詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(195)(未刊・補遺20)

2014-10-02 10:35:07 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(195)(未刊・補遺20)2014年10月02日(木曜日)

 「引き出しより」は引き出しの中から昔の男の写真がでてきたときのことを書いている。額に入れて壁にかけようとした。それくらい思い出のある男なのだ。「だが引き出しの湿気が駄目にしていた」。「もっと大切にしまうのだった。」と後悔するが、もうどうすることもできない。「あのくちびる、あの面差し……/ああ、過去が帰るものなら……」と思う。

この写真を額に入れるのはやめよう。

駄目になったままでがまんして見てゆこう。

駄目になっていなかったとしたら、それはそれで
困っていただろう、この写真のことを聞かれる度に
言葉遣いから、声の震えからばれはしまいかと
気がかりで悩んでいただろうから。

 最終連がカヴァフィスらしいことばの動きだ。
 人の隠しごとがばれるときいろいろなことがある。何も言わなくても、目の動きを初めとする表情や、ふるまいのぎごちなさから、こころの動揺がわかるときがある。カヴァフィスはそういうことには触れず、

言葉遣いから、声の震えから

 と書いている。根っからの「ことば」の人である。しかも、その「ことば」は書きことばではない。話すことば。「口語」である。息が肉体の中から喉を通り抜けてくるときの音。ガヴァフィスは、それに耳を澄ましている。
 その音の変化から何かがばれやしまいか、と思うのは、カヴァフィスに、音の変化から何らかの秘密を感じ取った経験があるからだろう。
 カヴァフィスの詩には「口語(話しことば)」が頻繁に出てくるが、そこには「意味」だけではなく、「声の響き」も含まれているはずだ。
 中井久夫は、その「声の響き」を聞き分け、それにふさわしいことばを選びつづけている。カヴァフィスも中井久夫も、「他人の声(肉声の響き)」を聞きとる耳を持っている。「意味」も聞きとるが、耳で感情(主観)をぱっとつかまえて、それを舌にのせて表現する。そのたびに、そこに「人間」が「肉体」をもってあらわれる。
 「意味」は要約し、共有できるが「肉体」は要約できないし、共有もできない。「肉体」はひとりひとりのものである。ひとりひとりが動き、世界ができている--「全詩集」を読み通すと、そういうことが感じられる。「複数の声」が世界をにぎやかにしていることが実感できる。
                (「カヴァフィスを読む」は今回が最終回です。)




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中井久夫訳カヴァフィスを読む(194)(未刊・補遺19)

2014-10-01 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(194)(未刊・補遺19)

 「囚われの身となって」の背景はわからないのだが、

このところ民衆語の歌を読んできた私。

 とはじまる、その「民衆語」ということばがおもしろい。「民衆語」とはなにか。民衆の話すことばをそのまま書き記したものか。似た表現が三連目にもある。

だが、私の感動の最たるものは
トレビゾンドの風変わりな方言の歌。
このさいはてのギリシャの民は
思いつづけてきたのだ、まだいつか救いが来るぞと。

 「方言」。「方言」は「民衆語」だろう。その土地の「民衆」が話すことば。書かれた文字ではなく、口に出されたことば。
 それが、次の連と向き合う。

だが、ああ、不運の鳥が「君府より来たりて」
「その小さき翼に字の書かれたる紙を載せ
だが 葡萄の樹にも果樹園にも棲まず、
飛び去りて糸杉の根かたに巣を作れり」。

 引用されているこのことば、これは「方言(民衆語)」だろうか。「文語」である。どこにも「口語」の響きがない。
 これは、どういうことだろう。
 私は想像するのだが、「方言(民衆語)」というのは古いことばの形を残している。つまり「歴史のことば」、「文語」に通じる。
 こういうことは日本語にもある。たとえば富山の古い方言(いまではいう人が少ないが)では、「歯茎」のことを「はじし」と言った。「くき」を「じし」と訛っているのではなく、これは「歯+肉(しし)」が変化して「はじし」になっている。「古語」の「しし(肉)」が残っているのである。
 いつまでも残っていることばの力。そこに、「思いつづけてきた」が重なる。「思い」と「つづける」が人間を支えている。その「思い」に耳をすませるとき、「意味」は音を超えて自然につながる。

「読み、すすり泣き、胸のとどろきの高まり。
ああ、われらの不運、ギリシャ囚わる」。

 「方言」を「文語体」に訳した中井久夫の工夫、耳のよさが印象に残る。


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中井久夫訳カヴァフィスを読む(193)(未刊・補遺18)

2014-09-30 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(193)

 「貨幣」はインドの文字を刻んだ貨幣について書かれた詩である。ただし、実際にその貨幣を手にしての詩ではなく、それについて書かれた本を読んでいるのだろう。「この物知りな本は」ということばが詩の中にあるから。その貨幣は、王国の名前が刻んであり、それは「この物知りな本」によれば、

エプクラチンタザ、ストラタガ、
マナントラザ、エアマイアザ。

 こういう固有名詞を並べる時、詩人は何を思っているのだろう。音のおもしろさ、知らない音に触れた時の不思議な感じが、それをそのまま引用させているのだと思う。そういう知らないものに触れた後、知っていることがあらわれると、「肉体」のなかに何かがめざめる感じがする。

だが この本はまた見せてくれる、
もう片面、そう、裏側に、王の姿を。
おお、ギリシャ人ならここで眼がぴたりと止まる。
そして感動する。ヘルマイオス、エウクラティデス、
ストラトン、メナンドロスとギリシャ語が続くからには。

 「音」のなかには「意味」以上のものがある。土地の名前、人の名前、その「音」から、それがどこか、何に帰属しているかがわかる。
 この詩は、インドの貨幣のなにかギリシャに通じる音(名前)を見つけ、インドとギリシャの交流(つながり)を発見し、喜んでいる詩であるという具合に読むことができるが、そういう「意味」よりも、私はカヴァフィスは音の発見に喜んでいるように感じる。
 インドにはインドの音があり、ギリシャにはギリシャの音がある。ギリシャの音はもちろんカヴァフィスには馴染みのものだが、インドの音に触れた後ギリシャの音に触れると、瞬間的に「眼がぴたりと止まる。/そして感動する。」ということが起きる。この瞬間のことをこそ、カヴァフィスは描きたかったのだろうと思う。
 それに先立つ一行、

もう片面、そう、裏側に、王の姿を。

 このリズムの躍動感。こころがすばやく動いている感じがそれを明瞭に伝える。読点「、」を多用した中井久夫の訳がすばらしい。感情の「意味」(主観)は、こういう呼吸の変化(読点のリズム)によって、「肉体」に迫ってくる。
 原詩(ギリシャ語)を知らずに書くのは無責任だとは思うが、この詩は中井久夫の訳によって、原詩よりも輝いていると思う。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(192)(未刊・補遺17)

2014-09-29 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(192)(未刊・補遺17)2014年09月29日(月曜日)

 「ソシビオスの大宴会」。ソシビオスとは、中井久夫の注釈によれば「前三世紀プトレマイオス三世フィロバトルの大臣」。そこで大宴会が開かれる、そこに招かれているので行かなければならないのだが、詩の前半はそのことがまったく書かれていない。

私の午後は申し分なかった。まったくなし。
櫂はいともかろやかに水面に触れる。櫂の愛撫。

 それぞれの行が、行のなかで同じことを繰り返している。「申し分なかった。まったくなし」「櫂は水面に触れる」「櫂の愛撫」--繰り返すことで、その「時間」に酔っている。満足するだけではなく、その満足をもう一度味わっている。
 これをもう一度、別な言い方で言いなおしている。

あまやかに滑らかなアレクサンドリアの海よ。
この息抜きが入り用だった。仕事がきつかったもの。

 仕事を終え、午後のあまった時間を仕事以外のことにつかって息抜きしている。
 繰り返しの、甘いことばの響きは、なにかしらセックスを想像させる。「愛撫」や「息抜き」ということばが、それを補足している。「あまやかに滑らかなアレクサンドリアの海よ。」という広がるような音の響きと、最後の「よ」という詠嘆がここちよい。
 それにつづく三連目の、

時にはものを見る目が無邪気に優しくなったと思う。

 この一行も美しい。「無邪気」という濁音を含んだ音が、耳に気持ちがいい。「音」を楽しんでいる。ことばの音楽を悦ぶ耳がある。
 これがこのあと「別の遊びに変える潮時だ」ということばから、がらりとかわる。

名家(言ってしまえば大ソシビオス夫妻)の
宴に招かれている。

戻らねば、われらの陰謀に、
またしてもうんざりの政争に。

 それまでの伸びやかな、伸びやかゆえにどうしても長くなってしまう行から一転して、ばっさりとたたききったような行。音。「言ってしまえば」という「主観」をむき出しにしたことば。
 「陰謀」「政争」ということばが、前半と「対照」をつくっている。前半は、やはり愛の睦言の世界なのである。


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中井久夫訳カヴァフィスを読む(191)(未刊・補遺16)

2014-09-28 11:07:37 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(191)(未刊・補遺16)2014年09月28日(日曜日)

 「庭付きの家」は庭付きの家がほしい、という欲望を描いている。しかし家でも庭でもなく、ほんとうは動物が飼いたい。そのためには庭付きの家が必要だ。どんな動物を飼うのか。

何をさておき猫が七匹。二匹はつやのよい黒猫。
二匹は雪白の白猫。対照さ。

 残り三匹については書いていないが、「対照」ということばがここで出てくるのが面白い。対照によって、それぞれが明確になる。「一九〇六年六月二七日午後二時」では嘆く母親と絞首刑された息子の沈黙が対照になっていた。嘆く母親は大地を転がりまわる。息子は空中に「若い形のよい身体」をまっすぐに垂れさがらせている。
 この猫の後の「対照」がおもしろい。

目立つ鸚鵡が一羽。派手にいわれた通りを
しゃべくるのが聞きたい。
犬は三匹でいい。
馬も二頭いるといいな(小さい馬がすてきだね)。
それから必ずあの愛らしいすばらしい獣、
そう、ロバ、だらしなくロバに乗り、
あの頭をなでるためさ。

 鸚鵡が「派手にいわれた通りを/しゃべくる」のなら、犬は黙っていわれた通りをするのだろう。不思議な「対照」がそこに省略されている。
 さらに馬とロバ。ロバは何頭とは書かれていないが、一頭だろう。馬は乗るため、ロバも乗るためだが、乗ってどこかへ行くことを目的とはしていない。乗って、そのロバの頭をなでる。何かを伝える、無意味なことを伝えて、時間をすごす。「一体」になって時間をすごすためである。
 そのロバを「愛らしいすばらしい獣」と呼ぶのに対し、カヴァフィス自身を「だらしなく(乗る)」と描写し、対比させているのもおもしろい。「だらしない」時間を受け入れてくれる動物がほしいのだ。
 ただ「だらしない」時間をすごしたい。そのために庭付きの家がほしい。「だらしない」感じをカムフラージュするために、馬が、犬が、鸚鵡が、猫が必要なのだ。
 引用では省略した部分に、庭には花や樹木、野菜はあった方がいい。あってしかるべきだ。「見た目がよいから」とある。ロバだけを飼って、だらしなく乗って、頭をなでているだけでは「見た目」はよくない。それを偽装するために、ほかの動物たちも飼いたい、ということなのかもしれない。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(190)(未刊・補遺15)

2014-09-27 09:27:27 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(190)(未刊・補遺15)2014年09月27日(土曜日)

 「一九〇六年六月二七日午後二時」は公開処刑の様子を描いている。息子が処刑される場に立ち会った母親の姿。

「ああ、たったの十七年。十七年だ。一緒にいたのは!」
息子が絞首台の階段を登らされ、
十七歳の若い無実の首にロープが廻され、
絞められて、若い形の良い身体が
中空にあわれに垂れさがって、
暗い怒りのすすり泣きがたえだえに聞こえてきた時、
犠牲の母は大地に転がりまわった。
彼女の嘆きはもう歳月ではなかった。
「たったの十七日」と彼女は号泣した。
「おまえとおれたのはたったの十七日だったよお」

 「十七年」が「十七日」にかわっている。区別ができなくなっている。混乱している。それが母親の嘆きの深さを語っている。
 原文がわからないので推測だが、この「十七年」と「十七日」は「十七年」と「十七」かもしれない。後の嘆きは「歳月」をあらわす序数詞をもたないかもしれない。どのような時間の「単位」を選ぶかは、読者に任されているかもしれない。それを中井久夫は、対比が明確になるように「日」を補って訳したのかもしれない。
 この母の激しい動き(精神の混乱)を描くと同時に、カヴァフィスは、絞首刑にあった青年の姿も描いている。

十七歳の若い無実の首にロープが廻され、
絞められて、若い形の良い身体が
中空にあわれに垂れさがって、

 この描写は母親の描写に比べると、とても静的である。この「静」があって、母の「動」の激しさがより際立つ。
 また「若い形の良い身体」という表現がなまめかしい。美しい身体には死が似合う。それも不幸な死が似合う。これはカヴァフィスの好みなのかもしれない。
 若者の死に向き合いながら、こういう「感想(思い)」が動くのは不謹慎かもしれない。けれど、感情というのはいつでも不謹慎なものである。つまり、その場の「雰囲気」にあわせるよりも、まず自分の欲望にしたがって動くものである。
 それは母親の激情と同じである。母親は、そんなふうに大声で嘆くことがその場にふさわしいことかどうかなど考えない。その姿が息子の精神にどんな影響を与えるか、その母の姿をみた息子がどう思うか、など考えない。また、その場に居合わせた他人がどう思うかも考えない。同情するのか、批判するのか。そこには「主観」しかない。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(189)(未刊・補遺14)

2014-09-26 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(189)

 「敵」はソフィストの「認識」を書いている。あるいは、ことば(認識)への評価の問題について書いている。名声は羨みの種を蒔く。「きみらには敵がいる」というコンスルに対してひとりのソフィストが答える。

「わたしどもと同世代の敵は大丈夫でございます。
わたしどもの敵は後から来るのでございます。新手のソフィストどもです。
われわれが老いさらばえて、みじめに寝台に横たわり、
あるものははやハデスに入った時です。今の
ことばとわれわれの本はおかしく思われ、滑稽にも思われましょうな。
敵がソフィストの道を変え、文体を変え、流行を変えるからでございます。
私たちも、過去をそういうふうに変えてきましたもの。
私らが正確、美的といたすものを
敵は無趣味、表面的といたすでございましょう。

 ことばはいつでも言いかえられる。批判される。新しい基準が提唱され、文体も変われば流行も変わる。それは自分たちがしてきこことと同じだ。同じことが繰り返される。それがことばの「歴史」なのだとソフィストは言っている。
 これは「意味」が非常に強い詩である。「意味」が強すぎて、おもしろみに欠けるが、カヴァフィスの実際の詩のことを思うと、興味深いものがある。カヴァフィスは歴史から題材を多くとっている。「墓碑銘」のようなものもたくさん書いている。それは、史実を踏まえながらも、カヴァフィスのことばで脚色されている。つまり、「過去の書き換え」をやっている。
 そうすると、カヴァフィスもソフィスト?
 あるいはソフィストというのは、一種の詩人?
 そうなのかもしれない。人のいわなかったことばを発する。人のいわなかったことばで人をめざめさせ、新しいことばの「流行」をつくる。--これはソフィストか詩人か、よくわからない。

 この作品は、そういう「意味」とは別に、奇妙なおもしろさがある。中井久夫の訳がかなり風変わりだ。「わたしども」「われわれ」「私たち」「私ら」と「主語」の表記が少しずつ違う。(引用の後の方には「私ども」も登場する。)ふつう、こういう「話法」はとられない。「主語」の書き方はひとつだ。
 これは中井久夫が「わざと」そうしたのだろうか。
 ことば、文体、表記は、常に変わるものである。そういうことを、のちのソフィストの実際として語るのではなく、いま/ここで話していることばさえ変わる。中井は、そういうことを「実践的」に提示して見せているのだろうか。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(188)(未刊・補遺13)

2014-09-25 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(188)(未刊・補遺13)2014年09月25日(木曜日)

 「海戦」には中井久夫の注釈がある。「前四八〇年、ペルシャ遠征艦隊はサラミス島沖でギリシャ艦隊に撃滅された。エクバタナ以下はペルシャの都市。」

あのサラミスで撃滅された我ら。
挙げる声はただ、わわわわわわわあああああぁっ。
我がエクバタナ、スサ、ペルセポリスが
世に類なき所なのに、
あのサラミスで我らは何をさがしもとめていたのだろう、
艦隊を率いて海で闘うて?
さあ、帰ろう、我らのエクバタナへ、
行くぞ、スサへ、ペルセポリスへ。

 二行目の「わわわわわわわあああああぁっ。」という意味にならない叫び、その「声」が非常に印象に残る。「意味」を言うことができない。けれど感情があふれてくる。肉体の奥から何かを吐き出したい。
 そういうの「音」(声)を出した後に、「肉体」のなかで、余分なものを捨て去った「声」が静かに動きだす。「あのサラミスで我らは何をさがしもとめていたのだろう、」という反省も動く。そして、「さあ、帰ろう、我らのエクバタナへ、/行くぞ、スサへ、ペルセポリスへ。」という行の不思議な不思議な美しさ。余分なものが何もない。
 そして「意味」を語ってしまうと、また、そのあとを感情がおいかけて、あふれてくる。それがまた「意味」にならない「音」になって、それから再び「意味」をととのえる。繰り返しだ。

ああ、ああ、この海戦を
起こさねば、しようとしなければ--。
ああ、ああ、なぜ 身を起こして
すべてを捨てて
海でみじめな戦いをしに行ったのか?

 「ああ、ああ、」の繰り返し。「意味」をととのえればととのえるほど、逆に、「意味」にならない「音(声)」が感情をあおる。

ああ、そうだ、それしかない。言える言葉はただ一つ、
ああ、ああ、ああ、だ。
そう、そのとおり。他にいう言葉があるか、
わわわわわわわわあああああぁぁぁぁぁ。

 「主観」は「意味」がなくてもつたわる。「声」(口語の音)が感情なのだ。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(187)(未刊・補遺12)

2014-09-24 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(187)

 「将軍の死」には複数の「声」があるように思える。

死は手を伸ばして
名将の眉に触れた。
夕刊が記事を載せた。
見舞い客が家に満ちた。

 この一連目はリズムがあって、省略と飛躍が各行を刺戟し合って、とても生き生きしている。特に「夕刊が記事を載せた。」が刺戟的だ。感傷を「事実」が洗っていく。「夕刊」という即物的なもの、俗物的なものが名将とぶつかる瞬間が、斬新で気持ちがいい。追いかけるようにやってくる「見舞い客が家に満ちた。」も乱暴でにぎやかだ。現代の詩であることを強く印象づける。

そと見は--沈黙と不動が彼をおおう。
内側は--生への羨望、死への脅え、愛欲のしがらみ、
愚かなしがみつき、腹立ち、畜生の思いの膿みただれた魂。

 これはあまりにも「現代詩」ふうのことばだが、動きが停滞していて、歯切れが悪い。カヴァフィスの特徴である世界を叩ききったような鮮やかさがない。
 最終連も、カヴァフィスらしくない。

重々しくうめいた。最後の息を吐いた。市民は口々に嘆いた。
「将軍去って市に何が残るか。
ああ、徳は将軍の死とともに絶えた」と。

 説明になってしまって、「主観」が動いていない。「市民は口々に嘆いた。」はカヴァフィスの「声」好みをあらわしているが、ことばが「声」になっていない。主観になっていない。「意味」になってしまっている。
 未刊詩篇の、補遺の作品は、習作という印象が強い。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(186)(未刊・補遺11)

2014-09-23 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(186)(未刊・補遺11)

 カヴァフィスは「ローエングリン」がよほど好きだったらしい。「疑惑」というタイトルで、もっ一篇詩を書いている。それが「疑惑」である。(中井久夫の訳は書き出しが二字下げになっている部分があるのだが、行頭をそろえた形で引用する。)

して最悪のことを語らむ者は誰ぞ。
(言わざれらば良きものを)。
告げ来るは誰ぞ(耳貸さぬぞ。
聴かぬ。奴はだまされたるに相違ない)
不当な告発。して、次に
呼ばう声、呼び出し係の繰り返し呼ばう声。
ローエンリングの栄光の到来--
白鳥、魔剣、聖杯--
してついにその決闘、
テルラムント ローエンリングを倒しぬ。

 最後の一行は、ワーグナーの歌劇とは趣が違う。歌劇ではローエンリングがテルムラントを倒し、エルザの弟にかけられていた魔法も解くのだが、……これはカヴァフィスの別の見方かもしれない。
 テルムラントは決闘でローエンリングに負けるが、最後、「身元」を明かしたローエンリングはエルザのもとを去っていく。結局、テルラムントが勝ったのだ、とカヴァフィスは見るのかもしれない。

 ローエンリングが「身元」を隠していたように、カヴァフィスも「身元」を隠して恋をしたのだろうか。いくつもの恋をしながら、結局、カヴァフィスはその恋を「世間」に認められなかった。受け入れなれなかった。(か、どうかは、私は知らないのだが、たぶん「男色」は、世間に受け入れられる情況ではなかったと思う。)
 「身元」を追求する(その人が誰であるかを知りたい)というのは人間の欲望だろうけれど、本音(主観)が必ず幸福を連れてくるとはかぎらない。

 詩人としての名声を得たカヴァフィス。けれど、彼は「名声」よりも恋の成就をもめていたかもしれない。「身元」を詮索せずに生きる恋。
 「身元」を隠すという行為、ローエンリングに自分自身を重ね合わせているのかもしれない。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(185)(未刊・補遺10)

2014-09-22 10:25:18 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(185)(未刊・補遺10)2014年09月22日(月曜日)

 「ローエングリン」はワーグナーの歌劇を題材にしているのだろう。

良き王はエルザを憐れみ、
宮廷の呼び出し係を呼んだ。

呼び出し係が呼ばわり、ラッパが鳴った。

ああ、殿下、乞う、今一度、
今一度 呼び出し係をして呼ばしめよ。

呼び出し係が再び呼ばわる。

 私はワーグナーの歌劇を見ていないので知らないのだが、エルザが息絶えたとき、ローエングリンを呼び戻そうとした。そして呼び出し係が呼ばれ、ローエングリンを呼ぶラッパが鳴る。けれども、彼は戻ってこない。それで、もう一度、呼び出し係を呼ぶ。ローエングリンを呼び戻せと告げる。

呼び出し人は呼ばわり ラッパは鳴り、
呼び呼ばわり ラッパ鳴りて、
さらに呼び ラッパ鳴らせど、
ローエングリンはついに来らず。

 この繰り返しが、悲しみをあおる。リフレインは感情を強調するというよりも、あおることで、いまそこにある感情を、その感情以上のものにする。感情はそのひと固有のものであるが、繰り返され、あおるうちに、それが他人のものではなく自分のものになってしまう。
 カヴァフィスはワーグナーのストーリーだけではなく、オペラの感情のつくり方を詩で再現しているのかもしれない。最初に引用した詩の書き出しの部分だけで詩は完結している。晩年のカヴァフィスなら、そこで詩を終えただろう。しかし、つづけて書いている。もう一度形をかえて呼び返すシーンを書いている。この繰り返しは大音響で響きわたるワーグナーの歌劇そのものである。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(184)(未刊・補遺09)

2014-09-21 00:55:23 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(184)(未刊・補遺09)2014年09月21日(日曜日)

 「花束」は「サロメ」「カルデアのイメージ」に通い合うものをもっている。ことばに不機嫌な刺がある。

チョウセンアサガオ、ニガヨモギ、インゲン、
トリカブト、ドクゼリ、ドクニンジン--
すべて苦く毒を含めるを贈りて
その薬 そのおそろしき花もて
大き花束を作りて
かがやける祭壇に捧げん--
おそろしくもなつかしき情念を祭る
緑の毒石マラカイトの荘厳なる祭壇よ。

 毒が何度も出てくる。それは詩のなかにあることばのように「恐ろしい」ものである。しかしカヴァフィスは同時に「なつかしき」とも書いている。毒がなつかしい。単なる毒ではなく「情念」の毒がなつかしい。

おそろしくもなつかしき情念を祭る

 なぜおそろしいものが同時に「なつかしい」のか。
 この説明はむずかしい。たぶん、だれもが知っているがゆえにむずかしい。他人に対する怒り、怒りの暴走の果てに「殺したい」という思いがある。それはだれもが体験することなのかもしれない。
 カヴァフィスは、こういう「闇のこころ」(情念)をいちいち説明せず、ことばをぱっとほうりだす。わかる人がわかればいい、わかっている仲間うちに向けてことばを動かす。
 しかし人は「思い(情念)」は体験するが、実際には「殺す」というところまではゆかない。

 「情念」には「嘘」がない。「情念」は「純粋な主観」だ。「情念」は「ほんとう」だ。「ほんとう」だから、なつかしい。そして、その「情念」をそのまま「行動」に移しかえることは、ときに禁じられている。
 「禁止」はもしかしたら救いかもしれない。「禁止」がなかったら、殺してしまうだろう。そういう意味では「情念」は「毒」より恐ろしい。毒は動かない。けれど「情念」は動いていく。
 この不気味なものと祭壇との組み合わせがおもしろい。不気味なものによって祭壇は「かがやける」ものになるし、「荘厳」なものにもなる。何かを「禁止」することが「神」の仕事であり、その「禁止」の前で苦悩するのが人間の仕事なのかもしれない。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(183)(未刊・補遺08)

2014-09-20 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(183)(未刊・補遺08)2014年09月20日(土曜日)

 「カルデアのイメージ」は神が人間をつくる前の地上のことから書きはじめている。「カオス」の状態。

その時 戦士は禿鷹の身体を持ちて、
 人々は人の身体と
大鴉の頭を持てり。人の頭を持てる
 大きく背高き雄牛のたぐいもありき。
日も夜も吠えやまぬ犬は四つの身体を持ち、
 尾は魚の尾なりき。神エアとその他の神は
これらの物を掃滅したまいてから
 楽園に人を置きたまえり。
(ああ、人はみじめに楽園を追われたることよな)。

 最後の一行はアダムとイブのことを書いているのだろうけれど、私は、まったく違う読み方をしてみたくなる。この詩に書かれていることばをまったく違う意味に読み取りたい気持ちになる。
 楽園に「人」を置く前の「カオス(混沌)」の時代の方が「楽園」のように見えないだろうか。「楽園」の定義はむずかしいが、「禿鷹の身体」を持っていたり、「大鴉の頭」を持っていたりする「異形」の「人々」、あるいは「四つの身体」と「魚の尾」を持つ犬という不思議な生き物。その整頓されない形の方が、とてもエネルギーに満ちていて楽しそうではないか。
 人は、その世界で、いろいろな形の生き物に接触し、そこから「生きる」ことを吸収した方がおもしろかったのではないだろうか。可能性がいろいろあったのではないのだろうか。それらの「生き物」を「掃滅」したあとに置かれたのではなんだかつまらない。
 もし、それらが生きていたら、その不思議な生き物といっしょに生きていたなら、イブはヘビにそそのかされなかったかもしれない。ヘビくらいの単純な生き物のことばに耳を傾けなかったかもしれない。

(ああ、人はみじめに楽園を追われたることよな)。

 最後に、括弧の中に隠されるように洩らされる「本音/主観」。それまでの文体が「文語」風なのに対して、この一行は「ことよな」と「口語」的である。「口調」が聞こえる。その口調は、なにかしら「悪」というか、ととのえられる前の「混沌」の方をなつかしがっているような気がする。

 私の読み方は間違っているかもしれない。
 間違いを誘う魅力が、この詩にはある。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(182)(未刊・補遺07)

2014-09-19 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(182)(未刊・補遺07)

 「サロメ」は「サロメ」のその後を描いた作品である。ヨハネの首を皿に乗せてあらわれたサロメに、

「サロメよ」と若きソフィストは答う。
  「われは汝のこうべを望みしが」
   と戯れに言うに、
翌朝 サロメの侍女 足早に来たる。

ソフィストの愛人の亜麻色髪のこうべを
 黄金の皿に載せて持ち来たる。
  されど思案中のソフィスト
昨日の望みを忘却し果ており。

 中井久夫は、この詩では「口語」をつかわずに「文語」風の表現をつかって訳している。口語のなまなましさ、主観の強さが消え、それがソフィストの「詭弁のことば」、実感のとぼしい上っ面だけのことばを強調する。
 「戯れ」ということばで中井は念を押しているが(本文もそうなのかもしれないが)、この「戯れ」と「文語」風のことばが響きあう。「本気(主観)」ではないものを表現するには、「文語」の方が似合っているのかもしれない。「主観」ではない、だから「戯れ」、だから「嘘」。
 「戯れ」とは知らずに、サロメは、ほんとうに自分の首を差し出す。
 「ソフィストの愛人」はサロメのことであろう。--と中井は注釈しているが、私もその方がおもしいと思う。激情型のサロメは、その激情(本心/主観)そのままに、詩をかけてまでソフィストに迫る。
 サロメにとっては「行為」が「口語」なのである。「主観」を明確にする方法なのである。しかし、この「口語(肉声)」としての「行為」はソフィストにはつたわらない。ソフィストは「行動(肉体)」の人ではなく、「観念」の人だからである。そして、その「観念」は「論理」で動く。

血の滴りおつるを汚らしく思いて
 かれはこの血塗れの物を
  目の前より持ち去れと命じ
プラトンの対話篇を読み続ける。

 ソフィストは「ことば」しか読まない。サロメのこころなど読まない。
 ソフィストとサロメの生き方(思想/肉体)が厳しく比較されている。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(181)(未刊・補遺06)

2014-09-18 09:23:28 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(181)(未刊・補遺06)2014年09月18日(木曜日)

 「忘却」は四行の短いスケッチである。

  温室に閉じ込められた
ガラス・ケースの中の花たちは
  陽の輝かしさを忘れ
露けき涼風の吹き過ぎ行く心地を忘れている。

 「花」は何の花だろうか。カヴァフィスは明示せず、一般名詞のままにしている。これはカヴァフィスの「修飾語」の排除を好む気質のあらわれかもしれない。表面的な「個別性」よりも、その内部を支配している「普遍的」な運動を書きたいのかもしれない。
 花は、内部で何が起きたときに花になるのか。
 この詩では、逆説的に書かれている。
 太陽の輝かしさ、涼風の心地よさを「忘れる」ときに、花になる。温室の、しかもガラスケースに納められた花になる。
 自然の花はそれとは逆に、太陽の輝かしさを「覚え」、涼風の心地よさを「覚える」ときに花になる。花自身の「肉体」で「覚える」。外部にあるものを内部に取り込み、「覚える」。そして、花になる。

 この詩のことばのなかを動いているものにあわせて、「混乱」を読み直すとどうなるだろうか。
 「魂」が「肉体」の内部にあって、「肉体」の外にあるものを取り込んだとき「魂」は「魂」になるのではないだろうか。「魂」が「肉体」の外側にさまよい出るのではなく、内部にとどまり、「魂」の手には届かないものを「肉体」の手を借りて、「肉体」の内部に取り込んだとき、「魂」が「ほんとうの魂」に生まれ変わる--そういうことを書きたかったのかもしれない。
 「魂」は「肉体」からはじき出され、「魂」の欲するものを探している。しかし、それは「やっては来ない」。そして夢をかなえられなかった「魂」は「肉体」に返っていくだけである。「肉体」に返った「魂」は、やがて求めて手に入れることのできなかったものを「忘れる」。そうし、「ガラス・ケース」のなかの「魂」になってしまう。
 ほんとうは違う動き方、生き方があるのだ。けれどカヴァフィスはまだそれを手に入れるための方法を知らない。詩は、そのどうやってことばを動かせば必要なものが手に入るのか、わからないまま、さまよっている。

 あるいは自然のやさしさと暴力から隔離されている花を見て、その花はまだほんとうの美しさに達していない。本能を生きる美しさを手に入れていないよ--とささやきかけているのかもしれない。出ておいで、と誘っている、あるいはそそのかしているのかもしれない。そうならば、この詩は、触れることのできない相手をうたった男色の詩になる。

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