詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

柏木麻里「蝶」

2009-05-31 14:45:28 | 詩(雑誌・同人誌)
柏木麻里「蝶」(「現代詩手帖」2009年06月号)

 柏木麻里「蝶」は文字の配置そのものも詩をめざしている。この日記では、その配置、つまり空白のバランスなどは再現できないので、そのことは除外して感想を書く。(引用は、実際の詩の形とは違っている。空白を省略しているので、作品は「現代詩手帖」で確認してください。)

ゆうがた
いちごの匂いをさせて
蝶がねむる



おしえておしえて と

そと が

蝶にちかづく




蝶の両がわで
世界がそだっているよ



百合の ひらいたかたち

蝶のいた

 2連目(と、とりあえず呼んでおく)が、とても魅力的だ。主語(?)は「そと」。「そと」が「ちかづく」って、どういうこと? わからないけれど、はっとする。「そと」を主語にして、こんな文が成り立つということの不思議さに引き込まれてしまう。
 「そと」とは「蝶」の「そと」だろう、と思って読む。「そと」は近づかなくても、「そと」である。「蝶」の「そと」とは空気。それはいつでも「蝶」とともにある。どこまでも広がっている。そのどこまでも広がっているものが「蝶」に向かって凝縮(?)してくる。濃密(?)になっている。
 なぜ?
 私は1連目の眠る蝶の「夢」を想像する。「夢」のことは柏木は書いていないのだけれど、「ねむる」ということばが「夢」を誘う。その「夢」はきっと「いちご」の夢だと思う。蝶の夢から「いちご」が匂ってくるのだ、眠りの奥からその匂いがあふれだすのだと思う。
 匂いは夢からあふれだす。そのとき、匂いがどんな匂いかは「そと」にもわかるはずである。あふれだしているのだから。けれども、「おしえておしえて」と「そと」は近づく。自分のことばで「知る」のではなく、他人の、つまり「蝶」のことばで知りたいからだ。
 世界はいろいろなものに満ちている。その多くは自分自身の力で知ることができる。けれども、自分のことばではなく、他人のことばで知りたいこともある。他人なら、それをどういうのか。--それは他人を、他者を知ることでもある。
 世界は、いま、蝶を知りたがっている。
 そのとき、蝶の「両がわ」で(両側をほんとうは超えていると思うけれど)、「世界がそだっている」。あ、他者を知ることは、「育つ」ことなのだ。他者を知ることは自己を知ること--などと書いてしまうと、ちょっと教訓染みてしまうけれど、他者に触れるとき、そこに「空気」の変化がある。変化がおきる。それがおもしろい。

 柏木の「空白」は、他者に触れるときの、「空気」のバランスの変化、濃度の変化を柏木流の空間意識というフィルターで表現しているのだと思う。以前、私は、柏木が「本」ではなく、展覧会の会場で詩を発表しているのを見たことがある。実際にその会場に行ったわけではなく、写真で見ただけだけれど。たぶん、「本」よりも、そういう「空間」野ほうが、柏木の書こうとしている「空気」を的確に表現できるかもしれない、とも思った。



蜜の根のひびくかぎりに
柏木 麻里
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(101 )

2009-05-31 00:12:53 | 田村隆一

 「讃歌」は「やっと/あなたに会えた」ではじまり、「やっと/あなたに会えた」でおわる詩である。「あなた」とはだれか。私は「詩」と読みとった。

断片のなかに
破片のなかに
全体像がふくまれていなかったら

断片は断片にすぎない
破片は破片にすぎない

 このとき「全体像」とは、想像力が描き出す「姿」である。「断片」「破片」を「ことば」と置き換えてみると、とてもおもしろい。
 「ことば」はそれ自体として、「全体像」をふくんでいる。
 そして、その「全体像」とは「矛盾」が引き起こす運動のことである。

窓だけあって部屋がない
部屋だけあって窓がない

ぼくが経験した世界の狂ったデザインのなかから
生れた
灰とエロスの有機物

 「狂ったデザイン」。それは、田村の「ことば」があえて「狂わせた」デザインである。田村の「ことば」は世界を「矛盾」のなかで描き出す。そして、「矛盾」をぶつけあい、叩き壊す。その叩き壊された断片、破片は、元の形の「全体像」をふくんでいるのではない。これから生まれる新しい全体像をふくんでいる。
 だからこそ、「有機物」である。

 詩は、叩き壊されたことばが、新しく再生していくとき、その変化のなかに輝く。



ぼくの遊覧船 (1975年)
田村 隆一
文芸春秋

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林美佐子「人形」

2009-05-30 12:32:12 | 詩(雑誌・同人誌)
林美佐子「人形」(「詩遊」22、2009年04月30日発行)

 林美佐子の年齢を知らないので、「人形」という詩が、彼女自身の体験なのか、それとも少女の思いの代弁なのかわからない。たぶん、代弁なのだろう

私たちは校舎の裏に皆で集まり
セーラー服のスカーフで
着せ替え人形の首を絞める
そのうち皆すぐに飽きて
裸にした人形同士を絡ませあう

チャイムが鳴ると私たちは
人形をロッカーに隠し皆で着席する
配られた紙に将来の夢を書く
隣の子が書き終えて席を立つ
他の子も次々に書き終える
私だけ鉛筆の芯が薄すぎて
紙の上をただ手がすべるだけで
書けない

私は校舎の西の山寺へ行き
長く急な石段の上から人形を落とす
ぎゃぁと悲鳴をあげた人形の顔は
突き落とされた私の顔で
際限なく下へ下へとつづく石段を
どこまでも転がり落ちていく

 「皆」ということばが1連目と2連目に、何回か出てくる。しかし、その「皆」が「私」と肉体を共有しているように感じられない。「夢」というか、「意識」も共有しているようには感じられない。「私」が「皆」のなかに溶け込んでいる、溶け込むことでひとりでは獲得できない何かをつかみ取っているという感じがしない。
 「裸にした人形同士を絡ませあう」のあと、もう一度、暴走しないことには「皆」の意味がない。「皆」のなかには、そういうことを体験として知っている人と体験はしていないけれど知識として知っている人がいる。また、知識としても知らない人もいるかもしれない。ようするに、「皆」というとき、そこには「均一」の「体験・知識」がない。だからこそ、「体験・未体験」「知識・無知」がからまりあい、暴走がおきるのである。
 それが「皆」の魅力(?)である。
 そういうことが書かれていないので、あ、これは林がだれかの代弁をしているのだな、という印象が残る。こういう印象は、つまらない。興ざめしてしまう。
 2連目の後半から「皆」は「私」から離れて行く。そして3連目で「私」だけが暴走する。もちろん、そういうこともあるだけろうけれど、そういう場合はそういう場合で、1連目から「私」み「皆」から離れていないといけない。
 どうも、ちぐはぐである。

 詩はもちろん自分の体験を書く必要などない。他人の体験を書いてもかまわない。けれども、そのとき「肉体」の共有がなければ、それは「絵空事」になる。
 2連目の、

私だけ鉛筆の芯が薄すぎて
紙の上をただ手がすべるだけで

 の繰り返してしまう「だけ」に不思議な魅力があるので、「皆」のあつかいがとても気にかかる。「皆」など気にせず、「私・だけ」「すべる・だけ」の「だけ」をもっともっと追いつめて「だけ」だけを描けば、少女のこころを代弁できたのではないかと思う。
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『田村隆一全詩集』を読む(100 )

2009-05-30 00:48:07 | 田村隆一
 「定型」という作品。

死が
色彩のなかから生れる
定型とは
知らなかった

ならば
生は不定形だ
動脈と静脈のリズムから
生れたばかりに

それで人は
ウイスキーという不定型な液体で
心を定型にしようとするのだ

猫は知らない

 2連目がおもしろい。「死が/色彩のなかから生れる/定型」であると田村がどのような経緯で知ったのか、この詩からはわからない。また、ここで書かれている「定型」も私にはわからない。「定型」って何?
 2連目がおもしろい、というのは、そのわからないものを前提にして「ならば」とことばが動いていくからである。
 田村は、「死が/色彩のなかから生れる/定型」であることは知った。そして、そのことをもとにして「知らない」ものを推測している。「生」を田村は知らない。知らないから、知っているものをもとに、それを推測する。反対のものを想像する。「死」と「生」は反対である。「定型」と「不定型」は反対である。では、「色彩」の反対は? 「リズム」と田村は考えている。リズムは音楽かもしれない。
 そして、その「リズム」のなかに「動脈」「静脈」という逆の動きがある。地はただ一方へ動いていくのではない。往復する。循環する。それが「リズム」だ。
 そこから、田村はさらに推測する。
 3連目。「それで」……「するのだ」。
 そんなふうにして、「ならば」「それで」とことばを動かしていく。そういう動きそのものは「推測」の「定型」である。しかし、その「定型」はきまった結論にたどりつくわけではない。どこへたどりつくかわからない。結論は「不定型」である。「定型」→「不定型」という動きがここにある。
 しかし、これはとても奇妙な(?)動きである。ひとのいのちは「死」からははじまらない。「生」からはじまる。田村は、その動きを「死」から、逆にたどっている。推測している。
 3連目の「それで」からはじまることばの運動--それが「結論」にたどりついているのかどうか、それはよくわからない。
 4連目の「猫は知らない」は何を知らないというのだろうか。
 たぶん、これまで書いてきたような、ことばの運動を知らないということだろう。「ならば」という推論。「それで」という強引な展開。
 人間は、ことばをそんなふうに動かしながら、不定型を生きる。
 田村のことばのなかには、「ならば」「それで」というような表現は少ない。少ないけれど、意識の奥にはそういう運動があるのだろう。
 詩が短いゆえに、逆に、そういう隠れたものが浮き上がってきたのかもしれない。

 「耳」にも、「定型」に似た部分がある。

耳は
トルソの深部にある

どんな閃光を耳は聞くのか
どんな暗闇の光を耳はとらえるのか

それで
午睡の人が
物になる瞬間

その周囲に
やさしい色彩の波が
音もなく満ちてきて 白い

波頭は見えない

 2連目の「耳」が「閃光」を「聞く」というのは、田村が何度か書いている感覚の融合である。「耳」は見るのか、と書いた方がすっきりするかもしれないけれど(他の作品で田村が書いている表現と整合性がとれるかもしれないけれど)、ここでは「動詞」は「耳」に従属させている。そのあとに「暗闇の光」と矛盾したことばを書くための助走かもしれない。「暗闇の光」とは暗闇のなかにある光ではなく、暗闇そのものが光であるととらえた方がおもしろい。「矛盾」が強烈になる。(暗闇のなかにある光では、矛盾が生まれない。)それを「耳」は、どう「とらえる」か。この、「とらえる」は「聞く」か、「見る」か。もちろん、「見る」である。「見る」でなければならない。
 「耳」は「暗闇の光」という矛盾を「見る」。それを「見る」ことができるのは、「耳」が「肉・耳」になっているからである。「肉」を経由することで、感覚が融合する。
 そのあと。
 3連目。「それで」ということばで、ことばが「論理的」に動いていく。もちろん、この「論理的」というのは、科学的ということとは違う。ことばが、ことばの力を借りて、自律して動く、その自律性のことである。

それで
午睡の人が
物になる瞬間

 「それで」にことばを補うとすれば、「耳」が「肉・耳」になり、感覚の融合が起きるので、ということになるだろう。感覚の融合が起き、ひとの感覚器官が「肉・耳」「肉・眼」というものになるとき、人間そのものが「物」になる。
 人間が「物」になるとき、あらゆる色彩、つまり「死」がまわりに押し寄せる。それは死に詩人が押しつぶされるということではない。死が、いのちに生まれ変わろうと押し寄せる、ということだ。
 5連目。「波頭が見えない」のは、「波頭」が「肉・眼」には聞こえるからだ。「肉・耳」は「音」を聞かず、つまり「音もなく」押し寄せてくる死の色彩が「白」であることを「見る」。そして、そのとき「肉・眼」は白い「波頭」を見るのではなく(見えない)、「肉・耳」が聞き逃した「音もなく満ちて」くる、その音を「聞く」のである。
 動脈と静脈のなかを流れる血が循環するように、「肉・耳」「肉・眼」のなかで、見る・聞くが循環し、入れ代わる。融合する。そのとき、人間は「人間」ではなく、「物」になる。
 「トルソ」になる。



半七捕物帳を歩く―ぼくの東京遊覧 (1980年)
田村 隆一
双葉社

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林堂一「昆虫記 蓑虫」、みえのふみあき「山の端にて」ほか

2009-05-29 11:49:05 | 詩(雑誌・同人誌)
林堂一「昆虫記 蓑虫」、みえのふみあき「山の端にて」ほか(「乾河」55、2009年06月01日発行)

 林堂一「昆虫記 蓑虫」は、2連目に、とても惹かれた。

存在理由を言われると
よわるんだ
そんなもんあるわけないよって
開き直るのは簡単だけれど
太陽がぎらぎら
たったそれだけの理由で
踏みつぶされても
文句は言えないし

しいて、
言えば、

きみに愛されている
それだけだよ
きみがいなくなったら
ぼくもいなくなっちゃう

 カミュ『異邦人』に「しいて、言えば、」ということばがあるかどうか私は覚えていないが、『異邦人』を思い出した。「太陽がぎらぎら」ということばのせいかもしれない。遠くに『異邦人』を感じながら、「存在理由」を「しいて、言えば、」に私はこころを動かされた。
 いつでも、だれにでも、ことばにならないものがあるのだと思う。そして、そのことばにならないことを、そのまま「肉体」に閉じこめておく人と、それを「肉体」から「しいて、」ことばにしてしまう人がいる。
 「しいて、」は「わざと」に似ているが、すこし違う。
 「わざと」は嘘を含む。「しいて」は嘘を排除する動きがある。排除しようとする動きがある。なんとか真実に近づこうとする思いがある。
 わざと「きみに愛されている」と言えば、ほんとうは「きみを愛していない」ことになる。しいて「きみを愛している」と言えば、それは自分自身をその方向に駆り立てていることになる。だからこそ、「しいて」には、「それだけだよ」ということばもついてくる。「しいて」は「ひとつ」に向かって動くことばなのである。
 ことばは、いろんなことろへ動く可能性をもっている。それをあえて「ひとつ」にしぼりこみ、その方向へ動かす。
 すると、そこからおもしろいことがはじまる。

わたしくだってそうだわ
あなたが存在理由

 「ひとつ」への意識が、他人を(きみを)、突き動かす。ことばに圧力をかけ、その動きをひとつにすると、たとえば広い川が急に狭まったときのように、そこでは水の流れが速くなる。その流れに、水以外のもの、たとえば水に浮かんだ落ち葉がが引き込まれる。それに似ている。「ぼく」のことばが水。「きみ」が「落ち葉」だとすれば。
 ことばは、いままでそこになかったものをひきだしてしまうのである。(私の感想も、林堂の「しいて、言えば、」に引き出されたものである。)

茶柱の鎧に身をかためた蓑虫と
スエードのコートを着た蓑虫が
二疋
シャシャンボの枝からぶらさがって
きれぎれに
そんな会話をかわしている

風がかすかに来て
揺れて
存在理由がよろけて
もひとつの存在理由にちょっと触れた

 最後の連には「風がかすかに来て」ということばがあるけれど、その風は「しいて、言えば、」が引き起こした空気の乱れのようなものかもしれない。そして、その「来て」はどこか遠くからというより、そのことばのなかから「来た」のだと思う。
 ことばがある方向へ動く。動いたのはことばだけれど、ことばに視点を固定すると、そのことばに誘われて、何かがやって「来た」ようにも見ることができる。「ぼく」のことばが動くと、それにつられて「きみ」のことばがやってきたように。
 「風がかすかに来て」の「来て」がとても胸に響くのは、そういうことが影響していると思う。
 だからこそ、最後の1行が、なんといえばいいのだろうか、とてもおかしい。不思議なユーモアがある。1行目にもどってしまうのだけれど、ねえ、存在理由なんて、そんなおげさな……という感じ。
 重いけれど、軽い。そういう楽しさがある。



 みえのふみあき「山の端にて」は「Occurence 」シリーズ。林堂は「存在理由」ということばをつかっていたが、みえのは「存在論」を書いている。存在する「こと」をことばで引き出そうとしている。「こと」というのは、ことばをつかって引き出すときだけ、目の前にあらわれてくる。

山の端は距離である
ただ遥かななだけの遠さである
少女にとどかぬ少年の眼差し
あるいはみだれた文脈の自己増殖に
終止符をうつことができるのは
小さな石ころひとつ

 「山の端」という「こと」をみえのは描く。山の端という「場」、あるいは「形」というものではなく、「山の端」というのは、どうしてそこに出現し、存在し得ているのかをことばで迫ろうとしている。「遥かなだけの遠さ」から「少女にとどかぬ少年の眼差し」という抒情へことばが動いてしまう。抒情になってしまうと「こと」は存在論から「精神論」というか「形而上学」(?)になってしまう。たぶん、そういうことを、みえのは好まない。「形而下学」としての「こと」というものが、どこかに意識されている。だから、おおいそぎで「あるいは」と言い換える。そして、「石ころ」に視点を収斂させようとする。--この過程が、とてもおもしろい。
 「存在論」を詩でどう表現するか。「こと」の世界を、詩でどう表現するか。みえののことばは、いつも、それを意識しながら動いている。
 そして、それは「石ころ」のような無機質の小さなものに出会ったとき、とても美しく結晶する。

山の端を夕日が溶かす
だれもそこに立つことはできない
ぼくも立てばもはや山の端ではない
はるか彼方に象の背のように
新しい山の端が眠っている
ぼくは石ころを蹴とばす。

 「石ころ」は「ことば」でもある。



 有田忠郎「グラック・ノート」は詩人グラック・ノートに関するメモである。その最後の部分。

 「作品における固有名詞は、文章の中に有機体のように溶け込むようでなければなりません。そうすれば文体の質がかわるのです。極端な場合、短い詩だと固有名詞の間に組織される響きのシステムがし全体を支配することもあります。」グラックの書き方の特質のひとつがここにある。

 ことばと「耳」の問題に触れていて、印象に残った。


方法―みえのふみあき詩集 (1982年) (レアリテ叢書〈10〉)
みえの ふみあき
レアリテの会

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有田忠郎詩集 (日本現代詩文庫)
有田 忠郎
土曜美術社

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『田村隆一全詩集』を読む(99)

2009-05-29 00:28:22 | 田村隆一

 『TORSO』(1992年)。「位置」という作品。短い。とても緊張感がある。

トルソ 悲しみの
トルソが誕生するには
破片

断片とが
一瞬のうちに集ってこなければならない

トルソ エロスの
トルソが呼吸するまえに
破片と断片とは
もとの位置にさがるべきだ

そしてトルソは
物質になる

 「破片」と「断片」はどう違うのか。この作品では何の説明もない。田村はそのふたつを区別している。その破片と断片の関係に似たものに、「悲しみ」(1連目)と「エロス」(2連目)があり、「誕生」(1連目)と「呼吸」(2連目)がある。そして、それが似たものとして呼応するとしたら……。
 1連目「集る」(集ってこなければならない)と2連目「さがる=離れる」(もとの位置にさがる)は似たものとして呼応しなければならないことになる。
 ここに田村の特徴がある。
 「集まる」と「離れる」はもちろん「同じ」でもなければ「似てもいない」。まったく反対のものである。その反対のものが同じである。似ている、というのは「矛盾」である。「矛盾」こそが田村の詩の神髄である。
 そして、その矛盾の中で

そしてトルソは
物質になる

 「なる」、という世界が登場する。

 この詩が緊迫感に満ちているのは、そこに田村の思想が凝縮しているからである。
 「矛盾」と「なる」は次の詩に引き継がれる。「物」。

物質となって
トルソの内面に色彩の
親和力が生れる

その力がなければ
あらゆる物質は崩壊するにちがいない
都市も
国家も

 「親和力」と呼ばれているのは何だろうか。「矛盾」、つまり相反するもの、つまりまっこく別個のものが、同時に存在するとき、それを結びつけるものとしてはたらく力である。親和力が存在するためには、違ったもの、ことなったもの、別個のものが存在しなければならない。--つまり「矛盾」が存在しなければならない。

 田村のことばは、いつでも「矛盾」とともに動いている。





靴をはいた青空〈3〉―詩人達のファンタジー (1981年)
田村 隆一,岸田 衿子,鈴木 志郎康,岸田 今日子,矢川 澄子,伊藤 比呂美
出帆新社

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水無田気流「偽振動(ふるるる)」

2009-05-28 07:03:58 | 詩(雑誌・同人誌)
水無田気流「偽振動(ふるるる)」(「現代詩手帖」2009年05月号)

 水無田気流「偽振動(ふるるる)」は、文字のつかいかたがおもしろい。

低下する体温にカラマリ
きみの影が明度を高め
ふるるる、と ゆれている

 読メル/読メナイ
 言葉が-----
 天蓋(ニセゾラ)
 に ハリつく

夜に振動する気配は
ときどき
きみの真似をして
ふるるる、と 鳴いている

 キレイナニセモノ
 イヤコレハホンモノ
 ホンモノノニセモノ
 カカレタモノトイウホンモノノニセモノ
 ムカシハ
 コンナフウニ
 ニセホンモノガアッタンダネ

膨張していく 偽夜のまんなかで
君の偽影法師だけが
ふるるるるるる、と歌っている

 「カラマリ」は「絡まり」(からまり)と違うのだろうか。違うのだろう。違うのだろうと、私は思う。「絡まり」(からまり)なら、そのまま身動きがとれなくなる。けれど「カラマリ」とカタカナで表記されたことばを見ると、それはほんとうはからまってはいないのだと感じる。水無田のことばを借りて言えば「偽」のからまりかたをしている。からまるふりをして離れている。そこには、何かかしら「嘘」が、「偽」がまじっている。それは、からまりつつ、からまらないというありかたなのだ。
 表記を変えれば
 
絡まり/絡まらず

 という関係なのだと思う。だからこそ、その関係を、水無田は繰り返すのである。

  読メル/読メナイ

 と。そして、このとき「/」は切断ではなく、「ハリつく」という関係なのである。まったく逆のことばでありながら、逆であることによって、たがいにかたく重なり合う。ことばは、つねに、そういう相反するふたつの「意味」を生きている。
 「ニセモノ」と「ホンモノ」は切り離せない。「ニセモノ」があるから「ホンモノ」があり、「ホンモノ」があるから「ニセモノ」がある。その関係は、ただただ膨張していくしかない。そして、その膨張の中で「/」はふるえる。増えながら、ふるえる。
 そうして。
 「きみ」は「君」になる。「ふるるる、と ゆれて/鳴いている」は「ふるるるるるる、と歌っている」になる。「る」が増殖し、「と」のあとの1字あきが消える。
 何が起きた?
 どっちが「ホンモノ」、どっちが「ニセモノ」?

 わからないまま/わからせないまま、この詩は「ふるるるる、と」で終わる。フルートのふるふるという音のように、それは、私には美しく聞こえる。



音速平和
水無田 気流
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(98)

2009-05-28 00:02:27 | 田村隆一

 『絵本 火垂るの墓』(1987年)。私が読んでいるテキスト『全詩集』(思潮社版)には「絵」はない。文字だけである。
 この作品では「あつい」と「つめたい」が繰り返される。

大きな鳥 ぎんいろの鳥
アメリカ生れの 大きな鳥
その鳥が 熱(あつ)い卵(たまご)を
たくさん 産(う)んだ

熱い卵は 知ってる家
知ってるオバさん あそんでくれた
おにいちゃん 子どもたち
犬も 猫(ねこ)も もやしてくれる

熱い卵 つめたい心
おにいちゃんの 熱い腕(うで) あつい心
いくら 水があったって
あつい心の 火は消せない

 野坂昭如の『火垂るの墓』の語り直しである。
 「熱い卵」の「つめたい心」のせいで、生きているいのちは「もえて」「つめたく」なる。けれども、そのいのちの「あついこころ」はなくならない。
 後半が、特にせつない。

あつい光
つめたいからだ

太陽の 子どもたち

みんなが
かえる 口笛(くちぶえ)を ふきながら

おにいちゃん わたしの 頭の
うしろを もんでくれる

あつい心がうまれるように
つめたいからだが よくなるように

わたしは ねむくなった
つめたいからだ

あつい涙(なみだ)が チョッピリ
ながれた

 せつなさは、「あつい心がうまれるように/つめたいからだが よくなるように」の繰り返される「ように」に結晶する。「ように」のあとには、ことばが省略されている。「祈りながら」「願いながら」ということばが。



青いライオンと金色のウイスキー (1975年)
田村 隆一
筑摩書房

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天沢退二郎「大福山系画幅志 2」

2009-05-27 08:37:06 | 詩(雑誌・同人誌)
天沢退二郎「大福山系画幅志 2」(「現代詩手帖」2009年05月号)

 いくつかの断章(?)で構成された連作である。その「五」の部分に、とても惹かれた。竹藪がある。「1センチの隙間さえない密生林」なのだが、その竹藪のなかから「あかり」が漏れるのをみた人がいるという。その「あかり」の真相とは……。

見棄てられた畑地が篠竹やぶになるに先立ち
某女が使っていた古井戸のわきに
一本、実生(みしょう)のビワの樹が移植されていて
順調に行けば数年後には実もつけるはずだった
それが、やがて生い茂る篠竹に囲まれ、おおい隠され
陽もささず、それでも風は通るし雨や地下水には
めぐまれて細々と生き延びていたが
それも限界があって、しばらく前から
危篤状態になってしまった。
周囲の篠竹たちも心配して
夜はうす灯りをともして看病したが
ついにはかなくなってしまったという。
竹の精たちがその遺体を処理して
古井戸の底へ埋めたあと、
せい一杯の灯をともして葬儀をしたのだった。

 なぜ、この部分をおもしろく感じたのか、私にはよくわからない。(と、書くと天沢に申し訳ないのだが……。)
 ビワがビワではなく、竹が竹ではなく、人間のように見えたから--としか言いようがないのだが、それが人間のように見えた理由は何だろうか。「危篤」「看病」「葬儀」というような、人間のいのちにかかわることばがつかわれているからだろうか。
 それももちろんあるだろうけれど。
 それよりも、「それが、やがて生い茂る篠竹に囲まれて」の「やがて」、「それでも風は通るし」の「それでも」、それから次々に行に出てくる「めぐまれて」「それも限界があって」「しばらく前から」となどの「口調」の「ていねいさ」に理由があるように思える。ゆっくり進むことばに、引きつけられるのである。
 「物語」というと奇妙な言い方になるのかもしれないけれど、天沢の書いている「夢」とも「幻」ともつかないような作品は、それがいわゆる「現実」ではないだけに、ことばがどれだけスピードをあげても速すぎるということはない。むしろ、速いほうが快適、気持ちがいいということもある。え、こんなところまで想像力は行ってしまうことができるか、と感激する。飛躍が多く、どんどん「いま」「ここ」から遠ざかるそのスピードにかっこいいなあ、と思ったりもする。
 ほんらい、そういう超スピード感で取り仕切られるはずのことばの運動のなかに、こういうゆったりと、時間をていねいに追った「口調」が、「理由」といっしょに語られると、ぐいと、そこに引き込まれてしまう。この「引き込む」は、そして、天沢が引き込むというより、思わず私のほうから天沢の方へ近づいていく、のめりこんでゆくという感じなのである。「かっこいいなあ」と見とれているのとは逆に(逆に、というのは少し変かもしれないが、ようするに「距離」をとって眺めているのではなく)、一歩、ことばのなかへ踏み込んでいく感じがする。
 そして、それは、天沢がここで書いている「やがて」や「しばらく前」が単に「時間」を指し示すだけではなく、その「時間」に「理由」がぴったり寄り添っているから、そういう印象が生まれるのだとも思う。「時間」と「理由」が重なり合う。あるいは、「理由」が「時間」を作り上げているといえばいいのだろうか。「時間」は単に何秒、何分、何時間という計測単位とともに「不変の形」(一種の「物差し」)としてあるのではなく、何か「理由」があれば、その「理由」によって伸び縮みするものなのだ。
 逆に言えば(別の角度から言えば?)、天沢は、「時間の経過」に「理由」を織りまぜることで、「時間」を伸び縮みさせている。そういう変化がはっきりとことばのなかにあらわれるように、ていねいにことばを動かしている。それも、何か新しい表現によってというのではなく、むしろ、長い長い文学の歴史のなかで語られつづけ、語られつづけることによって、「無意識」にまでなってしまったようなことばをつかうことによって。
 そして、それは、

ついにはかなくなってしまったという。

 という1行に凝縮する。「死んでしまった」ではなく「はかなくなる」。「はかなく」ということばの美しさ、その「美しさ」に「なる」という動き。
 あ、ことばとは、こんなふうに「美しくなる」ことで生きていくんだなあ、「美しくなる」ことで「時間」を超えるんだなあ、というようなことを、ふと考えてしまうのである。
 同時に、あ、昔は(?)、こんなふうにして、「時間」をゆっくりとていねいに見る視点があったのだあ、とも思う。
 書かれている内容ではなく、その書き方、そのことばの動きかたに、引きつけられ、いいなあ、と思うのである。




夢でない夢
天沢 退二郎
ブッキング

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『田村隆一全詩集』を読む(97)

2009-05-27 00:18:47 | 田村隆一

 「第八景 夜の江ノ電」。この作品には「江ノ電について」という注釈がついている。その最後の部分。

 その景観は、小さなカーブをいくつも曲がりながら家の軒先・生垣をかすめ、車と並んで路面電車になり、湘南の波を眺めながら海岸線を辿り、やがて高架鉄道にもなる。
 古都鎌倉の新しい情緒である。

 「新しい情緒」。「夜の江ノ電」から見える風景、そして、その風景を見て動くこころの動きを「新しい情緒」と田村は定義している。
 具体的に見るとどうなるか。田村が描いた「夜の江ノ電」から何が見えるか。

腰越は鎌倉という村の入口で
ここまででポルノのポスターやブス猫はおしまい
江ノ電は
まず高架鉄道を走り
それから
路面電車にかわり
ポルノのポスターの可愛いお婆ちゃんに別れをつげると
文化人が住んでいる
鎌倉村に入っていく
たった十キロの藤沢-鎌倉の距離で
よくも文化村と云ったものだ
ぼくは
人の顔と別れをつげて
腰越から
鎌倉に入る

 ポルノのポスター、しかも可愛いお婆ちゃん。それはアンバランスである。アンバランスというのもひとつの「矛盾」である。調和とは正反対にあるもの。その「正反対」という感覚を引き起こすものが「矛盾」である。
 アンバランスは、感覚を覚醒させる。少なくとも、既成の感覚、美意識というようなものをひっくりかえす。そのとき、いつも見ていた風景も新しくなる。
 「新しい情緒」と田村がいうとき、重要なのは「情緒」ではなく、「新しい」である。そして「新しい」ものには「情緒」があるのだ。

ブンカジン大嫌い
夜の海が前面にひろがる
漁火が見える 小さな灯台の光が見える
相模湾の黒くて青い水平線

 「大嫌い」が田村の視線を「ひと」から遠いものへと引っぱっていく。それは「大嫌い」によって、「新しく」洗われた風景である。誰もが見る風景も、「大嫌い」という気持ちといっしょに見ると違ったものに見えてくる。「新しく」なる。

こんな愉快な村はめったにない
宗教法人税法のおかげで
説教したがる坊主に
妾が四人もいるとは
ちっとも知らなかった 夜の江ノ電の
窓から見える
白い波頭 夜のなかの

白い波頭
乗客は
ぼく一人

 「新しい」はまた「知らなかった」ということでもあるのだが、その「知らなかった」は実は知っていたということでもある。「坊主」が「妾を四人もっている」というような世界、そういうものがあることくらい田村は知っている。そういうことは話にも聞けば、本でも読んだことがあるだろう。そういう知っているはずのことが、「大嫌い」というアンバランスのなかで、もう一度見えてくる。
 その、もう一度見えてくる、ということが詩なのである。
 「新しく」というのは、実は「古い」ものがもう一度見えてくるということである。「古い」もののなかには、なにかしら「気持ち(感情)」というものが残っている。それが「新しい」何かに触れて「情緒」を引き出すのである。「情緒」というものは、たいていが「古い」。いわばなじみのあるものである。それがアンバランスな何かによって洗い清められ、「新しく」なる。
 「古い」ものが「新しくなる」というのも、矛盾である。矛盾だから、そこに詩がある。

 「ちっとも知らなかった」以後の、「1字あき」、行わたり、改行--その、いっしゅのぎくしゃくとした動き、ぎくしゃくのなかに、「新しい」ものがある。ぎくしゃくが、既成のものを新しくする。
 田村は、なめらかさではなく、ごつごつした「手触り」を好む。なめらかにことばが滑っていくのではなく、滑ることを拒否して動くことを好む。滑ることを拒むたびに、ことばは、そこで抑制されたエネルギーをため込み、爆発するのである。そういう動きを、田村のことばはめざしているように感じられる。

 最後の1行、「ぼく一人」がとても美しい。



靴をはいた青空〈3〉―詩人達のファンタジー (1981年)
田村 隆一,岸田 衿子,鈴木 志郎康,岸田 今日子,矢川 澄子,伊藤 比呂美
出帆新社

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前原正治『水 離(か)る』

2009-05-26 10:43:28 | 詩集
前原正治『水 離(か)る』(土曜美術出版、2008年11月20日発行)

 ことばは何のためにあるか。たぶん、見えないものを見るためにある。見えるものの陰に隠れてしまっているものを浮かび上がらせるためにある。そんなことを考えた。
 「水 離る」のなかほど。

世界は
剥き出しの悪意にみちて
ひりひりしている
そこに
直に投げ出され
晒されている子供の身体の中で
ただ一つ眼(まなこ)だけが
かろうじて涙の一滴の
その億分の一の水気を残しているのか
一匹の蠅が
子供の目尻に
必死にしがみつき
口吻を突き出し
舐(な)めている

 砂漠の瀕死の子供。その子供の顔に蠅がたかっている。その蠅の欲望を「水」にしぼりこむとき、世界が浮かび上がる。「汗」ではなく「涙」。それも「億分の一の水気」。見えないものを見る視力。そこに「思想」がある。

かつて
生まれる前の
緑の風の非在のそよぎを
夢みていた日々は遠く
(略)
……いのちから
水 離(か)る
真夏の日射しの
いま

 「生まれる前」とは、すべての人間の「いのち」のことである。それは現実には存在しないが、確実に存在する。現実には存在しない、というのは、その「いのち」は「未分化」である、ということだ。その「未分化」の「いのち」は、やはり「非在の」「風のそよぎ」を見る。「いのち」がやさしい風に吹かれる。そして、風と一体になり、緑と一体になる。
 --というより「未分化」だから、それは最初から一体である。「一体」だった「いのち」がひとりになり、緑になり、風になる。世界になる。
 それが、いま、幼いまま、小さな「水」になって、離れていく。そのとき、世界は崩壊する。
 前原は、それを見つめている。

 「前田敦さんへの<鎮魂歌>」というサブタイトルのついた「こおろぎ」という作品の後半。

息絶えだえに一匹のこおろぎが
ひとの身代わりに
せつなく世界を歌う
そのはかなさを そのうつくしさを
歌は
世界をふるわせ
世界にしみいっていく
そして
世界も
ふいに息をとめたこおろぎになる

 世界が崩壊した瞬間、そこにはまた何かが生まれる。世界から離れた瞬間、世界が何かに凝縮する。相反する動きが、相反する動きであることによって、見えない何かに凝縮する。その瞬間を、前原は、この詩では「こおろぎ」ということばで見ている。

 相反する動き--その瞬間の凝縮、そして結晶。そういうものを前原は、いつも見ようとしているようである。
 「辛夷」の後半。

膨らみ出した辛夷(こぶし)の蕾の
その一つひとつに
蝉の幼虫のような
透明な仏が眠っている
花開き
光に刺し殺され
宙吊りにされる日を待ちつつ

 「光に刺し殺され/宙吊りにされる」が、いい。死ぬことが生まれることなのである。砂漠の子どもは、蠅に涙の一滴、最後のいのちの「水」を奪われて死んでゆく。死んでゆくことによって、前原のことばのなかに生きる。読んだひとのこころのなかに生きる。生まれる。 


水離(か)る―前原正治詩集
前原 正治
土曜美術社出版販売

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『田村隆一全詩集』を読む(96)

2009-05-26 00:03:13 | 田村隆一

 「第六景 さかさ川早春賦」。「さかさ」というのは、一種の「矛盾」である。1連目には、次の形で書かれている。

水仙の花はいつのまにか消えた
春の雪が降って
その雪が消えたら
クロッカスの小さな花が咲いた
民家の庭に
冬のあいだじゅう一羽で棲みついていた
単独者のジョウビタキも
氷の国へ帰ってしまった
この単独者は
立ち去ることで日本列島に

がきたことをぼくらに告知する

 クロッカスは咲くことで早春を告げる。やって来ることで何かを告げる。存在が何かを告げる--ここには矛盾はない。ジョウビタキは去ることで春を告げる。不在が何かを告げる。これは「矛盾」である。不在のものは何も告げることはできない。不在のものが、どうやって、「いま」「ここ」にいる誰かにむかって何かを告げるというのは「矛盾」である。「不在のもの」と「存在するもの」は同時には存在し得ないからである。
 この論理は、次のように言い換えると、「矛盾」ではなくなる。「不在のもの」(いままでここにいたが、いまはここにいないもの)は、その存在するということを別の存在に譲ったのである。「不在のもの」のかわりに「別の存在」がいま、ここにいて、その交代した何かが、何事かを告げる。
 だが、田村は、その交代したものを、ここでは明確にしていない。だから、それは「矛盾」したままである。こういう「矛盾」が田村は大好きである。
 だからこそ、「さかさ川」という存在に目を向ける。

ぼくは下駄をはいて
小町から大町の裏通り
安養院のそのまた裏の小路を歩いていくと
緑の血管のような
細い川が流れていて
土地の人は
さかさ川と呼んでいる
昔は
海の潮が逆流してきたのでそんな名前が生まれたのだという
その川をさかさに歩いていくと
小さな飲み屋があって

 川は山から海の方へ流れる。その流れが、潮のために逆向きのために「さかさ」になる。この「さかさ」のなかにも「矛盾」がある。もちろん、「潮」を主語にすれば「矛盾」は消えるが、「川」が主語であるかぎり、それは「矛盾」である。
 そして、この「矛盾」は、ジョウビタキが不在であることによって春を告げるというのといくらか似ている。山から海への「流れ」が不在であり、それにかわって「潮」が「不在」を埋めるようにして、海から山へ流れる。
 そうなのだ。
 田村の「矛盾」は、単に、ある存在の不在を何かが埋め合わせ、何かを語るだけではなく、いままでそこにいたもの(そこにあったもの)の動きそのものを逆転させるのである。
 ジョウビタキは「冬」を連れてきた。それが不在であるとき、何かは、その冬のやってきた方向へ逆に突き進み、そうすることで「春」を告げる。
 この動きを明確にするために、田村は「さかさ川早春賦」の1連目にジョウビタキを書いたのだ。1連目がなくても、「さかさ川早春賦」の「本論」(?)の部分は、少しも変わらない。ことばの動きがかわるわけではない。「さかさ川」で言いたいことを、1連目で少し披露しているのだ。あらかじめ、「幅」をもたせているのだ。「矛盾」をさりげなく、ここにも、こんなふうにして「矛盾」がある、と教えているのだ。

 そして、その「矛盾」に重ね合わせるようにして、田村は、飲み屋であった経済学博士との談話を書きつないでいく。

日曜日の午前十時ウサギ博士から電話で呼び出されて
ぼくはさかさ川をさかのぼり
居酒屋にたどりついたのだが

なんのことはない
鎌倉の八甲田山のてっぺんのウサギ博士の
自宅の奥さんと娘さんが恐いものだから
ぼくを共犯者に仕立て上げるこんたんなのだ

人間には
どこか悲惨で滑稽なところがある
どんな人間の心の中にも
さかさ川は流れているが

 「人間の心の中にも」、ある方向を「わざと」逆に動くものがある。そして、それは「わざと」そんなふうに動くことで、この世界の流れが、正反対のものがいっしょに存在することで成り立っている。「矛盾」があるから、おもしろく動いていると、田村は考えているのだ。
 「矛盾」は、いつでも田村の思想なのだ。

 この詩にも、注釈がついている。この注釈も、また、非常におもしろい。

「さかさ川」という名前が、ぼくには気に入っている。そして、「さかさ川早春賦」というぼくの詩が、ぼくは大好きだ。しかし、そのかわりに、ウサギ博士のご夫人から、ぼくはしかられて、いまでもご夫妻には頭をさげて歩いている。

 原文の「ぼくは大好きだ」の「ぼく」には傍点が打ってある。「ぼくは」大好きだが、そうでない人もいる。つまり「ウサギ博士のご夫人」は、この詩が好きではない。「ウサギ博士」が奥さんを恐がっている、と書いたからだ。詩に書かれたことがいやなのだ。
 でも、田村は、この詩が好き。
 ここにも、「さかさ川」と同じような、どうしようもない「矛盾」がある。ジョウビタキの不在が春を告げるというのは同じような「矛盾」がある。
 ウサギ博士夫妻は、この詩が嫌い。でも、田村が、この詩が好きであるように、私もこの詩が好き。嫌いなものがいて、その「嫌い」という流れを「さかさ」に動いていって、私はウサギ博士に会う。彼ら夫婦に会う。田村に会う。

 田村の「矛盾」は、こういうことも含む。





青いライオンと金色のウイスキー (1975年)
田村 隆一
筑摩書房

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池上彰「新聞ななめ読み」

2009-05-25 17:56:43 | その他(音楽、小説etc)
池上彰「新聞ななめ読み」(「朝日新聞」2009年05月21日夕刊)

 小沢辞任会見の様子を分析している。読売新聞、朝日新聞の「小沢番記者」が小沢に遠慮して、小沢の責任を追及していないと指摘したあと、

日本テレビのキャスターは、こう質問しました。
 「ここから先にさらに進んで離党、あるいは議員辞職ということも選択肢として考えられるのかどうかお聞かせください」
 これには小沢代表がこう聞き返します。「あなたどこだっけ、会社?」
 小沢番ではない人が真正面から質問してきたことに小沢氏が腹を立てている様子がわかります。

 こういう文章が私は大好きだ。「小沢氏が腹を立てている様子がわかります。」ことばの背後には感情がある。その感情は見逃されることがある。また感情に気づいても気づかないふりをすることもある。人の感情だから取り違えることもある。小沢がほんとうに「腹を立てている」かどうかの証明は難しい。けれど、池上は「腹を立てている」と言い切る。そこに私は「ことばの力」を感じる。言ってしまえば(書いてしまえば)、ことばはことばであることを超越して「事実」になる。そしてそれは、実は、書いた人が何を事実に「したいか」とも言い換えることができる。池上は、小沢が質問に腹を立てる人間に「したい」のである。そういう「欲望」が前面に出てくる文章が私は大好きだ。

 詩とは関係ないことかもしれない。

 でも、関係があるかもしれない。少なくとも、私は、ことばに「欲望」を読む。ことばから「欲望」を読む。詩人は何を「欲望」しているのか、そう思って詩を読むと、きっと詩人が身近になる。


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坂多瑩子「傘」、中井ひさ子「ある日」

2009-05-25 09:29:04 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「傘」、中井ひさ子「ある日」(「ぶらんこのり」17、2009年06月11日発行)

 坂多瑩子「傘」は記憶がじわりと「肉体」浸透してきて、「肉体」そのものになってしまう不思議な感じがある。

木立のはずれに草地がある
傘がほしてある
夕方おばあさんは傘を閉じにやっくる
ていねいに閉じて
おばあさんが
行ってしまうとあたりは暗くなる 暗くなると
まわりの木の枝がのびてくる
本の挿絵でみた
黒い森 そっくりに
黒い森の絵の下には
やがてなにもみえなくなると書いてある
空気は熱く よどんでいる
あたまがくらくらする

 傘が干してある草地そのものが実際のものか記憶かわからないけれど、その光景のなかに「本の挿絵」という記憶がまぎれこんでくる。そして、その記憶が「世界」を動かしていく。

やがてなにもみえなくなると書いてある

 ほんとうになにも見えなくなるのが先なのか、それともそう書いてあるのを思い出したので世界がそんなふうにかわるのかわからなくなる。「あたまがくらくらする」。
 この動きが自然で説得力があるのは、それに先立つ、

行ってしまうとあたりは暗くなる 暗くなると

 この行の呼吸のためである。ここから、ほんとうは変化がはじまっている。
 「行ってしまうとあたりは暗くなる」のあと、改行されて「暗くなると」だと、「やがてなにもみえなくなると書いてある」が嘘っぽくなる。対象との距離が整然としすぎて、嘘っぽくなる。また、「おばあさんが行ってしまうとあたりは暗くなる」ではないことも重要だ。「行ってしまうとあたりは暗くなる 暗くなると」という行は、「主語」をもたない。「主語」がないから、「暗くなる」のあとすぐに「暗くなると」と「ずれ」ていくことができる。
 「暗くなると/まわりの木の枝がのびてくる」ということは現実にはありえないけれど、その前のことばの呼吸が「主語」をふっとばすことで、「頭」の判断を拒絶し、かわりに記憶を呼び込む。「記憶」を「主語」にしてしまう。
 「主語」を欠いたまま、「記憶」が「頭」を強引にひきずりまわすのである。「頭」は「頭」であることができず、「肉体」になってしまう。「肉体」に頼ってしまう。そして、ますますおもしろくなる。
 何が見えて、何が見えないのか、わからなくなる。
 なにも見えないはずなのに、たとえば「やがてなにもみえなくなると書いてある」という「こと」が見える。「もの」ではなく「こと」が見えるようになる。
 「こと」を見ているのは「頭」ではないし、「肉体」でもない。「肉体」になってしまった「頭」が、なんと名付けていいかわからない「目」で見ている。
 この「目」はとてもおもしろい「目」である。

傘を閉じていたおばあさんの顔は
おかあさんによく似ていた
いもうとの傘 あたしの傘 あたしの傘
ていねいに閉じていた
黒い森はあたしのへやに
はいってくる
あたしは眠る
傘がとおくに見える
黄色いひなげしの花の傘
夜なので
色がみえない

 何が見えた? 「色がみえない」という「こと」が見えたのだ。
 「黄色」は「肉体」のなかにあって、そこから「肉体」の外へ出ていこうとしている。夜のなかへ出て行こうとしている。「目」はそれを追いかけている。「肉体」から出て行く「色」を。そういう「こと」が、「肉体」のなかで起きている。

 詩とは、「もの」ではなく「こと」なのだ。



 中井ひさ子「ある日」にも「こと」が出てくる。

真昼に笛の音が
風にのって訪ねてくると
背骨が低く鳴り出し
語ったこと
語らなかったことが
ねじれて揺れて
思いのほか痛みます

 おもしろいのは「語ったこと」と「語らなかったこと」が同等であるということだ。「語ったこと」と「語らなかったこと」が同じなら、「人間」と「人間」以外のものも同じになる。
 2連目。

身体の内の細い道に
人影はありません
赤目のウサギの耳だけが
時々動きます
昨日のことも
もっと前のことも
思い出してはいけません

 人間とウサギは区別がなくなる。そして「昨日」と「もっと前」も区別がなくなる。さらに、「思い出してはいけません」といってみたも、「思い出すこと」と「思い出さないこと」も同じことになってしまうので、「思い出してはいけません」と言えば言うほど「思い出すこと」にもなる。

 「頭」と「肉体」が浸透しあって、不思議な「こと」そのものになる。そのなかに、詩が、自然に浮かんでくる。「こと」から詩が生まれてくる。


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ケヴィン・マクドナルド監督「消されたヘッドライン」(★★)

2009-05-25 04:28:24 | 映画


監督 ケヴィン・マクドナルド 出演 ラッセル・クロウ、ベン・アフレック、ヘレン・ミレン

 事件を追う新聞記者(ラッセル・クロウ)がきわめて紋切り型。ジャンクフードを食い散らし、だらしない体型、だらしない格好。けれどもニュースに対する臭覚だけは鋭い。その彼が、議員スタッフ(女性)の死、その背後にある秘密を探っていく――というストーリー。これはもう、ほんとうにストーリーだけを追い掛ける映画。わざと「背後」がわからないように、わからないように、わからないように、怪しい関係を説明しつづける。
 こういうストーリーの鉄則は、最初は怪しくない人間が一番怪しい。で、そのとおりの展開。アメリカの軍事産業が登場し、巨大な金が動いている、ということが説明されるけれど、そのとき「一般人」が巨大と感じる金額なんて、金を操っている人間には小さい額。日本でも、金丸は「たかが5 億円もらって何が悪い」という態度だったが、それは蔭ではもっと大きい額が動いているということだろう。
 見どころは、冒頭近くのラッセル・クロウのジャンクフードを食い漁るシーンが、そのまま体形にあらわれているということくらいだろう。もともと肥満型の俳優なのだろうけれど、時代遅れの髪型で、演技をしたつもりになっている。これは議員を演じるベン・アフレック、新聞社の編集長のヘレン・ミレンも同じ。全員が「紋切り型」を「紋切り型」のまま演じている。俳優はどこまで「紋切り型」を演じることができるか。それを味わうための映画かしれない。

 クリント・イーストウッドが「グラン・トリノ」のラストで「ダーティ・ハリー」の格好を演じて見せてファンを喜ばせたが、同じ「紋切り型」でも、こんなにも違う。


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