gooblogからamebablogに引っ越しました。
(まだ、完全に「引っ越し」は終了していませんが。)
新しいURLは
https://ameblo.jp/shokeimoji/
タイトルは「詩はどこにあるか」を引き継いでいます。
引っ越しにともない、gooblogの「カテゴリー」が反映されず、すべて「ブログ」になっています。
また、一部の記事は、引っ越しできない状態ですが、8割以上は引っ越しがすんでいます。
(gooblogに書いた記事は1万本を超しています。)
amebablogで過去記事を検索するときは、映画のタイトル、詩集のタイトル、詩人の名前などで検索してください。
みなさんの「訪問」をお待ちしています。
gooblogが11月でなくなるので、アメバブログに引っ越しました。
新しいURLは、
https://ameblo.jp/shokeimoji/
です。
検索するときは「詩はどこにあるか」で検索してください。
使い勝手がわからず、困っているけれど、なんとか過去記事の「引っ越し」はすみました。
新しいブログでは、記事の「検索窓」がないので、過去記事の検索はむずかしい。
私は、トランプとゼレンスキーの「協議」をテレビで見たわけではない。テレビで見ても、英語がわかるわけではないから、理解できなかったと思うが、読売新聞の報道(2025年03月02日朝刊、14版、西部版)で読む限り、ゼレンスキーは「外交」というものをまったく知らない。
私は人間関係を読むのが苦手で、「外交」には向いていない人間だが、そういう私から見ても、ゼレンスキーは馬鹿だなあ、と思う。
こんな会話がある。会話の順序として、前後するのだが、協議の途中でのやりとり。
バンス あなたは一度でも「ありがとう」と言ったか。
ゼレンスキー 何度も。
バンス 違う。この会談で言ったか。
ゼレンスキー 今日も言った。
協議は記者団のいる前で行われている。そうした場合、ゼレンスキーが、何度「ありがとう」と伝えていたとしても、もう一度、協議の前に、記者団のいる前で「ありがとう」と言って、そのことばを「記録」させることが重要なのである。
外交とは、まず、ことばなのだ。
政治ではないが、簡単な例をひとつ。母の日、父の日。こどもが「おかあさん(おとうさん)ありがとう」と言う。いつも言っているかもしれないが、その日も言う。頭のいい子どもは「いつも感謝している。両親を愛している。だから言わなくてもいい」と思いがちだが、違うのだ。「ありがとう。愛している」ということが、母や父を喜ばせる。母の日、父の日に「あらためて」言うことが必要なのだ。
外交とは、それに似ている。わかっていることを、「あらためて」ことばにする。
ゼレンスキーが、「トランプさん、ありがとう」のような挨拶で協議をはじめれば、この協議は全然違ったものになっていただろう。そういう簡単なことが、ゼレンスキーにはできなかった。つまり、馬鹿である。
なぜ、こんな馬鹿な失態をしたのか。たぶん、ゼレンスキーは「自分は偉大な大統領である。みんなが自分を支援して当たり前だ」と思い込んでいる。つまりバンスがもとめていることが理解できずに、「ありがとう」と言わなくてもいい人間だと思い込んでいるだ。三年間のヨーロッパや日本の支援が、そう思い込ませたのかもしれない。
トランプ あなたは今、非常に悪い状況にある。切ることのできるカード(切り札)持っていない。
ゼレンスキー 私はカードで遊んでいるわけではない。(略)私は戦時下の大統領だ。
トランプの「カード」の比喩が、こういう場合に適切かどうか問うてもはじまらない。比喩に対して、比喩で応答しても意味はない。泥沼にはまるだけだ。さらに悪いのは、「私は戦時下の大統領だ」と見栄を張ったところだ。
そんなことは、トランプに限らず、誰もが知っている。
戦時下の大統領であり、ロシアに比べると、軍事力が格段に落ちることは誰もが知っている。この「事実」をどう伝えるか。「私は戦時下の大統領だ」、だから「アメリカが私を支援するのは当然のことなのだ、アメリカには支援する義務があるのだ」とアメリカに責任を押しつけるような態度をとってはいけないのだ。「どうか助けてください(支援してください)。支援を継続していただくために、私は(ウクライナは)何をすればいいのでしょうか」と、「下手」にでないとだめなのだ。
そんな屈辱的なことはしたくない、とゼレンスキーは思っているのかもしれないが、「あがとうございます、どうぞ、よろしくお願いします」というのは「ことば」にすぎない。そう思っていなくても、そう言って「実」を引き出すのが「外交」だろう。
世界中が見守っているなかで、ぺこぺこするのはみっともなくても、その結果として、ウクライナに「平和」が戻るなら(ウクライナの国民が死なないですむなら)、それをやってみせるのが、「外交で勝つ」ということだろう。ゼレンスキーに、その「覚悟」のようなものがなかった、ということだ。
直前まで「合意する」ことになっていた「鉱物協定」の署名もなくなった。
鉱物協定が結ばれれば、アメリカは、今後ウクライナに、経済面で深く関与していくことになる。ウクライナにアメリカの企業が入り込むことになる。そうすると、必然として、アメリカはウクライナを「防衛」しなければなくなる。バイデンがウクライナに肩入れしたのも、彼の息子だか、親族だか知らないが、ウクライナに関与していたからだろう。トランプは、バイデンよりももっと深くウクライナに関与しようと提案したのだ。それは、つまるところ「安全保障」である。ロシアがウクライナに、さらに侵攻することがあれば、アメリカはアメリカの企業(の利益)を守るために、さらに積極的に関与すると間接的に言っているのだ。
こういうことは、もちろん「ことば」にしない。「外交」だから、わざわざ「ロシアが侵攻してきたらアメリカが対抗する」という「文言」を残すはずがない。それでは第三次世界大戦がはじまってしまう。
それなのに、ゼレンスキーは
戦争を止めたい。しかし、「(安全の)保証」とともにと言っている。
と、「安全保証」を「言語化」することを求めている。つまり、「裏交渉」だけでは不安だというのだが、これじゃあねえ、トランプは怒る。「外交」の意味がない。「外交」とは、基本的に「裏交渉」である。
こんなことは、歴史的な交渉の「裏の資料」が、ずーっとあとになってしか公開されないことを見るだけでもわかる。「現実」を変更できないところまで作り上げてから、「秘密(裏交渉)」を明らかにするのが「外交」である。「表交渉の文言」でそれぞれの国民に向けて説明する。いろいろな「声明方法」を検討して「外交文章」の「文言」はすりあわされる。そして、その「すりあわせ」の裏側には、膨大な「裏交渉」がある。
ウクライナで起きていることには胸が痛むし、ウクライナからロシアが撤退する以外に、ほんとうの平和はやってこないということはわかっている。トランプの「強欲主義」には絶対に与することはできない。しかし、それは私が、当事者ではないからとることができる、ちょっとずるい発言である。
ヨーロッパのウクライナ支援は、今後、形を変えていくと思う。ウクライナを支援する、しかし、ウクライナを支援することで、戦争が自分の国にまで及んできては困る、という姿勢が少しずつ露顕してくるのではないだろうか。
トランプに譲歩することで、「そんなにまでトランプに譲歩する必要はない。ウクライナは、ロシアだけではなくアメリカからも侵略されようとしている」という認識を引き出すような「外交手腕」を発揮しなければ、だれもゼレンスキーを支援しなくなるだろう。
「外交」は「ほんとう」を言うところではなく、「うそ」を平気で言って「実」をとることなのだと思う。それができないゼレンスキーは、やっぱり馬鹿だと思う。
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ロシアがウクライナに侵攻してから3年になる。トランプがアメリカ大統領になってから、いろいろな動きがあるが、基本的には何も変わっていない。すべてがアメリカ強欲主義に振り回されている。アメリカの強欲主義がすべてを支配している。
私は、貧乏な農家の生まれなので、経済のことはぜんぜんわからない。自分が生きていくための金のことしかわからないのだが、それでもこのロシア・ウクライナの戦争を支配しているのはアメリカの強欲主義ということだけは理解できる。
ロシア・ウクライナ戦争で、いちばん利益を上げる(上げた)のはだれか。アメリカである。
ロシア・ウクライナ戦争がはじまったことで(ロシアがウクライナに侵攻したことで)、世界のほとんどの国がロシアを批判した。そしてロシアとの経済交流をやめた。ドイツはロシアから天然ガスを購入するのをやめた。日本もやめた。ロシアは、ヨーロッパや日本から金を稼げなくなった。ドイツ、日本がロシアからの輸入をやめた分、どこから代替品を輸入したのか。私は知らないが、そこにはアメリカからのものも含まれていると思う。ヨーロッパ、日本向けの「販路」をアメリカは拡大したと思う。
そのほかにアメリカの「武器」が大量に売れたはずである。どこの国が買ったか。ウクライナが直接買わなくても、ヨーロッパ諸国が買っただろう。戦争の危機をあおることで、日本にも大量の武器が売れたはずである。
そういうことを見越して、ロシア・ウクライナの戦争は、アメリカが仕組んだものだと私は考えている。その「仕掛け」に乗ってしまったのが、ウクライナである。
では、このまま戦争がつづいていけば、もっとアメリカは儲かるのではないか。
そうではないらしい。
トランプが、突然レアアースの話をし始めて、それがはっきりした。「武器支援」ではなく「レアアースを購入することによる支援」という奇妙な言い方が、そのことを明確に語っている。
この戦争がつづきすぎると(?)、アメリカは損をする。ウクライナには、半導体などには欠かせないといわれる貴重なレアアースがある。戦争がつづいていれば、それを手に入れることができない。アメリカは、もともと、ウクライナにあるレアアースを「いい条件」で手に入れるために、ゼレンスキーをそそのかして、ロシアが侵攻してくるように仕向けたのだろう。はやくレアアースを確保する方法を確立しないと、どこかにそれを奪われてしまう。
だからこそ、トランプは「終戦工作」をはじめたのである。
「状況」を支配しているのは、アメリカの強欲主義なのである。レアアースは、「ハイテク産業」の基調素材である。トランプの周辺に、AI関係の人間が登用されているのも、そのこといくらか関係があるだろう。彼らの政治的能力「優秀」というよりも、レアアースと関係があるのだ。レアアースの重要性を知っているからだ。それはまた、トランプの新しい側近がレアアースの独占を求めているということでもある。その要望にこたえてトランプは、レアアースを手に入れようとしている。「販路」を握ろうとしている。支配しようとしている。「終戦」はトランプのアイデアというよりも、「側近」のアイデアかもしれない。
アメリカが儲かるなら、ほかの国なんかは、どうなってもいいのである。
それは、アメリカ(人)が、アメリカの東部海岸に上陸したあと、アメリカ大陸を横断し、太平洋も横断し、日本、韓国、フィリピンまでを支配している状況を見るだけでわかる。
トランプが「メキシコ湾ではなく、アメリカ湾と呼ぶ」と言ったメキシコ湾について言えば、フロリダもテキサスも、以前はメキシコだった。戦争で奪い取ってアメリカにした。(メキシコの前は、先住民のものだった。)アメリカの強欲主義は、アメリカがそれらの土地を「奪った」という歴史さえないものにしてしまうのだ。地球全部をアメリカ強欲主義の支配下におさめるというのが、彼らの最終的な「夢」だ。アメリカ人以外から、すべての利益を奪い取るのが彼らの「夢」だ。
脱線したが。
脱線ついでに思っていることを書いておこう。
日本、韓国、フィリピンは、中国、ソ連(当時)の共産党を拡大させないための「防衛ライン」である。マッカーサーが確立した反共ラインである。
で、このとき、日本は、フィリピンと比べると「幸運」だった。フィリピンにはアメリカ人(ヨーロッパ人)が食べるバナナがある。だからフィリピンは「バナナ生産国」(バナナ供給国)としてアメリカに支配された。バナナをとおしてアメリカの企業は大儲けをした。(ソ連がキューバを砂糖生産国にしたのに似ている。)日本の「特産」は米だが、米はアメリカやヨーロッパではそんなに食べない。だから「米供給国」にしたくても、ちょっと無理がある。沖縄の面積がもっとひろく、あるいは日本中がサトウキビの栽培に適していたら日本は「砂糖供給国」になっていたかもしれない。そういう「押しつけ農業政策」がなかったから、日本は「工業国家」の道を歩むことができたのだと思う。いまは、自立した日本の工業をおさえつけるために、鉄鋼や車に対して、圧力をかけている。
話を戻すと。
なぜ、レアアースの確保(販路支配)にトランプが躍起になるかといえば、レアアースは中国にもあって、これには手が出せない。中国は自国のレアアースを利用することで、産業をより活性化できる。このままでは、アメリカは中国に追い越されてしまう。そうした状況が、トランプの行動を後押ししているのである。
レアアースという「資源の争奪」が、アメリカ主導ではじまったのである。それはアメリカ強欲主義の、新しい「戦略」なのである。
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トランプの「ガザをアメリカが所有する」発言は、いままで私が見落としていたことを教えてくれた。きのうは、アメリカが台湾をすでに「所有済み」と思っていることに気づいたと書いたのだが、きょうは、その続編。
アメリカ(その一州である日本)の主張のひとつに「開かれた太平洋・インド洋」がある。これはすべての国に対して「開かれた」ということではなく、むしろ「中国が進出してこない太平洋・インド洋」であり、別のことばで言えば「中国を締め出した太平洋・インド洋」なのだが。
中国(台湾を含む)は太平洋(東シナ海、南シナ海)に面しているから、中国を台湾へ進出させないという論理の是非は別にすれば、「戦略」としては「締め出す」ということは、確かにあり得る。(それに賛成というのではない。)
しかし、インド洋は? 接していない。なぜ、中国の陸地が接していないインド洋を太平洋と結びつけて問題にしなければならないのか。インド洋から中国を締め出そうとするのはなぜなのか。
これはアメリカが、インド洋は太平洋とつながっており、大西洋を横断し、北アメリカ大陸を横断し、さらに太平洋も横断して「領土」を広げたアメリカが、さらに西へ向かって「領土」を広げるための「戦略」の一環なのだ。
インド洋はインドに面しているが、同時にアフリカにも面している。
アメリカが目を向けているのは、アフリカの東部海岸である。
アメリカは、アフリカを大西洋側(西側)からとインド洋側(太平洋側、というか東側)の両方から挟み打ちの形で「所有(侵略)」しようとしているのだ。
その戦略を邪魔させないために、中国をインド洋から締め出そうとしている。そして、そのために日本を利用しようともしている。
「台湾有事」を演出し、中国は危険な国だと宣伝し、中国が台湾問題に集中している間に、アフリカを「所有」しようとしている。「台湾有事」は、いわば「誘導作戦」というか「おとり」なのであり、そこは日本に任せておけ、ということなのだろう。
アフリカのことは、私は勉強したことがないので知らないのだが、アメリカは中南米において、いわゆる冷戦時代、中南米の社会主義の動きをたたきつぶすために「独裁政権」を利用した。チリの詩人・ネルーダも暗殺されている。CIAやアメリカ政府が関与していたことは、多くのひとが語っている。
アフリカの諸国で、反アメリカ主義が広がれば、それを東側からも接近していくことで弾圧したい、とアメリカは考えているのだろう。西側からの接近を阻む国はないだろう。「開かれた大西洋」があるだけだ。中国の海軍がアフリカ西岸(大西洋)へたどりつくにはパナマ運河を通らないといけない。(もちろん太平洋を南下してマゼラン海峡を通る方法もあるが……。) トランプが、パナマ運河を「所有」する狙いは、だから、中国が太平洋を横断したあと、パナマ運河を通って、大西洋を横断し、アフリカ西岸へ向かうことを阻止するという狙いもあるのだ。
中国をインド洋に進出させない、中国を大西洋に進出させない。そのために、アメリカは、ちょっと私などには想像もできない「構想」を着々と進めているのだ。
アメリカが「仮想敵国」とみなしている国には、社会主義(共産主義)の国と同時に、イスラム教の国がある。アフリカにも北部を中心に、イスラム教徒の多い国が広がっている。
北の方からは、NATOを誘導できるだろう。さらには、ガザを「所有」したあとは、アラブ諸国の目をガザに集中させておいて、手薄(?)になったアフリカに手を着けるというわけだ。ガザは、いわば「台湾有事」みたいなものである。ガザを「所有」したとはいっても、実際に対処するのはイスラエル。「台湾有事」に対処するのが日本であるように。
これはあまりにも「荒唐無稽」な「戦略」に見えるかもしれない。
しかし、荒唐無稽と思うのは、私が日本人の感覚を捨てきれないからだ。アメリカ人の「強欲主義」の視点からすれば、絶対に、そうなる。
アメリカ人は、中国がアメリカと同様に強欲であり、太平洋を横断し、その先の大西洋も横断し、東へ「触手」を伸ばしていると感じるのだろう。西への「触手」は、「陸路」を西へ進んでいると感じているのだろう。中国人=アメリカ人、という発想だ。こういう発想は、アメリカ人にしかできないと思う。
トランプは「馬鹿」だと私は考えているが、「馬鹿」だから、ふつうは隠しておくようなことを平気で明るみに出す。グリーンランド、パナマ運河、ガザを「所有」し、インド洋を「所有」したら、アメリカは「東西南北」の全方向から、中国、ロシア、イスラム教の諸国を包囲し、アメリカの「領土」を拡大し続けるのである。
「主権」「独立」という概念をさらにさかのぼって、「人間(個人)とは何か」というところから、アメリカの(トランプの)「強欲主義」に立ち向かう思想(哲学)をつくりなおさなければいけないのだろう。
読売新聞2025年2月5日の読売新聞夕刊(西部版・4版)を見て、びっくりした。一面の見出し。
米、ガザ所有構想/トランプ氏「住民は移住」主張
見出しだけで十分なので、記事は引用しない。ネタニヤフと会談した後の記者会見で言ったという。グリーンランド、パナマ運河につづく、信じられないような暴言である。世界はトランプの所有物ではない。しかし、あまりにもアメリカ的すぎる強欲主義の主張である。
で、ふいに思い浮かんだのが、つぎはきっと「台湾を所有する」と言うだろうということである。
すでに、日本、韓国、フィリピンは、トランプにとって(そして、アメリカにとって)、アメリカの「所有物」なのだろう。(自民党政権は、それを完全に受け入れている。核兵器で多くの市民が虐殺されたにもかかわらず、そのことに異議をとなえないばかりか、アメリカの核の傘に入っている。そして、安全だと信じている。アメリカ大陸のアメリカ人が核があるから安全と思い込んでいるように。)
そして、ここから思うのだが、「台湾有事」について、私は、台湾が独立し、アメリカが基地をつくれば、それは中国にとって、アメリカにおける「キューバ」のような存在になるだろうと書いたことがある。中国が「台湾独立」に反対するのは、何よりも台湾にアメリカ軍の基地ができるからだ。
でも、この私の認識は、ある意味で間違っていた。今回のトランプの発言で、ほんとうにそう思った。
先に書いたように、アメリカはフィリピン、台湾、日本、韓国という「防衛ライン」を「所有」していると思っている。フィリピン、台湾、日本、韓国をアメリカの一部と思っている。だから、台湾がもし中国に統合されてしまえば、それはアメリカの「防衛ライン」を破り、そのなかに侵入してきたことになる。つまり、中国の台湾統一は、アメリカにとっての、第二の「キューバ危機」なのである。もっとわかりやすくいえば、それは「台湾有事」ではなく「アメリカ有事(アメリカの防衛ライン有事)」なのである。
中国人、あるいは台湾に住むひとの立場ではなく、「アメリカ人」になって(トランプになって)考えてみる必要があったのだ。私は、アメリカの政策を批判するだけで、アメリカ人になって考えたことがなかったので、見落としていた。台湾を、まさかアメリカの所有物であり、中国に奪われていると考えているとは思ってもみなかった。アメリカにしてみれば、第二次対戦後の台湾はアメリカの所有物なのに、それを中国に奪われてしまった、取り返さなければならない、ということなのだろう。
フィリピンを例に考えてみればいい。フィリピンは、アメリカが「所有」する前は、スペインが植民地として「所有」していた。その後、日本が侵攻し、その日本をアメリカが追い出した。そして、「再所有」したのだ。
第二次大戦後、アメリカがフィリピンに何をしたか。アメリカの資本がフィリピンをどれだけ食い物にしてきたかをみればいい。フィリピンをバナナをつくり、それを輸出するだけの国にし、工業などの産業を育成しなかった。(ソ連がキューバを砂糖生産の国にしたのと似ている。)真の独立には、「工業化」が必要なのだが、そのための協力などしていない。
そこまで考えて、急に思うのだが、日本とフィリピンの関係も、アメリカの(マッカーサーの)「思想」の延長にあるのではないか。日本とフィリピンをつかって中国(共産党)を封じ込めるという思想とつながっているのではないか。マッカーサーは天皇を利用して、日本を完全に支配したが、少し手を変えて、日本とフィリピンの関係を動かしたのではないのか。フィリピンを利用したのではないか。
日本とフィリピンは、日本がフィリピンに侵攻したにもかかわらず、良好である。(良好に見える。)人事交流は活発だし、一時期、日本の男性と結婚するフィリピン女性も多かった。あれは単に日本の労働力不足解消のひとつの方法だったのではなく、アメリカの戦略だったのではないか、という気がしてくるのである。他の国の女性でも可能性としてあり得たが、アメリカが日本とフィリピンの関係を強化するために「斡旋」をしたのではないか。
それに類似したことだが、外国人「介護士」の採用も、まず、フィリピン人からはじまっていないか。日本・フィリピンの「友好関係」が背景にあるとはいえ、「優先」されている感じがする。それは、どこかでアメリカの戦略と重なっているからではないのか。
日本(北海道)からフィリピンまで、アメリカは「中国封じ込め」の「防衛ライン」がほしかったのだ。そのために、日本とフィリピンの「友好」を演出したのだ。
世界地図を開いて、日本からフィリピンまで線でつないでみればいい。台湾が含まれれば、その線の「途切れ」は非常に小さくなる。中国は太平洋へ進出できない。
ヨーロッパから移動した「アメリカ人(になったヨーロッパ人)」は、アメリカ大陸を東から西の端まで移動し(占領し)、さらに海を超えて、ハワイをアメリカにし、そのあとさらにアジア大陸のすぐそばまでやってきた。アジア大陸を侵略しようとしている。その「拠点」として台湾が必要である。
台湾を「イスラエル化」しようとしているといえるかもしれない。
東から西へは、いま書いたように、太平洋を横断し、すぐ中国のそばまできている。
西から東への侵攻は、ワルシャワ条約機構解体後、つぎつぎにNATOを拡大する形で、ウクライナまで「所有」しつつある。
中東からも同じように、「所有」の範囲を広げることはできないか。イスラエルだけにまかせてはおけない。アメリカそのものが、イスラエルの近くに「領土」を「所有」し、それを基地にしたいということだろう。
それは中東を飛び越し、インドを視野に入れた計画かもしれない。
アジアには、中国、インドというふたつの大国がある。そのふたつの国の存在が、きっとアメリカには気に食わない。アメリカの思うがままに動かない。それを何とかしたい、何とか「アメリカ帝国主義」の配下におさめたいということだろう。
トランプはアメリカの野望そのものである。
トランプの米大統領就任演説要旨を読んだ。(読売新聞、2025年1月21日夕刊、西部版・4版)。いろいろ言っているが、私がいちばん注目したのは、次の部分。
米国はパナマ運河の建設に多額の資金を費やし、人命を失った。パナマによって約束は破られ、米国の船舶はひどい過大請求を受けている。何よりも中国がパナマ運河を運営している。我々は中国ではなく、パナマに与えたのだ。我々はそれを取り戻す。
これは、「領土拡張主義」である。
「アメリカ」は、もともとヨーロッパから侵略したひとが、勝手に「建国」したものであり、もともと「拡張主義」の「強欲者」の国である。トランプは、メキシコ湾をアメリカ湾と解消することも主張しているが、いまでこそカリフォルニアやテキサス、フロリダは「アメリカ」だが、それはメキシコから戦争で奪い取ったものだ。テキサスの油田地帯がメキシコのままだったら、アメリカ経済は違ったものになっていただろう。(メキシコも、アメリカと同様、ヨーロッパから侵略してきたひとが力づくでつくったものだが。)
なぜ、とりわけ「パナマ運河」に注目するのかというと。
「アメリカ建国」はヨーロッパ人が西へ西へと進んできた結果、つくられた国である。最初は東海岸だけだったが、その「強欲主義者」はアメリカ大陸を横断し、西海岸まで「領土」にし、それだけでは満足せず、いま、それは太平洋を横断し、アジアにまで手を伸ばしている。
日本はすでに、その支配下にあるし、台湾も「独立」という名目で支配下に置こうとしている。台湾を足場に中国大陸にまで「強欲主義(資本主義とも言う)」を侵略しようというのが狙いだろう。
この西向きの「領土拡大」の背後では、東向きの「領土拡大」もあって、それはNATOの拡大という形で実現されてきた。トランプはNATO加盟国に軍事費の増大を要求しているが、これはアメリカの軍需産業に金を払えという「強欲主義」の主張である。その主張を隠すためにウクライナを刺戟し、ロシアと戦争をさせた、というのは私の見方だが……。ともかく、東からも西からも、アメリカの「強欲主義」を「自由主義」と言い換えて「侵略(領土拡大)を正当化しようというのが、トランプの狙いである。(バイデンも、この東西からの両挟みを推進していた。やはりアメリカの軍需産業によってコントロールされていたということだろう。)
で、パナマ運河。
トランプはすでに、東西両方向からの「強欲帝国」は完成されつつあると考えているのだろう。次は、南へ。南も「強欲主義」で支配すれば、アメリカは「世界帝国」になれる、ということだ。支配の矛先を南へ向けた。
これは、象徴的な転換である。
そして、ここでもトランプは「中国がパナマ運河を運営している。我々は中国ではなく、パナマに与えたのだ。我々はそれを取り戻す」と中国を引き合いに出しているのだが、何がなんでも中国を支配してしまおう、中国の影響力を最小限にして、つまり、できれば中国経済を中国国内に封じ込めてしまおうということだろう。
ここで、私が思うのは、このアメリカの「強欲主義」に立ち向かい、それぞれの国が「独立」を守るためには、アメリカがまだ手を伸ばしていないアフリカの諸国とどうやって連携を築くかということだ。これが、たぶん、唯一の可能性だ。(そういうことを理解しているからこそ、中国は、アフリカの諸国と連携しようとしているように、私には思える。)
ちょっと脱線したがというか、先走りすぎたが。
「対南」政策について言えば。
中南米の諸国は、すでに冷戦時代に、アメリカの政治によってさまざまな支配を受けている。だからこそ、トランプは、パナマを支配することは簡単だと思い、パナマ運河を取り戻すと言ったのだろう。かつての米政権がCIAと軍を利用しながら、南アメリカの政権を自由にあやつった記憶は、トランプにははっきり記憶されているだろう。
「民主主義」と言えば、聞こえはいいが、冷戦時代に、アメリカが「民主主義を守る」という名目で、南アメリカ諸国で何をしてきたか、その歴史を振り返れば、これから何がおきるか予測できるだろう。
パナマは「序の口」。中南米には、「親アメリカ」ではない国(政権)もある。そうした国への「工作」もこれから再びはじまるだろう。
だからこそ。
アフリカが問題になる。世界を自由で開かれてたものにするためには、まだアメリカが「強欲主義」の手を伸ばしていない地域・国民の活動が重要になる。いや、アメリカには、すでに「奴隷」としてアフリカのひとびとを搾取してきた時代があるのだが、だから、トランプはアフリカに関しては「みくびっている」のかもしれないが。
ともかく。
パナマ運河の行方が、今後の世界の行方の「指針」になる。私は、そう思った。
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大岡昇平の「レイテ戦記」を読み始めて、すぐに思い浮かんだのはスティーブ・マックイーン監督「占領都市」である。
私はレイテ島がフィリピンにあること、フィリピンの本島(?)のルソン島の南にあること、レイテ島は大激戦地であったこと(大岡昇平がその戦いに参加したこと)くらいしか知らない。レイテ島はもちろんだがフィリピンにも行ったことはない。アムステルダムについていえばオランダにあること、「アンネの日記」のアンネが住んでいたところくらいしか知らない。アムステルダムには一度観光で行ったこと、レンブラントの「夜警」を見たこと、フェルメールのいくつかの作品を見たことを思い出すことができる。ほかは、なにもわからない。
「レイテ戦記」を読むと、知らない地名がたくさん出てくる。登場人物も、私には覚えきれないくらい登場する。日本軍もそうだし、アメリカ軍もそうである。さらにフィリピンのゲリラも登場する。彼らは、大岡昇平が書いている地名はもちろん知っている(知らない地名もあるだろうけれど、少なくとも彼ら自身が戦った場所の名前は知っているだろう)。ほんとうの名前(昔からある名前)とは別に、日本軍がつけた名前、アメリカ軍がつけた名前さえある。そして、彼らは、さらにそこにはどんな木が生えているか。その海岸はどんなものか。砂の色はどんなぐあいか。いろいろなことを「肉体」で知っている。「肉体」はある場に存在するとき、その場のなかに広がっていく。拡大していく。そして、他の「肉体」と交わる。「名前」をとおして、その「場」そのもの、空気、時間を共有していく。それはたいていの場合、明確な全体像として意識されないが、「肉体」で触れることのできるものとして、そこにたしかなものとして生きている。山も川も海も、水も風も、台風も。あらゆるものが、大げさに言えば死を否定しながら、生きている。死んでいくときさえ、その死を否定するように、もがき、苦しみ、生きている。
それはアムステルダムでも同じである。私は映画の中に登場する地名、建物の名前、そしてそこに生きていた人たちの名前を知らない。それがほんとうであるかどうかさえ、私には確認のしようがない。しかし、そこには私の知らない土地の名前、建物の名前、何階であるか、どの部屋であるかを自分の世界の中心として生きていたひとがいた。彼らにとっては、世界の中心であり、世界のすべてだったときもあるはずだ。
そういうものは、抽象化してはいけないのだ。ストーリーにして、要約してしまってはいけないのだ。レイテ島では大激戦があった、無残に死んでいたひとがいた、あるいはアムステルダムでは何人ものユダヤ人が強制移送されいのちを奪われた、という具合に「要約」してはいけないのだ。一つの場所、ひとりのひと、一つの時間(何をしていたか)をむすびつけ、具体的にしていけないといけない。人間は、いつでも具体的な存在であり、具体をはなれて存在し得ないからである。
「レイテ戦記」も「占領都市」も、大岡昇平やスティーブ・マックイーンにとっては、まだまだ「具体的」とは呼べないものかもしれない。ことば、映像にはかぎりがある。両方とも長い作品だが、どれだけ長くしてみても、そのことば、その映像からこぼれおちたものは限りなくあるだろう。記録すればするほど、記録できなかったものの「量」が逆に増えてくるように思えるかもしれない。
そして、たぶん、その「増えてくる」ということが大事なのだ。
私はレイテの惨劇、アムステルダムの惨劇とは無関係であると思っているが、その無関係であると思っているものがどこかでつながっているかもしれない。そのつながりはとても小さいかもしれない。しかし、同じ地球で起きたことであり、それが起きてから百年もたっていない。
何もレイテ島やアムステルダムに限ったことではない。いま、まさに、世界でいろいろなことが起きている。そして、それを要約されたニュースとして私は知っているが、その要約からはみ出しているものは数限りなくある。それを全部知ることはもちろんできない。しかし、そうした「個別」の「具体」を意識しないといけないのだ。
映画の中に、虐殺されたユダヤ人の名前を刻んだ壁が登場するが、その名前だけがすべてではないだろう。もっと多くの記録されていない名前があるだろう。だれも、そのすべてのひとを具体的に知ることはできない。しかし、その何人かを具体的に知っているひとがいる。その「具体性」を、どうやって引き受けることができるか。そのことを、観客は問われていることになる。
大岡昇平は、死者によりそうだけではなく、批判すべきこと(ひと)は批判し、評価できるものは評価し、体験したことをできる限り「具体的」に記録しようとしている。その「具体」のなかに、私がどれだけ入っていけるか、たぶん一毫もはいっていけないだろう。それでも、私は読む。「具体」を忘れない、忘れてはいけないという大岡昇平の意志に触れるために。映画も同じである。二つの作品に描かれているのは悲劇であり、絶望だが、それが悲劇である、絶望であると意識することのなかにこそ「希望」があるのだと思う。
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あるインターネットのサイトでAIと労働が問題になったことがある。AIロボットの社会進出と社会的人間の関係がテーマである。労働が奪われると、人間はどうなるか、と簡単に要約できる問題ではないが、簡単に言えば、そういうことがテーマである。このテーマを最初に持ち出したひとは、「AIロボットが人間の労働を奪うと、人間に影響を与える」ということを懸念していた。私も、人間の本質そのものに影響を与えると考えている。人間は労働をとおして社会を(世界を)認識するからである。
これに対して、あるひとが、こんなことを言った。
「AIは人間を労働から解放する。労働に拘束されない人間は感性を楽しむことができる、人生の喜びを味わうことができる」
この楽観主義に対して私は疑問を持った。だから、こう書いた。
「働く、というのは、人間関係の基本。働いているときは、あまり実感がなかったけれど、年金生活になって痛切に感じる。働くということは、ことばを使うのと同じ。ことばなしに考えることはできない。働かなくというのは、ことばを失うということに等しい」
これ対するそのひとの反応は、
「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」
というものであった。そのひとの言う「人生を豊かにする行動」というのは、全体の文脈のなかでとらえると、「人間の感性を楽しむ」「人生の喜びを味わう」ということだろう。そして、その具体例として、
「道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる喜び」
と書いている。「人生の喜び=人生の豊かさ=感性を楽しむ」であり、その具体例として、たとえば「道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる」があげられているのだが、「人生の豊かさ」とは、はたして、そういうものだけだろうか。そのことについて、私は疑問に思っている。
たとえば。
佐多稲子「キャラメル工場から」の少女は、キャラメル工場で働く少女を描いているが、その少女がトイレで学校の先生からの手紙を読む。そのシーンで、思わず涙が込み上げてこないか。少女はとても「不幸」である。しかし、彼女が「不幸」であることを理解した上で、なおかつ、少女と教師とのあいだにかわされている「人間の交流」に触れ、こみあげてくるものがないか。こらえてもこらえても、涙が出てくる。
あるいは、その少女が初めて工場へ行くとき電車に乗る。そうすると、その電車の中に、乗り合わせたひとの「息の匂い」がする。味噌汁の匂い。それぞれのひとが食べてきた味噌汁の匂い。ひとりひとりが違う。そのひとりひとりがみんな働きに出ている。その背後にひとりひとりの家庭、事情がある。それを瞬間的に悟る。その描写に、胸を打たれないか。はっとする。その「はっ」は抑えることのできない驚きである。
あるいは歌舞伎(あるいは森鴎外の小説の)「じいさんばあさん」。ふとしたことから夫が知人を切ってしまう。そのためにふたりは四十年近く別れて暮らす。四十年後、やっと昔住んでいた家にもどり、再会する。苦しくて、つらい人生である。しかし、そのふたりが桜の花を身ながら過去を振り返ることばを聞くとき、胸にあふれてくる思いはないか。思わずすすり泣いてしまわないか。歌舞伎ならば、まわりにひと(観客)がいるだろう。そのひとたちにすすり泣いていることを知られても、それでも泣いてしまうだろう。こらえきれない。
こうした、こらえきれない感情。そこにあるのは感情の「豊かさ」である。感情が豊かでなければ、その感情は、肉体を突き破る嗚咽や涙にはならない。こらえてもこらえてもあふれてくるものが「豊かさ」というものなのだ。
野の花の美しさに感動したり、風のさわやかさを感じるだけが「感性の豊かさ」ではない。
そして、どんな「感性/感情」にしろ、それは「ひとり」で育てることができるものではない。ひととの触れないのなかで、教えられ、学ぶものである。ひとに接しない限り、自分がどういう人間であるか、人間は理解できない。本(ことば)を読まない限り、自画像をことばで描き出すことはできない。他人(生きていく過程で接したひと)や本(他人のことば)に触れない限り、ひとは自分を豊かにすることはできない。ひとに接するいちばんの方法は、働くことである。どんな仕事をするにしろ、そこには他人との接触がある。
冬の朝、仕事のために駆け込んだ電車のなかで、同じように電車に乗り込んでいるひとの息に気がついた体験、だれかから自分のことを気にかけている手紙を(ことばを)もらったことのない人間、それに通じることを体験したことのない人間には「キャラメル工場から」のことばの切実な美しさはわかりにくいだろう。想像しにくいだろう。そこに書かれていることばが、どんなに美しいか感じることはむずかしいだろう。
さらに、こう付け足すこともできる。
「キャラメル工場から」も「じいさんばあさん」も、どちらかというと「不幸なひと」の話である。働かずにすむひとの話ではない。恵まれた人生を歩いてきたひとの話ではない。しかし、多くのひとは、それを何度も読み返す。何度も同じ芝居を見る。もう知っている話なのに、どうしても読み返してしまう。見直してしまう。それは、「読み返したい」「見直したい」からである。それは「泣きたい」からである。「泣くこと」のなかにも「豊かさ」があるのだ。「共感」という「豊かさ」がある。「豊かさ」は「共感」をとおして、さらに大きくなっていくものなのである。
さらに言えば、この「共感」のためには、「他人」が必要である。知っているひとだけではなく、「知らない他人」ともつながっていく「共感」。その「知らない他人」とつながるためには、どうしても「働く」ということ、「仕事」をとおして「知らないひと」の存在を認識できる能力を身につける必要がある。
さらに書いておこう。
たとえば「ロミオとジュリエット」「曽根崎心中」でも何でもが、不幸な恋人の話、死んでしまう恋人の話。ひとは何度でも読み、見る。ストーリーもわかっているし、泣いてしまうこともわかっているのに、読んで、見て、泣く。そのとき、多くのひとは知るのだ。その「結末」は悲しい。それは、できれば否定したい結末である。しかし、その「結末」までに描かれている「ふたりの感情」は、とても充実している。愛に満ちている。ふたりの感情は「豊か」である。多くのひとは、その「豊かさ」にひたり(共感し)、自分の感性を「豊か」にする。
「豊か」は、いろいろな形をとるのである。その「いろいろな形の豊かさ」を実感するためには、いろいろ他人と出会わないといけない。「働く」というのは、その第一歩である。
Facebookのあるサイトで、AIの登場と、労働、社会的人間の関係が話題になった。そのとき、私は「働く、というのは、人間関係の基本。働いているときは、あまり実感がなかったけれど、年金生活になって痛切に感じる。働くということは、ことばを使うのと同じ。ことばなしに考えることはできない。働かなくというのは、ことばを失うということに等しい」というようなことを書いた。
私のコメントに、あるビジターが「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」とコメントを寄せてきた。私は、そのビジターの名前には見覚えがなかった。知り合いではない。接触したことはもちろんないし、知人をとおしてその人のことを聞いたこともない。私は、そのひとを知らない。だから、私は、そのひとは私のことを知らないだろうと考えた。何を根拠に、そのビジターは「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と言っているのか、わからなかった。もしそのビジターが私とは何の接触もないひとならば、なぜそんな批判をされなければならないのか、理由もわからなかった。(いまでも、わからない。)
たしかに私は貧乏な家で生まれ育ったが、それだからといって「豊かではない」と見知らぬひとに、インターネット上で言われる必然性もない。だから、どうしてそういう批判をするのか、私の人生に対してなぜそう判断するのかを問いながら、同時に、そのビジターが書いていることに対する疑問も書いた。
すると突然、「無断転載だ。著作権侵害だ。削除しろ」という要求をしてきた。
だれが何を言うか(書くか)は、表現の自由の問題。そのビジターは、「表現の自由」の権利を行使して、「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と批判している。このことに対して、私が質問すると(付随反論を含む)、私のコメントを引用するな。著作権侵害だ」と言う。
この論理は、おかしくないか。
そのビジターには「表現の自由」と「著作権保護」の権利がある。しかし、私には質問する、反論する「表現の自由」はない、ということにならないか。一方的に、自分の「表現の自由」を主張し、他人にその権利を認めないのは「独裁」というものではないのか。
もし気に食わない意見(批評)に対して、それを封じるために「著作権侵害」を主張するのだとすれば、それは「表現の自由」への圧力をかけるというものだろう。だから「独裁」と私は言うのである。
著作権についていえば、私は、他人の文章(ことば)を引用するときは、必ず「出典」を明記している。(今回の文章には、それを省略しているが、それはこの文章を読んでいるひとには自明のことであるからだ。何回か、書いてきた文章のつづきだからだ。)
著作権法にも、たしか「引用」にあたっては、それが引用であることがわかるようにすべきであるという規定があったと思う。それは逆に言えば、引用であることを明記していれば、著作権法には違反しないということである。もちろん、ただ引用するだけでは、盗作・剽窃になる。引用に対する意見が必要である。引用は従、私の主張が主になるように書いている。これも法に従っている。
著作権の問題に関しては、私は、かつて次のようなことを体験したことがある。
ある掲示板(「表現の自由」に関することがテーマだった)の、あるグループから崇拝されているひとの意見について批判した。すると、そのグループのメンバーが「筵に巻いて、玄界灘に投げ込んでやる」とメールに書いてきた。これは、脅迫である。それ以外にも、会社の人事部に電話をかけてきて、私が書いてもいないことを、「こんなことを書いている」と主張し、処分を訴えた。電話については、私は記録を持っていないが、メールは私宛に来たので、持っている。そこでそのメール「筵に巻いて、玄界灘に投げ込んでやる」を公開し、表現の自由を標榜するひとが、表現を殺人によって封じようとしている。脅迫ではないか、と書いた。
すると、なんと「メール(私信)を公開するのは著作権の侵害だ」と主張し始めた。
「脅迫状」を公開するのは、私の自由を守るため。私は「証拠」もなしに批判しているわけではないと主張しているわけではないことを明らかにするためだ。
私は、私の考えに対する批判は、どれもすべて受け止める。反論するときもあれば、しないときもある。求められても反論しないときもある。反論しない自由というものもある。すべてのひとと対話している時間がないからでもある。
私は、あらためて書いておきたい。
「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と書くとき、そのビジターは何を根拠に、そう批判しているのか。だいたい、だれかがだれかかの人生を「豊か」かどうか判断する権利を持っているか。「人生」が「豊か」かどうかを判断するのは、そのひとの権利である。その権利と自由を抜きにしては、「社会」は存在しない。それぞれが、それぞれの「豊かさ」を求めて生きる権利を持っている。
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(この文章に登場する「ビジター」から、「コメントの引用は著作権の侵害である。削除しろ。プロバイダーやページ運営会社にも削除要請をしている」旨の発言がありました。
しかし、「ビジター」のコメントに反論を含めた意見を書くためには、引用は不可欠なものです。正確に引用しなければ、「コメントを改変された」と抗議がくるでしょう。
いったんコメント欄で対話をしておきながら、「コメントを引用するな」というのは明らかな矛盾であり、言論の暴力です。
コメントへの反論を拒むなら、最初からコメントをしなければいいだけのことです。プロバイダー、サイトの運営会社がどういう措置をとるのか見守りたいと思います。
なお、この「ビジター」は、私に対して「気狂い」「精神年齢が小学生レベル」「頭のおかしい左翼カルト」などの暴言を書き続けています。そのことを、お知らせしておきます。)
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働く、ということ(1)で書いた「あるビジター」から、Facebookに反論が届いた(同じ文章をFacebookに書いているため)。そこに書かれている批判について、答えておきたい。前回は省略した部分があるが、今回は省略なしで書いておく。途中、行空きや*マークがあるが、これは読みやすくするためのものであって、本文には存在しない。また、だれのことばなのかわかりやすくするために、文章の冒頭に(あるビジター)(谷内)の表記を付け加えた。
(あるビジター)>「濡れ落ち葉」以降は、私への批判ではない。しかし、「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして>来なかったからですよ」は私への批判だと言っている
。(この部分は、谷内の文章の引用)
それはあなた自身が「働く、というのは、人間関係の基本ですね。働いているときは、あまり実感がなかったけれど、年金生活になって痛切に感じる」と書いてるからですよ。
これは「お金を受け取る仕事をやっている時は感じていた『人間関係の充実、生きがい』のようなものが、年金生活になってからは失われてしまった」…ということですよね?
そのことに対する僕の意見が「それはあなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」です。あなたが自分でそう言ったので、それに対してコメントしたのです。
(谷内)私は「お金を受け取る仕事をやっている時は」とは書いていない。単純に「働いているときは」と書いている。金は問題にしていない。金をもらう仕事なら、いまでも細々と仕事はしている。しかし、それは「働いている」という実感からは遠い。なぜかといえば、その仕事をとおして触れ合う人間が少ない。私の「仕事」が、その触れ合った人間をとおして、どこまで広がっていくものかわかりかねる。会社で働いていたときは、会社内でもひととの接触があったし、私が関係した「商品」がどういう形で社会のなかを動いていくか、その結果、何が起きるか(何が起きているか)は、かなりの強度で実感できた」という意味です。
あるビジターは意見として「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と書いているけれど、私が会社の仕事以外にどんな活動をしてきたか知っているようなので、もっと具体的に指摘してほしい。私は、少なくとも、会社の仕事以外でもいろいろなひとと接し、いろいろな活動をしています。私の活動の、どの部分が、「人生を豊かにする」ことに反しているのですか? 具体的に教えてください。
*
(あるビジター)すると今度は「金がある、ないか、という問題と、仕事をする、しないかは、別問題でしょう。金が少なくても有意義に生きることはできる…云々」と、前の発言とはほとんど逆のことを言い出した。なので「???」となってしまった。発言ごとにスタンスが全く変わっているのです。前の発言では「お金を受け取る仕事があってこそ、人間関係や生きがいの充実がある。年金生活になってそれが薄れた」と読めるスタンスだったのに、次の発言では「金を受け取るか、受け取らないかの問題ではない」と言ってる。
(谷内)あるビジターが私の書いていることがわからなくなったのは、あるビジターが、私が「働いているときは」と書いているのに、その文章を「お金を受け取る仕事をやっている時は」と読み替えたからでしょう。「年金生活になって」というのは、「収入が減って」という意味ではなく、「働く機会が減って」という意味です。私は定期的ではないけれど、少しは仕事をして、ひととの関係を保っています。社会とのつながりを持っています。年金生活になったからといって、まったく仕事をしていないわけではありません。
*
(あるビジター)なので、僕としては谷内さんが結局何をいいたいのかよくわからなくなった。なので「???」となり、「報酬があろうがなかろうが、自分のしたいことをすればなんでも仕事だ、というなら、僕の言ってることと谷内さんの言ってることに最初から違いはないですよ。AIに仕事を奪われることを恐れる必要もありません」と書きました。
(谷内)私は、「報酬があろうがなかろうが、自分のしたいことをすればなんでも仕事だ」とも言っていません。「仕事」というのは、報酬の有無の問題ではない。それを言い換えて、「働くということは、ことばを使うのと同じ。ことばなしに考えることはできない。働かなくというのは、ことばを失うということに等しい。どんな働きをするかで、人間の幅が決まる。それを乗り越える手段にことばがあるにしても、基本の労働がなければ、ことばの土台を失う」と書いています。働かないことには、社会と私の関係を具体的に考え続けるのがむずかしい。私は働くということをとおして人間関係を築いてきた。社会がどうなっているかを考えてきた。社会がどうなっているかを考えるとき、私は、自分のしている仕事をとおして考えてきた、という意味です。もちろん仕事をしなくても考えることはできる。しかし、それは「空論」になってしまう。具体的に考えるには、仕事をとおしてでないと、「空論」になるというのが私の基本的な考えです。
*
(あるビジター)その後の付け加えられているコメントを読むと、結局「金がある、ないか、という問題と、仕事をする、しないかは、別問題でしょう。金が少なくても有意義に生きることはできる」の方があなたの本音なんですね?
ならば繰返しになりますが、僕との意見の相違は最初からないですよ。僕が言っているのは「AIによって人間が奴隷労働から解放されることは歓迎すべきこと。人間は『働いてお金を稼ぐ』こと以外で生きがいを見出せばいい」ということです。だからAIが発達するのは基本的に理想社会に近づくことだ、と思います。
(谷内)私はあるビジターのようには考えません。「金が少なくても有意義に生きることはできる」は、金が少なくても、仕事をしていれば(働いていれば)有意義に生きることはできる」という意味です。そして、このときの「有意義」とは、「意味がある」、つまり「具体的に考えることができる」(具体的に社会を考えるきっかけ(問題点)を仕事をとおして(働くことをとおして)つかみ取ることができるという意味です。ことばが具体的なものを土台にして動くように、人間の考えは、仕事をとおして具体的に動きます。「働く」というのは「奴隷労働」とは違います。また、「奴隷」にしろ、彼らは「考える」ことをしているでしょう。そして、その「考え」のなかには、奴隷として働かされているからこそ到達する「考え」もあるでしょう。たとえば、「奴隷として働かされるのは不本意である。私を奴隷としてこきつかうひとを許すことができない」などは、そういうものでしょう。「奴隷制度反対」というひとつの考えでも、奴隷として働かされたひとの考えと、奴隷として働かされたことのない人では、「意味の大きさ」が違うでしょう。
「人間は『働いてお金を稼ぐ』こと以外で生きがいを見出せばいい」というあるビジターの意見のなかの「生きがい」とは何なのか。それが問題です。「道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる喜び」とあるビジターは書くけれど、それは働いていても感じることができます。私はそう信じています。私の両親は、貧しい農夫だった。「働いてお金を稼ぐ」ことは、ほとんどできないまま、病気になるまで田畑で働き続け、日雇い労働もしていた。私は高校進学も諦めようかと思うくらいに、私の家は貧しかった。私の兄、姉はみんな中学を卒業すると就職した。そういう貧しいくらいだった。けれど、私は、両親が毎日懸命に働いていたからこそ、「道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる喜び」を感じていたと信じている。山の畑で汗を拭きながら、「いい風だなあ」と言ったり、野良仕事の帰りに見かけた花を根っこから引き抜いて持ってきて軒下に植えたりした両親が「愛する人と生きる喜び」を知らなかったとは考えることができない。「いっしょに働いた。いっしょに休もう」と呼びかけるときの「喜び」を知らなかったと考えることはできない。一生懸命働いたから、疲れた、相手も疲れているに違いないと思い、声を掛け合うということを思いつかなかったとは、考えることはできない。
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(あるビジター)僕の「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」と書いたたった1行の文章を拡大解釈して「金子は金の亡者」と言わんばかりの批判を展開されているが、全く的外れです。「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」と書いたのは、Hayaseさんやあなたがそういう趣旨の発言をしていた(AIによって仕事が奪われるのは脅威…云々)ので、それに合わせたまで。そうしたら今度は真逆の「金を受け取る、受け取らないの問題じゃない」といい出したのでわけがわからなくなった。
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(この文章に登場する「ビジター」から、「コメントの引用は著作権の侵害である。削除しろ。プロバイダーやページ運営会社にも削除要請をしている」旨の発言がありました。
しかし、「ビジター」のコメントに反論を含めた意見を書くためには、引用は不可欠なものです。正確に引用しなければ、「コメントを改変された」と抗議がくるでしょう。
いったんコメント欄で対話をしておきながら、「コメントを引用するな」というのは明らかな言論の暴力です。
コメントへの反論を拒むなら、最初からコメントをしなければいいだけのことです。
プロバイダー、サイトの運営会社がどういう措置をとるのか見守りたいと思います。
なお、この「ビジター」は、私に対して「気狂い」「精神年齢が小学生レベル」「頭のおかしい左翼カルト」などの暴言を書き続けています。そのことを、お知らせしておきます。)
(谷内)「AIによって仕事が奪われるのは脅威」というのは、金を稼ぐ機会を奪われる脅威という意味ではないでしょう。仕事を奪われるというのは、働くこと(労働すること)をとおして、社会とのつながり、ひととのつながりをもつ機会を奪われる、仕事をとおして考える機会を奪われるということです。そのことに対して私は脅威を感じているし、HAYASEさんも、そう書いていると私は読みました。
また私はあるビジターのことを「金の亡者」とは書いてません。
私が疑問に思うのは、あるビジターの仕事とボランティアの定義「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」は、はたしてボランティア活動をしているひとの考えと同じでしょうか。ボランティア活動をしているひとも「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」と考えているでしょうか。私には、とてもそんなふうには考えられない。彼らは、「この仕事は私にしかできない」という考えでボランティア活動をしているのではないでしょうか。自分で「仕事」をつくりだして、その「仕事」をとおして社会と、ひととつながりをつくっているのではないでしょうか。そうすることが「ひとになる」ことだと考えて行動しているのではないでしょうか。
自分で「仕事」をつくりだし、それをとおして社会とつながりをつくっていけるひとを私は尊敬しています。
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(あるビジター)お分かりいただけましたか?反論する前に、相手の言ってることをちゃんと理解しましょう。
(谷内)わかったのは、金子さんが私の文章を読むとき、あるいはHAYASEさんの文章を読んだとき、そこに「書かれていないことば」を金子さんが補って読んでいるということだけです。
AIが人間にかわって労働するとき、どんな影響が出るか。「働く」ということの問題には、どうしても個人的体験、個人的環境が影響してくるから、見落としてしまうことも多い。
きのう書いた文章について知人と話していたとき、いま低賃金で働いている障害者らへの影響はどうなるか、ということが話題になった。私が働いていた職場、いまときどき働いている職場では障害者の同僚と接する機会がなかったので気づかなかったが、知人が指摘したように、AIロボットの進出によって真っ先に影響を受けるのは、彼らだろう。
たとえばホテルのベッドメーキング、トイレの掃除、あるいはレストランなどでの給仕。(給仕のことは、すでにきのうファミリーレストランについて書いたときに触れた。)恵まれているとは言えない賃金で働いている人たちこそ、真っ先に「労働」を奪われるだろう。(ベッドメーキングやトイレ掃除のAIロボットは、いまの技術からすればすぐにでもつくることができるだろう。)そしてそれは、単に「賃金」を受け取ることができない(金を稼げない)ということを超える問題を含んでいる。
障害者がさまざまな場所で働いているのは、金を稼ぐということだけではなく、「社会参加」という意味を持っている。働くことをとおして社会とつながる。そして、そういうひとたちの社会参加を促すためにもバリアフリーが推進されてきたはずだ。社会には、いろいろなひとがいる。様々なひとと共存できる社会が理想の社会であるはずだ。その「共存社会」の広がりを拒むもの、後退させるものとしてAIロボットは動き始めるかもしれない。
いまでも政治家の一部には「生産性優先」と考えるひとがいる。AI導入も「生産性優先」(合理化優先)の一環かもしれない。それを推進するものかもしれない。労働(特に単純な肉体労働)からの解放は、一見、人間に自由な時間を与えるように見える。しかし、それは社会に参加し、ともに生きる機会を奪うことになるかもしれない。
自分が生きているだけではなく、いっしょにいろいろなひとと生きているという感覚(意識)を奪うことになるかもしれない。そして、ここから「新しい差別」がはじまるかもしれない。「生産性向上」に関与できない人間は必要がない(邪魔だ)という意見が出てくるかもしれない。実際、いまでも何人かの政治家は、そういう発言をしている。それに拍車がかかるだろう。
影響は、外国人にも及ぶだろう。いま多くのコンビニエンスストアでは外国人が働いている。レジが無人化すれば、彼らは仕事を失う。懸命に学んだ日本語を活用し、日本の社会で生きている彼らは、しだいしだいに日本の社会から締め出されていく。低賃金で雇い、AIの導入(AIとまでいかずとも、ネットワーク網の構築)で、そういうひとたちを解雇する。より「合理化」(生産性の向上)のための、「使い捨て」である。
企業が(資本家が)、そうした「使い捨て」を押し進めるとき、その感覚は市民のあいだにも広がっていくだろう。
一方で、多様な文化の共存といいながら、他方で多様性を切り捨てるような動きを推進する。それはAIロボットによってさらに推進されるだろう。
何のために働くのか。もちろん金を稼ぎ、その金をもとに生活するためである。金がなければ何もできないのが現実である。しかし、それ以外に、働くことをとおして社会の仕組みを知る。いろいろなひとと出合い、いっしょに生きるためにはどうすべきかを考える。その視点が欠落しては、働いたことにならないのではないか。
「働く」という行動を、「社会参加」という視点からとらえ直し続けることが大事だと思う。「社会参加」の可能性を、どうやって広げていくか。この視点を踏み外すと、とても生きにくい世界になると思う。
(この文章に登場する「ビジター」から、「コメントの引用は著作権の侵害である。削除しろ。プロバイダーやページ運営会社にも削除要請をしている」旨の発言がありました。
しかし、「ビジター」のコメントに反論を含めた意見を書くためには、引用は不可欠なものです。正確に引用しなければ、「コメントを改変された」と抗議がくるでしょう。
いったんコメント欄で対話をしておきながら、「コメントを引用するな」というのは明らかな矛盾であり、言論の暴力です。
コメントへの反論を拒むなら、最初からコメントをしなければいいだけのことです。プロバイダー、サイトの運営会社がどういう措置をとるのか見守りたいと思います。
なお、この「ビジター」は、私に対して「気狂い」「精神年齢が小学生レベル」「頭のおかしい左翼カルト」などの暴言を書き続けています。そのことを、お知らせしておきます。)
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Face bookの知人、Hayaseさん(https://www.facebook.com/akira.hayase.9)が、こんなことを書いていた。
AIが人間の頭脳を上回り、AIロボットが人間の身体を上回り、人間の働く場所が失われた時に、果たして労働以外に人間の社会的存在理由を見出し得るのであろうか。
これは重大な問題提起だと思う。ビジターとの対話のなかで、
人間の社会性を根拠づけ得るものが、労働以外にあり得るのでしょうか。それが問題。
とも補足していた。私は、Hayaseさんの考え方に賛成である。人間を根拠づけるものに、労働(働くこと)はとても重要である。
これに対し、「あるビジター」が、こう反論していた。
労働以外でも人生は喜びに溢れています。道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる喜び…まさに「生きてるだけで丸儲け」って感じですw なんでそんなに起こってもいないことを想像して、悪い方に悪い方に考えるのか、僕には理解できませんが、「考えるな、感じろ!」と言いたいですね。
私は、彼の考え方には同意できず、こう書いた。
働く、というのは、人間関係の基本ですね。働いているときは、あまり実感がなかったけれど、年金生活になって痛切に感じる。働くということは、ことばを使うのと同じ。ことばなしに考えることはできない。働かなくというのは、ことばを失うということに等しい。どんな働きをするかで、人間の幅が決まる。それを乗り越える手段にことばがあるにしても、基本の労働がなければ、ことばの土台を失う。
以後、こういうやりとりがつづいた。(改行は省略)
あるビジター「それはあなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ。仕事中毒で、それ以外が空っぽ。よく「濡れ落ち葉」などと揶揄されたりしますが、仕事を引退したら妻の後をついて回るか、テレビを見るぐらいしかすることがない。確かにそうなったらあわれかもしれません。その点は一般に女性の方が逞しいですね。そういう個人の体験を「誰もがそうであるはずだ」と一般化するのは、あまりにも視野が狭すぎるのではありませんか?」
谷内「そうですか? 私のことをよくご存知なんですね。私は妻のあとをついて回ってもいませんし、テレビも見ません。「濡れ落ち葉」と言われたこともありません。いろいろなことをしていますが、仕事をしていたときとは印象が違います。出会う人との、接触の形が違います。」
あるビジター「ああ、失礼。前の文章は「仕事中毒で…」以降は谷内さんのことを言ってるんじゃなくて、一般論です。「このようなパターンに陥ってる人を『濡れ落ち葉』などといいますよね」と言うことで、あなたがそうだと言ってるんじゃありません。あなたのことを言ってるのは「それはあなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」までです。だいたい、あなたに会った事もないのにそんなことまでわかるはずもないですよね(^^;; ですが誤解されても仕方のない書き方だったと思います。その点は失礼しました。「お金のやり取りがある仕事じゃなくても、人生を豊かにする方法なんていくらでもある」と言う僕の基本的な意見は変わりません。この世界からお金というものが消滅したらどんなにいいだろう、とすら思いますよ。
参考:https://www.youtube.com/watch?v=yq4_FgHbu4U」
谷内「金がある、ないか、という問題と、仕事をする、しないかは、別問題でしょう。
金が少なくても有意義に生きることはできると思いますが、仕事をしない(仕事がない、働かない)で有意義に生きることができるかどうか、私は疑問に思っています。」
あるビジター「???一般に「働いてお金をもらうのが仕事」ですよね?「お金を受け取らずに働く」のは仕事ではなく奉仕活動、ボランティア、または趣味ですよね?もしかして「ボランティア、趣味の活動」も含めて「仕事」と言ってます?「仕事」の定義が違うんじゃ、話が噛みあうわけないよw 僕は「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」という定義で話をしています。そうでなく「報酬があろうがなかろうが、自分のしたいことをすればなんでも仕事」だというなら、僕の言ってることと谷内さんの言ってることに最初から違いはないですよ。僕が言ったことに対して「疑問に思う」必要もないでしょう? また「AIに仕事を奪われる」ことを恐れる必要もありません。報酬がなくてもいいなら、たとえ効率が悪くても、AIがやったほうが出来が良くても、自分がやりたいことをなんでも勝手にやれば、それが生きがいになる。何か問題がありますか? 考えれば考えるほど、「AIが普及すればするほど理想社会に近づく」としか思えませんが。「誰もやりたがらないけど、誰かがやらなければならない仕事」はAIやロボットに任せればいいですし。嘆く必要などどこにもないでしょう?」
「濡れ落ち葉」以降は、私への批判ではない。しかし、「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」は私への批判だと言っている。何を知っていて、私が仕事以外のことをしてこなかったと言っているのか、私はやはり知ることはできないが。こういう批判的発言を根拠も示さず言ってしまうのは、人間観の違いといえば違いですむのだけれど……。
私への批判は別にして(特に反論したいとも思わないけれど)、私は、あるビジターの発言、ボランティアについてふれた部分は、活動をしている人に対してたいへん失礼だと思う。ボランティア活動をするということと、そのひとが日常どういう仕事をしているか、どんなふうにして仕事をとおして「ひと」をつくっているかということに対して、具体的に何も触れずに書いているのは、とても失礼だと思う。そういうことについて書いておきたい。
最初に書いたように、あるビジターは「『お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない』という定義で話をしています」とことわっているが、Hayaseさんはそうした考え方で問題を提起したのではない。だから、かみ合うはずがないのだけれど、「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではな」という言い方に、私は、人間として許せないものを感じる。金を得る「仕事」であろうが、無給の「ボラティア」であろうが、それは「ひと」の「働き」である。「ひと」は「肉体」と「時間」をつかっている。どうつかっているか、それに目を向けないといけない。
ひとは働く(労働する)。その対価として金を手に入れるかどうか(その額の大小)よりも考えなければならないことがある。働くとき、それがどんな仕事であれ、ひとは「もの」に向き合う。あるいは「ひと」に向き合う。そして、その「向き方」をととのえる。自分の「生き方」をととのえる、ということである。自分の生き方をととのえることを、簡単に私は「思想をととのえる」(思想をつくる/人間をつくる)と言いなおしている。
ボランティア活動をしているひとは、「人間をつくる」ことを実践してきたひとであり、活動をとうしてさらにその「人間を成長させている」ひとである。もちろんボランティア活動をしているひとは、「私は私を成長させるために活動している」とは言わない。それは、すでに「ひと」ができている(完成している)からである。ひとは、だれでも困っているひとに出会ったら(その存在を知ったら)、そのひとのために自分のできることをするというのが、私には、当たり前のことであってほしいと思っている。その当たり前のことを、当たり前のこととも言わずに実践しているひとに対し、私は感謝する以外に何もできない。
私は、たとえば、水害にあったひとたちのためにどんな活動ができるか。何も知らない。私の肉体の動かし方を知らない。それは、私が、これまで仕事をとおして学んできたものと、災害復旧のために何をすべきかということを結びつけることができないということである。何もできない、だから寄り添って被害者の声に耳を傾け、「私はあなたのそばにいます」ということさえ、実は、私にはできるかどうかわからない。私は、そんなふうに見知らぬひとに「寄り添う」ということを仕事で身につけてこなかった。仕事以外でも、そういうことのために時間を割いてこなかった。簡単に言えば、私はボランティア活動をしているひとのように、「ひと」にはなっていないのである。私は、自然に、そういう振る舞いができる人間ではない。ボランティア活動をしているひとより、はるかに劣った人間である。
「ひと」になるための方法はひとつではない。そして「ひと」の形もいろいろあるだろう。それは「金を稼ぐ」こととは、基本的に別問題である。
東日本大震災のとき、たとえば山本リンダが、慰問に行った。彼女は歌を歌う。「狙い撃ち」のリクエストが来た。「えっ、ここでこんな歌を歌っていいのか」。彼女は悩んだ。けれどみんなに求められて歌った。それがひとを元気づけた。そこには、山本リンダの「ひと」が実践されている。歌う仕事、歌をとおしてひとと触れ合う。長い間つちかった「ひととの向き合い方」。学んできたもの(彼女の肉体になっている思想)を、そのまま実践し、ほんとうに「ひと」になっている。仕事とは、そんなふうにして、「ひと」をつくるのである。それぞれの人間が「ひと」になり、そうして「ひと」に出合う。そのとき、「ひと」と「ひと」のあいだには、「もの(山本リンダの場合歌)」があり、その「もの」だけではなく「ひと」との接触の仕方がある。
ボランティアとは外れるが、山本リンダには、もうひとつ忘れられないことがある。「どうにも止まらない」がヒットしたとき、NHKはへそだしルックでは出演させなかった。しかし、生放送の紅白歌合戦のとき、彼女はへそだしルックで出場し歌った。生放送だから禁止している暇がない。それを承知で、彼女は、彼女のへそだしルックと歌を応援してくれたファンに応えた。このNHKへの反逆には、彼女の「思想」が実践されている。彼女を支えてくれたのはNHKではなくファンだという思いがある。「仕事」を「思想」を鍛えるのである。
これは、どんな「仕事」にもある。そして、その「仕事」が様々であればあるほど、「社会(ひととのつながり)」はしなやかで、生きやすいものになるだろう。複数の「思想」が共存する土台は、複数の仕事にこそある。
AIの「仕事」への進出。私は、具体的にいろいろ知っているわけではないが、たとえばファミリーレストランへ行くと、ロボットが注文した料理を運んでくる。いや、店に入ったときから、番号(席)を指定され、料理を注文し、支払うときも、かつてのように「生きている人間」に出合うことはほとんどない。私は、そのとき、ああ、こんなふうにして私は誰かと接することを忘れていくのか、忘れさせられるのかと感じる。「ありがとう」というとき、あるいは「お願いします」というとき、相手の目を見る。そういう肉体の動かし方を忘れさせられるのかと思う。それは、それまでウェイターとして、あるいはレジの担当者として働いていたひとも同じだろう。仕事をとおして身につけた何か、仕事をとおして何かを身につけるということができなくなる。そんなことを知らなくても「ひと」としての「感性」の鍛え方はあるから、人生の楽しみ方もあるというかもしれないが、私はそういうことは信じられない。自分の肉体をとおして身につけた何かをとおしてしか、「ひと」に接することはできない。
自然を見ても、ひとがつくった芸術を見ても、そのときの「見方」には、ひとが経験してきたことが含まれる。自分が経験しなくても、他人が経験してきた「仕事」の向き合い方も、そこに反映される。
谷川俊太郎が出演する映画「谷川さん、詩をひはつ作ってください」のなかに、親子で野菜を作っているひとが登場する。息子は「父は仕事が早いが雑だ、私は遅いがていねいだ。それでしょっちゅうけんかをする」ということばがある。同じ野菜をつくるにしても、肉体の動かし方が違う。野菜への向き合い方が違う。そうした違いが、明確に意識できないけれど、野菜ひとつ買うときの私の「態度」にも反映される。こっちの方が形がいい。これは形が不格好だが、色が充実している。どちらを選ぶにしても、そこには、それをつくったひとがいて、私は野菜を選ぶだけではなく、その「見えないひと(会ったことのないひと)」を選び、そういうひとがもっと増える社会を無意識に望んでいる。どんな「感性」も「仕事」をとおしてつくられる。
もちろん、それは「金の儲け方(どれだけ儲けるか)」にも反映されるかもしれない。しかしAIの問題は、「金の儲け方」ではなく「ひとの働き方」と、労働の変化によって、ひとのつくられ方(ひとの作り方)の違いでもある。
こういう問題を語るときに、「お金をもらう活動だけが仕事、ボランティアや趣味の活動は仕事ではない」という「基準」を持ち出すのは、持ち出されたボランティアに対して、たいへん非礼なことをしていると私は感じる。「お金」以外の基準で、ボランティア活動をするひとたちは働いている。「金を稼ぐ労働」ではなく「ひととしての仕事(はたらき)」をしている。いったい「お金をもらう仕事」というとき、あるビジターは、どんな「仕事」を想定し、その「仕事」の意味を何を基準にして区別しているのだろうか。
そのことが、あるビジターのことばの背後に隠れていると思う。
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(この文章に登場する「ビジター」から、「コメントの引用は著作権の侵害である。削除しろ。プロバイダーやページ運営会社にも削除要請をしている」旨の発言がありました。
しかし、「ビジター」のコメントに反論を含めた意見を書くためには、引用は不可欠なものです。正確に引用しなければ、「コメントを改変された」と抗議がくるでしょう。
いったんコメント欄で対話をしておきながら、「コメントを引用するな」というのは明らかな言論の暴力です。
コメントへの反論を拒むなら、最初からコメントをしなければいいだけのことです。
プロバイダー、サイトの運営会社がどういう措置をとるのか見守りたいと思います。
なお、この「ビジター」は、私に対して「気狂い」「精神年齢が小学生レベル」「頭のおかしい左翼カルト」などの暴言を書き続けています。そのことを、お知らせしておきます。)
谷川俊太郎が出演する映画「谷川さん、詩をひとつ作ってください。」という映画が完成したとき、そのパンフレットにおさめる「紹介文(コメント)」の依頼が来た。映画そのものを見ているひとも少ないだろうし、私のコメントを読んでいるひともほとんどいないだろうから、全文を引用しておく。
相馬の高校生が津波被害にあった自分の家を訪ねる。「最初は風呂があったんだけれど、今はもうなくなった。残っているのはこれだけ」と家の土台を示す。また「こっち側が畑、こっちは家」とか「ここに小さいときの机があって、大きくなったらこっち」と、空き地で間取りを説明する。その瞬間、私は「今、詩が生まれている」と感じた。彼女が体で覚えていることが、ことばになって彼女のなかから出てきている。そこにないものに向かって、ことばが生まれている。
あ、こんなことばを聞いたあと、詩を作るのは大変だなあ、と私は谷川俊太郎に同情してしまった。谷川がどんな詩を書いたとしても、私は谷川のことばよりも聞いたばかりの少女の声に感動してしまう。
有機野菜をつくっている農家の男性が野菜を引き抜きながら「親父の仕事は早いが雑なところがある。私の仕事は遅いが丁寧だ。だからけんかする」と笑う。男の人が言いたかったというより、ことばがことばになりたくて彼を突き破って出てくる感じ。諫早湾の漁師が、不漁に苦しむにもかかわらず「季節によって取れる魚が違うから漁はおもしろい」というのも同じだ。ほんとうのことばが男性の肉体のなかから飛び出してくる。
こういうことばに、詩は勝てない。詩はどうしたって嘘だから。嘘だから、感じていることを格好よくみせるためにととのえなおしたことばだから。どんな形になっているか気にしないで、あふれてしまう日常のことばには負ける。
うーん、谷川さんは、そういうことを承知でこの映画にでているんだな。詩はいつでも実際の暮らしに「負ける」ために存在する。暮らしのことばは、詩や文学から、ことばを奪い取って、独自の力で暮らしをととのえる。そのとき暮らしのなかでどこかで読んだ詩がふと鳴り響く。そういう交流を谷川は夢みてこの仕事をしたのか。最後の詩に谷川の祈りが聞こえる。
一か所、「谷川」と呼び捨てではなく、「谷川さん」になっている。ふいに、谷川に面と向かって話している気持ちになったのかもしれない。
ということは別にして。
いまでも、私は谷川は、他人に「負ける」ために詩を書いているように思える。書いていたように思える。「負ける」ことによって、だれかを支える。「ほんとうのことば」を話したひとを支える。そういう仕事を谷川はしてきたのである。こういう仕事をしてきたひとがほかにいるかどうかは知らないが、谷川は「負ける」ことで相手を応援する。
それは、詩についても言える。
詩の戦いといえば、詩のボクシングがある。谷川は、ねじめ正一と対戦したことがある。私はテレビを見ないのだが、偶然、その放送を見た。全部見たわけではないから、私の書いていることは間違っているかもしれないが、私がテレビを見るまでは、谷川は負けていた。最後のラウンドは「即興詩」で、ねじめが引いたカードには「テレビ」というタイトルが、谷川のカードには「ラジオ」というタイトルが書かれていた。ねじめは「テレビ」を詩にすることができない。マットにのたうち回って、「テレちゃん、ビーちゃん」というようなことばを口走っただけである。谷川は「ラジオ」が声(音)だけを伝達するという性質に目を向け「音は聞いた先から消えてしまう。存在しなくなる。でも、それは記憶に残る。この記憶を持って、聴衆のみなさんは家に帰ってください」というような詩を朗読した。それまでのラウンドがどちらが優勢だったか知らないが、最終ラウンドで谷川はねじめをノックアウトした形だ。谷川は勝った。
しかし、私には、そういう「印象」は残らなかった。谷川の「勝った」は形式的なもの。あるいは、そのときボクシングを見ていた観客の判断。私から見ると谷川は完全に「負けている」。谷川のことばは、詩を「意味」にしてしまった。そして、ことばの自在さ(新しい可能性)ではなく、「意味」が聴衆に受け入れられたということに過ぎない。それでいいのか。「詩は意味ではない」ということをアピールするために「詩のボクシング」が行われていたと思う。谷川は、それを裏切って、「意味」を語ることで聴衆を引きつけてしまった。
そういうことを含めて、私は、一度だけ会う機会があったねじめに、そのことを話した。同じことを谷川にも話した。「あの勝ち方は、ずるい。意味で観客を誘導しただけだ」。あのボクシングでは、谷川は「負けた」のである。そして谷川が負けたからこそ、あのボクシングは語り種になっているのだと思う。「負ける」ことで、詩を残したのだ。詩の可能性を、詩のこれからをねじめに託したのである。あれが本当に谷川の「勝ち」だったとしたら、「意味」の勝ちだったとしたら、現代詩は、あの瞬間に終わっている。こんなふうに意味で詩を終わらせてはいけないという意識がだれかによって声高に主張されたわけではないが、そいういう意識が多くの詩人のなかに生き始めたと思う。(詩人ではない、テレビの視聴者のことは、私はここでは問題にしない。)
谷川は「負ける」ことで、自分のことばではなく、他人のことばを支える。応援する。そういうことができるひとだった。だからこそ、詩人のなかにも谷川のファンが多いのだと思う。
「負ける」ことで他人のことばを支えるという、ほかの例では現代詩文庫の解説がある。本棚の奥に隠れていて探し出せないのだが、たしか佐野洋子が谷川の日常を書いている。ぐずぐずしている佐野洋子に耐えながら、朝御飯をつくってベッドまで運んでいる。そういう谷川を、佐野は、叱りつけている。叱られっぱなしの私生活が、谷川の日常に見えてくる。ジョン・レノンとヨーコ・オノの「ベッド・イン」があったが、あれの「現代詩版」という感じか。なんというか、おもしろいが、おもしろいを通り越して「覗き見」している感じにもなる。多くの詩人なら、こういう「解説文」を書かれたらいやだろうなあ。そのまま掲載するのに抵抗があるかもしれないなあ。しかし、谷川はそのまま受け入れている。これが、すごいと思う。この「覗き見好奇心」を上回る作品が、あの現代詩文庫におさめられているとは思えない。どの作品がその文庫におさめられていたかを忘れても、佐野の解説文を忘れるひとはいないだろう。いや、客観的に見れば、谷川の作品は詩であり、佐野の解説は詩ではないし、「文学」ではないかもしれないが、そういうものに詩は「負ける」のである。そして、「負ける」ことを通して、同時に「勝つ」とも言える。なぜといって、もし谷川の作品がなかったら、佐野の文章をおもしろいと思って読むひとはいない。有名な詩人が女にやっつけられている。谷川をやっつけることばが、佐野のの口からどんどん飛び出していて、それがおもしろいのは谷川が詩人だからである。
こういうことが谷川にはできるのである。
そしてまた、こうも思うのである。私は、谷川は「負ける」ことで生きている詩人であると言いたいのだが、そういうことができるのは、谷川のことば(詩)が、私のつかっていることば、あるいは他のひとが書いている詩(ことば)とは、まったく次元が違うものだからかもしれない。「勝つ/負ける」という基準ではとらえれらない何か別のものがあるのだと思う。その「別のもの」をあらわすことばを持っていないから、私は、とりあえず、谷川を「負ける」ことを承知で世界と向き合い、「負ける」ことを通してだれも手に入れることのできない「勝ち」を手に入れることができる詩人だといいたい。
これは、きっと「死ぬことによって、より長く生きる詩人」ということにつながっていくのだと思う。
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