詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小島きみ子『その人の唇を襲った火は』(3)

2011-08-31 23:59:59 | 詩集
小島きみ子『その人の唇を襲った火は』(3)(洪水企画、2011年06月15日発行)

 小島きみ子『その人の唇を襲った火は』には、いくつも不思議な「文」が出てくる。全部を数え上げていたらきりがない。
 詩集のタイトルとなっている「その人の唇を襲った火は」から、そのひとつ。

鳥の鳴き声は、「音」そのもので、音の意味を知ることはできない。耳をつんざく音の連なりの「音」の空間に存在するものは何か。鳥の声に点火されたものは、意味ではなく、人間という存在への「反応」だとしたら、この「音」は「誕生するもの」「現象するもの」が過去につけた光の跡かもしれない。

 私は考えてしまう。どう「誤読」すべきなのか、わからない。文をひとつひとつ、読んでいくことにする。

鳥の鳴き声は、「音」そのもので、音の意味を知ることはできない。

 この文の「主語」は何? だれ? だれが「知ることはできない」のか。「人は一般に」ということなのか。そして「音」と括弧でくくられたことばがあり、また括弧なしの音もある。その区別は? 括弧つきの「音」は抽象化された「音」、意識の中の「音」かもしれない。括弧なしの音は、鳥の鳴き声ということかもしれない。

耳をつんざく音の連なりの「音」の空間に存在するものは何か。

 「耳をつんざく音の連なり」とは、鳥の鳴き声の「連なり」のことである。「連なる」ということばが指し示すものは、複数の存在である。鳥の鳴き声は「連続している(連なっている)」が、それは実は複数の「音」から構成されている。そして、その鳴き声を構成する「音」のひとつひとつには「意味」はない。「意味」があるとすれば、それは「連なり方」(鳴き方)にあると言える。
 まあ、これはどうでもいいことで……。
 小島のことばがおもしろいのは、その「音」と「音」との「連なり(つながり)」を考えるとき、そこに「空間」ということばを持ち出すことである。「音」と「音」との「隔たり」。その「隔たり」をつなぎ、「つらなり」ができあがる。「空間」が「連なり」、「広がり」ができる。
 でも、それはほんとうに「空間」? 「音」がある。別の「音」がある。そのとき、そこには「空間」が必須のものか。ある「音」がある。「間」をおいて別の「音」が聴こえる。そのとき、その「間」は「空間」ではなく、「時間」である。「空間(ひろがり)」はなくても、「時間」さえあれば、「音」は連なり、鳥の鳴き声になる。

 最初に小島の詩を読んだとき、

「世界内のあり方」

 ということばに、私はつまずいた。そのことばを手がかりに、あれこれ考えた。
 「世界・内」というとき、小島は「空間」を考えているのかもしれない。
 けれど「ように」ということばを連ねて、「世界・内」へ入っていくとき、それは「空間」としての「内部」なのか。
 「空間」ではないのではないのか。
 「空間」ではない「間」を、とりあえず「時間」と仮定してみる。そして「時間」をつくるものを「私」という「人間」の運動と仮定してみる。そうすると、「時間」の「内部」へ入っていくとは、「私」の「運動」の「内部」へ入っていくことになる。
 「私」を動かし、動くことで生まれる「時間」。(運動のないところでは「時間」は計測されない。計測しても「意味」がない--というのは、私の「独断」かもしれないが……。)
 と、ここまで考えたとき、私には、「鳥の鳴き声」が「人間のことば」のように感じられる。「鳥の鳴き声」というのは「比喩」であって、ほんとうは「人間のことば」のことが、ここでは書かれているのだ。
 人間のことばは、分解していく(?)と、ひとつひとつの「音」のつらなりになる。「音」のひとつひとつには「意味」はない。そうであるなら、「つらなった音」である「ことば」に「意味」があると感じるのは「誤解」かもしれない。あるいは、そこに「意味」があると仮定して、では、その「意味」をつくっているのは何なのか。
 「音」と「音」との「空間(と小島は書く)」、その「音」と「音」の隔たりをつないでいるのは何なのか。
 それは、

鳥の声に点火されたものは、意味ではなく、人間という存在への「反応」だ

 鳥の声を動かしている(ことばを動かしている)のは、意味ではなく、人間が存在することによって動きはじめる「人間」そのものへの反応である。
 あ、なんだか、わかったようで、わからないね。
 まあ、でも詩だから、これでいいのだ。
 「意味」が最初に「ある」のではなく、人間が存在することで、そして人間が何かに反応することで、そこから「音」が生まれる。そして、「音」がつらなり、「ことば」になる。--「意味」以前の、「反応」。「反応」としかいいようのない何かを、小島は書きたいのだ。

鳥の声に点火されたものは、意味ではなく、人間という存在への「反応」だとしたら、この「音」は「誕生するもの」「現象するもの」が過去につけた光の跡かもしれない。

 人間が存在し、「反応」すること、その繰り返しによって、「ことば」が成立する。「繰り返し」の「内部」には「意味」はない。そこには小島が「空間」と呼ぶものがあるだけである。そして「空間」のなかで繰り返される「連なり」が確定されるとき、「意味」は「連なる音(ことば)」の外部へあふれていく。
 私たちは、その「あふれてきた音の連なり(ことば)」を「ような(もの)」と把握し、「ような(もの)」を引き剥がし引き剥がし、「内部」へ下りてゆくとき、純粋な(?)「意味」を見出すということなのかな?
 そして、そこで私たちが見出すものは、

「誕生するもの」「現象するもの」が過去につけた光の跡

 ということになる。
 何これ? 「意味」がわからないね。いや、全体の「意味」はわからないが、気になることばがある。

過去

 「音の連なり(ことば)」には「過去」がある。
 「過去」とは「空間」ではなく、「時間」の領域に属することばである。
 「空間」を掘り下げていって、小島は「時間」を見出している。
 これは、どういうことか。
 小島には、「空間」と「時間」の区別が判然としていないということである。「空間」と「時間」は「越境」するのである。
 そして、この「越境」ということばを小島の詩の中心に置くと、小島の詩は「わかる」ような気がする。
 人間が「越境」する。「ことば」が「越境」する。

 小島の詩には、いろいろな「ことば」が引用されている。そのことばは、それぞれ「越境」の「過去」(時間)をもっている。その「ことば」にふれるとき、小島自身の「ことば」は一瞬「音」に還元される。
 他者のことばと小島のことばの「あいだ」が、「広がり」というよりも「深淵(深さ)」として出現する。その「深さ」を小島は掘り進むというよりも、「渡る」。架橋する。この橋渡しの感覚が、長さ(広さ)を呼び覚まし、「空間」を感じさせるのかもしれない。
 けれど「ことば」は「音」であり、それが「私」を中心としたどの「空間」から発せられているか(どこに存在するか)は、いつでも、どうでもいいことになる。どんなに遠くで発せられても、それを聴く(読む)とき、その「場」はいつも「私の場」になってしまう。
 「時間」も、実は、同じである。いつの時代のことばであろうと、それを読むとき、「いま」と「かつて」は隣り合うだけでなく、「一体」になる。
 「越境」は「一体」という形で動くのである。

言葉よ、存在せよ

 これは「その人の唇を襲った火は」の最後の部分の、「最後」を省略した形だが、小島は「言葉よ、存在せよ」と叫びながら詩を書いていることになる。
 「言葉よ、存在せよ」、そうすれば、私は「越境」できる。「越境」する運動のなかかに(内部に)、詩は、「……のような」という形で存在する。
 そして「……のような」の「ような」によって、「越境」は加速する。詩は燃焼し、閃光を放ちながら燃えつきる。消尽する。

 こういう閃光をともなうことばの運動は、私のように眼の悪い人間には、とてもつらい。肉体的に、とても負担が大きい。いくつもの光を見落として、眼にやさしい光だけを追ってしまうことになる。--申し訳ないが。








今月のお薦め
1 三井葉子『灯色醗酵』
2 斎藤恵子『海と夜祭』
3 柏原寛「なぎさの胚珠」
4 小島きみ子『その人の唇を襲った火は』
5 秋山基夫詩集(現代詩文庫)
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チャン・イーモウ監督「サンザシの樹の下で」(★★★★)

2011-08-31 19:34:05 | 映画
チャン・イーモウ監督「サンザシの樹の下で」(★★★★)

監督 チャン・イーモウ 出演 チョウ・ドンユィ、 ショーン・ドウ

 美しいシーンがいくつもあるが、やはり最初に見たシーンが一番印象的だ。
 少女と青年が飛び石を伝って川を渡る。手をつなぐことをためらっている少女に青年が木の枝を差し出す。木の枝をはさんでの結びつき。川を渡ってからも、ふたりは枝を捨てない。両端の手が次第に近づく。青年の手が少女の手に近づいていく。そっと手に触れる。少女はそれを拒まない。手と手が触れ合って、手を握って、枝は捨てられる。この無言のクローズアップが美しい。
 こんな純愛がいまどきあるはずがない――かもしれない。
 それでは、いつなら、こういう純愛があるのか。
 チャン・イーモウは、文革の嵐が吹き荒れていた1970年代を舞台にしている。これは二重の意味で驚かされる。文革はなんども映画に描かれているが、それは文革を告発するものであった。この映画も文革を告発はしているが、声高ではない。描き方が静かである。これが驚きのひとつ。そして、もうひとつは、文革の時代にも文革とは無関係(?)に恋愛があった、ということである。恋愛に「時代」は関係ない、人間はいつでも恋愛をしてしまうというのは「本能」だから当たり前なのかもしれないが、その「当たり前」を当り前ではない時代を舞台にしたところに驚いてしまう。
文革の定義(とらえ方)はいろいろあるだろうが、チャン・イーモウは、文革を「人が人を監視する」時代ととらえた。「人が人を監視する」という状況のなかで、どうやって恋愛をするか。恋愛というのは個人的なものである。他人を排除して成立するものである。ところが、文革は「人が人を監視する」ということをとおして「個人的なもの」を「ブルジョア的なもの」(走資派)として排除しようとする。恋愛がのびやかに育ちにくい状況である。
 だからなのか。純愛、なのである。
 そして、この純愛のように、文革の時代にも、普通の暮らしはあったのだ。純愛が、普通の暮らしの、一番純粋な暮らしにみえてくる。人は、どういうときでも「美しく」生きるものである。
その象徴的なシーンが「サンザシの洗面器」。洗面器に模様が描いてあるなんて、なんて「ブルジョア的」。だって、洗面器に絵が描いてあろうがなかろうが、洗面器の「機能」には無関係だからねえ。それでも、人は「美」を楽しむ。そして、青年はそれを見つけて、少女に「手品」をしてみせる。いいなあ。川を渡るときの小枝といい、洗面器といい、ひとはそこにあるものをつかって恋愛をする。気持ちをあらわすものなのだ。そしてそこに、必ず肉体の触れ合いがあるというのもいいなあ。
 美しいものを楽しむ――といえば、少女がつくる「金魚」もいいなあ。今見れば(現在の日本から見れば)、つまらないものかもしれない。けれど、恋愛をしているときには、つまらないものなどない。すべてが美しい。すべてが「気持ち」を代弁するからだ。「無言」のなかにこそ、「ことば」がある。――というのが、純愛の必須条件かもしれない。
 川をはさんで2人が歩くシーン。両岸での2人のパントマイム。――これは、まあ、テオ・アンゲロプロスの「こうのとり、たちずさんで」の川をはさんでの結婚式へのオマージュだろうね。こういう「無言」のシーンはことばがスクリーンからあふれてくるね。
 それから。水遊びと自転車のシーンもいいなあ。ここでも「ことば」ははしゃぐ声だけ。それなのに、「ことば」があふれている。字幕が必要のない「ことば」、翻訳するひつようのない「ことば」。つまり、それは誰もがつかうことば、「肉体でおぼえたことば」だね。肉体関係なんて出てこないのに「肉体」の喜びがある。プラトニックとは、こういうことなのか、と思った。

 思い返せば。
 「紅いコーリャン」も純愛だったねえ。コン・リーが両天秤で弁当を男のところへ走って運ぶときの美しさ。それから、男がコーリャンを踏みつぶして畑の真ん中に初夜(真昼間だけれど)のベッドをつくるところ。実際のセックスをみるよりドキドキする。「肉体」の声が聞こえてくるからね。


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大西若人「どこが『美人画』なのか」

2011-08-31 17:10:01 | その他(音楽、小説etc)
大西若人「どこが『美人画』なのか」(「朝日新聞」2011年08月31日夕刊)

 大西若人「どこが『美人画』なのか」は岡田三郎助の「あやめの衣」について書いた文章である。後ろ向きの、肩肌を脱いだ女性を描いているが、顔は見えない。それなのに「美人画」と言われている。それはなぜ?

 丸みのある顔のライン、赤みが差す耳や頬、そして、さまざまな色彩が重なり合ったきめ細かい素肌。確かに美しいが、着物の部分を隠してみると、急に魅力が減じはしないか。鮮やかな着物が美しいのも間違いないが、美人の根拠にはなりえない。

 「着物の部分を隠してみると、急に魅力が減じはないか。」という問題提起の形でのことばの動かし方が大西マジックである。「減じはしないか」という気取った(口語的ではない)ことばが、これから「大事なこと」を書くぞ、と告げている。
 そして、実際「大事なこと」(魅力的なことば)が次の段落で始まる。

 だが、両者の組み合わせの妙。完全なヌードでもなく、着衣でもない。右肩がのぞく構図は次の動きを想像させ、きぬ擦れまで聞こえそうだ。

 「両者の組み合わせの妙。」という体言止めで、ことばが加速する。「完全なヌードでもなく、着衣でもない。」と否定形をたたみかける。そして「右肩がのぞく構図は次の動きを想像させ、きぬ擦れまで聞こえそうだ。」の文の巧みさ。「想像させ」ということばで、絵を見るには想像力がいるのだと指摘した後、絵にはないもの(視覚では捉えられないもの)、つまり「きぬ擦れ」という「音」を聞かせようとする。聴覚を刺激する。芸術のなかで、人間の感覚が融合し、そこから絵を超える「美しさ」が噴出してくる。
 あ、絵よりも美しい。――絵より美しくていいのか、という疑問が常につきまとうのが大西の欠点(長所)である。

 今回の文章は、しかし不思議だねえ。最後の段落がつまらない。大西の文章でつまらないと感じたのは初めてのことなので、指摘しておく。

 ヌードでもなければ、着衣でもない。顔も見えない。否定形の積み重ねの果てに、大いなる美が肯定されている。

 これは、私が引用した二つ目の段落の繰り返しである。「完全なヌードでもなく、着衣でもない。」「ヌードでもなければ、着衣でもない。」の繰り返しは、あまりにもことばが重なりすぎるし、「否定形の積み重ねの果てに、大いなる美が肯定されている。」という美の数学は、せっかく「きぬ擦れまで聞こえそうだ。」と書いたときの、「聴覚」の存在を見えなくしてしまっている。
書きすぎて、「美」が傷ついてしまった。


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小島きみ子『その人の唇を襲った火は』(2)

2011-08-30 23:59:59 | 詩集
小島きみ子『その人の唇を襲った火は』(2)(洪水企画、2011年06月15日発行)

 小島きみ子の「ような」を繰り返すことで、「世界の内部」を追うことばを追っていたはずだが、「守護神パラスアテナ」の、きのうのつづき。

パラノイアは狂気かもしれない。けれども、スキゾフレニーは狂気ではない。「人間」から「人間」への自由な交わりをする際の、新たな「世界内のあり方」なのだから。息が切れてきた。屋上に出ると、森の上をゆるく白い水蒸気が流れて行く。また、髪が濡れてくる。雨粒に変身したユピテルのように。

 「息が切れてきた。」に私はびっくりしてしまった。森鴎外の文体のように、そこだけが「すぱっ」と切れている。「主語」は「私」なのだろうけれど、なぜ、ここで急に「私」という「主語」があらわれるのか。(きのう引用はしなかったが、「屋上に行ってLucifer を見るつもりだった。」という文があるので、「息が切れてきた。」というのは、屋上までのぼることで「私」の「息が切れてきた」ということはわかるのだが……。)
 きっと、「ような」ということばが省略されているように、「私」という「主語」がいつも省略されるというのも、小島のことばの運動の特徴なのだと思う。
 だから、(と、私は、強引に考えるのである。)
 「パラノイアは狂気かもしれない。」--この文の「主語」は「パラノイア」ではない。この文は、「私は、パラノイアは狂気かもしれない、と考える(思う)。」である。さらに言いなおすと、「私は、パラノイアは狂気のようなものかもしれない、と考える。」である。
 「けれども、スキゾフレニーは狂気ではない。」は「けれども、私は、スキゾフレニーは狂気のようなものではない、と考える。」である。
 「「人間」から「人間」への自由な交わりをする際の、新たな「世界内のあり方」なのだから。」は「私は、スキゾフレニーは、「人間」から「人間」への自由な交わりのようなことををする際の、新たな「世界内のあり方」のようなものだ、と考えている。」になる。
 なんだか、よくわからない? 混乱しそう?
 あ、私が混乱しているのかもしれないが--混乱ついでに、さらに強引に言ってしまえば、こんなふうにして「主語」の「私」と「ような」を文章のなかに組み込んでみると、小島の言っている「世界」というものが、「私」の「考え」そのものに見えてくる。
 小島は、彼女自身の「考え」の「内部」を「ような」を繰り返すことで掘り返していくのである。「私」の「内部」には「ような」が重なり合っている。
 その「ような」の重なりを、一つずつ「引き剥がす」(掘り進む)というのは、こういうことを書くときにどうしても生じてしまう「矛盾」なのだが、それは「内」へ掘り進むと同時に、「外」へ突き進むこと(高みへのぼること)とどこかで重なるのだ。
 内へ掘り進めば外へ出てしまう。深みへ深みへと掘り進めば高みへ出てしまう。「内部」と「外部」は緊密につながっていて、人間はそのつながり(自由な交際、自由な交わり)を、通過するのである--と、ここで、小島のことばを復讐しておこう。

 --こんな「読み方」をしていたら、いつまでたっても、小島の詩集を読み終えることができない。そして、こうした「読み方」は完全に間違っているとも思う。「誤読」することが大好きな私が「読み方が間違っている」と自分で言ってしまうのも変だけれど、間違っているのだ。

息が切れてきた。

 この短いことばには、他の側面がある。私はその短いことばに「私」という「主語」が省略されていると書いた。そして、どの文章にも「私」という「主語」を補うことができるし、「私」を補うとき、「ような……と考えている」ということばも補うことができると読んできた。
 それはそうなのかもしれないが(と、私は私の考えを「ひとごと」のように書いてしまうが……)、もしそうだとすると、小島の書いていることばは、また逆の「可能性」を秘めていることになりはしないか。つまり「私」を「主語」とする「文」から、そこに書かれたものが「独立」して、かってに動いていくということがありうるのではないのか。
 「私」の「考え(のような……と思うこと)」なのに、いったん「考え」が「ことば」になってしまうと、その「ことば」が「私」を裏切って「主語」になって運動してしまう。そういうことが起きうるのではないのか。

また、髪が濡れてくる。雨粒に変身したユピテルのように。黄金の雨粒となって彼女を奪うもの。その子が森の王を殺すとも。

 ここでは「主語」は何だろう。「動詞」(述語)を欠いたまま、あらゆる「意識」のなかに浮かんでくるものが「主語」になろうとしている。互いの「述語」を否定して、「主語」であることを競っている。「私」という「主語」は、もう「物語」のなかの「主語」を制御できない。

また、髪が濡れてくる。雨粒に変身したユピテルのように。黄金の雨粒となって彼女を奪うもの。その子が森の王を殺すとも。山の端から雲が湧いてきた。暗灰色の眼だ。眼によって眼を破砕するスキゾフレニーの眼を意思的に獲得することだ。遠くからくぐもったKの声が聴こえてきた。

 「暗灰色の眼」は「だれの眼」か。ユピテル、か。だが、ユピテルは「比喩」である。「比喩」が「すべて」をのっとる--と考えれば、また最初の「ように」にことばはもどっていく。だが、小島は、その運動を断ち切って(つまり、「だれの眼」か、という「主語」佐賀市を拒絶して)、「眼」を「主語」にしてしまう。そして、

眼によって眼を破砕するスキゾフレニーの眼を意思的に獲得することだ。

 よくよく考えて読まないとわからないことばへと疾走する。
 何、これ? これ、何? どういう意味? 
 スキゾフレニーの眼は、眼によって眼を破砕する。そういう(そのような?)スキゾフレニーの眼を「意思的に」獲得する。
 でも、「……ことだ」とは「何が」「……ことだ」なのか。
 わからない。
 でも、

スキゾフレニーは狂気ではない。「人間」から「人間」への自由な交わりをする際の、新たな「世界内のあり方」なのだから。

 を、重ね合わせると、どうなるか。
 「「人間」から「人間」への自由な交わりをする」ということばと、「眼によって眼を破砕する」とは同じことなのではないのか。「自由な交わり」とは「人間」によって「人間」を破砕する」こと。「眼によって眼を破砕する」とは「眼から眼へ自由な交わりをすること、自由に交際(交代)すること」。
 「私」は「私」であって、「私」ではない。
 この詩には「私」と「K」が出て来るが、「私」は「私」であって「私」ではないとき、「私」は「K」である。それは「私」は「私のように」ではなく、「Kのように」考える。つまり「K」を「主語」として「考える」ということになるかもしれない。

 あらゆる「主語」が「主語」であって、「主語」ではないのだ。もし「主語」というもを「ことば」を動かす「エネルギー」の「主体」と考えるなら--「ように」ということばのあり方そものが「主語」なのかもしれない。
 「ように」ということばをとおして、あらゆる「主語」が自由な交わりを通過し、そうすることで「主語」を互いに破壊し、あらゆる「主語」を成り立たせている「世界」の「内」の混沌へと導く--その混沌のなかに、小島は「詩」を見ているということになるのかもしれない。
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小島きみ子『その人の唇を襲った火は』

2011-08-29 23:59:59 | 詩集
小島きみ子『その人の唇を襲った火は』(洪水企画、2011年06月15日発行)

 小島きみ子『その人の唇を襲った火は』は、1篇の詩のなかにいくつもの「物語」があるように思える。その「複数」の関係が、私には、よくわからない。
 「JESUS LOVES ME」という詩は9の部分から構成されている。その最初の部分は「守護神パラスアテナ」の書き出し。

 十九世紀末にイギリスで、枯れ草熱(hay ferver)として発見された花粉症が治まった途端に、雨が降り始め、それからずっと、髪が一日中濡れているような、まるでそれは、建設中の都市全体が、神話のなかの精霊に征服されたような、濡れた夢に覆い隠された、エクスタティックな日々だった。

 ここには
(1)花粉症--それはイギリスで十九世紀に発見された
(2)花粉症が治まった--そのとき雨が降り始めた
(3)雨が降り始めて以来、髪が濡れているような……
と、書かれている「物語」を整理していこうとして、私は、ここでもうつまずいてしまう。
 「……ような」って、何?
 「比喩」なのかな?
 その直後に、「まるで」ということばがつづく。「まるで」は、次の「……ような」へとつづくのだが、そのことばは単純にはうしろ(?)へはつながらず、「まるでそれは」ということばによって、強引に(?)、前へ引き戻される。
 でも、「それは」って何?
 「まるでそれは」の前にも「それからずっと」と「それ」ということばが出てくる。この「それ」はたぶん「雨が降り始めた(こと)」だろう。「雨が降り始めてからずっと」と言い換えることができる。
 でも、「まるでそれは」の「それ」って何?
 「髪が一日中濡れているような」の「ような」そのものを指しているように思える。
 「比喩」ではなく、「比喩」をつくりだすことばの運動。
 「一日中濡れている髪」という「もの」が「それ」ならば、「比喩」だが、その「比喩」をつくりだす(ささえる?)、「ような」ということば。

 「比喩」というよりも、「比喩をつくりだすことば(ことばの運動)」そのもののなかへ、小島は入っていこうとしているように思える。

 髪が一日中濡れている「ような」の「ような」、「建設中の都市全体が、神話のなかの精霊に征服されたような」の「ような」と重なる。同じ「運動」によって、強く結びつく。そして、その瞬間、そこに、「髪が一日中濡れている」という「物語」と、「都市全体が、神話の中の精霊に征服された」という「物語」が出会う。重なり合う。
 「花粉症が治まった」ということばを読んだときは、そこに「私」という「物語」があると思ってしまったが、「私」の「物語」は「髪が一日中濡れている」という「物語」ではなく、あくまでも「髪が一日中濡れているような」という「ような」の「物語」へずれてゆく。さらに、「ような」をもとめて「建設中の都市全体が、神話のなかの精霊に征服された/ような」という「物語」へずれていく。
 何、これ。

 私が見ているものは(読んだものは)、次の部分に「ような」を補うとわかりやすくなるはずだ。

濡れた夢に覆い隠された「ような」、エクスタティックな日々だった。

濡れた夢に覆い隠された「ような」、エクスタティックな「ような」日々だった。

 「まるでそれは」、「ような」「ような」「ような」「ような」の連続である。これを小島は、少し先で、

「変容しつづける情熱のファンタジー」という幻想

 と呼んでいるが、それにしたって、「変容しつづける/ような/情熱の/ような/ファンダジー」という幻想の「ようだ」。
 冒頭の「花粉症が治まった途端に」も「断定」ではなく、ほんとうは「治まった/ような」その瞬間に、「雨が降りはじめ/た/ような」かもしれない。
 あらゆることばとことばのあいだに「ような」が入り込み、それが「物語」を次々に生み出しているのである。
 そう思って読むと、次の部分が刺激的だ。

パラノイアは狂気かもしれない。けれども、スキゾフレニーは狂気ではない。「人間」から「人間」への自由な交わりをする際の、新たな「世界内のあり方」なのだから。

 「人間」を「物語」と置き換えるとどうなるか。
 「ような」は「物語」から「物語」への自由な交わり(飛躍?)をする際の、「世界内」の「通路」である。「ような」を繰り返すことは、「世界内」へ入り込み、「世界」を「内部」からとらえなおすことである。
 「比喩」というのは、「いま/ここ」にないものを手がかかりに「いま/ここ」を考える手段だが、そのとき、小島の「比喩」(ような、の運動)は、「いま/ここ」から外部へと動いていくのではなく、また「外部」を「いま/ここ」へ取り込むのでもなく、ただ「いま/ここ」の「内部」を耕すのである。
 「世界内のあり方」と小島は書いている。わざわざカギ括弧でくくっている。そのことばのなかの「内」への旅、それも「ような」を繰り返す旅--というようなことを私は思うのだが……。
                         (あすの「日記」につづく。)
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斎藤恵子『海と夜祭』(3)

2011-08-28 23:59:59 | 詩集
斎藤恵子『海と夜祭』(3)(思潮社、2011年07月31日発行)

 「知る(知っている)」「わかる(わかっている)」にこだわりすぎて詩集を読みすぎたかもしれない。きょうは「知る」「わかる」ということばをつかわずに斎藤の詩に近づいて行ってみたい。
 「海の見える町」のなかに、とても不思議なことばがある。

わたしは旅をする
わたしに出会うように

海が見える
歩いたあとを波が消していく
波はいつのまにか
大きな水の器の中で減っている
波から波のあいだ
一瞬のひろがりが
永遠かもしれない

波にそそがれる夢は
朝はきらきらしている
真昼は勢いよく
夜は眠りながら
取り返しのつかないことを沈めていく
家家は花のように
だれが見ていないくても懸命にある

思い出は
遠い町にあるような気がして
海の見える町を旅する
波のかなたに
わたしを隠しているかもしれない

 3連目の最後の2行が不思議である。
 「家家は花のように/だれが見ていなくても懸命にある」。突然、「家」が出てくる。海の見える町だから、当然、家はあっていいのだが、「家」が出てくるのはここだけである。あとはただ「波」の描写をしている。
 なぜ、「家」と書いたのだろう。
 この詩集には、母を描いたものが何篇かある。
 斎藤は「わたし」というものを考えるとき、無意識的に「母-わたし」というつながりを生きているのかもしれない。「母-わたし」という血の繋がりが「家」というものかもしれない。
 ふと、「家」を「母」と置き換えて読みたくなるのである。
 「母は花のように/だれが見ていなくても懸命にある」。そのとき「花」という「比喩」は「家」よりももっと納得ができる。「母」はきっと「だれが見ていなくても懸命に」生きてきたのだろう。斎藤には、その「母」の「懸命」が見えたのだと思う。
 なぜ、「懸命」なのか。
 「夜は眠りながら/取り返しのつかないことを沈めていく」。これは「波」の描写であるけれど、また「母」のようにも見えてくる。「取り返しのつかないこと」というのは何か想像がつかないが、想像がつかないくせに「わかってしまう」。(わかる、ということばをつかわないつもりだったが、やはりつかわないと書けないことを斎藤は書いている。)ことばにできないけれど、斎藤は「母」が「取り返しのつかないこと」を静かに自分の「肉体」のなかに「沈めていく」(深く沈殿させてとじこめていく)のを見たのだろう。
 書きながら、斎藤は「波」のなかに「母」を見て、それから「家」にも「母」を見たのだろう。そういう気がする。
 「海の見える町」で斎藤は「母」に出会うのだ。そして、それは「わたし」が「母」とつながっている、同じ「家」を生きていると思い出すことなのだ。

 「懸命にある」の「ある」も不思議なことばである。
 「懸命に」はなにかしら「肉体」のなかから「わたし(斎藤なのか、それとも読んでいる私なのか--たぶん、両方。つまり、懸命にということばを読むとき、私には、斎藤と私の区別がつかなくなる)」を突き動かすものがある。私の「肉体」のなかで動くものがある。
 その「肉体」の「ある」場所とは違うところ、つまり「私の外」に「家」は「ある」という感じが、その「ある」には含まれている。
 「母」と「家」をごっちゃにして(混乱させたまま)書くが、「母(家)」と「わたし」がつながるということは、「ひとつ」になるということであると同時に、別々のものであるということを意識することでもある。別々だからつながる。そして、つながってひとつになる。「ある」という動詞は、そういう「混乱」を教えてくれる。--そして、この「混乱」はなぜか、私にはうれしいものに感じられる。

 別々にあること、別々であることによって、つながり、また、はなれる--この「矛盾(混乱)」は「女湯」でも美しい形で書かれている。

女たちは湯の中では互いに無言だ
柔らかなまるいからだを湯にしずめ
ため息のように過ぎた日を泡にして吐く

肉をふやしからだはふくらみゆらめく
うでは花のふとい茎 足は魚の尾ひれ
そよぎ薄い血の色の名づけられぬいのちになる

やさしげな生きものたちはだれも責めたり怒ったりしない
ほほを赤らめほほえみあい しなやかな楕円になる
とろけながら広がり温もり何人ものわたしにふえてゆく
湯から樹木のように立ち上がり円のつなぎ目の淡いところから
ほどけてゆく はなれてゆく すがたになってゆく

ぬれたままでは小女子(こうなご)や甘鯛になってしまう
かわいたら大急ぎでそれぞれの衣服をつける
だれも湯の中の顔をおぼえていない
みなつま先までピンク色に染まり髪をかきあげながら
世界をくるむ ただ生温かい匂いをまいている

 3連目の「何人ものわたしにふえてゆく」とは、そのとき「わたし」とそこにいる女たちの区別がなくなるということである。「何人も」に「ふえてゆく」。その結果「ひとり」の「わたし」になる。--それは、「おんな」になる。「母」になる、ということかもしれない。いや、「いのち」に「なる」ということだ。斎藤は2連目で「名づけられぬいのちになる」と正確に書いている。
 「いのち」というのは「ひとつ」であるが、「ひとつ」であるがゆえにさまざまな形をとる。どんな形をとっても「いのち」であることを知っているからである。わかっているからである。(あ、また、「わかる」ということばを書いてしまった。--「わかる」をつかわずに、斎藤の詩について書くのはむずかしい。)
 この変化を、斎藤は、

ほどけてゆく はなれてゆく すがたになってゆく

 と書く。
 いいなあ、この、自在なやわらかさ。
 これは最終行でも繰り返されている。

世界をくるむ ただ生温かい匂いをまいている

 おんなの匂い(母の匂い、いのちの匂い)は、おんな(母、ひとりのいのち)の方が「世界」より小さいにもかかわらず、「世界をくるむ」のだ。
 つながりながら「ある」という形で。
 「ある」ということと「なる」ということは違うことなのだけれど、斎藤の「肉体」のなかでは、瞬間的に入れ替わる。同じ意味になる。
 こういうことを、斎藤は「ほどけてゆく はなれてゆく すがたになってゆく」や「ふやしからだはふくらみゆらめく」という「ひらがな」でつつみこむように「まるめ」てしまう。このことばの運動も、とても魅力的である。
 (ひらがなの表記のことがらは、ほんとうは別の形できちんと書いた方がいいのだと思う。--と、きょうはメモをしておく。いつか、書けたらなあと思う。)







夕区
斎藤 恵子
思潮社
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ロバート・アルトマン監督「M★A★S★H(マッシュ)」(★★★★★-★)

2011-08-28 21:48:53 | 午前十時の映画祭
監督 ロバート・アルトマン 出演 ドナルド・サザーランド、エリオット・グールド、トム・スケリット、サリー・ケラーマン、ロバート・デュヴァル

 戦争を描きながら戦闘シーンがない。けれど、負傷者はちゃんと描く。死も描く。一方で、無意味な「自殺願望」も描く。そこから「生きる」ことを見つめ直す――というしかつめらしいことは、どうでもいいね。
 私は、ロバート・デュヴァルが看護婦長とセックスするシーンと、看護婦長のアンダーヘアの「色あて」のシーンが大好き。別に理由はない。わけでも、ないか。人には、人に知られずにしたいこと(秘密の欲望?)があり、また人の隠していることを知りたいと思う気持ちがある。それは、「してはいけないことをしたい」という欲望かもしれない。
 「してはいけないことをする」とき、人は喜びを感じる。
 アメリカンフットボールのシーンも、同じだね。「試合」を真剣にするだけじゃなくて、「してはいけないことをして」勝つ。勝つために「してはいけないこと」をする。なんあろうねえ、この不思議な欲望。
 まあ、どんなことにも「一線」はあるんだろうけれど。
 その「一線」の周辺で、「いのち」の側に身を置くというところが、この映画を支えている「哲学」なのかもしれない。「いのち」を守ることだけは真剣にやる。「いのち」の前では、階級を無視する、規律を無視する――ここに、反軍隊、しいては反戦ということになる。
 当時は、この視点はとても新鮮だった。
 ここからどんな「哲学」を「言語化」できるか――そういうことをずいぶん考えた。どこまで考えたか、いまは思い出せないが、考えたということだけは忘れられない。
 だから、私には、忘れられない映画である。

 ただ「小倉」のシーンは、あまりにもひどい。「日本」は、当時のアメリカから見れば「中国」の一部ということだろうねえ。(減点★1個)
 「最後の晩餐」のパロディーも、好きではない。「名作」に頼らなくてもいいのでは、と思うのだ。

 この映画では「悪役(嫌われ者)」だけれど、私はなぜかロバート・デュヴァルという役者が好きだなあ。たいてい「冷静」な役どころ(「ゴッドファザー」の弁護士?とか)なんだけれど。こういう役者がいると、さわがしい映画が、どこか落ち着く。

(2011年08月27日天神東宝3、「午前十時の映画祭」青シリーズ30本目)




マッシュ [DVD]
クリエーター情報なし
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
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斎藤恵子『海と夜祭』(2)

2011-08-27 23:59:59 | 詩集
斎藤恵子『海と夜祭』(2)(思潮社、2011年07月31日発行)

 「往来」という作品は、同人誌で読んだとき感想を書いた。きょう書くことは、そのとき書いたこととまったく違ったことになるかもしれない。あるいは、違ったことを書こうとしても、まったく同じになるかもしれない。書いてみないとわからない。
 1連目。

日暮れる空の下
すずめの胸のしろさになった往来を歩く
夕陽が大きなかおになっている
怖ろしい憤怒の光るかお
わたしは走り出す
ゆき先がわからなくても走る

 この6行には、私に「わからないことば」がある。「憤怒」である。「意味」はもちろん知っている。憤って、怒っている。けれど、そのことばは私の「肉体」のなかへは入って来ない。「頭」のはしっこをかすめて消えていく。
 一方、「すずめの胸のしろさ」は、「知らないことば」である。あれっ、すずめの胸って白かったかな? 思い出せない。そのくせ「わかる」のである。小さなすずめの「腹」(私は、腹がしろだったという印象がある)、そのすずめを裏返して見たときの手に残っている感触(ふわふわ、生暖かくて、ひねり潰せそうなよわよわしい頼りなさ)が、「あ、しろ、に違いない」と思い起こさせるのだ。
 私の記憶は間違っているかもしれない。しかし、間違っていたとしても、その「肉体」に残る何かが、私をぐいとひっぱる。
 私の「記憶(知識)」は「すずめの色」と合致しないかもしれない。しかし、「わかる」のである。「わかる」とき、それが「正しい」かどうかはどうでもいいのだ。
 いや、これは変な言い方だし、「すずめの胸のしろさ」ということばを書いた斎藤には申し訳ないことなのだが、私が「わかる」のは「しろさ」そのものではなく、その「しろさ」と一緒にあるもの、「しろさ」ということばでは表現されなかった「肉体」の記憶、「肉体」が知っている何かなのだ。書かれていない何かを「共有」したと感じたとき、私は「わかった」と思うのである。
 別のことばでいうと、ある夕暮れ、何か矛盾した感じ、弱々しさと暴力と、その両方の誘惑が混じり合う一瞬、「すずめの胸のしろさ」ということばを「つかう」ことで納得できると思うのである。「つかえる」と感じたとき「わかった」と思うのである。「わかっている」ことはきっと「つかえる」ことなのだ。
 「憤怒」は、たぶん「憤り、怒り」という「意味の範囲」でしかつかえない。「知っている意味」(辞書で読んだ意味)の「範囲」でしか「つかえない」。だから、「わかる」という感じにはならない。

 「ゆき先がわからなくても走る」の「わからなくても」が「わかる」。「わかる」と勝手に思い込む。「わからなくても」を私のことばで言いなおすとどうなるか。すぐには、思いつかない。何も思わなくても、「肉体」のなかで「動く」何かを感じてしまう。「肉体」が「わかってしまう」のである。「頭」ではなくて……。

 この「わかる」の印象は、3連目でもっと強烈にわきあがる。

路のわきに枯れた百合
褐色になったつぼみがうなだれていた
わたしは黒ずむ茎を手折った
 あらあら手がよごれるよ
通りがかりのひとの声
色彩が消えてゆく

 「あらあら手がよごれるよ」が痛烈に「わかる」のである。そのことばを言ったひとの「批判」よりも、そういう「声」を聞いた瞬間の、はずかしさのようなものが。
 この「はずかしさ」を私なりにことばにしてみると……。
 枯れた百合、褐色になったつぼみ、黒ずんだ茎を手折ったとき、「わたし(斎藤/谷内--このとき、私は斎藤になって、そのことばを聞いている)」は、「枯れた」も「褐色」も「黒ずんだ」も見ていない。実際には、それは枯れて、褐色になり、黒ずんでいるが、その「向こう側」に、つややかに咲いて匂っている百合がある。その百合が見えている。存在しないはずの、不思議にあやしい何か。「肉体」は、その「不思議な色」を見ていて、それが「よごれた花」だということを忘れてしまっている。
 その「忘れてしまっていたこと」を「あらあら手がよごれるよ」ということばが呼び覚ますのである。
 それは、いけない遊びを見つかってしまったような「はずかしさ」である。
 その「はずかしさ」のなかで、つややかだった百合が一瞬の内にかき消える。ただし、消えるといっても、燃え上がって消える感じなのだが。そして、ふいに、枯れた、褐色、黒ずむ--という「現実」がもどってくる。
 このときの「美」から「醜」への急激な転換--それを斎藤は4連目で言いなおしているが、それがまた「わかる」。実に、よく「わかる」。わかりすぎて、「私は女?」という疑問に襲われさえするのである。

細い茎は腕の中でぬるみ
ぶちの赤い花弁をひろげた
 美しいでしょ
見捨てられたものの声
腕の中でいっそう大きくひらいた
ねばねばと光る芯のしべ

 「美しいでしょ」は盛りを過ぎてしまった百合の「声」である。その「声」を聞いてしまう斎藤の「肉体」が「わかる」。「声」のなかにある「見捨てられた」が、「わかる」。腕の中で「ぬるみ」の、その「ぬるみ」が「わかる」。哀れさが「わかる」。さらに、ねばねばと光る芯のしべの「ねばねば」の醜さ、しつこさが「わかる」。それが腕の中でいっそう大きくひらいたの「いっそう」のあがきのようなものが「わかる」のである。
 困ったなあ、と思う。こんなこと「わかりたくないなあ」と思う。
 いや、私が「わかった」ことはほんとうはとんでもない勘違いで、私のいつもの「誤読」であったとしても、そんなふうに「誤読」してしまうときの、私自身の感じが、こまったなあ、なのである。

 この4連目にはつづきがある。

花を抱いた姿をショウウインドウに映す
じぶんのかおばかりが見え
やがて
ぼやけて花弁ばかりになり
百合はショウウインドウの飾花になっていた

 「路わきの枯れた百合」はウインドウ越しにみた百合の、「将来像」かもしれない。ウインドウ越しに、斎藤は、自分の「過去」と「いま」と「未来」を見たのである。
 「美しいでしょ」というとき、その「美しさ」はすでに「過去」のなかに半分沈んでいる。「手がよごれるよ(汚いよ)」が顔をのぞかせはじめている。
 知っている。でも、わかりたくない。そのわかりたくないが、わかる。

 「わからなくても走る」は「頭」は「わからなくても」、「肉体」は「わかっている」から、走るなのかもしれない。

 5連目。

暗くなり前にも後ろにもひとが多くなった
ゆるくこぶしを重ねて手の望遠鏡を作る
カンナやヒマワリの色の服をきたひとがいる
ざわめきが高くなる
わたしは道なりに歩いてみる
夜祭があるのかもしれない

 「わたし(斎藤)」は「百合」を手折ったのではなく、またショウウインドウのなかに百合があるのではなく、たまたま「わたし」が百合の色の服を着ていて、その姿をウインドウに映してみた--ということかもしれない。カンナやヒマワリの色の服を着ているのは、現実の女たちかもしれないし、過去と未来の斎藤かもしれない。
 5連目で、斎藤は詩の構造(ことばの運動)の「種明かし」をしているかもしれない。 --うーん。
 これは、私には、ちょっとつまらない。
 「わかった」と思ったことが「知識(?)」に置き換えられたような感じ。整理されすぎて、味気がなくなっている。「誤読」する楽しみが急に減らされた感じがする。
 詩に「意味」や「正解(こう読むのが正しい--作者の書いているのはこうであると特定すること)」は必要ではないと思う。詩人は、「意味」や「正解」への「道筋」を用意してはいけないのかもしれない。
 「誤読」されるにまかせなければならないのだ。
 「誤読」に「誤読」を重ね、読者が(谷内が)「私はこの詩のここが大好きなんです」と言うのを、少し微笑んで「あら、そうなの」と答えさえすればいいのである。後ろをむいて「あっかんべー」をしながら、「まあ、ばかなやつ、すけべなことしか考えられないし、女を馬鹿にしているわねえ」と言っていればいいのである。
 すぐれた詩は、どんな「誤読」をも超えて、そこに存在するのだから。






無月となのはな
斎藤 恵子
思潮社
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斎藤恵子『海と夜祭』

2011-08-26 23:59:59 | 詩集
斎藤恵子『海と夜祭』(思潮社、2011年07月31日発行)

 「知る(知っている)」と「分かる(分かっている)」について考えながら、斎藤恵子『海と夜祭』を読んだ。
 「夢虫」という作品の1連目の2行。

夢の中はわたしの中のはずなのに
しらないひとばかりが出てきます

 これは、とてもおもしろい。「わたしの中」なのだから、当然、「わたし」に「わかっていなければならない」。「わたし」の中に「わたしが知らないこと(もの、ひと)」がある(いる)というのは、たしかに理不尽な気がする。
 そして、ここで私がおもしろいと思うのは、なぜ、「わたし(斎藤)」が夢の中に出てくるひとが知らない人であると「分かった」かということである。--というのは、変な言い方になるが、斎藤はここで「知る(知っている)」と「分かる(分かっている)」を明確に区別しているということに気づき、とてもおもしろいと思ったのだ。
 この区別は「無意識」だと思う。無意識だからこそ、そこに大事な「思想」が隠れていると私は思うのだ。
 「わたし」は「夢の中」だから当然知っているひとが出てくると思っていた。しかし、出てきたのは「しらないひと」である。出てくるひとが「しらないひと」だと「わたし」は「分かった」。「分かった」ということばは書いてないが、「分かった」のだ。
 でも、どうして?
 「しらないひと」を、どうして人は「しらないひと」ということができる? 「しらない」なら、それはもしかすると「ひと」ではないかもしれない。どうして、「ひと」と「分かった」のか。
 「しらないひと」だけれど、何か「分かる」ものがあるのだ。そのひとを「しらないひと」と言うだけの「根拠」のようなものが「わたし(斎藤)」にあるのだ。
 それは、何だろう。

しらないひとがわたしを囲み
きたないゲロをはきました
くろくすえた臭いがします
みちを粘液になっておおいます
しらないひとたちは
わたしがしたのだとゆび差します
くびをふると大声でわらいます

 ここには「わたし」が「分かる(分かっている)」ことが書かれている。ひとはひと(わたし)を囲むことがある。ひとは「きたないゲロをは」くことがある。ゲロは「くろくすえた臭い」がすることを、「わたし」は「知っている」だけでなく、「分かっている」。だれかを非難するとき「ゆび差す」ということも「しっている」だけではなく「分かっている」。--その「分かっている」ことが、そこにいるひとが「みしらぬ」存在であるにもかかわらず「ひと」を浮かび上がらせるのだ。
 そして、こそにいる「ひと」がしらないひとであるにもかかわかず、なにかしら「分かる」ことがあるために、「わたし」は困惑するのである。

 なぜ、「分かる」のだろう。何を、「分かる」のだろう。

みしらぬ町でした
みしらぬ町でしらないひとがいて
わたしは無目的にあるいているのです
いろとりどりの服を着たひとびとが
ふかい目をしてわたしをのぞきます
わたしはそしらぬかおをしてあるきます
まっすぐにわき目もふらずに手をふって

 ほんとうに「しらないひと」が「ふかい目をしてわたしをのぞ」いたのか。それは、わからない。違うものを見ていたかもしれない。けれど、「わたし」はそう感じた。「分かる」というのは「感じる」ことなのだ。
 でも、「感じ」というのは、あやふやなもの。ひとによって違うもの。
 それなのに「分かった」になってしまう。
 あるいは「あやふや」である、きちんと(論理的に)ことばで説明できないから、「分かる」なのかもしれない。

 私は、実は、そう思っている。
 「分かる」ことはきちんとことばにはできない。しかし、「分かる(分かっている)」ことは、ことばにはできないくせに、「肉体」で「する」ことができる。
 ゲロをはく。そのにおいを「すえた臭い」と感じることができる。ひとを「ゆび差す」ことができる。ひとの目を「のぞく」ことができる。--そのとき、それでは「わたし」が何をしたのか、もっと「客観的な」というか、「論理的な」、あるいは「精神的な」ことばで言いなおすと、どうなるのか。つまり、「知(知識)」として言語化し、その言語化したものを、「他人」と共有するには、どう言いなおせばいいのか。
 「分かる(分かっている)」ことは、「知識」にはできない。--「知識」にする必要はない。「知識」にしないまま、何事かを「共有」してしまう。それが「分かる」ということなのだ。

 斎藤の書いていることは、これである。
 「分かる(わかっている)」ことを「知識」にしない。「知識」にとじこめない。むしろ、「肉体」のまま、そこに放り出す。「肉体」を「分かれ」と迫るのである。
 つまり、ここでは「ことば」は否定されている。
 「ことば」は書かれているが、それは「知識(頭)」で理解しようとすると、するりと「頭」の「網」をすりぬけていくものである。「肉体」で感じるときにだけ、斎藤のことばは、「肉体」のなかで動く。

 --と、書きながら、書いていることがだんだん分からなくなる。
 たぶん、「分からなくなる」ことが、「分かる」ことなのだろうけれど。--と、自分で書きながら、むちゃくちゃなことを書いてるなあ、と思う。
 でも、これが実感。
 斎藤の書いていることは、「批評のことば」(客観的、抽象的なことば、知のことば)では、つかみきれないのだ。

 最終連。

粘液のみちを越えていきました
ねばりはなく靴には付きませんでした
影色の長い衣服のひとがとつぜん
わたしの前に立ちはだかりました
じっとわたしをみつめ
くびをふりました
わたしは走りました
町は迷路になっていくような気がします
わたしはりょう手を伸ばしました
飛べるような気がしました

 書きはじめるときりがないが……。最後の2行。両手を鳥の翼のように伸ばす(ひろげる)。そうすると、飛べるような気がする。飛べるように感じる。「気」「感じ」というのは、もう、それ以上「論理的なことば」にはならない。
 「知る」ことはできない。
 それは「分かる」しかないものなのだ。
 私はこの「日記」で何度も書いてきたが、人間はだれかが道に倒れて腹を抱え、うめいていたら、「あ、この人は腹が痛いのだ」と「分かる」。それは「知る」のではない。「分かる」のだ。「肉体」に「肉体」が反応してしまう。他人のからだ--つまり、「私」とはどこともつながっていないのに、まるで自分のからだの痛みのように、それが「分かる」。そういう変なところがある。
 斎藤は、そういう「肉体」で「分かる」(肉体でしか分からない)変な領域を、「肉体」に非常に近いことばで書いている。「知」から遠く、あくまで「肉体」に近いことば、「肉体の内部」のことばで書いている。

 これは「知」から、あるいは「頭」から「ことば」を「肉体」に取り戻すという仕事かもしれない。







海と夜祭斎藤 恵子思潮社
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三井葉子『灯色醗酵』(2)

2011-08-25 23:59:59 | 詩集
三井葉子『灯色醗酵』(2)(思潮社、2011年07月30日発行)


 「夕凪」は美しい作品だ。「ことば」とともに生きる三井の姿をくっきりと浮かび上がらせる。そして、そこにはとても不思議なことばがある。

海は
凪をあそんでいる

かすみ立ち かすみ消えるあの凪に誰か雑(ま)じることがあるのだろうか

ことば と、わたしは呼んでみる

たそがれひとり戸に立ち寄りて切なくきみを思はざらめや と
わたしも外に出て
戸口に立つことも覚えたのだ

ことばは消えることができる
わたしは何を消したのだろう
とぶように逃げて行く時(とき) に立ちはだかって
失うものを
あずけたのではないか
ことばに

ことばは消える
ことばは抱きしめる

そんな愉悦の
夕凪の
とき


ねえ
誰か覚えてる?

 「ことば」ということばが書かれている。そして、「ことばは消えることができる」と書いている。
 ことばが消える?
 三井は、ことばを書いている。それなのに、ことばが消える?
 消えたのは、どのことば?
 どんなふうに、消える?

 人は誰でも、大事なことは、何度でも言いなおす--と私は信じている。「ことばが消える」は、この詩では、どの「言い直し」なのだろうか。
 直前の3行。

たそがれひとり戸に立ち寄りて切なくきみを思はざらめや と
わたしも外に出て
戸口に立つことも覚えたのだ

 この3行のうちの、「たそがれひとり戸に立ち寄りて切なくきみを思はざらめや」は三井のことばではない。三井が註釈で書いているが「三世紀中国の女詩人・子夜」のことばである。
 たそがれに外に出て戸口に立つ。そしてきみを思う--そのことばを、三井は「ことば」で繰り返すのではなく、「肉体」で繰り返す。そのことばにあるように、自分の「肉体」を戸口に立たせる。そして、きみを思ってみる。
 「知っていることば」を「肉体」で繰り返してみる。そのことを三井は「覚えた」と書いている。

 知っている→覚えた→分かった

 ことばは、たぶん三井の「肉体」のなかで、そんなふうに動く。
 子夜の詩を読む。それは子夜のことばを「知る」こと。「意味」も「頭」で「知る」ことができる。そして、それを暗記し、「頭」で「覚える」こともできる。けれど、三井がここで書いている「覚える」は「暗記」ではない。「頭」の問題ではない。
 「肉体」で「覚える」のである。「肉体」で「知る」のである。
 あまりよい例ではないが、たとえば酒を「覚える」、セックスの悦びを「覚える」というようなことばの使い方がある。変なことを「覚える」と、いつ、そんなことを「覚えた」と叱られる。誰に教えられた、とも批判されたりする。けれど、誰に教えられるわけでもないけれど「覚える」ことがある。
 ここでこういう例を書いていいのかどうかよくわからないが、動物の場合、誰に何を教えられるわけでもないのに、すべてを「知っている」。それは「分かっている」といっしょになっている。それは遺伝子(?)をつうじて「肉体」に組み込まれている。「肉体」が「覚えている」ということかもしれない。動物の場合、「知っている=覚えている=わかっている」ということなのかもしれない。
 その動物の「本能」のようなものが、やはり「動物」である人間にもそなわっていて、誰におそわったわげでもないのに、なんとなく知ってしまったこと、覚えてしまったこと、そしてわかってしまったことがある。
 「肉体」が「肉体」をそそのかすのかもしれない。
 それがどういう形をとるのであれ、私たちは「肉体」をくぐりぬけて、「分かる」。「肉体」をとおして、「わかる」。
 人間の「知る=覚える=分かる」は「悟る」ということかもしれない。
 「悟る」を例にするといちばんいいのかもしれない。「悟り」は、ことばでは言えない。「分かりすぎていて」、それは「頭」で「整理」する必要がない。「頭」で論理的に組み立てて納得する必要がない。
 「悟り」の瞬間、「ことばは消える」。
 戸口に立って、だれかを待つ。切ない気持ちで、立っている。
 それは、「ことば」として「描写」できるけれど、実際に立っているときは、そんなことは「ことば」にはならない。そのとき、ことばになるのは「あの人は、どうしているだろう。あの角からもうすぐ姿をあらわすだろうか」とかなんとか、どうにもならないことである。「切なく」というような「ことば」も消える。それは、「他人」につたえるこめのことばであって、「肉体」は「切ない」という「ことば」など必要としていないし、もっと違う、「ああでもない、こうでもない、くだくだ」を生きている。
 このとき「悟り」とは遠い境地にいるように見えるが--そうではないのかもしれない。その瞬間「恋」というものがどういうものか、三井は「悟っている」。

 だから、ことばは、消えるのだ。

 「分かった」(悟った)瞬間から、「ことば」は消える。
 たとえば、きのう読んだ「灯色醗酵」では、三井は「善人なを……」という「ことば」を知った。そして、それが「価値をつくること」「虚構」というものであると「分かった」(悟った)。その瞬間、三井の意識(肉体、と私は言いたいのだが)から「親鸞のことば」が消えた。三井がM氏に話したのは「価値をつくる」「世界をつくる」「虚構」という、三井のことばである。親鸞のことばは、その三井のことばによって遠ざけられている。消されてしまっている。そして、親鸞のことばが「消えた」とき、そこに、親鸞-三井を結ぶ「宗教」というもうひとつのことば(M氏のことば)が生まれる。

 「夕凪」に戻る。

ことばは消えることができる
わたしは何を消したのだろう
とぶように逃げて行く時(とき) に立ちはだかって
失うものを
あずけたのではないか
ことばに

 言葉が消えるとき、「わたしは何を消したか」。--これをことばにするのは、とてもむずかしい。もう、ことばを必要としていないから。それでも、三井はそれをことばにしようとしている。ことばにして確かめようとしている。

 「とぶように逃げていく時」と「(それ)に立ちはだかって/失うもの」。

 これは「ことば」になりきれていない。言い換え(説明)になっていないが、この「矛盾」とも呼べない「矛盾」のなかに、三井の言いたいことがあるのだと、私は感じる。私は「分かる」--だから、「分かった」ふりをして「誤読」する。
 「とぶように逃げて行く時」の「時」は、英語でいうwhenではなくtimeだろう。「分かる(悟る)」一瞬、そこには「ことば」はないが、「時間」もない。「永遠」にむかって開かれた「時間」がある。「いま」なのに「いま」なのではなく、その「いま」は「過去」へも「未来」へも開かれている。「永遠」のなかに溶け込んでしまう。
 「永遠」というとかっこいいけれど(理想のように見えるけれど)、そんなふうに「いま」「過去」「未来」の境目を失ってしまうというのは、やはり、どうもおかしい。人間は「いま」を生きていかなければならない。「いま」が「永遠」であるというのは「矛盾」なのである。
 だから、何かが「永遠」を拒もうとする。「いま」に立ち止まろうとする。「いま」にこだわろうとする。「いま」を「いま」と叫ぼうとする。それは「肉体」と言い換えることができると思う。「肉体」には「いま」しかないのだ。
 その「肉体」さえも、「分かる」瞬間、「ことば」は失ってしまう。「分かる」瞬間、「分かったこと(悟り)」に「肉体」さえもあずけてしまうのだ。「ことば」に。けっして語られることのない「ことば」に。
 「悟り」として語られる「ことば」は「悟り」ではない。「悟り」は「ことば」を超えている。三井は「悟り」ということばをつかっていないので、それをふたたび「分かる」に戻すと、「分かる」(分かったこと)というのは、ことばにならないのだ。「分かる」瞬間、何もかもが消える。「肉体」は「いま/ここ」にあるけれど、その「肉体」の感覚さえ消えてしまう。
 そして、「消えることば」によって「肉体」は抱きしめられる。
 この「悟り」に似た至福の瞬間を、三井は「愉楽」と呼んでいる。
 それは、きょう見た「夕凪」に似ている--と三井は、この詩で書いているのだ。
 何もかもが「輪郭」(境目)をなくして、ぼんやりとまじりあう。溶け合う。

 三井は三井を「分かっている」。そして「分かっている」ことを書くことができる。「分かっている」ことを書いているから、そのことばは、どこまでも自在にひろがりを獲得する。三井語の世界に踏み込むと、「世界」の輪郭が消える。--その愉悦。




灯色(ひいろ)醗酵
三井 葉子
思潮社
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ミケランジェロ・フランマルティーノ監督「四つのいのち」(★★)

2011-08-25 18:38:38 | 映画
監督 ミケランジェロ・フランマルティーノ 出演 ジュゼッペ・フーダ、犬、子山羊

 イタリアの山村。山羊を飼っているぜんそくの老人が死に、子山羊が生まれ、迷子になり、その子山羊が身をよせた巨木が切られ、祭りのポールにつかわれる。祭りのあと、木は炭焼き小屋で炭になる。四つのいのちの、関係があるようなないような「連鎖」がたんたんと描かれる。「関係」をつけたければつければいい。
 犬がいいなあ。ぜんそくで歩けなくなった老人のところにもどってきたり。山羊を放牧させる時間になっても家から出てこないので、坂道にとめたトラックの「滑り止め」の石をずらして、トラックを暴走させたり。トラックは山羊の囲いを壊し、そこから山羊が山へ向かう。ほかの場所へいく山羊もいるんだけれど。犬にそこまでできるかどうかわからないけれど、まあ、映画だから。
 子山羊もいい。小屋のなかの一番高いところ(箱の上)で、「お山の大将ごっこ」。のぼりつめたら、ほかの2匹に追い落とされる。予告編ではこのとき「めええ」と鳴くんだけれど、本編では鳴かなかったのが残念だけれど。思わず、声をあげて笑ってしまう。
 母親が放牧から帰ってきたとき、子山羊がそれぞれの母親のところへ行くシーンも好きだし、母親が子山羊を「めえええ」と呼ぶのもいいなあ。
 このシーンがあって、はじめての放牧の時、子山羊が迷子になるシーンが生きる。溝にはまって、みんなについてゆけない。やっとはい出し、みんなを追いかけるがどこにいるかわからない。そこで「めええ」。誰も答えてくれず、さまよう。かわいそうだけれど、(かわいそうだから)、引き込まれる。大きな木の根元で眠る姿は、うーん、どうなんだろう。あまりにも「人間化」しすぎていないか。
 巨木が祭りのために切りだされ、その後炭になるというのは、「いのちの自然な連鎖」というより、人間が作り上げていく「人工的な連鎖」。そこに象徴されるように、この映画には「人工的」な操作が入り込んでいる。それが、なんといえばいいのか、イタリアの小さな村の自然な美しさを傷つけている。無理に「連鎖」させる必要はないのになあ、と思う。
 子山羊の迷子と巨木の話は、まったく関連性をもたせなくていいのに、と思う。小さな村、その舞台が自然に全体を統一するはずだから。
 犬のシーンがそれを証明している。巨木の祭りとは別の、キリストの祭り。牧師の手伝いをする少年が遅れてくる。その少年に向かって、犬が「わんわん」。少年は犬が恐くて、路を通ることができない。石を遠くへ投げて、犬の気を逸らそうとするがうまくいかない。カメラはただそれをとらえているだけど、おもしろいねえ。田舎の道の感じ、犬の感じ、少年の気持ちの動きがそのまま統合されて「村(世界)」になる。犬と少年は「対立」しているんだけれど、その「対立」を含めて、全体が融合する。宇宙(世界)になる――この感じは好きだなあ。

「人工的操作」によって映画は映画らしくなる(ストーリーが出来上がる)のだけれど・・・「田舎」を描くときは「人工的」なものを入れてしまうと、そこに「傷」が残る。そのことを、この監督は、一瞬忘れてしまったのかもしれない。それが残念。自然も、使い込まれた家の古びた美しさ、坂道や階段の感じがとても美しく、印象的なのに。
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三井葉子『灯色醗酵』

2011-08-24 23:59:59 | 詩集
三井葉子『灯色醗酵』(思潮社、2011年07月30日発行)

 三井葉子『灯色醗酵』を読みながら、「知っている」と「わかる」の違いについて考えた。詩集のタイトルにもなっている「灯色醗酵」。(「醗酵」の「醗」を三井は旧字体で書いているが、私のワープロはその文字をもたない。)

 善人なをもちて往生をとぐ。いはんや悪人をや。

このお文章に出会ったのはわたしには大事件であった。どうしたら生き
られるのか分からなかったわたしのむねに、とつぜん灯がついた。
価値を作るのは世界を作ることである。
虚構に出会ったのよ と。小説家のM氏に言うとM氏は
それこそが宗教ナンヤ と言った。M氏は親鸞学者である。

虚構の庭は五色の花びら
水は日射しをたたえ
鯉は笑っている

 冒頭の1行「善人なを……」は「歎異抄」の一節である。だれもが知っている(聞いたことがある)1行だと思う。意味も知っている。善人が往生できる。そうであるなら、悪人はもっと往生できる。--知っているけれど、それを私が「わかっている」かどうか、これはあやしい。私はどこかで聞きかじったことを、いま、ここに書き写しているだけである。
 その誰もが知っていることば(お文章--と三井は書いている)に出会ったときのことを三井は書いている。そこに「分かる」ということばが出てくる。

どうしたら生きられるのか分からなかったわたしのむねに、とつぜん灯がついた。

 これは、「どうしたら生きられるのか分かった」という意味と同じである。「歎異抄」に出会って、「どうしたら生きられるか」、それが「分かった」。「分からなかった」ものが「分かる」ようになった。
 その、「分かる」とは、どういうことか。

価値を作るのは世界を作ることである。
虚構に出会ったのよ と。小説家のM氏に言う

 ここに「言う」ということばがあるが、この「言う」に私は注目した。
 三井は「善人なを……」を言い換えているのである。三井のことばで、「価値を作ることは世界をつくること」と言い換えている。この言い換えは、もちろん、そっくりそのままの「言い換え」ではない。「歎異抄」の「文語(?)」を「口語」に言い換えたのでもない。また「意味」をわかりやすく言いなおしたものでもない。
 親鸞の弟子が書き記したものを読み、三井がそのとき感じここと、「分かった」と思ったことを、まったく別のことばで言いなおしたものである。だから、たとえば、「善人なをもちて往生をとぐ。いはんや悪人をや。」の「意味」を書きなさいと「試験問題」がだされたとき、三井が書いているように「価値を作るのは世界を作ることである。」と書いても、○はもらえない。「正解」にはしてもらえない。一般に共有されている「意味」とはまったく違うからである。
 違う--ということを、三井も知っているはずである。
 知っているけれど、「分かった」と思ったのだ。違ったことばで言いなおすことができた瞬間に、三井には「歎異抄」が「分かった」のである。

 このことを、私は、とてもおもしろいと思う。
 「分かる」というのは、自分が納得できるということである。自分の「肉体」のなかに、そのことばを入れても不自然なことが起きないということである。

 私は「現代詩講座」で河邉由紀恵の『桃の湯』を受講生と一緒に読んだことがある。その詩集のなかに「ふわっ」とか「ざらっ」とか「ねっとり」とかのことばが出てくる。そのことばは全員が知っている。そして、また「分かっている」。けれど、その「分かっている」はずの、「ふわっ、ざらっ、ねっとり」を自分のことばで言いなおしてみて、という具合に質問を投げかけてみると、全員、すぐにはことばにならない。
 それは「ふわっ、ざらっ、ねっとり」が「分かりすぎている」ためにことばにならないのである。「肉体」で「分かっている」ので、ことばにならない。ことばにする必要を感じなかったから、別のことばにしてみようとも思わなかった。だから、ことばにできない。とまどってしまう。
 完全に分かっていることは、ことばにならないのだ。
 逆に、分かっていないことはことばになる。
 --というのは、ちょっと矛盾した言い方だが、繰り返し聞いたり読んだりして「知っている」ことは、その繰り返し聞いたり読んだりした「ことば」をそっくり繰り返せばいいのだから、「分からないこと」もことばにできるのである。たとえば、私が「善人なを……」を「善人が往生できるのだから、悪人はもっと簡単に往生できる」と言ったように。それがどういうことか私は「分からない」。だから、平気で「他人のことば」(聞いたことば、読んだことば)を繰り返すことができる。
 「分かっていないこと」は他人のことばを借りて平気で言えるが、「分かっていること」(ふわっ、ざらっ、ねっとり)は言いなおせない。それは、誰も「言いなおしていない」。だから、どうしていいのか分からない。頼ることばがないのだ。
 この「分かる」(分かっている)ことというのは、そして、私の「分かる」と、他人の「分かる」が一緒かどうかは、はっきりとは判断できない。河邉が「ふわっ」ということばであらわしたものを、もし私が別のことば(別の知っていることば)で言いなおしたとき、それは河邉の感じていることと同じであるかどうかは、まったくわからない。同じであるという保証はなにもない。それにもかかわらず、私たちは「ふわっ、ざらっ、ねっとり」を「分かる」と思ってしまう。
 この問題は、河邉の詩集についてふれたとき、すでに書いたので、繰りかえさないが……。

 あることばが「分かる」とは、そのことばを、それとはまったく別の「知っていることば」で言いなおすことができると言うことだ。
 (これから書くこと、いままで書いたこともそうかもしれないが、それは私の「独断」がほとんどなので、まあ、適当に読んでください。)
 「分かる」というのは、私の感覚では「肉体」で「分かる」。「頭」は「知る」ときにつかう。「分かる」ということは、それぞれの「肉体」のなかでしか起きないので、その「分かる」を他人に伝えるには、どうしても「知っていることば」をつかうしかない。それはなんといえばいいのか、どうしても「分かっている」こととはそっくりにはならない。「知っていることば」というのは、「私」自身のことばではなく、他人から聞いたり、読んだりしたものだからである。だから、一回言いなおしただけでは不十分である。何回も言いなおすことで、少しずつずれてくるもの、重なり合うものが出てくる。その「ずれ」や「重なり」の動きでしか、「分かっている」ことは言い表せないのだ。

 書いていることが、ちょっと迷路に入り込んだようだ。
 三井のことばに戻る。

 三井は「善人なを……」をまず、「価値を作るのは世界を作ることである。」と言い直し、すぐにもう一度「虚構に出会ったのよ」と言いなおしている。そのふたつは同じことを指している。「価値をつくる」というのは「虚構をつくる」ということである。そして、「虚構をつくる」とは「世界」をつくるということである。
 そのとき「世界」とは、「ことば」の運動である。
 人の一生という世界。それを親鸞は「善人なを……」と言った。そのことばにふれて、三井は、そこには「価値」が書かれていると感じたのだ。悪人がほんとうに善人よりも往生しやすいかどうかではなく、そこには、親鸞の「価値」が書かれていると「分かった」のである。そして、それが「虚構」であると分かったのである。つまり、そこにあるのは「ことばの運動」であると「分かった」のである。
 「分かる」というのは、「ことばの運動」を自分でつくりだしてゆけることだ。
 「知る」というのは、他人の「ことばの運動」をただ繰り返すだけのことである。
 「他人のことばの運動」を「自分のことばの運動」で置き換え、「同じこと」を「違ったことば」で言い表すことができたときが「分かった」と言えるときなのだ。
 言いなおすことで「知る」と「分かる」は、平行な関係になる。
 このことを三井は、「雀」という詩の中で「わたしにも分かったのです。さまざまなことは異次元ではなく平面での移動なんだというふうにです。」と書いている。「分かる」というのは、「他人のことば」から「自分のことば」への「移動」なのである。しかも、「平面」での「移動」なのである。--私は、三井が「平面」と呼んでいるものを「平行」と呼ぶのだが……。

 「分かる」ということは、何かを完全に「自分のことば」でいいなおすこと。
 だから、

虚構の庭は五色の花びら
水は日射しをたたえ
鯉は笑っている

 この3行は「善人なを……」の「三井語」による言い換えである。「価値をつくるのは世界をつくること」の「三井語」による言い換えである。「虚構」の「三井語」による言い換えである。
 さらに三井はつづける。

そんならわたしも生きられると十八のわたしは思った。生きられる、ではなく生まれられるとわたしは思った。死に死にて生き生きるいのちである。

 「自分のことば」で何かを言いなおすとき、それは「生まれる」である。「生まれ変わる」のである。「知っている」から「分かる」に生まれ変わるのである。その生まれ変わりは、どうしたって、三井自身の「価値」をつくる(価値をあきらかにする)。その「価値」は「ことば」によってのみ成立する「虚構」である。

 三井は、「善人なを……」ということばにふれて、「自分のことば」というものがあるということを発見したのだ。「ことば」に自分をあずけることができると「分かった」のである。「ことば」の中で、三井は生まれる。ことばの中で三井は三井になる。ことばは、三井を抱きしめる。

        (1回では書き切れないので、あすも感想の続きを書く--予定。)




灯色(ひいろ)醗酵
三井 葉子
思潮社


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田村隆一試論(2)

2011-08-24 00:09:17 | 詩集
田村隆一試論(2)(よみうりFBS文化センター「現代詩講座」、2011年08月22日)

 前回につづき、田村隆一の作品を読みます。
 (詩を朗読する。)

四千の日と夜 田村隆一

一篇の詩が生れるためには
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ

見よ。
四千の日と夜の空から
一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、
四千の夜の沈黙と四千の日の逆光線を
われわれは射殺した

聴け、
雨のふるあらゆる都市、溶鉱炉、
真夏の波止場と炭鉱から
たったひとりの飢えた子供の涙がいるばかりに、
四千の日の愛と四千の夜の憐みを
われわれは暗殺した

記憶せよ、
われわれの眼に見えざるものを見、
われわれの耳に聴えざるものを聴く
一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した

一篇の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない

質問1 第一印象は? どこが一番「わからない」部分か。
「戦争のことを書いている」
「殺さなければならない、が分からない」
「全部、逆説を書いている。それくらいしないと詩は書けない」
「思っていることと逆のことを書いている。生の悲しさが、人の心に浸透してくる」

 私も、「殺さなければならない」が一番むずかしい部分、分かりにくい行だと思う。
  普通は、「殺してはいけない」と言いますね。実際、人間を殺してしまうとたいへんなことになるし、人間でなくても、動物でも「殺してはいけない」と言われる。田村隆一はけれど「殺さなければならない」と言う。常識に反することを書いている。だから、むずかしい。「わからない」。
 前回、詩を読んだとき、ことばには「知っていることば」と「わかっていることば(わかることば)」があるという話をしました。そして、「射殺」「射殺する」ということばは知っているけれど、自分では実際にしたことがないから「わからない」というとこを話しました。今回の詩には、「殺す」「射殺」「暗殺」「毒殺」と、やはり知っているけれどわからないことばがたくさん出てくる。
 しかも「殺さなければならない」という形で出てくる。これが、この詩の一番わからないところだと思う。

 まず、「わからない」ということを自覚して、それから詩を読みます。これが大事だと思います。

 読者に「わからない」ことは、つまり、そこでは田村のことばが十分に言い尽くされていないからです。言い足りないことがある。田村は田村のことばを完全に説明しきっていない。「殺さなければならない」の「理由」を書いていない。だから、わからない。
 殺人事件が起きると、かならず「動機」が問題になりますね。動機というのは「理由」です。「理由」がわかったからといって、「殺人」がほんとうに理解できたかというと、ちょっとよくわからないけれど、まあ、なんとなく「納得」できる。
 田村の1連目には、「殺さなければならない」の「理由」がひとことも書かれていない。いや、「一篇の詩が生まれるためには」が「理由」だと言うことになるかもしれないけれど、そういう「理由」では、なぜ?と思うだけですね。詩のために殺人が許されるということは、絶対にないですね。
 だから、詩のためには「理由」には値しないなあ、と思う。

 いま言った、「説明しきっていない」「言い尽くしていない」という思いは、たぶん、田村隆一自身にもあると思う。だから、2連目以降で、1連目に書いたことを言いなおしている。別のことばで言っている。
 どんな作家でも、詩人でも、言いたいことは何度でも「言いなおす」(繰り返す)。その「言い直し」に注目しながらことばを読んでいくと、だんだんその詩人の言いたいことが明確になっていきます。
 で、1連目と、2、3、4、5連目を読むと、似ているところと違っているところがあります。

質問2 どこが似ていて、どこが違っているか?
「1連目と5連目が、一篇の詩が生まれるためには、一篇の詩を生むためにはではじまっていて、似ている。そのあいだの2-4連目は、1、5連目と違っている」
「1連目の、射殺、暗殺、毒殺を、2連目以降で説明している」
「5連目が田村の意見だと思う」
「1連目と5連目が対になっている。5連目の甦らせなければならないが、もっとも言いたいことだと思う」

 いま、みなさんが気づいたように、1連目と5連目はとても似ている。「対」になっています。でも、1連目と5連目は、実は、大きく違っている部分もあります。
 一番違っているのは、1連目が「一篇の詩が生まれるためには」なのに対し、5連目が「一篇の詩を生むためには」という部分。
 主語が違っている。「生まれる」の主語は「詩」。「生む」の主語は「私(われわれ)」。
 これは、あとでもう一度触れるので、そのままにしておいて、別の「生まれる」というのは、この場合、他人が生む、他人から生まれる、ということになるかもしれない。「生む」は自分で「生む」。

 それをのぞくと、どこだろう。どこを、どう言いなおしているだろうか。
 1連目が「射殺し、暗殺し、毒殺する」と現在形であるのに対し、2、3、4連目は「射殺した」「暗殺した」「毒殺した」と過去形になっている。
 なぜ、過去形なのだろう。

 「一篇の詩が生まれるためには」「殺さなければならない」ということばを手がかりにすると、それでは「殺した」あとはどうなるか、ということを考えてみるといい。「一篇の詩が生まれるために」「殺さなければならない」のだとしたら、「殺した」あとには「一篇の詩が生まれた」状態になっていないといけない。
 「生まれる-殺す」「生まれた-殺した」という具合に、現在形と過去形が対応しないといけない。
 ということは、「殺した」と書かれているのだから、それぞれの連には「詩」が「生まれている」(生まれた)はず。
 それは、どこだろう。

質問3 2、3、4連目で「詩」を感じるのはどの行? どの部分? 「詩」を考えるとむずかしくなりますね。だから、最初の講座にもどるけれど、「詩は気障なうそつき」というのがこの講座のキャッチコピーなのだけれど、2、3、4連目で、気障なのはどの部分? かっこいいのはどの部分? それを言ってみてください。

「一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、」
「たったひとりの飢えた子供の涙がいるばかりに、」
「一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、」

 私もみなさんが指摘したのと同じ行がかっこいいと思う。気障なことばだなあと思う。そして、そのことばが目立つように田村も工夫していると思う。かっこいいことば、気障なことばのあと、「四千日の夜、四千日の昼」と同じようなことばを繰り返し、前の行に意識が集中するようにしている。
 こういうことばを書いてみたいなあと思う。

質問4 で、この3行には、共通点がある。似たことばがある。それは何?
「ほしいばかりに、が同じ」

 そうですね。「ほしいばかりに」に2回出てくる。まったく同じですね。もう一か所は「ほしいばかりに」ではなく「いるばかりに」。「いる」は「必要」という意味ですね。だから、「ほしい」と「いる」はこの場合、同じですね。「必要」、だから「ほしい」と田村は書いている。
 そこで、さっき話したことにちょっと戻ると……。
 「殺人」には「理由」(動機--○○がしたい)が必要といいましたね。
 ここでは、その「理由(動機)」が書かれている。
 射殺したのは「一羽の小鳥のふるえる舌がほしい」から、暗殺したのは「たったひとりの飢えた子供の涙がいる」から、毒殺したのは「一匹の野良犬の恐怖がほしい」から。
 それが「殺人」の「理由(動機)」だとしたら、それこそが田村が詩だと考えているものであるということの証明になると思う。
 ここでは「一篇の詩」になっていない。1行の部分だけれど、そういうものが「詩」だと田村が考えていることになる。「殺した」結果として、その1行が生まれたのだから、それが詩であるということになると思う。

 田村が「詩」は「何かを殺した」結果生まれるものであり、それはたとえば「一羽の小鳥のふるえる舌」というような、かっこいいことばである--ととりあえず、ここでは「仮定」しておきますね。

 次に、では「何を」殺したか--それを見ていきます。
 1連目では、「多くのもの」「多くの愛するもの」と書かれていた。それが2、3、4連目でどう書き換えられているか。

四千の夜の沈黙と四千の日の逆光線を

四千の日の愛と四千の夜の憐みを

四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を

質問5 ここにも「共通のことば」がありますね。それは、何?
「四千日の夜」「四千日の日」

 そうですね。「四千の夜」「四千の日」が、一部は順序が逆になっているけれど、繰り返し出てくる。田村は「四千」にこだわっている。「四千」というのは、前回の講座のとき、だれかが言ってくれたけれど、たぶん日本が戦争をしていた11年の年月の日数なのだと思う。
 その戦争の日々、「われわれは」沈黙、逆光線、愛、憐れみ、想像力、記憶を「殺した」。その結果、「一羽の小鳥のふるえる舌」「ひとりの飢えた子供の涙」「一匹の野良犬の恐怖」という「詩」が生まれた。
 田村は、そんなふうに考えているのだと分かります。

 あ、でも、これは、ちょっと変ですねえ。
 「一羽の小鳥のふるえる舌」が「詩」だとしても、それでは詩のためには戦争が必要になる?
 そういう疑問が出てくる。
 これでは、いくらなんでも、おかしいですね。
 やっぱり「常識」に反している。だから、おかしい。変なことを言っている。言っていることがわからない。「逆説」を言っている。むずかしい、という最初の印象に戻ってしまいます。

 ここから、少し視点を変えて詩を読み直してみる。「詩」を私は「気障な嘘つき」と定義して、この講座を始めたのだけれど、これはいわば「方便」ですね。詩は気障な嘘つきではないのです。
 詩は、けっして忘れることのできないもの。「気障な嘘」というのは「気障」なことをいわれた、嘘をつかれたという印象が残る。
 この強い印象が残るということと、詩は関係があるのだと思う。
 田村も、強い印象ののこることばが詩だと感じているのだと思う。忘れることができないもののなかに詩があると考えているのだと思います。
 「四千日の夜と昼」を「戦争」の日々と読んできました。3連目が「戦争」ということを考えるとき、一番わかりやすいので、3連目を中心に見てみると。
 戦争のとき、子供が飢えて泣いている。それを田村は忘れることができない。その子供が泣いているとき、「われわれ」は(これは田村の世代がということだけれど)--「われわれ」は何をしたか。人に対する「愛」を、「憐れみ」を殺した。知らない顔をしたというのではないけれど、どうすることもできなかった。愛や憐れみを「殺して」、飢えて泣いている子供を見ているしかなかった。
 それはまた、そういう子供を見た自分を忘れることができない--という意味だとも思います。「愛」や「憐れみ」を殺してしまった自分を忘れることができない。
 この「愛」や「憐れみ」というのは、「想像力」とも言えますね。他者に対する「想像力」。それから、その「想像力」の奥には、自分の「記憶(体験)」というものがある。飢えたら、つらい、悲しい--そういう記憶が、想像力を動かす。そういう精神の動き、こころの動きを「殺す」ことによって、「われわれ」は子供が飢えて泣いているのを見てしまった。そして、自分の心を殺して見てしまったから、その子供の涙を忘れることができない。
 詩のように、鮮明に、いまも浮かび上がってくる。--この詩を書いたとき田村は、そういう状態なのだと思います。

 ただ、そんなふうに考えたとき、2連目の「沈黙」「逆光線」を「愛」「憐れみ」にうまく結びつけるのはむずかしい。何もできずに黙っていることを「沈黙」と呼ぶなら、飢えている子供をかわいそうに思い、しかし、どうすることもできずに黙っていたことが「沈黙」になる。それを「射殺」すれば、それでは、沈黙が破られ、声になるのか--これはむずかしい。
 そうではなくて、ほんとうは「沈黙する」ことで、何かを殺した、ということなのだと思う。それこそ「逆説」で何かを言おうとしているのかもしれません。
 --これでは、何か変なところが残る。説明できな部分が残る、という不満があるかもしれないけれど、たぶん、詩というのは、そういうものだのだと思います。説明しきれない。どこかに矛盾がある。
 だから、わからない部分、説明しきれない部分は、説明しきれないものとして残したまま、先へ進みます。

 戦争の日々、四千日から「一羽の小鳥のふるえる舌」「ひとりの飢えた子供の涙」「一匹の野良犬の恐怖」という「詩」--忘れられないものが、生まれた。
 そう田村が書いたとき、そのみっつのことばのなかに、また「共通のことば」がある。「一羽」「ひとり」「一匹」。「一」がある。それは戦争による犠牲というのは、けっきょく「一(ひとり)」に還元されるということだと思う。戦争で何万人もの人が死んでゆく。けれど、それは「何万人」ではなく、あくまで「ひとり」。その「一」であることを田村は忘れたくないのだと思う。
 私は、そう思って、この詩を読みました。

 最後の連。

一篇の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない

 「一篇の詩が生まれるためには」ではなく「一篇の詩を生むためには、」と書いているところから、ここでは田村が、詩を書いていく「決意表明」のようなものをしているのだと思って読みました。
 でも、この「決意表明」はとてもむずかしい。わかりにくい。

死者を甦らせるただひとつの道

 これが、非常にむずかしい。「死者を甦らせる」ということは、私たちは現実として不可能であると知っている。だから、よけいむずかしく感じる。何を言っているかわからない。
 少し遠回りをしながら読みます。「ただひとつの道」「その道」と突然、「道」が出てきます。これは「比喩」ですね。この「比喩」を、この詩のなかにあることばで言いなおすと、どういうことになりますか?

質問6 「道」を言い換えてみてください。
「詩人としての道」
「詩」
「ほんとうにしたかったこと」
「正しく歩むこと」
「これは逆説。人間愛」

 あ、私の質問の仕方がよくなかったみたい。
 何かを言うとき、私たちは何度も言い換える。大切なことならば大切なだけ、繰り返し言い換える。
 「道」というのは「方法」とか「手段」とかの意味でつかわれることが多い。「手段」「方法」の「比喩」が「道」。
 「手段」「方法」と仮定して、それではそれはを指し示している。「道」が比喩であるかぎり、それは前に書いている何かの言い換えなのだと思う。
 私は「いとしいものを殺す」ということを「道」と言いなおしているのと思う。

われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり

という2行は、

われわれはいとしいものを殺さなければならない
死者を甦らせるただひとつの方法はいとしいものを殺すことである

 ということになる。
 これでは1行目、2行目に同じことばが出てきてしまう。同じことばが出てくるというのは、それがそれだけ大事なこと、言いたいことだからだと思うけれど、これではちょっとくどい感じがする。そのために、「ただひとつの道」と「道」ということばをつかって言いなおしたのだと思う。
 ここで、ちょんと思い出してもらいたいことがあります。
 前回「幻を見る人」を読んだとき、「ために」ということばに田村の「思想」(思い)がこもっている、ということを話しました。

空から小鳥が墜ちてくる
誰もいない所で射殺された一羽の小鳥のために
野はある

 この2行目の「ために」は、田村独特のことばです。なにも「野」はそのためにあるのではない。けれど、田村は「ために」ということばで結びつけた。こんな死んだ小鳥と野の結びつけは田村が初めてやったことであり、そのむすびつけのために「ために」ということばがつかわれた。
 「ために」というのは、とっても大切なことばなんだと思います。そういうことばを私は「思想」のことばと呼びます。キーワードとも言います。
 この詩にも「一篇の詩が生まれるためには」「一篇の詩を生むためには」という具合に「ために」がつかわれているけれど、これは言い換えると「一篇の詩のために」という形にすると、前回の「ために」と同じものであることがわかると思います。
 「思想」というか、その人にとってとても重要なことば、田村の場合「ために」だけれど、それはときどき省略されてしまう。田村にとってはわかりきったことなので、書く、という意識が生まれない。無意識のなかで書いてしまっているので、書き忘れてしまう。そういうことがある。その「無意識のなかで書いてしまっていることば」を、詩のなかに復活させると、詩がわかりやすくなります。
 そこで、質問。

質問6  「ために」を、もし、この詩最終連に補うとしたら、どこに補えますか? そして、そのときそのまわりのことばは、どんな具合にかわりますか?

 これも、私の質問が悪かったみたい。
 私は、最終連、

これは死者を甦らせるただひとつの道であり、

 に「ための」を挿入して読みます。「ために」を補って読みます。
 「死者を甦らすために」、あるいは「死者のために」。
 ただ、単純に「ために」を補うと、ことばがうまくつながらない。

死者を甦らせる「ために」ただひとつの道である

 でも、「ために」を「ための」にすると文法的に(?)なじみのあることばになります。

死者を甦らせる「ための」ただひとつの道である

 で、もう一度、「道」はなんの譬喩かという問題に引き返します。そのとき、

われわれはいとしいものを殺さなければならない
死者を甦らせるただひとつの方法はいとしいものを殺すことである

 という行を考えたけれど、ここに「ために」を挿入して、少し書き換えてみる。そうすると、

われわれはいとしいものを殺さなければならない
死者を甦らせる「ために」いとしいものを殺すことがただひとつの方法である
(死者を甦らせる「ために」いとしいものを殺さなければならない)

 こうすると、意味は通じやすくなるし、また田村が、一生懸命「いとしいものを殺す」ということを繰り返しているのも分かる。
 さらに「ために」が、この詩では

一篇の詩が生まれるためには(1連目)
一篇の詩を生むためには(5連目)

と2回つかわれている。それも「詩」ということばと一緒につかわれている。それを考えながら、先に作り替えた(?)5連目を読むと、

われわれはいとしいものを殺さなければならない
一篇の詩「のために」いとしいものを殺さなければならない

 「ために」ということばを中心に見ていくと、「一篇の詩」と「死者」が同じものになる。

一篇の詩の「ために」いとしいものを殺す
死者を甦らせる「ために」いとしいものを殺す

 「死者」は田村にとっては、忘れることのできない、とても強烈な印象を与えたものなのだということが分かる。まるで「詩」のように、強烈で、一度体験したら絶対に忘れることができないもの。

 で、ここから、詩を大きく逆戻りしてみます。
 各連のなかで、「詩」は、どれ、との行が一番かっこいいか、どの行が一番気障か、そういう質問を私は最初の方にしました。
 そのとき「一羽の小鳥のふるえる舌」「飢えで泣いている子供」「野良犬の恐怖」がそういうものに当たる、というふうに考えたと思います。
 これは、全員が、同じように考えましたね。珍しく「意見が一致」してしまったことがらです。
 でも、「一羽の小鳥のふるえる舌」「飢えで泣いている子供」「野良犬の恐怖」は、普通、「詩」と呼んでいるものとは違いますね。
 普通は、もっとロマンチックというか、美しい、優しいというイメージを呼び起こすものが詩と呼ばれている。悲しい詩、さびしい詩もあるけれど、やはりどこか美しい。美しいものがこころに響いてくる。田村の書いているものは、それとは相いれない。反対のもの、ですね。強烈だけれど、「美しい」「ロマンチック」というものとは違っている。

 これが大切なのだと思います。
 田村は、この詩で「一篇の詩が生まれるためには」「一篇の詩を生むためには」と書くことで、「詩の定義」をしている。「いとしいものを殺すとき、生まれるのが詩」。それは、私たちが普通詩と考えているものとは違う。
 「殺す」と「詩」は相いれない。
 別なことばでいえば、田村は、これからは今まで考えられているものとは違う詩を書かなければならない、と言っている。
 それは、射殺された小鳥の震える舌のようなもの。これを戦争で死んだ仲間に重ねると、死んでいく時ひとりの男が感じた、恐怖、震える肉体、無念の涙になる。それを、だれも経験していない強烈なことば、印象に残ることばで書きたい――ということになると思う。
 そして、「殺す」というのも、また「比喩」だと思います。「殺す」は現実のことではなく、「想像力」のなかでの「殺す」になると思います。

 詩の全体を補足する形で、少し前に引き返してみます。

記憶せよ、
われわれの眼に見えざるものを見、
われわれの耳に聴えざるものを聴く
一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した

 ここには、田村のいいたいことが書かれていると思う。
 「想像力」とは何か。前回、バシュラールの定義、想像力とはものをねじまげる力というのを紹介したけれど、田村は「われわれの眼に見えざるものを見、/われわれの耳に聴えざるものを聴く」を「想像力」と呼んでいるように思います。
 そして、その「想像力」のためには「記憶」も必要。何かを記憶していないと、想像できない。記憶の力を借りて、いま、ここでは見えないものをみる。聞こえないものを聴く。それは想像力の目、想像力の耳をつかうということかもしれない。
 ことばは、目に見えないものを書くことができる。耳に聞こえないものを聞くことができる。目に見えないけれど存在するもの、耳に起呼ないけれど存在するもの--そういうものは、ある。「一羽の小鳥のふるえる舌」「飢えた子供の涙」「野良犬の恐怖」。これは、「いま/ここ(この部屋)」では見えない、聞こえない。けれど、ことばにしたとき、見えるし、聴こえる。
 同じように、「たったひとりの死者」を「いま/ここ」に鮮明に浮かび上がらせるのが田村の詩を書く目的なのだ、と田村は言っているのだと思う。そのためには、どんな困難もいとわない--そういいたいのだと思って、私はこの詩を読みました。
 
 そして、その「殺す」ということを、私はいま「想像力」と言ったばかりなのだけれど、「想像力」ではなく、むしろ、4連目と結びつけると「記憶」になる。「記憶」というか、知っていることがないと「想像」もできないから--ということは、ちょっとおいておいて。
 「記憶」と言えば、田村にとっては「四千の日の夜」。戦争。それをしっかり見つめること。それを忘れないこと。「いとしいもの」を忘れてしまっても(殺してしまっても)、いや「いま/ここ」にある「いとしいもの」を殺す--それについて語るのではなく、つまり、「いま/ここ」を「黙殺」してでも、「過去(記憶)」を直視する。
 そこから「一羽の小鳥のふるえる舌」「ひとりの飢えた子供の涙」「一匹の野良犬の恐怖」「(たったひとりの)死者(の無念)」が強烈に浮かび上がる。いつまでも忘れられないものとしてことばに定着する。
 詩になる。
 私たちは普通、詩というとき思い浮かべるもの、美しい花の姿とか、美人をたたえることばだとか--そういうものを否定する、書くことをやめる。そうして、いままで書いて来なかった悲惨なことがら(戦争)のなかで直視した「真実」を書く。「真実」は「美しくない」かもしれない。けれど、それが詩。

 田村は、そういう詩を書きたい、言っている。書かなければならないと、自分に言い聞かせている。--私は、そんなふうに読みました。

 ことばが「現実」を書くのではなく、ことばの力で私たちが見つめなければならないものをつくりだしていく。目に見えるようにする。聴こえるようにする。
 それが「現代詩」なのだと思います。



 講座のあとの「自由討論」、いや、もっと気軽な「談話」だけれど。
 受講生のなかから、「最終連のひとつの道」とは詩人のことである、あるいは詩のことである、という声がでました。戦争を風化させないために詩を書く--と田村の作品をとらえたものだと思います。

(上記の内容は、テープ起こしではありません。若干、当日の内容とことなります。省略した部分と加筆があります。)




「現代詩講座」は受講生を募集しています。
事前に連絡していただければ単独(1回ずつ)の受講も可能です。ただし、単独受講の場合は受講料がかわります。下記の「文化センター」に問い合わせてください。

【受講日】第2第4月曜日(月2回)
         13:00~14:30
【受講料】3か月前納 <消費税込>    
     受講料 11,300円(1か月あたり3,780円)
     維持費   630円(1か月あたり 210円)
※新規ご入会の方は初回入会金3,150円が必要です。
 (読売新聞購読者には優待制度があります)
【会 場】読売福岡ビル9階会議室
     福岡市中央区赤坂1丁目(地下鉄赤坂駅2番出口徒歩3分)

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田村隆一全集 1 (田村隆一全集【全6巻】)
田村 隆一
河出書房新社
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現代詩講座「田村隆一試論」(2)(受講生作品篇)

2011-08-24 00:07:15 | 詩(雑誌・同人誌)
現代詩講座「田村隆一試論」(2)(受講生作品篇)
         (よみうりFBS文化センター「現代詩講座」、2011年08月22日)

<課題>田村隆一になってみよう。――8 月8 日に読んだ田村隆一を参考に、田村隆一になったつもりで、詩を書く。その際、かならずひとつは田村の詩のなかのことばをつかう。


<受講生の作品>

真夏の詩について     石川希代子

羨望の先鋒 ぽっちり光る
木 ひとつの木は たつ
原野であれ文化文明の瓦礫の中でも全て荒野
地球球体の西側は灼熱 熱線で
人も家畜も焼かれ炙られ緑は全て自然発火
東側ではひたすら冷い寒風 吹雪

こころだけでは足りなくて皮膚の下まで満たした魂を煮えたぎらせ
木は気として 時にことばを暗号化する
転んだまごころは 二千十一年の東の島国
ほんの一角で世界の裏返しを見た

飢えた人は 詩に死をからませ
詩格の重さに自己の刺客を

受講生感想「最後の2行、死と詩の、同じ音の組み合わせが田村ぽい」
谷内感想「「こころだけでは足りなくて皮膚の下まで満たした魂を煮えたぎらせ/木は気として 時にことばを暗号化する」がかっこいい。「暗号化」が面白い」



午前十一時二分     岩永恵美


野に墜ちた太った男は
黒い脂肪を拡散する

胞子が天をあけたとき
我々の子は地に臥せた

音なき声は かつての空のためにある
姿なき体は かつての川のためにある

今、緑あふれる世界は憧憬の中
今、この世界は一握りの頭の中

なぜと問う人は どこへ行ったのか
なぜ問うと問う人は 安全地帯に鎮座する

聞け 叫びが あの山を越える様を
見よ 願いが あの海を越える様を

静寂の園に御霊が集う

受講生感想「「なぜ問うと問う人は」が面白いが、そのあとの「安全地帯に鎮座する」は他の言葉があったのでは」
谷内感想「長崎原爆のことを書いているのだと思う。「音なき声は かつての空のためにある/姿なき体は かつての川のためにある」の対句が面白い」





幻を見る人     上原和恵

詩人から父がはい出してくる
関東大震災の少し前に生を受けた男たちに
殺し合いがあった

青年たちは知性を奪い取られていた
男たちから未来は消えていた
闇だけがあった

詩人は父と同じ地面に立ち 同じ空気を吸った
父と詩人は知性をひそめ 沈黙を守った

どうして二人は交差しなかったのだろうか
ただどうしてそうなのかわたしにはわからない

父は沈黙を守り続けた
父の未来は閉ざされ市井に紛れ込んだ
未来がひらけた詩人は言葉で先行した

詩人の言葉のなかに父の沈黙は内包され
わたしのなかで沈黙は言葉となって
重さを増す

受講生感想「父と詩人の対比。詩人の本望を見る」「「どうして二人は交差しなかったのだろうか」が印象的」「「詩人の言葉のなかに父の沈黙は内包され」がいい。声にならなかった声が誰かに代弁されて、引き継がれてゆく」
谷内感想「交差ということばを田村が使っているかどうかわからないが、交差のつかいかたに、田村っぽさを感じる。書き出しの一行目が象徴的で印象に残る」



幻を見る人     小野真代

誰もいない野原に骨が落ちる
けものが骨を拾う
けものは無数の骨でできている

風が運んでくるいろいろなもの
昨日の告解 今日の喜び 明日の裏切り
誰かの歌声 子どもの祈り

けものに音は届かない
けものは光を感じない
けものは怒りに支配されている

骨はかつて言葉を知っていたのだ
花の美しさを語り
大事な人をなぐさめ
宝石のように言葉を紡いだ
今ではけものの咆哮しか吐きだせない

けものは誰にも止められない
こもの自身ですら止められない
無数の骨がきしむ音
空は燃え
海は枯れ
世界が終るところまで

骨は落ち続ける
けものは永遠に死なない

誰もいない世界でけものが吠える

受講生感想「けものということばの使い方が面白い」
谷内感想「印象的な行がたくさんある。「けものは骨でできている」「骨はかつて言葉を知っていたのだ」が強い。三連目の前の二行もいい。「昨日の告解・・・」の言葉の動きが飛躍があって楽しい」



それより    吉本洋子

私はそれより後に生まれた
それより先に生まれた姉は
私の生まれる二日前に居なくなった

この町での挨拶は前ですか後ですか
それはそれは
で 始まって終わる

今はもう空には鳥が飛び
地には夾竹桃が咲き続けている

今日
咲き続けている夾竹桃の上に
空が拡がる
あの町にも
海を越えた都市にも繋がる空だ

それより後に生まれた空だ
無添加の空だ
眼の鼻の耳の記憶の無い空だ

花弁が月足らずで散って
欲望を感じない若い雄が徘徊する
明るい空の下だ

谷内感想「「それより」の「それ」は戦争だと思って読んだ。「眼の鼻の耳の記憶の無い空だ」が印象に残る。「花弁が月足らずで散って」の「月足らず」ということばの使い方がおもしろい」





水の定義    谷内修三

コップの中に水がある
ペットボトルから注がれたその水の恐怖と愉悦を定義せよ
机の上には午後の疲労が静かに光っている
水を飲むわたしの肉体のなかの倦怠のように

最初の水は海だった なぜ選ばれたかわからないまま
天空の苦い誘惑と甘い拒絶を定義しようとするが
果てしない不安に激しく叩かれ墜ちるそのとき
わたしはどこにも存在しない大地をくぐる宿命なのか

だが「半壊の雲よ、きみのなかで闇は崩れる」と
言ったか言わなかったか森の奥深く太古の樹の根は震え
おお 季節の初めの春よ 時間よ
残酷な愛撫という定義 嫉妬という空虚な定義

水よ水よ 虚構を定義するとき憎悪の都市を川が流れ
水道管の破壊を定義するときふるさとがわたしを呼ぶ
文字を書くインクに水はなくわたしのことばには
花を濡らす水もなく乾いた逆説のように消える




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         13:00~14:30
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     維持費   630円(1か月あたり 210円)
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     福岡市中央区赤坂1丁目(地下鉄赤坂駅2番出口徒歩3分)

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平田俊子「警報器」

2011-08-23 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
平田俊子「警報器」(「現代詩手帖」2011年08月号)

 柏原寛「なぎさの胚珠」という奇妙な詩を選んだ平田俊子は、いま、どんな詩を書いているのだろうか。
 「警報器」という作品。

火災警報器がけたたましく鳴っている
「三〇三号室で火災が発生しました」
「至急避難してください」
まだ朝刊さえ配達されない時間だ
避難どころか 眠たくて
起き上がることもできない
深夜の火事は安眠妨害だ

 この1連目だけを読むと、どこが「詩」なのか、わからない。--かもしれない。平田を読みつづけている読者なら、「平田節」ともいうべきことばに気がつくかもしれないけれど、初めて読む人には、最後の「深夜の火事は安眠妨害だ」は、まるで漫才のことばのように思えるかもしれない。
 その、漫才に見えるような「軽い」ことばのなかにひそんでいる「本音」、そういうことばの「出し方」が詩なのである。ことばそのものが詩というよりも、ことばの出し方が平田の場合、独特なのである。
 ほんとうは、そんなことを思ってはいけない。でも、ことばは、思ってはいけないことも思ってしまう。--こころが思うのではなく、ことばが思ってしまう。ことばが、こころをつくりかえてしまう。ことばによって、こころはつくりかえられてしまう。
 そこが、おもしろい。
 2連目。

三〇三は隣の隣
生意気そうな男が出入りするのを
何度か見かけた
生意気な男の 生意気な火事は
わたしの部屋も燃やすだろうか
椅子も タマゴも
燃えないゴミも
真っ黒に焼いてしまうのか
「三〇三号室で火災が発生しました」
「至急避難してください」
消防車のサイレンが近づいてきた
と思ったら
また遠くにいってしまった
違う建物の三〇三が
ぼうぼう燃えているのだろう

 「生意気な男」は「生ゴミ」だろうか。そうかもしれない。そんなことは書いていないのだけれど、きっと遠慮して書かないだけなんだろうなあ。
 だが、そんなことよりもおもしろいのは、「燃えないゴミも/真っ黒に焼いてしまうのか」だ。笑ってしまうなあ。そうか、「燃えないゴミ」は別に燃えないゴミではないね。燃えるのだけれど、「燃えないゴミ」と呼ぶ。それは「燃やさないゴミ」。燃やしてしまうにしろ、普通の「燃えるゴミ」とは違った火力で燃やすことになる。なんてことは、どうでよくて……。ようするに、火事は、対象を区別しない、何かを区別するのは人間だけだということだ。
 これも、現実がそうである、事実がそうである--というよりも、ことばが動いてつくりだす現実である。普通は、そういうことを人間は意識しない。だから、そこには、「ことば」は存在しない。
 存在しない「ことば」を書くことで存在させ、そして、それにあわせて「現実」をつくりだして行く。ことばによってつくり出された現実を見ながら、そういうことばをつくりだす平田の、「声の他人性」を私は感じる。
 この「声の他人性」がおもしろい。
 ことばというのは「共感」によって共有される。そのとき「他人」は「他人」ではなく、「まるで私」になるのだが、そういうことばとは別に、この人は私とは違う、絶対に違う何かで動いていると感じる人がいる。そういうことばがある。「他人」。「他人の声」「他人のことば」。
 そのひとと、一緒の人間になってしまうのは、ちょっと困るなあ。でも、そういう人っているなあ。--そして、こんなことを思うのは、もしかすると「私」もそういう人間でありうるからだ。
 「共感したくない」。共感してしまったら、なんというか、生活がうまくいかない。たとえば、火事を知らせる警報器に、眠たいから邪魔しないでくれ、といっていたら死んでしまうかもしれない。だから、共感はしたくない。けれど、どこかで共感してしまう。共感したくて共感するのではなく、共感したくないのだけれど、共感してしまう。「他人のまま」でいたいのに、なぜか、つながってしまう。
 そういう「他人の声」を平田は、平易なことばのなかに隠して書いている。この「他人の声」の形が、「他人の声」の出し方が、柏原寛と似通っているように感じられる。

 3、4連目にも平田独特のことばがある。

火災警報器は去年も鳴った
あのときも真夜中だった
「至急避難してください」と機械にいわれ
わたしは急いで逃げ出した
消防車がやってきた
野次馬たちも集まった
なのに火事はどこにもなかった
機械の誤作動だったのだ
一度嘘をついたら信用されない
避難を呼びかけても従う人は少ない

消防車はもうすぐくるだろう
三〇三は燃えているだろう
若い消防士が間違えて
わたしの部屋に放水するだろう
夢の中で起きたことは現実には起きない
火事と洪水の夢を見るため
わたしはもう一度眠りに落ちる

 「機械にいわれ」「なのに火事はどこにもなかった」「一度嘘をついたら信用されない」「夢の中で起きたことは現実には起きない」--そのことばに、私は「他人の声」を強く感じる。
 笑ってしまう。
 そして、「若い消防士」の「若い」に平田の願望を感じ、そこには、おっ、かわいいじゃないか、と思ってしまう。
 私は突然、「他人」になってしまう。--あ、この私の最後の感想。わかりにくいでしょ? わからないように書いているのです。はい。



私の赤くて柔らかな部分
平田 俊子
角川書店(角川グループパブリッシング)
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