詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

イタリアの青年と「論語」を読みながら

2024-04-04 21:24:51 | 考える日記

 いま、イタリアの青年といっしょに「論語」を読んでいる。中国語ではなく、日本語で。テキストは岩波文庫(金谷治訳注、和辻哲郎が「孔子」を書くときにつかったテキスト)。私は中国の歴史をまったく知らないので彼からいろいろ教えてもらうことが多い。日本語は私の方が彼よりも詳しいので、日本語教師としていっしょに読んでいるのだが、きょう、とてもおもしろいことを体験した。
 イタリアの青年は「論語」を読むくらいなのだから、ふつうの日本語はほとんど問題がない。会話は、博多弁(福岡弁)が得意で、私よりも上手だ。その彼が、つぎの文章でつまずいた。

子曰く、已んぬるかな。吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり。
先生がいわれた、「おしまいだなあ。わたしは美人を好むように徳を好む人を見たことがないよ。」

 イタリアの青年は「現代語訳」の「わたし」は孔子ですね、と念を押す。正しい。しかし、つづきを、「わたし(孔子)は色を好む」と読み、変だなあ、と混乱したのである。「論語」を読み進んで、孔子が好色ではないことを知っている。もう一度「わたしは孔子だよね」と問い返してくる。この「わたし(孔子)」は「わたしは/見たことがない」とつづくのだが、この主語と動詞の距離の遠さが誤読の原因だった。
 多くの外国語の場合、「わたしは見たことがない、美人を好むように徳を好む人を」というような「構文」になる。主語と動詞が密接である。
 外国語文体のような倒置法(の文体)を避けるときに、「美人を好むように徳を好む人を、わたしは見たことがないよ」と現代語訳すれば、誤解はされなくなる。しかし、直前に「おしまいだなあ(已んぬるかな)」という心情の吐露があるので、日本人の感覚では、直後に「わたしは」と言いたくなる。「おしまいだなあ」という気持ちが強いから、「わたしは」とつづいてしまう。これが、日本語の特徴なので、「おしまいだなあ。美人を好むように徳を好む人を、わたしは見たことがないよ。」にすると、なんというか「理屈っぽい」感じになる。「うるさいなあ」という感じになる。(このニュアンスは、なかなか説明しにくい)。「おしまいだなあ。わたしは、美人を好むように徳を好む人を見たことがないよ。」と主語の後に読点「、」を挿入する方法もあるが、これもちょっと「うるさい」。ことばのスピード感がなくなる。
 金谷は「日本語教材(テキスト)」を書いているわけではなく、日本人向けに書いているから、どうしてもこうなるのだが、この「日本語の問題点」を理解できるようになれば、私は彼に何も教えることがなくなるなあ、と後から思った。
 と、書いて、少し脱線するのだが。
 このことを書く気になったのは、実は、ほかに事情がある。私は、私が通っているスペイン語教室の先生だった人の短編を翻訳を試みているのだが、その過程で、これに類似したことにぶつかったのである。
  「わたしは見たことがない、美人を好むように徳を好む人を」のような文体に出会って、はた、と悩んだのである。英語で言えば「that」以下の文が長い。そして、長くなるに連れて、その長い部分が「装飾的」に感じられて、「美人を好むように徳を好む人を、わたしは見たことがないよ」とはしにくいのである。するならば「わたしは美人を好むように徳を好む人を見たことがないよ」にするしかないのだが、今度は、それがまたややこしい。このまま日本語で例を書けば、「その美人というのはクレオパトラか小野小町のような古典的な顔だちなのである」というような具合に長いのである。つまり、あえて書けば、「私は見たことがないよ、クレオパトラか小野小町のような古典的な顔だちの美人を好むように徳を好む人を」が原文のスタイルである。これを「私は、クレオパトラか小野小町のような古典的な顔だちの美人を好むように徳を好む人を、見たことがないよ」にすると、うーん、昔の大江健三郎みたいな入り組んだ文体になってしまう。そういう文体だと思って、なれてしまえば理解できるが、なれるまでに気が滅入るかもしれない。
 で。
 「おしまいだなあ(已んぬるかな)」と書いたら(言ったら)、どうしてもその直後に「わたしは」とつづけたくなるというような「文体論(感情論?)」は、日本語検定試験なんかでは問題になることもないし、文学や哲学の奥深くにまではいりこまないかぎり、まあ、どうでもいいことじゃないかと処理されてしまう問題なのだが、こういう問題があるから、実は文学、哲学はおもしろい。
 ちなみに。原文では、問題の部分は、「已矣乎、吾未見好徳如好色者也」。「やんぬるかな、わたしは見たことがないよ、徳を好む人を、まるで(徳を)美人を好むように(好む人を)」になる。主語(わたし)と動詞(見る/見たことがない)が直接結びつき、それから「徳を好む」という大事なことが語られ、追加して「美人を好むように」がつづく。エッセンスは「私は、見たことがないよ、徳を好む人を」であり、「美人を好むように」は「補足」である。これが「日本語」になると、順序がまるで逆だから、それはやっぱり日本語学習者には、たいへんな「つまずき」の原因になる。

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江戸時代は、いつまでか

2024-02-19 23:16:42 | 考える日記

 私は他人の「評判」を気にしないのだが、知人にすすめられて、ちらりと聞いたユーチューブでの「世界のおきく」の「評判」が、とんでもないものだった。
 何がひどいといって、発言者のだれもが「田舎の生活(昔の生活)」を知らない。
 この映画について、私はすでに「さぼる」ということばは江戸時代にない、と批判した。それに類似したことを批判しているのだが。
 たとえば、(1)あの時代、おきくが食べているご飯があんなに白いはずがない(2)糞尿をつめた樽(桶)を手に持って、糞尿をばらまくというのは変だ。せめて足で蹴るくらいだろう、というものがあった。
 (1)について言えば、モノクロ映画なので、ご飯がどれくらい白いかはわからない。他のものとの対比で白を強調して撮影したかもしれない。それに、彼らは江戸時代の白米を実際に見たことがあるのか。「あんなに白いはずがない」は想像でしかない。
 (2)は、糞尿のつまった樽(桶)に実際に接したことがない人のことばである。それはたしかに汚い。しかし、農民にとって、樽(桶)はとても貴重。足で蹴って、その弾みで樽(桶)が壊れたらどうなるのか。いまの暮らしから見て、どんなに汚い(不衛生)に見えたとしても、それだけで農民が糞尿の樽(桶)を手で触るはずがないと判断してはいけない。貴重な道具を、農民が足で蹴ったりするはずがない。けんかをするときでも、道具は大切にする。

 こんなことを書いてもだれも信じないかもしれないが。
 私の子供時代は、糞尿のつまった樽や桶を担いで、山の畑、山の田んぼまで運ぶというのは、子供もする仕事だった。服が汚れたり、体が汚れたりするが、それは洗えばきれいになる。服にしみついたものは、なかなかとれないが、だからこそ、そういうときは汚れてもいい服で仕事をする。だれもが、それくらいの「工夫」をする。
 糞尿で汚れるのも、泥で汚れるのも、同じ汚れである。友達が肥え壺に落ちたりしたら、みんな笑ってからかったりするが、仕事で汚れているときはからかったりはしない。両親や兄弟、あるいは子供たちがが汚れた体で野良仕事から帰って来たと、彼らに対して、家族の誰が「汚い」と言うだろうか。糞尿は汚いかもしれないが、仕事で、それにまみれるとき、それは汚くはない。生きるために、必要なことなのだ。
 そういうことは、「江戸時代」でおわりではなく、昭和、しかも戦後もそうだったのである。

 「世界のおきく」から離れてしまうが。
 私の生まれ故郷の集落は、みんな貧しかった。いまでこそ、どの家でも畳を敷いているが、私の子供時代は畳を敷くのは、葬式だとか結婚式だとか、特別なときだけであり、ふつうは「板の間」だった。畳が傷まないように、畳を積み上げておく台のようなものも、どの家にもあった。雪国なので、冬はさすがに板の間は寒い。どうするか。筵を敷くのである。その筵は、どうやってつくるか。機織り機のようなものがあって、それでつくる。これも、たいていは子供の仕事である。私もしたことがある。ついでいいえば、縄をなうのも、もちろん大人もするが、たいていは子供に割り振られる。みんなが手を動かして仕事をしていた。それは東京オリンピックのころまでは、どこでも当たり前だった。
 さらに。
 ドン・キホーテに、旅籠屋では、藁の上に毛布をかけてベッドを急ごしらえする描写があるが、薄い布団の下に藁を敷いてクッションにするということも、ごく日常的だった。藁だから、すぐにへたる。これを新しいものに取り替えると、日向の温かい匂いとやわらかい感触につつまれ、なんだか豊かになった気持ちになる。
 そういう時代が、つい先日まであったのだ。100年前のことではないのだ。「江戸時代」の生活は、東京オリンピックのころまでは、まだ日本の隅々に残っていたのだ。

 誰に言うべきことでもないのだが、ふと、書いておく気になった。

 

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池田佳隆って、知ってる?(読売新聞から見えてくること)

2024-01-08 21:02:50 | 考える日記

 自民党安倍派の裏金問題。池田佳隆が逮捕された。そこで私が思ったことは、ただひとつ。池田佳隆って、誰? なぜ、池田が逮捕された? 誰が情報を流した?
 池田佳隆は読売新聞(2024年1月8日)の情報によれば

日本青年会議所会頭などを経て12年衆院選愛知3区で初当選。21年衆院選は小選挙区で敗れたが比例復活し、4回目の当選を果たした。文部科学副大臣などを歴任した。

 政治に強い関心があれば「文部科学副大臣」で記憶している人がいるかもしれないが、ふつうは知らないだろう。そのとき、だれが文科相だった? ほら、言えないでしょ? だいたい小選挙区で敗れ、比例復活する人である。支援者だって「限度」があるのだろう。つまり、知らない人は投票しない、という感じの人なのだと思う。
 で、これからである。
 私は邪推が好きな人間というか、なんでも想像してしまう人間なのだが。
 この逮捕劇の裏には、たぶん、こう思う人間がいるのだ。つまり、

お前は下っぱ議員のくせして、金をネコババしすぎるぞ。

 だって、そうでしょ? 小選挙区で当選できない(支持者が少ない)人が、どうやってパーティー券を「ノルマ」以上に売りさばける? 誰が買う? きっとパーティー券を大量に買った人(買わされた人)がいる。そして、その人はパーティー券の売り上げがどういう風に動いているかを知っている。キックバックされることを知っている。そして、そのキックバックは、私の推定だが、きっとパーティー券を買った人へとさらに「還流」していくはずである。
 つまり。
 選挙のときの「買収費用」となって、返ってくる。
 みんな言ってるでしょ? 選挙には金がかかる。言いなおすと、買収しないと当選できない。
 きっと「買収」の金が少なかったのだ。だから、パーティー券を買った人は怒っている。もっと「還元」しろ。(もっと金をよこせ)。お前が当選できたのは、おれが支えてやったからだぞ。いろいろ手を回したからだぞ。お前なんか、お前だけの力では小選挙区では絶対当選できないんだぞ。キックバックされた金はネコババせず、みんなよこせ。

 ここで思い出すのが、統一教会。安倍と親密な関係にあった。
 統一教会が信者をだましてあつめた金が、どうつかわれたか私は知らないが、きっと「選挙対策」にもつかわれたはずだ。統一教会は、統一教会の力(組織力)で議員を当選させ、その議員を操るということを試みていた。きっと池田もその「標的」のひとりだろう。それは「文部科学副大臣」という肩書にもうかがうことができる。統一教会は、「教育」を通しての「洗脳」も狙っていた。

 パーティー券の売り上げのキックバックというのは、たぶん、他の派閥でもやっている。それなのに、なぜ安倍派が標的になっているのか。統一教会と関係があるのではないか。それは、今回の問題が表面化したときからあちこちでささやかれていた。でも、その糸口が見つからなかった。(私には、見つけられなかった。)
 今回、池田の「経歴」というか、過去の肩書を読売新聞で読んだとたん、私には以上のようなことがぱっと閃いたのである。
 これは、やっぱり、統一教会からの「反撃」なのである。
 誰もが知っている「大物議員」ならパーティー券の売り上げも多いかもしれない。したがってキックバックされる金額も多いかもしれない。しかし、私のような政治に疎い人間には、池田佳隆というような「下っぱ」の議員がそんなにたくさんパーティー券を売りさばけるとは思えない。安倍派のキックバック総額は5億円といわれる。池田が受け取った金額は4800万円。約1割弱。信じられないね、池田がそんなにたくさんのキックバックを受け取るほど「集金能力」があるとは。きっと「集金」を支える影のシステムがあったのだ。その「影のシステム」が、いま、自分たちが冷遇されていることに対して起こっている。反撃し始めたのだ。正義の名を借りて「情報」を流すことで。

 しかし、新聞はおもしろいね。いろんな情報が「無意識」に書かれている。その「無意識」を掘り起こすと、いろんなものが見えてくる。

 

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プラトン「饗宴」

2024-01-01 16:51:57 | 考える日記

プラトン「饗宴」(鈴木照雄訳)(プラトン全集5、岩波書店、1986年10月09日、第三刷発行)

 2024年の読み初めに「饗宴」を選んだ。そのなかに「中間」ということばが出てくる。「知と無知との中間」(75ページ)という具合である。さらにつづいて76ページには、こういう文章がある。

正しい思いなしとはいま言ったようなもの、つまり叡知と無知との中間にある

 ここから私は、和辻哲郎、林達夫、三木清、中井久夫という、私の大好きなひとたちの文章を思い起こすのである。
 「中間」としての「思いなし」。
 中井久夫は「シンクロ」ということばをつかう。林達夫は「想像力」、三木清は「構想力」、和辻哲郎は「統一力(統合力)」か、あるいは「直観」か。いいかげんな読者なので、はっきりとは覚えていないが、全体的な真理(叡知)とそうではないもの(無知)との間にあって、何かを感じ、それを動かす。その動いていく力を信じる。動いていく力を信じて、ことばを追いかけていく。そのとき、何かとシンクロする形で、一つのものが姿をあらわす。
 「思いなし」という表現が象徴的だが、それは「絶対的真実(真理)」ではないかもしれない。それでも、その「思いなし」がなければ、人間は生きていけない。何かを「正しい」と「思いなし」て「中間」を生きていく。

 こんなふうに「要約」してはいけないのかもしれないが、好きな本を(その著述家のことばを)読みながら、私は自分が何が「好き」なのかを探している。私の読み方は、もちろん「誤読」だろうけれど、その「誤読」を通して、好きな著述家のことばが少しずつ重なってくるのを感じるのは、とても楽しい。
 広いことばの世界の「中間」で、少しだけれど、「正しい」ものがどこにあるのか、その「方角」が見えてくるように感じられる。もちろん、それは錯覚で、結局、何もわからなかったなあと思いながら死んでいくのだろうけれど、ソクラテスではないが「無知」を自覚できて死ぬのが私の理想だ。
 まだまだ、「私は何かがわかっている(これからも何かがわかる)」と思ってしまう。そこから、抜け出すことは、できない。それでいいのかもしれないが。

 私の家は貧乏だった。小学校、中学校時代、私の家には、教科書以外の本は一冊もなかった。高校生のとき、岩波文庫の「ソクラテスの弁明」を買った。とてもうれしかった。からだも健康とはいえないし、目も悪い。残された時間で何冊、どれだけ本を読むことができるかわからないが、ともかく読みたい。
 読めば読むほど「中間」が広がり、どこへもたどり着けないのだけれど、でも読みたい。まだ私は生と死の「中間」にいる、とあらためて気がついた。

 

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デジタル化という罠

2023-12-18 20:00:49 | 考える日記

 パソコンがダウンした。電源を切ろうにも、マウスも反応しない。私はたまたま予備のパソコンをもっていたから対応できるが、予備のパソコンのないひとはどうするのだろうか。
 ウィルス対策のメーカーと話していてわかったのだが、パソコンの(ハードディスクの)寿命は4-5年くらいらしい。もちろん、こまめなメンテナンスをすれば、もっとのびるのだろうけれど。
 しかし、そんなことを熟知してパソコンを買うひとが何人いるだろうか。
 そう思ったとき、また、別の風景が見えてきた。
 私は年金生活者で、預金もない。こういう人間が、デジタル社会にどう対応すればいいのか。パソコンが動いているあいだはなんとか社会についていけるかもしれない。スマートフォンが動いているあいだは、やはりついていけるかもしれない。
 しかし、そういうものがいったん故障したら? 動かなくなったら?
 情報から完全に取り残されてしまう。「苦情」も、いまは電話ではなく、メール対応だ。だれに助けを求めるにも、デジタルをとおしてでしかつながらない。
 もし、それが不安なら。
 ここからだね、私がいいたいほんとうのことは。
 常にデジタル危機を「生きた」状態にしておかないといけない。しかも、デジタル情報はどんどん拡大していて、それに対応するためには「新しい機器」が必要である。私は「初代」のiPadをもっているが、それはもう目覚ましにつかっているだけだ。得たい情報は、「初代」では入手できない。アプリが更新されていて、そのアプリに「初代」は対応していない。だから、私は泣く泣く別のiPadを買ったが、これにしたっていつまで「最新アプリ」に対応できるかわからない。
 スマートフォンも同じだ。私は2年前、スペインへ旅行したが、旅行するためにアプリが必要だった。それは古いスマートフォンでは対応しない。しかたなく、新しいスマートフォンを買った。それも、いまでは「旧式」だ。
 つまり、デジタル情報社会を生きていくためには、実は、常に新しい機器を買わないといけない。
 これって、強欲な資本主義のひとつの形ではないのか。新しい製品を買わせ続けるための「方便」なのではないのか。
 なんにでも寿命はある。それは知っている。洗濯機だって冷蔵庫だって、いつかは故障する。しかし、デジタル機器ほどのスピードで「更新」を強要されるものはないだろう。
 いつだったか、老後(60歳以降)をそれなりに生活するためには、夫婦二人で2000万円の貯蓄が必要といわれたことがあったが、その2000万円に、この「デジタル機器の更新費」は含まれているか。きっと、想定されていないだろう。

 貧乏になって、初めて見えてくる「社会の罠」というものがある。そのひとつが、このデジタル機器の寿命(更新の必要性)だ。もし政府が本気で「デジタル化社会」の推進を考えているのなら(つまり、メーカーの言いなりになって、デジタル機器の売り上げで景気回復を狙っているのでないなら)、老人がどうやって「デジタル機器を更新するか」ということを明示しないといけない。
 今後、私が体験したようなことは、どんどん起きてくる。パソコンやスマートフォンはもっている。しかし、それが動かない。そうすると、故障したパソコンやスマートフォンをもっているひとは、情報を手に入れることができないし、情報の交換もできない。これは、考えてみれば、高齢者に「政府批判/政治批判」をさせないための、新しい方法なのだ。
 新しいデジタル機器を買えない老人は、政治に文句を言えない。「苦情はメールで受け付けています」と、ひとことで拒否されてしまう。そういう世の中が、すぐそこまで来ている。「デジタル格差」というのは、デジタル情報に対応できる「知識/知的能力」があるかどうかだけの問題ではなく、「経済能力」があるかどうかも含めているということを思い出さなければならない。

 

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和辻哲郎の「公平」(そして向田邦子)

2023-12-10 21:44:04 | 考える日記

 和辻哲郎『日本古代文化』の「初版序」におもしろいことが書いてある。和辻はこの本を書くまで日本の古代文化のことを研究してきたわけではない。それでも書かずにはいられなかった。どういう立場で、書くか。

自分は、一個の「人間」として最も公平だと思われる立場に立って、自分の眼をもって材料に向かった。

 この文章をどう読むかはひとによって違うだろうが、私は「公平」ということばにつきうごかされた。一個の人間として公平とはどういうことか。古代文化の研究をしている人間と、それをしてこなかった人間は「学問的」には「公平」ではない。前者は「知識」をもっている。後者は「知識」をもっていない。しかし、同じ人間だから「公平」に「眼」をもっている。その「公平である眼」をたよりに、つまり「知識」にたよらずに、古代文化に向き合った、というのである。
 人間はだれでも眼をもっている。これは「公平」である。その「公平」をたよりに、和辻は考える。この眼を肉体と言い換えると、私がいつも書いていることに通じるのだが、あ、そうか、私は知らないうち和辻に影響されてそう考えるようになっていたのだと、あらためて気がつくのである。

 和辻が「序」で書いた「眼」は「目」という表記にかわって、次のような強く、美しい文章になる。古代の日本人が漢に渡り、その生活を見て日本に戻ってくる。そのときの日本人を想像して、和辻は、こう書いている。

自ら海を渡って自らの目をもって漢人の生活を見て来たものは、いかに多く新しい知識を、いかに強く新しい情熱を、得て来たことであろう。

 自分の「目で見る」、すると「情熱」が生まれる。目から情熱への変化。いったんは「知識」と書きながら、「情熱」と書き直さずにはいられない和辻。
 私が和辻の文章が好きなのは、そこに「知識」が書かれているからではなく「情熱」が書かれているからだとあらためて思う。たとえば『ニイチェ研究』を読む、そうするとそこにはニイチェに関することが書かれている。そこから「知識」を得ることができる。でも、そこで得る「知識」を頼りにするくらいなら、ニイチェの本を直接読んだ方が早いだろう。しかし、和辻を読んでしまう。それは、そこに和辻のニイチェへの「情熱」が書かれているからだ。私はいつでも「知識」ではなく、「情熱」を読んでいるのだと思う。

 脱線するが。

 私はいまイタリアの青年と一緒に向田邦子の『父の詫び状』を読んでいる。そのなかの「隣の神様」に、こんな一行がある。

私は四十年にわたって、欠点の多い父の姿を娘の目で眺めてきた。

 ここにも「目」がある。向田は「公平な目」とは書かずに「娘の目」と書いているのだが、私はやっぱり「一個の人間として公平な目」だと思う。このとき「公平」とは「客観的」といういう意味ではない。人間ならだれでも肉親を愛してしまう。そういう「必然」を「公平」と、私は呼びたいのである。
 そして人間の「必然」というのは「愛情」のことなのだ。愛してしまう、ということなのだ。

 ここから強引にひるがえって言えば。
 和辻は「日本の古代文化」を愛してしまったのだ。だから本を書かずにいられなかったのだ。「愛」だから、他人から見ればときどき「ばかげている(間違っている)」。でも、だからこそ(つまり他人から批判されるのはあたりまえの部分があるからこそ)、そこには他人にはどうすることもできない「一個の人間」としての「正しさ」がある。

 

 


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和辻哲郎の「正直」

2023-12-08 22:59:26 | 考える日記

 私は和辻哲郎の文章が好きだ。なぜ、好きか。『桂離宮』のなかで、和辻はこう釈明している。さまざまなことを和辻は書いているが、

専門家の所説に基づいたところもあるが、主としてわたくしの現状から受けた印象によったのであって、歴史的に確証があったわけではない。

 林達夫なら絶対に書かないことを和辻は書いていることになる。
 「確証がない」ことを書く、というのは、著述家にとっては間違ったことかもしれない。しかし、「印象」には、「歴史的事実」とは別の真実があるだろう。生きている人間の真実、そのひとが生きてきた仮定で身につけてきた、そのひとの真実(事実)である。和辻は、客観的な歴史よりも、彼自身の歴史(個人の歴史)を優先する。そこから「歴史」へ近づいていく。和辻自身の「いのち」をひきずって、「歴史」へ近づいていく。
 「印象」は「推測(憶測)」に、つまり、思考へと変化する。その変化は「自ずから」起きるのである。そして、和辻は、この「自ずから」に対して正直である。
 そこに和辻の「自然」が滲んでいる。
 この「自然」を「道」と言い換えていいかどうかわからないが、私は言い換えたいと思っている。
 和辻のことばが「自ずからの力」で動いた瞬間、ことばが輝きだす。「ここが好き」というときの「好き」の感情に、嘘というものがいっさいまじっていない。だから「道」と言い換えたくもなるのである。

 『桂離宮』で和辻が書いていることは、「歴史(建築の過程)」的視点から見ると間違っているのかもしれない。しかし、そこに書かれている「印象」はとても鮮やかで説得力がある。「歴史的視点」からもおなじような「美の定義」に到達できるかもしれないが、それは無意識に動いてしまう「印象」の強さを持ちうるかどうかわからない。
 「間違い」があっても、私はかまわないと思う。私は「歴史家」ではないから、そういうことは気にしない。「間違う」ことでしかたどりつけない「真実」というものがあっても、私はかまわないと思っている。「正直」なら、それでいいと思っている。

 

 

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「教養」とは何か(和辻哲郎と向田邦子)

2023-12-07 13:13:00 | 考える日記

 

 

 和辻哲郎『桂離宮』を読んでいると、八条宮という人物が出てくる。「教養」のある人間だ。その「定義」のようなものとして「源氏物語」「古今集」などの「古典」精通というようなことが書いてある。このときの精通とは単に熟読している、知識を持っているということではないだろう。「味わうことができる」ということだろうと思う。
 「味わう」ということは、どういうことか。その「ことば」の世界を、生きて動いていくことだろう。それは、「ことば」の動きのなかにある「自然に動き出してくる力」にあわせて、自分を動かすということだろう。世界は「ことば」に満ちている。世界に満ちている「ことば」のなかにはむだなもの、余分なものもある。それを適切に切り捨てれば、「ことば」は自然に美しく輝き出す。この「切り捨て」のことを和辻は「精神の否定的な働き」と呼んでいる。
 この「精神の否定的な働き」という文章に出合った瞬間、私は、ふと向田邦子の『父の詫び状』を思い出した。そのエッセイは、向田邦子が体験した昭和の家庭のことが詳しく書かれている。人は何を大事にし、何を整理し(切り捨て)、生活を整えたか。その「整え方」も「教養」である。それを昔は「しつけ」と言ったのだが。
 本のタイトルにもなった「父の詫び状」には、父の客が家のなかで酔っぱらって嘔吐した。それが障子だったか襖だったか何か忘れたが、敷居の溝にはさまっている。それを楊枝(だったかな?)をつかって掘り出すようにして掃除する。それを読みながら、なんというのだろう。読んでいて美しいシーンが思い浮かぶのではないのだが、なんともいえず「美しい」と感じてしまった。この「美しさ」に対して、父がぎごちない「詫び状」を書くのだが、その「ぎごちなさ」がおかしくて、うつくしい。この「おかしい」は清少納言の書いている「をかし」かなあ……。
 脱線したが。
 生活のなかで鍛えられる「教養」がある。それは「生活の味わい方」なのだ。吐瀉物の掃除は、それ自体は「味わいたくないもの」かもしれない。しかし、そのあとに生活が整えられ、「美しさ」が味わえる。それは、たんに家が美しく掃除されていてきもちがいいという味わいではない。父が侘びたように、思わず侘びたくなるような何かである。そういう「味わい」を向田邦子のエッセイは、とても自然に輝き出す形で表現している。
 和辻のことばをつかって強引に言い直せば、向田は肉体をつかって吐瀉物を生活から「切り捨てた」。そのとき、そこにはやはり「否定する精神」が強く働いている。汚れを否定する精神。そして、それが日常を輝かせている。向田自身を輝かせている。そのまぶしさに、父は思わず「詫び状」を書かずにはいられなかった。
 その「詫び状」はぎごちないが、そこにも父の「教養」が滲んでいて、私は読みながら思わず泣いてしまった。「教養」とは人間を「嬉し泣き」させるものかもしれない。「自然に動き出すいのち」が輝く瞬間、そこには「教養」が動いている。

 『父の詫び状』は、これから日本語を学んでいるイタリアの青年と一緒に読み進めるのだが、日本語の知識だけではなく、そこに書かれている「日本の生活の教養」のようなものにも触れてほしいと思っている。

 

 

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和辻哲郎と林達夫

2023-12-02 21:51:57 | 考える日記


 人はどんなふうにしてあることばと出会い、それを好きになり、その「好き」が広がっていくのか。自分のことであっても、よくわからない。私は、いろんな著述家のいろんな文体が好きだが、和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んでいて、ふと林達夫を思い出した。
 薬師寺の薬師如来の作者が誰なのかわからないが、そのことについて、和辻は、あれこれ想像している。(岩波版、全集、123ページ)

 当時の文化はむしろ書紀に名を録せられない中流の知識階級によって担われていたと見られるべきである。たとえばわれわれはあらゆる民家に仏壇を造るべき命令が下ったことを知っている。この命令はある程度まで遵奉せられたであろう。そこには盛んな需要がある。供給者もまたなくてはならぬ。もしこの仏壇の最も優秀な例を玉虫の厨子や橘夫人の厨子に認め得るとすれば、仏壇の標準がすでに徳川時代のごとき低劣なものではない。そこで一般の需要に応ずる仏壇製作家もまた相当に有為な芸術家でなくてはならぬ。そしてその数も、少なくてすむまい。そうなるとそこに芸術家の社会が成立してくるであろう。その社会においては大寺の本尊を刻むことは非常な名誉であるに相違ない。そういう社会の雰囲気のなかでは、薬師寺金堂の本尊を造った様なすぐれた作家は天才として通用するのである。この種のことは建築家についても、僧侶についても、あるいはまた学者についても、存在したであろう。そうしてそれらはみな書紀と関わるところがない。

 林達夫は、こうした文章、文献的裏付けのない「想像力」だけがことばを動かしていくような文章は絶対に書かないだろう。そういう意味では、これは林達夫とは無縁の文章なのだが、私は、あ、林達夫はここから学んだに違いない、と私は思うのだ。
 ある「事実(現象)」がある。そのとき、そこには「社会」がある。「社会」の動きが、その社会で起きた「事実」と関係がある。
 和辻は「想像力」で、それを考える。林達夫は、「文献」を探し出して社会を浮かび上がらせる。どちらも「社会」を必要としている。「背景」を必要としている。「背景」(社会)があって、はじめて「事件」が起きる。

 私は学校で習う「歴史」が大嫌いだった。年号だとか、人の名前だとか、事件とか、やたらは記憶しないといけない。そんなものは必要なときに本で見ればいいのであって、覚える必要はない、と考えていたからだ。
 だから和辻の『鎖国』を読んだときは、非常に驚いた。「事件」ではなく、「社会」が描写されていたからだ。そこにはたとえば、世界一周をしたスペインの船が、大西洋にふたたび帰って来て、スペイン(だったと思う)の船と出合う。そのとき「航海日誌」の日付が違っていることに気がつく。日付変更線がまだ「存在」していなかった時代にも、時間はある。そして正確に「航海日誌」をつけていれば、必然的に日付が違ってしまう。つまり、世界一周した船の「航海日誌」をつけていた人は、無意識のうちに「日付変更線」を発見してしまったのだ。……これは「社会」というよりも、物理(あるいは数学科何か)の問題かもしれないが、「事件」の背後には、誰も意識していなかったような不思議な広がりがあり、それは「絶対的」なものなのだ。
 年号や人名、その他の「固有名詞」は、偶然のものにすぎない。必然的なものは、なかなてか記録されない。その記録されない必然こそが大事なのだ。

 私が林達夫、和辻哲郎の文章(ことば)に惹かれるのは、ふたりのことばの奥に、「学校教育」では無視される必然に気づかされてくれるからかもしれない。そうした必然は、なかなかことばにされない。しかし、そうした必然こそが、人間を「正しく」している。「日付変更線」に戻って言えば、間違いなく毎日「航海日誌」を書き続けるというような、地道な行為、そこに「正しさ」があるのだ。それは「人間の正しさ」につながる何かだと思う。

 

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林達夫と「勉強」

2023-10-18 22:55:22 | 考える日記

 ようやく「林達夫著作集」の再読を終えた。これから読み始める本(中井久夫や林達夫より古い本)のための、なんというか、「ウォーミングアップ」のつもりで、中井久夫のエッセイ、中井久夫著作集、林達夫著作集と読み進んできたのだが、正月から10か月もかかってしまった。このままでは、死ぬまでに読みたい本を読み終えることができない、とかなしくなる。
 福大病院の検診には、診察券もマスクも忘れてしまった。物忘れが激しくなったし、検査の結果も、予想はしていたがつらいものがあった。
 でも。
 林達夫には励まされる。晩年になってから、ロルカに出会い、スペイン語の勉強をはじめている。NHKのラジオ講座で。かつて勉強したことがあるロシア語もラジオ講座で復習している。何歳になっても、勉強している。
 そういえば。
 林達夫の文章には、よく「勉強」ということばが出てくる。生涯、勉強をつづけた人なのだ。林達夫からはいろいろ学んだが、この「勉強」ということばは、林達夫の思想をとてもよくあらわしていると思う。
 林達夫は、いろいろなことに対して、異論・反論を書いている。ある「学問」に対して、別の視点を提供している。それは、多くの「学問」が何ごとかを整理・要約するのに対して、その整理・要約された「学問の周辺」を勉強して、領域をひろげるという作業のように思える。
 「山」には頂点がある。そして、山にはすそ野がある。それだけではなく、山には「周辺」がある。山は、思いもかけないところから始まっている。どこから山へ上りはじめるか。それは、「きり」がない。「きり」がないとわかっているのに、林達夫は、そんなことはない、と信じて「周辺」をひろげ、そのために勉強している。
 「勉強」ということばに触れるたびに、私は、林達夫の書いているあれこれを思い出し、自然と、それをまねしたくなる。

 

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林達夫「イタリア・ファシズムの教育政策」

2023-10-01 11:54:26 | 考える日記

林達夫「イタリア・ファシズムの教育政策」(林達夫著作集5)(平凡社、1982年3月23日、初版第12刷発行)

 林達夫「イタリア・ファシズムの教育政策」を読んでいて、次の文章に出会う。昔は気がつかなかった。読み落としていた。

 ファシスト教育はあらゆる手段を以て資本主義体制を防衛し、ブルジョアジーの階級的支配を確保することに重点を置いている(30ページ)

 ここでいう「ブルジョアジー」とはいわゆる「資本家」のことである。

 労働者階級の地位を徹底的に劣悪化することによって(賃金値下げ、労働時間延長、合理化強行)辛うじて命脈を保ってきたイタリア資本主義は、今日、深刻な経済恐慌の渦中にあって気息奄々としている。(35ページ)

 「イタリア資本主義」を「アベノミクス」に変えれば、日本の現状にぴったり合致する。
 いま岸田は、「賃上げ」によって方針転換をしているように装っているが、賃上げは物価高によって相殺される。そして、そのとき労働者に還元される金よりも、資本家が確保する金の方が「大きい」だろう。だから「賃上げ」はみかけにすぎず、労働者の生活は一向に改善しない。私のような年金生活者は物価高によって年金が目減りするだけである。

 ここからひるがえって(?)思うのだが。

 いま世界で進行しているのは、ファシズムである。アメリカ資本主義(アメリカの資本家)が資本を独占しようとする動きである。それを戦争で遂行しようとしている。
 私が念頭に置いているのは、ロシア・ウクライナ問題である。ロシアがウクライナに侵攻したことは、もちろん悪い。そして、最終的に、アメリカがベトナムやアフガニスタンから撤退したように、ロシアは撤退するだろうと思うが、これを、アメリカ資本主義(強欲資本家)から見つめなおせば、こういうことだろう。
 つまり、ロシアがウクライナに侵攻する前は、EUとロシアの経済関係はとてもよかった。EUとロシアは経済的に相互依存の関係にあった。言い直せば、アメリカの資本家はEUでの「利益」をロシアに奪われていた。それを取り戻す必要があった。ロシアの経済を「封じ込める」必要があった。そのためにウクライナを利用したということだろう。
 もちろん、こんなことをアメリカ資本主義(その傀儡のバイデン)が言うはずがない。ウクライナに侵攻したロシアが悪い、民主主義、法の支配を破壊する行為だという。そのほかのことを考えさせないために、懸命に宣伝している。マスコミが(マスコミもまた資本主義のブルジョアであるから)、一生懸命、その片棒を担いでいる。
 林達夫は自分のことばではなく、ムソリーニが「反ファシスト新聞」を禁止したときの、新聞『イムペロ』から次のことばを引用している。(パシュカーニスからの「孫引き」らしい。)

「何人も自分の頭を以て考える権利を有するというが如き愚かな空想は、今晩から絶滅されなければならぬ。イタリアは唯一の頭を有する。ファシズムは、唯一の頭を有する。それは『指導者』の頭であり、脳髄である。裏切り者のすべての頭は、容赦なく切り捨てなければならない。」(39ページ)

 「自分の頭で考える」人間は「裏切り者である」。ここでいう「裏切り者」のことを、日本の右翼は「反日」と呼んでいる。安倍-岸田の言うことを批判する人間は「反日」である。そういう「反日」の「すべての頭は、容赦なく切り捨てなければならない」。これが、いわゆるインターネットの世界で起きていることでもある。

 読みながら、林達夫が生きていたら、いまの日本の社会を見たなら、形をかえた「日本ファシズム」論を書いたかもしれないと思う。
 書かれていることが、あまりにもいまの日本(あるいは世界の動き)と重なる。
 だから、こんなけとも思う。
 日本では、見かけの「賃上げ」「物価上昇」(好景気)の影で、資本家の利潤だけが拡大し、さらにその利潤に労働者の視線が向かないようにするために、いわば誘導策戦として戦争がつぎつぎに引き起こされるだろう。ロシア・ウクライナのあとは、中国・台湾である。アメリカは、すでにロシア・ウクライナで十分な利益を上げたと判断したのか(あるいは、厭きたのか)、ウクライな支援予算について不満をもらし始めている。ヨーロッパのいくつかの国でもウクライナ支援を手控える動きが出ている。このことは、アメリカの視線が中国・台湾へと向かっていること、世界の視線を中国・台湾に向けさせようとしている動きといえるだろう。実際に「台湾有事」が起きるかどうかは別にして、危険だと大騒ぎすれば日本はアメリカの軍需産業から武器を買う。それだけでもアメリカの資本家は大喜びをするだろう。

 

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林達夫「三つの指輪の話」(林達夫著作集3)

2023-08-24 12:14:30 | 考える日記

林達夫「三つの指輪の話」(林達夫著作集3)(平凡社、1979年12月01日、
初版第7刷発行)

 林達夫「三つの指輪の話」には、林達夫の「文体(思想)」の特徴があらわれている。
 林達夫は、彼自身の考えを彼自身のことばでは書かない。他者の考え、他者のことばを紹介することで、自分の考えを語る方法(文体)をつくりだした。「三つの指輪の話」には、それが美しい形で実現している。
 林達夫は、読者を迷路に誘い込む。この世界、この世界に存在するものは、迷路という規則(理性)をもっていることを明るみに出す。その迷路をつくりために林は妥協を知らない。迷路の設計図を、正確に描くのである。
 その設計図ができあがったとき、それは迷路ではない。つまり設計図がわかれば、迷路は存在しないのだが、その設計図を林は「完成図」としては提示しない。
 「結論」はない。いつでも「仮説」というか、未解決のものを残している。「結論」を解放している。
 逆に言えば、林がやろうとしていることは、閉ざされた「解決」を徹底的に拒み、つねにことばを「未知(わからない)」へ向けて解き放つことなのだ。

 もし真理というものがあるとすれば、それは「何かを探す」という行為(思考)のなかにのみあるのだ。「三つの指輪の話」は、信仰(宗教)をめぐる話だが、その「結論」として林が書いているのは、彼自身の「信仰告白=何かを探すことのなかに探しているものがある」ということだろう。


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林達夫「切支丹運動の物質的基礎」

2023-08-20 12:16:39 | 考える日記

林達夫「切支丹運動の物質的基礎」(林達夫著作集2)(平凡社、1982年03月23日、初版第9刷発行)

 林達夫「切支丹運動の物質的基礎」は、キリスト教の布教は、どうやって日本でおこなわれたのか。彼らが日本で布教できたその背景の、経済的基盤はどうなっていたのか、ということについて書いている。私は学校教育の「歴史」は好きではないが、こういう文章を読むと「歴史」というのはとてもおもしろいと思う。「過去」のできごとではなく、「いま」の問題としても見えてくる。
 いや、実際、彼らが日本に来て、どうやって布教したのか。「情熱」や「使命感」だけではできない。そこには何らかの「戦術」というか「政略」がないと、できない。
 林達夫は、彼らが、日本とポルトガルとの貿易のなかに割り込んで、商人となることで金を稼いだということを明らかにしている。彼らは、世界に支店をかまえる「ヨーロッパ最大の商業会社」だったのだ。
 びっくりして、目が覚めてしまった。
 スペインを中心とした国がアメリカ大陸に進出し、「布教」したのも、その背景には「商業主義」があった。金儲けがあった。金儲けをしたい集団と手を組んで、布教はおこなわれた。これは日本でも同じだ。

 宗教(キリスト教)が「金儲け」をしていいのか。私は信徒ではないから、そういうことは気にしないのだが、どんな世界にだって、人間が生きていくとき、「理念」から逸脱していく何かがある。そこに、人間の生き抜く力がある。
 それを肯定するか、否定するかは、これは別問題なのだが。

 ここから、私は、ぜんぜん関係ないことを思い出すのだ。
 私はかつて仲間と一緒に詩の同人誌「象形文字」を発行していた。そのときの同人のひとりに阿部泰久がいる。彼の詩は、なんというか「理念」を書いていなかった。言い直すと、「荒地派」のような詩ではなかった。むしろ、キリスト教の「商業活動」のように、どこか「生活」に密着しているものがあった。別なことばで言うと、そんなこと詩にしなくたっていいじゃないか。隠しておいた方が、詩(理念)っぽくない?というようなこと。詩集がどこかにあるはずだが、ちょっと見つけ出せないので、具体的な引用はしない。そこには「理念」ではなく、生きている人間の「視点」の確かさがあった。
 阿部は、この「視点」を掘り下げる形で、詩から俳句へとことばの運動を変えて行った。
 この「視点」は、別の「視点」から見ると、なんというか「間違い」であった。つまり、その当時の流行の詩からは少し「ずれていた」。そのためにとんでもない批判、こころない批判をするひともいた。しかし、どんな「間違い」にも、それぞれの「存在理由」がある。
 それはキリスト教布教が貿易に関与し、商業会社として動いてもいたということに少し(かなり)似ている。

 ここからまた脱線するのだが。
 私は詩の講座で詩を教えている。日本語教師として、外国人に日本語を教えている。日本語教師として大きな声では言えないが、私が目指しているのは「間違える」ことを教えたい。
 私は「学校の先生」にはいい印象を持っていないが、それは「先生」が「正解を教える」ことに忙しくて、「間違える」ということを教えないからだ。
 いつ、どこでも「間違い」は存在する。「正しい回答」と同じように、存在する。存在してしまう。
 それはなぜなのか。
 なぜ人間は間違え、その間違いを後で修正するにしても、間違えるという瞬間はなぜ存在してしまうのか。言い換えると、ひとはなぜ間違えることができるか。
 これは、私が「永遠の課題」のようにして考え続けていること。
 人間は、間違えることができる。そこに人間のヒミツガあると思う。
 どんな間違いの中にも、何かしらの真実、一理がある。それなりの理由がある。そこに「生きる力」のヒミツがある、と私は考えている。
 これは、また逆のことも言える。
 どんな「正解」のなかにも、「間違い」のきっかけはある。物理の発見が、ただ人間の幸福のためにだけ役立つかといえばそうではなく、原爆が開発され、多くの人が犠牲になったように。もし物理学者が「間違い」つづけていたら、1900年にわかっていることだけが「真実」だったら、原爆は完成しなかっただろう。また別の武器が開発されたかもしれないが。

 林達夫の書いている文章の趣旨とは関係がないが、つまり、こういう感想は、学校作文(論文)では「間違い」なのだが、いまの私には、こういうことを書くだけの「理由」がある。書かずにはいられない「理由」があるということだろう。それは、他人に説明しても、たぶん、わからない。「間違い」だから。

 

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チャットGPTの精度

2023-07-28 13:29:48 | 考える日記

 「チャットGPTの精度が落ちた」というニュース(見出し)を読売新聞で読んだ記憶があるが、検索しても出てこないので、テキトウな感想になるのだが。
 私は、これを当然だと思っている。
 世の中には「正確な情報」よりも「間違った情報」の方が多い。というか、「正確な情報」というものは、たいていの場合「修正」を重ねることで「正しい情報」にかわっていくものである。
 「情報」を「知識」と言い直して考えてみれば、すぐわかる。
 「天動説」が「地動説」にかわるまでに、どれだけ時間が必要だったか。「地動説」が登場して、すぐに「天動説」が修正されたわけではない。科学の世界でさえ、そうなのだから、「科学」ではない「人事」が動いている世界では、それがあたりまえだろう。
 さらに問題は、ひとは簡単には「間違い」を認めない、というか、「間違いを訂正して正しい情報に書き直す」ということをいちいちしない。たいてい、ほったらかしにしておく。
 ほんとうに正直な人間だけが、「あれは間違っていた、修正すます(訂正します)」と報告する。そして、そのとき、そのときの「情報」の大半が正しくて、ただ一点だけ間違っていたとしても、ひとは「やっぱり、あの情報は間違っていた」と間違いだけをとりあげて情報全体の価値を否定することが起きる。
 具体的偽は書かないが、「慰安婦問題(報道)」では、そういうことが頻繁に起きた。
 記者が責任をもって書いた「報道」では「訂正」がおこなわれるが、情報が匿名で発信され、拡散される世界では、「訂正」は拡散されず、「間違いの指摘」だけがひろがり、「正しい情報」が「間違った情報」になり、「間違った情報」が「正しい情報」にかわってしまうこともある。このときの「基準」が、その「情報の引用回数」で判断されると、それはとんでもないことになる。
 チャットGPTがどうやって情報を集めるのか知らないが、そしてそれが正しいか間違っているかどう判断するか知らないが、間違った情報を集めてしまう限り、どうしてもその「結論」は間違ったものになるだろう。
 いまはまだ「専門家」がチェックしている段階だから「精度が高い」のであって、だれもがつかい始めると精度はどんどん落ちるだろう。
 私がインターネットを始めたころ、「誰もが必ず一度はPLAYBOYを覗きに行く」と言われたが、いまはその手の情報は、PLAYBOYどころではなくなっている。PLAYBOYが掲載していた写真など、いまでは幼児向けの絵本みたいなものだろう。同じことが起きるだろう。

 私は情報と呼ばれるものが、新聞、ラジオ、テレビ、インターネットと変化してきた時代を生きてきたが、その変化に伴って「正しい情報」が広まると同時に、「間違った情報」が広がるもの目撃してきた。そして、思うことはただひとつ。「正しい情報」は確かに維持されるが、「間違った情報」はかぎりなく「拡散する」ということである。「正しい/間違っている」は機械的には判断できない。「間違い」を修正し「正しい」に変えていくことができるのは、「良心」だけである。「良心」の定義が難しいが。「倫理」が必要だというと、自民党の政策みたいになるが、あれは「良心」を失った強欲集団がつくったものだから、私は、いつも「少数派」のなかにこそ「倫理(良心)」の「基本」のようなものがあると考えることにしている。「多数派」にはつねに疑問を持つことが必要だ。
 最初に戻って言い直すと。
 「間違っている」ことを認識し、それを「正しい」に変えていくひとは少ないし、さらにそれを「記録」として残すひとはさらに少ない。情報社会では、そうやって確立された「正しさ」は非常に少ない。チャットGPT、それを見逃すだろう。そうしためだたない「正しさ」を収集しきれないだろう。
 
 チャットGPTが、「多数(派)」への疑問を持つことができるかどうか、「少数(派)」が維持する疑問を正確に認識できるかどうか。それが課題なのだが、強欲集団がつくりだしたものが、そういう基本的性質を持つとは考えることができない。10年後、私は生きてはいないだろうが、そのころはきっとチャットGPTの「誤作動」が大きな問題になっているだろうなあ。

 

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頭と肉体(感覚、あるいは実感)

2023-07-15 10:44:30 | 考える日記

 たとえば、東京の、とても見晴らしのいい高層ホテルに泊まったと仮定する。窓からスカイツリー(の頂点)と金星と北極星が見える。その3点を結ぶ。三角形ができる。その三角形の内角の和は? 簡単に考えてしまうと180度。でも、実際に測るとそうではないね。頭は180度を思い浮かべる。たしかに自分が立っている位置を無視して3点を結ぶ「平面」を想定すれば180度になるかもしれないが、自分の立ち位置がつくりだす「場の歪み」のようなものが影響して180度にならない。
 もっと簡単なわかりやすい例で言い直すと。
 たとえば、東京の、とても見晴らしのいい高層ホテルに泊まったと仮定する。(ごくふつうのホテルでもいいし、自分の部屋でもいいのだが。)天井と壁の三面がつくりだす天井のコーナー。それぞれの面のコーナーは90度。三つ重なれば、それは270度。でも、ベッドに寝転んで(あるいは椅子に座って)、その三面のつくりだす角度を見ると、なんと270度ではない。どの角も90度を超えている。(視覚の問題。)さらに、それを紙に描いて見ると(平面上に展開してしまうと)、その合計は360度になる。
 なぜ、どうして? 「立体だから」(空間だから)と言えばそれまでだが、立体だから(空間だから)を、それではわかるように数学的に説明できるか。三角形の内角の輪は180度、立方体のひとつの隅の角度の合計は270度のように説明できるか。まあ、証明できる人もいるだろう。でも、ふつうは、できない。
 そういうことは、「日常」にはたくさんある。
 きのう「神は死んだ」という日本語について書いたが、「無意識」が修正する「正しさ」のようなものが、どこかにあって、それは「正しい」と同時に「まちがい」でもある。それが「世の中」を動かすことがある。
 私は日本語を教える一方、スペイン語を勉強している。その教室で「わいろ」についての「ディベート」というと大袈裟だが、考えていることをスペイン語で話さなければならないことになった。その前に「政治」の話、「国際関係」、日本の「組織」の話をしていたので、私は、ふと田中角栄のことを思い出した。
 田中角栄の失脚の引き金は、立花隆が「金脈」を告発したことにあるが、問題は、そんなに簡単ではない。その前に、ベトナム戦争があり、アメリカは日本に自衛隊の派遣を要請した。角栄は、憲法9条を盾に拒否した。(韓国は派兵している。)怒ったアメリカは、角栄を追放することを決めた。(首相を交代させることを画策した。)それがどんなふうに実行されたか、それは知らないが、ともかく角栄は逮捕され、失墜した。これを見た政治家は、アメリカに逆らえば失墜するということを「頭」ではなく「肉体」で感じた。そして、それは多くのジャーナリズムのトップにも感染した。ここから、ずるずると「論調」はアメリカべったりになっていった。
 「頭」では、自分がアメリカによって、いまある地位からひきずり降ろされるということは起きないとはわかっていても、もしかしたらという「不安」が、肉他のどこかに残ってしまう。それは、人間をじわじわと蝕んでいく。いろいろなトップだけではなく、トップの姿勢は、その下で働く人にも。
 あ、少し脱線したか。あるいは、非常に脱線したか。
 私は、角栄に起きたのと同じこと(あるいは、それに近い圧力)が、世界中で動いていないか、疑問に感じている。それは何も、「中立」であることをやめて、NATOに加わわろうとするいくつかの国のことだけではなく、ロシアそのものにおいても。プーチンは、アメリカがプーチンをひきずり降ろそうとしているという「動き」ではないのか。それに対抗する形でウクライに侵攻した、ということもあるのではないだろうか。習近平や金日恩は、そうした「圧力」、同じように「追い込まれようとしている」と感じていないか。
 このアメリカの、すべてをアメリカの思うがままにという「圧力」は、多くの国が(多くのリーダーが)感じているかもしれない。なんとか、アメリカに対抗して、自分の国を守りたい(独自路線を貫きたい)と思っている国は多いだろう。ベネズエラは石油資源を盾にアメリカに抵抗している。南米で多くの左翼系の政権が誕生している。これは、アメリカへの「抵抗」ではないだろうか。この「抵抗」を感じるからこそ、アメリカはヨーロッパやアジアでアメリカの「圧力」を強めようとしているのかもしれない。

 飛躍しすぎる論理かもしれないが。

 アメリカの帝国主義は、たとえば三角形の内角の輪は180度、立方体のひとつの角の角度の輪は270度というのに似ている。それは、現実(立体空間、世界のなか)で「体感すること」とは違うのではないか。「頭」で考えるだけではなく、何か、私たちは「体」で感じるものを抱えて生きている。そして、それは「正しい」ことなのか、「まちがっている」ことなのかわからないが、人間を深いところで動かしている。「肉体」で感じることを、自分に言い聞かせるようにして、自分の見ている世界を受け入れている。
 なぜ、部屋の片隅の、三つの面の角は90度であるはずなのに、90度に見えないのか。一つ一つの角を測れば90度なのに、離れて見た瞬間90度ではなくなるのはなぜなのか。そして、90度ではないのに、それは90度であると判断できるのはなぜなのか。この問題を、いろいろな「世界」にあてはめるようにして考えてみたいと私は思っている。
 別の言い方で言えば。
 どちらが「正しい」か「まちがっている」か、簡単に判断しない。いま、自分は、どちらを選んでいるのか、どの立場で世界を見ているのか、それを忘れないようにしたいと思う。


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読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
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『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
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