詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス拾遺(中井久夫訳)(5)

2014-04-25 10:04:28 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス拾遺(中井久夫訳)(4)(作品は「現代ギリシャ詩選」から)

九 たそがれ

きみは知っている。閉め切った部屋の中の夏のたそがれを。天井板にかすかに赤い残照が映え、机の上には半ば詩が開かれて――。詩は二編だけ。一種の不死(むろん相対的さ)の、一種の自己満足の、一種の自由の、究極を極める旅の――そういった約束の反故だ。

そとの通りには、すでに夜の呼ばわる声。神々の、人間たちの、自転車の、軽い影。建築の仕事時間が終わった。若い建築労働者たちは、自分の道具を抱え、硬い髪を汗に濡らせ、着古した上着の漆喰のはねをとどめて、夕靄にニスを塗って荘厳する。

階段の上からの振子時計の断固たる八点鐘が廊下の端から端まで響く。すりガラスの裏に隠れた槌が力づよく打ち鳴らす、仮借ない時鐘の音。その刹那、永遠の鍵の回る音がする。鍵をかけているのか、外しているのか、どちらだろうか。詩人にはどうしても確かめられない、あれらの鍵の音。

 最初の部分は、いかにもリッツォスらしい「視覚」の風景だが、最後の部分は、私にはカヴァフィスの姿が見える。「鍵をかけているのか、外しているのか、どちらだろうか。」がカヴァフィスの世界だ。反対のことが向き合っていて、どちらかわからない。リッツォスはこれにつづけて「詩人にはどうしても確かめられない、」と書くが、そうだろうか。カヴァフィスは「どちらか」を確実に知っている。本能がどっちを望んでいるかを知っている。わかっているから苦悩する。一方は本能(欲望)を誘い、一方は欲望のままに動いてはいけないと戒める。この対立を意識(精神)の対立という形ではなく「声」の対立として描き出すのがカヴァフィスだ。
 リッツォスは禁欲的だが、カヴァフィスは禁欲的ではない。放蕩を好む。カヴァフィスは苦悩が官能をさらに刺戟することを知っているから、官能の手前で逡巡して見せるだけである。それは一種の自己演出である。。
 「確かめられない」のはむしろリッツォスである。「確かめられない」ということばにリッツォスが出てきてしまう。リッツォスは放蕩の本能を生きることはない。放蕩を放棄した人間から見れば、カヴァフィスの「揺れ」が「あいまい(確かめられない)」でだらしないものに見える。そして、なぜだろうと疑問に思う。その疑問が「確かめられない」という批判的なことばになってあらわれる。


十 最後の時

かぐわしいかおりが部屋に漂っていた。記憶からやってきたかおりかも。むろん、この春の宵だ、半ば開いた窓からはいってくるのかも。詩人はこれから携えて行く品物を選り出す。大きな鏡をシーツで覆う。こうなってもまだ詩人の指にまつわって離れないのは、かつての形よい身体の感触であり、おのれのペンの孤独な書き心地である。触覚に対立はない。詩の究極の合一だ。詩人は誰をあざむこうとも思わない。おのれの命の終わりが近づいている。詩人はもう一度自問する。「今の心境は感謝だろうか、感謝したいという意志だろうか」。寝台の下から詩人の古びたスリッパが覗いている。詩人はスリッパには覆いをかけないでくれという(むろん別の時にすることだ)。詩人はちいさな鍵をチョッキのポケットにしまい、スーツケースに腰をおろす。部屋のまんまん中だ。ほんとうにひとりだ。詩人は鳴咽しはじめる。おのれの無垢をはじめてこのように正確に意識して。

 この詩には視覚以外のものがある。「かおり」と「身体の感触」(触覚)。「触覚に対立はない」という表現はカヴァフィスの世界を核心をあらわしたものだと思う。ただし、その前の「形よい」という表現はやはりリッツォスであってカヴァフィスではないと私は思う。カヴァフィスなら「形よい」とはいわずに「見目よい」というに違いない。「形よい」と「見目よい」はどう違うか。「形よい」の「よい」は対象に属する。「見目よい」の「よい」は自分の目にとって心地よい。カヴァフィスなら、対象そんなふうに自分の肉体に引きつけるだろうと思う。自分の肉体の好みで「よしあし」を決める。リッツォスは視覚の詩人なので、どうしても対象を自分から切り離して、客観的なところから眺めてしまう。
 この「触覚」へ入っていく前の、「大きな鏡をシーツで覆う。」の「覆う」がリッツォストカヴァフィスの違いを象徴している。「触覚」へ入っていくためには、視覚人間のリッツォスは鏡を隠さないといけない。眼で自分の姿を確認する(鏡を見る)ことをやめる(視覚を封じる)ことでしか触覚に没入できない。
 カヴァフィスが「自画像」を描くなら、鏡をシーツで隠したりはしない。鏡に自分の姿を映し、その眼に見える肉体に、眼で触る。眼もカヴァフィスにとっては触覚になる。すべての感覚は「肉体」のなかで融合している。



十一 死後

大勢が詩人に寄越せという。詩人を取り囲んで押し合い争う。詩人の上衣を狙ってのことだ。ふしぎな上衣だ。堂々とした正式の上衣なのに、どこか艶なところがあり、一風変わった味がある。神々がおしのびで死すべき人間たちとつきあう時に着たまう衣類一式の、この世ならぬ風情に通じるものだ。神と人とが共通の言語で共通の話題を語る時、にわかにその衣の襞がふくらむのは、無限定なるもの、彼岸なるもの吐息のためだというが。
 争いは続く。詩人に何ができよう。群衆は詩人の衣を裂き、下着を裂く。革帯もちぎった。取り残された詩人はただの裸の人。恥かしいその姿勢。皆あっちへ行ってしまった。まさにこの刹那に詩人は大理石に変容する。長い年月が過ぎて、大衆はここに輝かしい彫像のあるのに気づく。すくっと立った、ほこらかな、裸形の姿。パンテリオン産の大理石を刻んで作られた「みずからを罰する永遠の若人の像」だと皆は言う。皆は巻いてあるカンバスを繰り出して像を包み、除幕式がいつ始まってもよいようにする。

 詩人の上衣の描写がおもしろい。それこそ一風変わった味がある。上衣「艶がある」の理由を、「神々がおしのびで死すべき人間たちとつきあう時に着たまう」衣類と似ているからだという。そこには「神(不死)」と「死すべき人間」という相いれないものが同居している。矛盾の共存がカヴァフィスの特徴である。
 「おしのびで」というのも、すばらしくカヴァフィス的だ。ほんとうはタブーなのだ。タブーには「この世ならぬ」ものがついてまわる。この世の常識を無視してタブーを生きるとき(カヴァフィスの場合はそれは男色を意味するが)、この世にはなかったものが出現する。この世では手に入らないものが直に触れてくる。
 それは神と人間との「共通の言語」となって動く。神は人間のタブーにはしばられない。この世のタブーを破るものだけが、神との共通言語を手に入れる。タブーを破ったものの「声」は神と対話する声なのだ。
 その「共通の言語」をリッツォスが「無限定」と呼んでいるのは正しい。それは「理性」の限定を叩き壊して、本能に直接語りかける。

十二 遺産

あの亡くなった詩人はほんとうに立派な詩人だった。比べるもののない優れた詩人だった。詩人が私たちに残してくれたものはさて何だろうか。それは、わらわれ自身を測る絶好の物差しである。何をさておいてもわが隣人を測るにはもってこいだ。あ、この人はあの人よりも低い。とても丈が低い。この人は幅が狭い。この人は竹馬のようにひょろりと高い。誰にも何の価値もない。無だ。ないのだ。われわれだけだ。われわれはこの物差しにぴったりの使い方をした。だが、どんな物差しのつもりだ? これこそは復讐の神ネメシス、主天使の剣である。われわれはすでに剣を研いだ。今やありとあらゆる者の首をはねることができるのだ、次々に。
                            一九六三年秋 アテネ


 カヴァフィスを(その詩を)、「物差し」と定義したのは、とても魅力的だ。カヴァフィスの詩は、「主観」の表明である。「客観」というものを書こうとはしていない。しかし、それが「客観」ではなくて「主観」だからこそ、「物差し」になる。
 だいたい人間の価値、感情の価値というものなど測ることはできない。リッツオスは「秤」ということばを何度か一連の作品のなかでつかっているが、その秤は「重さ」を数値として客観的に測るのではなく、比較するものである。右寄り左の方が重い、あるいは左寄り右が重い、いや二つひとしい(釣り合っている)という具合に。それはあくまで「ある主観」と他の主観を比較しているのであって、絶対的な数値、客観的な事実を測定しているのではない。感情(欲望)には数値などないから客観化はもともと無理なのだ。
 カヴァフィスは客観を放棄し(客観を他人の判断に任せ)、主観だけを詩のなかに放り出した。剥き出しの主観、つまり本能の正直さをそのまま声にした。
 その輝かしい本能の声、無垢な本能の強い声と比較しながら、私たちは私たち自身の本能がどこまで到達しているかを知る。カヴァフィスの巨大な主観と比べると、私たちの主観など限定されたものに過ぎない。「物差し」の単位が違いすぎて、私たちの主観はカヴァフィスの主観では測ることができない。私たちは私たちの主観の首がはねられるのを震えながら受け入れるしかない。リッツォスの客観は、敬意をこめて、カヴァフィスをそんなふうに評価している。
 この詩をリッツォスが書いたのが「一九六三年」ならば、カヴァフィスの死後三〇年たつ。リッツォスはカヴァフィスを追悼することばを見つけ出すまでに三〇年の年月を必要とした。それほどカヴァフィスは巨大だったということだろう。



括弧―リッツォス詩集
ヤニス リッツォス
みすず書房
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リッツォス拾遺(中井久夫訳)(4)

2014-04-24 10:59:57 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス拾遺(中井久夫訳)(4)

五 詩人の眼鏡

詩人の目と対象との間にはいつも詩人のヘルメス的な眼鏡の玉が割り込んでいる。詩人の眼鏡は、きめこまかに気くばりしながらどこか心ここにあらずのさまで、手抜きせずに知らべあげながらぽっと抜けている。超脱した無私のガラスの砦だ。防壁でもあり監視所でもある。対象をあか裸にする鋭い詩人の神秘の眼光を取り巻く二つの水のみちだ。いや、天秤の二つの皿というほうがいい。しかし、天秤は、どうしてだろう、垂直に下がってはいない。横に寝ている天秤だ。水平の天秤は虚空しか載るまい。そして虚空を知ることしか。一糸まとわぬ天秤、水晶の天秤、きらめく光をちりばめた天秤。だが、かがやく鏡の上に映る、詩人の内面と外面との幻想のかずかずの重なりは、均衡と統一とを見せ、実に具体的、実に堅固で、空虚全体を反駁している。

 リッツォスがとらえるカヴァフィス像。「きめこまかに気くばりしながらどこか心ここにあらずのさまで、手抜きせずに知らべあげながらぽっと抜けている。」気配りと放心(ぼんやり)、厳密(手抜きしない)と抜けている(ぼんやり)という矛盾(両極端)が共存する。この指摘はたしかにそのとおりだと思う。リッツォスのことばには「心ここにあらず」とか「抜けている(ぼんやり)」という感じはない。いつも張り詰めて緊張している。これに対しカヴァフィスは主観的でありすぎる。だから、カヴァフィスの主観に動かされる姿勢が、リッツォスには「抜けている」ように見える。「ぼんやり」に目が止まってしまうのだ。
 カヴァフィスのげみつさと手抜きの両極端の共存を理解するためにリッツォスは不思議な比喩を持ち出している。「天秤」。これは直接的には眼鏡の形から思いついた比喩だが、ここにもリッツォスの視覚詩人という側面が反映している。天秤というのは重さの違いを視覚で判断する(どちらが下がっているかを見て判断する)ものだが、眼で判断できることがリッツォスにとっては重要なのだ。
 私の印象ではカヴァフィスは眼よりも耳の詩人、他人の声を聞く詩人だが、リッツォスは肉声を聞きとることが苦手な詩人である。またあたたかいとかつめたいとか、視覚であらわすことのできない触覚のなかでおぼれるようにして自己を確認することも苦手な詩人である。ぼんやりしたもの、あいまいなものが苦手で、そういうものを語ろうとするとことばは抽象的で硬質になってしまう。「詩人の内面と外面との幻想のかずかずの重なりは、均衡と統一とを見せ、実に具体的、実に堅固で、空虚全体を反駁している。」という漢字熟語が次々に出てくるような部分に、それが濃厚にあらわれている。



六 避難所

「表現とは」と詩人は言った。「何かを語るという意味ではない。とにかくことばを話せばいい。話すということはきみをくまなくみせることだ。話すにはどうすればいいかって?」。続く詩人の沈黙は次第に透明となっていった。ついに詩人はカーテンの陰に隠れた。窓の外を見ているふりをした。だが、われわれの視線を背中に感じると、詩人はふりむいて顔をカーテンの陰からのぞかせた。まるで白い長衣を身にまとっているようだった。詩人はけっこう楽しんでいたが、どこか時代おくれの感じがした。それが詩人の目論見だった(そのほうがいいと思ったというか)。おそらく、こうすれば、何とかわれわれの疑惑を、敵意を、憐愍をそらせられると思ったのだ。それとも、将来詩人を賛美する手がかりをわれわれに授けておこうと思ったのか(いつかは賛美されるとは詩人の予言だった)。

 ここにも、リッツォスとカヴァフィスの違いがあからさまにあらわれている。
 「話す」はたしかにカヴァフィスの本質である。カヴァフィスの詩には「話された本音」が動いている。カヴァフィスはいつでも詩の登場人物に本音(主観)を語らせる。そして、けっして「沈黙」させない。「声」を出さないときは「肉体」そのものがことばをしゃべる。目つきや手つき、身振りがことばでは言えないことを語る。カヴァフィスにあっては「沈黙」は「透明」にならない。沈黙は澱みのように濁り、その濁りが発する熱や匂いが周辺にただよう。
 この身体の周辺にただようことばにならない「感触」をリッツォスはことばにできない。
 だから、ここでも「沈黙」した詩人の姿は、「われわれの視線を背中に感じると、詩人はふりむいて顔をカーテンの陰からのぞかせた。」と逆方向から書かれる。カヴァフィスを見てリッツォスが何かを感じる前に、カヴァフィスがリッツォスの視線を感じて振り向くという行動をとる。他者が発している肉体のことば(視線)を感じる能力はカヴァフィスの方が強いのである。
 カヴァフィスの反応を「見て」、それからリッツォスのことばは動く。「白い長衣」という視覚からはじまり、やがて「何かとわれわれの疑惑を、敵意を、憐愍をそらせられると思ったのだ」という憶測へことばは動いていくが、「疑惑」「敵意」「憐愍」というようなものはカヴァフィスが発しているものではなく、リッツォスの頭の中にあることばだろう。リッツォスが頭の中にあることばを、カヴァフィスに押し当て、それを「輪郭」として提出している。「思った」というのは、そういうことである。カヴァフィスの「肉体」からあふれてくるのを感じたのではない。リッツッスが考えたことを、カヴァフィスににあてはめているのだ。



七 かたちについて

詩人は言った、「かたちは頭で発明するものでも、外から押しつけるものでもない。その素材の中に含まれているものである。内部から外部へと出ようともだえる運動をみて、かたちがはっとわかることもある」。「平凡ですね」とわれわれは言った、「つかみどころのない言葉ですね。何をいわんとしておられるのですか」。詩人はもう語らなかった。おとがいを両手でくるみこんで支えた。一つの単語を二つの疑問符で挟んだみたいだった。詩人の紙巻煙草は結んだ口に残る。吸うとも消すともどっちつかずの煙草は、火のついた白いアンテナだ。「・・・」の代わりだ。詩人が書き止む時、ただ書き止むのでなくて至るところに組織的に残してゆく三つの点の代わりだ。(それともあれは無意識だろうか)。

このさまを見ているとおぼろげに見えてくる。詩人が小さな駅の待合室で徹夜している姿だ。待合室は冬の夜など旅客が袖すりあうところ、石炭の匂いの漂ってくるところだ。その匂いはどこから漂ってくるのだろう。旅の果てしなさからか。旅客たちの長年のひそかな馴染みゆえのおたがいのおしゃべりの間からか。今、汽車の煙が静かに立ち昇っている。二つのヘッドライトのつくる二つの水平の円錐の上方に、煙は濃く、重く、押し詰まって、細かい壁まで彫刻のようだ。二つの別れと別れとの間。詩人は紙巻煙草を消して立ち去る。

 ここに書かれるカヴァフィスが実像なのかどうかわからない。リッツォスならではのカヴァフィスという感じがする。「かたちは頭で……」はアリストテレスのことばだが、カヴァフィスはこんなふうに他人の語った「意味」をことばにはしない。少なくとも詩の登場人物に「意味(客観)」を語らせることはない。カヴァフィスは詩の登場人物に「客観」ではなく「主観」をしゃべらせる。本音をしゃべらせ、声を聞かせる。「意味」なんて、どうでもいい。
 「主観」はときとしてつかみどころがないが、それは「頭」でつかみとろうとするからつめないのであって、感覚でならつかむことができる。「意味」はわからなくても、悔しいんだ、妬んでいるんだというような感情(欲望)がわかることばをカヴァフィスは人間にしゃべらせる。
 視覚詩人のリッツォスは、そういうことが苦手だ。リッツォスが得意なのは、視覚と抽象的なことばの結合である。「おとがいを両手でくるみこんで支えた。一つの単語を二つの疑問符で挟んだみたいだった。」この比喩はリッツォスの発明だ。カヴァフィスはこういうことができない。しようともしない。
 「このさまを見ているとおぼろげに見えてくる。」はリッツォスの基本的な姿である。見ていると見えてくる。見ているとわかってくる。逆に言えば見えないとわからない。これがリッツォスである。そして、「見る」から「わかる」までの間には時間がある。「見る」と「わかる」の間の時間を抽象的なことばで埋めて、「見る/見える」を「わかる」に変える。
 カヴァフィスは、そういう間接的なことばの動かし方をしない。世界のつかみ方をしない。「見る」をつかうとすれば「見ればわかる」という形だろう。二つの動詞はぴったりとつくっついている。融合している。余分な概念で「見る」と「わかる」をつなぐ必要がない。
 リッツォスは、何かと融合するとすれば、それは「孤独」とだけ一体になる。ほかのものとは一体にならない。


八 誤解

詩人のこの曖昧さは我慢ならないな。この曖昧さはぼくらを試しているんだ。詩人自身も試されているわけだけれど。詩人の曖昧さはむろん本心ではない。詩人の躊躇も、怯惰も、確固たる信念の欠如も。きっと、ぼくらを詩人の錯雑たる世界に巻き込もうとしているのだ。詩人は眼差しをはるかに遣る。こころの広い、鷹揚なひとに見える。(甘やかされたひとのようでもある)。真白なシャツに薄いグレイの完璧なスーツ。ボタンの孔に菊が一輪。だが詩人が立ち去った後、詩人の立っていた箇所の床に、ぼくらは小さな明るい赤色の水たまりを見てしまう。美しい素描き。きっとギリシャの地図みたいだ。地球の縮図だ。陸と海の切れ込み具合はいいんだが、国境線はずいぶんあやふやだ。国境は色の一様さのためにないも同然ではないか。七月という月、生徒たちが皆、目くるめく浜に去って、しっかりと戸を閉めた白い学校の地球儀だ。

 これは、とてもおもしろい。「詩人のこの曖昧さは我慢ならないな。」とリッツォスは率直に書いている。私は、しかしカヴァフィスのあいまいさが大好きだ。あいまいさのなかにずぶずぶとひきこまれてゆき、身動きがとれなくなる。おぼれるしかない。そういう時にカヴァフィスの詩を読む愉悦を感じる。「詩人の曖昧さはむろん本心ではない。詩人の躊躇も、怯惰も、確固たる信念の欠如も。」とリッツォスは書くが、私は逆に感じている。すべてが「本心」である。「主観(本能)」である。
 (甘やかされたひとのようでもある)と括弧でくくられている部分に、私はカヴァフィスを見る。カヴァフィスの美しさは甘やかされて育った人間の美しさだ。本能、欲望が抑圧されていない。禁忌によって傷ついていない。その、のびやかな輝きが艶っぽい粘着力になって私を誘う。リッツォスは逆に抑制に耐えて生き延びた本能の孤独で私を魅了する。。
 この詩にはまったくわからないところがある。「詩人の立っていた箇所の床に、ぼくらは小さな明るい赤色の水たまりを見てしまう。」の「赤色の水たまり」が何なのかわからない。比喩なのか。「素描き」「ギリシャの地図」という表現が続くから、ギリシャの現実と何か関係するのだと思う、想像がつかない。
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リッツォス拾遺(中井久夫訳)(3)

2014-04-23 10:02:46 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス拾遺(中井久夫訳)(3)(作品は「現代ギリシャ詩選」から)

「カヴァフィスにささげる十二詩」

一 詩人の部屋

浮き彫りにした飾り付きの黒い書き机。銀の燭台が二つ。愛用の赤いパイプ。いつも窓を背に安楽椅子に座る詩人はほとんど目にとまらぬ。部屋のまん中のまばゆい光の中にいて語る相手を眼鏡越しに凝視する。巨きな、だがつつましい詩人の眼鏡。おのれのひととなりを、言葉の陰に、おのれのさまざまの仮面の陰に隠す。遠い距離にいる、きずつかぬ詩人。部屋にいる者どもの視線をまんまとおのれの指のサファイアの絹ごしのきらめきに釘づけにして、通人の舌で彼らの語る言葉の味利きをする。嘴の黄色い若者が詩人をほれぼれと眺めて唇を舌で湿す時だ。詩人は海千山千。悪食。貪食。血の滴る肉を厭わぬ。罪に濡れぬ大人物。肯定と否定のあいだ、欲望と悔悛とのあいだを、神の手にある秤のごとく一つの極から他の極まで揺れる。揺れる、そのあいだ、背後の窓から光が射して、詩人の頭に許しと神聖の冠を置く。「詩が許しであればよし、なければ、われわれはいっさいの恩寵を望まない」と詩人はつぶやく。

 リッツォスはカヴァフィスに会ったことがあるのだろうか。詩を読み、噂を聞いてつくられたカヴァフィスのイメージだろう。「部屋にいる者どもの視線をまんまとおのれの指のサファイアの絹ごしのきらめきに釘づけにして、通人の舌で彼らの語る言葉の味利きをする。」が生き生きしている。他人の視線をサファイアに引きつけ、その一方で他人のことばを吟味する。「舌」「味利き」という表現、ことばを「食べ物」として味わっているカヴァフィス。そうか、カヴァフィスは、すべてを食べていたのだ。しかも、冷徹に。欲望にふけるというよりも、欲望を確かめるように。
 ここには何か不思議な矛盾のようなものがある。夢中にならない何か、「味利き」の「利き」がそういうことを感じさせる。「悪食」「貪食」が、矛盾という概念を刺戟する。美食ではない。悪食。だからこそ、食べて吟味する。その欲望の貪欲さが、そこにあるものを「うまく」してしまう。「うまい」ものにかえてしまう。
 語られることば、語られたことば--それは、カヴァフィスに食べられること、咀嚼されること、その結果として詩に書かれることで、どんなに「悪食」であっても、「美食」にかわる。それが「許し」であり「恩寵」だ。リッツォスは、そのカヴァフィスの魔法を見ている。
 「否定と肯定」「欲望と改悛」「一つの極から他の極まで」という反対のものが、カヴァフィスに食べられ、咀嚼されることで、カヴァフィスの「肉体」になってしまう。カヴァフィスの「ことばの肉体」になってしまう。カヴァフィスはどんなことばでも、自分の「ことばの肉体」の一部にしてしまう。
 そんな姿を見ているのかもしれない。その姿は、人間というより、半神半獣のような、人間離れした強靱な何かを感じさせる。「罪に濡れぬ」というのは、人間の基準では罰せられないということかもしれない。カヴァフィスのことばをリッツォスは、そう受け取っていたのだろう。
 それは野蛮な強靱さというものかもしれないが、カヴァフィスは野蛮だけではない。「秤」ということばが出てくるが、同時に「知」なのだ。野蛮と知性の結合--というのも何か矛盾を感じさせるが、矛盾が詩人のすべてであるとリッツォスはカヴァフィスを評価しているのだと思う。



二 詩人のランプ

そのランプは従順に仕える。詩人の明かりはこのランプでなくてはかなわぬ。その時時のあるべきように合わせて変わるランプ。詩人のこころの、永遠につきない、そしていつも思いがけない希みに合わせて変わるランプ。いつも灯油の匂いがただよっている。詩人が深夜ひとり帰宅するとき、匂いはやさしく、ひっそりと分をわきまえていつもある。疲労を五体ににじませ、むなしさを上着の織り目、ポケットの縫い目にしみとおらせて、ついには、あらゆるものの動きが我慢ならない、うわべかぎりのものと思ってしまう、その時、ランプは詩人にいくばくかの救いである。今日も芯にマッチを近づける。ぼっと炎がゆらぐ。(影が壁に机に寝台に揺れる)。いや何よりも鏡だ。すき透った脆い鏡。最初の一瞬に映る無邪気な、ありふれた、人めいたしぐさが、きみを保ち、ひとを支える。そんな鏡に映る姿を作り出す炎の力。

 リッツォスがカヴァフィスどうとらえていたのか--そう考えるとき、私は、ときどきもどかくし感じてしまう。
 リッツォスはカヴァフィスを視覚でとらえすぎる。この詩には「匂い」ということばが出てくるが、匂いは嗅覚を刺戟するよりも、視覚へと変化して行ってしまう。それがリッツォスの特徴なのかもしれない。
 「いつも灯油の匂いがただよっている」と書くが、リッツォスは「匂い」の世界、嗅覚の世界へとは入っていかない。「ただよう」は「炎がゆらぐ」の「ゆらぐ」へ、さらにはと「揺れる」へと変化していく。リッツォスは「匂い」さえも「ただよう」もの、「ただよい」(揺れ)として見ている。「影が壁に机に寝台に揺れる」の「影」ということばがでてきてしまうところが象徴的だが、輪郭を描くことが難しい光ではなく、目に見える形にたどりついてことばを動かさないとリッツォスは落ち着かないのだろう。「匂い」には形がないが、形のないままでは、リッツォスは、その存在を把握できないタイプの詩人である。その点でカヴァフィスと完全に異なっている。カヴァフィスは視覚を必要としない。視覚にたよらずに対象を把握してしまうところがある。たとえば、この詩に出てくる「匂い」で対象を把握してしまう。ところがカヴァフィスは「匂い」と書きながら、匂いではカヴァフィスをとらえきれずに、「形」のあるもに頼ってしまう。
 「鏡」「姿」とリッツォスは書いているが、カヴァフィスは自分の存在を確かめるのに「鏡」を必要としなかった詩人である。目に頼らず、たとえば「詩人の部屋」で描かれていたように、「舌」で自画像を描ける。ことばを聞き、その味を知ることで自画像を描ける。声で、耳で、他人を理解すると同時に自分をとらえる詩人だ。
 この詩を読むと、リッツオスとカヴァフィスの違いばかりが印象に残る。
 リッツォスのことばを読んでいると、カヴァフィスのことを書いているというよりも、リッツォスがカヴァフィスを把握するとき、リッツォスの肉体のどの部分、感覚のどの部分をつかっていたかということの方を強く感じる。つまりリッツォスの自画像の方が目立ってしまう。



三 夜明けの詩人とランプ

あ、今宵もようこそ。またしてもふたりが向かいあう。詩人とそのランプだ。詩人はランプを愛している。気にもとめていないような冷淡さはうわべだけだ。ランプへの愛は、ただ仕えてくれるからではない。何よりも、いつくしみ手塩にかける値打ちがある。古代ギリシャの生き残りの繊細なランプだ。ランプのまわりには光の敏感な夜の虫とかずかずの記憶とが群がる。ランプは老いたる者の皺を消し、そのひたいを広く見せ、若い身体の影を気高くし、その穏やかな灯は、まだ書かれていないページの白さのうえに拡がり、詩にひそむ深い血の紅を掩い隠す。明け方になり、ランプの光が弱まって、昼の光の薔薇色にとけこむ時、商店街の鉄のシャッターの開く音に、手押し車の、果物売りの音にとけこむ時、ランプは詩人の「不眠」そのものが凝り固まったひとつの物だ。それはまた、ガラスの架け橋でもある。詩人の眼鏡のガラスからランプのほやのガラスへ、ほやから窓のガラスへ、そして戸外へ、さらに外へ、向うへと続くガラスの架け橋。ガラスの橋は、詩人を彼の市アレクサンドリアの上空へと運ぶ。市井のまん中に詩人を据える。そして、詩人の意志で夜と昼とをひとつにつなぐ。

 またランプが出てくる。「ランプのまわりには光の敏感な夜の虫とかずかずの記憶とが群がる。」の「虫」「群がる」ということばは、カヴァフィスのもっている野蛮な力を感じさせるけれど、生々しさはない。すぐに「老いたる者のしわを消し、そのひたいを広く見せ、若い身体の影を気高くし」というような明るいイメージがとってかわる。暗く、淫らで、野蛮な力は、リッツォスのことばでは掬い取ることができない。
 おもしろいのは音に関する描写だ。カヴァフィスの描く音はもっぱらひとの声、口調であるのに対し、リッツォスは物理的な「物音」を書いている。リッツォスには「声」さえも「音」である。「果物売りの音」とリッツォスが書いているものをカヴァフィスなら「果物売りの声」と書くかもしれない。いや、「声」とは書かずに、売り口上をそのまま口語で書くのではないのか。
 「ガラスの架け橋」ということばが出てくるが、そういう繊細な表現は、何かカヴァフィスの強さには似合わない。リッツォスの孤独には似合うけれど……。


四 ランプを消す

いよいよ大いなる消耗の時。ぎらつく朝。裏切って秘密をばらす朝だ。詩人の夜がまたしても一つ終わる。朝は、磨きあげた鏡よりも残酷に打ちのめす。にくさげに眼と唇のまわりの皺をいちいちあばきだす。こうなっては、ランプの思いやりも詮ない。カーテンを引いてもはじまらない。夏の夜の熱い吐息がゆっくりと冷えていった、あのシーツの端の硬い感触--。しかし、残ったのは小さな輪のいくつか。わかい巻き髪からはらりと落ちた巻き毛。ちぎれた鎖だ。あの同じ鎖だ。誰が鍛えた鎖か。いや、思い出は救いにはならぬ。詩もだ。しかし、眠ろうとして火を吹き消そうとしたランプのほやにかがみこみ、炎が消えようとする、いまわのひとときに、詩人ははっとさとるのだ、詩人は、永遠のガラスの耳に、ひとつの不死なる言葉を直に吹き込んでいるのだと。不死なることば、--あまさずおのれのものなる言葉、まことのおのれの息だ、物質のつく溜息だ。ところで、吹き消したランプの匂いが夜明けの部屋にただようのはいいものだね。

 カヴァフィスの男色の一面を描いている。詩の最後に「ランプの匂い」が出てくるが、これはリッツォスの感覚からすると「付け足し」のような印象がある。カヴァフィスは「匂い」に敏感だったかもしれないが、リッツォスは嗅覚は鋭くはない。リッツォスは視覚の詩人である。それは、「残ったのは小さな輪のいくつか。わかい巻き髪からはらりと落ちた巻き毛。ちぎれた鎖だ。」という部分にくっきりと見てとれる。ベッドに残っている巻き毛を「鎖」という別の形の比喩にする感覚に視覚を生きているリッツッスがあらわれている。眼で見たものが、別の眼で見えるものを呼び寄せ、そこに「意味」を見出す。リッツォスのことばは、そんなふうに動いていく。
 朝の光が老人・カヴァフィスの皺という秘密をあばく。夜見えなかったものが、あるいはランプの明かりではやわらかな陰影に隠れていたものが、朝の強い光で明確に見える。リッツォスは明確を好む。硬質なものを好む。
 それは「夏の夜の熱い吐息がゆっくりと冷えていった、あのシーツの端の硬い感触」ということばにあらわれている。熱い吐息の輪郭のない広がりよりも、汗が冷えて固くなっていくシーツの感触の、その「硬い感覚」。角があるもの、エッジがあるものにことばが動いていく。孤独を感じさせるもの、「炎が消えようとする」という感じのことに近づいていく。明確であり、そして孤立するものとリッツォスのことばは親和力がある。
 カヴァフィスのことばは逆だ。リッツォスが書いていることばを借りて言えば「熱い吐息」のようにうごめくものと親和力がある。「残酷」「にくさげ」というなまなましいものとも親和力がある。そういうものと親和する力があるとわかっているから、リッツォスも、そういう表現を詩に取り込むのだが、だんだん自分の好みにしたがってことばが変わっていく。
 ことばは書いている人を裏切ることはないのだ。どんなにカヴァフィスを描いても、リッツォスのことばはリッツォスをあらわしてしまう。
 ただ「ひとつの不死なる言葉を直に吹き込んでいる」の「直に」はカヴァフィスをがっしりとつかんでいるように思える。カヴァフィスは対象に「直に」息を吹き込み、対象のもっている「声」にしてしまう。カヴァフィスの「ことば」が対象の「声」になる。肉体が「直に」ふれあって、本能がうごめくように、がまんしきれず「声」になる。ことばは「意味」を越えて、本能を「直に」露呈する「声」になる。


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リッツォス拾遺(中井久夫訳)(2)

2014-04-22 10:56:11 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス拾遺(中井久夫訳)(2)(作品は「現代ギリシャ詩選」から)

三幅対

一、たそがれ

彼は彼女の手を取った。無言だった。
彼は遠くに聞いた、海の豊かな脈動を--、
自分の内部に聞いたのかも。
海も松も丘もみんなきみの手だよ--、
そうとでも言わなければ、どうして彼女の手を握れよう?

ふたりは無言のまま。たそがれが深まる。木々の下には彫像が一つ。
それも左右の手が取れて--。

 「三幅対」「一、たそがれ」「二、女性」「三、どうしてぼくらがわるいのか?」の作品で構成されている。三幅の対、対になったものが三つという意味だろう。ひとつの作品が二連(対)で構成されている。「対」を一つずつ読んでいく。
 この作品はギリシャの古い彫像を見て思いついたのだろうか。ミロのビーナスには両手がないが、そういう彫像を見て、どうして手がないのだろうと想像したとき、この詩が生まれたのかもしれない。男と女が「対」であると同時に、男と女の関係と、両手の取れた彫像が「対」になっている。向き合っている。向き合って、互いを補っている。
 男(彼)が女(彼女)の手を取って、そのとき手のなかを流れる血潮の音を聞いた。それは女の手のなかの音なのか、それとも男自身の手のなかの音なのか、わからない。一つになっている。その音は男には「海の音」に聞こえる。松も、丘も、やはり手に触れれば「脈動」を感じる。それは松の脈動か、丘の脈動か、あるいは自分自身の脈動かわからない。
 あるいは、こう言うべきなのか。
 自分以外のものに触れて「脈動」を感じることができるのは、自分のなかに「脈動」がある人間だけである。自分の脈動が相手の「からだ(肉体)」のなかへはいり込み、誘い水のように、その肉体から脈動を引き出す。
 その二つは融合して区別がつかない。
 それは見方をかえれば、「手」がどこにあるかわからないということでもある。「手」がないということでもある。「手」は海や松や丘にあって、男の(女の)肉体には属してはいない。(だから二連目に手のない彫像が愛の象徴としてあらわれる。)四行目の「海も松も丘もみんなきみの手だよ--、」はそういうことを先取りして言ってしまっている。
 詩は論文ではないので、ことばが順序立てて動くわけではない。突然、答え(結論)があらわれて、そのあとで原因や理由を探すということが起きる。いや、その原因や理由も結論に遅れてやってくるというわけでもない。あらゆることが、ことばになった瞬間に、結論になったり、原因になったりする。そこには時間の「前後関係」がない。
 木々の下に両手のない彫像がある。それが「ある」瞬間と、男が女の手をとって「脈動」を聞く瞬間、手は海であり松であり丘であると感じる瞬間、手は海であり松であり丘なのだから手はないのだと感じる瞬間、それは「同時」に起きる。
 ことばは書いていくと(あるいは声に出して話すと)、そこにはどうしても「前後関係」が生まれてしまう。「前後」は「時間」と勘違いされるが、詩のことばには「あと・さき」という「前後」がない。それは、瞬間的に「同時」に起きている。
 結論と原因が「同時」に起きるというのは「矛盾」かもしれないが、そうだとしたら、その「矛盾」が詩なのである。「矛盾」しているから、「論理的」には説明できない。「論理」を捨てて、そこに起きている「わけのわからない驚き」を受け入れるしかない。詩を楽しむというのは、そういう「わけのわからなさ」を引き受けるということだ。
 「矛盾」というのは「矛」と「盾」が「対」になったものだが、「対」になることで互いを強調する。互いを存在させる。それは、つまり、互いを受け入れるということである。そういう「対」が詩なのである。


二、女性

あの夜。近寄れない夜。彼女は誰にも接吻しない。
誰も接吻してくれないかも知れない恐れの中で独り。

五本の星の指で彼女は一房の白髪を隠す。
美しい人。だが、いちばん美しい自らを拒んだ美しさ。

 彼女は接吻しないのか、接吻してもらえないのか。--これは判断が難しい。接吻する、接吻されるという具合にことばは「能動」「受動」の二つの形をとるけれど、これは文法の問題に過ぎない。実際の接吻は、する、されるという「気持ち」を別にすれば、二つの肉体が出会ってはじめて成り立つことなので、別々に考えてもしようがない。
 「一、たそがれまで」で、彼女の手に触れて脈動を感じるとき、それは彼女の手の脈動なのか、自分の手の脈動なのか、わからない。同じように接吻するとき、そこでふれあってる唇や絡み合っている舌は、誰のものと言っても意味がない。ふれあい、絡み合うことが接吻だからである。「する」「される」という意識とは別な「こと」が「接吻」という行為のなかにある。
 「白髪を隠す」という行為も、何か不思議なものがある。女は白髪を欠点と思って隠すのだが……その白髪こそが彼女のいちばんの美しさだった、とリッツォスの詩は言っているのか。そうではない、と私は思う。そんな単純な「論理」をリッツォスが書いているとは思えない。
 いちばん美しいのは、自分の欠点(白髪)を意識し、それを隠すときのこころの動きである。恥ずかしいと思う、女の気持ちである。もっと美しくなりたいと思う、女のその気持ちである。でも、その気持ちは実際に白髪を隠してしまえば誰にもわからない。白髪を隠すという「動詞」の現在のなかにだけしか存在しない。動詞が完結してしまえば、それは気持ちの美しさを見えなくしてしまう。美しさを拒絶してしまうことになる。
 「いちばん美しい自らを拒んだ美しさ」の「拒んだ」は「隠してしまう/遠ざけてしまう」くらいの意味である。
 --それはおかしい、その読み方は文法的に正しくない、という批判が聞こえてきそうである。その声は、実は私の内部からも聞こえてくる。何か、変な説明だぞ、と私のなかのだれかが抗議している。
 それでも、私は先に書いたようにことばを読みたい。
 どこかに「まちがい」があるのだけれど、「まちがう」ことでしかつかみえない何かに出会っていると思う。
 詩は「矛盾」であるから、それを味わうときは、どこかで「矛盾」を引き受けないといけない。「まちがい」がどうかは重要ではなく、こんなふうに読みたいという欲望に正直になることの方が大切なのだと思う。


三、どうしてぼくがわるいのか?

きみの舌の裏にはカレイの稚魚がいる。
ブドウの種がある。桃の繊維がある。
きみの睫毛の投げかける影には
暖かい南国がある。ぼくはねそべって
休息する。いうこともなし--と彼は言った。

どういう意味なの、「もっと行って」って?
どうしてきみがいけないの、無邪気に葉っぱの間に隠れているのが?
美しい葉、単純な葉、きみの情熱の金色の恰好をした葉なのに?
どうしてぼくがいけないのか、先に立って夜を行くのが?
自分の自由に囚われた捕虜、罰せられた者が罰するのが?

 この詩の「対」は、男の高揚した気持ちと落ち込んでいる気持ちである。前半は高揚して、女(きみ)を描写している。「きみの舌の裏にはカレイの稚魚がいる。/ブドウの種がある。桃の繊維がある。」はなんと楽しいイメージの飛躍だろう。カレイの稚魚やブドウの種、桃の繊維になってきみの舌の裏にまではいり込みたい。そういうキスがしたいという欲望の喜びがあふれている。
 一方、後半には欲望が形になるときの喜びはない。欲望が達成できない、さえぎられる--その精神の苦痛、感情の苦悩がある。
 この二連目は耳で読むと非常に混乱する。「行って」「いけない(よくない/悪い/禁止)」が「行ける(可能)」「行けない(不可能)」に聞こえるし、「行って」は「言って」にも聞こえる。音が混じりあって、意味が溶けだしてしまう。文字で確認しないといけない。また文字で確認したところで意味がわかるわけではない。
 無邪気に無花果の葉っぱの影に隠れていることはいけないのか(わるいのか)、隠れていないで「行くべき」なのか。どうしてきみを夜に導き出すことがいけないのか(悪いのか)、恋して、恋に囚われて、恋に苦しんでいる(罰せられている)ぼくが、きみを誘い出して恋を遂げたいとすることが、どうしていけないのか?
 そんな意味かもしれないけれど、わかりにくい。
 一連目との関係(対)を考えるならば、恋をするとことばが比喩になって先走る。そこにないものを出現させる。ことばがもっともっと先へ行ってしまえば、比喩は炸裂して、ことばは吹っ飛び、そこに「生身」の肉体が、裸の肉体があらわれるだろう。そう夢みてことばに拍車をかけてみても、詩人は恋に裏切られる。精神(ことば)が恋に捕らわれてしまい、肉体はことばの影に隠れてしまう。恋は肉体を求めているのに、肉体はどんどん遠くなる。
 こころ(ことば)と肉体は対になって矛盾している--それが恋であると、この詩は言っているのか。



幼年時代--回復期

ちょっと眼を閉じて。
聞こえるね、台所で皿を洗うお母さん。
聞こえるね、ナイフとフォークを引き出しにしまう音。
聞こえるね、廊下を歩く母さんの衣ずれ、
そしてイコン立ての中に漂う聖母の微笑。

明日はもう治る。病人じゃなくなる。体温計を見よう。
腋から抜いたばかりで温かい。
天国のお父さんが幼い従妹にそっと言うだろう。
明日行っておやり、って。
従妹が来たらいっしょに散歩するんだ、鹿と肩を並べて--。

杏の実の新しいのを集めて従妹にやろう。
青い鹿が来るよね、
とうさん、ぼく、
眠れそう、
青い--
青い鹿なの、
とうさん、
天国
なの


 これもリッツォスには珍しい部類の詩である。病気で死んでいく幼いこども。それが死ぬ直前に感じる安らかな世界。
 一連目。「目を閉じて」いる少年。目を閉じているので何も見えない。しかし、音は「聞こえる」。不思議なのは、その「音」を聞いているのに、「わかる」のは音だけではない。その音といっしょに動いているお母さんが見える。目を閉じているのに、見える。
 肉体が見ている。肉体というふうに何か「いのち」のかたまりとして存在するものが見ている。この見ているは「おぼえていること」を思い出して、見えるというふうに感じるということ。
 音を聞く(聴覚)と、ものを見る「視覚」が、「いのちの肉体」のなかで融合して動いている。音を聞きながら、「見る」というところへことばが動いていくのは、リッツォスが視覚優先の詩人だからだろう。
 2連目の「腋から抜いたばかりで温かい。」という一行が切ない。「腋」という「肉体」を具体的に指し示すことばが、少年の肉体をはっきりと浮かび上がらせる。少年は肉体を病んでいるのだということを強く感じさせる。病気の少年の、汗ばんだ腋の色が見える感じがする。
 その少年が、安らぎの中で夢想する。鹿と従妹と散歩する。そのときの「青い鹿」。青い鹿はいない。いないけれど、やってくるのは「青い」鹿。そこに少年も気づく。そして、ここは生きている世界ではなく、死んでしまったあとの世界、天国だと気づく。その「気づき」のきっかけが「青い」という視覚に作用するものであるのもリッツォスが視覚の詩人であることを証明するだろう。
 詩の中で、ほんとうは一つであるのことば、表現が統一されていなければいけないことばが変化するところがある。「お母さん」が「母さん」、「お父さん」が「とうさん」にかわる。「お」が取れる。ことばが短くなる。ことばを短くしなければならないほどの「急なできごと」が起きている。その「急」の激しさを「お」を省略するということばの動きで表現する中井の訳はすばらしい。声の呼吸を聞きとっている。
 呼吸を正確に聞きとっているから、最後の連の行が少しずつ短くなっている。
 悲しい詩なのに、不思議な安らぎがあるのは、中井が少年の呼吸にあわせてことばをそろえているからだろう。少年を見守るあたたかい視線が、ここにある。



忘れられていた優しさ

お祖母さんはいいひとだった。静かだった。眼の周りには
沢山小皺が寄って、丹念に刺繍してあるお茶用のナプキンの皺みたいだった。
かろやかな心の持主だった。
心は軽くて、綿でいっぱいの小さな袋みたいだった。

お祖母さんは逝った。多分、巨大な夜の、暖炉の隅で
綿を糸につむぎに行ったのでしょう。
でもどうしてお祖母さんは外に出られたのかしら?
雨なのに羊毛の肩掛けも着ないで。

幼いねえやが玄関の間の椅子で泣く。
雨がエルコメノス教会の石段で泣く。
いちばん下の孫は泣かない。
あの小さなお祖母さんは今目に見えない糸をつむいでいる。
そのために雨が、石段が、椅子が、幼いねえやが、みんな泣いている、
美しく泣いているなあ、と眺めていた。

 お祖母さんが死んで雨が降っている。雨はお祖母さんのつぐむ糸(綿からつむぐ糸)のように静かに長く降っている。雨の糸。その雨の糸の涙になって、みんなの涙が流れる。雨に濡れるものはみんな泣いている。石段も、椅子も、幼いねえやも。
 最後の「美しく泣いているなあ、と眺めていた。」の「主語」は何だろうか。誰が眺めていたのか。詩人リッツォスだろうか、死んでしまったお祖母さんだろうか。
 私は、詩人でも、お祖母さんでもないと思う。雨、石段、椅子、幼いねえやの「みんな」が眺めているのだと思う。眺めているということに気づかずに「泣く」という行為の中で「ひとつ」になっている。そして、その「ひとつ」のなかには死んでしまったお祖母さんも含まれるし、お祖母さんのつむぐ糸もふくまれる。お祖母さんの皺や、お茶用のナプキンもふくまれる。区別ができない。
 すべてを(みんなを)区別せずに「ひとつ」にしてしまう何か、あるいは「こと」。それが「忘れられていた優しさ」という「こと」なのかもしれない。「忘れられていた」ければ「おぼえている」。おぼえていることのすべてが、思い出されて、思い出になってあらわれてきて、「みんな」が互いを眺めて(互いの存在を認め合って)、泣いている。
 中井は「主語」を日本語に訳出していない。訳出しないことによって、リッツォスが書こうとした「ひとつ」と「みんな」を感じ取れるようにしている。最後の一行をとても深く、強いものにしている。


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リッツォス拾遺(中井久夫訳)(1)

2014-04-21 10:10:58 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス拾遺(中井久夫訳)(1)(作品は「現代ギリシャ詩選」からの)

仕事を果たす

今は色に乏しい。でもいい。そう言う彼。
野のほんの僅かな緑。おれにはこれで充分だ。
歳とともに何もかもが小さくなる。
ものが寄り集まって溶け合って行くんじゃないか。
木の葉が一枚。その微かなそよぎ。もうそこからおれは入れる。
おれは廊下に入る。向こうの端に向かって歩く。
窓と彫像が両側に並ぶ間を。
窓は白。彫像は赤。
これはフクロウ。これはヘビ。これはシカ。きちんと見分けがつく。

 「彼」は誰なのか。リッツォスはいつものようにどんな情報も提供しない。季節は秋の終わりなのか、あるいは春のはじまりなのか、それもわからない。「木の葉が一枚」というのは秋の終わりを感じさせる。「彼」も人生の晩年にいるのだろうか。
 「木の葉が一枚。その微かなそよぎ。もうそこからおれは入れる。」は俳句を思わせる。「おれ」は、どこに「入れる」のか。つづく行を読むと「廊下」になるが、私は「世界」というもののなかに「入る」ことを想像した。
 一枚の葉っぱと自分が一体になる。一枚の葉っぱの「そよぎ」となって、世界を見つめる。どんな存在も、それぞれに個として世界に向き合っている。その向き合い方に同化したとき、「彼」は新しい世界に入る。
 その世界は「ものが寄り集まって溶け合って」っている。溶け合いながら、瞬間瞬間に、必要な「もの」になる。次々に生まれ変わる。「これはフクロウ。これはヘビ。これはシカ。きちんと見分けがつく。」というのは、その生まれ変わる姿のように感じられる。



単純性の意味

私が単純な事物の背後に隠れるのは、きみが私をみつけるようにです。
私を見つけなくとも、ものを見つけてくれるでしょう。
私の手が触れたものに触れて下さるでしょう。
私たちの指紋が重なって一つになるでしょう。

八月の月が錫のポットのように台所できらめいています。
(きみに語るためにこういう言い方になるのです)
月が人の住まない家に灯をともします。家にはじっと膝まずいている静けさが。
静けさとは、いつも膝まずいているものです。

一語一語が入り口、
出会いへの入り口です。でも出会いはよく邪魔されます。
ことばが信実な時です。ことばが信実な時とは出会いを求める時ですが--。

 ここにはリッツォスの「詩の理想」が描かれている。単純な「事物」として、出会いたい。「仕事を果たす」の「木の葉」、あるいは「そよぎ」は、「単純な事物」のひとつである。
 人のものの見方(世界の見方)は様々である。だからことばも複雑になるのだけれど、その複雑なものにこだわると、なかなかひとは出会えない。違いばかりが目立ってしまう。違いが気になって、共通のものが見えなくなる。
 「私を見つけなくとも、ものを見つけてくれるでしょう。」は美しいことばだ。リッツォスを見つけられなくても、リッツォスが見たものを見つける。その「事物」をとおして、一瞬、リッツォスと読者が重なる。
 どんなことば(どの一語)からでも、私たちはリッツォスに出会える。どのことばを通ってリッツォスに出会うか、それは読者に任されている。出会いは、リッツォスだけの仕事ではない。読者の仕事でもある。読者が自分のことばを「真実」のものとして動かすとき、リッツォスのことばの「真実」に出会える。
 リッツォスはそういうことを夢みている。





明るく澄んだ顔。沈黙してまったく独り。
まったき孤独のごとく、あるいは孤独の完全なる克服のごとく。
あの顔がきみを見つめる、静かな水の二本の柱の間から。

そして、きみは知らない。どちらの水がきみの心をいちばん動かそうとしているのかを。

 「二本の柱」とは涙だろう。両目からこぼれる涙の二本の線。最終行は、少し不思議である。二本の柱が涙だとして、その涙に違いはあるのか。涙が流れるとき、右のひとみから流れる涙と左のひとみから流れる涙は種類が違うのか。
 「どちらの水」というは、右目左目の違いではないのだろう。
 一行目にもどってみよう。「明るく澄んだ顔」。これは泣き終わったあとのさっぱりした顔ともとれるが、うれしい顔かもしれない。ひとはうれしいときにも涙を流す。そして孤独でさびしいときも(悲しいときも)、もちろん涙を流す。
 きみは、どちらに感動するだろうか。うれし涙だろうか。悲しい涙だろうか。
 答えをだす必要はない。どちらの涙にも寄り添うのが愛であるのだから。





四つの窓は韻を踏んだ四行詩。
海と空が韻を踏んで部屋の中に吊るされている。
ヒナゲシは夏の手首にはまった腕時計。
正午を告げる時計だ。
太陽はきみを追って髪をつかみ、
きみを光と風の中に宙吊りにする。

 リッツォスにはめずらしく明るく孤独のにおいがしない詩。真夏の明るい陽射しのなかでののびやかな恋が輝いている。
 「海と空が韻を踏んで部屋の中に吊るされている。」と書かれているが、部屋の中という感じがしない。壁がとりはらわれている。世界中が安心できる部屋になっているということだろうか。
 「正午を告げる時計だ。」も、完全ということの象徴かもしれない。
 中井久夫の訳のすばらしさは、この「正午を告げる時計だ。」の「だ」にあらわれている。直前の「腕時計」には「だ」がなく、「時計」には「だ」がある。「だ」があってもなくても「意味」は同じだが、受ける印象が違う。ことばの「強さ」がちがってくる。「だ」がある方が強い。そして、このとき「だ」は「である」ではだめだ。間延びする。
 短い「だ」という音の中に、喜びが炸裂する。短いからこそ、そこに集まってくる喜びがぶつかりあい炸裂する。



いつの日か、おそらく

きみに見せたい、あの深夜のバラ色の雲。
だが、きみは見ない。夜ですもの、どうして見える?

でも、きみの眼でみてもらうより仕方ない--と彼は言った。
きみと私とが孤独から救われるために--。
私の指さすあそこほんとうは何もないのだけれど。

夜に集まるのは星ばかり。疲れた星たちは
遠出から帰るトラックのようだ。
落胆と空腹と。歌もなく、
汗ばんだ掌にしおれた花を握った人々。

でも、これからもきみを見たい、きみに見せたい--と彼は言った。
きみが見なければ、私が見なかったと同じだもの。
せめてあなたは眼で見ないで、と私は言いたいの。
そうすれば、私たちはいつか会えるでしょう、それも思いがけない方角で。

 「現代ギリシャ詩選」に収録されているリッツォスの作品は愛の詩が多い。この詩では男と女がうまくかみあわない。けれど、うまくかみあっているよりも深く愛を感じているのがわかる。愛しあっているのに、うまく関係が結べない。その切ない愛。
 男(彼)は深夜のバラ色の雲を女(きみ)に見せたい。それはもちろん存在しない。けれど眼で見て、それが「見える」と言ってもらいたい。これは「こころの眼で見て」ということである。
 「きみが見なければ、私が見なかったのと同じだもの。」同じものを見ることによって、「ひとつ」に「なる」。そういうことを男は感じている。「こころの眼」が同じひとつのものを見るとき、こころは「一つ」に「なる」。男と女のこころは別なものだが、それが「見る」ことを通して「一つ」に「なる」。二つのこころが「一つ」になるとき、「孤独から救われる」。孤独ではなくなる。これが男の願いだ。
 一方、女は「あなたは眼で見ないで」と訴える。これも「こころの眼」で「見ないで」ということ。女は男がこころを優先させていると感じている。「こころの眼」とは、「ことば」のことかもしれない。「ことば」で何かを見ないで、ことばで、そこにないものをあるかのように語らないで。そこにないものを、ことばで出現させないで。そういうことをすれば、ことばに邪魔されて出会えなくなる。ことばをつかわず、「こころの眼」をつかわず、「肉眼」で世界を見つめて。そうすれば私たちは出会える。
 これは表現を変えて言えば、「ありのままの私(女)」を見てという訴えだ。ことばをつかわずに、つまりことばで美化せずに、いま/ここにいる私をそのまま受け入れて、あなたの感性にあう女にしようとしないで、と訴えている。
 これは詩人には、かなり厳しい要求かもしれない。ことばなしで、どうやって世界と向き合えるのか、詩人は知らない。



ミニチュア

女は卓子の前に立つ。寂しい手が
レモンを薄く切る。お茶のためだ。
レモンの薄い切れは黄色い車輪。
おとぎ話の小さな馬車のもの。
若い将校は卓子越しに向かい合う。
女の顔を見ず、古い肘掛け椅子に身を沈め、
煙草に火を点ける。マッチの手が震える。
マッチはそのやさしいオトガイを照らし、紅茶茶碗の把手を照らす。
一瞬、時計が止まる。だが見送られた。何を? 何かを。
瞬間は去った。今は遅い。お茶をご一緒に、ね。
こんな小さな場所に死が乗ってくるってこと、あるの?
みんな行ってしまい、去ってしまって、この小さな馬車だけが残るってこと、あるの?
残って、来る年来る年ランプを消して脇道に駐車してるってこと、あるの?
小さなレモンの黄色い車輪を付けて--?
それからひとしきりの歌、僅かな霧、そして何もなくなるの?

 女の思い出。昔、若い将校に紅茶を出した。レモンの薄切りをそえて。それは馬車の車輪のように見えた。それは最後の別れになった。最後の別れになること、戦争で死んでしまうことがわかっていたから、若い将校は女を見つめようとはしなかった。
 それは一瞬のことだけれど。
 その一瞬が、女は忘れられない。思い出している。あのレモンがいけなかったのだろうか。レモンを馬車の車輪と思い、その馬車に乗って将校がやってきたと、おとぎ話の出会いのように思ったのがいけなかったのか。馬車は人を連れてくると同時に、人を連れ去る。ひとは馬車に乗って去って行ってしまう。帰られない人になってしまう。
 いまはもう何もない。レモンの思い出だけが残っている。
 そう思って読むと、最初の二行は現実で、三行目からは記憶になる。一行目の「寂しい」は、いまの孤独をあらわしていることになる。過去を思いながら、寂しくひとりで紅茶を飲む。
 記憶のなか(こころのなか)では、時制の区別がない。遠い過去も一秒前を思い出すのと同じように、隔たりがないままにやってくる。一秒前よりももっと接近してあらわれてしまう過去というものもある。そういう時間の入り乱れ、入り乱れる時間のなまなましさが「一瞬、時計が止まる。」からはじまる。実際、思い出のなかで時間は止まる。思い出のなかでは、いつでも「いま」なのだ。
 それにしてもレモンの薄切りの車輪は美しい。目にとてもあざやかだ。その繊細な目がとらえるマッチの明かり、マッチが照らすオトガイ、それらから「紅茶茶碗の把手」。この「把手」をつかみ取る視線がリアルだ。リッツォスは視覚の鋭い詩人だ。


現代ギリシャ詩選
クリエーター情報なし
みすず書房
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リッツォス「紙細工(1971年)」より(4)中井久夫訳

2009-02-17 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)

ありとあらゆるものが秘密。
石の影も、
鳥の爪も、
糸巻きも、
椅子も、
この詩も。

 秘密とはなんだろう。秘密のままであるとき、秘密ではない。秘密でなくなったとき、秘密だったということが明らかになる。秘密にしていたことが明らかになる。
 --こういう読み方、「意味」を求める読み方は、ことばを窮屈にする。だから、これ以上は書かない。
 この詩の中にある「糸巻き」ということばにひかれた。リッツォスの詩に何度か出てくる。「石」も「椅子」も出てくるけれど、なぜが「糸巻き」ということばにリッツォスを感じる。ほかの詩人はあまり取り上げないのかもしれない。特に、こんなふうな、ことばが飛躍していく詩の場合は。なんらかの、それこそ秘密があるのかもしれない。このことばが好き、という理由が。その理由をわからないままにしておく。私は、そういう状態が好きだ。わからないままのものがそこにあり、ふっとしたときに、そのことばに自然に視線がいって、そこで立ち止まる瞬間が。
 説明はできないけれど、詩を感じているのである。そういうときは。


この吐き気は
病にあらず、
一つの答えなり。

 こうした箴言は、私にはよくわからない。箴言だけの断章がほかにあるかどうかわからない。なんとなくリッツォスらしくない、と私は感じる。


彼等は美しかった(覚えているか?)。
ひとたと前に歩いた。
ひたと前を見ていた。
歌を歌い、
槍を直立させてた、
高々と。
ただ旗がないのを知らなかった。

 「ひたと」と「直立」がことば全体を引き締めている。その引き締まったことばの運動を、最後の欠如が、さびしいものにする。このさびしさにリッツォスの特徴がある。リッツォスのことばは、いつもさびしさと向き合っている。そして、さびしさと向き合ったものを「美しかった」と呼んでいる。
 リッツォスにとって、「美」と「さびしさ」(孤独)はいつも同居している。「にぎやか」なものより、「さびしい」ものの方がリッツォスにとっては詩である。


荒い風の中、
高く、高く、
一等白い鴎の高みより、
自由が。

 この中井訳には「動詞」がない。「自由が」の述語がない。リッツォスの詩そのものにないのか。あるいは、中井が省略したのか。私には中井が省略したように思える。まだ、その述語(動詞)にふさわしい日本語が見つからないのだと思う。訳すだけなら訳せるだろうけれど、その日本語では、日本語にならない--そう思っているのかもしれない。
 荒い風--その厳しさのなかの、高さ。さらに高い高さ。このことばのなかにも、リッツォスの孤高とさびしさがある。孤独(孤高)とさびしさは、前の断章で「美」であった。それにいま、「自由」がくわわった。
 「動詞」(述語)がないのは、そこに描かれたものが「ひとつ」ではないからだ。
孤高と美と自由が溶け合っている。いまは「自由」と書かれているけれど、それは「自由」だけを指してはいない。だからひとつの動詞(述語)でくくってしまうことはできないのだ。
 --そう考えると、リッツォス自身が「動詞」を書いていないともみえるけれど。

 この詩でおもしろいのは、そういう孤高、美、自由を、また「鴎」とも結びつけていることである。あらゆる概念は「もの」と結びついてたしかなものになる。「鴎」のなかに孤高、美、自由をみるとき、それは鴎が孤高、美、自由に見えるのか。それとも孤高、美、自由が、冬の鴎に見えるのだろうか。区別がつかない。書いてしまうと、よけいに区別がつかなくなる。
 たぶん、この区別がつかなくなるという一瞬が詩なのである。


          (今回で中井久夫訳「リッツォス詩集」の紹介はおわりです。)


括弧―リッツォス詩集
ヤニス リッツォス
みすず書房

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リッツォス「紙細工(1971年)」より(3)中井久夫訳

2009-02-16 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)

風が鳴る。
夜。
港のあかりがちらちら揺れる。
税関の廊下で
掃除婦が
ひっそりと箒で掃く。
閉めてあるスーツケース。
ラベルは「禁制品」。
風は仲間だ。
帆よ、大きい帆よ。

 リッツォスの詩が劇(ドラマ)を感じさせるのは、「もの」の取り合わせが少しずれているからである。たとえば「税関の廊下」と「掃除婦」。それは日常的に存在する取り合わせだが、ふつうは「税関」といえば「官吏」である。そこに実際の業務とは無縁の、しかし日常的には全体に必要な仕事をするひと「掃除婦」を組み合わせるとき、あたらしい何かが顔を覗かせる。本来の業務とともにある「意識」が攪拌される。一瞬、ほんらいの業務を忘れ、意識が宙吊りになる。ニュートラルになる。
 その瞬間を狙ったようにして、もうひとつ別のものがあらわれる。「スーツケース」。「禁制品」。
 それは税関の廊下に「掃除婦」がはさまれないまま登場したときは、そんなに違和感はないはずである。一度、意識が宙吊りになっているから、「禁制品」が強く前面に出てくるのである。
 リッツッスは、ことばを宙吊りにして、そのあと新しく動かしはじめる。
 この断章自体をとってみても、「風」で書き起こし、税関を経て、もう一度風に戻る。そういう径路を通ると、風は、異質なものに洗われて、新鮮に見えてくる。
 ものをいままで見えなかった形、新鮮な状態にしてみせるのが詩である。リッツォスの詩は、ことばの構造として、そういう新鮮な「もの」を生み出す装置のようになっている。
 新しい何かが生まれる--そういう印象があるから、ドラマを感じるのだ。


この明かり。
ただ一つ、
山の高みに。
死者が運んだ。
覚えているか?

 リッツォスの詩には説明がない。この説明がない--という構造も、意識をニュートラル、宙吊りにする。説明があると、私たちは、そこに書かれていることを、その説明に従属させて読んでしまう。説明がないので、私たちはそれを、ただ、そこにほうりだされてあるものとして読まなければならない。
 説明がないので、なんのことかわからない。そう思ってしまえば、その読者には、詩は見えて来ない。「意味」を探していては、詩は見えて来ない。
 なんのために書かれているか、何か言いたいのかわからなくても、このことばを読んで、その瞬間、山の高みに明かりが一つ、孤独に燃えているのが見えれば、それでいい。その具体的なイメージが詩なのであって、それ以外は「説明」になってしまう。


大理石も、
かくも裸わに、
かくも白くて、
彫像になることなど待ってはいない。

 白い大理石が見えるか。見えれば、これは詩である。そして、その大理石が「彫像になることなど待っていない」ということばを読んだ瞬間、意識が動くか。動けば詩である。読者にとって、その瞬間が詩である。
 大理石は、自然に(おのずと、つまり芸術家が彫るからではなく、自分で望んで)彫像になる--そうかもしれない。その美しい白さだ芸術家をだまくらかして、自分の望む形に彫らせているのかもしれない。そこには芸術家の思いではなく、大理石の思いこそが反映しているのかもしれない。
 --これはもちろん錯覚である。そんなことなどありえない。そういうありえないことを考えさせる。日常の考えから私たちを解放し、逸脱させるのが詩である。詩を読むのは、日常から逸脱し、いま、ここにはない新しいことばの運動--精神の運動の可能性を知るためである。

 そういう可能性としてのことばの運動を教えてくれるもの、暗示してくれるもの、そういう危険に導いてくれるものが詩である。


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リッツォス「紙細工(1971年)」より(2)中井久夫訳

2009-02-15 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)

シーツを被って
かろやかに呼吸する彼女。
(これは詩かい?)
ボートが出航する。
帆が風をはらむ。
私は触る、指一つで
風の一つ一つに、
沈黙の一つ一つに。

 ふいに挿入される(ことは詩かい?)。「これ」とは何か。一群のことばか。それとも「シーツを被って/かろやかに呼吸する彼女」か。私は、後者だと思う。そして、そこから不思議な気持ちに襲われる。「シーツを被って/かろやかに呼吸する彼女」を「詩」だと断定するとき、「シーツ」が詩なのか。「かろやか」が詩なのか。「呼吸」が詩なのか。「彼女」が詩なのか。区別がつかない。その全体が詩であるというのは簡単だが、その全体には、細部がある。細部には詩がなくて、全体が詩であるとすれば、細部の意味は? それとも、細部を全体に統一している何かが詩? たぶん、そういうところに「思考」は落ち着くけれど、でも、細部を全体に統一している何かは、ここでは「ことば」として書かれていない。書かれていないのに、「これ」という指示代名詞で引き受けていいの?
 こういうことをあれこれ考えるのは愚かなことかもしれない。ただ、ことばをそのまま味わえばいいのだ、という見方があるだろうと思う。
 しかし、私は、あれこれ考えたい。
 特に、最後の2行。「一つ一つに」ということばがあるので。
 この詩では、「私」は「指」で触るのだが、リッツッスは「ことば」で「もの」に触る。「ひとつひとつに」。「シーツ」にも「被る」にも「かろやかに」も「呼吸する」にも「彼女」にも触ったのだ。そして、(これは詩かい?)と問いかけている。
 「これ」って何?
 ことばだ。ことばの動きだ。すべてのことばは動き、いつでも詩になるのだ。



私は影を青く塗ろう。
歯を磨いて、
ギターを鳴らそう。
きみはぼくのベッドの下に隠れている。
私は知らないふりをしよう。

 「私は影を青く塗ろう。」はとても美しい行だ。ただし、私はこの詩の「私」を画家とは考えない。絵を描いているとは考えない。意識の中で、ことばで影を「青」く塗るのである。影はふつうは「黒」だが、「黒」ではなく「青い」影を思い浮かべる。
 意識はいつでも「いま」「ここ」を「いま」「ここ」にないものにすることができる。わざと「いま」「ここ」には存在するものを考えることが好きだ。それは一種の可能性だからである。可能性は人間をはつらつとさせる。
 意識はいつでも「いま」「ここ」から離れることができる。たとえ、きみがぼくのベッドの下に隠れているとしても、それを知らないものにすることができる。そういう、「いま」「ここ」から逸脱していくこと、「わざと」そういうことをすることのなかに詩があるのだ。
 1行目と5行目の主語が「私」なのに、4行目が「ぼく」なのも、とてもおもしろい。「ぼく」と「私」はかき分けられている。中井の訳は、ふたつを区別している。
 「私」はここでは意識の動きをしめす主語である。「ぼく」は意識とは関係がない。意識の主語ではない。「私」は意識であるからこそ、「影を青く塗」ることができるし、「知らないふり」をすることができる。現実とは違ったことをつくりだすことができる。
 


きみは期待し続けてる。
私は言うだろう、
「それはこうじゃないよ」と。
これはこうなのさ。
私にもそうなのだよ。
詰めを摘む時は御注意。
鋏が鋭く光ってる。

 何が書いてあるかわからない作品だが、そのわからなさのなかにリッツォスの特徴があらわれている。
 「それ」「こう」、「これ」「こう」が何を指すかは、どんな読者にもわからない。もしかするとリッツォスにもわからないかもしれない。詩は、そういう自分自身にもわからないことを書くことができる。あるいは逆に、自分にさえわからないからこそ書くのだとも言える。書くことで、はじめて見えてくるものがあるからだ。
 この詩で見えてきたもの、書くことによって見えてきたものとは何か。
 「それはこうじゃないよ」という言い方は誰もがする。そういうことばの動かし方が現実にある。それはなぜか、詩、あるいは文学の中では、あるいは「正式な」(?)文章の中では許されない。「それ」「これ」「あれ」と指示代名詞であるから、その対象を必要とする。対象を不在にしたまま「それ」「これ」あれ」と言ってもだれにもわからないから、それだけを独立させてつかうことは、文学にとっては一種の暗黙の了解事項手ある。その暗黙の了解を破って、リッツォスはことばを動かす。詩はいつでも暗黙の了解を破ってこそ詩なのである。

 こういう作品を読むと、リッツォスは芝居のひとなのだ、劇の国のひとなのだ、という印象が強くなる。
 書きことばでは、突然の「それ」「これ」「あれ」は禁じ手だが、こういう会話は日常ではだれもがする。それは生活の場においてであるけれど。文学で禁じられていることが日常で許されているのはなぜか。日常の場では「過去」が共有されている。「それ」「これ」「あれ」は「過去」と関係があるのだ。
 文学で指示代名詞がつかわれるとき、そのことばより前、つまり「過去」に具体的なことが描かれており、それを受けて「「それ」「これ」「あれ」と言うのである。「それ」「これ」「あれ」は「過去」そのものだとも言える。
 芝居(舞台)では、役者が、それぞれ「過去」を持っている。ふの「過去」が見えるとき、突然であっても「それ」「これ」「あれ」は通用する。流通する。そういう「過去」が存在するという事実を、詩の中に取り込み、リッツォスは過去があるということを暗示することで「事件」を暗示するのである。詩をドラマチックにするのである。
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リッツォス「紙細工(1971年)」より(1)中井久夫訳

2009-02-14 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス「紙細工(1971年)」より(1)中井久夫訳

 この詩集は「断章」でできている。それぞれの断章にタイトルはない。「*」で区切られているので3つずつ紹介していくことにする。

鏡の中の
右隅の
黄色の卓に
鍵束を忘れた。
取っておいで。
ガラスの面は開かない。
開かない。

 冒頭の「鏡の中の」がおもしろい。世界を「鏡の中」でとらえている。「卓」は鏡の片隅にあるのではなく、部屋のどこかにある。しかし、それを「鏡の中」にあるようにして世界をとらえ直す。
 鍵を取りに行かされるのはだれだろう。
 彼は(あるいは彼女は)鏡の中へ行かなければならない。けれども、鏡の「ガラス」の面は開かない。それを開くことはできない。どうやって鍵を取ってくることができるだろうか。
 ここでは、現実ではなく、ことばが世界をつくりだしている。「鏡の中」というのは、ことばの世界である。鏡は現実だが、「鏡の中」の卓に鍵を忘れてきた--となると、それは現実ではなく、ことばの世界である。
 一瞬の、乱反射のようなきらめき。



風景が競走をする、
汽車の窓ガラス越しに。
私はポケットに
妻楊枝を一つ見つけた。
帽子の中に鐘楼を。

 「風景が競走する」というこの冒頭の書き方も、ことばのなかでの世界である。風景は動かない。動くのは汽車である。
 この一種の錯覚のあいだに「窓ガラス」が存在する。この「ガラス」は、冒頭の1連の「鏡の中」の鏡をつくっている「ガラス」と呼応している。(断章で構成されているが、それは互いに関係し合っているのだ。断章にみえて、1篇の詩としても読むことができるのだ。)
 この汽車の「ガラス」もまた開かない。いや、開くかもしれないが、開かずに、そのままにしておく。そうすることではじめて、風景が競走することができる。だれと? 汽車の中にいる「私」とである。それは一緒に走っている。同じスピードで走っている。けれども、そこに「ガラス」があり、区切りがあることで違った存在として、競走することができる。これもまた、ことばがあって、はじめて成立する世界である。
 この「ことば」の現実に対して、ポケットの中がおもしろい。そこにも、現実がある。「私」に密着した現実である。それは誰かと競走しているだろうか。競走はしていない。走るのではなく、逆に、戻っている。記憶へ。思い出へ。
 「帽子の中に鐘楼を」見つける--とは、鐘楼(教会の?)を見たとき、「私」はたぶん帽子を取ったのだ。そういう肉体の記憶を「私」は見ているのだ。
 1連目の「鏡の中」もそうだが、ここでのテーマは、いわば「記憶」ということができるかもしれない。



トランクの上に薔薇。
手はベルトに置いて、
私に何の用事?

 旅の途中の光景である。「トランクの上に薔薇。」--これは、絵のことだろうか。絵のことを言っているにしても、しかし、現実の薔薇と考えた方がおもしろい。絵を現実と薔薇と感じている人間を想定した方が、ことばがより大きく動く。
 「私」はトランクのベルトの上に手をおいている。トランクを、その中身を守るように。
 「私に何の用事?」--これは、だれのことば? 「私」とはだれ? 私には「トランク」そのものにみえる。あるいは「トランク」の中身に。それは書かれていない。何が入っているか、1行も書かれていない。だからこそ、想像力が刺激される。記憶のすべてが、「鏡の中」の部屋にある記憶のすべてが、そのトランクの中に入っているのだ、きっと。
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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(13)中井久夫訳

2009-02-13 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
見せ場    リッツォス(中井久夫訳)

廊下に立っていた。さびしげな女。法務官。衛兵。
ロープでしばった毛布が床に。隣の事務室で電話が鳴った。
「四時に」と声が聞こえた。「 船が着く」
「四時」と彼等は言った。「きっかりだ」。鋼鉄の扉がもう一度きしった。
まだ法廷に送り込む気だ。「あなたに煙草を送るわ」と女が呟いた。「遅いわい」と衛兵。
壁に大きな蜘蛛が這う。二番目の扉が
突然開いた。男の死体がうつぶせに倒れてきた。衛兵が蜘蛛をつかんだ。
死体の口に突っ込んだ。
笑った。顎は引き締めたままで。
「しゃべれ」と死体に叫んだ。「吐け」。
「白状しろ」と死体を脅かした。死体は一言も言おうとせぬ。死体は笑った。
女は毛布に腰をおろして顔を手で蔽った。



 扉の向こう側で行われているのは訊問か、拷問か。いずれにしろ、向こう側にいるのは女の知り合い、夫か、恋人か、父か、息子か。その身を心配している。姿が見えず、声だけが聞こえる。電話の話し声が聞こえるということは、訊問か、拷問の声も聞こえるかもしれない。このとき苦しいのは、訊問・拷問を受けている男もそうであろうが、その姿を想像する女も同じだろう。見えない。声だけが聞こえる。そのときの、はりつめた恐怖と不安。
 壁を這う蜘蛛--その、人間とは無関係に動くものの存在が、恐怖と不安をいっそう強くする。
 そして、突然、死体。そして、乱暴な衛兵の行為。口に蜘蛛を突っ込む、というのは、何か意味があることなのかもしれない。ギリシアの習慣がわからないのだが……。死体であるから、反応はない。反応がないことを知っていて、衛兵は乱暴をする。そこに、衛兵の人間としての醜さが露骨にでている。
 そういう行為を死体が笑う。--これは強烈な批判である。

 ところで、この詩の最後の1行は、とても不思議である。中井久夫の、いまの形の1行では、「顔を蔽った」というときの「顔」は「女の顔」になると思う。「顔を蔽った」、つまり「泣いた」という意味になると思う。
 しかし、最初の中井の訳は

女は毛布に死体の腰をおろして顔を手で蔽った。

 である。初稿では「死体の顔」。推敲の結果、「死体の」が削除されている。「死体の」がなくても「死体の顔」と読者が読むと判断したのかもしれない。そうではなくて、「死体の」が誤読であると判断して、削除したのかもしれない。どちらかわからないが、「死体の」顔が「原文」の意味だとしたら、ここに書かれている内容は、とても複雑で、より強烈になる。
 死体は笑った。その死体の顔を隠す。(「蔽った」も中井は最初、「隠した」と訳している。)それは、死体さえもが軍政を批判して、あざ笑っているというだけではなく、そういう死体を軍政はさらに傷つける--それを恐れて女は愛する男と顔を隠した、ということになる。軍政のむごたらしさを、より強烈に暗示することになる。

 この作品では、訊問・拷問から聞こえてくる声、音は書かれていない。書かれていないことによって、それがより強烈に見えてくる。書けないような、むごたらしさが存在するのだ。同じように、ここでは軍政が死体をどんなふうにあつかうかは、死体の口に蜘蛛をつっこむということしか書かれていないが、ほんとうは、もっともっとむごたらしいことをするのである。それを心配して女は死体の顔を隠した。笑う顔を隠したのだ。

 書かれないものの方が、書かれたものより強烈である。
 --リッツォスには、そういう思いが強いな野かもしれない。だから、リッツォスは、できるかぎりことばを省略する。「物語」を「もの」の断片にして、それをつなぐ力を隠して表現する。「もの」だけを孤立させて、「もの」の背後を読者に想像させる。私はギリシア現代史を知らないのでよくわからないが、ギリシアの国民には、「もの」の背後がくっきり見えているに違いない。
 最後の行の訳は、そういうリッツォスのことばを運動に沿った訳なのだろうと思う。

 決定稿だけでなく、初稿→推敲という過程を読む楽しさを、今回はじめて知った。



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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(12)中井久夫訳

2009-02-12 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
意味は一つである    リッツォス(中井久夫訳)

圧縮した言葉、きわめつきの言葉、達人の言葉、
とりとめのない言葉、しつこい言葉、単純な言葉、疑いっぽい言葉、
役に立たぬ記憶、口実、口実、
あたりまえのことを強く言う、--たぶん石でしょう、
たぶん家でしょう、たぶん武器でしょう、--と。戸の把手。
水指しの把手。卓子に花瓶。
寝る用意をしてタバコを吸う。言葉たち--。
きみは言葉を空で鍛える。森で鍛える。大理石の上で鍛える。
紙の上で鍛える。別に--。死さ。

ネクタイをぐっと締めなくちゃ。ほら、こうだ。
しっ、静かに。待って。こういうふに。こうだよ。
ゆっくり。ゆーっくりだよ。この狭い隙間からはいる。
あすこだ。壁に押しつけてある階段の下だ。



 きのう読んだ「用心」に似ている。ことばを慎む。ことばを口にしない。行動も同じである。自分に言い聞かせる。
 どんなふうに言ってみても、誤解されることがある。かんぐられることがある。そうされないための工夫。--これも、軍政がもたらした一つの精神の形かもしれない。軍政に抵抗するというひそかな内戦の一つの形かもしれない。
 孤独なことばの記録をしっかりと残す--そういう戦い方もあるである。

 ことば、ことば、ことば。それを3行目で、言い換えている。

役に立たぬ記憶、口実、口実、

 あ、「記憶」もたしかに「ことば」なのだと知らされる。
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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(11)中井久夫訳

2009-02-11 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
用心    リッツォス(中井久夫訳)

そうだな。まだ声を落としていたほうがいい。
明日か、その明日か、いつか、
別の連中が旗を掲げて叫んだら、
きみも叫べよ。
だが用心だ。帽子を眼深くかぶれよ。
ぐっと、ぐっとだぞ。
何を見てるか、悟られるなよ。
叫んでいる群衆の眼が
何も見てないことが分かってても、だよ。



 この詩は二通りに読むことができる。仲間(友人)が別の仲間に語りかけている。友が私に語りかける。あるいは私が友に語りかける。そういう読み方と、私が私に語りかける。つまり、こころのなかの対話というふうな読み方もできる。
 私は、後者の方を取る。「用心」とはもともとそういうものだろうと思う。
 最後の3行が、とてもさびしい。かなしい。内戦の果ての、孤独を感じる。「何も見てないことが分かってても、だよ。」の読点「、」の一呼吸に、深い深い孤独がある。自分としか対話できない、孤独の悲しみがある。読点「、」の一呼吸が、「私」というひとりを「私」と「私」に分断し、対話を念押しする。



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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(10)中井久夫訳

2009-02-10 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
訊問の後    リッツォス(中井久夫訳)
    
脅えた顔がこわばり、髪が乱れて、
シャツが破れ、肉に打ち身が出来て--。奴等は彼に
ベルトを返した。腕時計を、黒い櫛を。
長い卓子に忘れたものだ。彼は受け取る。どう身につけたものか。
分からなくなった。ベルトを? 時計を? 櫛をどこにつけろというんだ?
彼は自分の身分証明書を眺める。「ルカス」と言ってみた。
もう一度自分に言い聞かせた。「ルカス」。目は伏せたままで--。
時計を腕にはめた。のろのろと。(卓子がいけない。
むきだしで暗い。隅の一つなんどは引っ掻き傷)。
ベルトもつけた。しめた。廊下に出ても
まだ締め続けてる。古い便所が匂う。
排水管が漏る。給仕がウフェニオンで壜を集めてる。
番兵の声が下の明かり溜まりで聞こえる。もう一度言ってみる、
「ルカス」と。外人に外国語で言うみたいだ。夜になってた。
通りでは明かりがこっちに向かって来る。博物館の庭でも--。



 訊問の後、世界はどんなふうに見えるのだろう。ここに書かれてあるような、訊問というより、いくぶん拷問も含まれるかもしれないような追及にあったあとは。
 リッツォスはここでも、「もの」を大切にあつかっている。「もの」のもっている材質、それがもっている「時間」をクローズアップでとらえる。ベルト。腕時計。櫛。そういう小さなものをアップでとらえたあと、映画で言えば、カメラを引いてテーブル全体を映し出す。そして、とまどう男の全身を映し出す。
 自分の体なのに、自分の体にぴったりあわない。ベルトを何度もしめつづけるのは、彼のからだがやせてしまっているからだ。だから、とうぜん腕時計もぴったりとはこない。
 訊問室を出たあとも、彼には世界がまだ「もの」の分断された集積にしか見えない。「世界」は一続きのひろがりにはならない。声、ことばすらも、自分から離れていってしまっている。
 最終行の、

通りでは明かりがこっちに向かって来る。

 が、非常にてまなましい。光はもちろん動かない。それでも、向うから近づいてくるように感じられる。脅迫感がまだつづいている。肉体に残る脅迫感が、世界を分断したままなのだ。

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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(9)中井久夫訳

2009-02-09 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
ピレフス港・拘置もの移送所    リッツォス(中井久夫訳)

一枚の毛布にくるまる。「柏餅」だ。発熱。セメント。湿り気。
髪の汗臭さ。壁に爪で刻んだ字。
名。日付。小さな「契約の石」。同じ悪夢が
同じたいまつで傷口を開く、--「今晩だ」「今晩だ」
「明朝の夜明けだ」と。
鍵孔に鍵がはまり、
投げた最後の煙草がまだ床でくすぶっているのに
長い鎖が果てない白い線の上を引きずって行く時、
ここを出るものがいて、ぼくらのことを覚えているだろうか?

   柏餅…一枚のふとんを上下に着る(本邦の俗語)。
   契約の石…神がモーセに下された十戒を書いた石板



 リッツォスが実際に「拘置所」あるいは拘置者移送所を体験したかどうか、私は知らない。詩人が書くことは体験したことだけとはかぎらない。見聞をもとにして、自分のことばを動かす。そういうことがあっても、不思議はない。リッツォスのように映画的な作品を書く詩人なら、なおのことそういう思いがする。
 前半の「もの」の素早い描写の積み重ね。それからひとの動きを交え、最後にこころを描く。一連の、リッツォスのことばの動きが、ここでも同じように動いている。
 前半の単語の積み重ねに対して、後半の「投げた最後の煙草がまだ床でくすぶっているのに」という粘着力のあることばの動きがおもしろい。ことばの粘着力がこころの動きを、点ではなく線として描き出す。リッツォスには、点と線との対比がある。


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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(8)中井久夫訳

2009-02-08 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
兵役忌避    リッツォス(中井久夫訳)

この国の貧しい郊外に歯科が増えた。
薬局も。棺桶屋も。夕方は
ペンキの剥げかけて反ってる戸の上の緑の門灯である。
光の長い帯である。
夜っぴて水が蛇口から出っ放しだ。カラス街の裏通り。
花屋の前でも床屋の前でも。誰だ、
ゆっくりと靴をみがいてるのは。その戸の前で。
今からホールにはいろうとしているみたいに。
はいったら誰もいなくて、
大理石の床が
ワックスかけてぴかぴかだ。
異様ななじめぬ世界だ。
自分の足音も異様で耳ざわりだ。自分の動きもぎこちない。
第一、窓がない。沈黙もない。鍵もなく、ハンカチもない。



 兵役を忌避した男が見た風景かもしれない。兵役を忌避したとき、何が見えるのか。街の風景は同じでも、自分が何かかわったことをすれば、その変化にあわせて、見えるものも違ってくる。
 「異様ななじめぬ世界だ。」は最後の方に出てくることばだが、それではそれ以前の世界は「なじめる世界」かといえば、そうとは限らないだろう。郊外に増えた歯科、薬局、棺桶屋--そういうものが目につくのも、それがなじめぬ世界だからだろう。特に「棺桶屋」が増えたことに対して「なじめる」という感覚を持つひとは少ないだろう。ほんとうは「増えた」のではなく、こんなにたくさんある、ということに気がついただけかもしれない。違って見えてくる、とは、そういうことをさす。
 世界になじめないとき、それは自分自身に対してもなじめないということである。兵役を忌避しなければ「なじめる」かどうかはわからないが、何か特別なことをしてしまったということが「なじめなさ」を引き起こしている。自分できめたことだけれど、まだ自分で受け止めることができない。その受け止めることのできない自分と和解するために、ことばがある。ことばにする。そうやって反復することによって、自分自身に「なじみ」をつくりだそうとしている。
 最後の「鍵もなく、ハンカチもない。」が、なんとも切実だ。ぐい、と肉体に迫ってくる。その直前の「沈黙もない。」ということばが、いったん、世界を切断するからだろう。世界と途切れ、孤独にほうりだされる。その瞬間に、「鍵もなく、ハンカチもない。」という「事実」、「現実」に引き戻される。ここから、男は徐々に自分にかえっていこうとしている。

 この詩も、とても映画的だ。カメラが郊外から街中へ自然に移動してきて、ホール(ダンスホールか)へ入ろうとする。その動きにあわせ、外から室内へ入るという動きにあわせ、視線は、外から自分自身へと向きを変える。自分の内部へと入り込む。そこで自分を見つける。とても自然な動きだ。

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