詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

崔龍源「父は --ありふれた比喩の唄」

2015-11-30 10:44:47 | 詩(雑誌・同人誌)
崔龍源「父は --ありふれた比喩の唄」(「いのちの籠」31、2015年10月25日発行)

 崔龍源「父は --ありふれた比喩の唄」の書き出し。

父は枯木のように震えた
植民地時代のことを語るとき

父は貝のように口を閉ざした
戦争の日々 何をしていたかと問うたびに

父は転がる石のようだった
異国の地で 職業を転々として

 ここにはふたつの種類のことばがある。比喩のことばと、比喩ではないことば。比喩は「枯木」「貝」「石」。「のように」と「直喩」で語られている。
 もうひとつは現実のことば。「植民地」「戦争」「異国」。あるいは「事実」のことばといえばいいのかもしれない。現実、事実というのは、「共有された認識」のことでもある。
 「比喩」は「共有された認識」ではなく、「個人的認識」である。「共有」されていない。しかし、「共有」ということばをあえてつかって言い直すなら「共有してほしい認識(共有されたい認識)」である。
 「個人的認識」であるために、他人とは共有できないものであるけれど、「比喩」を通ることで、「同じ何か」を共有する。
 「枯木」は「震える」。「貝」は「口を閉ざす」。「石」は「転がる」。そのとき「共有する」のは「枯木」「貝」石」という「名詞」ではなく、「震える」「(口を)閉ざす」「転がる」という「動詞」である。
 「枯木」「貝」「石」は、ひとそれぞれによって思い描くものが違う。けれど「震える」「閉ざす」「転がる」という「動詞」を「肉体」で確かめるとき、その「動詞」のなかで人間は「ひとつ」になる。
 「比喩」は、「肉体」の「動き(動詞)」を導き出すための手がかりのようなものである。
 「比喩」ではなく、「比喩」といっしょに動いている「動詞」を自分自身の「肉体」で確かめるとき、その「比喩」と対で語られる「事実」に向き合う準備ができるかもしれない。
 「植民地時代」「戦争の日々」「異国の地(といっても、そこで暮らしている現在地)」という「事実/現実」のなかで、「肉体」が「震える」「口を閉ざす」「転がる」。これは、「震え」「口を閉ざし」「転がる」ことなしには、その「現実」のなかで生きてはいけないということである。
 どうしてなのか。
 これを「頭で学んだ歴史」で説明するのではなく、ここに書かれていることばを手がかりに私は考え直してみたい。
 この三連は、「動詞」を中心に見ていくとき、そこにある「風景」が隠されていることに気がつく。
 一連目。父は「震える」。植民地時代のことを「語る」とき。それは父が自分から「語る」のか。それとも崔が何かを問うたときに「語る」のか。きっと崔が問うたときに「語る」のだと思う。問わないかぎり、二連目のように、口を閉ざしているだろう。
 二連目。反復になるが、父は「口を閉ざす」。何をしていたのかと問われたならば、それに対して答えるのがふつうである。しかし答えない。父の「肉体」のなかでは「ことば」が動いているだろうけれど、それを「ことば」にしない。「声」にしない。
 一連目、二連目では父と崔が向き合っている。
 ところが三連目では、父と崔が向き合っているにしても、その向き合い方が違う。「戦争の日々」ではなく「戦後の日々」かもしれないが、「何をしていたのか」と崔が問うたとき、父は「職業を転々とした」と答えた。しかし、この「転々とした」は、一連目の「震えた」、二連目の「口を閉ざした」と同じか。自分から「転々とした」のか。違う。「転々とさせられた」のである。そこには父を追い込んだ「他者」がいる。他者(日本人)が父を転々とさせたのである。

父は石のように転がった

 ではなく、

父は転がる石のようだった

 この「比喩」の形、動詞の「位置」の違いに、私は最初から気がつくべきだった。同じ「比喩」の形では言えないものが三連目にある。他者(日本人)がそうさせた。「使役」がある。
 そして、そこから再び一連目、二連目に戻ってみる。そうすると「動詞」が違ってみえてくる。「震えた」のではなく「震えさせられている」のである。いまも、なお。二連目も「口を閉ざした」のではなく、「口を閉ざされている」のである。いまも、なお。「語ってはいけないことがある」のである。
 「震える」「口を閉ざす」という「動詞」だけではなく、「震えさせられた/震えさせられている」「口を閉ざされた(閉ざすように強いられていた)/閉ざされている」という「動詞」をこそ、私たちは「共有」しなければならない。自分の「肉体」で思い出さなければならない。
 他者によって、ある「動詞」を強いられる。そういう「体験」を崔の父のこととしてではなく、自分の「肉体」で感じないといけない。
 それを感じたあとで、最後の二行三連を読むとき、私は、崔に対して何と言っていいのかわからなくなる。答えるためのことばをもたない。特に、安倍の戦前回帰を目指す一連の動きを思うとき、ことばを失う。安倍のやっていることはまちがっている、くらいしか言えない。こんなことばは、崔の前では無効ではあるのだけれど……。

父は時々虫のように泣いた
分断された国の痛みを言うときに

ぼくは思う 父は朝鮮狼のように
生きたかったのかもしれないと

誇り高い民族の名をもて いつか
この国は詫びることさえ忘れるだろうから と

 泣いた、泣いている、泣かされた、泣かされているのは父だけではなく、崔も同じである。詩は父を主人公にして「過去形」の「動詞」で書かれているが、それを書く崔にとっては「過去形」ではなく「現在形」である。そして、その「現在形」は、そのまま私たちの「現在形」になり、「未来形」になる。
 権力はいつでもいちばん影響を与えやすいところ(権力が横暴にふるまえるところ)から突き動かし、その動きを全体に広げていく。
人間の種族―詩集
崔竜源
本多企画

*

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サム・メンデス監督「007 スペクター」(★★)

2015-11-30 00:27:07 | 映画
監督 サム・メンデス 出演 ダニエル・クレイグ、クリストフ・ワルツ、レア・セドゥー

 前作「スカイフォール」の方がよかった。と、書いたら、もう書くことがなくなってしまった。
 前作では、ダニエル・クレイグのスーツを着たままのアクションがすばらしかった。服というものは何を着ていても肉体の動きを拘束する。邪魔をする。それなのに、何の不便も感じさせない。まるで何も着ていないみたい。つまり、服を着ているときが「裸」みたいなのである。
 これは今回も同じだが、うーん、見飽きてしまった。
 最初は驚くけれど、「色気」に欠ける。「スカイフォール」のときと、隠しているはずの「肉体」が丸見えという感じがして、それが予想外だったために「色気」になりえていたが、二度目だと、そういう「意外性」がない。「色気」というのは、隠しているから「色気」。前面に出してしまうと、何だろう、あ、「臭み」だ。
 ダニエル・クレイグは「男臭い」だけで、その「臭み」が鼻につく。
 ショーン・コネリーと比較してもしようがないから、クリストフ・ワルツと比べてみようかな。
 クリストフ・ワルツは基本的に動かない。最初に登場するシーン。会議している部屋に入ってきて椅子に座る。逆光でシルエットしか見えない。シルエットというのは不思議なもので、そこに動きがあるはずなのに、その動きが「立体的」にならない。で、そのときに気がつくのだが、私たちはアクションを見ているとき、「肉体」を立体的に見ている。「肉体」が前後左右に動いているという「立体感」ではなく、その「肉体」そのもののなかで、つまり「肉体の内部」で筋肉や骨が絡み合って「立体的」に動いているのを目で見ているのだと思う。これがシルエットになると、「肉体の内部」が見えない。
 で、ここからが大切。
 「見えない」と、見たくなる。つまり「見える」部分に目が集中して、そこから「見えない」ものまで、想像してしまう。クリストフ・ワルツの目がちらりと動く。そうすると、そういうちらりと見るときの「肉体」の内部が観客の「肉体」に響いてくる。ちらりと見るとき、そのひとが「何を思っているか」ということまで、想像してしまう。「何を思っているか」ということは、わからないのだが、「何かを思っている」ということが伝わってきて、ぞくっとする。
 これがきっと「色気」というものだな。
 で、これがダニエル・クレイグの「拷問」のときに、色めき立つ。
 ダニエル・クレイグは椅子に拘束されていて身動きがとれない。一方、クリストフ・ワルツは自在に動けるのだが。その不自由と自由の関係が、なんとも「いやらしさ」をそそる。
 動けないダニエル・クレイグの「肉体」の内部で「痛み」が動く。「肉体」そのものが動く。クリストフ・ワルツの内部では「憎しみ」という感情は動くが、「肉体」は動かない。拷問も、クリストフ・ワルツの「肉体」が動くのではなく、機械が動く。クリストフ・ワルツの「肉体」はダニエル・クレイグの「肉体」には触れずに、暴力的になる。「肉体」に触れないからこそ、その反応が「肉体」にはねかえってこないので、より暴力的に、残忍になる。
 動かない「肉体」が隠している「残忍」な力が、妙に色っぽい。
 この「拷問」を、どうやって切り抜けるか。
 ダニエル・クレイグは、わずかに自由に動かせる手(指)を動かす。「肉体」を動かす。クリストフ・ワルツのように「憎しみ」を動かさない。ダニエル・クレイグは「感情」ではなく、記憶を動かし、知恵を動かす。自分の「肉体」を「知性」でコントロールする。「知性」には生々しさがない。
 だから、というのは変かもしれないが。
 針(ドリル)で顔に穴をあけられるときは、何かぞくっとしてしまうが、この時計をつかって危機を切り抜けるシーンでは、そのぞくっという「肉体」感覚は消える。
 つまり「共感」が消える。
 そして「共感」してはいけないはずの、クリストフ・ワルツの方に「共感」してしまう。ほら、ちゃんと見ていないから(身動きできないと安心しているから)反撃されてしまうじゃないか、何やってるんだ、と怒りたい気持ちになる。ばかだなあ、詰めが甘いんだよ、だから「負け組」になってしまうんだよ、と言いたくなる。
 そこで、ちょっと「同情」。
 この「同情」のなかに「色気」のようなものがまじるかも。それは、この「拷問」のシーンのつづきで、クリストフ・ワルツが顔に傷を負って出てきたときにも感じるなあ。うわっ、醜い。目の色が変わって、気持ち悪い。でも、その気持ち悪さに、ぞくっと感じてしまう。
 「色気」というのは、何か「理性」を離れた不合理なものなのだと思う。脈絡がよくわからないから妄想する。瞬間的な「エクスタシー(自己からの逸脱)」なんだろうなあ。
 で。
 「色気」ついでに脱線してしまうと、ダニエル・クレイグは二度セックスシーンを演じている。これが、なんとも「色気」がない。セックスシーンといっても、キスシーンと言い換えた方がいいくらいで、実際には裸の絡みはない。しかし「色気」がないのは裸が絡み合わないからではなく、セックスするとき「肉体」のなかで何が動いているか、感情や欲望がどう「立体的」に動いているかを想像させないからだ。
 性器と性器が結合するというのがセックスだというのでは、男根主義。「男臭い」だけ。そんなものはショーン・コネリーが演じていた時代でも「色気」ではなかった。
 あーあ、つまんない。
 でも、それは映画をつくっている側にもわかっているのかな?
 ラストシーン、ダニエル・クレイグがレア・セドゥーを抱きしめて終わる。センチメンタルに終わる。これがショーン・コネリーだったら、見られているのを承知で、熱いキスをみせびらかす。女は見られていることを忘れてキスに夢中になっている。その男と女の違いが、これからはじまるセックスを濃厚に感じさせる。男(ショーン・コネリー)が女の官能をリーとしていくという「自信」が、「色気」としてにおいたってくる。そういうことがダニエル・クレイグの「肉体」まるだしのアクションのあとでは無理とわかっていて、「肉体」を封じる形でセンチメンタルにとどめている。
 しかし、まあ、どうでもいいな。こういうことは。
                   (天神東宝スクリーン1、2015年11月29日)






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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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清岳こう『九十九風』

2015-11-29 09:33:49 | 詩集
清岳こう『九十九風』(思潮社、2015年10月15日発行)

 清岳こう『九十九風』には、詩を書きたい女と、詩を書く女を好まない男が出てくる。その「家庭争議」がテーマ。
 「正論」という作品。

阿蘇のまつぼり風
ためにためこんだ寒気烈風の勢いで言ってしまった
この半世紀
「私の文学」の足引っぱりばかりして

春風駘蕩
男はあわてず騒がずのたもうた
この半世紀
俺のおかげで「文学的生活」ができたんちゃうか

ものは言いよう
四角い豆腐も丸くなる
男は関西弁のやわらかさで
女房一揆をするりとかわし
何事もなかったように
どこかへ出掛けて行った

 「現代詩講座@リードカフェ」なら、私は受講者に「どこがおもしろかった?」と訪ねる。そうすると……。「女と男のやりとりが、手に取るようにわかる」「身につまされる」「我が家でも文学をわかってくれない」というような反応があるかもしれないなあ。
 「阿蘇のまつぼり風と春風駘蕩の対比がいい」という声も聞かれそう。そこから詩に踏み込んで行って、「一連目と二連目が、くっきりと対比になっている。言っていることは正反対のこと。そのなかで、この半世紀ということばが共通していて、それが女と男の違いを際立たせる効果を上げている」という発言につながるかもしれない。
 しかし、その場合でも、「表現」よりも「事実」の方を見てしまいがちになる。どう書かれているかよりも、女と男が「文学」をめぐって言い争いをして、男が出て行ったという「事実」への感想が動き回るだろうと思う。
 それはそれで楽しいのだが……。
 では、どこが詩? お茶をのみながら聞いた打ち明け話とどこが違う?
 たしかに「阿蘇のまつぼり風と春風駘蕩の対比」というのようなことが、詩なのかもしれない。でも、私は、そういう部分はあまりにも「かっちり」と詩になりすぎていて、おもしろいとは感じない。
 私がおもしろいと思ったのは、

ものは言いよう
四角い豆腐も丸くなる

 この二行。
 この二行がないと、この詩は四行ずつの三連でつくられたすっきりした形になる。一連目、女が主張する。二連目、男が反論する。三連目、衝突の結果男が出て行く。弁証法の運動が「事実」としてすっきりわかる。
 この二行はなくても、「事実」がわかる。
 なぜ、この二行を書いたのかなあ、ということろに私の関心は動いていき、その瞬間に、ここがおもしろいなあと感じるのである。
 なぜ、書いたんだろう。定型を破ってまで、何が言いたかったのだろう。
 「ものは言いよう」が言いたかったのだろうと思う。「四角い豆腐も丸くなる」は「ものの言いよう」によって「世界」がかわるという例なのだが、実際に「世界」がかわってしまうわけではない。「事実」は「事実」として同じままだ。「表現」が「事実」を離れて、「別の世界」をつくってしまう。そして、その「世界」は「ことば(表現)」のなかだけなのに、人間はなぜがその「表現された世界」に引きずり回されてしまう。
 「表現」しないと自分にとっての「事実」が、他人の「表現」のなかに組み込まれ、その結果「自分」というもののあり方が消えてしまう。だから、みんな「自分の表現」の方に相手を引っぱってこようとする。あるいは「自分の表現」を相手に押しつけようとする。
 一連目、二連目は、そういう女と男の運動だね。
 そういうことを「ものは言いよう」ということばで、清岳は言い直している。言い直さざるえなかった。「言いよう」こそが詩であると、自分自身に言い聞かせている。そこに何と言えばいいのか、あきらめきれないもの、執念のようなものが強く溢れ出ている。清岳は「言う」という「動詞」で自分をつかみなおしているんだな、ということが、ここでよくわかる。

 詩集の最後の「茗荷」という詩。

やわらかな花びらを広げ
木下闇にあわあわと灯をともし

食べすぎると物忘れをするとか
酢味噌サラダ 糠漬け 吸い物

たくさん食べて なにもかも忘れる冥加
たくさん食べても 詩のきれぎれだけは忘れない冥加

 忘れても忘れても、忘れられないことがある。それは、清岳にとっては「言う」ということ。「言う」ということが詩であり、「冥加」。「言う」かぎり、生きている、という実感が清岳にあり、それがこの詩集のことばとなっている。

九十九風
清岳こう
思潮社
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谷川俊太郎「魂の森へ」

2015-11-28 10:13:34 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「魂の森へ」(「午前」8、2015年10月15日発行)

 詩と散文はどこが違うか。谷川俊太郎の『詩に就いて』について書いたとき、書き漏らしたことがある。いや、あ、あのときこう書けばよかったのかな、と思うことがある。そのことについて書く。
 谷川は「未生」ということばをしばしばつかう。そのことばを借りて言えば「未生のことば」を「ことば」にするのが詩であり、「未生の論理」を「論理」にするのが散文である。「ことばにする」「論理にする」は「ことばになる」「論理になる」と言い換えることもできると思う。
 いままで知らなかったことばが目の前にあらわれるとき、それが詩。
 いままで知らなかった論理が目の前にあらわれるとき、それが散文。
 しかし、「いままで知らなかったことばが目の前にあらわれるとき、それが詩」といっても、その「ことば」はすでに存在していることばだから、「知らなかった」というのは、別なことばで言い直さないといけないかもしれない。
 「いままで知らなかった論理が目の前にあらわれるとき、それが散文」というのも「知らなかった」は、それに出合うまでひとが「知らない」だけで、すでに存在していただろうから、これも言い直す必要がある。
 詩のことばは、「いままで知らなかったことばがあらわれる」というよりも、「いままで知っていた論理を否定してことばが動く」ということかもしれない。「論理」を失って、どこにも属さないことばとなって、ぱっとあらわれ、出合った瞬間に「びっくり」してしまうことば、「不安」を感じさせることばかもしれない。そこには「運動」がなく、ただ「存在」がある。「ことば」が「存在」として、それを支えてくれる「運動」を待っているような「ことば」。「運動」、ことばをどうつないで受け止めるかは、読んだひとの「肉体」に任されている。--それが詩。
 散文のことばは、「ほんとうはすでに存在しているのだが、ふつうのことばの運動では見過ごされていた運動(「もの/こと」と「もの/こと」との関係を動かす力)をあきらかにしたことば」ということかもしれない。ことばがどんうなふうにして「動く」ことができるかを、いままで隠れていた動きにエネルギーを与え、動かすもののように思える。
 こんな抽象的なことを書いていてもしようがないので……。
 「魂の森へ」を読んで感じたことを書く。

どんどん遠ざかるあの人は誰?
打ち棄てられた農地をひとり
どんな目当てがあるのか
決心したように歩いてゆく

怒っているのが泣いているのか
遠ざかるあの人は誰
知らない人 縁のない人
もうすぐ声が届かなくなる

 この一、二連目は「詩」か。私の感覚では「詩」ではない。「未生のことば」という印象がない。誰かが農地を遠ざかっていくという「描写」なのだが、そこでは「遠ざかる」という「運動/動詞」にすべてのことばが緊密につながり、そこには「論理」がある。「遠ざかる」ので「誰」かますますわからなくなる。近づいてくるなら「顔」がわかり、「誰それである」と言えるかもしれないが、そうではない。そして「遠ざかる」から「ひと」であることがさらにはっきりする。「遠ざかる」から「怒っているのか泣いているのか」もわからなくなる。「遠ざかる」につれて、だんだん「関係」が「わからなくなる」。つまり、「知らない人/縁のない人」に見えてくるし、「声も届かなくなる」。
 ここには「明確」な「論理」がある。「遠ざかる」という運動に合致した「論理」がある。それは私たちがなじみの「論理」である。新しい「論理」ではないから、「散文的」ではあるけれど、このことばの運動は「散文」と定義するほどのものでもない。新しい「論理」も生み出されていない。ごくふつうの「散文的」なことばであるとしか言えない。
 しかし、次の連(四行)はどうか。

空も海も丘も野原も
とうに宇宙に投げ出されている
時たまの虹の偽善に惑い
オーロラの色気に酔い痴れたが

 特に、「空も海も丘も野原も/とうに宇宙に投げ出されている」、この二行に私は驚いてしまう。「投げ出されている」という「動詞」のつかい方に驚いてしまう。
 「投げ出されている」は、たとえば「本とノート、鉛筆が広いテーブルの上に投げ出されている」という具合につかう。「場所」があって「もの」が散らばっている。それが「投げ出されている」だろう。
 そういう「動詞」のつかい方(動詞とものとの論理のありかた)にしたがえば、「宇宙に投げ出されている」ものは、「星(地球)」や「人工衛星」くらいのものであろう。「宇宙」と「空」はほとんど同義とも言える。「宇宙」に「空が投げ出されている」というのは、「非論理的」である。「論理」を無視した言い方、「論理」をたたき壊す言い方である。
 「海」「丘」「野原」は「地球」の一部の名称であり、それがそれぞれ別個に「宇宙」に「投げ出されている」というのも、とても変である。「地球」が「宇宙に投げ出されている」という言い方ならありうるが、その「地球」の一部(その部分)がばらばらに「投げ出される」ということは、「非論理的」である。
 で、それが「非論理的」であるからこそ、そのことばの動きが詩なのである。
 空、海、丘、野原が「宇宙に投げ出されている」ということはあり得ない。「空」「海」「丘」「野原」も「宇宙」も「投げ出されている」もすでに存在していることばだが、谷川がそう書いた瞬間に、そのことばが持っているはずの「論理(なじみのあるつながり)」が叩ききられて、「ことば」だけになっている。
 日常的な「論理」から解き放たれて「ことば」として、そこで、こんなふうに存在することができる、とそれぞれの「ことば」が主張している。この無責任な(?)、ナンセンスな感じが詩なのだ。
 それにつづく「虹の偽善」「オーロラの色気」云々の二行は、「空も……」の二行のバリエーションのようなもの。この二行の前には「あの人も宇宙に投げ出されてている」、あるいは「人間も宇宙に投げ出されている」が省略されている。「惑う」「酔い痴れる」という「動詞」の「主語」は「あの人」「人間」である。また「あの人」を見ている「私(谷川)、「あの人」を書いている「私(谷川)」と考えることもできる。そして、それが誰であれ「人間」が「主語」であるから、そのことばは「人間の心象/体験」を描いているということができる。「人間の心象/体験」だからこそ、その「主語」は「あの人/人間/谷川」となって重なってしまう。そこに「読者」も飲み込まれていく。
 この二行は私は好きではないし、そこに書かれている「動詞」のあり方も「投げ出されている」ほどの単純な強さを感じないので、あとは省略。

 突然のナンセンス(無意味)としての「ことば」を書いたあと、作品は次のように閉じられる。

誰なんだ 遠ざかるあの人は
私たちに目もくれずひとり
言葉にも音楽にも見放されて
魂の暗い森へ向かっている

 「魂」というものを私は見たことがないし、触ったこともないので、それが存在するとは考えたことがないので、私の読み方は谷川の書こうとしていることからずれてしまうしかないのだが、「魂」をわきに置いておいて、考えたことの続きを書く。
 この最終連で「遠ざかる」という「動詞」が復活している。
 「見放されて」というのは「遠ざかる」を言い直したものである。「言葉」「音楽」が「あの人」を見放したがどうかは判断のしようがないが、「遠ざかる」ということは「関係がなくなる」ということだから、「見放される」ということ類似している。「遠ざかる」と「見放す」は「動詞」の「主体」、つまり「主語」が違うが、その「動詞」によって生まれる「関係」は類似している。ひとつの関係(疎遠になるという関係)を別の角度から、違う動詞で言い直したものである。
 で、そのとき、そこに「暗い」という形容詞が出てくる。この「暗い」は形容詞であるが、概念の比喩のように感じられる。どんな「関係」も届かない「暗い」部分。「関係」があるというのは、関係の両端(?)の存在がそれぞれ「見える」こと、つまり「明るい」ところにそれぞれがいることを語る。「暗い」と「見えない」。
 その「暗い」は、実は「遠ざかる/見放す」が導き出した「結論」のようなものである。そして、それはどちらかというと、いままでも語られてきた「結論」である。特に新しい「論理」ではない。
 つまり、そこに書かれていることは「論理的」な帰結ではあるけれど、「散文」ではない。いくらか見なれた「抒情」である。で、その印象が、この作品を「抒情詩」のように感じさせる。

 と、ここまで書いて、私は三連目に戻る。
 あの「空も海も丘も野原も/とうに宇宙に投げ出されている」という二行こそが、この詩のハイライト。そして、それがハイライトであるのは、ことばが「論理」から開放されて、ただことばとしてそこにあるからだ、ともう一度繰り返して、きょうの日記を終わる。

詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

*

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吉田文憲「残されて」

2015-11-27 10:10:39 | 詩(雑誌・同人誌)
吉田文憲「残されて」(「午前」8、2015年10月15日発行)

 詩を読みながら、私は詩の読者としては失格だなあ、と思う。一篇の作品として何が書いてあるかということ、「意味」を考えることがない。一篇の「意味」に興味がない。一篇の「意味」よりも、ことばの動きそのものが気になる。気に入ったり、気に食わなかったりする。そして、気に入ったことだけを書く。というのは、嘘で、気に食わないことを書きはじめると、これが止まらなくなる、ということがある。
 きょうは、どうなるか。
 吉田文憲「残されて」は書き出しがとても気に入った。「わかりたい」という気持ちになった、ということである。「わからない」。だけれど、そこに刺戟的なものがあり、それを「わかりたい」。つまり「誤読」したい。私の「肉体」を吉田のことばに重ねてみたい。

影の分子と光の分子が混じり合いついで逆流しまた分離しながらそれぞれのあるべき
場所に収まっている。それがこの詩の「はじまり」なのだ。

 何が書いてあるのか、具体的なことは、わからない。だいたい詩の一行目を書いておいて、「それがこの詩の「はじまり」なのだ。」とは何事だろう。そんな説明をされなくたって、「残されて」という詩は、はじまっている。
 何かおかしい。何か、変。
 で、読み直すのだが。
 「影の分子と光の分子……」というのは、実際の「状況(風景/光景)」、あるいは「こと」というものではなく、それを「説明」したものである。「それがこの詩の「はじまり」なのだ。」と吉田は書いているが、「はじまり」は「影の分子と光の分子……」よりも前に起きている。その起きている「こと」を言い直すと「影の分子と光の分子……」ということになる。
 つまり、「詩」とは「言い直し」なのである。
 これは変に見えるかもしれない。変に感じられるかもしれない。しかし、考えてみれば、そうなのである。
 何か「こと」が起きる。あるいは「もの」がある。それはことば以前である。ことばがなくても「こと」は起きるし、「もの」は存在する。それを「ことば」でとらえなおすとき、詩が生まれる。(あるいは文学が生まれる。)「ことば」は「こと/もの」を「こと/もの」以外のもので「言い直す」ためのものである。そして「言い直したことば」が詩。
 「言い直す」という「言い回し」のために、奇妙な混乱をまねいてしまうのだが、これを「絵」と「色(形)」で把握し直すとわかりやすくなるかもしれない。
 リンゴがある。それを「色」と「形」でとらえ直すと「絵」になる。この「とらえ直す」を「ことば」の場合に置き換えると、「言い直す」になる。もちろん、「とらえ直す」でもいいのだが、「ことば」が主語だから、そこに「言う」という動詞が自然に入り込み、「言い直す」という表現になる。
 初めてのことであっても「言い直す」になってしまう。
 だから、ややこしくなるのだが、この「ややこしさ」を解消するために、「言い直す」ではなく「とらえ直す」と言い換えてしまうと、状況が整理されすぎて、おもしろくなくなる。
 何かめんどうくさい、何かややこしい、という感じのときの方が、「頭」ではなく「肉体」が動いていて、なまなましい。
 「言い直す」というとき、「口」が動く。「とらえ直す」というとき、「手」が動く。「ことば」は「手」で動かすものではないから、「とらえ直す」では、「動詞」が「比喩」なってしまう。そしてその「比喩」は「頭」のなかで「もの/こと」を抽象的に整理してしまう。それがおもしろくなくなる原因である。「言い直す」は「言う」という動詞のために「比喩」になりきれずに「肉体」を刺戟してくる。その刺戟が「わかる」という感じになる。
 あ、これは、私の場合であって、ひとによっては、「頭」できちんと整理された「抽象」(概念)が「わかりやすい」、そして「正しい」と思うかもしれない。

 脱線した。
 いや、断線はしていないが、どんどん遠ざかっているのか。

 詩に戻る。
 「影の分子と光の分子……」が、何か、そのことば以前のものを説明しているのとしたら、何を説明しているのか。
 それが次の部分だ。

声が触れうるものを越えたところで、君は倒れた。這いずりまわった泥と草が、その
せつな君に一瞬の陶酔をもたらした。それから呼吸が穏やかになった。あえいでいた
あなたかもしれない。

 どうやら「君は倒れた」らしい。倒れて、泥と草の上を転がった。「声が触れうるものを越えたところで」というのは、「あっ」と叫ぶ間もなく、倒れた、ということだろう。倒れて、「這いずりまわった」。そして、倒れたとき、「一瞬の陶酔」を感じた。頭を打って、一瞬、意識を失いかけた。それが「陶酔」。
 この「陶酔」を「言い直し」ているのが、「影の分子と光の分子……」という文なのだ。「意識の喪失/陶酔」の瞬間は「光と影」の見分けがつかない。「混じり合い」はふたつのもの(影と光)が同じ方向に動いているからではなく、ぶつかるように動くから「混じりあう」。そのとき一方は他方からみれば「逆流」ということになる。それは「混じり合い」のあと、「分離」する。「陶酔」から覚醒し、「光」は「光」として、「影」は「影」として見えるようになり、「形」があらわれる。
 「倒れた」ということに気がついたとき「泥と草」が見えた。転がったあとが「這いずりまわった」あととして見えてきた。
 それから呼吸をととのえる。「呼吸が穏やかになった」。
 このことを、吉田は、さらに言い直している。

頭上を雨雲が通り過ぎた。傍らに横倒しになった自転車の車輪が見えた。

 そうか、自転車に乗っていて、転んだのだ、ということがここにきてわかる。
 吉田の描写は、ことばが「逆流」して、「意識」から「事件(事実)」へと引き返していく。ことばは一般的に具象(もの/こと)から抽象(意識/意味)へと進むのだが、吉田は逆の方向へことばを動かしている。この動きが新鮮でおもしろい。
 で、ここで、いったん詩(ことば)はほんうとに「はじまり」にもどり、詩のなかの主人公(?)は自転車に乗っていたけれど、倒れて、転んで、気を失いかけたのだけれど、いまは倒れたということを意識しているのが「わかる」のだが、
 その「わかる」は違うかもしれない。
 とても変な文が、その「わかる」のあいだに挟まっている。

あえいでいたあなたかもしれない。

 自転車で倒れた人を吉田は「君」と読んでいた。その「君」が「あなた」になっている。「人称」が変わっている。これは何なのだろう。
 だいたい倒れたのが「話者(吉田と仮定しておく)」なら、「君に一瞬の陶酔をもたらした」ではなく「私に」、あるいは「ぼくに」一瞬の陶酔をもたらした、となるはずである。「君」は「私/ぼく」を客観化して描写するための「呼称」なのか。
 でも、それをさらに「あなた」と「言い直す」のはなぜか。
 ことばは、ここから、いままでとは違う方向へ動きはじめている感じがする。
 詩はつづいていく。

皺寄った皮膚のくぼみにいなくなった馬の瞳が動いている。そこにもの言えぬ口を運
んでいた。

それから立ちあがり降りそそぐ雨のなかを足を引きずりながら帰ってきた。

泣いていたのはわたしかもしれない。

あえいでいたのはあなたかもしれない。

 「君」は完全に消えて、「わたし」と「あなた」が交錯する。見分けがつかなくなる。この「交錯」に「自転車」と「馬」が交錯する。誰かが自転車で倒れた。誰かが馬から落ちて倒れた。誰かが「泣いた」。誰かが「あえいだ」。
 それは「影の分子」と「光の分子」のように「混じり合い」区別がつかない。区別がつかないが、それは区別をする必要がないからだ。「わたし」が自転車で倒れたとき、その痛みを「あなた」は「共有」した。共有することで「わたし」と「あなた」は「ひとり」になる。「あなた」が馬から落ちて倒れたとき、その苦しみを「わたし」が共有した。共有することで「ひとり」になった。
 互いの痛みを自分の痛みとして感じることができる「過去」があった。
 それを、いま、思い出している。「肉体」が思い出している。
 「わたし」が自転車で倒れたとき、「わたし」は「あなた」が馬から落ちて倒れたときの痛み、そのときに見た世界がこんなものだったろうかと、「肉体」で追体験したことになる。いま「追体験」しているということを、ことばで「言い直す」。そのとき、「いま/ここ」に「あなた」がいない、「あなた」の記憶が残されている、あるいは「わたし」の「肉体」が「あなた」から切り離されて「いま/ここに」残されているということが、強く実感として押し寄せてくる。

それがこの詩の「はじまり」なのだ。

 「残されている肉体」を「ことば」で「言い直す」。単に自転車で倒れたという「こと」だけではなく、それを「残されている肉体」のこととして「言い直す」。そうすると、それが抒情詩になる。
 ということを書いた「メタ詩」なのだろう。

 この詩は、さらに大きな空白を挟んで、別の連を持っているのだが、その部分にまでことばを動かしてみるのは、かなりめんどうくさい。
 前半部分のことばの運動がおもしろかったので、それだけで私は満足してしまった。吉田がほんとうに書きたいことが後半にあるのかもしれないけれど、私が読みたいのは前半だから、その前半だけについての感想にした。
生誕
吉田 文憲
思潮社
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作田教子「私刑」

2015-11-26 10:10:17 | 詩(雑誌・同人誌)
作田教子「私刑」(「イリプスⅡ」17、2015年11月10日)

 作田教子「私刑」は、同じことばが違った意味につかわれているので、複雑である。「違う」といっても、「同じことば」なので、どこかが「同じ」ということが複雑なのである。
 その二連目。

土地は雨を受け止め 発芽していく
わたしという実体のない虚の双葉が
芽を出し 根を張っていくさまを
奇妙な幻の投影のように わたしが視ている
ここに定住するはずのない魂が
葉脈の筋となって浮きあがり水を欲している

 二行目の「わたし」と四行目の「わたし」は「同じことば」だが、指し示しているものが「違う」。二行目の「わたし」には「実体」がない。この実体がないを「虚」と作田は言い直している。さらに四行目で「奇妙な幻の投影」と言い直している。「実体がない=虚=幻」が「二行目のわたし」である。それを見ている「四行目のわたし」は「実体がある=実=現実」ということになるだろう。
 このとき五行目の「魂」は「二行目のわたし」なのか「四行目のわたし」なのか。これは、むずかしい。私は「魂」というものの存在を信じていない(見たことがない/触ったことがない/ことばでしか知らない)ので、ここで、完全につまずいてしまうのだが「定住するはずのない」ということばの「ない」に注目して、「二行目のわたし」と考えた。「定住するはずがない」の「ない」は「実体がない」の「ない」と同じ使い方だからである。ただし、その「実体がない」には「魂」という、どちらかというと「肯定的」なニュアンスでつかわれる「呼称」が与えられているので、それは「虚/幻」というよりも「理想」に近いかもしれないなあ。
 現実に存在するわたし(四行目のわたし)が、現実には存在しないわたし(二行目のわたし)を見ている。「発芽/双葉」という「比喩」、さらに「葉脈の筋となって浮きあがり水を欲している」という運動、「なる」「浮きあがる」「欲する」という「動詞」をとおして、現実に引き寄せている。
 この「実体のないもの/こと」と「現実」の交錯(?)を何と言うか。「かなしみ」ということばで、作田は言い直している。それが次の連。

雨が降り続いた夜明け
(かなしい夢をみた)という記憶だけが
身体に残されたまま目覚める
夢の実体がないのにかなしみに占領される
大地は雨を受け止めているのに
なぜこんなにもかなしいのだろう

 二連目の「土地は雨を受け止め」が、三連目で「雨が降り続いた」と言い直されているように、三連目は全体として二連目の言い直しである。「実体がない」「実体のない」ということばの繰り返しが、ふたつの連のことばを通い合わせる。
 「実体のないわたし」は「かなしい夢」の「かなしい」である。

(かなしい夢をみた)という記憶だけが
身体に残されたまま目覚める
夢の実体がないのにかなしみに占領される

 という三行の読み方は、むずかしい。「身体」は一般的に「現実」である。しかし「身体」が「実体/現実」であるとしても、そこにつながる「残された」という動きは「実体」のあるものなのか。「記憶がある」というときの「ある」は「実体」なのか。
 「夢」は「幻」と相性がいい。「夢幻」ということばがあるくらいだから、ふたつは「同じもの」と考えてもいいかもしれない。「幻」は「虚」であったから「夢=幻=虚=実体がない」。しかし「かなしみ」は「実体/実感」である。それは「記憶」と書かれているが、「実感」であり、その「実感」が「実体」である「身体」に「残っている」。「夢」がどんなものであったか語ることができないのに、「かなしみ」であることだけは「わかる」。「残っている」だけではなく「かなしみ」が「身体」を「占領している」(本文は「される」と受け身の形でかかれている。つまり「身体が、かなしみに占領される」と。)
 この「かなしみ」と「わかる」の結びつき、「身体」の「実感」が二連目四行目の「わたし」である。「かなしみに占領され」て「かなしみ」になってしまっている「わたし」。「わたし」と「かなしみ」は「違うことば」なのに「おなじもの」になっている。
 この二連のことばの動きは「同じことば」が「違う」を浮かび上がらせ、「違うことば」が「同じ」へと変化していく。この運動が、このまま、ことばが粘着力をもったままさらに繰り返され、「同じ」と「違う」を豊かにしていくととてもおもしろいと思う。後半は「ふるさと」というセンチメンタルなことばが出てきて、前半のおもしろさを壊してしまっている。センチメンタルなことばは「かなしい/かなしみ」だけにしておいたほうが「実体のない/実体がない」が「身体」に強く響いたと思う。

(ふるさと)の記憶が薄れていく
生まれた夜明けには波の音がしていた
どこにも海のない(ふるさと)なのに

 海が「ない」のに「波の音がしていた(波の音がある)」、その「ない(虚)」と「ある(実)」から、「ふるさと(実)」を「虚」として感じさせる。そしてその「虚」にセンチメンタルを結晶化させるというのは、「抒情詩」としては美しいけれど、ことばの運動(詩の書き方)としては、「技巧」にしか感じられない。「身体」がどこかへ消えてしまった。


詩集 地鏡
作田 教子
書肆侃侃房

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。

なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

支払方法は、発送の際お知らせします。
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さざん花/異聞

2015-11-26 01:11:30 | 
さざん花/異聞

本のなかで、さざん花が雨にぬれて、しだいに荒れていく。古い家の生け垣の花だが、家の持ち主が死んで以来、まわりの木々もまた死んだものとみなされて、何の手入れもされていない。蜘蛛が破れ目のない巣を広げているのと対照的である。

本のなかの、さざん花の描写には魅惑的なところがある。衰えていくのに、咲き始めるときよりも強い力をもっている、という説明の後に「桃色の花びらの縁が金色に錆びる」とつづけられ、その一行を読んだとき、私は実際にその金色を見に行かなければ本は終わらないと思い込んでしまった。

桃色の花の金色の錆びた縁取りは、そのうちにほんとうの花びらになって、アルファロメオが止めてある角の家で枯れた。一枚は赤いボンネットをかすめ、アスファルトの上に落ちる。すると真昼なのにカーテンを閉めた部屋のなかに夜が始まり、内部からその家は荒れていく。「互いのこころを読みあうので、ことばが失われていく関係のように。」

本のなかで、さざん花の家には輝かしいものと暗いものの両面があって、うわさとなってひろがり、買い手のないままその通りを歩くひとの目印になるのだった。(この一文は、あとになって棒線で消され、中断したまま破棄される。)


*

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高橋秀明「墓参」

2015-11-25 11:11:04 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋秀明「墓参」(「イリプスⅡ」17、2015年11月10日)

 高橋秀明「墓参」は、風呂上がりの息子(高橋)に母親が「墓参りにゆく(ゆきたい)」と言う詩である。墓は遠いし、交通の便が悪い。さらに暑い。

                               気温
は高いし汗もかく 生きて帰ってくる自信はあるのか と冗談紛れにそろ
そろ問うと母は直接それには答えず もうみんな亡くなったから自分が墓
参りに行かなくては行く者がいないと言う 庭から剪りだした紫陽花や百
合やグラジオラスらを束ね 仏菓 線香 蝋燭以外にもペットボトル二本
になみなみ水を詰めて まだ髪もぬれたままの息子を急き立てるのには訳
があると言い募る うたた寝したときに夢枕に立ち なぜ迎え火を焚かぬ
かと母を責めるものがあったのだ アホらしい すぐ迎えに来いと言われ
たのだからすぐに行かねば申し訳が立たぬと死んだものにまで要らぬ気を
遣うより 生きて億劫がっている老いた息子に配慮しろと言いたいところ
を それでは孝行息子の声望を返上することになるので 私はあいまいに
言葉を呑んですっかり暑熱のこもった車両にクーラーの冷風を回しはじめ


 だらだらとことばが続き、どこまで引用すればいいのか悩んでしまう。引用しながら文字が詩のとおりに変換されないといらいらしてしまう。めんどうくさくなる。そのうちに「書きたい」と思っていたことさえ忘れてしまう。何について書こうとしてこの部分を引用したのだっけ?
 うーん。
 まあ、「めんどうくさい」ということが書きたかったのだろうなあ、といまとなっては思うしかない。
 で、その「めんどうくさい」というのは、どこから生まれてくるか。
 風呂からでてやっとさっぱりしたばかりなのに、なんで急に墓参りにゆきたい(連れて行け)なんて母は言い出すのか。少しは私の身になってみろ、くらいのことを、単純にそう書かないからだ。自分の気持ちだけではなく、母親の気持ちも書いている。気持ちだけではなく、行動を書いている。「庭から剪りだした紫陽花や百合やグラジオラスらを束ね 仏菓 線香 蝋燭以外にもペットボトル二本になみなみ水を詰めて」という、ことばの寄り道が「めんどうくさい」。ことばが寄り道をすると、そこに「気持ち」のように「抽象化(単純化)」できない「肉体」の動きが見えてきて、それが読んでいる私の「肉体」を刺戟するのである。高橋の母ではなく、私自身の母親の姿なんかが、花を切り、束ね、線香と蝋燭をそろえている姿が見えてしまう。のろのろした動きが見えてしまう。
 それが、なんとなく「めんどうくさい」。「のろのろ」を待っている自分の記憶が重なる。身にせまってくるので「めんどうくさい」のかもしれない。
 さらに「うたた寝したときに夢枕に立ち なぜ迎え火を焚かぬかと母を責めるものがあったのだ」という、実際に「いる」のか「いない」のかわからない誰か(他人)の行動が母親のことばのなかで動く。母親は、その誰かの声を聞いているだけではない。「意味」を聞いているだけではない。その誰かの「肉体」そのものを見ている。母親の「肉体」のなかに死んだ誰かの「肉体」が動いている。
 それが「めんどうくさい」。「つながり」が「めんどうくさい」。
 高橋は「アホらしい」とひとことでけりを付けたいのだが、なかなかねえ。そんなうまい具合にけりはつけられない。「めんどうくさい」ことはたいていが「アホらしい」のである。逆か。「アホらしい」ことが「めんどうくさい」か。「アホらしい」とは「頭」で処理すると、切って捨てることができることである。合理性を重視する「頭」のそとでおきることが「アホらしい」。だから「アホ」に向き合うには「頭(合理性)」を捨てて、非合理につきあうしかない。非合理とわかっていて、それをするのは、「めんどうくさい」。
 これに輪をかけるようにして「めんどうくさい」のは、実は高橋自身の「こころ」である。「こころ」もまた、「頭」からみると「めんどう」以外いのなにものでもない。
 高橋は単純に母親の言うことを聞くことができない。母親の言うことにしたがっていれば、実は、そんなに「めんどうくさい」ことではない。「アホらしい」と思う「こころ/頭」が「めんどうくさい」を引き起こしている。「めんどうくさい」けれど、そうしないとさらに「めんどうくさい」ことになると思う「こころ」が「めんどうくさい」を増幅させる。それは、「死んだものにまで要らぬ気を遣うより 生きて億劫がっている老いた息子に配慮しろと言いたい」ということばになっているし、さらにそのことばと矛盾する「それでは孝行息子の声望を返上することになる」ので、それもできない。「矛盾」していることをしないといけないから「めんどうくさい」。「矛盾」していることをするのは「アホらしい」。
 で、そういう「矛盾」したことをするときに……。

言葉を呑んで

 あ、そうなのだ。「ことば」のなかで動いたものを「肉体」のなかにしまいこんでしまうのだ。「矛盾」を「ことば」にしてしまわないといけない、その「抑制」が「めんどうくさい」のである。そうしないと「暮らし」がうまく動かないということが「めんどうくさい」。
 「めんどうくさい」を書きすぎて、どれがほんとうに「めんどうくさい」なのか区別するのが「めんどうくさい」ので。
 おもしろいのは。
 「おしろいのは、「言葉を呑んで」と書きながら、その「言葉を呑む」までのことを、ことばにして書いていることだ。ことばを高橋が書かずにはいられないことだ。「言葉を呑んで」しまうくらいなら(呑んでしまったのなら)、ことばがなかったことにしてしまえば、簡単で「めんどうくさい」ことにならない。
 そうすると。
 「めんどうくさい」というのは「ことば」の領域のことなのか。
 違うなあ。
 「めんどうくさい」というとき「ことば」が動いているのだけれど、ことばだけが動いているのではなく、「肉体」がその動いていることばを動かないように(抑制するように/隠すように)動いている。この「肉体」の動きは「欲望」に反しているので、そのことが「肉体」に「めんどうくさい」という感覚を引き起こしているのだ。「めんどうくさい」はあくまで「肉体」の印象なのだ。うまくことばにならないが、生まれようとする「肉体」を生まれないままにしておくことが「めんどうくさい」なのだ。
 ちょっと脱線するが、きのうの日記にも書いた森田真生の『数学する身体』のなかに計算の初期の肉体の動きが出てくる。指を折って数える。手も足も、それから全身の部分をつかって数え、計算する。これは最初は「真剣」で「めんどう」でもなんでもないが、きっと記号や九九を覚えてしまうと「肉体」で計算するのは「めんどうさい」ものになる、ということと似ているかもしれない。3×2=6なんて、指を三つずつ折って、それをつづけて数え直すというようなことをしなくても、九九で覚えていることをそのまま言ってしまえばすむ。指を折る、指を数えるという「肉体」をつかった計算は「めんどうくさい」。「頭」で覚えていることをつかえば「簡単」。
 「めんどうくさい」はいつでも「肉体」といっしょにあり、「肉体」のなかにはことばが生まれたり、生まれるのを拒まれたり(押さえこまれたり)していて、そのぶつかりあい、折り合いをつけるということが「めんどうくさい」なのだ。

言葉を呑んで

 というのは、こういう「肉体」の動きを、「ことば」を前面に出して語ったことである。この詩の、いわば「キーワード」。
 「私はあいまいにことばを呑んで」という部分はなくても、この詩のなかで起きたこと、高橋が母親を墓参りに連れて行くということが変わってしまうわけではない。けれど「私はあいまいに言葉を呑んで」がなければ、それは詩ではなくなる。「日記」と変わらなくなる。「言葉を呑んで」の「呑んだ言葉」が「肉体」の外には生まれないまま、「肉体」のなかで「生まれたまま」生きて動いているから、とてもおもしろいのだ。
 書かれていることが特別に目新しいわけでもなく、また書き方自体も特に変わっているわけでもなく、だらだら書き流しているような感じなので(誰にでも書けそうな感じがしてしまうので)、この魅力(ことばの強さ)をどう語るかはむずかしい。でも、おもしろいのだ。





言葉の河―高橋秀明詩集
高橋 秀明
共同文化社
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荻悦子「失くしたもの」

2015-11-24 10:37:44 | 詩(雑誌・同人誌)
荻悦子「失くしたもの」(「るなりあ」35、2015年10月15日発行)

 荻悦子「失くしたもの」は「意味ありげ」にはじまる。

失くしたものを数えていて
ワインを零した
うっかりと
夏帽子
モンブランの万年筆
狐の毛の小さい襟巻き
品物よりも
失くしたそれらに纏わること

 「失くしたもの」は「夏帽子」以下の「品物」。しかし、荻は、その「品物」よりも「品物」があったときにいっしょに動いていた何かが気になる。「品物」に「纏わること」、それは「失せない」からである。
 で、その「失せない」何かを、二連目以下でどう書いていくか。「纏わる」感じをどう「肉体」に関連づけていくか、それが詩のハイライトなのだが。

踵の高いサンダルで岩を伝った
心から笑い 若い熱
元からなかったものを
取り戻せるかのように錯覚した
なぜだったろう
六月の海にいたあなたがいじらしい
万年筆を失くしても気に留めない
まだ十分に若かった

 前半は「夏帽子」を失くしたときの状況を書いている。海の近くの岩場か。六月のことだ。「あなた」は恋人ではなく「若い荻」である。(恋人は三連目で「あのひと」と書かれている。)その若さは「万年筆を失くしても気に留めない」というこころの動きとして書かれている。
 「失くしたもの」を思いながら、荻は「十分に若かった」ときの「若さ」をこそ「失われたもの/こと」と思っている。
 とてもわかりやすい。そして、わかりやすいだけに、「ほんもの」としてつたわってこない。わかりやすいのは、「失われた若さを思う」ということが、もう「定型化」していて、「抽象」になってしまっているからだ。
 先日、感想を書いた森田真生の『数学する身体』におもしろいことが書いてあった。数を数える。計算をする。指をつかって、指を折って、そして数字を並べて、記号をつかって。最初は具体的だったものが、あるときから「具体性」を欠きはじめる。指を折って数えなくても、数字を書かなくても「2+5=7」「6×4=24」というのは「わかる」。それは数字・数学が「記憶」になっているからだ、というのである。この「記憶」と「抽象化」はとても似ている。そこでは「肉体」は動いていない。こうなると、「わかる」けれど「つまらない」。「つまらない」は「つまずかない」ということである。読んでいる私の「肉体」が動いてくれない。
 うーん、おもしろくない、とつぶやきそうになるのだが。
 最終連がいい。

この夏は花の一株が育つのを待った
終わった花を抜いた後に
ふいに伸びてきた草
二年前に植えてすぐに枯れた花だった
蕾ができてそれがわかった
ベルの形の花の姿は覚えている
花の名を思い出せない
呼び名を失くして
小さな花が咲くのを待っている

 「ベルのベルの形の花の姿は覚えている」のは何か。「目」である。「ベルの形」という具体的な姿が「目」に残っている。
 一方「花の名は思い出せない」。「花の名」は「花の姿」に比べると抽象的である。「目」で覚えるのではない。(文字に書いて記憶することはあるが。)それは算数の簡単な計算や九九のように「頭」で覚えるものであり、「頭」が覚えてしまった瞬間、それは「抽象」になる。
 ここに具体と抽象の衝突があるのだが、そのあとのことばの動きがおもしろい。
 荻は「思い出せない」を「失くして」と言い直している。「花の名を思い出せない=花の名を失くして」。補語(花の名)は「思い出す」「失う」という「動詞」のなかで「ひとつ」になっている。ふたつの「動詞」が「ひとつ」のものとして動く。そこに「肉体」が見えてくる。「思い出す」も「失う」も、この場合、抽象的な動き(「肉体」というよりも、精神的な動き)なのだが、それ「ひとつ」にするためには「ひとつ」の具体的な何かが必要だ。その必要な「ひとつ」が「肉体」である。(「魂」である、「精神」である、というひともいるかもしれないが……。)
 「抽象的」なのに、「具体的」に感じてしまう。「ふたつ」の動詞が「ひとつ」の「肉体」のなかで結びつく感じが、「肉体」の具体的な印象を呼び覚ます。「花(の名)」ではなく、「花」と「荻の肉体」をそこに見る感じがする。
 「荻の肉体」は、どう動いているか。

小さな花が咲くのを待っている

 その「待つ」という動詞。「待つ」の主語は「荻」であるが、その荻は「荻の目」であり、「手」でもあるかもしれない。(花が咲いたら、そっと触れるかもしれない。)
 「待つ」というのは、すこし「抽象的」な感じのする「動詞」である。そこに「待っている対象」が不在だから、あいまいな「肉体」しか見えない。
 「何している?」「あ、人が来るのを待っているんです」という会話は「待つ」という動詞が見えにくい(わかりにくい)ことを証明している。わかりにくい(見えにくい)けれど、「待つ」ということは誰もがしたことがある。誰もが「待つ」という「肉体」のあり方を覚えている。その覚えている「肉体」が、最終行の「待つ」という「動詞」を真ん中に挟んで、荻と読者を結びつける。読者は荻になって、花が咲くのを「待つ」肉体になる。
 これが、とても、おもしろい。
 
 こういう「肉体/動詞」が、二連目以降、もっと書かれていれば強い詩になるのに、と思った。

            
影と水音
荻 悦子
思潮社

*

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為平澪「盲目」、颯木あやこ「ディープ」

2015-11-23 10:38:22 | 詩(雑誌・同人誌)
為平澪「盲目」、颯木あやこ「ディープ」(「狼」26、2015年09月発行)

 為平澪「盲目」は前半が、特に一、二連目がおもしろい。

目の開いたバラバラ死体を私はずっと捜していた
手はお喋りだと口がくちぐちに言うので
うるさい手を切り落として 口に食わせた
口は満足そうに 黙ってくれた

足は突っ立って進むことしか能がないと
耳が教えるので
足を売って耳栓を買った
耳は都合のいいことしか 言わなくなった

 「バラバラ死体」がなぜバラバラなのか、この詩を読むとわかる。それぞれが自己主張する。どの部位も「ひとつ」の肉体につながっている。つながることで「ひとつ」になっているのだが、きっと「自分こそが肉体の基本(土台)」だとでも主張するのだろう。それぞれの言い分を聞いているとうるさい。だからバラバラにしてしまう。もっともバラバラにしても、それぞれの部位には特徴があり、そこから「ひとつ」の「肉体」へとつながっていく。つながるからこそバラバラ死体というのだろうけれど。
 まあ、こんなことは、「論理的」に語ろうとするとめんどうになるだけなので、省略する。
 おもしろいのは、この一、二連が「言う/黙る」という動詞で結びついていること。そして、その「言う/黙る」に「聞く」という仕事をになっているはずの耳までもが参加していることである。耳が「教える」。これは耳が「言う」ということと同じ。その耳が「言わなくなった」、つまり「黙ってくれた」。
 「言う」という仕事、「黙る」という仕事は、一般的には口の仕事だが、私たちはたとえば「目は口ほどにものを言う」という表現になじんでおり、「肉体」が何かを「言う」ことになれている。手が震えていれば、驚怖か、興奮か、そこには感情があらわれている。つまり手が「肉体」のなかに動いているものを代弁している、と感じる。
 その「言う」仕事を、肉体は、バラバラになって、次々に放棄している。「黙る/言わなくなる」。そうことばがとじられる時、逆に、「言う」を思い出してしまう。そういう構造でことばが動いているのがおもしろい。
 これが、このまま最後までつづくとおもしろいと思う。ところが、

足を失って 胴が重いことがわかった
私は軽くなりたくて 腸を犬に与えた
犬は鼻が利いたので私が捜している
死体の所まで 私を乗せて運んでくれた

大きな鍾乳洞の壁には巨大な目や耳や唇が
私を監視し 私の臭いを嗅ぎ付け 私の噂話をした

 三連目の「私」は「胴」のことだろうか。「私を乗せて運んでくれた」を中心に考えると、そうなるのだが、この「考えるとそうなる」ということばの動きが、ちょっとおもしろくない。詩が突然「論理的」になる。
 四連目に「目」「唇」が出てきて、「監視する」「噂話をする」が出てくる。この「目/監視する」「唇/話をする」という主語/動詞の関係が、あまりにもあたりまえの「論理」なので、窮屈に感じてしまう。「耳/臭いを嗅ぐ」というところは主語/動詞が日常のことばの動きと合致しないのだが、目と唇があまりも常套的なので、「耳/臭いを嗅ぐ」の結合は驚きにならない。
 そのうえ、ここから「黙る/言わなくなる」が消える。
 「考えるとそうなる」という「論理」、作り上げた論理(架空の話)が、さらに虚構をもとめて暴走しはじめる。
 為平は、そういう「加速/暴走」(ことばの暴力)を書きたかったのかもしれないが、ずーっ省略して、詩の最後、

油蝉たちが五月蠅い、のか
目を閉じなければ
聞こえることは
決してない

 と「黙る/言わない」が「聞こえない」と、違った動詞で反芻される(繰り返される)のは、何だか、作り上げた論理(考えたらそうなる)の運動として、わざとらしすぎておもしろくないなあ、と感じる。
 最初の一、二連のことばの動きがそのままつづいていくととてもおもしろくなるだろうなあという悔しい印象が残ってしまう。



 颯木あやこ「ディープ」も前半がおもしろい。

溺れてなどいない

全身 深い水に絡まっているのに
瞳は 前髪の陰で冴えて

見ている、
αからΩを
黒から透明を
沈黙から叫び そしてまた共にある沈黙を

 二連目の「瞳」と「前髪」の関係が具体的で、そうか、「溺れる」(溺れてはいない、と書いているのだが)という「動詞」のなかでは、瞳が前髪の「陰」になりながら、自己主張するのか、と水に沈みそうな「肉体」がそのまま見える感じがして、おっ、と思ってしまう。
 三連目は二連目の「冴える」という動詞を別な形でくりかえしたものとして読んだのだが……。
 うーん、ことばが「具象」から「抽象」へ動いてしまう「さびしさ」のようなものを感じ、私は立ち止まってしまう。沈黙-叫び-沈黙という深化(純粋化?)が、さびしすぎる。美しすぎる。
 「具象から抽象(ことばによってのみ到達できる美)へ」は「個別から普遍(ことばによってのみ到達できる美)へ」という動きと重なり合う部分があるのかもしれない。そして「抽象/普遍」というのは、一種の「真理」のように受け止められるのかもしれない。「理論物理学」の「数式」のようなものかもしれない。そして、そういう動きは、ことばだけが明るみに出すことのできる美しさであり、また純粋な「頭脳」の力が必要とされる世界なので、「頭脳派」が多い詩の批評では好意的に評価されることが多いと私は感じているのだが。
 私は逆に、どこまでいっても「抽象/普遍」にはならないことば、「具体」でありつづけることばの運動が好きなので、どうしてもつまずいてしまう。あ、「肉体」が消えてしまったと不安になってしまう。
 二連目の世界を、もう一度「肉体/動詞」でくりかえしてくれたらもっと魅力的になるのになあと思ってしまう。まあ、こんなことは私の「好み」の問題にすぎないのだろうけれど。
文芸誌「狼」26号
中村梨々,佐相憲一,鈴木正枝,石川厚志,睦月とや,葉月美玖,梁川梨々,小桜ゆみ,小山健,颯木あやこ,為平澪,冨田民人,葛原りょう,長尾雅樹,平川綾真智,光冨郁埜,広田修
狼編集室 販売:密林社
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新井高子「電球」

2015-11-22 15:28:09 | 詩(雑誌・同人誌)
新井高子「電球」(「ミて」132 、2015年09月30日発行)

 新井高子「電球」を読みながら、音、雑音(ノイズ)、肉体ということについて考えてみた。新井の詩は、訛りを含んだ口語で書かれている。漢字にルビが振ってある。それを括弧で補いながら引用する。私は目が悪いので、きっと誤転写すると思うので、変だなあと思うところは、原文で確認してください。

だァらりと、お低頭(じぎ)バしながら咲(さ)いとっだよ、一重(ひとえ)咲(ざ)ぎの寒椿(かんつばき)が。生垣(いけがき)のその一輪(いぢりん)、しゃくって見(み)やれば、戸口(とぐち)から、年増女(としまおんな)が口紅(べに)ひいて、「電球(でんきゅう)、お助(たす)けくださいませんか」。
ひょっと、合点(がでん)しぢまったァのす、土地(とぢ)ことばじゃねぇもんで。上(あ)がりッ端(ぱな)サ脱(ぬ)ぐボロ靴(ぐつ)恥(は)ずかしかっだなや。「あのひとと同(おな)じ靴下(くつした)」、妙(みょう)に通(とお)ったその声(こえ)が、こっぢの背(せ)すじサ、ひゃッと走(はし)って。軋(きし)んだっけぇ、床板(ゆがいた)も。

 このあと、年増女と男との、それなりのやりとりがある。女は誘っているか、男の欲望が女をそうさせたのか、まあ、どっちにしろ同じことだと思う。その女の襦袢をはぎとってみれば、女は乳ガン(だろう)の手術をしていて、乳房がなく、胸に傷跡が……とつづいていく。
 その展開は、そこまで読まなくても、なんとなく想像できる。そして、それを想像してしまうのは、ひとつには私が男だからということもあるが、前半のことばの対比が影響しているとも思う。言い換えると、ことばの対比があるために、性的な妄想への動きがスムーズになる。(と、私は私の妄想があくまで新井のことばの「せい」であると書きたいのである。)
 書き出しの「だァらりと」から、どこの土地の「口語」かわからないが、ともかく「口語」であることがわかる。意味は「だらりと」、力がない感じをあらわしている。「ァ」という差し挟まれた音が、そのまま力ない感じになって、肉体に響いてくる。誘われて、私の肉体の力もゆるむ。腰骨を立てて、背筋をのばして、椅子にきちんと座って、という感じではなくなる。「意味」ではなく、そういう「音」が発せられるときの、相手の肉体の感じが思い浮かび、それに肉体が反応するのだと思う。
 「お低頭(じぎ)バしながら咲(さ)いとっだよ」は「バ」の使い方、濁音の豊かな響き、「だ」の再びあらわれた濁音の強さのようなものが印象に残る。話し手は、その濁音に対抗する野太い肉体をもっている、という感じ。どことなく「野卑」という感じもする。
 これは「電球(でんきゅう)、お助(たす)けくださいませんか」という女の口調との対比でより強くなる。「電球をつけたいのですが、お手伝いしていただけませんか」(かわりにつけていただけませんか)」くらいの意味だろう。「口語」の訛りがない。土地(とぢ)ことばじゃねぇもんで」と、そのことばの調子を男は言い直しているが、そこに「土着」と「土着」ではないという対比があらわれている。
 で、「土着」と「土着ではない」私は、「肉体」と「土地」の連続性のことであると考えている。
 私はこの世には「肉体」しかなく、「土地」というものは「肉体」が「肉体」から外部に拡大していったものだと考えている。この詩に出てきた「もの」をつかっていえば、たとえば「寒椿」。それはやはり「肉体」のひとつであり、「肉体」とつながっていると感じている。「他人」もまた「他人」ではなく、「肉体」としてつながっている。だから、極端な例でいうと、「他人」を殺すことは「自分の肉体」を傷つけること、自分の指を切ると血が出て痛いように、「他人」を殺すと「自分の肉体」のどこかが血を流し、傷つき、死んでゆく。だから「他人」を殺してはならない、という具合に感じているのだが……。
 あ、これは、どうみても「脱線」だなあ。
 「脱線」が強引だから、そこから元へ戻る(?)もの強引なことばの動きになってしまうが、この「自分の肉体」と、一般的に「自分の肉体ではない」と言われているもの、たとえば「自分の肉体」と「寒椿」を「つないでいるもの(ひとつにしているもの)」が、「口語」なのだ。「意味」を超える「肉体」の感じなのだ。
 「だァらりと、お低頭(じぎ)バしながら咲(さ)いとっだよ」は「だらりとおじぎをするように咲いていたよ」という「意味」であり、その「標準語」のなかにも「肉体」と「寒椿」の連続性はあるのだが。つまり、「だらりとおじぎをする」ということばをいうとき、「肉体」はそのことばの指し示す運動を「肉体」そのものとして反芻している。くりかえしているのだが。
 それを「口語」でいうとき、そこに「論理」以上のものが紛れ込んでくる。その独特の口調を共有する「他人の肉体」が紛れ込んでくる。標準語でも「他人の肉体」が紛れ込んでくるだろうけれど、標準語の場合は、その「他人」を特定できない。「口語」の場合、「他人」は、その「口語」が話される「土地の人」に限定される。おなじことばを話しながら、おなじことばで「肉体」をみつめてきた人。「体温」を感じることができる人に限定される。
 で、その「つながり」は「肉体」だけのつながりでもない。「低頭」という「漢字(熟語?)」をつかないがら、新井は「おじぎ」ということばを表現している。頭を低くするという漢字で整理された「肉体」の動きがそこにあるのだが、そういう「肉体」のととのえ方、ととのえる力としてのことばの「伝統」のようなものも、そこにはある。その土地では「お辞儀」は「お辞儀」という抽象的なものではなく、実際に「頭を低くする」という「肉体」の動きであり、そういう「肉体の動き」をともなわないものは「おじぎ」ではないのである。そういうことを「共有する肉体」が「土着している肉体」でもある。「肉体の動き」をとおして、そこに生きるひとの「肉体」はつながる。
 「肉体」というのは、「野生」(なまのもの)だけではない。「暮らし」があるから、そこで自然にととのえられるものもある。洗練がある。そういう、その土地独自の(その土地にいっしょに暮らすひと)独自の洗練というものもある。
 そして、その「独自の洗練」として根強く引き継がれているが、「言い回し」なんだろうなあ。
 「お低頭(じぎ)バしながら」の「バ」。
 私は簡単に「バ」を「を」と読み直して「おじぎをしながら」と書いてしまうのだが、このとき私はきっと「頭を低くする」という「肉体の動き」をどこかで半分くらい落としてしまっている。「お低頭」が「おじぎ(お辞儀)」にかわってしまっている。「肉体」ではなく「意味」として、ことばを読んでしまっている。
 この「バ」は「標準語」の感覚からすれば、未整理の「ノイズ」ということになる。「バ」ではなく「を」と言い直した方が、多くのひとにつたわる。しかし、「バ」を「を」と言い換えたとき、きっと「お低頭」も無意識に「おじぎ(お辞儀)」にかわっていて、そこには「肉体の動き」は消え、抽象的な「儀礼」が残る。
 この抽象的なものは、きっと「合理的なもの」でもあり、「合理的」だからこそ、世界に流通していくのだが、それでは「ノイズ」のもっている豊かなものが減ってしまう。
 視点を変えて、この「ノイズ」こそが「純粋なもの」であり、整理された「を」、「文法」を強要してくるものを「暴力」ととらえるとどうなるだろう。「合理的」を名目に「文法」を強要する「暴力」。その「暴力」のなかで苦しむことば。苦しむ「口語」。

 ということを考えると。
 と、ここから、私は飛躍してしまうのだが。脱線してしまうのだが

 きのう読んだ石田瑞穂『耳の笹舟』。石田の「心因性難聴」が聞き取っている「音」というのは、この「暴力」と関係があるのでは、という気がする。「肉体の連続性」(肉体はすべてひとつ)という「野蛮/未整理」を「意味」で整理するとき、肉体が知らず知らずに傷つく。そのために耳に変調が起きてしまう。そういうこともあるのではないのか。耳は「意味」を「肉体」のなかからもう一度取り戻さないと、また苦しむことになるのではないのか。
 で、さらに、ここから私の考えは脱線、飛躍して、ほとんどでたらめになるのだが。
 石田の詩のなかに、鳥と外国語が何回か登場する。その部分が非常におもしろい。石田の耳も健康に動いている。
 たとえば。

ボォホウ ボォホウ という鳴声が聴こえる
あれはなに? あれは ええと
鳴かないウグイス ですね
こんどは 鳴かないウグイス! ぼくはその
日本語には存在しないじつに詩的な鳥名に
びっくりしてしまう                 (「雪わりのバラライカ」)

 ロシア語から日本語へ。辞書を引きながらサーシャが答えている。そこに「知性」の統御(意味)をたたき壊すものが紛れ込む。「意味」と無縁の「肉体」のつながりのようなものだ。梟を「鳴かないウグイス」というときの「鳴かない」には、きっと「日本人の肉体」とは違うものが紛れ込んでいる。それはいったい何か。わからないけれど、そのわからない部分に、石田の共有してこなかった「肉体」がある。それが、石田の「肉体」そのものを活気づかせている。「耳」を健康にして、「耳」をびっくりさせている。
 「肉体」が健康に動いているから、ここの部分は、とても美しい。

 で。
 と、ここから新井の詩に戻るのは、強引を通り越しているかもしれない。暴力的かもしれないが。
 「おじぎ」を「お低頭」という「肉体の動き」でつかみとったり、「を」を「バ」と言ったりするところは、何か「鳴かないウグイス」に似たところはないだろうか。「鳴かないウグイス」ということばを聞いて、石田が思い出すこと(思うこと、さらにその思い出と肉体との関係)は、「バ」を「お低頭(じぎ)」を読んだときに私たちの「肉体」のなかで起きていることと似ていないだろうか。
 何かが違う。けれど、その「違い」は瞬間的に「違い」ではなく、「共通」のものを「肉体」のなかに探している感じ。そして、それが「何か」きちんとことばにして再現することはできないのだけれど、一瞬「わかる」と思ってしまうこと。「鳴かない」も「ウグイス」もわかってしまうけれど「鳴かないウグイス」はわからない。「お低頭」も「バ」も正確にはわからないが、「肉体」は納得してしまう。「鳴かないウグイス」と「バ」「お低頭」では起きていることは逆向きの動きなのだが、動かし方はおなじというような感じがする。
 この「変な感じ」は、たぶん「肉体のノイズ」なのだ。そして「肉体のノイズ」があるから、逆に「意味」が正確に言われたことばよりも強く胸に迫ってくる。「あたま」でことばを処理するのではなく、「肉体」がショートカットで処理してしまう。
 そういうものがあると思う。

 そしてここから私はさらに飛躍して、端折って書いてしまうのだが(私は40分すぎると、目が疲れてモニターを見るのがつらくなる。つまり、書けなくなるので)、新井の書いている「口語(土地ことば)」と年増女の「標準語」が出合うとき、男の方に「肉体的変化」が起きる。

「あのひとと同(おな)じ靴下(くつした)」、妙(みょう)に通(とお)ったその声(こえ)が、こっぢの背(せ)すじサ、ひゃッと走(はし)って。

 ことば(声)は、「意味」ではなく、「肉体」そのものなのである。「口語(土地ことば)」で「肉体」を隠していたのに、そこに突然「標準語」がぶつかってくると、男は「丸裸」になってしまう。むき出しの「欲望」になってしまう。女がもし「土地ことば」で、「おらのお父(とう)と同(おんな)じ靴下(くつじた)バはいとるねえ」(テキトウに書いてみた)と言ったのだとしたら、欲望は「ひやッ」としたものではなく、もっとぬるい感じ、なめるような感じで男の体を刺戟しただろう。
 男と女がセックスをするにしても、それは「きのうのつづき」のようなセックスなるだろう。「土地」によって「共有」されたセックスになるだろう。「土地のひと」がするセックスになって、秘密だけれど秘密じゃない笑い話になるだろう。
 そういうセックス、あるいは艶笑話は、きっと「ノイズ」なのである。「ノイズ」が人間をスムーズに動かしている。ことばを、「肉体」になじみやすいものにしている。こういうところでは、石田の経験したような「難聴」は起きないなあ、というようなことも思った。

 きょう私が書いたことは、「詩の評価(批評)」にはなっていないが、「詩の感想」の根幹であると私は思っている。私は「意味」ではなく「ノイズ」に「詩の強い力」があると感じている。その「ノイズ」をどうやって「ノイズ」という表現をつかわずに、「強い力」そのものとして、ひっぱり出すことができるか、というようなことを考えたいと思っている。



ベットと織機
新井 高子
未知谷

*

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石田瑞穂『耳の笹舟』

2015-11-21 10:58:42 | 詩集
石田瑞穂『耳の笹舟』(思潮社、2015年10月31日発行)

 石田瑞穂『耳の笹舟』はかなり怖い詩集である。私は左目に網膜剥離が起きた。手術で失明はしなかった。そのとき、多くの人から「目が見えなくなると困るね(失明しなくてよかったね)」と言われた。それはそうなんだけれど、私は、耳が聞こえない方が困るだろうなあと思っている。肉体の奥で感じている。目が見ている世界は「目の前」の世界。世界の半分である。耳は「耳の前」ということばがないように、前後ろにこだわる前に、まわり全体を聞き取る。その全体感がなくなると、怖いなあ、と感じる。
 石田瑞穂『耳の笹舟』は、あとがきによれば「心因性の難聴を患ってしまった」体験をことばにしている。完全に聞こえなくなった世界ではないのだが、そこに書かれていることが、なんとも怖いのである。聞こえなくなる前の何かが、怖いのかもしれない。私には「未体験」のことが書かれているから、怖いのか。奇妙ないい方になるが「失明」は目を閉じることで、疑似体験ができる。耳が聞こえないは、耳をふさげば疑似体験になるのかどうか、よくわからない。そのために、よけいに怖くなるのか。「肉体」で「共有」できることが書かれていないから、怖いのか……。
 「肉体」で「共有」できる部分のある詩について、考えたことを書いてみる。「耳鳴り」。「耳鳴り」なら、体験したことがあるぞ、「肉体」が覚えているぞ、と思う。

何日かぶりで耳鳴りがした
それは遠くから
思慮深く漂いはじめ
耳管を伝って音ずれ
ついには全身を
すっぽりつつんでしまう
そうなったら
どうすることもできず
内なる嵐が早く
たち去ってくれるのを
待つしかない

 しかし、ここに書かれている「耳鳴り」は、やはり私の知らない耳鳴りだ。私の場合「耳鳴り」は遠くからやってこない。突然、耳のなかで何かがはじける。そして、それは外へ出ていくのではなく、「肉体」の内部へ消えていく。「肉体」が「全身」で「耳鳴り」を包み隠す。いや、「全身(内部)」が少しずつ音を受け持って、それを吸い取る。だから、それは「聞こえなくなる」というよりも、聞こえているのだが、慣れてしまって、音と感じなくなるという感じ。「匂い」に似ているかもしれない。匂いのなかにいると、だんだん匂いを感じなくなる。それは「肉体」の麻痺なのか、「肉体」なかにある「匂い」と外の「匂い」が均衡し、区別がなくなったのか。あるいはサングラスをかけているときの視界の感じに似ているか。意識が「色」を修正して、実際に見える色ではない「色」を感じている状態に似ているか。
 遠くからやってきて、全身をつつんでしまう--この感じが、私の知っている「耳鳴り」とあまりにも違いすぎていて、(また他の感覚器官に起きることともあまりにも違いすぎていて)、どう「肉体」で引き受けていいのかわからない。そのために、不思議な恐怖心にとらわれる。
 一方、

ぼくの耳は
無音と雑音の
荒波の透き間で
こらえている
ちっぽけな笹舟

いったいこの
やっかいで親密な
音はなんだろう

 詩の途中に出てくる「親密」ということばに、私はとても共感する。勝手な共感であり、「誤読」というものかもしれないが、この「親密」は「わかる」。
 私は先に、私の「耳鳴り」は「肉体の奥へ消えていく(肉体に分け持たれていく)」というようなことを書いたが、そのときの「消失/共有」が「親密」ということばで言い換えられそうに感じる。何かと「親密」になると、その存在が「消える」。臭いが消える。サングラスの色が消える。存在しているのだが、「無意識」になる。
 石田の場合「やっかっいで親密な」と書いているので、「親密」そのものではないのだが、そこに、私はなんとなく、石田の「肉体」への手がかりを感じる。「共通性」があるかもしれないなあ、と感じる。
 この「やっかいで親密」ということばは、その前の「無音と雑音」「荒波の透き間」を言い直したもののように感じる。「荒波の透き間」は「荒波と、荒波の透き間(荒波ではないもの)」という具合に読んでのことなのだが……。そして、その場合「無音」は「荒波」なのか、「透き間」なのか。「雑音」は「荒波」なのか「透き間」なのか。石田は、どちらを「やっかい」と感じ、どちらを「親密」と感じているのか。
 「雑音/荒波」を「やっかい」、「無音/透き間」を「親密」と感じるのが「常識」かもしれないが、石田の書いていることばの動きは少し違う。「無音/荒波/やっかい」が最初に書かれ、「雑音/透き間/親密」が対の形で書かれている。
 うーん。
 もしかすると「無音」というのは「音」が暴れ回っている状態かもしれない。多すぎて「聞き分けることができない」状態かもしれない。「聞き分けることができない」から「聞こえない/無音」と意識が判断し、聞くことを拒絶しているのかもしれない。「雑音」は「聞く必要のない音」かもしれない。意識しなくていい音かもしれない。
 その「意識しなくていいもの」に石田は「親密」さを感じている。
 あ、これは、わかるなあ。ただ、そこにあるだけ。「意味」がない。「意識」しなくていい。単なる存在。そういうものに、こころがやすらぐ。同時に、自分が、そういう「もの」になってしまったような気楽な感じ……。
 そうすると。
 「耳鳴り」というのは、「意識(意味)」の巨大なかたまりなのか、石田にとっては。「意味」がありすぎて、「意識」が受け止めきれない。「意識」が「意味」に対応しようとして大忙しになり、「肉体」そのものがいる場所がなくなるということなのかな? それが「全身を/すっぽりつつんでしまう」という感じなのかな? 「全身」は「すっぽりつつまれてしまう(と、少し、言い換えてみる)」のではなく、「全身」が「意味/意識」に圧縮(圧迫)され、動いても動いているのか見えなくなるくらい小さくなっている状態だろうか。
 「耳鳴り」というは、そのとき、たとえば「キーン」という音ではなく、その「キーン」を聞こえるようにしている(際立たせている)「無音」の方になる。「キーン」と聞こえるのは、まだ、いいのだ。「無音」は怖い。無数の「意味のある」音がぶつかりあって、互いを「消音化」している。絶対的に無効の音にしている。そのとき、絶対無音から逃れるようにしてこぼれてくる「意味」のない音。それが「キーン」という雑音。「キーン」という「単独の音」は「全身」をつつむだけの「量」にはなれないが、ぶつかりあう「無数の意味/意識/明確すぎる音」は「無数」なのだから「全身」を「無数」でつつむことができる。
 「耳鳴り(キーン/雑音/有音)」に石田は「親密」を感じている。そう読むと、私には、石田がとても身近に感じられるようになる。
 少し脱線しながら補足すると。私はイヤホンが苦手である。新しいものが好きだから、私はウォークマンが出たときも、iPodが売り出されたときも買ったが、実際につかったのは本の少しの期間である。イヤホンで音を聞くと、その音だけを「聞かされている」感じがして窮屈になる。いろんな音のなかから自分でその音を選んで聞いている感じがしない。ある音を耳が「聞きに行く」という「肉体」の動きがない。遊べない。耳があっちへ寄り道、こっちでつまずき、また動くという感じがしない。自分で「好きになる」という「親密」感がない。イヤホンで聞くと「親密」よりも「押しつけられている」と感じてしまう。
 「親密」というのは、あくまでも「積極的」な行動なのだ。積極的な「動き」を含むものなのだ。
 石田は「意味だらけ」の完璧な音(透明に研ぎすまされた意味)ではなく、そこからこぼれてしまった「雑音(ノイズ)」に救われている。そういう感じがする。そう感じると親近感を覚える。

 でも、違うかもしれないなあ。私はとんでもない誤読をしているんだろうなあ。

できることなら
両耳をとりはずし
部品をひとつひとつ点検し
溜まった塵は刷毛で掃き
曇っているところは
布で磨きあげたい
とさえ思う

 ここは、怖い。「曇っているところは/布で磨きあげたい」は磨き上げて「透明」にしたいということにつながると思う。そういう「意味」も怖いが、ここに書かれていることが「目の世界」であることが怖い。「刷毛で掃き」「布で磨きあげ」るとき動いているのは「手」なのだが、手そのものが「部品」を点検するのではなく、「目」で点検している。そこに「目」が動いていること、目が世界を統一していること、目が世界を制御していることが、私には、怖く感じられる。
 たぶん、私の個人的な事情がそこに反映している。私は目が悪い。だから、目で何かを点検しなければならないという状況へ追い込まれるのが怖いのかもしれない。耳が聞こえない(耳で聞くことが困難になったら)、目に頼らなければならないということが怖いのかもしれない。
 うーん、こんなことを書いていては批評にはならないし、感想にもならないか。でも、きっと、こう書かなければならない「必然」のようなものがあるから、私は書いているのだと思う。

 怖い、怖いと思いながら読んだのだが、「見えない波」の「14」の部分はとても好き。

七ツ森で
無伴奏パルティータニ短調
シャコンヌを聴いていると
音にも 味と匂いがあることが
わかってくる
木の葉が舞い 風が枝を打つ
舌をトリルする陽光のワイン
鼻腔のなかでアダージョのように
朽ちてゆく雨水と腐葉土の香り
初めて聴く北の小鳥
ジュウイチ ジュウイチ
なにを数える歌なのか
ジュウイチ 慈悲心鳥の声
この千年の森こそ
魂とぴったりあう曲

 「音」が「味/匂い」と結びつく。耳が舌、鼻と結びつく。そこに「肉体」がつながったかたちであらわれてくる。そのとき「意識(意味)」は「ジュウイチ ジュウイチ/なにを数える歌なのか」というナンセンス(無意味)になる。「音の肉体」が人間の「肉体」に呼応するように、ただ、そこに「肉体」として存在する。「雑音(無意味な音/ナンセンス)」が「音楽」となって耳を祝福する。
 「難聴」をくぐりぬけた「肉体」がつかんだ喜びかもしれない。「肉体」が、ここでは生まれ変わっているのかもしれない。


耳の笹舟
石田 瑞穂
思潮社
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井上瑞貴『星々の冷却』

2015-11-20 10:32:55 | 詩集
井上瑞貴『星々の冷却』(書肆侃侃房、2015年09月28日発行)

 井上瑞貴『星々の冷却』は抒情詩である。と、書いたら、もう書くことはなくなってしまった。抒情詩とは、たぶん、そういうものである。抒情に触れて、抒情が刺戟される。「あ、いいなあ」。それ以外は、まあ、自分の感情のくだくだを書きつらねることになるからである。作者の書いた抒情がどこにあるか、は問題ではなく、読者は自分自身の抒情の記憶をたどってしまう。そんなことは書いてもしようがない。違うことが書きたいのだが……。
 さて。私は、何を書くことができるか。「いいなあ」ではなく、どこが「おもしろいなあ」と書くことができるか。
 「星々の冷却」を読んでみる。

夜空について書かれたものが永遠なのは冷却されているからだ
星々に隠してきたものがあばかれることがあってもそれは冷えている

 これは巧妙な二行である。つまり技巧的な二行である。
 「夜空」は抒情というにはすでに語られすぎている。センチメンタルすぎて、これを抒情そのものとして押し出すには「現代詩」としてはむりがある。だから井上は「書かれたもの」をつけくわえる。「夜空」が「永遠」ではなく、「書かれたもの(ことば)」が「永遠」である。古い抒情(夜空)を引き剥がしている。古い抒情に「無効」宣言をしている。そのうえで「冷却されている」と、一種、否定的なことばを結びつける。「冷却されている」は「燃える」、あるいは「活発に動く」とは逆の運動である。「冷却され、固定されている」。隠されている「固定」が「永遠」と結びつく。「静的な永遠」である。「永遠」のなかにある「静的」なものに視線が向けられている。
 二行目は、一行目の言い直し。言い直すことによって、そこに「深み」が出てくる。
 「夜空について書かれてもの」は「星々が隠してきたもの」を「あばいた」ものである。「夜空」と「星々」はまったくの同義である。「星々が隠してきたもの」とは「天体の運行」の「法則」だろうか。「真理」だろうか。それは、遠い昔は「隠されていた」。つまり「真理(法則)」がわからなかった。それを発見することは「暴く」ことであり、暴かれた法則は真理であるがゆえに永遠である。「永遠」と「あばかれたもの」は同義である。井上は「あばかれること」と書き、「もの」とは書いていないのだが。
 そして、この「あばかれる/こと」の「こと」のなかには、「暴く(表面を引き剥がして、その内部を見る)」という動詞がある。抒情を井上は「夜空/星々」という「イメージ」から「発見する(暴く)」という動詞に転換することで「現代性」を表現している。現代は何といっても「科学の時代」。何かを「発見する」時代。
 しかし、ねえ、「夜空/星々」の運動というのは、それを発見したときは「熱かった」かもしれないが、現代では、もう「発見する」という動詞の形では動いていない。「発見されたもの」(確立された法則)として存在している。確定してしまったものは「冷却されている/冷えている」。
 ここまで読むと、「抒情」というものが何か、少し分かりかける。
 それは「冷却されている」「冷えている」というよりも「固定化している/動かない」もの/ことなのである。「動詞」ではなく、動かせないもの/こと。これが抒情である。俗に考えるとわかりやすい。「動かせないもの/こと」。たとえば、失ってしまった恋愛とか。恋愛の最中は、その恋愛がどこへ行くかわからない。セックスだって日々違ったスタイルをとるだろう。けれど、終わってしまうと「記憶」しかない。もう、やりなおせない。固まってしまっている。
 その「固まっている」はずのものを、固まったものは固まったものとしてそのままにして、動かせるものを探してみる。何が動かせるか。感情が、動かせる。思い出して、悲しくなる。この動かない事実と動きつづける感情の対比--それが抒情である。
 そういうことを井上は、「恋愛」ではなく「夜空/星々」をとおして語っている。
 一方に「固定化されたもの(書かれたもの/暴かれたもの)」があり、それは「冷却されている」「冷えている」のだが、それを「冷却されている」「冷えている」と書き直すときのことばは動いている。感情は動いている。その対比に抒情がある。
 一連目のつづき。

猫も家の前の石段を毎回数えなければ登ることはできない
真冬には川の気配さえ凍る
あたたかくしてください

 「猫」の行は、ほんとうかどうかわからない。書いている井上が、そう思いたいだけである。そう思うことで、猫に井上自身を託している。自己を、自己よりも小さなものに託して見つめなおすというのも、センチメンタルの常套である。像や麒麟やアナコンダになって階段を上るときは、まだ「動詞」が自己を突き破って動いていく「恋愛」の真っ最中である。(と、「恋愛」をひきずって、抒情を説明できるだろう。)
 「猫」は「冷却された井上」である。石段の数は変わることのないもの、宇宙の法則のようなものであり、それをたどっていれば「生活」は法則にのっとって崩れない。生活は法則のなかで「冷却される」、安定する。「登る」という「動詞」は、まあ、そういう「冷却」と向き合う動き(感情)である。
 あとの二行は、感情のゆらぎ。雰囲気。状況の拡大のようなもの。「あたたかくしてください」には、手の届かないものへの未練のようなものがあるね。
 二連目の書き出しもおもしろい。

「雨は重力の平行線である」といった言葉に出会ったのは四ヶ月前だが
それから五ヶ月経った

 あることが「四ヶ月前」のことなら、いまは「四ヶ月後」であるはずだ。ところが、井上は「五ヶ月経った」とわざとずらしている。この「ずれ」(間違い)のなかに、井上は詩をつくりだしている。驚かせることで、その驚きこそが詩であると言っている。
 これは「雨は重力の平行線である」という表現についても言えるだろう。雨は重力にひっぱられて垂直に落ちる。雨と重力は平行ではない。平行なのは、重力にひっぱられるそれぞれの雨の動きである。雨は互いに交差することなく、つまりそれぞれが平行に動いて降ってくる。雨は重力にしたがって平行に動くを縮めて、わざと「雨は重力の平行線である」と書き、読者の意識をひっかきまわしている。意識をかきまぜること、が詩だからである。
 つくりだすもの/わざと書くものが詩。これは西脇の「現代詩」の定義にあてはまる。井上は、そういう作法を守っている。
 で、少し戻って。
 
「雨は重力の平行線である」といった言葉に出会った

 は、「言葉」というに注目すれば、それが

夜空について書かれたもの

 との類似性に気づく。「雨は重力の平行線である」と「書かれたもの」に出会った、夜空について書かれ「言葉」という具合に、相互に入れ替えが可能である。状況を変えて、同じことを繰り返す。そうすることで抒情に奥行きを与えているのだが、それが言い直し(繰り返し/反芻)であるということは、この新たに言い直された「言葉」もまた「冷却されている」「冷えている」ということを意味する。
 だから、その「冷えている」を明確にするために、次の一行が書かれる。

戦闘を望む戦争がおわると戦闘を望まない戦争がはじまるそれは冷えている

 「冷えている」という状況を語ることばの前の「戦闘を望む戦争/戦闘を望まない戦争」「おわる/はじまる」の対比。矛盾(対立/対峙/切断)を強引に、句点「。」をはさまずに「接続」させるこの一行は、そういう「わざと」動かすことば、ことばの「わざと」らしい動きが詩であることの宣言でもある。
 詩は、ことばが「わざと」動くときの、「わざと」に刺戟されてはじまる「精神」の運動ということか。
 これを「冷却されている/冷えている」ものとして突き放しながら集合させているのが今回の詩集。読みながら、井上は、技巧のなかで「抒情」を救済しようとしているのかもしれない。「技巧」こそが抒情の本質である、と主張しているのかもしれない、と思った。
 技巧が華麗に花開いた一冊である。
詩集 星々の冷却
クリエーター情報なし
書肆侃侃房
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紺野とも『擾乱アワー』

2015-11-19 09:56:41 | 詩集
紺野とも『擾乱アワー』(マイナビ現代詩歌セレクション18)(マイナビ出版、2015年11月01日発行)

 紺野とも『擾乱アワー』には現代的な素材がたくさん書かれている。それをていねいに追いかけていくとまた別な感想になるのだと思うけれど、私は古い人間なので、古いことばで書かれた詩に反応してしまう。
 「めがはえる」という、少し変わったタイトルの作品。

日なたにほうっておいたらメが出てしまいました。
冷暗所に置いておかなくてはならなかったのです。

たまの休日に恋人はベランダでひなたぼっこ。ポテトグラタンができあがって
呼んだら。振り向いた顔にはいろんな大きさの目ができていました。

翌日、手足を丁寧に折り曲げてあげてクローゼットに入れました。これで安心、
もう目は増えないでしょう。ところがどうしたことか帰宅すると日なたにいて、
目を増やしていたのです。運悪くお天気続きの春でした。恋人は話します。あ
る目は近眼で、ある目はレーシックを施されていて、ある目は二キロ先まで見
えるんだよ。すべての情報を処理するのにひとつの脳みそでは少なすぎるよう
で、やつれて見えました。

 「メ」「目」とふたつの「め」が書かれているが、「メ」は「芽」かな? 
 ことばが「音」のなかで交錯し、重なるようだ。「ポテトグラタン」から連想すると、じゃがいもの「芽」。じゃがいもは「冷暗所」に保存するもの。メ、芽、目とじゃがいも、恋人が交錯する。
 二連目の「呼んだら。」の句点「。」が効果的だなあ。「メ(目)」がそのまま連続するのではなく、ことばにならない断絶(切断)を含んで「目」にかわる。「目」に接続してしまう。その「切断/接続」を紺野の「肉体」が支えている、という感じがする。紺野がそこにいて「メ(芽)」から「目」への変化がある。紺野がいなければ、そういう変化はない。その「呼吸」のようなものが句点「。」のなかにある。「目ができている」のを発見したのは、あくまで紺野であって、恋人は自分の変化に気がついていない。そういう感じがする。
 で、じゃがいもが「芽」を出すように、恋人は「目」を増やす。ひとつ(ふたつ?)の目で見るというより、複数の目で見る。いや、違った。複数のものを見る。そして、見たものの数だけ「目」が増えていく。目が、芽のように、恋人の「肉体」から芽生えてくる。目(芽)の数だけ、そして世界の事実が増えてくる。
 これは、いいなあ。
 「はえる」(生える)ということばはタイトルに出てくるだけで、本文のなかには出てこないのだが、「肉体」の「連続感」が「出る」「増える」よりもなまなましい。「生える」は「生まれる」でもある。「生まれる」ことで、恋人が「増えていく」感じがする。恋人が増えるといっても、恋人はひとりなのだが……。あ、このひとは、こういう人だったのだと、暮らしているうちに少しずつわかっていく感じが、「生える/生まれる」という「動詞」として動いている。
 「呼んだら。」と「目ができていました。」を結びつけた紺野の「肉体」が、こんどは恋人の肉体を引き受けて、恋人の「肉体」の感覚を代弁している。それが「生える/生まれる」なんだろうなあ。
 ここでこんなことを書くと、性差別主義者のようだけれど、これはやっぱり紺野が女だから「生える/生まれる」という「動詞」になるんだろうなあ。男は恋人の「肉体」の変化を自分の「肉体」にできることと結びつけるとき「生える/生まれる/産む」というような動詞を思いつかないだろうなあ、とも思う。
 そういう特殊な事情(?)があって、「生える」という動詞をタイトル以外ではつかっていないのかもしれない。ほかのことばをつかっているのかもしれない。
 また「生える/生まれる」という動詞をつかうのは、先に書いたことの繰り返しになるが、「複数」という感じを強調するためかな? 「生まれる」と、そこに「肉体」が増える。世界の事実が、肉体の延長(連続したもの)として増える感じ。その「実感」。

恋人は散髪にゆきました。すっきりとすればいくつもの目がどうにも大変気に
なります。話し合って取り除くことに決めました。メには毒が含まれるとも聞
くし。彼の顔をよく洗い目を取る……包丁でひとつひとつ抉ってどこか愉快で
す。取り除いた目はジップロックに入れて区の菜園に埋めました。手をつない
で一札した場所が恋人の目の塚です。帰ってから飲んだのは温めたじゃがいも
のポタージュ。

 「目」と「メ(芽)」が、ここでも混同される。わざと混同することで、ことばの運動を軽くする。「比喩」なのだから、ほんとうのことではない。論理的ではない。てきとうに、何かが「わかる」だけでいい。
 「いくつもの目」が気になるのは、その目の数だけ「見えるもの」があるからだ。紺野も「複数の目」で見つめられ、その目のなかで紺野が複数化する。「芽」に「毒」があるように、複数の目のなかには「毒をもった目」(紺野に厳しい目)もあるかもしれない。あんまり厳しいとつらいね。だから、そういうものを「毒」として取り除く。「そういう見方はやめてよ。わたしはそういう人間じゃないんだから」云々。「話し合って取り除く」には恋人との、そういうやりとりが暗示されている。
 自分に都合のいい目(?)だけを残しておく。愉快だね。そういうことができるなら。
 さらに。

ふと食べてしまおうと思いました。食べちゃいたいくらいかわいかったから。
寝ているのを見はからって料理しました。サラダにするのです。茹でてボウル
に入れてマッシャーでつぶして。お酢で下味をつけ、刻んだきゅうり、たまねぎ、
コンビーフ、クレイジーソルトとペッパー、最後にマヨネーズを入れてよく混
ぜます。味見をすればなんとおいしいこと。

 そりゃあ、おいしいよ。自分に都合の悪い部分は全部なかったことにしてしまうんだからね。
 でも、そんなにうまい具合にいくのかな?

目を出さないようにすることはとても難しく、
毎年残される課題なのです。

 恋人だって、どんどん変わっていくからねえ。えぐりとってもえぐりとっても「目(芽)」は生えてくる。
 深刻にならずに、軽く、ことばが突っ走るところがいいなあ。

バスルームでうごく浴室乾燥機
鏡はもう曇らない
指先で字を書けなくなる前の
さいごの一文字は地球の外へ飛び出した         (「めぐりあえ宇宙」)

 その「地球の外へ飛び出した」ような軽さが、紺野のことばの魅力だ。


かわいくて
紺野 とも
思潮社

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

支払方法は、発送の際お知らせします。
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ジョージ・C ・ウルフ監督「サヨナラの代わりに」(★★)

2015-11-18 16:30:04 | 映画
監督 ジョージ・C ・ウルフ 出演 ヒラリー・スワンク、エミー・ロッサム

 ヒラリー・スワンクが筋萎縮性側索硬化症(ALS)に冒された女性を演じている。見どころは、ヒラリー・スワンクとエミー・ロッサムの演技の違い。
 ヒラリー・スワンクは「肉体」の変化を抑制的に演じている。ALSの患者は大変な困難と不自由を体験していると思うが、その動きを、なるべく健康なひとの動きにちかづけて演じているように思える。「異様」な感じを抑えて演じている。「肉体」の変化ではなく、「声」(声も肉体だろうけれど、目に見えない)の変化で症状の悪化を演じている。映画が進むにしたがって、声が低くなり、発音がゆっくりになる。不明瞭になる。これが抑制した「肉体」の「外形的」演技によって、いっそう際立ってくる。
 美しいままの映像の奥に、苦悩する精神、感情が動いている。それがそのまま、ヒラリー・スワンクの演じている「人間」の尊厳になっている。
 一方、エミー・ロッサムは、「肉体」を美しく見せようとはしていない。彼女の中に動いている感情の乱れ(?)をそのまま反映した「肉体の演技」をしている。抑制がきかない。抑制のきかない部分から、彼女の本質があふれだす、という感じ。初めてヒラリー・スワンクを自分のアパートに連れて行く。そのときの部屋の乱れは、そのまま彼女の「肉体」の延長である。乱れていても、生きて行ける。強い「肉体」と、強い肉体に任せて、どこか弱い精神(感情)が、そこにある。自分を律しきれない「弱さ」のようなものがある。
 考えてみれば、この二人はともに「自分を律しきれない」ということろで、知らず知らずにつながっている。ほんとうは、こんなふうには生きたくない。けれども、何かに負けて、こうなってしまった。
 ヒラリー・スワンクは、たまたまALSを発症しているが、それだけではなく、過去にやはり自分を律しきれなかった、制御できなかったという苦い体験をしている。自分をしっかりとみつめてくれる恋人がいた。けれど、その恋人よりも、いまの夫を選んでしまったという、深い後悔がある。そこから、エミー・ロッサムの暮らし方への、不安がにじむ。自分自身の暮らしではないのだが、エミー・ロッサムを見ていると、ヒラリー・スワンクの「肉体」のなかから「声」が出てしまう。「不安」が、いわゆる「おせっかい」のようにして、エミー・ロッサムの恋人関係への「忠告」になってしまう。二人の「肉体」と「声(本心)」が入り乱れ、ひとつになる。二人は「肉体」と「声」を交錯させて、いわば「ひとりの女」になって生まれ変わる。
 その変化が、静かに、ていねいに描かれている。
 こういうことは、映画ではなかなか演技として表現するのがむずかしい。(ことばで説明してしまうのは、わりと簡単。私が書いてしまったように……。)それを主演のふたりは演技の違いによって、「合作」として表現している。
 うーん、「高級」な映画かもしれない。
 でも、こういう「深読み」は、ちょっと危ない。映画を離れて、私はこういう映画が見たいという私の欲望を語ってしまうことになってしまうかもしれないから。
 で、ちょっと戻って。
 主演の二人が、二人で「ひとり」を感じるという象徴的なシーンについて語っておこう。エミー・ロッサムがヒラリー・スワンクに「ほんとうにしたいことは何?」と聞く。ヒラリー・スワンクが「不安でたまらない。大声で叫びたい。胸のもやもやを吐き出したい」という。そのあと、口を思いっきりあけて叫ぼうとするヒラリー・スワンクの「肉体」の動きにあわせ、エミー・ロッサムが大声で「わーっ」と叫ぶ。エミー・ロッサムの「声」がヒラリー・スワンクの「声」になる。あのとき、ふたりの「肉体」と「声」は「ひとつ」になった。
 ヒラリー・スワンクの「肉体」と「声」はエミー・ロッサムの「肉体」と「声」になるだけではない。(これは、わりとわかりやすい。)エミー・ロッサムの「肉体」と「声」は、実は、この瞬間から完全にヒラリー・スワンクの「肉体」と「声」になる。エミー・ロッサムがALSになるわけではないので、これは少し「映像」としてはわかりにくいのだが、エミー・ロッサムはこのときから「自分を律する」という生き方をしはじめる。「自分を甘やかす」のではなく、「自分を律しはじめる」。それは、エミー・ロッサムを信じて身を任せるヒラリー・スワンクの「信頼」にこたえるということでもある。他人の「信頼」にこたえるというのは、ほんとうは自分の中にいるもうひとりの自分(実現されていない自分)の「声」にこたえるということでもある。「もうひとりの自分」に生まれ変わる、ということでもある。
 エミー・ロッサムは大学をやめてまで、「もうひとりの自分」にむかって必死に生まれ変わる。ラストシーンで、その生まれ変わったエミー・ロッサムが歌を歌ってる。いつもライブで失敗していた歌。いま、それが歌える。自分のことばで。完全に、生まれ変わったのである。
 うーん、いい映画だなあ。でも、ちょっと真面目すぎるかなあ。(で、採点が辛い。)
                              (KBCシネマ2)





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