詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(42)

2005-05-27 14:33:38 | 詩集
寒山(「中国詩人選集5」岩波書店)

「そうとう諸貧士」を読む。(パソコンのフォントの関係で表記できない文字がある。そのときどきで「ひらがな」や別の漢字で代用する。別の漢字をあてた場合は、注を補記します。)

賎人言孰采
勧君休嘆息

 入矢義高は「君に勧む 嘆息するを休(や)めよ」と読んでいる。 この「休」の使い方に「詩」を感じる。
 「止」ではなく、「休」。
 なるほど、「やめる」にはしばらく休むということがある。
 ひとつの文字が、こころを今まで見落としていた感覚、意識へと誘う。
 そうした動きをうながすものに私は「詩」を感じる。


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詩はどこにあるか(41)

2005-05-26 11:23:32 | 詩集
「父母続経多」を読む。

拍手催花舞
支頤聴鳥歌
          (ささえるは手偏に「老」と「日」を組み合わせた文字
           ――表記できないので「支」で代用しています)

頤を支えて鳥の歌を聴く――この行の「頤を支えて」に「詩」がある。
鳥の歌は頤を手で支えなくても聞こえる。寝転んでもたたずんでも聞こえる。楽しむことができる。
「頤を支えて」と具体的に書くことで人間の存在がくっきり浮かび上がる。
人間を具体的に浮かび上がらせる描写が「詩」である。
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時代の叙事詩 

2005-05-17 11:42:51 | 詩集
 「黒田達也全詩集」(本多企画)が出た。黒田は50年の間に9 冊の詩集を出している。作風は幅広い。アバンギャルド風の「硝子の宿」(1956年)、ライトバースの「ホモ・サピエンスの嗤い」(88年)、自叙伝風の「幻影賦」(2002年)……。「ホモ・サピエンスの嗤い」が諧謔と悲しみの調和が美しい。一番充実している。その印象にかわりがないが、 9冊を通読することで新しく感じたことがある。
 黒田は自己の感性や思想を前面に押し出すのではなく、他者(自己以外の存在)を愛でつつみ、自己を消す。「おれのからだは透明であった」という行が「庭の芝生で」という作品にある。黒田は自己を透明にし、自己を他者が染めるがままにして提出する。

 おれのからだは透明であった
 陽の祭典の真夏のように
 実体のないおれは何かを叫びつづけているのだが
 その声がおれにも聞こえない
     (庭の芝生で)

 「聞こえない」は黒田の謙遜である。愛するものについて正確に把握できないという告白ほど、愛を強烈に語ることばはない。「できない」ということばをとおして読者は黒田の愛の強さを知る。

 ボクはなんにもいたさなかった
 いたすことを省略したのだ
     (省略する)

 黒田の自己表出は「省略」と言い換えてもいい。自分の思いは省略し、他者の思いをくみ上げ、代弁に徹する。こはばを発しない人々の思いに耳をすまし、その声をすくいあげる。

 大きな欠伸(あくび)をして 口を開いている刻(とき)など
 あのまぼろしはタロウの胸の中に入り込んで
 タロウと同じ息をする
       (欠伸)

 誰かと「同じ息をする」。それが代弁をするということだ。
 このとき、黒田自身ではなく黒田の生きてきた「時代」が浮かび上がる。黒田はどのような時代を誰と一緒に生きてきたかが浮き彫りになる。その瞬間、黒田の詩は黒田自身を超越し、時代の叙事詩にかわる。後半の 2冊「集落記」(97年)「幻影賦」は、黒田が出会った市井の人々を描き、特にその色彩が強い。
 黒田は黒田とともに生きた時代を、その時代を生きた人々の声を伝えたくて詩を書いているのだということをあらためて感じた。
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詩はどこにあるか(40)

2005-05-09 23:46:29 | 詩集
森鴎外「寒山拾得」(「森鴎外選集 第5巻」岩波書店)


 閭は小女を呼んで、汲立の水を鉢に入れて来いと命じた。水が来た。

 三島由紀夫が「文章読本」で取り上げていたと思うけれど、この「水が来た」という素早いことば運びに「詩」がある。余分なものを削ぎ落としたことばの素早い運動。精神の素早い運動。

 「詩」とは、精神が素早く運動し、いきなり本質をつかみとることである。いきなりつかみとられた事実が「詩」である。
 余分な装飾は「詩」を汚す。
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真作と模作

2005-05-06 15:24:29 | 詩集
 ラトゥール展(上野・国立西洋美術館)を見た。ラトゥールの真作と同時にラトゥールの弟子、工房職人が描いた模作も同時に展示されている。ふたつの違いがおもしろい。
 ラトゥールは蝋燭の光を巧みに描いている。「夜の情景」といわれる作品群である。この作品群に真作と模作の違いが鮮明に出る。蝋燭の光というよりも、影、闇の描き方に違いが大きい。
 「煙草を吸う男」。真作は、背中が闇に溶け込んでいる。闇の波が存在を漂わせ、夜のなかへ人をさらっていく。手に持った明かりの同心円が人間をこの世界に引き留めている。光は人間をこの世界に引き留めるものなのだということがわかる。一方、模作は人間(存在)と闇の境界がくっきりしている。
 なぜこんなに違いが出るのか。ラトゥールが実際の情景を見て絵を描いているのに対して模作が絵しか見ていないからである。技法しか見ていないからである。光と影はどのような技法で描けるか。――そうした意識に支配されているためだろう。その結果、存在と闇の関係がなおざりになってしまう。
 ラトゥールは単に夜の情景を描いたのではなく、夜と人間の関係をこそ描いた。「書物のあるマグダラのマリア」はその傑作である。暗闇に飲み込まれていく人間と光に引き留められる人間。その精神性が弟子や職人には伝わらなかったということだろう。真作と模作はさまざまな分野で見受けられることだが、その違いを考えることができるおもしろい企画だと思った。 
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