詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アキ・カウリスマキ監督「枯れ葉」(★★★★)

2023-12-31 12:51:56 | 映画

アキ・カウリスマキ監督「枯れ葉」(KBCシネマ、スクリーン2、2023年12月30日)

監督 アキ・カウリスマキ 出演 アルマ・ポウスティ、ユッシ・バタネン

 アキ・カウリスマキの映画は、いつも情報量が少ない。北欧家具のように、とてもすっきりしている。と書いた後でこんなことを書くと矛盾しているが、この映画は「映画に関する情報」だけは盛りだくさんである。映画そのものも登場するが、たくさんの映画がポスターで登場するし、ラストシーンにはチャプリンの「街の灯」がチャプリンという犬と一緒に登場する。その映画がらみのシーンでは、ふたつのシーンが私は気に入っている。
 ひとつは主役の恋人二人がゾンビが登場する映画を見るのだが、それが終わった後、劇場を出てきた別の観客が「ブレッソンの田舎司祭の日記に似ている」とかなんとか言うのである。私は思わず笑いだしてしまった。そうすると、連れの別の男が「いや、ゴダールのはなればなれ(だったかな?)だ」と言うのである。笑いが止まらなくなった。まあ、人の感想だから、なんだっていいのだが。
 もうひとつは、女の電話番号をなくした男が、映画館の前で女をまってたばこを吸っている。その吸殻がたくさん落ちているのを女が見る。男がここにいたのだとわかる。そのあと、男と女は再会する。そのときの「落ちているたばこの吸殻」がとてもいい。何もいわないけれど、何もかもがわかる。
 イタロ・カルビーノの「真っ二つの子爵」に何やら謎々を残して「決闘の場所(待っている場所)」を示すシーンが出てくる。もし、その謎々を相手が見つけなかったら、謎々が解けなかったらどうなるのか、というようなことを作者は心配していない。同じように、このたばこの吸殻が落ちているときに女がそこを通り掛からなかったら、などということを監督は気にしていない。主人公なら、そこを必ずとおる。そして、その「意味」を理解する、と信じている。実際、映画を見ている観客(私)は、女がここで「あ、男が、ここに来ていた。いつか、ここで再び会える」と思ったに違いないと思い、その後、その「予測どおり」に男と女が出会うのを見るのだが。
 なんというか、この「予測を裏切る笑い」と「予測どおりの安心」の組み合わせが絶妙である。おかしくて、かなしい。かなしくて、うれしい。ちょうどチャプリンの映画のように。しかし、チャプリンの映画のように「ほのぼの/ジーン」という感じではなく、むしろキートンのように「ドライ」なのがカウリスマキの味である。キートンの登場人物が「無表情」のように、カウリスマキの登場人物も無表情である。
 恋愛映画なのに!
 何度も出てくるカラオケシーンが傑作。だれひとり「楽しそうに」歌っていない。「盛り上がる」ということが全然ない。まるで、他人の歌なんかに興味がないという風に、自分が歌っている歌にさえ興味がない、という感じがしてしまう。最後の方に登場する女二人組の、タイトルも何も知らない曲は、これはもしかすると大ヒットするような美しい曲かもしれないと感じるのだが、あまりにもふたりがつまらなそうに歌うので、とてもおかしい。
 私はあまのじゃくなのかもしれないが。
 映画のラストシーン(ハッピーエンド)は、それはそれなりにいいのかもしれないが、男が電車にはねられるシーンで終わってもよかったかなあと思う。ほんとうにはねられたのか、そして死んでしまったのかわからないまま、単に何かが衝突する音が聞こえるというシーンで終わった方が、この映画らしくていいかなあとも思う。(実際、私はそこで映画が終わったと思い、そのあとまだ映画がつづいたので、かなりびっくりしてしまっのだが。)やっと実りそうな恋、それに出会ったふたりなのに、その恋に裏切られてしまう。ただ、あのとき、ふたりは出会った。こころが動いた。秋の枯れ葉が散るときのように、最後の輝きを見せた。その記憶が残っている、という感じの映画だったら、私はもっと感動したかもしれない。

 


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 「パーフェクトデイズ」(3)

2023-12-31 12:00:53 | 映画

 ブログの読者から「三目並べ」の、どこがそんなによかったのか、と質問された。私はまず、こう質問してみた。「同じ公衆トイレをつかうことがある?」「ない」。これが、まず一番のポイントである。同じ公衆トイレを定期的に(毎日)つかうひとなどいないだろう。しかし、三目並べの紙をトイレの隙間に最初に挟んだ人は、そのトイレを定期的につかっている人である。とても孤独な人だと思う。トイレとは、人が孤独になれる場所だが、町中の(公園の?)公衆トイレをつかう人は、何が理由なのかわからないけれど、ともかく孤独な人だと思う。その人が、ふと思いついて「三目並べ」のゲームを誘いかけた。それに役所広司が答えた。
 この交流は、互いに誰が相手であるか知らない。わかるのは相手が必ずそのトイレに来るということだけである。「私はここにいた」(私はここにいる)ということを、ゲームを通して知らせあう。それは同時に「私はあなたが生きていることを知っている。一緒に生きている」と伝えることでもある。名前も知らない。顔も知らない。しかし、生きている。世界には、そういう人の方が多いのである。ガザで何人もの人が殺されていく。そのひとの名前も顔も、私は知らない。しかし、その人たちには名前があり、顔があり、生きていた。そのことを私は忘れている。世界には、名前も顔も知らない人が大勢生きている。そのことを私は忘れている。しかし、三目並べを始めた人も役所広司も、その「誰か」を短い時間だけれど、決して忘れない。一緒に生きたことを忘れない。そして、三目並べが終わったとき「ありがとう」とことばを残す。そのつながりが、とてもいい。世界はつながっている。つながれば、そのことが必ず世界を変えていく。たとえば、このつながりがパレスチナとイスラエルの戦争を終結させる直接の力になることはない。そうわかっているが、私は、このつながりが戦争を終結させるとも信じたいのである。人が触れ合えば、人がつながれば、世界は変わっていく。そのとき「ありがとう」ということばが自然に生まれてくれば、とてもうれしい。
 少し言いなおしてみる。
 三目並べを始めた人が誰なのか、どんな人なのか、まったく知らされないのがとてもいい。何も知らなくても、その人の「動き」を見れば、私たちはその人がどんな状態なのかわかる。道で誰かが腹をかかえて、うずくまっている。あ、からだの調子が悪いのだ。他人なのに、そのことが、わかる。そうわかったとき、人は、どうするか。思わず声をかける人もいれば、知らん顔をして通りすぎる人もいる。役所広司は、思わず声をかける人間である。そういう「共感力」をもった人間である。そこにはただ「共感力」だけがある。そして、その「共感力」というのは、精神とか、心とかというものではなく、何か「肉体」そのものの反応なのである。トイレだから、どうしても、精神とか、こころではなく、「肉体」ということばが動いてしまうのだが、その「肉体」が「肉体」に出会ったとき、「肉体」が反応する。「反射神経」みたいなものである。「反射神経」だから、そこには「正直」がある。
 この「正直」は、この映画では、たとえば役所広司が立ち寄る居酒屋(立ち飲み屋?)でも描かれている。役所広司は何も注文しない。しかし、役所広司がいくと、いつも決まったものがすぐに出てくる。もう、ことばはいらない。ことばなしで、すべてが通じる。そういうとき、そこには「正直」がある。私の書いている「正直」の定義は、ふつうの人が考えている「正直」とは違うかもしれない。しかし、私は、それをあえて「正直」というのである。ことばをつかわなくても理解し合える何か。理解し合うのは、何も飲み物、食べ物だけではない。そこに生きている人間の「人格」(肉体)を認め合うのである。
 それはトイレの三目並べそのものではないだろうか。三目並べは「決着(勝敗)」のないゲームである。必ず「引き分け」で終わる。そういう意味では「無意味」である。でも、「勝敗」が世界を支配するとしたら、それは何か「動き」そのものが間違っている。「勝敗」にならない動きが大事なのだ。ただ、いっしょに生きている。そして、生きていることを尊重する。顔を合わせなくても、名前を知らなくても、「そこにいる」人を尊重する。「あいさつ」されれば、「あいさつ」を返す。あの三目並べは、そういう「あいさつ」のようなものだ。孤独なもの同士が出会い、あいさつする。そのとき、世界が一瞬だけかもしれないが、ぱっと明るく変わる。明るく変わったことを、他の人は知らない。しかし、役所広司は知っている。だから、「ありがとう」を読んで、彼の顔が輝く。
 で、またまた三浦友和の出で来るシーンへの不満なのだが。
 石川さゆりと三浦友和が抱き合っているのを役所広司が見る。なんだか、様子がすこしおかしい。ふつうの再会の喜びではないことがわかる。同時に、役所自身も、はっきりとではないが何かを感じる。そこから突然ラストの、役所広司の泣き笑いの長回しになってもよかったのではないか。何か起きたのか、誰も知らない。真実はわからない。それでいいのではないだろうか。三目並べの相手が誰かわからない。それで十分なように、人が出会って分かれていく。そのときの喜びと悲しみ。それで十分なのではないだろうか。
 「答」は、あるとき、どこか知らないところから突然あらわれるものだろう。それは役所広司が寝る前に読んでいる本のようなものである。ふと出会ったことば、それが読者のなかで、遠くの何かを呼び寄せる。ああ、そうだったのかと思う。それが「正解」かどうかは、どうでもいい。「正解」などない。ただ、何かを求める「気持ち」が、そのときそのときの「答え」を作り出す。三目並べのように。

 この映画には、ほかにもおもしろいシーンがたくさんある。役所広司が部屋を掃除するとき、新聞紙をクシャクシャにしてバケツの水で濡らす。それを畳の上に散らばす。そのあと、箒で掃き集める。埃を舞い上がらせずに集める工夫である。昔なら茶殻でやったことである。ここには、まあ、昔からの知恵が引き継がれているのだが、その知恵の奥には、「ものを最後までつかいきる」という思想が生きている。新聞紙を捨てる、茶殻を捨てる。でも、その前に、その新聞紙、茶殻にひとばたらきしてもらう。それは役所広司が新刊本ではなく古本を買うところ、そして読むところ、あるいは昭和のカセットテープを聞くところにもあらわれている。つかえるまでつかう、どうつかえるか考える。それは三目並べにも通じるかもしれない。トイレに捨てられていた紙屑、と思うか、それともそこには何か、新しい「生き方」があるかもしれないと思うか。それが何になるか、わからない。けれども、なんとか「つかってみる」。それは、なんというか、「新しい自分自身の生き方」を広げることでもあると思う。
 生きているということは、なんとすばらしいことだろうと実感させてくれる映画であった、ともう一度書いておく。

 


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Estoy Loco por España(番外篇420)Obra, Juancarlos Jimenez Sastre

2023-12-30 21:50:32 | estoy loco por espana

Obra, Juancarlos Jimenez Sastre

 Dice la piedra: Tengo muchas ganas de ver cómo cambiará mi futuro si nos encontramos.
 Dice el árbol: Me preocupa cómo se reescribirá mi pasado si nos encontramos.
 Dice el hierro: No sé cómo desaparecerá mi presente si nos encontramos.

 El tiempo dice: No soy el pasado, el presente o el futuro. Es sólo el momento. De manera similar, la piedra es piedra, la madera es madera y el hierro es hierro. Sólo existe un verbo, "ser". Esto cree el verbo "encontrarse" y comienza el mundo.

 石が言った。私たちが出会うことで、私の未来はどんな風に変わるのか、私にはそれが楽しみだ。
 木が言った。私たちが出会うことで、私の過去はどんな風に書き直されるのか、私にはそれが不安だ。
 鉄が言った。私たちが出会うことで、私の現在はどんな風に消えていくのか、私にはそれがわからない。

 時が言った。私は過去でも、現在でも、未来でもない。ただの時である。同じように、石は石であり、木は木であり、鉄は鉄である。たったひとつ「ある」という動詞があるだけだ。それが「出会う」という動詞を生み出し、世界が始まる。

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Estoy Loco por España(番外篇419)Obra, Luciano González Diaz

2023-12-29 22:15:12 | estoy loco por espana

Obra, Luciano González Diaz

 La mujer le dijo al hombre: "Esta escultura mía se parece más a mí que la que miraste". Y añadió: "No me di cuenta de que me estabas mirando, porque me estaba mirando fijamente a si mismo. Pero una mente distorsionada siempre puede manifestarse en cuerpo. No puedo ocultarte nada".

 ¿Cuando fue eso?

 Sin embargo, ¿es esto posible? Aunque lo perdí todo, sólo queda para siempre el recuerdo de lo que perdí.
 ¿Fue una mujer o un hombre quien dijo eso?

 ここにいる私は、あなたに見つめられた私よりも、もっと私に似ている、と女が言った。私は、私を見つめていたので、あなたが私を見ていたとは気がつかなかったが、ゆがんだこころはいつでも肉体になってあらわれてしまうものなのね。あなたには、何も隠せない、と女は付け加えた。

 それは、いつのことだったろうか。

 しかし、こんなことがあっていいのだろうか。何もかも失ったのに、失ったという記憶だけがいつまでも残るということが。
 そう言ったのは、女だったか、男だったか。

 

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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(61)

2023-12-28 22:12:48 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 「ミニチュア」。女が紅茶にそえるレモンを薄く切っている。

レモンの薄い切れは黄色い車輪。

 一度読んだら忘れることのできない比喩である。読者が忘れらないように、レモンの輪切りをつくった女も、それを忘れることができない。
 なぜなら。
 これを書いてしまうと、詩を読む楽しみがなくなるから書かないが、「薄い」にも「切れ(る)」も、実は比喩なのだ。比喩は、ただ単に何かを別のもので言い換えることではない。言い換えられたもの(存在)と、言い換えたもの(比喩)が交錯し、その交錯する向こう側から、言い換えることでしか表現できなかったものがあらわれ、存在と比喩を超えて世界そのものに変わっていく。それを手助けする形で「薄い」と「切れ(る)」が動いている。
 ギリシャ語でも「薄い切れ」と書いてあるのか。私の勝手な想像だが「薄い一片」くらいではないだろうか。これを「切れ」と訳すところに、中井の「魔法/魔術」がある。「輪切りのレモンの薄い一片」の方が「黄色い車輪」を連想しやすい。しかし、その連想を隠すように「薄い切れ」という。そのとき、その「薄い切れ」自体が、もうひとつの比喩になっている。

 

 

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Estoy Loco por España(番外篇418)Obra, Joaquín Llorens

2023-12-28 20:45:38 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

 El hombre le preguntó al hierro.
 ¿Las líneas que se unificaron en una forma se dividirán en innumerables líneas? ¿Se unificarán varias líneas en una sola forma? Te conocí en medio de un sueño.

 El hierro le respondió al hombre.
 Para mí no existe la cuestión de si desmantelar o integrar. Sólo me muevo en busca de una forma que no existe. Había una forma en alguna parte. Hay una forma en alguna parte. Sin embargo, todavía no ha aparecido ninguna forma aquí. Mis sueños siguen moviéndose en busca de forma.

 O tal vez fuera el hierro quien hiciera la pregunta y el hombre quien respondiera.

 男が鉄に問いかけた。
 ひとつの形に統一されていた線が、無数の線に分かれていくのか。複数の線がひとつの形に統一されていくのか。私は夢の途中で君に出会った。

 鉄が男に答えた。
 解体か統合かという問いは、私には存在しない。わたしはただ存在しない形を求めて動いているだけだ。形はあった。形はある。しかし、まだ形は現れていない。形を求めて、私の夢は動きつづける。

 あるいは、問いかけたのは鉄で、答えたのは男だったかもしれない。

 

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Estoy Loco por España(番外篇417)Obra, Antonio Ignacio González Pedraza

2023-12-25 22:04:03 | estoy loco por espana

Obra, Antonio Ignacio González Pedraza
Serie: "Ciudades posibles”
Tierras, engobes, ceniza y humo.

Un edificio de cristal se refleja en el otro edificio de cristal. Otro edificio de cristal se refleja en el primer edificio. Por eso, el interior del edificio se multiplica. En el interior del edificio se mezclan trabajadores vestidos con camisas blancas. Nadie sabía qué puesto ocupaba su trabajo. Se movió de un lado a otro entre los escritorios, sin saber si algún día llegaría al lugar correcto. Aun así, hizo su trabajo con todo su corazón. Mientras el avión cruzaba el cielo azul, su cuerpo blanco se reflejaba en el cristal. Quería imaginar adónde iba el avión, pero no podía. Una nube blanca se extendió, impidiendo que la imaginación del hombre se expandiera hacia afuera. Mientras tanto, el interior del edificio se llenó con el interior de otros edificios, creando una atmósfera similar a un laberinto. Una persona conocedora declaró: "Este edificio es realmente lo único que existe en este mundo". Y añadió: "Para la imaginación no tiene sentido distinguir si el edificio de cristal en la imagen es real o el edificio en el reflejo es real". Aunque  no entendió lo que significaba, el hombre pensó que podía creer las palabras de la conocedora.

ガラスのビルに、向き合ったガラスのビルが映る。そのビルに、またガラスのビルが映る。向き合ったまま、ビルの内部が増殖する。そしてビルの内部では、白いシャツを着て働く男が混じり合う。誰も自分の仕事が、どの位置を占めているのかわからなかった。机の間を行き来するが、正しい場所へたどりつけるかどうか知らなかった。それでも心を込めて、その仕事をした。青空を飛行機が横切ると、その白い機体がガラスに映った。どこへ行くのだろうと、男と想像したかったが、できなかった。白い雲が広がってきて、男の想像力が外へ広がらないようにしてしまった。その間も、ビルの内部には、他のビルの内部が入り込み、迷宮のようになった。ある物知りが、「この世に存在するのは、ほんとうはこのビルだけである」と断言した。「ガラスのビルを映しているビルが本物なのか、映っているビルが本物なのか、想像力の中では区別する意味がないからだ」。意味はわからなかったが、男は、その物知りのことばを信じることができると思った。

 

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Estoy Loco por España(番外篇416)Obra, Antonio Guerra Alvarez

2023-12-25 17:56:34 | estoy loco por espana

Obra, Antonio Guerra Alvarez

 La sombra me estaba esperando. Justo como ese momento en el que caí al suelo, choqué con la puerta abierta y se levanté. Se convirtió en una sombra más oscura que antes por mis recuerdos y me estaba esperando.
 Ese día miré hacia atrás. Yo no estaba allí, solo una sombra donde estaba parado. "Te estaré esperando", dijo la sombra. Mamá dijo desde el otro lado. "Te estaré esperando". Entonces, desde más adentro, dijo la anciana. "Te estaré esperando". Así que volví.
 Ahora recuerdo. Esta casa era la casa de mi madre. Y luego era la casa de una anciana a la que nunca he conocido. Así que tengo que quedarme en esta casa y convertirme en madre y abuela. Yo prometí. Y luego regresé. La sombra me estaba esperando. Se convirte en una sombra aún más grande que cuando salí de casa ese día.

 影は、待っていた。床に倒れ、開いた扉にぶつかって立ち上がったあのときまま。記憶によって、あのときよりももっと濃い影になって、待っていた。
 あの日、私は振り返ってみた。私が立っていた場所に、私はいなくて、ただ影が残されていた。影は「待っている」と言った。その向こうから、お母さんが言った。「待っている」。そして、そのさらに奥からおばあさんが言った。「待っている」。だから、私は帰って来た。
 私はいま思い出す。この家はお母さんの家。そして、会ったことのないおばあさんの家。だから、私はこの家でお母さんになり、おばあさんにならなければならない。私は約束した。そして、帰って来た。影は、その私を待っていた。あの日、私が家を出たときよりも、もっと大きい影になって。

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ビム・ベンダース監督「PERFECT DAYS」(2、三浦友和の演技の問題点)

2023-12-24 17:05:51 | 映画

ビム・ベンダース監督「PERFECT DAYS」(2、三浦友和の演技の問題点)

 

映画には、それぞれ「テーマ」がある。ビム・ベンダース監督「PERFECT DAYS」の場合、テーマは「空気」、あるいは「空気の変化」である。カメラは、これを丁寧にとらえている。役所広司が目を覚ますとき、それは外の道路を老人が掃いているときである。そのときの音によって目を覚ますのは、その周辺の空気が騒音にまみれていないからである。そして、その日その日の「空気」は、その日その日によって違う。この違いは、映画を見ている私たちにはあまりはっきりとはわからないが、そこに生きている人にとっては「変化している」ことがわかる。役所広司には、それがわかっている。

ソフトを畳むとき、彼は掛け布団を左から右に半分におる。次に縦方向に畳む。ところが一回だけ、この手順が違う。くしゃっと丸める感じになる。そこにも、そのときの「空気」がある。それはそれで、役所広司が「生きている」からである。

まあ、それはおいておくとして。

毎日同じ行動をしている。同じ手順である。もちろん変わるものもある。本を読み終われば次の本を読む。車で移動しながら、きのうとは違う曲を聞く。しかし、寝る前に本を読む、音楽を聴きながら移動するということは変わらない。そして、その本、音楽のように、実は彼の周りで町の「空気」が変わっている。これを、ビム・ベンダースは、まるで変わらないもののように静かに映し出している。わからなければわからなくてもかまわないのである。華麗な映像でアピールする誰彼の映画のように、光の揺らぎ、風の動きを強調したりはしない。ただ、そこにある「空気」をそのまま受け入れて、そのままなのに、そこにほんとうは変化があるということを、感じる人が感じればいいという感じでとらえている。

それはトイレひとつにしてもそうなのだ。役所広司は、便器の見えないところを手鏡で確認している。その見えない部分が「空気」を変えることを知っているからである。彼がそこを丁寧にみがくとき、「トイレの空気」がかわり、それを利用する人の「気持ち」が変わることを知っているのである。私たちは気がつかないで生きているが、トイレを掃除する人によって、変わってしまうのだ。それが「結晶」のようにして輝くのだ、三目並べの「Tank you」である。公衆トイレを利用している孤独なだれかが、ふっと生きをしている。「生きている、こんな私でもだれかと一緒の時間を過ごした」と感じて、新しく一日を始めたのに違いない。

逆のことを想像しみればわかる。トイレがきれいに掃除されていれば、それを当然と思って使うが、汚れていたらいやだなあと思い、他のトイレを探したりする。ときには管理者に苦情をいうかもしれない。いやなときだけ存在を感じ、それにつられて自分自身の発する「空気」も変わってしまうということがあるのだ。その瞬間、他人との「関係」も何かしら変化しているのである。

「空気を読む」というのは、その場の状況を読むというよりも、その場の人間関係を読むということかもしれない。役所広司が境内でサンドイッチを食べる。少し離れたベンチで女性が同じようにランチを食べている。同じことが繰り返され、ふと、役所広司が会釈をする。女はとまどう。そのときも「空気」は変わる。そして、その変わった空気は境内の木や木漏れ日さえも変化させる。

この映画は、そういうものをとても丁寧にとらえた、大変な野心作である。そして、前半はそれが大成功している。

その「空気」が突然、先に書いた三目並べの「Thank you」という返事や、「この木はおじさんの友達なの」という姪のことばになって形を変えるとき、私は、どうしても涙を流してしまう。人は誰でも、口に出してはいわないけれど、「好き」なひと、「好き」なものがある。大切にしたいものがある。そこには「事件」ではなく、ただ「空気」の共有がある。「好き」といっしょに生きたいという願いがある。祈りの「空気」の共有がある。

三浦友和の演じた役は、たしかに難しい役である。彼は自分の癌が転移したというようなことをいう。この映画の中で唯一、はっきりした「行動の理由」がことばで説明される部分である。癌が転移したと説明せずに、「ただ謝りたかった、いや違う、一目あっておきたかった」と、この映画を展開できれば、それはとてもよかったと思う。しかし、三浦友和には、そういう演技はできない。ことばの説明があってさえ、それを肉体として真実化できない。言い換えると「空気」にできない。それが最後の最後、影踏みごっこの無残な演技になっている。「空気」になってしまわないといけないのに、なんともいえない無様な感じになってしまっている。「何かがあって、それでも変わらないものなどあるものか」という役所広司の悲痛な叫びは、「空気」は必ず変わる。つまり人間は必ず変わる。そのとき、世界も(気がつかないかもしれないけれど)変わっているはずだという願いが、三浦友和の下手くそな演技によって「空気」ではなく「ストーリーの説明」に格下げされてしまった。「ストーリー」なんかなくていいのに、「ストーリー」という安っぽい説明が大手を振ってしまうことになってしまった。

ほんとうに、残念。

 

追加でもう一つ。ラストシーンの役所広司の顔の演技。それはそれでいいが、「空気」という点からいうと、重すぎる。私は、ふいに原田美枝子が主演した「愛を乞うひと」のラストシーンを思い出した。バスの中。原田が思い出を語っている。バスが道路を曲がる。その瞬間、夕日の色がカメラに飛び込んで画面全体の色のトーンが変わる。「心理状況(空気)」の変化と外の「空気」の変化が重なり、私は、やっぱりそこで泣いてしまったのだが、役所広司の出たこの映画では、そういう「空気」の変化が目まぐるしすぎて、なんだか過剰である。前半の抑制された「空気」の変化でしめくくってほしかったと思う。

まあ、こういう変化になってしまったのも、あの三浦友和の演技のせいだなあ、と私は思ってしまう。

役所広司の演じる主人公の妹が高級車で乗り着けてくるまでの部分は、ほんとうに傑作。前半をもう一度見に行ってもいいかなあ、と思っている。ぼんやりと見逃していた「空気」の変化があるだろう。まあ、そういうことを思い出させてくれるという点では、三浦友和は重要な仕事をしたのかもしれない。逆説的にではあるが。三浦友和の演技がなければ、前半がとてもすばらしい傑作、意欲作とは気がつかずに終わったかもしれない。

 

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ビム・ベンダース監督「PERFECT DAYS」 (★★★★)

2023-12-23 17:30:00 | 映画

ビム・ベンダース監督「PERFECT DAYS」 (★★★★)(2023年12月23日、キノシネマ福岡、スクリーン1)

監督 ビム・ベンダース 出演 役所広司

 前半、役所広司がたんたんとトイレ掃除をするシーンがいい。毎日、同じことの繰り返し。そしてそれは彼だけのことではない。彼のアパートの近くに住む老人は、毎朝同じ時間に道路を掃いている。そのホウキの音を「目覚まし」のかわりにして役所広司は目を覚ます。布団をたたむときも手順が決まっている。掛け布団を左側から右側へ二つにおる。それをさらに縦におる。その上に枕を置く。敷布団を三つに追って左側に置く。その上に、さっき畳んだ掛け布団と待ちらを置く。それから歯を磨き、仕事の途中で見つけてきた植物(植木にしている)に水をやる。車で出かけるとき、かならず自販機から缶コーヒーを買う……。何も変わらないところが、とてもおもしろい。繰り返して見せるところが、とてもいい。

 好きなシーンが二つある。ひとつは、掃除の途中でみつけた○×を三つ並べたら勝ちというゲームをやるところ。相手は誰かわからない。最後に「Thank you」という文字が残される。ふいに、私は泣いてしまう。みんな誰かと出会いたがっている。

もう一つは、姪との会話。姪が、神社の境内で「この木は、おじさんの友達?」と訪ねる。それが、とても自然でいい。何いわない木と友達。それが姪にわかる。だから、確認のために聞いたのだ。この瞬間、役所広司と姪は、しっかりと出会っている。出会っていることを、わかりあっている。ここでも、私は泣いてしまった。

半分ことばになって(行動になって)、半分ことばにならない。そういうところにも「交流」がある。

ほかにも、銭湯や、古本屋、それから写真店(現像店)、駅の近くの居酒屋というよりも一杯飲み屋(立ち飲み屋)の交流もとてもいい。ことばではなく、「気心」で交流している。触れ合うけれど、他人には立ち入らない。そこには、なんというか「倫理」のような美しさがある。

それに比べるとがっかりしてしまうのは、三浦友和との「影踏み」のシーン。たぶん、これは役所広司がアドリブで「影踏み」を追加しようといって実現したシーンだと思うのだが、このアドリブに三浦友和がついていけない。何のために影踏み遊びをするのか、その意味がわかっていない。無意味の意味(重要性)をわかっていない。三浦友和は「結論」がないと演技できないタイプの役者なのだろう。「結末」と自分との関係が明確でないと、何をしていいか、わからない。途中で現れ、途中で消えていくというのは「人生」のなかで何回も起きる出会いだが、その「結論」とは無関係な「役」というものを理解できないのだろう。

あのシーンは、それがなかったら、その直前の役所広司のセリフが重くなりすぎる。「何かが変わらないものってあるものか」という悲痛な叫びが重たくてやりきれなくなってしまう。それを開放するとても重要なシーンなのに、なんともみっともない芝居をしている。

だから、なんというか。

最後の最後、役所広司がひとりで車を運転しながら「演技」する。それはそれでいいのかもしれないが、長すぎる。もっと短く、車が走るのにつれて太陽の光がカメラに入ってきたり陰ったりという「空気」の流れにこそ演技をさせないといけないのに、と思ってしまう。東京の、あるいは日本の「空気」をとてもよく伝えるとてもいい映画だが、三浦友和の下手くそな演技が映画を壊してしまった。

三浦友和の出るシーンを撮り直してもらいたい、と私は切実に願わずにはいられない。

 

 

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読売新聞の書き方

2023-12-22 10:38:39 | 読売新聞を読む

 読売新聞に限ったことではないが、私は「内容」よりも書き方に対して頭に来ることがある。最近話題になっている自民党の裏金づくり。「派閥」に限定して報道されているが、それは派閥の問題ではなく、自民党の問題だろう。つまり、岸田に責任があるのだ。
 それを書いているときりがないので、きょう取り上げるのは、次の文章。(2023年読売新聞12月22日朝刊、14版、西部版)「派閥幹部の立件に壁、指示・了承の証拠が焦点に…裏金疑惑任意聴取へ」という見出しで、こう書いてある。

 自民党派閥のパーティーを巡る政治資金規正法違反事件は、東京地検特捜部が「清和政策研究会」(安倍派)幹部らに対する任意の事情聴取に乗り出すことで、「派閥主導」とされる裏金疑惑の本格的な解明に移る。焦点は、直近5年間で5億円規模に上る不記載に国会議員の関与があったかどうかだが、立件のハードルは高い。(社会部 坂本早希、岡部哲也)
 「派閥を舞台にした『裏金作り』システムの詳細を見極めるには、幹部からの聴取は不可欠だ」。ある検察幹部は、近く始まる派閥中枢への聴取の意味をそう語った。
 政治資金収支報告書の作成・提出義務がある同派の会計責任者は、所属議員側へのキックバック(還流)分の不記載を認めている。今後の捜査では、同法違反(不記載、虚偽記入)容疑での立件対象が同派幹部に及ぶかどうかが最大の焦点だ。幹部の立件は会計責任者との「共謀」が成立する場合に事実上限られ、幹部による明確な指示、報告・了承のプロセスを立証する必要がある。

 国会議員の立件は難しい。「共謀」、つまり、国会議員の明確な指示、報告・了承のプロセスを立証しなければならないからだ。
 これはこれから起きることの「予測」を、「客観的」に書いているのだが、それはあくまで読売新聞が主張する「客観的」である。検察の立場でもなく、国会議員の立場でもなく、たんたんと書いている。しかし、そこには「国民の視線」がない。国民の視線がないことを「客観的」ということばでごまかしている。
 いいなおそう。
 読売新聞は今回の事件(まだ事件ではない、と読売新聞は言うだろう。立件されていないのだから)を、どうとらえているのか、この書き方ではわからない。「客観的」では、わからない。自民党に対して怒っているか、裏金づくりを受け入れているのか、それがわからない。
 もし怒っているのなら、「事件」の真相解明を検察だけに任せるのではなく、記者の手で資料をかき集め、分析し、さらに当事者に取材し問題点を暴き出す必要があるだろう。そういう「熱意」が先に引用した文章からは伝わってこない。
 逆に、こういうことが伝わってくる。
 今回の事件は立件が難しい。つまり、国会議員は逮捕されない。逮捕されたとしても、そ起訴されない。起訴されたとしても有罪にはならない。そう「予測」し、そういう情報で「国民の怒り」を鎮めようとしているのだ。逮捕されなくても、怒らないで、国民にこっそり呼びかけているのだ。これが法律というものなんですよ、社会というものなんですよ、わかってね、とアドバルーンを上げているのだ。
 もし、この記事に対して読者から批判が殺到したとしたら、そのときは少しトーンを変える。そういうことも想定しながら、読者(国民)の反応をみている。もし、ああ、そういうものなのかと読者(国民)が納得したら、国民も立件見送りを受け入れているという形で世論を誘導していくだろう。そういう誘導のための「準備」なのである。
 今回の記事は「特ダネ」でもなんでもないが、多くの政府関係の「特ダネ」はそういうものである。政府の方針を新聞で知らせる。そのあとで政府が発表する。そうすると、最初に聞いたときの衝撃(反応)は、いくぶん鈍くなる。
 二度目だからね。
 この「二度目」あるいは「三度目」という印象づくりのために、読売新聞は、わかったような記事を書いている。
 真実に迫る、という気迫がない。新聞は第三の権力と呼ばれた時代があったが、いまは政権の下請けをやっている。そういうことが、はっきりとわかる書き方である。だから、読売新聞はおもしろい。これから起きることが、ほんとうによくわかる。

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デジタル化という罠

2023-12-18 20:00:49 | 考える日記

 パソコンがダウンした。電源を切ろうにも、マウスも反応しない。私はたまたま予備のパソコンをもっていたから対応できるが、予備のパソコンのないひとはどうするのだろうか。
 ウィルス対策のメーカーと話していてわかったのだが、パソコンの(ハードディスクの)寿命は4-5年くらいらしい。もちろん、こまめなメンテナンスをすれば、もっとのびるのだろうけれど。
 しかし、そんなことを熟知してパソコンを買うひとが何人いるだろうか。
 そう思ったとき、また、別の風景が見えてきた。
 私は年金生活者で、預金もない。こういう人間が、デジタル社会にどう対応すればいいのか。パソコンが動いているあいだはなんとか社会についていけるかもしれない。スマートフォンが動いているあいだは、やはりついていけるかもしれない。
 しかし、そういうものがいったん故障したら? 動かなくなったら?
 情報から完全に取り残されてしまう。「苦情」も、いまは電話ではなく、メール対応だ。だれに助けを求めるにも、デジタルをとおしてでしかつながらない。
 もし、それが不安なら。
 ここからだね、私がいいたいほんとうのことは。
 常にデジタル危機を「生きた」状態にしておかないといけない。しかも、デジタル情報はどんどん拡大していて、それに対応するためには「新しい機器」が必要である。私は「初代」のiPadをもっているが、それはもう目覚ましにつかっているだけだ。得たい情報は、「初代」では入手できない。アプリが更新されていて、そのアプリに「初代」は対応していない。だから、私は泣く泣く別のiPadを買ったが、これにしたっていつまで「最新アプリ」に対応できるかわからない。
 スマートフォンも同じだ。私は2年前、スペインへ旅行したが、旅行するためにアプリが必要だった。それは古いスマートフォンでは対応しない。しかたなく、新しいスマートフォンを買った。それも、いまでは「旧式」だ。
 つまり、デジタル情報社会を生きていくためには、実は、常に新しい機器を買わないといけない。
 これって、強欲な資本主義のひとつの形ではないのか。新しい製品を買わせ続けるための「方便」なのではないのか。
 なんにでも寿命はある。それは知っている。洗濯機だって冷蔵庫だって、いつかは故障する。しかし、デジタル機器ほどのスピードで「更新」を強要されるものはないだろう。
 いつだったか、老後(60歳以降)をそれなりに生活するためには、夫婦二人で2000万円の貯蓄が必要といわれたことがあったが、その2000万円に、この「デジタル機器の更新費」は含まれているか。きっと、想定されていないだろう。

 貧乏になって、初めて見えてくる「社会の罠」というものがある。そのひとつが、このデジタル機器の寿命(更新の必要性)だ。もし政府が本気で「デジタル化社会」の推進を考えているのなら(つまり、メーカーの言いなりになって、デジタル機器の売り上げで景気回復を狙っているのでないなら)、老人がどうやって「デジタル機器を更新するか」ということを明示しないといけない。
 今後、私が体験したようなことは、どんどん起きてくる。パソコンやスマートフォンはもっている。しかし、それが動かない。そうすると、故障したパソコンやスマートフォンをもっているひとは、情報を手に入れることができないし、情報の交換もできない。これは、考えてみれば、高齢者に「政府批判/政治批判」をさせないための、新しい方法なのだ。
 新しいデジタル機器を買えない老人は、政治に文句を言えない。「苦情はメールで受け付けています」と、ひとことで拒否されてしまう。そういう世の中が、すぐそこまで来ている。「デジタル格差」というのは、デジタル情報に対応できる「知識/知的能力」があるかどうかだけの問題ではなく、「経済能力」があるかどうかも含めているということを思い出さなければならない。

 

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Estoy Loco por España(番外篇416)Obra, Jesus Coyto Pablo

2023-12-17 22:08:43 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo

 

 ¿Quién hizo la pregunta qué es el color?  Y ¿quién respondió que es algo que trasciende la forma? O ¿quién hizo la pregunta qué es la forma? Y ¿quién respondió que es algo que sustenta el color?  Lo que recuerdo es que el diálogo era similar a una pregunta y respuesta sobre qué es una metáfora.
 Cuando algo objeto se expresa por otra cosa (por ejemplo, la opacidad del azul, la forma irregular de un papel rasgado o una metáfora), el objeto representado (la realidad) se esconde detrás de la representación. Colores, formas y palabras metafóricas pasan a primer plano. Sin embargo, lo que debería estar oculto detrás de esa representación, lo que debería haber retrocedido, irrumpe y aparece. No es azul. No es un papel rasgado. No hay palabras para expresarlo. Las cosas grandes que no se pueden representar con precisión existen frente a nuestros ojos, superando los colores, las formas o metáforas, es decir, representaciones. En ese momento, el arte está completo. ¿Quién habría llegado a esa conclusión?
 No lo recuerdo, pero esa pregunta y esa respuesta vuelven a mí.

 色とは何か、と質問したのは誰か。形を超えるもの、と答えたのは誰か。あるいは形とは何か、色を支えるものという応答だったかもしれない。私が思い出せるのは、その対話は比喩とは何かという問答に似ているということだ。
 ある存在を、特定の別のもので(たとえば青の不透明さ、たとえば破れた紙の不規則な形、あるいは比喩で)で表現するとき、表現された対象(実在)は表象の背後に退いていく。色や、形、比喩のことばが前面に出てくる。しかし、その表象の背後に隠されたはずのもも、退いたはずのものが、表象を突き破ってあらわれてくる。青ではない。破れた紙ではない。そう表現することばでもない。正確に表象されなかったものが、色や形、あるいは比喩のことば、つまり表象をつきやぶって、目の前に存在してしまう。その瞬間に、芸術は完成する。それは誰がたどりついた結論だっただろうか。
 思い出せないけれど、あの問答がよみがえってくる。

 

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「ノルマ」ということば(その2)

2023-12-16 21:05:12 | 読売新聞を読む

 ノルマについて書いた途端、読売新聞のオンラインに、「自民の元派閥幹部「パーティー券100枚、200万円分がノルマ」…届かなければ自腹も」という記事が書かれた。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20231214-OYT1T50255/ 

 そこには、こう書いてある。

 自民党のある派閥幹部経験者が読売新聞の取材に応じ、派閥のパーティー券販売の実態などについて証言した。
 この元派閥幹部の場合、パーティー券100枚(1枚2万円)200万円分がノルマだった。企業などに購入を依頼するが、ノルマに届かない分は自らが負担することもあったという。「ノルマをこなすのは大変だ。多くの議員はそこまで余裕をもって売れていなかったはずだ」と話す。

 どんな世界でも「ノルマ」が課せられれば、それが達成できないときは「罰則」がある。自腹を切る(自分で負担する)は、ことばこそ違うが実態は「罰則」。
 読売新聞の所在に応じた「自民党のある派閥幹部経験者」は明言していないが、「自腹を切る」ひとがいるかぎり、その逆も絶対に想定されている。毎回自腹を切っていたら、やっていけない。どうしたってノルマ達成者には見返り(報酬=キックバック)があるはず。それがあるから、ときには自腹を切ることもできる。
 だから、これはトップが一方的に指示しているのではなく、全員が「合意」にもとづいておこなっていること、と見るべきなのである。

 検察が何人かの議員を聴取したとも聴くが、多額のキックバックを受け取った議員だけではなく、全議員、その秘書らをふくめて調べるべきである。議員は、秘書に「キックバックがあるから、パーティ券を売りまくれ」とハッパをかけているはずなのである。
 「ノルマ」ということばを聞いた瞬間に、そういう情景が思い浮かばないとしたら、それはジャーナリストが、あまりにのうのうと仕事をしている証拠だろう。
 さらに言えば、政府関係者からの「リーク」をたよりに特ダネという名の「宣伝記事」を書いているから、そういう「仕組み」を知っていても、いままで黙っていたということだろう。

 これはね、だから、ジャニーズの性被害や、宝塚歌劇団の「いじめ」と同質の問題なのである。ジャーナリストならだれもが知っている、でも書くと取材できなくなる恐れがある。だから、書かない。そういう「構造」が日本のジャーナリズムに根づいてしまっているのだ。

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「ノルマ」ということば

2023-12-16 09:44:06 | 読売新聞を読む

 安倍派の「裏金問題」が話題になっている。誰が主導したか、があれこれいわれているが、私が不思議に思ってしようがないのが、これがどうしていままで表沙汰にならなかったかということである。
 2023年12月16日の読売新聞(西部版・14版)に、こういう表現がある。

関係者によると、安倍派ではパーティー券販売のノルマ超過分を議員側に還流し、派閥側、議員側双方の収支報告書に収支を記載せず裏金化していた疑いがある。還流分は2018~22年の5年間で計5億円に上るとみられている。

 「ノルマ」ということばがある。このことばは、このニュースが報じられた最初のころからつかわれていた。
 ノルマということばは、何を意味するか。「義務」である。ノルマが設定されるとき、同時にノルマが達成されないときには罰則がある。それは裏を返せば、達成すればなんらかの報酬があるということでもある。
 つまり、ノルマということばが発せられたときから、罰金・報酬はセットになっていた。パーティー券を売り出したときから、「キックバック」は販売している人間にとっては「期待値」であったはずだ。
 言い直せば。
 それは誰が主導したのでもなく、自民党の「体質」そのものなのだ。
 有権者(もちろん大企業も、そこに働いているひとがいる以上、抽象的な有権者と言えるだろう)から金を吸い上げ(安倍は、確か、税金のことを「国民から吸い上げた金」と表現していた)、たくさん集まったらテキトウに自分たちの都合のいいようにつかおうと考えている。
 消費税がその「好例」である。福祉目的といいながら福祉につかわれるのは本の一部。大半は、企業の法人税減税の穴埋めにつかわれている。なぜ法人税の穴埋めにつかうかといえば、企業を優遇すれば企業から献金がある(政治資金パーティー券を買ってもらえる)。その献金が多ければ、使い道を隠して(裏金としてプールし)、都合のいいようにつかうことができる。
 「ノルマ」ということばをつかっていいかどうかわからないが。
 この消費税→福祉予算というものにこそ「ノルマ」が設定されるべきなのだ。福祉予算は総額いくら(ノルマ)である。その全額を消費税でまかない、そこにもし「余剰」が生じたなら、それを積み立てておいて次の予算に福祉予算にまわす、あるいは他の予算にまわすことを検討するというのが、「消費税→福祉予算」という構図のなかで考えられる「ノルマ」だろう。
 でも、実際は、逆に操作されている。法人税を減税する。福祉をふくめて支出予算が減る。穴埋めが必要だ。その穴埋めに消費税収入をつかう。この仕組みなら、企業からの献金は減らない。逆に、増えるかもしれない。実際、パーティー券の収入が「ノルマ」を超えているのは、企業が「進んで」パーティー券の購入をしているからだろう。議員の秘書たちが「進んで」パーティー券を販売しているのは、「ノルマ」を超えたら、それがキックバックされると知っているからだろう。
 資金集めパーティーというものが設定された段階で、そういう「話」はできあがっていたはずである。
 だれが「ノルマ」を決めるか、「ノルマ」はどうやって資金集めをするひとに伝えられるか。金の流れではなく、「ノルマ情報」の流れを追及すれば、今回の問題の「本質」がわかるはずである。5億円という金額ばかりが問題にされているが、それを問題にするのは、「情報の流れ/情報の共有方法」を隠すための「方便」のようにも、私には思えてしまう。

 「ノルマ」ということばを、いつ、どんなふうにつかうか。自分の経験と引き合わせながら考えれば、報道の「裏」に隠されたものが見えてくるはずだ。この「裏」ということばを、ジャーナリズム「書いていない事実」という意味でつかう。ある情報があるとき、「裏を取れ」というのは、補強材料としての事実を集めろという意味だが、それは何かのときに「表」に出てくるだけで、表に出さなくてもすむときは「裏」におかれたままである。

 

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