詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

木村孝夫『十年鍋』

2022-08-18 22:33:49 | 詩集

木村孝夫『十年鍋』(モノクローム・プロジェクト、2022年03月11日発行)

 木村孝夫『十年鍋』は東日本大震災の10年後を描いている。

もう十年ですか?
と 問う声に
まだ十年ですと答える

 ということばが、「海の方へ」の最後に書かれている。この詩集の全てを語っている。だが、紹介するのは、別の詩。「骨の重さ」。

死体が海底で
骨になる
身につけているものを脱ぎ捨てて
そこにある無常が
骨を磨き続けている
もう魂は
天に帰って行ったのに

諦めない
帰るまでは、骨の一片でも
衣類の切れ端でも
あの日のあの時間は
一生悔いる時だ
この両手にしっかりと抱いて
あげたかった

生と死の線引きに
大混乱した日
悲鳴の先が死の領域だとすれば
呼ぶ声は
その近くまで届いた筈なのだが
生へと引き戻す
力にはなれなかった

海岸線を歩きながら考える
残っている悔いは
引きずられていくあの瞬間だ
津波の丸い背が伸びて
水平線へと戻っていった時
助けを呼ぶ
手の姿が何本も見えた

その場所を足で掘ると
多くの声が隠されている
これが大きな錯覚だとしても
その時の時間は
そこに固定されたまま
頑なに動こうとはしない

写真に語りかけ
一言を添えての思いの水を交換する
嗚咽する
月命日
この両の手は
まだ骨の重さを知らないのだ

 終わりから二連目の6行を私は何度も読んだ。
 「その時の時間は」とは何か。
 木村は「その時」を「時間」と言い直している。「その時」は「一瞬」というか、短い。しかし、それは「その時」なのに「一瞬」ではなく、とても長い。「その時」は木村にとっては「果(終わり)」がないのだ。
 この「時間」をめぐる思いは、さらに複雑にゆれる。
 「固定されたまま」。この受動態は何を意味するのだろうか。「固定した」のは誰なのか。何なのか。
 「頑なに動こうとはしない」とあるが、「時間」は自分自身の「意思」で動くものなのか。
 ここでは「時間」は物理的な存在ではないし、客観的な存在でもない。木村自身である。「固定された」のではなく「固定している」のだ。「動こうとはしない」のではなく、「動かされないぞ」と誓っているのだ。
 「頑なに」ということばが、とても美しい。美しいと呼んでいいのかどうか、よくわからないが、美しいということばがふいに出てきた。
 「錯覚」ということばがある。つまり、木村の書いていることは、「客観的な事実」ではない、ということかもしれないが、「事実」が「客観的」である必要はない。「主観的」であっていい。「頑なに」主観的に生きる、ということがあっていい。それが「誓う」ということだろう。木村は、この詩で「誓う」ということばをつかっているわけではないが、誓いの強さが響いてくる。


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