崔龍源「父は --ありふれた比喩の唄」(「いのちの籠」31、2015年10月25日発行)
崔龍源「父は --ありふれた比喩の唄」の書き出し。
ここにはふたつの種類のことばがある。比喩のことばと、比喩ではないことば。比喩は「枯木」「貝」「石」。「のように」と「直喩」で語られている。
もうひとつは現実のことば。「植民地」「戦争」「異国」。あるいは「事実」のことばといえばいいのかもしれない。現実、事実というのは、「共有された認識」のことでもある。
「比喩」は「共有された認識」ではなく、「個人的認識」である。「共有」されていない。しかし、「共有」ということばをあえてつかって言い直すなら「共有してほしい認識(共有されたい認識)」である。
「個人的認識」であるために、他人とは共有できないものであるけれど、「比喩」を通ることで、「同じ何か」を共有する。
「枯木」は「震える」。「貝」は「口を閉ざす」。「石」は「転がる」。そのとき「共有する」のは「枯木」「貝」石」という「名詞」ではなく、「震える」「(口を)閉ざす」「転がる」という「動詞」である。
「枯木」「貝」「石」は、ひとそれぞれによって思い描くものが違う。けれど「震える」「閉ざす」「転がる」という「動詞」を「肉体」で確かめるとき、その「動詞」のなかで人間は「ひとつ」になる。
「比喩」は、「肉体」の「動き(動詞)」を導き出すための手がかりのようなものである。
「比喩」ではなく、「比喩」といっしょに動いている「動詞」を自分自身の「肉体」で確かめるとき、その「比喩」と対で語られる「事実」に向き合う準備ができるかもしれない。
「植民地時代」「戦争の日々」「異国の地(といっても、そこで暮らしている現在地)」という「事実/現実」のなかで、「肉体」が「震える」「口を閉ざす」「転がる」。これは、「震え」「口を閉ざし」「転がる」ことなしには、その「現実」のなかで生きてはいけないということである。
どうしてなのか。
これを「頭で学んだ歴史」で説明するのではなく、ここに書かれていることばを手がかりに私は考え直してみたい。
この三連は、「動詞」を中心に見ていくとき、そこにある「風景」が隠されていることに気がつく。
一連目。父は「震える」。植民地時代のことを「語る」とき。それは父が自分から「語る」のか。それとも崔が何かを問うたときに「語る」のか。きっと崔が問うたときに「語る」のだと思う。問わないかぎり、二連目のように、口を閉ざしているだろう。
二連目。反復になるが、父は「口を閉ざす」。何をしていたのかと問われたならば、それに対して答えるのがふつうである。しかし答えない。父の「肉体」のなかでは「ことば」が動いているだろうけれど、それを「ことば」にしない。「声」にしない。
一連目、二連目では父と崔が向き合っている。
ところが三連目では、父と崔が向き合っているにしても、その向き合い方が違う。「戦争の日々」ではなく「戦後の日々」かもしれないが、「何をしていたのか」と崔が問うたとき、父は「職業を転々とした」と答えた。しかし、この「転々とした」は、一連目の「震えた」、二連目の「口を閉ざした」と同じか。自分から「転々とした」のか。違う。「転々とさせられた」のである。そこには父を追い込んだ「他者」がいる。他者(日本人)が父を転々とさせたのである。
ではなく、
この「比喩」の形、動詞の「位置」の違いに、私は最初から気がつくべきだった。同じ「比喩」の形では言えないものが三連目にある。他者(日本人)がそうさせた。「使役」がある。
そして、そこから再び一連目、二連目に戻ってみる。そうすると「動詞」が違ってみえてくる。「震えた」のではなく「震えさせられている」のである。いまも、なお。二連目も「口を閉ざした」のではなく、「口を閉ざされている」のである。いまも、なお。「語ってはいけないことがある」のである。
「震える」「口を閉ざす」という「動詞」だけではなく、「震えさせられた/震えさせられている」「口を閉ざされた(閉ざすように強いられていた)/閉ざされている」という「動詞」をこそ、私たちは「共有」しなければならない。自分の「肉体」で思い出さなければならない。
他者によって、ある「動詞」を強いられる。そういう「体験」を崔の父のこととしてではなく、自分の「肉体」で感じないといけない。
それを感じたあとで、最後の二行三連を読むとき、私は、崔に対して何と言っていいのかわからなくなる。答えるためのことばをもたない。特に、安倍の戦前回帰を目指す一連の動きを思うとき、ことばを失う。安倍のやっていることはまちがっている、くらいしか言えない。こんなことばは、崔の前では無効ではあるのだけれど……。
泣いた、泣いている、泣かされた、泣かされているのは父だけではなく、崔も同じである。詩は父を主人公にして「過去形」の「動詞」で書かれているが、それを書く崔にとっては「過去形」ではなく「現在形」である。そして、その「現在形」は、そのまま私たちの「現在形」になり、「未来形」になる。
権力はいつでもいちばん影響を与えやすいところ(権力が横暴にふるまえるところ)から突き動かし、その動きを全体に広げていく。
*
谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。
なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。
崔龍源「父は --ありふれた比喩の唄」の書き出し。
父は枯木のように震えた
植民地時代のことを語るとき
父は貝のように口を閉ざした
戦争の日々 何をしていたかと問うたびに
父は転がる石のようだった
異国の地で 職業を転々として
ここにはふたつの種類のことばがある。比喩のことばと、比喩ではないことば。比喩は「枯木」「貝」「石」。「のように」と「直喩」で語られている。
もうひとつは現実のことば。「植民地」「戦争」「異国」。あるいは「事実」のことばといえばいいのかもしれない。現実、事実というのは、「共有された認識」のことでもある。
「比喩」は「共有された認識」ではなく、「個人的認識」である。「共有」されていない。しかし、「共有」ということばをあえてつかって言い直すなら「共有してほしい認識(共有されたい認識)」である。
「個人的認識」であるために、他人とは共有できないものであるけれど、「比喩」を通ることで、「同じ何か」を共有する。
「枯木」は「震える」。「貝」は「口を閉ざす」。「石」は「転がる」。そのとき「共有する」のは「枯木」「貝」石」という「名詞」ではなく、「震える」「(口を)閉ざす」「転がる」という「動詞」である。
「枯木」「貝」「石」は、ひとそれぞれによって思い描くものが違う。けれど「震える」「閉ざす」「転がる」という「動詞」を「肉体」で確かめるとき、その「動詞」のなかで人間は「ひとつ」になる。
「比喩」は、「肉体」の「動き(動詞)」を導き出すための手がかりのようなものである。
「比喩」ではなく、「比喩」といっしょに動いている「動詞」を自分自身の「肉体」で確かめるとき、その「比喩」と対で語られる「事実」に向き合う準備ができるかもしれない。
「植民地時代」「戦争の日々」「異国の地(といっても、そこで暮らしている現在地)」という「事実/現実」のなかで、「肉体」が「震える」「口を閉ざす」「転がる」。これは、「震え」「口を閉ざし」「転がる」ことなしには、その「現実」のなかで生きてはいけないということである。
どうしてなのか。
これを「頭で学んだ歴史」で説明するのではなく、ここに書かれていることばを手がかりに私は考え直してみたい。
この三連は、「動詞」を中心に見ていくとき、そこにある「風景」が隠されていることに気がつく。
一連目。父は「震える」。植民地時代のことを「語る」とき。それは父が自分から「語る」のか。それとも崔が何かを問うたときに「語る」のか。きっと崔が問うたときに「語る」のだと思う。問わないかぎり、二連目のように、口を閉ざしているだろう。
二連目。反復になるが、父は「口を閉ざす」。何をしていたのかと問われたならば、それに対して答えるのがふつうである。しかし答えない。父の「肉体」のなかでは「ことば」が動いているだろうけれど、それを「ことば」にしない。「声」にしない。
一連目、二連目では父と崔が向き合っている。
ところが三連目では、父と崔が向き合っているにしても、その向き合い方が違う。「戦争の日々」ではなく「戦後の日々」かもしれないが、「何をしていたのか」と崔が問うたとき、父は「職業を転々とした」と答えた。しかし、この「転々とした」は、一連目の「震えた」、二連目の「口を閉ざした」と同じか。自分から「転々とした」のか。違う。「転々とさせられた」のである。そこには父を追い込んだ「他者」がいる。他者(日本人)が父を転々とさせたのである。
父は石のように転がった
ではなく、
父は転がる石のようだった
この「比喩」の形、動詞の「位置」の違いに、私は最初から気がつくべきだった。同じ「比喩」の形では言えないものが三連目にある。他者(日本人)がそうさせた。「使役」がある。
そして、そこから再び一連目、二連目に戻ってみる。そうすると「動詞」が違ってみえてくる。「震えた」のではなく「震えさせられている」のである。いまも、なお。二連目も「口を閉ざした」のではなく、「口を閉ざされている」のである。いまも、なお。「語ってはいけないことがある」のである。
「震える」「口を閉ざす」という「動詞」だけではなく、「震えさせられた/震えさせられている」「口を閉ざされた(閉ざすように強いられていた)/閉ざされている」という「動詞」をこそ、私たちは「共有」しなければならない。自分の「肉体」で思い出さなければならない。
他者によって、ある「動詞」を強いられる。そういう「体験」を崔の父のこととしてではなく、自分の「肉体」で感じないといけない。
それを感じたあとで、最後の二行三連を読むとき、私は、崔に対して何と言っていいのかわからなくなる。答えるためのことばをもたない。特に、安倍の戦前回帰を目指す一連の動きを思うとき、ことばを失う。安倍のやっていることはまちがっている、くらいしか言えない。こんなことばは、崔の前では無効ではあるのだけれど……。
父は時々虫のように泣いた
分断された国の痛みを言うときに
ぼくは思う 父は朝鮮狼のように
生きたかったのかもしれないと
誇り高い民族の名をもて いつか
この国は詫びることさえ忘れるだろうから と
泣いた、泣いている、泣かされた、泣かされているのは父だけではなく、崔も同じである。詩は父を主人公にして「過去形」の「動詞」で書かれているが、それを書く崔にとっては「過去形」ではなく「現在形」である。そして、その「現在形」は、そのまま私たちの「現在形」になり、「未来形」になる。
権力はいつでもいちばん影響を与えやすいところ(権力が横暴にふるまえるところ)から突き動かし、その動きを全体に広げていく。
人間の種族―詩集 | |
崔竜源 | |
本多企画 |
*
谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。
なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。