詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アンナ・ジャスティス監督「あの日あの時愛の記憶」(★★★★)

2012-08-31 09:29:13 | 映画
監督 アンナ・ジャスティス 出演アリス・ドワイヤー、マテウス・ダミエッキ、ダグマー・マンツェル、レヒ・マツキェビッチュ、スザンヌ・ロタール

 ラストシーン。女が男に会いに行く。バス停にバスが着く。男が待っている。女はなかなか降りてこない。最後にやっと降りてくる。この間、音楽が鳴っている。そしていよいよという瞬間に音楽が切れる。沈黙でもない。静寂でもない。音にならない何かがはりつめている。女と男が互いに相手をみつめる。そして会いたかった相手だとわかる。その瞬間に、映画が終わる。
 この抑制のきいたラストがとてもいい。沈黙でも静寂でもないほんの1秒くらいの間に、それまでの映画のシーンがすべて噴出してくる。語る必要はない。二人がその後どうしたかはどうでもいい。二人が過酷な戦争を生き延びたように、愛もまた生き延びた。そして、いま、ここにいる。それが「平和」ということなのかどうかもわからないが、そうか、人は一度ひとを愛したらけっして忘れることはできないのか、それがいのちというものなのかということが、その音の「空白」のなかからはじける。
 そこにはほんとうは音楽がある。けれどその音楽は楽器では表現できない。旋律では表現できない。リズムでも表現できない。まったく新しい音楽だからである。まだだれも体験していないので、それを「共有」できる旋律や音がないのだ。
 ここから私たちは(私は)どこへ引き返していくべきか。どこから「音楽」をつかみとるべきか。あるいは「ことば」でもいいのだが……。
 視点が女を主人公にしているせいだろうか、そこに登場する女が全員非常に鮮烈である。主人公はもちろんそうなのだが、脇役として登場してくる母、女の恋人の兄の妻(いわゆる義姉)、そして女の娘が、それぞれに女を主張する。
 母は主人公の女を拒絶する。ユダヤ人だからである。ユダヤ人と結婚すれば迫害が家族にまで及んでくる、息子が危ないと感じるからである。一方、女であるから、息子の恋人が流産し、出血しているのを見ると、そのままにしておくわけにはいかない。そのままにしておくわけにはいかないのだが、一方で女をドイツ兵に手渡してしまいたいという気持ちもある。その葛藤を、ことばではなく肉体で描いて見せる。これが鮮烈である。ここにも主人公の女とは違った愛がたしかにあるのだ。
 義姉の愛はとても純粋だ。ドイツ人に対する怒りがある。それが夫への愛、そして主人公への愛にもつながる。ソ連軍に連行されていくとき、その車のなかで歌を歌う。何の歌かは私にはわからないが、「いま/ここ」を純粋に愛している、祖国(ポーランド)を愛している、忘れはしないという気持ちが静かにつたわってくる。(ここに歌があり、ラストシーンに歌がない、ことばがないということに注目すると、ここからもう一つ別の感想が書けると思うが、きょうは書かない。)
 娘の視線も鋭い。母の異変に気がつく。男がいる、という感じで、不審を抱く。母の、秘められた愛がどういうものか知らないまま、そこに愛があることに気がつき、母を問い詰める。この娘の視線は、どこか恋人の母の視線にも通じる。自分の家族、家庭がどうなるのか、それを案じる視線である。私をおいてきぼりにして、私の知らないひとを愛しているのは許せない、そういう感じだろうか。
 主人公の女の愛は、この3人とは違う。家族として愛しているわけではない。祖国として愛しているわけではない。(ドイツ兵に対する憎しみの反動として、その愛が強くなっているわけではない。)わけのわからないまま、というと変だけれど、ただその男を愛している。理由(?)はいろいろつけられるだろう。オペラの話をいっしょにできる。いっしょの夢をみることができる。だが、そんなことは、つけたしにすぎない。愛に理由はない。相手を見て、ひかれる。それだけである。
 この理由のなさというか、理由を説明しないところが、この映画のいちばんの強いところである。収容所で出合って、見つめ合って、愛し合った。ありえない状況で愛を育てて、いっしょに逃げた。どうなるか、まったくわからない。けれど脱走すれば、いっしょにいることができる。愛とはいっしょにいることなのだ。それ以外にないのだということをふたりは知っている。
 だから時間を超えて、会いに行くのだ。
 そして、この女が、男の「声」を覚えていて、声から男を見つけ出すというところが、またまた非常におもしろい。(私は、そこが非常に気に入っている。)女にはずーっと男の声が聞こえていたのだ。別れたあとも声が女の中に生きていた。それは女がいつも男が話したことを反復していたということでもあるだろう。写真を見つめ、顔を思い出す。声は「記録」がない。けれど、女の肉体(耳)は声を覚えている。
 この耳の力。--これが、ラストの「音の空白」につながる。音楽はじゃまなのだ。「音の空白」のなかには、男の声が満ちている。男が脱走するとき、女を番号で呼び「来い!」と命令する。その「来い!」が甦るのだ。
 男がドイツ兵を装って女を連れ出し、脱走する。そのときの「来い!」はドイツ兵の冷たい声の響きなのだが、その冷たさの奥にほんとうは震えるような恐怖と祈りがある。それを感じることができるのは、「来い!」と言われた女だけである。
 そうして、その声を思い出すとき、女はまた、母の冷たい声や、義姉の祖国を愛する声もいっしょに思い出すかもしれない。女を詰問した娘の声を思い出すかもしれない。また、女を送り出してくれた夫の声も思い出すかもしれない。声の中にひそむ複雑な感情。そのなかで女はいまたたずんでいるのかもしれない。
 どこへ歩みだすのか。それからどうなるのか。「音の空白」が、鼓動にかわる。どきどきしてしまう。ほんの1秒くらいの「音の空白」なのだが、そこに心臓がどきどきと脈打つ音を聞いた。それは女の心臓の音なのか、私の心臓の音なのかわからなかった。
                      (KBCシネマ1、2012年08月29日)
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高貝弘也『白緑』(2)

2012-08-30 09:56:02 | 詩集
高貝弘也『白緑』(2)(思潮社、2012年09月01日発行)

 「好み」というのは「偏愛」ということでもある。「偏愛」は「変愛」でもある。偏ったはようするにふつうではない。変である。このヘンが変から偏になるまでにはけっこう時間がかかる。「あの人は変わり者だから」と受け入れられるようになるまで時間がかかるのと同じである。変と偏はどこかで交錯している。そして、それが受け入れられるとき(あるいは受け入れるときと言ってもいいけれど)、そこに私たちは(私は、でいいのだけれど)、「時間」のようなものを見る。あ、私にもこういう「過去」の時間があるな、あるいはこういう「時間」の存在をどこかで見聞きしてきたことがあるな、という感じ。私にとっては「いま/ここ」とはつながらないけれど、そういう「時間」を生き延びることもできたのだなあという感じ。
 「白緑」の1行目。

それから あなたは舞い降りて、微睡(まどろ)んでいる。

 「微睡」と書いて「まどろむ」。そうか「まどろむ」というのは「微」の「睡」。少ない、かすかなねむりのことだ。肉体の中にある記憶、体験が、ことばを揺さぶる。「微」ということばといっしょにある「微小」「微笑」「微風」「微分(もつけくわえてみようか)」へと広がっていく。それから「睡」眠と結びつき、イメージ(?)が広がる。簡単に言うと「誤読」の幅が広がる。あなたが「まどろんでいる」とき、そこには強い風ではなく微風が吹いている。ほほには微笑が浮かんでいる。きっと、そこにはやわらかい光も射している……。
 何が「それから」なのかわからないけれど、何かをひきずりながらそこにあるもの。そして「舞い降りて」というやわらかな、ふわりとした感じが「まどろむ」を包む。
 「爆笑」「強風」「強い光」とは違うものがまわりに集まってくる。
 で、そのことばから始まる1連は次の3行である。

それから あなたは舞い降りて、微睡んでいる。
雨が止んだばかりの、
しろい穂波のきわ

 雨が降り続いていたら「まどろむ」には似合わない。小雨でも降り続いていると「まどろむ」という感じではないなあ。「止んだばかりの」の「ばかりの」という、この「一瞬」が「微」にとても似合う。似合うと私は感じる。(これは、まあ「好み」である。--私はずーっと「好み」のことを書いているのだが。)
 それから「しろい」という表記。「白い」だとイメージが強すぎる。「白」になりきるまえの、たとえば「白い夏野」というときの光のなかから光があふれてくるような輝かしさとは違う、ほのかな輝きが「しろい」という「文字」のなかにある。「穂波」の「波」から揺れ動くもの、大波ではなく、ほんとうにかすかな揺れ。それが「きわ」という「微分」された領域で存在を主張する。
 それは、いわば私たちが(私が)見落としている何かなのである。それはいつでも「いま/ここ」に存在しているはずなのだけれど、私のことばの「経済学」がそれを捨て去っているものなのである。そういうものがあることを高貝のことばは気づかせてくれる。

白緑(びゃくろく)色のまぼろし
あなたが寄る、道草の末(うら)

 きのう読んだ詩にも「白緑」ではなく「白緑色」ということばで「白緑」はつかわれていた。「白緑」は色なのだけれど、それをわざわざ「白緑色」というとき、そこにかすかな意識の「ひきはがし」のようなものがある。
 高貝のことばは、この「意識のひきはがし」の、そしてひきはがされた意識の「離脱」のような領域で、「ほら、ここに、こういうことばがあるよ」と告げる。こういう微妙な領域の動きは、私のように目の悪い人間にはちょっとつらいのだが、そういう領域のことばを高貝は「偏愛」している。
 「白緑色」の「色」ということば念押しのようなもので、その「偏愛」をしずかに主張している。
 で、そういう「偏愛」が「末」と書いて「うら」と読ませる世界へ、ひきはがされ、離脱し、浮遊し、行ってしまう。セックスのエクスタシーの瞬間のように。
 「末」はほんとうに「うら」と読める? そういう読み方はある? 私は目が悪いので漢和辞典なんかはもうひかない。調べる気持ちもないのだが、
 そうか、道草をしてぶらぶらする。そうして「いま/ここ」からずれていく。その道草の果てには「いま/ここ」の「裏側」のようなものがあるのだな、
 と直感的に納得してしまう。「誤読」してしまう。
 それは「道草」の「草」の文字に強引に結びつけると、草の葉の裏側のように、実は「表裏一体」のもの。「裏」だからといって、どこか遠くではない。どこか遠くではないけれど「いま/ここ」ではない。そういう世界がたしかにあるのだと直感する。--これはもちろん「感覚の意見」であり、論理的には説明できないなにごとかなのだけれど。

 で。
 その「末=うら(裏)」ということばに「出典」があるかどうかわからないけれど、あ、これはどこか「遠い過去の時間」の、人間の肉体の奥に存在する何かなのだなあ、ことばの歴史というか蓄積というものが、ふいに肉体の奥から噴出してくるようなものだなあ、とも感じる。
 --ということは、まあ、おいておいてつづきを読む。

しきりに半月が 囀(さえず)っている
(まるで、あなたにしがみつくように)

 月が囀る、という日本語はないね。ほんとうは月が囀っているのではなく、月の光のなかで何かが囀っているのかもしれない。でも、その鳥はどうでもいいのだ。すでに高貝の意識は「いま/ここ」からかすかに離脱しているのだから。
 「満月」ではなく「半月」というのは、この離脱の「中途半端な確実性(?)」の具体的な事実である。言い換えると「象徴」である。
 そして、それが中途半端な、しかし同時に感覚的にはとても切実(たしか)なものであるからこそ、そこに「しがみつく」ということばがすり寄ってくる。

 高貝の書いていることに「意味」はあるかもしれない。「意味」なしにはことばは動かしにくいだろう。しかし、「意味」なんかは関係がない。だれにだって「意味」はあり、私はこういう「意味」でこのことばを書きました--と主張されても、それじゃあわからないよと言ってしまえばそれですむだけのことなのである。
 で。
 もしほんとうに「意味」があるとするなら、高貝の場合は、ことばの「偏愛」をつらぬいていることばの感覚--このことば、この音、この文字が好きという論理を超えた何かである。好みの特権(?)でことばを引き寄せ、ふるいにかけるようにして選り分け、そこから動いていくものに身を任せる--そういうことばとのセックスの仕方そのものに「意味」がある。
 セックスの仕方の「意味」なんて、完全に個人的なものである。高貝と同じやり方で同じエクスタシーが得られるということはありえない。そのやり方でエクスタシーにまで到達できるのは高貝しかいない。
 だからこそ、それが詩になる。

 きょうも「感覚の意見」だけで感想を書いてしまった。



高貝弘也詩集 (現代詩文庫)
高貝 弘也
思潮社
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高貝弘也『白緑』

2012-08-29 11:24:38 | 詩集
高貝弘也『白緑』(思潮社、2012年09月01日発行)

 高貝弘也『白緑』の「白緑」は「びゃくろく」と読む。で、どういうつかい方をするかというと……。

泣きたくても、泣けなくて………。
土手の縁 無花果(いちじく)が咲くそばで

袋状の花嚢(かのう)のなか、雌花と雄花が一斉にひらいた。
鮮やかに 白緑(びゃくろく)色の、光の方へ---

生きいそいでいる。
肉を殺あや(める)ことの 痛みをかかえて

 原文はルビをふっているのだが、( )のなかに読みを書いて引用した。こんな引用の仕方は高貝の「好み」に反するだろうけれど。
 で、「白緑」なのだが。
 私のワープロでは「びゃくろく」と入力すると「白緑」と変換してくれるが、私のもっている広辞苑には「白緑」は載っていない。しかし「白緑」というくらいだから白と緑がまじった色なんだろう。もっと白が強くなると「銀緑」という感じかなあ、と思うが、これは私の勝手な想像であって、違うかもしれない。
 その「白緑」のなかに、高貝はどんなこだわりをもっているのか。
 これからは私の「誤読」なのだが、まあ、次のようなことを私は勝手に考えるのである。
 無花果。無花果にもいろいろな種類があり、色も形も違うのだけれど、基本的には実がはじけるように割れて、種のようなものがびっしりはいっている。「袋状の花嚢」は無花果を言い換えたものだろう。そして「雌花」「雄花」というのも、無花果のことだろう。私は無花果に「雌花」「雄花」という区別があることは知らなかったけれど、無花果の実の割れた感じはセックスを連想させるので、「雌花」「雄花」とそこに雌、雄の区別があらわれるのがおもしろいと思う。
 (なかなか「白緑」へたどりつけない。)
 その実のこと(あるいは、花のこと?)を書いたあとで、

鮮やかに 白緑色の、光の方へ---

 この「白緑」は何の描写?
 無花果の肉の、ぶつぶつの底にある皮の内側の色? ぶつぶつを齧りながら食べていくと、底に白っぽい肉があらわれるが、あの色? 私は最近緑色が見えにくくなっているので、また無花果を観察しながら書いているわけではなく記憶で書いているので正確ではないかもしれないが、その皮の内側の色は「白+緑」の色と見えなくもない。白が濃くて緑はわずかだけれど。それは無花果をもいだときに出る白っぽい色、ねばねばの色と似通っているけれど。
 あるいは葉っぱの色? 無花果の葉っぱの色は葉の表面がざらざらしているので、たとえば椿の葉っぱのような強靱な緑ではないね。その色? それとも葉っぱの裏側の色? どんな葉っぱでも表に比べると裏側は色が薄い。その薄い感じが白。その白がまじっているから白緑?
 で、これからがほんとうの「誤読」。いままでは助走(?)のようなもの。
 「白緑」ということばひとつをとってもみて、それが何を具体的に指し示しているのか、私にはわからない。わからないのだけれど、そのわからないなかに、いくつかのわかること(勝手に想像できること)がまぎれこんでくる。
 これを明確に区分していくと(分析していくと)、「科学」になるのかもしれない。
 でも、そんなことをせず、あいまいなまま、あいまいを抱え込んでいると、なんとなく「雰囲気」が漂ってくる。これが高貝の、ことばの運動の中心である。
 書き出しの「泣きたくても、泣けなくて………。」は泣くと泣けないという対立することばが出てくるが、これもまあ「あいまい」。どっちつかず。どっちの方が好きかは、読者次第。読者次第ではあるのだけれど、この「あいまい」は「土手の縁」という行が次にくるとき、なんとなく「あいまい」のどちらかに加担する。まあ、これも読者次第。どっちでもいい。問題は、というか、大切なのは、そいういうわけのわからない「あいまい」にあっても、人は何かに加担してしまうということ。
 で、その加担が、

鮮やかに 白緑色の、光の方へ---

 の「方へ」なんだなあ。
 何かしら「方向」が出てくる。ことばをつなぐと、必然的にそれは「方向」を持ってしまう。
 その方向を、散文では「明確」にする。人はだれでも「私のいいたいのはこれこれ」と明確に言おうとする。
 でも高貝はそうではない。
 あいまいにする。
 そのあいまいの「象徴」ではなく、「結晶」あるいは「刻印」といえばいいのかな? それが「白緑」。古いことば。いま、だれもつかわない(わけではないかもしれないけれど、ワープロ変換で苦もなく出てくるところをみれば)ことばのなかに潜り込み、そのことばをつかうときの「好み」の方向へ、高貝は加担する。
 ことばのなかに生きているか生きていないかわからないような、ほんとうはちゃんと存在していた感覚の方へ加担しながら、「いま/ここ」に直に触れることを拒んで見せる。「いま/ここ」ではなく、高貝は日本語の「伝統」の奥底に加担し(あるいはそれをバックボーンに)、何かを主張するとしたら「好み」を主張するのである。
 私はこのことばが好き。
 ほかのことは言わない。
 「殺す」よりも「あやめる(殺める)」の方が好き。「白っぽい緑」よりも「白緑」の方が好き。
 好みでことばを集めてどうなるのか。
 というようなことは、まあ、散文の世界ではないので、批判したことにはならないねえ。
 好みのことばを集めて、その好みのことばがつややかに光るようにまわりのことばを整えて、うっとりとそのことばに酔う。見とれるのか、聞きほれるのか、セックスするのか。ぞんぶんに味わって、それを「ちらっ」と見せる。
 で、またまた元に戻って、私は「誤読」を繰り返す。
 「白緑」。これは、やっぱり無花果の種(?)と皮の間にある「肉」の、なまっちろい白だな。そう思った「方」が色っぽい。(と、ここで、高貝の書いている「方」を利用するのである、私は--つまり、そういう色っぽいという感じのことを考えているのは私ではなく高貝なんだよ、と強引にごまかし……。)
 ほのぐらいなかで服を脱いでいくときの肌の色、「白緑」かなあ。
 服を脱いでしまうと、雌・雄になってしまうなあ。
 雄になって、噴きこぼす体液の色、「白緑」かなあとまで書いてしまうと、高貝を突き破ってしまうかもしれないけれど、でも、無花果には、そういうものを引き寄せる力があるよなあ。
 あ、高貝って、すけべをこんなふうに隠している、上品をよそおって隠している、と断定したりする。

 高貝は「好み」を隠して言う詩人なんだ。
 隠された状態で告げられる「好み」って、ほら、頭で整理するわけじゃなくて、肉体でわかってしまうものだから、ちょっと困るよね。
 えっ、そうなのか。(やっぱりなあ、俺の想像した通りだ。)
 相手のこと(高貝のこと)を批評しているのか、自分の秘密の好みを告白しているのかわからなくなる。
 極端に言うと、高貝がセックスをしているのに、見ている内に自分がセックスをして、こんなふうに、ここのところが「好き」でした、と言っている気持ちになる。「好み」の一致を見つけて、その瞬間のエクスタシーのようなものに引き込まれていく。
 「好み」の歴史(?)、「好み」の蓄積に関心がない人には、あまりおもしろくないかもしれないけれど、人間の「好み」はどういうところまで探って行けるか、どこで「昔の人」とつながっているか、そういう「好みの遺伝子」のようなものに焦点をしぼって読みつづけると、高貝の詩はおもしろくなる。まあ、これも「好みの遺伝子」が違ってしまえば、どうすることもできないけれどね。

 読みはじめたばかりの、それも一篇の詩からこんなことを書いていいのかどうかわからないが、書いてしまった。



白緑
高貝 弘也
思潮社
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豊原清明「ブラック・家」

2012-08-28 09:00:12 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「ブラック・家」(「白黒目」36、2012年07月発行)

 豊原清明「ブラック・家」は「自主製作映画シナリオ」である。

○ 黒・三秒

○ タイトル「ブラック・家」
監督・脚本・出演 豊原 清明
撮影・出演 豊原 宏俊
(印刷用紙、二枚、手に持っている)

○ 熱帯魚・真裕美を映しながら
声「エイリアンがこの街を狙っています。」
 金持ちの方を狙っているみたいです。」

 1行目の「○ 黒・三秒」の「こだわり」がおもしろい。3秒というのはけっこう長い。(3秒というのはけっこう長い--という文章を打てるくらいの時間である。)何もうつっていないスクリーンではなく、スクリーンに黒が映っている。
 で、そのあとのタイトル。これは映像としてはどんな感じなのだろうか。
 印刷用紙に「ブラック・家」という文字が書かれている。それが映し出されたあと「監督……」の2行が映し出されるのか。「自主製作」というより「手作り」という感じがする。わざとチープにした感覚、そのチープさから、「肉体」が見えるような感じ。
 それが「エイリアン」に飛躍する。そこにも、不思議な「肉体感覚」がある。想像力の肉体--というのは奇妙な表現になってしまうが、私の感覚の意見に従えば、想像力の肉体が、「同一レベル」で動いていくときの、「それでしかない」感覚が、とてもざらざらしていて、どきどきする。
 私は映画をつくったこともないのだが、豊原のシナリオを読んでいると、いつも映画をつくっている気持ちになる。そして、そのつくっている気持ちというのは、不思議なことに映画を見ている感じとぴったり重なる。つくりながら、それを見ている。

○ 字幕「エイリアンが腹の中に入って来た」
「超貧乏人に入ってきやがった。」
「なぜ我々はここまで苦しまなければいけないのか!」
「原発」
「脱」
「原発」

○ 七月二日の「朝日新聞」一面。
ゆっくりと、「排除」にズーム。

 朝日新聞に何が書かれているのかわからない。けれども、カメラは「排除」にズームする。「排除」だけがクローズアップされる。
 この手法--全体を無視して(?)、自分の焦点へまっすぐに進んで行く視線、そしてそこでつかまえる「映像としての肉体」。この感覚は、豊原の詩、俳句にも通じる。遠心と求心の瞬間的な炸裂。
 その「配置」がとてもいい。
 狙ってそうしているのか、自然にそうなるのか。きっと後者だろう。だからこそ、なまなましい。
 この「映像の肉体」とさっき書いた「想像力の肉体」は豊原の「肉眼」のなかでしっかり結合しているのだと思う。その結合の強さが、ストーリー(?)の飛躍を、飛躍ではなく「粘着力」に引き下ろす。--引き下ろすと書いたのは、「飛躍」に対しての対極という感じを伝えたくてそう書いただけで、どちらが「飛躍」かは、まあ、わからないね。対極にあるものが、ぶつかりあい、ぶつかるたびに粘着力が強くなる。飛躍するのに、その飛躍の奥に(?)、肉体が生きている時間が固まってくる。
 あ、これじゃあ、何を書いているかわからないね。
 きょうの私の感覚の意見は、どうもことばを急いでいる。

 シナリオのつづき。

○ 僕の顔
僕「私はエイリアンに侵された人間です。
 何も言う言葉が見つかりません。」

○ 父の顔。
  父のリアクション。

○ 熱帯魚
父の声「しかし、我々は負けんぞ!」

 「父のリアクション」ではどういうリアクションかわからない--としたら、あなたは映画を見ていない。驚くのか、がっかりするのか、やっぱりそうかと思うのか。あるいはもっと別のことかもしれない。それは「観客」に任されている。ただ父の顔があるのだ。そして、それがリアクションなのだ。僕が「私はエイリアンに侵された」と告げる。それを聞く父の顔。それを僕がどう判断するか。「父のリアクション」は実は「僕のリアクション」であり、観客のリアクション、つまり観客の思いのままである。笑った顔をしているから父が喜んでいるとは言えない。悲しくてどうしようもなく笑ってごまかしているかもしれない。どんな「解釈」でも成り立つ。だから、そこには「解釈」は加えない。ただ「リアクション」とだけ提示する。
 そして映像が切り替わって、父の声がする。そのとき、その直前の「父のリアクション」に「意味」が生まれる。「意味」が遅れてやってくる。そして、その遅れてやってきた「意味」が父を突き破って、次のように展開する。

○ デモの小さな記事を撮りながら、ラジオの雑音で撮る。
声「我々は…我々は…我々は…。」

○ 振り向く、僕。

○ フォースが伸びる

○ 首を自分で締めている、僕。

 ストーリーは「未来の無意味」へ向かっているのか、それとも「過去の意味」へ動いているか。逆方向の動きが一瞬一瞬炸裂する。
 未来の無意味--と書いたのは、未来が意味を持つのは過去と結びついて、過去から「意味」を吸い上げるときに限定されるからだ。
 この映像の肉体の一瞬一瞬には、無意味と意味が不思議な形で結合し、映像そのものがそこにある。その映像の前で、観客(私)が試される。

 毎回、豊原のシナリオには打ちのめされる。



夜の人工の木
豊原 清明
青土社
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尾関忍『約束』

2012-08-27 11:27:26 | 詩集
尾関忍『約束』(思潮社、2012年07月31日発行)

 尾関忍『約束』の巻頭の表題作の1連目はおもしろかった。

わたしは約束を守ってまっすぐに走っていきました
どこまでも続くアスファルトの道に白い砂をまきあげ
途中で川をまたごうとして鎖骨を落としてしまいました
骨はぷかぷか浮かんで遠くへ流れていきました
それでもまだ走り続けました

 なぜ落としたのが「鎖骨」なのか。わからない。わからないからおもしろい。信じるしかない。私は何かを知りたいのではない。信じたいのだと思う。書かれていることがらを知りたいとは思わない。ただ信じたい。信じるとき詩人が見えてくる感じがする。もちろん錯覚なのだけれど。
 ところが2連目になると、もう信じる気持ちがなくなる。

突然平野にあらわれたそれは深い穴のようでした
底のほうでは鏡になった水が割れ
一片一片がじっとこちらを見ています
いつの間にかほわっと浮いて落下する体
井戸のなかでふくれあがっていくわたし

 ここには「わからないこと」がない。1行目の「それ」は1行目を読んだだけでは何かわからない。最後に「井戸」ということばが出てきて、井戸だとわかる。「それ」は井戸を隠しておくためのレトリックである。
 つまらなんなあ。
 レトリックなんかどうだっていいのだ。
 覗いた井戸の水面、その水鏡が割れる。それに誘われるようにして井戸に落ちる(入り込む?)。
 「鎖骨」のような、わからないけれど、そのわからないことばが私の(読者の)肉体にある部分と強引につながってしまう。その強引さが2連目で消えてしまっている。
 「六月の祈り」の「六月の長い雨にはさまれた黒い指がのびてきて」(24ページ)から始まる数行、「岩の子ら」の書き出し(32ページ)の数行もおもしろいが、持続しない。「わからないけれどわかる」というわくわくした感じが突然消えてしまう。
 「肉体」が消えると、突然、「常套句」が支配的になるのだ。そのため「とてもよくわかる」ということが起きるが、「とてもよくわかる」と読む意味がなくなってしまう。「わからない」からこそ、そこに私の知らない何かがあると信じることができるのだ。「わかってしまっている」ことを書かれても、それは単にだれの技巧がより効果的かということばの技術になってしまう。ことばの技術になってしまうと、そんなものは差があってないに等しい。自分の技術が上、と思うのは勝手だが、それは結局のところ先行するだれかの「模倣」にしかすぎない。美空ひばりの歌った歌は、美空ひばりの模倣をしないかぎり歌にならないようなものだ。
 あ、脱線した。

 しかし「山道」はおもしろかった。この詩集から一篇を選ぶなら、これである。ちょっとめんどうくさい形をしているので、引用は形を変えている。行の頭をそろえて引用している。

彼女と山道を登った
ふっふっふっふっはっはっはっはっ
同じリズムでザックをゆらし同じ歩幅で毛先をゆらして
ふっふっふっふっはっはっはっはっ
ラマーズ法にもかなわない滑らかさで会話をかわし
ふっふっふっふっはっはっはっはっ
私が吐いた息を彼女が吸って彼女が吐いた息を私が吸って
ふっふっふっふっはっはっはっはっ
そんなふうに山道を登った

 「私が吐いた息を彼女が吸って彼女が吐いた息を私が吸って」というようなことは実際には不可能である。事実を「誤認」している。私のことばで言いなおすと「誤読」している。けれどそれが不可能で、そして「誤読」だからこそ「ほんとう」になる。
 「誤読」のなかには誤読する人の本能が隠れている。いや、あらわれてる。本能が「常識」を突き破って動いていく。この動きには「間違い」というものはない。何をしたいのか、という欲望が正しく動いている。こういう本能の欲望は絶対的に正しい。つまり、純粋で輝いている。

山頂までの道のりはあまり覚えていない
頂はしたたかに近づいてすぎに視界から消え去った
岩場に腰かけ水筒をかたむけるほかの登山客たちは
すれ違うだけの他人
すばらしい景観もざわめく野鳥の声も
渓流の清音も濁音も私たちには関係なかった
彼女の吐いた息を私が吸って私が吐いた息を彼女が吸って
ふっふっふっふっはっはっはっはっ
そんなふうに山道を登った

 「彼女の吐いた息を私が吸って私が吐いた息を彼女が吸って/ふっふっふっふっはっはっはっはっ」ということ以外は関係がないから、「道のりはあまり覚えていない」のは当たり前。「ほかの登山客たちは/すれ違うだけの他人」も当たり前。そして、そのとき、あらゆる描写が「すばらしい景観もざわめく野鳥の声も/渓流の清音も濁音も」という具合に常套句になる。(「濁音も」は常套句から少し飛躍しているけれど)。関係ないものは「常套句」ですませたい。この正直なことばの「経済学」が気持ちがいい。大事な「ふっふっふっふっはっはっはっはっ」は何度も繰り返す。「私が吐いた息を彼女が吸って彼女が吐いた息を私が吸って」が「彼女の吐いた息を私が吸って私が吐いた息を彼女が吸って」に入れ代わって、どっちがどっちでもよくなる。「彼女」と「私」の区別がなくなる。区別がなくなりながらも、かならずAが吐いた息をBが吸い、Bが吐いた息をAが吸うという相互の関係だけは間違いなくつづく。世界がその吸って、吐いて、息が体のなかで混じり合うということだけになる。

彼女の吐いた息を私が吸って私が吐いた息を彼女が吸って
ひたすら下る坂道
二人ゴールを目指し
その時にはきっと
抱き合うのだ

 単純でいいなあ。そうか、山へ登れば「ふっふっふっふっはっはっはっはっ」と「彼女の吐いた息を私が吸って私が吐いた息を彼女が吸って」を体験できるのだ。あしたは、いやきょうの午後は山へ登ろうという気持ちになる。
 山はそんな単純じゃないって? そんな思いは「誤解(誤読)」だって?
 そんなことは知っています。
 知っていて、それでも「誤読」をするのです。信じるのです。それが楽しい。
 正しい読み方(?)、正しい解釈というのは、つまらない。日常の生活というのはどうしたって「正しいこと」の積み重ねでしか動かない。ときにはことばの力を借りて暮らしを整えるということ(大江健三郎か谷川俊太郎みたいだなあ……)ということも必要になる。
 それはそれでいいんだけれど。

 余分なことを書いたのは、このすばらしい「山道」も最後は常套句の抒情に終わっているからかもしれない。それがつまらない。
 山道を下りたあと、二人が「抱き合う」ということがなかったのなら、「その時にはきっと/抱き合うのだ」で終わってしまえばいい。そこまでが詩。ことばが勝手に燃え上がっているときが詩なのである。




約束
尾関 忍
思潮社
コメント (3)
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谷合吉重「Stinma2」ほか

2012-08-26 09:54:24 | 詩(雑誌・同人誌)
谷合吉重「Stinma2」ほか(「スーハ!」9、2012年08月15日発行)

 谷合吉重「Stinma2」の次の部分に魅力的だ。

ウニタ書房から水道橋まであるいた
あくまで生産・再生産をくりかえす機械になりすまし
おまえはわたしではなく
わたしはおまえでもない
ウニタで買ったナビは怖ろしく難解だ
(ルートから外れています
(ルートから外れています
突き当たったジャズ喫茶に入り
ぼくは機関車と友達なんだと太宰を読んだ
(トカトントン)

 何が書いてあるのか--ということはわからない。わかるのは、--というか、私が「誤読」できる(「誤読」したい)のは、

おまえはわたしではなく
わたしはおまえでもない

 この2行。「おまえがわたしではない」なら「わたしはおまえではない」というのは数学的に言って「常識」である。少なくとも「算数」レベルでは常識である。「おまえがわたしではない」のに「わたしがおまえである」ならば、それは矛盾だ。
 では、なぜ、谷合はわざわざ「おまえはわたしではなく/わたしはおまえでもない」と繰り返したのか。なぜ、こういうことばの「不経済」を書いているのか。
 書きたかったからである。
 「おまえはわたしではなく/わたしはおまえでもない」と繰り返すとき、そこには繰り返すことで切り捨てる何かがある。何かを確認する。そしてそこへはもう引き返さないという「覚悟」のようなものを育てている。そういうふうにしなければ「あるく」ということさえ谷合には厳しいことがらなのかもしれない。

(ルートから外れています
(ルートから外れています

 わかっている。「おまえはわたしではなく/わたしはおまえでもない」ということくらいに、ルートを外れていることはわかってる。けれど、外れたいのだ。そして外れるためには、そんなふうにして「外れています」という指摘が必要なのだ。その指摘を拒んで歩くときに、やっとルートから外れることができる。
 これは、「おまえはわたしではなく/わたしはおまえでもない」と繰り返すことで初めて「わたしはおまえではない」という状態に「なる」ということでもある。「おまえはわたしではなく/わたしはおまえでもない」と繰り返すのは、実は「おまえはわたしであり/わたしはおまえである」ということを知り尽くし、そういう自分を拒絶し、捨て去るのである。
 めんどうくさい手続きだけれど、そのめんどうくささが、いま、ここに書かれている谷合ということになる。
 そのめんどうくささのまま、谷合は「ジャズ喫茶」に入り「ぼくは機関車と友達なんだ」という理由をつけて「太宰を読む」。
 これがまためんどうくさいね。太宰を読む、ということが。
 なぜ太宰を読むことがめんどうくさいかというと、「わたしは太宰ではなく/太宰はわたしではない」ということはだれが見たって「常識」なのに、つまり「ルートからはずれています」ということになるのに、「わたしは太宰ではなく/太宰はわたしではない」を「客観的認識(事実)」ではなく、「共感」からとらえなおすと、「わたしは太宰ではなく/太宰はわたしではない」は「わたしは太宰であり/太宰はわたしである」という「非常識」が自然に浮かび上がってくるからである。
 それなら、最初から「おまえはわたしであり/わたしはおまえでもある」「太宰はわたしであり/わたしは太宰でもある」と言ってしまえよ、なんて怒ってみても始まらない。矛盾の形で何事かを繰り返すとき、矛盾は矛盾ではなくなる。繰り返すとき、肉体のなかで何かが融合してしまって、矛盾は矛盾ではなくなる。そういうふうにしか言えないことを谷合は書いている。
 まあ、めんどうくさい。8月の暑い日に、こういうことばを読むのは、ほんとうにめんどうくさい。--と書いている私も矛盾してるんだけれどね。そのめんどうくさいことばを読み、さらにめんどうくさい形に「誤読」して、それをわざわざ書いているのだから。私はめんどうくさいことが嫌いだけれど、めんどうくさいことをするのは嫌いではないのかもしれない。認識というか、感覚の意見と、行動は必ずしも一致しない。



 鈴木正枝「転位していく」にもおもしろい部分があった。

こうして
指先と指先をぴたりと合わせ
お互いに血管をなだめながら
徐々に体温を高めていく
脱ぎ捨ててきたにくたいが追いかけてこないように
部屋には鍵をかけた
窓際のカーテンが動いているのは
何のせいか
いくつもの私が揺らぎながら
いくつものあなたと
重なっては離れていく

 「指先」も「血管」も「にくたい」なのだから、「脱ぎ捨ててきたにくたいが追いかけてこないように」というようなことばは矛盾である。でも、矛盾だから、そこに真実があり、思想がある。「にくたい」はひとつだけれど、ほんとうはひとつではない。「あのにくたいはわたしのにくたいではなく/わたしのにくたいはあのにくたいでもない」という意識が鈴木の肉体のなかにある。部屋には鍵がかけられるけれど、肉体には鍵がかけられない。つまり、それは切断し封じ込めること、あるいは切断しそれから逃れることができないのは、「あなた」と会ってみればみればすぐにわかる。「指先と指先をぴたりと合わせ」てみればすぐにわかる。「ぴたり」とわざわざ書くのは、それが「ぴたり」とはあわないものだからだ。それは「重なっては離れていく」。そしてそれは、ほんとうは「あなたの指(あるいは肉体)」ではなく、「私の指(あるいは肉体)」が「私の指(肉体)」と重なったり離れたりするのである。
 セックスは「あなたの肉体」で起きることがらではなく、「私の肉体」で起きることがらなのである。そこに「あなた」という他人が介入してくる。--こんなめんどうくさいことが起きるのは、鈴木がことばを書いている、つまり詩を書いているからだね。
 詩さえ書かなければ、こんなめんどうくさいことは起きない。(谷合の場合もおなじである。)
 だからね、というのは、まあ、飛躍なんだろうけれど。
 めんどうくさいのが詩である。詩は、めんどうくささのなかにある、ということになる。



難波田
谷合 吉重
思潮社

キャベツのくに―鈴木正枝詩集
鈴木正枝
ふらんす堂
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フィリップ・ル・ゲ監督「屋根裏部屋のマリアたち」(★★★)

2012-08-25 21:42:29 | 映画
監督 フィリップ・ル・ゲ 出演 ファブリス・ルキーニ、サンドリーヌ・キベルラン、ナタリア・ベルベケ

 1960年代のパリ。スペインから女性たちが出稼ぎにきている。仕事はメイドというのか、家政婦というのか……。ブルジョアの家庭で家事をする。彼女たちは屋根裏の小さな部屋に住んでいる。そんな彼女たちと、雇い主の男との関係を描いている。貧しく、苦しいのだけれど、エネルギーにあふれるスペインの女性たち。一方、男の方は金はあるのだけれど、なんというか「気力」がない。毎日、きちんと仕事をしているのだけれどね。
 その男が、妻に浮気を疑われて家を追い出され、女性たちと同じ屋根裏に住み、いっそう仲よくなるという、まあ、メルヘン映画だね。
 なんということはないのだけれど、気に入ったのが洗濯物を干すシーン。ロープに洗濯物を吊るし、そのロープを高くあげる。マリアが男に手伝って、と頼む。男はロープをひっぱる。力の具合が調節できなくて、一気にロープがひきあげられる。そのとき洗濯物がマリアの顔に触れる。水がはじけ飛ぶ。それをマリアが笑って掌でぬぐう。それだけのことなのだけれど、そこに男は家事をしたことがない、という当たり前のことが自然に描かれている。マリアは、あ、この男はこういうことをするのは初めてなのだとわかり、怒る変わりに笑う。これが、まあ、実にさりげなく、ほんとうに自然。ここから、マリアは男に心を許すというか、一種の「開かれた感じ」でのつきあいが始まる。スペイン語で言う「シンパティコ」という感じかな?
 この男、まあ、フランス人にしては(?)とても親切なのだけれど。
 それ以上に見落としてはいけないのが、この男に対するスペイン女性陣の反応の仕方だね。親切にされて、その親切を心から受け入れる。そして感謝する。その素直な感じが、やっぱりフランス人とは違う。気取りがない。まあ、ブルジョア家庭で家政婦の仕事をしていて、気取りがないというのは当たり前のようではあるけれど、そうでもないよね。内戦で両親が死んだという女性も家政婦のひとりだが、彼女などはかたくなな部分がある。けれども。いったん心を開くと、開き方が違うね。スペイン人にとっていちばん大切なのは「友情」。それは友だちを大切にするということだけではなく、親切にされることに対して負担を感じないというところに、とてもよくあらわれる。親切にされてほんとうにうれしい、と素直に言う。そこにあらわれる気取りのなさ。これがいいよね。
 おもしろいシーンはいろいろあるが、さっき書いた洗濯物を干すシーン。それがきっかけでマリアと男が親密になる、互いを知るという部分が、最後にもう一度描かれる。マリアが洗濯物を干しているところへ男が尋ねてくる--それだけなのだけれど、あ、これでハッピーエンドなのだなとわかる。しゃれているね。
 で、その直前。マリアが洗濯物をもって家から出てくるとき、外にいる女性とことばをかわす。「娘は元気?」「あとで寄るわね」とかなんとか。これも、さりげなくていいなあ。マリアは男の家から逃げるようにしてスペインへ帰ったのだが、その直前、男とセックスをしている。娘は、そのときの子ども、のようである。娘を出さずに、そういうことをさりげなく伝え、ハッピーエンドをいっそうさわやかにしている。
 このハッピーエンドには、男とのセックス以外にも実は伏線があるのだが、そのさりげない伏線も気持ちがいい。おだやかな感じで、ああ、生きているっていいなあ、と思える映画である。つきあうならやっぱりスペイン人だよなあ、とも。
                      (KBCシネマ1、2012年08月25日)



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海埜今日子「たそがれのばしょ」

2012-08-24 10:39:08 | 詩(雑誌・同人誌)
海埜今日子「たそがれのばしょ」ほか(「hotel  第 2章」30、2012年08月01日発行)

 海埜今日子「たそがれのばしょ」は、ひらがなだけなので、ことばが明確にならない。--というのは嘘で、その何がなんだかわからない音を読んでいると、突然、「わかる」ことばが噴出してくる。この「わかる」はたぶん海埜の気持ちがわかるということではなくて、私自身の肉体の中で何かが結晶する、ということなのだが……。

かわほりさん。はいけい、こくはくします。と、いとしいすきまがそらをさした。きしべだったかもしれない。ささくれのようなゆくえ、きれぎれになり、わたしをみたようなきがするのです。かわたれさんに、にていますね、ごきげんよう。らくじつのなか、うずくまって、ちじょうをみあげたものでした。ふるいつきをうかべてみます。すいめんがのぞくので、へんしんとして、さしだそうとおもいます。

 「いとしいすきまがそらをさした」が「愛しい隙間が空を指した」と私は読んだのだが、私のつかっているワープロでは「刺した」が最初にでてきて、あ、それでもいいかな、と思ったが、それでは私に最初に感じたことと違ってしまう。まあ、詩なのだから、最初に感じたことと、書いている途中で感じたことが違ってきたって別に問題はないのだけれど、「指した」ということばが私の中で結晶のように凝縮したとき、私はちょっと感動したのである。
 そうか、何かを指し示すとき、必ずしも「指す」必要はないと、「指した」ということばから思ったのだ。矛盾しているでしょ? でも、この矛盾は「隙間が」「指した」と続くとき、矛盾ではなくなる。「ほら、その隙間から覗いてごらん」。このとき「指す」は何かを限定することだとわかる。そして、その限定されたところから見えるのが「空」という「無限」であるというのも、「矛盾」にうまく似合っている。「矛盾」がぶつかりながら、「いま/ここ」が活性化して、今まで存在しなかった何かが噴出してくる。
 こういう瞬間を「わかった」というのだと思う。
 書かれていることの全部を知っている。体験したことがある。けれど、それは、いま海埜が書いていることばの順序ではなかった。体験してきたことが、海埜のことばのなかで新しい順序になって、秩序になって噴出してくる。そのときの突然目が覚めるような感じを、私は「わかった」という。これはあくまで私の「わかった」だから、海埜の伝えたいことと一致するかどうかは関係がない。つまり「誤読」であっても、そういうことは気にしない。詩を読むとは他人のことばを読みながら、実は自分の肉体を読み返すことだから、「誤読」の方が「私自身を正確に読んでいる(正しい読み方)」になるのだ。
 「わかった」と思った瞬間というのは、あ、この詩が好きと思うのと同じ瞬間である。で、

すいめんがのぞくので、へんしんとして、さしだそうとおもいます。

 ここもいいなあ。「かわほりさん」に告白の手紙を出した。このとき「わたし(海埜)」はかわほりさんから返信を待っているはずなのだが、なぜか、話がこんがらがって、「わたし」が返信を出す(出そうと思う)になる。
 なぜ?
 風景が(ここでは水面が)、そのまま「わたし」への手紙だからである。「場所」が「わたし」に何かを語りかけてくる。それに対して「返信」する。風景が「わたし」に語りかけてくるというのは、私の読み方では、いわば海埜の「誤読」である。風景は語りかけなどしないと言ってしまえば言ってしまえるけれど、海埜には語りかけてくるように感じられる。それは海埜の「本能」が解釈した世界なのである。そして、その「海埜の誤読」を通って、海埜の行動が始まる。ことばが動く。
 こういうふうに読むと、私(谷内)と海埜が双子になったような感じがする。一体になったような感じがする。私は海埜を「誤読」する。そして海埜は「風景(場所)」を「誤読」している。その「誤読」を私はさらに、海埜の「誤読」はいいなあ、と感じる。--こういう「ごちゃごちゃ」が詩を読みながら動く。
 で、この「ごちゃごちゃ」は詩を読み進むと、少しずつ「整理」されてくる。私(谷内)の「誤読」は私の肉体から生じるのだが、「海埜の誤読」はどこから生まれるか。

どうちょうとしてぺーじをおった。

しょもつのばしょを、げんじつにかさねる。

 あ、海埜は直接「場所(風景)」と向き合っているのではなく、一度「書物(ことば)」を通っている。「書物(すでに存在することば)」が海埜の「誤読」の原点なのだ。海埜は「ことば」から出発しているのだ。
 「書物」は「ひらがな」だけで書かれているわけではない。日本の書物は漢字やカタカナ、ひらがなが混じり合って、「意味」を明確にする。この「意味の明確」というものが、海埜は嫌いなんだな。生理的に遠ざけたいと思っているのだな。
 と、私は想像する。
 そのために、ことばをわざと「ひらがな」にしてしまう。「音」だけにしてしまう。「誤読」を誘い込むために、漢字を拒絶するのだ。

 海埜の詩は、たいていがわかりにくい。今回のように「わかった」と簡単に「誤読」できない。--私にとっては、という意味だが。
 でも、今回はなぜか簡単に「誤読」できた。
 なぜだろうか。
 それ考えたとき、「しょもつ(書物)」が目の前に浮かんでくる。そうか、海埜のことばは「書物」を潜り抜けるとき、私には「わかった」になるのか。「書物」をとおらず、肉体だけを通ってきたとき、つかみどころのないものになるのか。
 これは、海埜の問題というより、私にとって重要な問題である。私は結局「書物」からことばを吸収し、書物の「意味」でことばを読んでいる。「書物」のなかで海埜と交流しているということになる。
 これでいいのかな?
 こんなふうにして「わかった」が成立していいのかな、と私は読みながら、実は不安になったのである。
 「わかった」ではなく、「この詩、わからないよ」の方がよかったのかな、と思うのである。



 野村喜和夫「問いの場所はいつもきらら」。タイトルからして「無意味」であるが、私は野村の「無意味」、意味を破壊することばのリズムが大好きである。
 だから(?)、今回は違うことを書きたい。いつもと同じことを繰り返し書くのは、それはそれで楽しいけれど、違うことを書くのもいいかもしれない。
 一行だけ取り出して、あれこれいうのは「反則」かもしれないが、

広島とヒロシマ(いままた、これに福島とフクシマを加えるべきだろうか)

 こういう表現は、いま、あらゆるところで目にするけれど(類似のことを確か城戸朱理が毎日新聞の詩の時評で書いていた)、私はどうにも納得できない。こういう「書式」というか、こういう表現が「書物」になって存在していくことがちょっと我慢ができない。
 広島は広島。福島は福島。それでしかない。ヒロシマ、フクシマと書くとき、そこに「省略された意味」がある。簡単にいうと「原子力によって破壊された」という修飾節を含んだものがヒロシマ、フクシマである。(ナガサキも同じ。)修飾節が省略され、しかし省略しているけれど意識はしているんですよと釈明しているのがヒロシマ、ナガサキなのだが、釈明なんかするな、と私は言いたい。
 省略したものが含んでいるものこそ重大なのである。
 人はだれでも自分にとってわかりきったことは省略してしまうが、広島、長崎、福島で起きたことは「わかりきってはいない」。少なくとも、私にはわからない。私は、三つの場所で起きたことを体験していない。見聞きはしている。広島、長崎の資料館に行ったことはある。それは、あくまで「資料」を見たにすぎない。資料を見て、何かが「わかった」つもりでいるだけであって、それを私は「肉体」で覚えていない。こういう苦しみがあるんですよ。こういう苦しみを実際に私はいっしょに生きたんですよ、とは言えない。つまり、それは私とにって「書物」なのだ。
 書物は想起に役立つだけ批判したのはソクラテスだが、広島、長崎で私が見たものは、そこで起きたことを「想起」するのに役立つけれど、それは私の体験そのものとはなっていない。私は被爆者と直接会って、納得できるまで話を聞いたことすらない。何人かの話を「書物」では読んだが、直接声を聞いたことがない。
 ヒロシマ、ナガサキ、フクシマという表記を野村がどういう感覚でつかっているのか「わからない」。
 広島、長崎、福島へ帰りたい。取り戻したい。いつまでも広島、長崎、福島という漢字の表記のままの土地を返せ、と叫んでいる人がいるはずだと思う。それは、津波に遭っても、やっぱり海が好き、海から離れて暮らすことはできないという被災者の声とどこかでつながっている。生まれ育った土地、その土地で生きてきた時間。それはカタカナの表記のなかでないがしろにされている、と私は感じる。
 ヒロシマ、ナガサキ、フクシマというカタカナで表記するとき省略するもの--それを省略せずに、どんなに長いことばになっても、繰り返し繰り返し語ることが大事なのだと思う。そのことばは、きっと語りはじめればどんどん長くなる。ひとりひとりが自分の肉体をそのことばに絡みつかせるからである。
 逆に言えば、あらゆる人の肉体を絡みつかせるだけの「粘着力」をもったことばこそが必要なのだ。ヒロシマ、ナガサキ、フクシマでは、ことばの「経済学」として便利すぎる。もっともっと不便にならないと、現実は取り戻せない。そんなことまで書いていたらまとまらない、原子力を告発できない、ということかもしれないが、そういうごちゃごちゃに踏みとどまって生きることが悲劇を繰り返さない出発点なのだと私は思う。

 ヒナシマ、ナガサキ、フクシマと書くな。






隣睦
海埜 今日子
思潮社
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吉本洋子「ダンスホール25時」ほか

2012-08-23 10:19:04 | 現代詩講座
吉本洋子「ダンスホール25時」ほか(現代詩講座@ リードカフェ、2012年08月22日)

 「涸れる」ということばを盛り込んで詩を書く--というテーマでつくった詩。吉本洋子「ダンスホール25時」は、だれもいなくなったダンスホールの過去を思い出す情の深い詩なのだが、2連目に入り情景がかわる。

わたしを包(くる)んだ衣が糸をひいて
あなたの靴紐に絡みつき
膝をよじのぼり
腰に手をまわして懐かしい場所をさがしている
懐かしいそこが静かに整列して
じゅんじゅんと満ちてくる

 男とダンスをしている。ダンスは服を着たままのセックスである。呼吸をあわせ、ひとつの曲に乗り、同時に動きの駆け引きをする。接近したり、離れたり。誘ってみたり、拒絶してみたり。
 「懐かしい場所」「懐かしいそこ」は、もちろん肉体の「場所(そこ)」なのだが、ダンスの場合、裸でするセックスではないから、その「場所(そこ)」は肉体でありながら肉体ではない。つまり、ある楽曲の、あるリズムの、ある部分。そこで肉体は無理をする。つまり、自分をきれいにみせるために、ふつうではできないポーズをとる。その瞬間、その肉体が輝く。
 こういう美が輝くためには、一定の訓練というか、手順が必要である。どこをどう動かして、どう相手とかかわるか。その手順が「静かに整列して」くる。肉体のなかに一連の動きが、無意識のまま、ととのってくる。それは美が少しずつ満ちてきて、器からあふれるようなものだ。突然ではなく「静かに」、しかも「整列して」「じゅんじゅんに満ちてくる」。それは何度も何度も繰り返し味わった喜び、懐かしい喜びである。自分が自分でなくなる、自分の外へでて行く(エクスタシー)は、おだやかであるとき、いっそう肉体とこころの奥をゆさぶる。
 エクスタシーだから、現実には見ることのできないものも、その瞬間に見てしまう。

眼の渇いたゆうれいが涙の向こうにみた雲を踏み

 という非常に美しい1行が3連目に出てくる。「渇いた」は「乾いた」ではないが、「涸れた」に通じるものがある。同じ音のことばは、どこか深いところで(ことばの肉体の奥底で)、同じ「感覚」を共有している。
 眼が渇いていれば、涙は、そのときは存在しない。「眼が渇いた」と「涙」は、いわば矛盾している。けれど、その矛盾があるからこそ、ことばはことばの外、論理の外へ出ていくことができる。つまり、エクスタシーの瞬間に到達することができる。涙の記憶を肉体にしっかりと沈み込ませたまま(--これが涙の向こう、ということ)、「雲を踏」む。ここにはないダンスのステップ。現実にはありえないダンスのステップ。それが矛盾の中で輝く。
 これはほんとうに美しい。
 この美しさは激しさであってもいいのだが、吉本はそれを「静かな」「懐かしい」ものとして描く。そのとき、いま、ここにはない幻の時間「25時」というありえない時間が浮かび上がる。



 田島安江「涸れた心」は淡々としている。破綻がなく、情景もよくわかる。

お盆だからと
娘を亡くしたばかりの女と
山の麓の温泉にきている
湯に入ると
ゆるゆるととろけるように
亡くした娘の心が老いた母の心にしのびこむ
昨日まで知っていたはずの
心に刺さるあの

「白いものは湯の華です」
湯の華は湯の中でゆらゆらと揺れながら
老いた女のからだのまわりをすべっていく

老いた女と向かい合って
死んだ娘のことを
そこにいない人のことを
そこにいる人のように話した
「死んだらいなくなるというのはうそですよ」
老いた母がゆるりという

白い湯の華が
老いた女の肌をすべりおちる
死んだ娘のことを話すとき
白い花がゆらゆらと
わたしには見えないその白い花が
老いた母には見えるようだった
「娘がいなくなった日から白い花が見えるのですよ」

老いた女の涸れた心に
白い花がするりと流れ込む

 登場人物は「わたし(田島、ということにしておく)」と「娘を亡くした女(老いた母)」のふたりである。ふたりなのだけれど、田島は老いた母の気持ちと一体になっている。1連目の最後の「心に刺さるあの」の「あの」の省略されたことばに、その一体感の強さが凝縮している。
 「あの」とは「娘のあの記憶」「あの娘の記憶」ということになるのだと思うが、ではその「あの」は何かというと実は老いた母にしかわからない。しかし、たとえば長年連れ添った相手に「あれとって」といえば「あれ」が通じるように、「あの」でも通じるのだ。通じるということは、ふたりが別々の存在でありながら一体感を生きているからである。その一体感を、たとえば「娘を亡くした喪失感」というふうに言い換えることもできるけれど、まあ、こういうこざかしい言い換えはやめて、ただ「あの」だけで通じる一体感というものを感じればいいのだと思う。
 で、この一体感は、最終連の2行に結晶する。

老いた女の涸れた心に
白い花がするりと流れ込む

 「心」は見えない。そして、田島は「湯の華」は見えないといいながら、その見えないものが、見えないはずの心に「流れ込む」と書いている。
 これは「見る/見えない」ではなく、肉体全体で、老いた母と田島が一体になり、「感じている」ことなのである。このとき田島は老いた母を見つめていると同時に、老いた母そのものなのである。
 この一体感は、これはこれでいいのだけれど。
 1連目の「あの」に凝縮しているような一体感とは少し違う。他人の一体感に文句(?)をいってもしようがないけれど、1連目の「あの」が生かしきれていない。1連目の「あの」の向こう側へと行っていない。引き返してきている。それが残念である。



 というわけで、というのは、まあ、間違った「というわけで」のつかい方になるのだが、次回( 9月26日、水曜日)のテーマは「あの」。詩のなかに「あの」を10回以上つかった作品を書く、がテーマ。

 あのあのは、あのあのではなく、あのあのなのだけれど、あのあのだけでは通じないのはしようがないと認めるのはしゃくなので、どのあのかわからないなら、そのあのとこのあのとあのあのとの違いから確認するのがことばの手順じゃないかとどなりつけてしまった。

 これで、何回「あの」が出てきたかな?

 詳しい時間などは、「書肆侃侃房」(←キーワード検索)の田島さんに問い合わせてください。


 





詩集 引き潮を待って
吉本 洋子
書肆侃侃房
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三井葉子「しずかに」ほか

2012-08-22 11:03:12 | 詩(雑誌・同人誌)
三井葉子「しずかに」ほか(「交野が原」73、2012年09月09日発行)

 三井葉子「しずかに」には知らないことばがない。けれど、わからないことばがある。そして、わからないというのは、どこか肉体の奥で、あ、これは「わかる」という気持ちがわき起こってきたときに、さらにわからなくなるものである。

石をなげるな
シッ
しずかに

もう
みな
寝しずまっている

木の股の
巣が
むこうにひとつあれば
それを頼んで
みな 眠っているのだ

生きているのは
寝るまも生きていることだから ね

 3連目の「頼んで」。直感的にわかるのだけれど、ほかのことばで言いなおそうとすると、ことばが出てこない。「わからない」。でも、それを「わかりたい」。これが「わからない」とこの詩が「わからない」。そう思うのだが、どう近づいていけばいいのかわからない。
 どこかに木がある。そしてその木には鳥が巣をかけている。巣のなかにいるのは雛だろうか。それともまだ卵のままだろうか。よくわからないけれど、あ、そんなふうにして自分とは違ったところで、自分とは違ったいのちが生きている。大きな世界の中で、いのちはさまざまに形をかえながらつづいている。私もその「つながり」のひとつなのだと信じる。そうすると安心する。
 「頼む」は「信じる」なのだ。ふつう、「頼む」を「信じる」という「意味」ではつかわないけれど、「頼んだよ(まかせたよ)」というときは「信じているよ」というこころがそこに動いている。ここから「いのる」という意味もうまれてくるのかもしれない、いやあ、いいことばだなあ。そうか、こんなふうにして使うのか、と思う。納得させられる。そして、この「頼む」「信じる」から「頼もしい」ということばも動くのだなあと思う。「ひとつあれば」の「ひとつ」が、いろいろに動くことばをきゅっとひきしめる。どんなことばも、けっきょく「ひとつ」から生まれ、動いていく。
 俳句で言う「遠心・求心」の、その固く結びついた一点、そして解放された一点を思う。
 三井のことば、その「意味」は表面的ではなく、どこか肉体の奥深いところでゆっくりと人間全体をゆさぶる。

 斎藤恵子「さみだれ」。

ドアをあけることはできません
前の道にはお面をつけた子どもたちがいて
 けとけとけと
泣くのです
声がなまなましくてわたしは耳をふさぎます
子どもたちはわたしを見てもしらんかおです
でもしっているのです
わたしが怖れていることを
だからわざとさわぐのです

 「子どもたちはわたしを見てもしらんかおです/でもしっているのです」。知らないのに知っている。わかっているのに、わからないふりをする。そういうところで動いている何かは「恐ろしい」。でも、そういう「恐ろしい」何かがあるからおもしろいのかもしれない。
 三井は「頼もしい」何かを書いている。斎藤の書いていることは「頼もしい」の反対にあるのかもしれない。それは他人なんか信じない。自分を信じる、自分がいちばん「たのもしい」のかもしれない。頼りになるのは自分だけ。だから、「恐ろしい」も自分で抱えるしかない。
 で、自分のなかに「頼もしい」と「恐ろしい」がからみあって、自分がほどけてゆく。

さつきの雨の日でした
雲におおわれ肌さむい日でした
きょうは子どもたちは外にいませんでした
わたしは外で雨にぬれてみました
額から鼻そして顎
ひんやりした化粧水のように
 ぴとぴと
くちびるをほの甘くぬらします
ゆびがやわらかくなりました

 その「ほどかれる」肉体は、雨に濡れることから始まるのだが、ここもおもしろいなあ。濡れるは、直に肌と水が接触すること。
 三井の「しずかに」では巣は「むこう」にあった。「わたし」とは接触していない。そういうところで動くこころと、何かに接触して動くこころでは、肉体の見え方も違ってくる。
 当たり前のことなのだろうけれど、その違いもおもしろい。



灯色(ひいろ)醗酵
三井 葉子
思潮社
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井奥行彦『死の国の姉へ 雨と花の季節から』

2012-08-21 10:10:53 | 詩集
井奥行彦『死の国の姉へ 雨と花の季節から』(書肆青樹社、2012年05月15日発行)

 井奥行彦『死の国の姉へ 雨と花の季節から』はタイトル通り、死んだ姉にささげる詩集である。こういう詩集に「ケチ」をつけるのはいいことではないのかもしれないが、「ケチ」がつかないということによりかかってはいないだろうか。人にはだれでも「真実」があるのだから、「私は真実を書きました」「ほんとうに思っていることを書きました」というだけでは「文学」ではない。書かれていることから「真実」を読者が感じとれなければ、それは「真実」ではない。書かれていることとはまったく違ったことを誤読したとしても、読者がその「誤読」によって感動しているなら、それは「文学」である。読者の「誤読」のなかにだけ「文学」がある、と私は思っている。
 この詩集の何が問題か。

あなたを蘇生させることのできない日々は、全く空しい生に思えてなりません。胸に鉛を蓄めているような鈍痛を感じます。特に三月からの急速な開花と落花のあわただしさは、私の心に生のイメージも死のイメージも創る暇もなく変転するばかりです。
 
 「イメージ」ということばが出てくるが、このイメージに対する意識が間違っていると私は思う。イメージというものは、イメージを破壊したときに初めてあらわれてくる現実のことを指している。いま、ここにあるもの、リアルを破壊し、その奥から本質的なリアルがあらわれたとき、私たちはそれに驚き、自分のことばを失う。その瞬間に噴出してくるのがイメージというものであり、それは作り上げるものではない。イメージなんて、だれにもつくれないのである。
 言い方をかえよう。この詩集にはいろいろな花の名前が出てくる。井奥は花を書いているつもりかもしれないが、私には花の名前を書いているとしか感じられない。で、その花なのだが、たとえば桜。桜は春に咲いて春に散る。三分咲き、満開、散り初め、花吹雪。いろんな表情があるが、それを私たちは簡単にイメージできる。だが、それはほんとうはイメージなんかではない。五枚の光り輝く花びら、風に吹かれて吹雪のように舞い散る--というのは既製の「定型」、肉眼をしばりつける「定型」にすぎない。「定型」によりかかっているとき、私たちは何も見ない。「あ、きれいだね」とうわっつらをことばで飾り、花の下でビールをのみ、弁当にくらいついて平気である。どうせ去年と同じ「定型」の桜である。そこでは肉眼は動かない。何も見ていない。
 井奥が書いていることはイメージではない。簡単に思い浮かべることができるのは、それが既製の「記憶」であるだけのことである。井奥は花の名前をあげるとき、読者の既製のイメージ、既製の記憶に頼っている。そこからは何も見えてこない。
 冷たいようだが、これは死んでしまった姉についても言える。いとしい姉が死んだ。その思い出が井奥の胸にある。そう書くとき、井奥は読者の「記憶」に頼っている。いとしい人に死なれてしまったときの悲しい記憶。父かもしれない。母かもしれない。あるいはこどもかもしれない。友だちかもしれないし、ペットかもしれない。そういう「既製の記憶」はだれにでもある。だから、姉が死んでしまった私の悲しみ、空しさもわかってくれるはず(わからないのは非人間的な感情の持ち主)という安直な「イメージ」を生きている。

 井奥は「人間の感覚はほんとうにあてにならない、分析以前の原始的なものです」と書いているが、じょうだんではない。人間の感覚はあてになる。原始的なものよりあてになるものはない。たとえば、あの女が好き、と直感的に思う。本能的に思う。どこをどう分析してそう思うかなんて、わかりはしない。その直感は、しかし、あてになる。あれこれつきあっている内に、あ、間違えたと思っても、それはそれで「間違えた」と思う感覚が正しいというだけである。
 あてにならないのは、次のような「分析(?)」である。

急速な近代化の歴史の中では職場における人間疎外が生まれ、恐ろしいことは此の疎外が賃金の優劣という下部構造に裏打ちされていることであり、さらに恐ろしいことはそれが自己否定の精神状況に繋がっていることです。

 姉が働いていた農村の幼稚園、そこにおける姉のことを「分析」しているらしいのだが、こんな具合だから姉がことばを突き破ってあらわれてこないのである。井奥の書いているのは「定型の分析」であり、そこには井奥の発見がない。こういう分析、こういうことばは何回か読んだことがあるなあ、ありきたりだなあ、と思って、私はもうそこで考えるということをやめてしまう。
 いま、私の家の近くにはツクツクボーシが鳴いている。その声を聞いて、あ、これはツクツクボーシだと思った瞬間、その鳴き声が「ツクツクボーシ」という音以外には聞こえないというのと同じである。ほんとうはツクツクボーシと鳴いていないかもしれない。ほかの音かもしれないのに、私の耳はいいかげんだから、特にそのことを描写したいとも思わないので、そこで動きを止めてしまう。「イメージの定型」によりかかって、そろそろ秋だなあ、と「定型」でごまかしてしまう。

 暑くてうんざりしているので、--という「定型」を利用して、こんなどうでもいいことを書いてしまった、ときょうの「日記」を閉じよう。




井奥行彦詩集 (日本現代詩文庫 (59))
井奥 行彦
土曜美術社
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エミリオ・エステベス監督「星の旅人たち」(★★★★)

2012-08-20 08:30:22 | 映画
監督 エミリオ・エステベス 出演 マーティン・シーン、ヨリック・ヴァン・ヴァーヘニンゲン、デボラ・カーラ・アンガー

 フランスからピレネー山脈を越えサンティアゴ・デ・コンポステーラまで 800キロの道を歩く。巡礼である。何のために歩くか。歩いてみたかったのである。わからないけれど、歩けば何かがわかるかもしれないと思い歩く。--これは、私の感覚では、何か「書く」という感じと似ている。(この映画にはスランプに陥った「作家」も登場するが、主役は「書く」こととは無縁である。しかし、「書く」という感じに、歩くことは似ている。)
 何かを書くとき--こうやって映画の感想を書いているときでもそうなのだが、私は実は何を書いていいかわからないで書いている。いま、歩くとは書くに似ていると書いたが、そのことさえ実はよくわからない。よくわからないけれど、書くのである。そこには私の知っていることと知らないことがある。何かを書くときに、私の知っていることがある。そして、知らないことがある。その「境目」みたいなところを、私はたどるのである。
 この映画では、マーティン・シーンの息子、エミリオ・エステベスが息子の役で登場する。息子はあるひ突然大学をやめてしまう。そして世界放浪の旅に出るのだが、サンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう途中、いやその出発点で死んでしまう。その息子はいったい何を考え、何を感じていたのか--それを知りたくてマーティン・シーンは息子が歩く予定だった道を歩く。
 マーティン・シーンにわかっているのは、息子がその道を歩こうとしたということだけ。ほかはわからない。息子が死んで、バックパックが残される。それを背負って歩くとき、そこはたしかに息子の歩こうとした道であることはわかる。しかし、その途中で見るあれやこれや、人との出合い--それは息子の望んだものかどうかわからない。もし、そういう交流で息子が何かを望むとしたら、あるいは何かを見つけるとしたらそれは何か。これもわからない。けれど、息子は何かと出合い、何かを知りたかったということだけはわかる。
 このわけのわからない旅に、オランダ人、カナダ人、アイルランド人が、いっしょに歩くことになる。自己紹介(?)であれやこれやのことはわかるといえばわかる。相手がどういう人物なのか知ることができる。でも、知ったことすべてがそのひとではない。わからないこともある。そのわからないものを抱えながらいっしょに歩く。
 その過程で少しずつ、知っていること、わかること、知ってはいけなかったかもしれないこと(つまり、踏み込んではいけなかったかもしれない心の領域)を知ってしまう。知ってしまって、だからといって相手に何ができるわけではない。ただ、いっしょに歩くだけである。
 でもねえ、このリズムがいい。少しずつ、何かがわかっていく。たとえばマーティン・シーンは行く先々で息子の遺骨を撒いているのだが、それはまあ観客にはすぐわかるが、同行者にはすぐにはわからない。少しずつ、ついつい「秘密」を漏らしてしまったわかってしまうというような部分もある。で、この少しずつが、なんというか、ことばにならないものなんだなあ。ことばにならないものを、少しずつ、ことばになるかもしれないもの(知っているもの)を積み重ねて、つないでいく。そうすると、そこに何かしら「道」が残る。
 道は最初からフランスから聖地まで続いているのではあるけれど、それは「地理上」のこと。それは、なんというか「知っている道」。でも、その「道」には知らないことがある。つまり、歩きはじめて、人と出合って、そのなかで残される「道」が生まれる。その道はたまたま巡礼の道と同じように見えるけれど、ほんとうは違う。ひとりひとりのこころのなかにできる道であり、それは一本なのに交錯している。四人いれば四人の道が交錯する。重なるというよりも、分かれる。まあ、変な言い方だが、ようするに出発点や目的地さえ違っているのだから、それは「巡礼の道」での一種の「出合い」、つまり「交差点」なのだ。
 変でしょ?
 道は一本のはずなのに、それが交差点というのは。--でも、この変な、矛盾した感覚--それがたぶん道を歩くこと、書くということとほんとうに似ているのだ。
 四人はときには横に並んで歩く。あるいは縦に一列に並んで歩く。「道」ではなく葡萄畑を歩いたりもする。もちろん、ケンカもすれば和解もする。これは、書くときにあちこち脱線したり、書いたものを消したり、消したとたんに、あ、いま消したものこそほんとうは書きたかったことだと後悔したりするのにも似ている。
 そのリズムが--あ、さっき、リズムがいいと書きながら、肝心のリズムについて書いていなかった。そのリズムが、ほんとうに自然で気持ちがいい。この映画に描かれているように60過ぎの男が 800キロをこのリズムで歩き通せるとは思えないけれど、まあ、そこが映画であり、そこに映画ならではの美しさもあるのだが、いや、ほんとうにリズムがいい。もしかしたら私にも 800キロを歩けるかもしれないという感じのリズムなのである。野原や山や、ところどころの街。そのあらわれるタイミング。光の変化。

 で、
 この映画、チラシでは「ひたすら歩みつづけた人生の道の果てに、人は今まで知らなかった自分を発見し、さらに進むべき道を見出す」云々というようなことが書いてあるのだが。
 そうかなあ。そんな簡単に、「道」は見つかるかなあ。そうではないと思う。それが証拠に、この四人は別にして、ただただその道を何度も繰り返し歩く人もいる。「未来の道」なんて、ないのだ。ただ、いま、ここを歩くという行為、それだけがある。四人は未来に向かってなど歩かない。「いま」を「いま」として歩くだけである。歩くとき、「いま」が「いま」になる。「いま」とは知っていることと、知らないこと、わかっていることとわからないことが交錯する瞬間である。「いま」にとどまりつづけると言った方が近いと思う。
 書く--というのは、実は、どこへも行かない。ただ、「いま」を私の知らなかったなにかと「交錯」させるだけである。これは知っている、これは知らない。その知らないものと知っているものを見わけながら、交錯させるとき、そこから何かが始まる。何事かを考えることができる。
 というようなことを考えた。

 あ、書き忘れた。映像が非常に美しかった。自然や街が、この映画に描かれているように美しいとはかぎらないと思うけれど、いや、美しくあってほしいなあ、と思わず思ってしまうくらい美しかった。
 エミリオ・エステベスは「いま」というものをほんとうによく知っているのだろう。知らないことについても、知らないということを知っていて、知らないものは知らないものとしてしっかり見つめる感性を大事にしているのだと感じた。
                        (2012年08月18日、中州大洋3)




セント・エルモス・ファイアー [Blu-ray]
クリエーター情報なし
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
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白井知子「最期の巣ばなれ」

2012-08-19 11:46:48 | 詩(雑誌・同人誌)
白井知子「最期の巣ばなれ」(「交野が原」73、2012年09月09日発行)

 白井知子「最期の巣ばなれ」は感想が書けるかどうかわからない。書きたいのだが、そして実際にこうしてワープロに向かっているのだが、まだどうしたものかと迷っている。ことばが動きだそうとしない。どうすればいいのかわからない。

初秋の雨あがり
静かさがせせらぎのように流れてくる
ふいに 母の百合子が不自由な身体を起こそうとむきになる
--あんたは ほんとうに とも子かい
  いやだ わからない わからないことばっかりだよ

 母は入院しているのだろうか。何の病気がわからないが、認知症も併発しているのかもしれない。娘の「名前」は思い出せるが、顔は識別できない。でも、ことばははっきりしている。
 で、このはっきりしている、ということはどういうことなんだろうか。
 5連目。

--わたしが生んだのは 鶏だろう 犬 芍薬の花 竈もだ……
  燃えてる 何だろう 何 骨 骨を燃やしてたよ
  インドのさ ほら あそこ あの河だ
--ガンジス河のペレナスでしょう
--あそこの牛 内緒だけど わたし 生んだかもしれない
しゃがれ声が ゆっくり
どうして この日 こんなにも言葉が出てきたのか不思議だ

 「わたし(母)」が鶏を生んだ、犬を産んだ、芍薬の花を生んだ、竈を生んだ、というのは「間違い」かもしれない。人間がそんなものを産めるはずがない、というのは簡単だ。けれど、もし「鶏、犬、芍薬の花、竈」が何かの比喩だったらどうなるだろう。人は、その「比喩」を産むことはできないか。きっとできる。はっきり母がそういうなら、そのことばの中には何か真実--いいたくてしようがないこと、言わずにはいられない「本能の秘密」のようなものがあるかもしれない。
 「産んだ」ではなく「生んだ」。この表記にこだわるなら、「生まれた」ということかもしれない。母は鶏として、犬として、芍薬の花として、竈として「生まれた」。人間として生まれたはずなのに、鶏として、犬として、芍薬の花として、竈として「生きた」ということかもしれない。
 母のことば(口から発せられたもの)を白井が書き留めたのだから、そこには白井の無意識が反映しているかもしれない。
 そうか、母は、鶏として、犬として、芍薬の花として、竈として「生きてきた」と感じたことがあったのかもしれてない。それぞれは何の比喩だろうか。
 だが比喩としてことばを読むと、そこには変な「意味」がまじってくる。何かしらの「意味」めいたものがまじってくる。鶏の卵を産んでは、卵を食べられてしまう。犬はだれかを、あるいは何かを守っている。番犬のように生きてきた。それでも芍薬の花のように輝き、ひとを振り向かせたことがあった。というのは、幻。やっぱり台所仕事(竈)をするだけの人間としてこき使われた……と読もうとすれば読めてしまう。でも、それでいいのか。
 違うなあ。
 「意味」ではなく、やはり「意味」を超えた、ものそのもの。母の発した、ことばそのものの、もの。「意味」ではなく、その「もの」こそが、母にははっきりしている。そして、それを母は娘に伝えようとしている。
 どう受け止めることができるか。

  燃えてる 何だろう 何 骨 骨を燃やしてたよ
  インドのさ ほら あそこ あの河だ
--ガンジス河のペレナスでしょう

 このやりとりは、白井が「意味」を探ろうとしていることを語っている。「意味」とは自分が知っていることがらだ。インドのガンジス河のペレナスでは火葬が行われている。白井は母といっしょにそれを見たのかもしれない。いっしょではなくても、母からその話を聞かされたかもしれない。本で読んだかもしれない。どっちでもいいのだが、このやりとりのなかで、白井は母のことばを理解しているのではない。自分の理解できること、知っていることを「意味」として受け止めて、それを母に投げ返す。
 その応答は「外れ」ではないかもしれないが、「正解」でもない。

--あそこの牛 内緒だけど わたし 生んだかもしれない

 母が見ているもの、伝えようとしているものは「牛」なのだ。鶏、犬、芍薬の花、竈につながる牛。
 これは簡単にはつながらない。簡単にはつながらないと私が感じるのは、そこに「意味」の連続性がないと思うからだ。
 白井は、どうだったのだろう。
 「意味」を見つけ出せただろうか。

 見つけ出せなかったと思う。

 こういうとき、「書く」とは、どういうことなのだろう。なぜ、書くのだろう。意味もわからず、「不思議」というしかないことをなぜ書くのだろう。
 きっと人間は「意味」を生きているのではないのだ。意味にならない「もの」に触れながら、うごめいている。わけがわからないまま、めんどうくさくても、それを捨てずに生きている。肉体にそういうものを抱えていると、いつかわかるようになるか。それすらもわからないけれど、仕方がない。
 仕方がない--と書くと、諦めのように聞こえるが、そうではなく、決意である。そういうものを抱えて「生きていく」という決意。そうして、そういうものを抱えて生きる人と、わけのわからないままいっしょに「生きる」という決意。
 私の「感覚の意見」は、そう思う。

骨を緊めている粘土のような肉を捏ねまわす
爪を喰いこませ 引っ掻き 剥がし 齧り 気のすむまで造りなおして
いっと 母が生んだというものたちの餌食にすればいい
真夜の月に娘を吊るして

最期の獣の巣ばなれ

 母が獣であるならば、娘も獣である。その血が流れている。それをしっかり見届ける。そして「生きる」を決意する。「わからないことばっかり」の世界だが、その「わからないこと」の奥には、わかる必要のない「いきる」ということがある。「意味」にできないものがある。
 「おかあさん、このわけのわからないものは何?」と聴くことはできない。そういうときがくる。そこからほんとうに「生きる」が始まる。その覚悟がことばを貫いている。



地に宿る
白井 知子
思潮社
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小長谷清実「駆け登ったり駆け降りたり」

2012-08-18 05:54:01 | 詩(雑誌・同人誌)
小長谷清実「駆け登ったり駆け降りたり」(「交野が原」73、2012年09月09日発行)

 小長谷清実のことばは、いつも虚実の境目を動いていく。でも、虚実の境目なんて、ことばで言ってしまうと、それまで。「ふと思いつきで口走ってしまった」ことだから、聞かなかったことにしてください--といきなり、ある行、ある部分の引用からはじめてみようか。「駆け登ったり駆け降りたり」。実は、こういう作品。

狭い階段を駆け昇った先に
ドアがあって
そのドアの向こうに 私が今日
まぎれこもうという場所があって
とはいえ ふと思いつきで口走ってしまった
架空の場所だから
細部については全く不明である
誰がいるのかいないのか
老人のような赤ん坊の声ばかり聞こえてきて
不安になる
ドアを押すのがためらわれる
だったら ドアは押さなくても
いいのである
ドアの把っ手をひっぱれば
その向こうには 私が今日
駆け降りていく狭い階段があって
その階段の先に
ドアが会った 架空の場所があって
そして 赤ん坊のような老人たちの声ばかり
聞こえてくる

駆け登ったり駆け降りたり
その逆だったり
私が今日 まぎれこもうという場所には
いつまでたっても
たどりつけない

 ある場所(ある部屋)へ行かなければならない。行きたくないなあ。そのときの、こころの揺らぎというか、乱れというか、何と呼んでもいいのだけれど、それをちょっと「客観的」に見てみたら、階段を上ったり降りたりしている自分の姿に見えた(1行目「駆け昇った」は誤植だろうか。小長谷らしくない表記の不統一がある)--そういう姿を思いついた。で、映画ふうに描写してみました、ということなのだろう。「ふと思いつき」で、そういうことを書いたのである。
 ドアを押すのがいやならドアをひっぱればいい--というのは、単なることば遊びだけれど、その「遊び」のなかへ真剣に入っていくと、あれあれ、変なことが起きてしまった。これは落語の一種かな、という感じ。その左右対称(?)があまりに鮮やかなので私は繰り返し繰り返し読んでしまったが、何度読んでも楽しい。「老人のような赤ん坊の声」にはすでに「対称性」が含まれているが、それがさらに「赤ん坊のような老人たちの声」によって「対称性」が強調される。その合わせ鏡のような錯乱(?)がとても楽しい。

 ここでやめておけばいいのかもしれないけれど。
 私の感想は、しつこく、まだまだ続くのである。

 この詩のいちばんの手柄というか、読みどころは、

とはいえ ふと思いつきで口走ってしまった
架空の場所だから

 この2行の関係にある。「思いつきで口走った=架空」(思い=架空)。ほんとうのことではない、「架空」であると、平気で打ち明けている。ほんとうのことを書いているのではない。しかも、それは「思いつき」。熟慮されたことがらではない。
 つまり、「軽い」。
 「軽い」ことがらだからこそ、「押してもだめなら引いてみな」のような軽いことばが(慣用句が)全体を突き動かす。
 書きようによっては「重く」なるのだが、小長谷はあるまで「軽み」へ向けてことばを動かす。
 さっき書いた「老人のような赤ん坊の声」「赤ん坊のような老人たちの声」も、合わせ鏡のような対称性によって、とても軽くなる。内容的には「重い」のかもしれないが、あ、これ、さっき聞いたことば(音)と何か似ている。音のなかに(意味のなかに、という人もいるかもしれないけれど)、繰り返しがあって、繰り返しというのは、ことばを読みとみさせる--読む人のなかでことばが加速するのを助ける要素があって、この「飛ばす」(飛ぶ)という感覚が「軽い」につながる。「ドアがあって」が後半「階段があって」という繰り返し(反復?)も同じ性質のものである。
 小長谷は、こういう工夫がとても的確である。音に対する工夫(本能かもしれない)がとてもいい。
 「ドアがあって」「場所があって」「階段があって」「場所があって」。この「あって」の、あいまいな接続と中断を動いていく同じ音。そして、その接続と切断を、切断よりは接続にひっぱっていく「その」という次の行のことばの動き。

ドアがあって
そのドアの向こうに 私が今日

ドアの把っ手をひっぱれば
その向こうには 私が今日
駆け降りていく狭い階段があって
その階段の先に 

駆け登ったり駆け降りたり
その逆だったり

 この繰り返される「その」はなくても(省略しても)、意味は大してかわりはしない。--のだけれど、この「大してかわらない」の「大して」が実は問題だったりする。
 大して変わらないもの、微妙なものに、小長谷のこだわりがある。
 「その」ということばをつかうことで、いったん切断されたものをもう一度意識に呼び戻す。固定する。
 そうすると「架空」のものが「架空」でありながら、意識のなかでは架空ではなくなるな。「その」を省略すると、「架空」が加速し、暴走し、「空想」になってしまう。「現実」ではなくなってしまう。
 でも「その」があると、常に先行することばを自分の意識で引き受ける(継承する)という感じが生まれ、たとえ「現実世界」ではそういうことはありえなくても、「意識世界の現実」では、それが起きる。「意識の動き」が、「意識の現実」なのである。
 で、こういうことを書くと、ほら、ことばが重くなってしまう。
 しかし、小長谷はそれを重くしない。軽くする。軽いまま、ことばを動かしていく。ほんとうは重い世界なんですよ、ではなく、軽くするためにこんな具合にことばを動かしている--というところを見ていった方が、小長谷に接近することができると思う。
 重い世界なんですよ--では、誰にでも通じてしまうからね。ひとは誰でも、いや、これは私にとっては重要な問題なんです、笑いごとじゃないんですといいたがる。まあ、そうなんだろうけれどね。
 でも、小長谷はそんなふうに言わないようにしている。ことばをあくまで軽く、読みやすく、楽しいものにしている。そこが、私は好きだなあ。


わが友、泥ん人
小長谷 清実
書肆山田
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三井葉子『句集 栗』

2012-08-17 11:00:08 | 詩集
三井葉子『句集 栗』(洛西書院、2012年06月30日)

 私はずぼらな読者で、何を読んでいても、ある感想が思いつけばそのときことばを動かし、それでおしまい。本を開いて、その最初のページで何事かを感じれば、それで満足してしまう。
 三井葉子『句集 栗』、その巻頭の句。

嘘すこしコスモスすこし揺れにけり

 私は俳句はほとんど読まない。私の感想が俳句の感想の流儀にあっているかどうかもわからない。
 で、てきとうなことを書くのだが。
 この句では「すこし」が繰り返されている。17文字の中で繰り返しがあると、もったいない(?)感じがしないでもないのだが、この句が私は気に入った。
 繰り返しとは言うものの、ことばを繰り返すとは、いったい何を繰り返しているのだろうか。音、だろうか。意味、だろうか。
 嘘すこし、すこし揺れにけり、の「すこし」は同じだろうか。だいたい「すこし揺れにけり」でいいのだろうか。「コスモスすこし」とはどう違うのだろうか。文法的には「すこし揺れにけり」なのだろうけれど、ね。
 こういう疑問(?)が湧くのは、「嘘すこし」の「すこし」が形容詞であるのに対し、「コスモスすこし揺れにけり」の「すこし」が副詞だからかもしれない。「コスモスすこし」にすると形容詞になるのかもしれないけれどね。いや、そうじゃなくて「嘘すこし」の「すこし」は嘘にかかる形容詞ではなく、嘘を「すこし」ついた、と動詞にかかる副詞であるというのが文法的に正しいので、この句では「すこし」は副詞として統一して(?)繰り返されている野かもしれない。
 まあ、詩なのだから、そんなことはどうでもいい。読みたいように読んで、かってに感動すればそれでいいのだけれど。
 ここに、何か微妙な揺らぎがあるね。
 で、その微妙な揺らぎのなかに、私は会ったことはないけれど、三井の「肉体」を感じるのだ。形容詞と副詞は違うものである。違うものだけれど、どちらも本質じゃないというと変だけれど、主語、述語(動詞)のようにないと文章(ことば)が成り立たないというものでもない。その本質じゃない部分に、意味にはならない本質--人間の本質というか、品質(?)のようなものが出てくると、私は感じている。
 そうか、三井は「すこし」を丁寧に見る人間なんだな、と思うのである。
 きっぱりと嘘をついて、コスモスなんかは薙ぎ倒して、というのではなく、どういえばいいの打数、相手の反応をみながら、ちょっと嘘をついて、嘘をつきながら、あ、これはばれているかも、と思ったりしながら、でもやめられない。その不安定な気持ちにコスモスが重なる。ねえ、コスモス、嘘をついたことがある? そう問いかけているようでもある。

われもかう色もこぼさず色凝りて

われもかう踏むひともなき細き首

 最初の「われもかう」には「こ」の音が繰り返し出てくる。こういう繰り返しは、最初に取り上げた「すこし」の繰り返しとは関係がないはずなのだが、すくなくとも「意味」てきには無関係なのだが--私は、何かしら、よくわからないまま、関係を感じる。
 三井はことばを「音」で動かしているな、と感じる。意味ではなく、音。意味を越えて、音と音が呼びあう。そのとき肉体の中で何かが動いている。
 ひとは意外とそういうどうにも支配することのできない何かによってことばと出合っているような気がする。言い換えると、このことは、この音が好き、だからこう書くしかない、というのがあらゆる詩人の書き方なのだ。
 科学論文じゃないからね。
 (とは言いながら、私は科学論文にしろ、やはりこのことばが好き、という本能がことばを動かしいるに違いないと信じているのだが。そして、そういう好みがあるからこそ、科学の発達にムラがあるのだと思う。ある分野が突然飛躍的に展開したりするのは、そういうことばの無意識の選択がどこかで影響していると思う。--まあ、これはどうでもいいけれど。)
 「われもかう」に戻ると。
 ふたつ、「われもかう」が続く。これは、最初の句だけでは吾亦紅を書いた気持ちにならなかったんだね。満足できなかったんだね。こういう無意識があらわれるところが句集のおもしろいところだと思う。
 最初の句では満足できない。だからもう一回、吾亦紅を書く。二回で三井が満足した野かどうかよくわからていけれど(たぶん、不満だろうなあ、そんなにいい句じゃないから--と私は思う)、まあ、そのあたりで諦めた。
 そういう呼吸もおもしろい。
 「呼吸」と書いて思うのだが、たぶん三井のことば(俳句のことば)は「呼吸」で動いている。肉体で声を出す、音を出す、そのときどうしてもそこに生理的な呼吸が入り込む。その呼吸。抽象的な呼吸じゃなくて、肉体そのものの呼吸。
 この肉体そのものの呼吸というのは、具体的すぎるのだけれど、そして肉体にぴったりとはりついていて、それが具体的であるということさえわからないのだけれど--それゆえに、詩人の本質につながるものだと思う。

嘘すこしコスモスすこし揺れにけり

 この「すこし」の繰り返しも「呼吸」なのだ。呼吸するから、繰り返される。それは肉体の運動。頭でことばを整理すると、最初に書いたように、17文字のなかに同じ音が出てくるのはもったい、という経済学が働く。そういう頭で考えた経済学が入り込むと、三井の句はとてもつまらなくなる。
 不経済を承知で、呼吸を優先する。
 たぶん、詩だけではなく、生き方そのものとして、三井は経済的ではなくても、不経済であっても、こっちの方が好き、と自分の気持ちのいいものを選び取るタイプの人間なのだろう。
 そういう「におい」のようなもの、いい意味でのだらしなさのようなものが、句に不思議な広さをもたらしていると思う。

永ければ飽きると思ふ良夜かな

 「飽きると思ふ」がいいなあ。三井の「肉体」を、そこに感じる。

柿落下 目で舐めている甘き肉

 うーん、俳句の「音」とは違うような感じもするが、「落下」と「舐めている」ということば調子が音としてあわないような気もするのだが、ここにも肉体を感じる。

 前後するが、音そのものが句を動かしているものには、

田子が刈る刈り田かがよふ夕べかな

 という、谷川俊太郎が真似しそうな楽しい句もある。

はあ もしや 菩提樹の実はふたり連れ

 この書き方は詩人だから許される書き方なのかな? 口語の「はあ もしや」の呼吸がそのまま「発見」になっている。

億年やむかし林に落ちし栗

 句集のタイトルの『栗』はこの栗かな? むかしが 100年くらいではなく億年であるというのは、ひろい呼吸だなあ、とうっとりする。
 この句がいちばんいいかも。
 まだ、途中までしか読んでいないのだけれど。

人文―三井葉子詩集
三井葉子
編集工房ノア
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