絶対的なものを見失う。おばあぁちゃんの死んだ時間は「ひとつ」である。「絶対的」なものである。けれど、それが「何日、何時何分」と書こうとすると、フランスと東京では違ってくる。フランスにはフランスの「暮らしの時間」があり、東京には東京の「暮らしの時間」がある。そしてそこには「時差」というものがある。フランスの「今日」は、東京の「明日」であるという「方便」の混乱が、そこから生まれてくる。
 詩集は、この「絶対的時間」と「方便の時間(暮らしの時間)」をぶつけ合わせながら、人間はどっちの時間も生きている、と書いている。

ああ もう二〇〇〇年も経った
東へ会いにいってから
遠くのあの日
香油を捧げにいった
<まだいらないよ
二〇〇〇年経ったら
帰ってきておくれ
その時は
話を聞いてあげてもいいさ>

 繰り返し出てくる「二〇〇〇年」ということば。そして、そのことばといっしょにある「経つ」という動詞。「もう二〇〇〇年も経った」は過去から現在への時間の「幅」、「二〇〇〇年経ったら」は現在から未来への時間の「幅」。それがここでは「ひとつ」になっている。あわせて四〇〇〇年の時間の「幅」のなかに、おばあちゃん(?)は永遠を見ている。「永遠」というのは、いわば「絶対的な時間」。そのなかで、人間は同じことを繰り返して暮らしている。その「同じこと」「繰り返し」がまた「永遠」である。「絶対的時間のなかの永遠」と「暮らし/方便の区切りをもつ時間のなかの永遠」が重なり、「ひとつ」になる。「方便の時間」は、そうやって「方便」を超える。おばあちゃんは、それを「肉体」で「体現」している。
 これが、さまざまな形で繰り返される。

やっぱりお前さんが一番先
ずっと歩いてきたのだろう
あれからずっと
いつも現在

 「時間」には「現在」しかない。「これまでの二〇〇〇年」も「これからの二〇〇〇年」も生きている人間にとっては「絶対的」ではない。「いま(現在)」しか存在しない。生きるとき「絶対」と「方便」が逆転する。「二〇〇〇年」の方が「方便」になってしまう。そんな「時間」を実際に体験することのできるひとはいない。「頭」で考えただけの「時間」である。

人生のことは何も知らない
ましてや生き方など
知っているのは
自分自身のことだけだ
雨でびしょ濡れになっても
日照りに晒されても
すぐに元にもどる

 この「元」とは「二〇〇〇年」と「いま(現在)」に共通する「永遠」のことである。「二〇〇〇年」のどの部分を取り出してみても、そこに存在する「生きる」ことの「原型」のようなものである。
 だから、水田は次のように言い換えている。

風も通過するだけ
痛みも
すっと通り抜けていく
一瞬の後は
すべてが昔話

 「昔」ということばが出てくるのは、それが「二〇〇〇年」の過去のなかに何度も何度も繰り返されたからである。

時に藻に漂っても
迷ったことも
変化したこともない
すべてを吸い込む海綿
不純物を絞り出せば
また元のオリジナル

 「変化」は表面的な「方便」。ほんとうは「変化したこともない」。「元のオリジナル」は「元」ということばを説明して「オリジナル」と言い直したものである。
 人間には「元」がある。「オリジナル」がある。「生きる」その力は、一人一人がもっていて、それは変わらない。ひとりのなかでもかわらないが、それぞれのひとりもかわらない。

生きるも死ぬも一瞬
その向こうに
宇宙があるなんて思い過ごし

 この「宇宙」は「二〇〇〇年」のことでもある。そんなものがあるというのは「思い過ごし」。「方便」がつくりあげた、嘘。あるのは、ただ「現在(いま)」だけであり、その「現在」というのは、

混ぜこぜの生と死

 ということになる。「暮らし」のなかで「生きて/死んでいく」。

一瞬の大騒ぎと
知らぬ間の退場
ただの闇
ただの幕間
数億年の幕間
宇宙劇場のフィナーレは
詩人の仮説
一世一代の法螺話
「なにも無い(アニアーラ)」話

 私が「方便」と書いてきたものを、水田は「仮説」「法螺話」と呼んでいる。「宇宙」も「二〇〇〇年(の歴史)」も「二〇〇〇年」という時間も「絶対的」のように見えて、実は「仮説/法螺話/方便」。実際に誰かが確認したわけではない。
 でもね、その「時間」のなかでひとは生きている。生きてきた。だから、

姿が見えなくても
帰って来なくたった
そこにいるのはわかっているよ

 あ、ここが美しい。
 いつでもひとはそこにいる。愛している孫(?/水田?)はいつでもおばあちゃんといっしょにいる。おばあちゃんは時と場所を超えて、水田を思い出す。思い出すとき、必ず、そこにあらわれる。
 ここに、「二〇〇〇年」の時間でも、「暮らし」の時間でもない、もうひとつの不思議な時間がある。「現在(いま)」を中心にして、すべての「時間」を流動的に解体し、新しく動かしていく「時間」がある。
 そこには「書く」という行為も含まれている。
 ことばにして、何かを動かしなおす。ととのえなおす。そのなかから生まれてくる「時間」というものがあり、それが「永遠」というものを「いま」へと呼び寄せるのだろう。おばあちゃんが水田を思い出すとき、そこに水田がいなくても、そこにいる、というように……。
 私は水田のことを知らないので、これから引用する部分は水田のことであるかどうかは確信があるわけではない。また、これから引用する部分が「おばあちゃん」の思い出していることであるかどうかも確信があるわけではないが、おばあちゃんが水田のことを思って、それをことばにしているのだと思って読んだ。そのことばといっしょに「そこにいる」水田の姿が美しい。こんなふうに「わかっているよ」と言ってもらえるのは幸福なことだ。

最初で最後の
便り
無理なことばかり言って
あれは怒りの子
何でも浮かせてしまう塩の海に
埋められているのは何か
底に沈んでいるものは
陽が照れば閃光が走り
真昼の白の破裂
曇ればあくまでも灰色
メランコリーが
あんなに深く沈むなんて
塩も役に立たず
皆殺しも
効果なし
青が透けることはない
素顔の海
沈められているのは
超重力の怒り
いつも怒っていたのだ
何も言わないことを
誰も怒らないことを

 この「わかっている」は、水田とおばあちゃんの関係であるが、同時に、これまで人間が歴史(二〇〇〇年)のなかで繰り返されてきておばあちゃんと孫との関係なのだ。いつでも誰かわかってくれるひとがいる。それがひとの生きている時間なのだと思う。

東京のサバス
水田宗子
思潮社
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フィレンツェとローマの旅(2)

2015-06-28 23:48:23 | その他(音楽、小説etc)
フィレンツェとローマの旅(2)

 ローマではシスティナ礼拝堂とボルゲーゼ美術館を訪ねるのが目的だった。20年前は修復中で「最後の審判」は見ることができなかった。
 システィナの絵については和辻がたくさん描いてあるのにごちゃごちゃした感じがしない。ローマの分割統治の感覚が生きているのだろう、というようなことを書いているが、その和辻のことばをそのまま実感した。「最後の審判」自体いくつかの群像に分かれている。群像と群像のあいだに青い空がある。それがごちゃごちゃした感じを消している。
 群像の重なり具合も、重なりながらも随所で何人かが浮き出ている。その浮き出ている人間が、その群像を統治している(代表している)感じがする。ただ群像が動いているというよりも、中心人物が群像の感情を濃密に凝縮して動いている。群像がひとりの人間の肉体全体だと仮定すると、浮き出ている人間は「顔」である。「顔」は「顔」だけでも表情があるが、背後に無意識に動く手足や胴といった肉体があるからこそ、表情が生きる。そういう緊密さで群像が統一されている。
 周辺の絵もそれぞれが礼拝堂の骨格がつくる区画のなかで完了している。区画の一つ一つが、その絵の登場人物によってしっかりと統治されている。天上の真ん中に、アダムの指に神が指で触れようとする、あの絵がある。その絵を見るとき、その絵のなかにしっかりと視線が閉じ込められる。周囲の絵が気にならない。これは不思議な体験だった。
 絵と絵を区切るアーチの骨格に絡み付くように描かれた絵も、それ自体として完了している。その場を離れない。これが「分割統治」と和辻が呼んだものか、とあらためて思った。
 これは写真や図録では、やはりわからない。礼拝堂のなかにはいり、回り全体を見まわし、それから「最後の審判」に向き合うとき、ひしひしと感じるものである。「最後の審判」を見ているときは、天上のアダムや周辺のいくつもの絵は見えない。見えないけれど、肉体がそれをおぼえていて、見えないのにその存在を感じる。そして、それがただ雑然と存在するというのではなく、区画後とに完了しながら整然と存在している。その整然は「孤立」ともまた違い、どこかでつながっている。その強い力を感じる。
 一連のフレスコ画をミケランジェロは13年かけて完成させたというのだが、あまりの濃密さに、よく13年間で完成させることができたものだと感動する。

 
 ブルゲーゼ美術館にはベルニーニの彫刻がある。「プロセルピナの略奪」はなんとしても見たいと思っていた。男が女を略奪し、連れ去ろうとする。女が抵抗する。そのときの葛藤が、女の肌に男の指が食い込む形で表現されている。大理石なのに、女の肌(肉体)のやわらかさがくっきりと表現されている。
 しかし、その印象は写真で見て感じていたものであって、実際に見てみると印象が違った。たしかに女の肉体のやわらかさはわかる。だが、奇妙だ。逃れようとするときの肉体の力が伝わってこない。男の手が女の肉体を引き寄せるのを受けいれている、という感じがする。なんとしてもそこから逃れようとする力、男からだけでなく、男にとらえられている女自身の肉体からも逃げようとする女の「真剣さ」(内部の感情/意思)を感じることができない。
 あまりにも滑らかすぎる。形は正確だが、感情は正確に表現されていない、と思ってしまう。技巧的すぎる、と思う。
 ここでまた思い出してしまうのが和辻のことばである。和辻はギリシャ彫刻を批評して、人間の内部の力をあらわしている、と書いている。肉体の内部からあふれてくる力のことである。「プロセルピナの略奪」にもどって言えば、そこには女の、略奪から逃れようとする力が欠けている。和辻のことばの正確さ、感覚の正直さを、あらためて思う。
 前回書き忘れたが、アカデミア美術館の「ダビデ像」。あの巨大な青年像は、写真で見るときよりも私には痩せて見えた。しかし、それは内部の力が外形を引き締めているというよりも、内部の力が外部に動き出していないからだと思う。皮膚を突き破って動いてくるものがない。

 ボルゲーゼにはラファエロやボッティチェリなどの有名な絵画も多いが、私はどうも嗜好が「ルネッサンス絵画」向きではない。見ていて、わくわくしない。色も形も、私の好みにあわない。短時間で多くの作品を見すぎたために感覚が麻痺しているのかもしれないが。
 ルネッサンスは「肉体の再発見」とも言われるが、私には、ルネッサンスの肉体は外形的には肉体だが、どうもピンとこない。肉体を刺戟してこない。これはある程度予測していたことではあったのだが、それを実感できたのはよかったと思う。好きではないものがある、と肉体でわかることは大切だ。私は美術評論家ではないから、自分の好き嫌いしか言わない。
 また、今回の旅の目的は美術作品に触れることよりも、和辻のことばを本の外へひっぱり出して味わってみることにあったのだから、和辻の指摘の正確さを実感できたのはとてもよかった。和辻がイタリアを訪問したのは90年前である。その時代に、自分の肉眼でことばを動かして対象に迫るその力にあらためて感動した。自分の肉眼を動かすことだけが重要なのだ。写真で想像していたものを実際の作品を見て、眼の記憶を修正する。「肉体」そのものを修正する。それは、やはり楽しい。記憶と肉体を、ことばでととのえなおす。これほど楽しいことはない。
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斉藤倫「カラダはそれを理解できない」

2015-06-28 09:42:21 | 詩(雑誌・同人誌)
斉藤倫「カラダはそれを理解できない」(「現代詩手帖」2015年07月号)

 斉藤倫「カラダはそれを理解できない」は、途中までがとてもおもしろい。

心臓はいった
だれかのために働いている
それがだれかわからなくても
肝臓はいった
いざというとき勇気を出すこと
それがわたしの責任さ

 この書き出しは「内臓」の一般的に語られるありかたのように思える。
 「内臓」と「肉体」との関係。心臓は勝手に動いている。いや、意思では動かせない筋肉で動いていて、肉体を支えている。心臓のために働いているのではなく、ほかの内臓のために、あるいは肉体全体のために働いている、というようなことを思う。
 肝臓は、また異物が体内に入ってきたときそれを分解する。「いざというとき」がんばる。そんなことを思ったりする。

唇はいった
黙っているときに
わたしは現れる

 あ、これは美しいなあ。それまで「抽象的」だったものが、ここで突然「視覚的(感覚的)」になる。「意識」を通さないいと見えなかったものが、ここでは「意識」を突き破って、「肉体」に直接響いてくる。
 で、そのあとが傑作。

ふくらはぎはいった
ときどき蚊に刺されると
すねのほうにいってくれっておもうよ
足の裏はいった
雨の日に厚い靴の底で
タバコの吸い殻をふむと
すごくむにゅっとする

 笑ってしまう。肉体が動いて、現実とぶつかっている。心臓や肝臓がいっていることも現実には違いなのだろうけれど、どこか「頭」で理解していることであって、「ふーん」という感じがする。
 しかしふくらはぎと足の裏の言っていることは「頭」を経由しないで共感できる。「わかる、わかる」という感じ。
 ふくらはぎじゃなくてすねが蚊に刺されたら刺されたで、すねはふくらはぎの方を刺してくれよと思うかもしれないけれど、この「いいかげんさ」が肉体にぴったりだなあ。自己中心的。自己中心的といいながら、肉体には変なところがある。自分の肉体なのに、自分ではどうすることもできない。どうすることもできないけれど、どうしなくても、生きてしまっている。そういう「手触り」のようなものが、「あっちを刺せよ」という身勝手(?)な意識の噴出から、直接、つたわってくる。
 タバコの吸い殻を踏んだときの「すごくむにゅっとするな」の「むにゅっとする」となまなましいなあ。「むにゅっ」は何と言い換えていいのかわからない。「そうか、あれは『むにゅっ』なのか」と思い出すのである。「むにゅっ」が私の肉体のなかから、斉藤のことばにひっぱり出されて、もう一度肉体そのものになる感じ。
 そういえば、ふくらはぎが蚊に刺されてすねのほうを刺せよと思うときの感じも、私の肉体のなかにある何かがひっぱり出されているなあ。蚊に刺された記憶。ここじゃなくて、あっち、というより、自分じゃなくて隣のひとを刺せよと思ったときのこととか。
 ことばは、こんなふうに、肉体がおぼえていることをひっぱり出して、肉体そのものを新しくするとき、詩として感じられるものなのだろう。
 知っている、おぼえている。けれど自分ではことばにできなかった。それが他人のことば(斉藤のことば)に導かれて、知っていると思っていたこと、おぼえていたことが、実感できる。この実感は共感でもある。斉藤は斉藤の肉体のことを書いているのに、読んだ瞬間、それが斉藤の肉体の体験であることを忘れてしまって、まるで自分の体験として思い出してしまう。これが共感。
 私はこの共感をセックスとも呼ぶのだけれど。
 共感のなかで、自分の肉体と他人の肉体(斉藤の肉体)の区別がなくなり、自分自身の外へ出てしまう。エクスタシー。自分の肉体がおぼえていること(自分の肉体のなかにあること)を思い出すのに、その思い出したもの(肉体のなかにあるもの)は、自分を突き破って、新しく生まれた私となる。

 でも、私は、ここまでしか「共感」できない。
 詩はこのあと

カラダは自殺を理解できない

 という行を境にして、違ったものになってしまう。タイトルの「それ」は「自殺」と言い直され、理屈ぽくなる。
 きっと「理解」ということばも影響しているだろうなあ。
 「理解」というのは「頭」でするもの。「肉体(斉藤はカラダと書いているのだが……)」は「理解」なんかしない。「肉体」は「理解できない(わからない)」ままでもかまわないものなのだ。斉藤の書いている「心臓」は三行目で「わからなくても」ということばをつかっているが、「わからなくても」かまわない。そこに存在していることがすべてなのだから「理解する」必要はない。「頭」なんかの言い分は関係がない。
 「肉体」はただ「共感」するのものなのだと思う。

 こんな勝手な感想では、斉藤の詩を読んだことにならないのだろうけれど、私は斉藤を「理解」したいわけではない。「理解」なんかしたくない。「理解」したら、めんどうくさくなる。勝手に、ここが好き、ここがおもしろい。あとはわからない、という具合にすませてしまうのである。
さよなら、柩
斉藤 倫
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*

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嵯峨信之を読む(102)

2015-06-28 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(102)

153 蛆虫の唄

俺は大笊の中いつぱい蛆虫を飼いながら
そのしずかな唄に聞き惚れる
湯沸しから湯がもれるような
あるいは木の葉に蛾が卵を産みつけるようなあのふしぎな唄を聞く
この直情の唄だけが俺を少しも欺かない

 強烈な響きの詩である。蛆虫とこころを通わせている。「直情」を感じ取り、それを信頼している。
 この「直情」ということばにたどりつくまでに、嵯峨は「その」「あの」「この」ということばをつかっている。指示詞。その繰り返しは、嵯峨が、ながいあいだ蛆虫について考えていたことを感じさせる。ながいあいだ親しみ、ことばを動かしながら「直情」という表現にたどりついたのである。
 時間をかけず、インスピレーションのままにつかみとったことばも強いが、こんなふうに少しずつ何かを確かめるように動きながら手に入れたことばも強い。

俺はそつと笊の中へ手を入れる
すると蛆虫は手首から腕へ
腕から脇の下へ 脇の下から頸へぞろぞろと這い上つてくる
俺はその蠕動のやわらかなひろがりに全身を快く委ねる
俺は陶酔し 恍惚となり 深い深い眠りにはいつてしまう

 これは異様な光景だが、先に見た「その」「あの」「この」の繰り返しが、ここでは「手首から腕へ/腕から脇の下へ 脇の下から頸へ」という尻取りのようなことばの動き、前のことばを引き継ぎ、もう一度繰り返すという形であらわれている。それはさらに「快く」「陶酔」「恍惚」という変化にもみられる。意識を飛躍させるのではなく、先に書いたことばを引き継ぎ、連続させる。その「連続」の最後に「深い深い眠り」がやってくる。「深い深い」も単なる「深い」反復ではなく、ことばを引き継ぎ別な世界へ入っていくための「論理」である。動き方、運動の仕方である。
 だから「深い深い眠りにはいつてしまう」と書いても、それで終わりではない。最初の「深い」と二度目の「深い」では内容が違っている。そこからさらに状況は変わる。「恍惚」とは違った場面へと詩は動いていく。

しかし 俺はとつぜんその蠢く厚手のバスマットに強く緊めつけられて 愕然とする
俺は慌てて全身の力で蛆虫を振い落とそうとするが その時はもう遅い
このどこまでも吸いつく柔軟なバスマットの海老固めはますます烈しさを加える
俺はとどのつまりその場に昏倒して 息絶えてしまう

 これは「激変」というものだが、その激変はなぜかゆっくりしている。前半の、ひきずるようなことばの動きがそのままことばのなかを動いているからである。「烈しさ」ということばが出でくるが、「烈しさ」ということばがないと「烈しさ」を表現できないような、ゆっくりとした変化。ゆっくりしているが、けっして変更できない(引き返せない)強い変化である。
 その「意味」よりも、そういう動きに至ることばの連続感が詩そのものである。
 よく見ると、最初につかわれていた指示詞が復活してきている。「その」蠕動、「その」蠢く、「その」時、「この」どこまでも、という具合に。「昏倒」「息絶える」という意味の繰り返しもある。
 「蛆虫」は繰り返し繰り返し、人間にまとわりついてきて何かを連想させるものである。

嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

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松岡政則『アピアピ』

2015-06-27 10:31:47 | 詩(雑誌・同人誌)
松岡政則『アピアピ』(「現代詩手帖」2015年07月号)

 松岡政則『アピアピ』は旅の詩なのだろう。「アピアピ」は地名だろう。

行ったことはないのだけれど、
からだのどこかで知っている。
アピアピ。
北緯4度の純一。

 二行目の「知っている」は「おぼえている」ということだろうか。「からだ」そのもののなかにある「いのちの遺伝子(本能)」が「おぼえている」。「おぼえている」といっても自力では思い出せない。「アピアピ」に行ったら(そこで誰かに、あるいは何かに出会ったら)、それを契機に「おぼえている」ことが「思い出」となって動き出す。
 そういうことを、松岡は、こんなふうに言い直す。

ぢべたに坐ってアピアピ。
スラマッパギ(おはよう)アピアピ。
ことばは通じなくても、
たがいにわかり合えることがある。
いのちの働きなら知っている。

 ことばは通じない。でも、わかる。たとえば人と人が出会えば、そしてそれが朝ならば、発することばは朝の挨拶。挨拶してしまうのが「いのちの働き」。それは、互いに「私は怪しいものではありません」と名乗るかわりにかわすことばなのだ。人は人と出会ったとき、そんなふうに挨拶することでつながってきた。
 そして、こんなふうに人と出会った後、松岡は大きく変わっていく。そこがおもしろい。旅の醍醐味があふれてくる。

キナバル山を背に、
ルングス、ムルッ、ドゥスン。
潮焼けのまばゆい顔は海洋民族バジャワ。
ほんとうはみんな交じりたいんだ。
じぶんがだれだかわからなくなりたいんだ。
バティックシャツ着てアピアピ。
ひとをダメにする楽園アピアピ。
西にむかって祈るおんな。
早耳のおとこが走る。
物語はいらない分別はいらない。

 人と人が出会ったとき挨拶する。その遺伝子のなかで、一瞬、「自分」を忘れる。「自分」ではなくなる。「おはよう」と直観でわかって、「おはよう」ではなく「スラマッパギ」と言ってみる。そうすると「自分」ではなくなる。この瞬間は、とても楽しい。もう一度、「スラマッパギ」とことばがかえってくるだろう。そうやって受けいれられるのだ。交じり合い、「自分」をこえて「いのち(本能)」になる。
 「いのち」になるからこそ、「西にむかって祈るおんな」にもなれば、「早耳のおとこ」になって「走る」こともする。「おなん」と「おとこ」とふたりの人間が書かれているように見えるが、これは「ふたり」とも松岡自身である。松岡は、もう「自分」ではなくなっている。
 「分別」を捨てて、「物語」を超えて、「じぶんがだれだかわからなくなりたいんだ」という欲望(本能)そのものを実現している。
 途中を省略して、最後の四行。

淫靡なにおいのアピアピ。
まはだかな聲アピアピ。
なんの続きにいるのだったか。
だれに話したいのだったか。

 「物語」「分別」がなくなっているから「なんの続き」かはわからない。いや「いのち(本能)」のつづきであることは、わかっている。それで十分だから、そのほかの「分別/物語」はいらないのだ。
 そのことを

だれに話したいのだったか。

 この終わりの一行が美しい。ことば(聲)を出すかぎり、ひとは誰かに向かっている。でも、その「誰か」はわからない。その「誰か」はきっと、このことばの先に自然に生まれてくるのだ。知っている誰かではなく、知らない誰かに、誰であるかわからなくなった「じぶん(松岡)」が出会い、そこで松岡自身が生まれ変わる。
口福台灣食堂紀行
松岡 政則
思潮社
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嵯峨信之を読む(101) 

2015-06-27 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(101) 

153 磔刑

 青春は不思議なものである。苦悩にさえあこがれる。

ぼくは物音のとだえた深い静けさのなかで
いままさに失いつつあるものをはつきりと見きわめる
この不在の遠い階段をぼくはのぼつてゆく
そして大地が一個の巨大な氷塊になつたとき
ぼくは燐光を放つ人柱となつて
垂れさがつた厚い空をしつかり支えるだろう

 「不在の遠い階段」は「不在の長い階段」。目的地が遠くにあるから「遠い」という形容詞が結びつく。「論理的」には奇妙なのだが、こういう「短縮形」が詩の秘密である。ことばを越えて、かけ離れたものを結びつけてしまう。
 しかし「不在の階段」をどうやってのぼるか。そこをのぼっていくのは「肉体」ではない。「精神」である。「精神」は最初から「架空」のものなのだ。「虚構」なのだ。だから、「不在」の階段をのぼることができる。
 「燐光を放つ人柱」もまた「精神」の比喩のひとつである。
 そうであるなら、凍った大地も、垂れさがった空もまた比喩であり、虚構である。
 虚構のなかで動き、苦悩する精神。それが青春というものかもしれない。この詩を書いたとき嵯峨は何歳だったか。それはふつうに言う「青春」の世代とは違うかもしれない。嵯峨の「精神」が「青春」だったということだ。



嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

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フィレンツェ、ローマの旅(1)

2015-06-26 23:07:55 | その他(音楽、小説etc)
フィレンツェ、ローマの旅(1)

 私は和辻哲郎の文章が大好きである。和辻の見たものを自分の眼でも見てみたい。そう思ってフィレンツェとローマにある絵を訪ねた。「イタリア古寺巡礼」の一部を追いかけてみた。写真(本/図録)と和辻の文章をとおして知っていると思い込んでいるものを、自分の眼で見て修正する(自分のことばにしてみる)旅である。

 「受胎告知」は多くの画家によって描かれている。フィレンツェで見ることかできる作品では、レオナルド・ダビンチの作品とフラ・アンジェリコの作品が有名だと思う。私はまずウフィツィ美術館でダビンチを見て、そのあとでサン・マルコ美術館でアンジェリコを見た。
 ダビンチの絵は私にはあまりおもしろくなかった。ウフィツィにある無数の作品のなかで印象が弱められてしまったのかもしれない。しかし、マリアの表情(驚き)が指に表現されていて、そこに肉体がある、と感じた。右手の指先に力が入っている感じがなまなましい。左手の驚きで力がぬけた感じとの対比のなかに、人間の肉体のなかで動いている感情の不思議さを感じた。驚き、放心し、一方で何かにすがろうとするかのように肉体が動いている感じが、指の変化のなかにあらわれている。
 ガブリエルの翼の描き方も、奇妙に印象に残る。肩から、翼の曲がり角にかけての部分が非常に強い。鳥の翼はこんなにたくましかったか。よく思い出せないが、私の鳥の翼の記憶とはかなり違う。
 このあとアンジェリコを見た。アンジェリコには「受胎告知とマギの礼拝」(テンペラ?)と「受胎告知」(フレスコ)のふたつがある。「受胎告知とマギの礼拝」の天使の翼の描き方について和辻は「不自然さ」を指摘している。「形はあまり感心ができない」と。
 私はまったく逆に感じてしまった。カラフルな色彩とやさしい形に、あ、これが天使かと思ってしまった。肉体を感じない。ダビンチの作品では天使さえも人間の肉体の重さをもっていて、それを持ち上げ、飛ぶには強靱な翼が必要だと感じる。しかしアンジェリコの作品では天使なのだから人間ではない、もっと身軽だ。だから翼も「飾り」でいいのだ、と納得させる。
 マリアは右手を下に、左手を上にして体を押さえている。自分の肉体のなかで起きている変化を手で確かめようとしている。けれども、そんなに肉体を感じさせない。むしろ眼の輝きに肉体を感じる。肉体の内部で動いているものが視線になってあらわれている。
 喜びは天使の翼の色彩の変化のなかにある。マリアが驚き、とまどっているのに対し、天使の肉体(?)のなかからは喜びがあふれてきて、それが翼の色彩の変化として表現されているように感じた。手の組み合わせ方が、マリアとは逆に左手が下、右手が上になっている。ふたりが向き合うと胸像のように左右対称になる。それが「世界」をしっかり固定させる感じだ。
 その一方で、二人のあいだには柱があって、それが絵を見る側からすると、人間の世界と天使の世界を分断しているようにも見える。間に柱がないダビンチの方が連続感がある。(「受胎告知とマギの礼拝」の方にはさえぎるものがない。)しかし、この分断が、なぜか「清潔」に感じられる。「分断」があるからこそ「真実」という感じがする。「柱」を超えて、天使とマリアを一体のものとしてつかみとるとき、そこに「真実」が実現するといえばいいのか。
 処女が神の子を受胎する(妊娠する)というのは、どう考えても条理を超えている。間違っている。しかし、間違っているからこそ、そこに真実(信実?)がある。信じることで「間違い」を「ほんとう(真実)」にしてしまうとき、その「信じる」のなかで何かが変わる。「真実」が「肉体(信実)」になる。真剣にそれを追い求めている。私は宗教というものを信じていない(「精神」とか「魂」も存在するとは考えていない。方便として、そのことばはつかうけれど……)のだが、この真剣さが「宗教画」というものか、と感じた。
 これに比較すると、ダビンチの方は「宗教」というよりも、もっと「人間的(肉体的)」であるように思える。

 サン・マルコには、「受胎告知」のほかに、それぞれの個室の壁にフラスコ画が描かれている。これが、またたいへん美しい。色彩に陰影があるが、余分な混ざり気がない。壁の白をそのまま生かしている。余白(?)が「個人」というものを浮かび上がらせる。精神を感じさせる。「受胎告知」とは別の美しさである。特に回廊を曲がる寸前から始まる十字架のキリスト(磔刑のキリスト)とひとりの僧が向き合ったシリーズがすばらしい。血を流すキリストの、その血の色が強靱で、血の色を初めて美しいと感じた。それは「肉体」の真実なのだが、同時に「肉体」を超えるものの象徴のようにも感じた。

 アカデミア美術館にあるダビンチの「ダビデ像」は人が多すぎて、何か作品を見ている感じがしない。集中できない。

 それにしてもフィレンツェには見るものが多すぎる。ウフィツィだけで、頭がくらくらしてしまう。写真で知っているものを肉眼で修正するにはとても二日、三日では時間が足りない。どうしても「記憶」の方に引き返して安心してしまう。「あ、これがボッティチェリのヴィーナスの誕生か、春か。これが和辻の指摘していた草花の細部か……」という具合である。自分のことばにする余裕がない。さらに絵の前を通りすぎる人や、写真を撮るひとの姿にも疲れてしまう。
 サン・マルコはなぜか人が少なく、静かだったことも、アンジェリコの絵をすばらしいと感じた要因かもしれない。
 
 ドゥオーモは全体像の美しさを把握するのがなかなかむずかしいが、ヴェッキオ宮殿の塔から見ると姿がよくわかる。ドゥオーモとジョットの鐘楼に登るよりも、ヴェッキオ宮殿へ行くことをお勧めしたい。

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谷川俊太郎『あたしとあなた』(2)

2015-06-26 11:21:32 | 詩集
谷川俊太郎『あたしとあなた』(2)(ナナロク社、2015年07月01日発行)

 きのう書いた感想を少し書き直す。「音楽」という作品。

あたしの
音楽は
うんと
遠くから
聞こえて
くる

ヘッドフォンから
じゃない
もっと
遠く

あなたの
水平線を
越えて
あなたの
オーロラも
越えて

意味の
要らない
幻の
草原で
あたしは
チューバと
子どもみたいに
鬼ごっこ

 2連目。
 一連目の「遠く」を「ヘッドフォンから/じゃない」と言い直している。
 この「遠近」の肉体感覚に私は「頭」を叩き割られた感じがする。「遠く」ということばから、どうしても山の向こうとか、宇宙の彼方とかを想像してしまう。そしてそういうとき私の「肉体」は動いていない。「頭」だけで想像している。「定型」を想像しているだけだ。
 「遠く」を想像する(考える)とき同時に「近く」を想像することはない。いま、むりやり想像してみたとしても「近く」なら、部屋の隅とか、開けた窓の外くらいを思い浮かべる。ヘッドフォンのように肉体に密着した「近さ」というものを考えない。
 そのために「遠く」を「ヘッドフォンから/じゃない」と言い直していることに、つよい衝撃を受けたのだ。
 谷川は「肉体」でことばを書いている。「肉体」で詩を書いていると、強く感じたのだ。

 「ヘッドフォン」はまた「音楽」の言い直しでもある。谷川は、「音楽」は「機械(ヘッドフォン)」からは聞こえてこない。別な場所から聞こえてくる。べつなところに鳴り響いていると言い直していることにもなる。
 「遠/近」よりも「機械/自然・宇宙」という対比を語っているのかもしれない。「水平線」や「オーロラ」「草原」ということばは、そういうことを感じさせる。
 しかし、これは、「頭」で整理した「論理」。
 私は、やっぱり「ヘッドフォン」ということばといっしょにあらわれた「肉体」に衝撃を受けたのだ。ヘッドフォンを外したところには別の「肉体」があり、「音」を出している。奏でている。それが「音楽」として聞こえる、という「肉体」の感覚に衝撃を受けたのだ。

 きのうと違う感想を書こうとして書きはじめたのだが、また、元へもどっていくような、ずれていくような、感じがする。私はいつでも「結論」を想定しないで、思いついたことをつなげていくので、書いているうちに思っていることが変わってしまう。
 「脱線」も感想の重要な部分だと思うので、このままつづける。

 「音楽」と「ヘッドフォン」。いまはあたりまえのようにして人はヘッドフォン(イヤフォン)から音楽を聴いている。電車に乗ってもバスに乗っても、イヤフォンをしたひとを見かける。歩いていても、そうである。
 私はどちらかというと新しいもの好きなので、ウォークマンもiPODも買ってつかったがすぐに飽きてしまった。いまはつかっていない。ちっとも楽しくない。もともと音楽的な人間ではないし、イヤフォンをして音楽を聞くのがめんどうくさいと感じる。自分だけに聞こえる「音」というのは、聞くというよりも聞かされるという感じがして、何か気持ち悪いとも思うようになってしまった。
 「ヘッドフォンから/じゃない」ということばに「頭」を叩き割られたと感じ、そこに「肉体」を感じたと同時に、私は瞬間的に「親近感」も感じた。
 「音楽」はそんなところにはない。ヘッドフォン(イヤフォン)を外して、耳を開放したときに聞いてしまうもののなかにある。いま私は扇風機をかけながらキーボードを叩いている。そうすると右から扇風機のモーターの音が聞こえ、左からパソコン(古いデスクトップ)のモーターの音が聞こえる。前からキーボードを叩く音がする。その三種類の音が聞こえる。これは「何/音」、つまり「雑音」それとも「音楽」。わからないが、この三つの音の組み合わせをうまくことばにできたら、それは「音楽(詩)」になるだろうなあとも思う。
 「肉体」の外にあって、「肉体」と交流しようとする「音」。逆かな。「肉体の外にある音」と交流しようと「肉体」が欲するとき、まだ始まる前の「音楽」が生まれていると感じる。私の聞きたい「音楽」は、そういうものなのかもしれない。
 「ヘッドフォンから/じゃない」という二行は、そんなことも感じさせてくれたのだ。


 私のブログを読んだ人は、どっちが「ほんとう」の感想? と疑問を持つかもしれない。どちらも「ほんとう」である。きのうはきのう書いたように感じた。いや、書きながら最初思っていることと少し違ったことを書いているかなとも感じてはいても、書きながら感想がかわっていくのは自然なことだし、そのままなりゆきにまかせて書いた。きょうはきょうで、きのう書けなかったことを書きたいなあと思って書きはじめる。その瞬間には「ほんとう」があるのだけれど、書いていると、ことばは「ほんとう」から少しずれて動いてしまう。「ほんとう」に感じていることというのは、まだことばにしたことがない何かなので、はっきりとはことばにできない。正確には書けない。どうしてもおぼえていることば、おぼえている書き方の方へ動いてしまう。これは、仕方がないことなのだと私は思っている。繰り返し繰り返し、少しずつ書き直していくしかない。
あたしとあなた
クリエーター情報なし
ナナロク社
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嵯峨信之を読む(100)

2015-06-26 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(100) 

152 氷嶋

 萩原朔太郎の「氷島」を意識して書かれた詩なのだろうか。

いつまでもひとり戸外に立つて
あの裏切り者が吹くすすりなくような口笛を信じるな

 「すすりなく口笛」は朔太郎の音楽を感じさせる。それを「信じるな」と嵯峨は書く。朔太郎とは違う音楽の詩を嵯峨は目指している、ということの表明だろうか。あるいは、その音楽に惑わされずに、音楽の底にあるものを掴み取れというのか。

彼の内部をひた走る針鼠をみつめよ

 この三行目は、音楽よりも苦悩をみつめるべきだという主張に聞こえる。

すべて屍の眼は断罪のきびしさに見開いたままだ
一つの星に飾られた氷嶋
その永劫の墓場へむかつて一列の漂体はどこまでもながれてゆく

 この終わりの三行は、嵯峨の音楽が、たしかに朔太郎とは異なっていることを教えてくれる。嵯峨の場合、漢語(漢字熟語)が肉体から分離している。精神は肉体の不透明さを拒絶している。精神で肉体をととのえるという感じがする。
 「屍の眼は断罪のきびしさに見開いたままだ」ということばは、嵯峨が「音楽」さえも「眼」で見ようとしていると感じさせる。「眼」で聞くという感じがしない。見ることをやめれば、もっと音楽がやわらかくなるのに、と思ってしまう。

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谷川俊太郎『あたしとあなた』

2015-06-25 20:14:44 | 詩集
谷川俊太郎『あたしとあなた』(ナナロク社、2015年07月01日発行)

 昨年秋に出版された『おやすみ神たち』(ナナロク社)は詩と写真と紙がにぎやかに交錯していて、とても楽しかった。私は「魂」の存在というものを感じたことがない(考えたことがない)のだが、どんな「もの」でも輝いている瞬間が魂なら、それはとても楽しいことだと思う。昨年読んだときはそんなふうには感じなかったのだが、いま『あたしとあなた』を読み終えて、ふと思い出すと『おやすみ神たち』のなかの詩(ことば)、写真、紙質の交錯はモーツァルトのように豪華だったと思う。
 では、この『あたしとあなた』は何? あ、私は音楽にはとても疎いのでモーツァルトの対極(?)にある音楽が何なのかわからないが、たとえて言えば、何となく思いついてメロディーを口ずさむような、シンプルさがある。完結(完成)を目指していない、というと谷川に叱られるかもしれないが、「整合性」を突き破って何かがうまれる瞬間が聞こえる感じだ。
 そのことばのシンプルで素早い動きを読みやすくするために、特別の紙をつくって製本された詩集。ナナロク社の本は「もの」としても詩を目指しているのようだ。
 私は、製本のことは何も知らないので、あ、美しい本だなあという感想しか書けないが、その美しい本のなかから聞きとった音楽について書いてみたい。

 「音楽」という作品。

あたしの
音楽は
うんと
遠くから
聞こえて
くる

ヘッドフォンから
じゃない
もっと
遠く

 あ、と私は思わず叫んでしまう。
 「遠くから」と読むと、私はほんとうに遠いところを想像してしまう。空の向こうから、星の彼方から、それこそ十億光年の孤独から、という具合に想像してしまう。
 この私の「定型の想像」を谷川は「ヘッドフォン」という至近距離で壊してしまう。「ヘッドフォンから/じゃない」と谷川は否定しているが「じゃない」は遅れてやってきたことばだ。「ヘッドフォンから」がまずやってきて、「ヘッドフォンから」音楽を聴くことが日常的になっている「現実」をくっきりと浮かび上がらせる。それを谷川は否定するのだけれど、何かヘッドフォンの「近さ」のなかにも「遠さ」があるような感じがしてしまう。谷川は「ヘッドフォンから/じゃない」と書いているのにもかかわらず、私はヘッドフォンだけがもっている「遠さ」を感じてしまうのである。機械を経由する、その「経由」の「遠さ」を思い、聴覚が張り詰める。

あなたの
水平線を
越えて
あなたの
オーロラも
越えて

 この三連目は、文字だけを読むと「遠い」ところをあらわしているようにも感じられるけれど、「はてしない」という感じがしない。「あなた」ということばのせいだろうか、「近い」ところにある「遠さ」を感じる。
 さらに四連目

意味の
要らない
幻の
草原で
あたしは
チューバと
子どもみたいに
鬼ごっこ

 「幻の/草原」はなつかしい子ども時代の草原のよう感じられる。思い出のなかで「子ども」になって、「子どもみたいに」遊ぶ。
 「ヘッドフォン」を境/壁(?)にして、そこから「外」へ出て行くというよりも、自分自身の内部へ音楽を探しにゆく感じ。「内部」が「もっとも遠い」場所なのだ。「内部」だから「近い」を通り越して、何か「真剣」な感じがする。「真剣」というのは、そこにたどりつくまでがきびしいね、遠いね。でも、そういう「遠さ(真剣がつかむ真実)」のようなものを感じる。

 「せせらぎ」も、「遠い/近い」に似た不思議な「矛盾」がある。

言葉が
剥がれない

死んだ
あなたが
嘆いている
夢を
見た

 と、「悲しい」感じで始まるのだが、「悲しさ」のなかに不思議な親近感がある。「言葉が/剥がれない」というような抽象的(絶対的?)なことを聞いてしまった「近さ」が、そこにある。「遠い」関係にある人なら、こんなむずかしい嘆きを人には語らない。「あたし」と「あなた」はとても親しい関係にあるのだ。
 親近感があるから、

とても
静かだったので
あたしも
死んでいた
のかも

 区別がなくなる。「死ぬ」というのは絶対的な「遠さ」なのに、自分がそこに参加(?)してしまえば、「近い」としか言いようがない。
 そして、このあと、

遠い
せせらぎの
音で
目が覚めた
春の
ある日

 死を描きながら、なぜか、のどか。明るい。あ、夢だった。よかった。というよりも、死ぬということは、きっと最終連のような状況のなかへ「目を覚ます」ことなんだなあと思ってしまう。「永眠」するのではなく、「永遠(美しい春の光)」のなかへ目覚めるというのが死なのか、と思ってしまう。
 この矛盾が好きだなあ。

 「どんどん」という作品も、ことばが描写を越えて、矛盾のなかで真実になっていく。完結しないで、逆に、無に解放されると言えばいいのかな。

気球に乗って
あたしが
どんどんどんどん
昇っていくと
下界で
あなたは
どんどんどんどん
小さくなって
でも
消え去らない

 小さくなるなら消えるのが「視覚の論理」。でも、「あなた」をよく知っているときは、どんなに小さくても「見える」。「あなた」より大きな木が見えなくなっても「あなた」は「見える」。谷川は「消え去らない」と書いている。そうなのだ。「見える」ではなく「消え去らない」。「あたし」のこころから「消え去らない」。むしろ、見えないからこそ、こころはそれをしっかりつかんで放さないのかもしれない。
 でも、谷川の詩は、そんな「理屈」を書かない。「理屈」を壊してしまう。

やがて
あたしは
空に到着
そこからあなたに
空語で
お便りします

はるか下で
羊が
かすかに
めええと
言っている

あたし
もう
何もかも
ないことに
する

 またまた、びっくりしてしまう。「何もかも/ないことに/する」の「ない」とは何? ほんとうに何もない? 逆だね。すべてを「ある」と感じ、それで満たされているので、「ある」を言うことができない。「ある」がありすぎる。そのすべてを言うことは、ことばには無理。だから、「ないことに/する」。
 最後の「する」は「あたし」が「する」ということ。
 客観的状況ではなく、「主観」の主張。充実した喜び。

 ことばの「客観的意味」がいつでも「絶対的主観」によって叩き壊されている。その「意味」からの解放、「矛盾」のなかで、永遠が輝く。
 谷川はどこまで若くなるのだろう。

あたしとあなた
谷川 俊太郎
ナナロク社

*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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嵯峨信之を読む(99)

2015-06-25 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(99) 

151 詩壇

 「詩壇」とは何か。詩人のあつまり、詩人があつまってつくりだす一種の「共同認識」のようなものか。嵯峨は、そこから距離を置こうとしている。

詩壇
卑屈で 矮小で破廉恥で蛆虫のむらがる汚辱の詩壇

 否定的なことばをつらねている。つらねてもつらねても、言い足りないのかもしれない。言い足りないと感じるのは、嵯峨には「理想」があるからだ。その反動として、憎悪が噴出している。
 嵯峨の「理想」とはなんだろう。
 「詩人」ではなく「詩」そのもののことを思っているようだ。詩人(あるいは、その詩人たちにもてはやされている詩)は死火山にほうりこんでしまえ。千年たって火山が爆発したら、

もっとも遠くへ落下した大きな火山弾を力いつぱい打ち割つてくれ
もしその中からアネモネの可憐な新芽が出てきたら
生き残りの者が涙をそそいで
氏名不詳の最後の詩人の屍の上にアネモネの大輪の花を咲かせてくれ

 甦るアネモネの花。それが嵯峨にとっての詩である。死んだものの中に、きっとそれがある、というのは、逆に言えば、「詩壇(既成の詩人/既成の詩)」はいったん死なないと詩を生み出すことができない、ということかもしれない。
 「詩壇」を嫌いながら、詩を愛しつづける詩人の姿が見える。

152 敗者へのレクイエム

 この作品は「詩壇」から離れたところで詩をみつめている嵯峨の自画像かもしれない。敗者「の」レクイエムではなく、敗者「への」レクイエムなのは、自分で自分への「レクイエム」を捧げるということなのだろう。

大きな楯を捨てた
ぼくは戦線からはるかに遠く離脱したのだ

 「大きな楯」とは「詩人」という呼称、「戦線」とは「流行の詩壇」と読むことができるかもしれない。「流行」を追わずに、自分の信じる詩を道を探す。そのために「詩学」を発行しつづける嵯峨の姿が重なる。

山頂の絶壁はきびしくぼくを待つ
ぼくはその頂上の巨岩から垂直に谷底へ投身する
卑怯者のぼくの屍の上に
もはや誰が大きな楯を覆いかぶせてくれるだろう

 「投身(自殺)」に意識が奪われてしまうが、その前に書かれている「山頂の絶壁はきびしくぼくを待つ」の「きびしい」に目を向けるべきなのだろう。投身できるのは、「きびしい」絶壁を攀じ登ることができたものだけの特権である。その特権を象徴するのが「頂上の巨岩」であり「垂直」という比喩である。
 「まっすぐな」詩がそこにある。
嵯峨信之全詩集
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嵯峨信之を読む(98)

2015-06-24 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(98) 

150 父よ 振り向け

 詩はいつでも矛盾のなかにある。「父よ 振り向け」も不思議な矛盾で構成されている。

ぼくの苦悩はただ一つの道をたれも教えてくれないことだ
ぼくのゆくてが
太陽の輝きで目ぶしく遮断されたら
遠くにひろがる砂漠の果まで
ただちに暗くなつてしまうだろう

 この前半は自分の「道」を見出せない嵯峨の苦悩を書いているように見える。「道」とは、和辻哲郎「古寺巡礼」に出てくる「道」だろう。和辻の父が和辻に「お前の道はどうなっているのか」と問うたときの「道」。それはいつでも自分でつくるものなのだけれど、それをどうつくっていいか嵯峨は見出せずにいる。
 ただ、その書き方が、かなり変わっている。
 太陽の強い光で目をやられてしまったら、明るいはずの砂漠が暗くなる。実際に日が落ちて暗くなるのではなく、まぶしさのために暗くなる。無限の可能性のために、迷い、道を見出せない、と苦悩している。
 このあと、突然、父が出てくる。

その道を遠く去り行く父よ
ひとりゆき暮れる父よ

 自分の「道」を見出せないとき、嵯峨は「父の道」はどうだったのか、と思ったのか。その父は、いまは、いない。

埋もれた井戸はどこにあるか
渇きよ 渇きよ
死こそ
太陽の中にゆれる大きな黒い花
父よ
振り向け

 父もまた何かに渇望して(「渇きよ 渇きよ」という行が「渇望」ということばを誘い出す)、「道」を見出せないまま、太陽に目を焼かれ(太陽の中に「黒い花(闇)」を見て)さまよったのか。
 「道」はいつでも、さまようという動詞のなかにあるのかもしれない。そしてそれは、振り返ったときだけ見えるものなのかもしれない。「ぼくの前に道はない/ぼくの後に道はできる」ものなのか。
 「たれも教えてくれない」と書いているが、嵯峨は父から「歩く/進む」ということを学んだと書いているようにも見える。太陽に向かって歩いていった父は、嵯峨からみると、「太陽の中にゆれる大きな花」そのものなのだろう。
嵯峨信之全詩集
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嵯峨信之を読む(97) 

2015-06-23 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(97) 

149 盲目の鳥

 この詩は、張り詰めている。ことばにゆるみがない。前半の五行。

ふとぼくは何かもの音を聞く
どこかの部屋で固く錠をおろしている音が聞える
たれかがいまそこから出て行つたのだ
麓の遠いかなしい山脈にむかつて
そしてふたたび何ものにもみだされぬ空気がその部屋に充ちてくるだろう

 何人もが住んでいる建物。いくつかある部屋。それぞれに住人がいて、その誰かが部屋を出て行く。そういう状況だが、その建物は嵯峨自身かもしれない。ひとのこころにはいくつのも部屋がある。そのなかに住んでいるひとりの嵯峨が部屋を出て行く。そんなふうに読むことができる。なぜ、そんなふうに読んでしまうかと言えば、

そしてふたたび何ものにもみだされぬ空気がその部屋に充ちてくるだろう

 この想像が「親身」だからである。自分のなじんでいる部屋を思わせる。そこになじみがないなら、「何ものにもみだされぬ空気」を思ったりしないだろう。「彼」が出て行くまで、その部屋は彼の思いで乱れていた。空気の乱れのない部屋。その静かさを、こころの平安を嵯峨は願っていたのか。
 しかし、そんな単純なことでもない。苦悩していた「彼」がいなくなれば部屋は静かになるか。静かかもしれないが、さびしいかもしれない。
 詩は、後半、まったく違った風に展開する。

閉されている窓が高い塔の上に見える
真暗な夜空のなかに聳えている白い塔
その塔にむかつて一羽の大きな鳥が地上すれすれに飛んでくる
疲れきつている鳥のかすかな飛翔の音がきこえる
なにかを求めて喘いでいる盲目の鳥の飛翔が

 この鳥は、部屋を出ていった「彼」に見える。高い塔は孤高の嵯峨の姿かもしれない。出ていった「彼」は、その高い塔を目指していたのかもしれない。
 そう考えたとき、おもしろいのは三行目。

その塔にむかつて一羽の大きな鳥が地上すれすれに飛んでくる

 「飛んでいる」でも「飛んでいく」でもなく、「飛んでくる」。視線が「塔」の方から鳥を見ている。塔を見ている嵯峨は消えて、嵯峨は塔になって、鳥を見ている。
 なにかを求めて出ていった「彼」、その「彼」が鳥になって、しかも盲目の鳥になって、ふたたび帰ってくる。「彼」が出ていったときよりもさらに高く、「孤高」を強めた嵯峨の「存在」へ。
 自分のなかにいる「他者」を描きながら、それが「自我」になって帰ってくる。主客がするりと入れ代わる。この微妙な変化がことば全体を支配し、緊張を高めている。
嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

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嵯峨信之を読む(96) 

2015-06-22 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(96) 

148 ぼくは生きた

ぼくは生きた
今日まで生きた
泣き顔で生きた
火ばしで
ひつ掻く炭火がないとき
自分で
自分の顔を撹きまわした

 「火ばしで/ひつ掻く炭火がないとき」という具体的な描写がおもしろい。いまは「火鉢」もなければ「火ばし」もない。「炭火をひつ掻く」ということもないから、わかりにくいかもしれないが、それがあった時代を生きてきた私には、この「動き」がとてもよくわかる。
 その直前に「泣き顔で生きた」という一行がある。「泣いて生きた」のとは違う。「顔」は泣いているが、声は出していない。声を押し殺している。そして、声を押し殺すとき、嵯峨は火鉢の炭火を火箸でひっかいていたのだ。その手の動きが「泣く」ということだったのだ。
 次の「自分で/自分の顔を撹きまわした」は「火箸」の動きに比べると抽象的。「炭火」がなくても、火鉢の灰をひっかきまわし、そこに自分の顔を見ていたのかもしれない。そういうことも感じさせる。
 そのあと、

闇の中に
ぼくの泣き顔が真赤に浮かんだ
(それは虎の顔ではない 蛙の顔だ)

 この行で私は立ち止まった。「自裁」の最終行、

蛙の真赤な泣き顔を正面からおもいきり槍で貫らぬけ

 なぜ「蛙」なのか、その「比喩」がわからなかったのだが、「蛙の顔」というのは嵯峨の悲しいときの「自画像(自己認識)」だったのか。
 こういうことが、ふっとわかる(伝わってくる)と、そこに詩人がいるような気がしてくる。私は嵯峨に会ったことはないのだが、会ったことがあるように、その顔(写真で見た顔)を思い出したりする。こういうことも詩を読む楽しみかもしれない。
嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
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