詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『現代詩論集成1』(10)

2014-09-30 10:51:21 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(10)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 九 死者の棲む境からの帰還 北村太郎覚書

 「北村太郎覚書」に触れる前に「八 俗なる市民の行方 黒田三郎覚書」について書きそびれたことを少し補足。
 黒田三郎の詩について書かれていることがらで気になって仕方がないのは、黒田の「日常」を展開していったとき、それがどうして「俗」になるのか、あるいは「俗」では何が問題なのかがよくわからないということである。
 別な言い方をすると。
 北川は上手宰の論を批判するとき、上手の論そのものを展開して、上手こそが黒田を「腐肉」と読んでいると批判している。同じ方法を黒田の「日常」を描く方法でも展開できないのはなぜなのか、ということが問題として残る。
 「理念」と「日常(具体)」を比較して「日常」を「俗」と呼んでも、それが批判になるのかどうか私にはわからない。黒田の「日常」の描き方、それを積み重ねることで到達できる世界と、「理念」を踏まえた「日常」の描き方を対比し、「理念」から出発しない「日常」の描き方は「俗」になる、という形をとらないなら、それは「俗」を証明したことにはならないのではないだろうか。



 北村太郎について書かれた文章では、私は、次のところでつまずいてしまった。

《修辞の意味》が《存在》ということばであらわされること(正確には<存在>が修辞によってあらわされると言うべきだろうが)には、北村の思想が示されていると見てよいのである。( 205ページ)

 丸括弧内は北川が北村の「思想」について言いなおしている部分(補足している部分)なのだが、北村が

《修辞の意味》が《存在》ということばであらわされる

というのなら、「修辞の意味」が「存在」なのであろう。「修辞」以外に「存在」というものはない、ということにならないのか。

<存在>が修辞によってあらわされる

では、「正確」というよりは、「誤解」を招かないか。
 つまり、ある存在があり、それに対する修辞というものがある。「<存在>が修辞によってあらわされる」では、「修辞されることで、存在は、存在として浮かび上がる」ということにならないか。
 「美しい箱」ということばを仮定してみる。「箱」が「存在」であり「美しい」が「修辞」。
 北村は「修辞(美しい)」、「美しい」は修辞する行為(認識)こそが「存在している」のであって「箱」は存在しない(存在するにしろ、それは「美しい」と認識することの下位に置かれる)という「認識論」を展開していると思う。
 けれども北川の言い直しでは、「存在(箱)」が「修辞」によってあらわされると「誤解」されないだろうか。北川は「箱」を認識する「人間存在」のあり方が「美しい」という修辞行為によってあらわされると言いたいのだと思うけれど……。

 私は北村太郎をほとんど読んでいないので、よくわからないのだが、北川が引用している詩を読むと、なんだか落ちつかない。

 おおあの朝の充ちあふれた存在(あるもの)よ
 それがいまわかった
 釣りあげた魚をたたき殺して
 両手でつかんだときの
 固いあるものすべての色とない音
 思いがけない神のお許しのようなもの
 滅びることがたしかな一つのもの……             (「存在」部分)

 これは一九六四年の作品であるが、「存在」は、題名にはルビがふられていないが、作中では《あるもの》と読ませている。この《あるもの》とは、確実に手でつかむことができるような固い実在であり、しかも、神の許しのような形而上学的な影をもち、滅びることがたしかなものである。おそらく読者の誰もが、引用部分三、四行目の具体的な経験のことばから、この《存在(あるもの)》のリアリティを感じとることだろう。しかし、実は、その部分は、詩人の直接体験のことばではなく、修辞レベルの表現だったのである。そのことを北村は「ヘミングウェイの短編について」で明らかにしているわけだが、(略)  
 (205 - 206ページ、ルビを丸括弧であらわしたため原文とは表記が違っています)

 「ヘミングウェイ云々」はようするにヘミングウェイの短編を読み、そこにある表現にインスピレーションを得て書いた「修辞」であり、実体験ではないということを意味するのだが。
 その前半部分の「存在(あるもの)」についての把握が私と北川ではかみ合わない。北川は、「確実に手でつかむことができるような固い実在であり……」と抽象的なままことばを重ねているが、私は「存在(あるもの)」とは単純に「人間」のことだと思った。引用では省略したが、ヘミングウェイが小説のなかで「彼」と読んでいる男。それを北村は「存在(あるもの)」と書き直している。それだけのように思える。
 「存在」とは北村にとっては「人間存在(認識する主体)」であり、ふつう私たちが「人間」と呼んでいるもの。それを「存在」と言いかえるのは「認識する/修辞する主体」と言いたいためではないのか。「認識/認識行為(動詞)」が「存在」と言えばわかりやすいのに、北村は「認識」のかわりに「修辞」ということばをつかっているためにわかりにくくなっているような気がする。
 
 ことばの「定義」が、どうもかみ合わない。私は北川の書いていることの前でつまずいてしまう。私が北村をよく読んでいないためにおきる単なる「読解不足」なのだと思うけれど、少し気になる。
 たとえば、「荒地」との「詩的共同性」についてふれた部分。

北村太郎は、論理ではなく、イメージにおいて、あるいは修辞性において、もっとも個性的にうたうことができた詩人だからである。( 210ページ)

 この部分の「論理」と一般的にいう「論理」というよりも、「荒地の理念(鮎川信夫がリードした理念)」という感じのことを指していると思う。北村は、そういう「理念」からは離れる形で、人間をとらえなおしている。「理念」ではなく、人間が「存在(もの)」を、あるいは「世界」をどう表現できるか、その表現の仕方(修辞の仕方)に「人間存在」の全てがあらわれる。修辞の仕方を「理念」で統一することも可能かもしれないが、北村はそういう「理念の統一」を望まなかったということではないのか。

北村太郎における「荒地」以後とは、その破滅的観念を思想的に解体することではなく、あたかもそれが自然過程のよう、おのれの言語から、観念性を抜き取っていった過程と見ることができる。( 213ページ)

これらの詩句がみずみずしく張りつめているのは、観念を脱色した感覚が、いわば初めてのように、手の及ぶ範囲の世界を触覚し、観察しているからだ。( 214ページ)

 うーん、「観念性」というのものは、どんなところにもあるのではないだろうか。どこにでも「観念性」を見出すことはできるだろう。「観念性」のない表現というのはありえないだろう。
 ある表現に「観念性」がないとするなら、「観念」の定義が書いた人(北村)と読んだ人(北川)とのあいだで一致していないということだけのように私には思える。書いた人の「観念」と合致する「観念」を読んだ人がもっていないとき、そこに書かれている「観念」は見落とされる。ひとはだれでも自分の知っていること以外は知らないし、自分の見たいもの以外は見ない。
 北村が取り除いたのは、「荒地」の「理念(鮎川信夫がリードした理念)」という気がする。北村は、確立された「理念」によって世界をとらえるのではなく、自分の「感覚」で世界にふれ、そのとき動くことばの形(認識の形、その認識をあらわすための修辞)に「人間」そのものがあらわれる、「存在」があるということを実践したのではないのか。
 北川の北村論を読んでいると、そんなことを感じてしまう。北川の見ているのとは違った北村が見えてきてしようがない。



 誰の詩についても同じことがいえると思うが、その詩のなかに書かれている「感性」を動かしてみて、それがどこへゆくのかを確かめることは非常にむずかしい。そこに書かれている「感性」が自分の好みかどうかということは言えるが、その「感性」が次にどう動くかは、その「肉体」にしかわからない。「感性」は一瞬一瞬生まれるものだから、「矛盾」というものがない。
 「論理」は「感性」と違って動かしてみることができる。あるルールに従ってつくられている。出発点(土台)があって、その上にことばを積み重ねていく。「論理」は一瞬一瞬生まれ変わるものではなく、生まれ変わらないのが「論理」なのだ。「変わらない」を前提としているから、「変わる」と「矛盾」と非難されたりする。「齟齬」を来していると批判されたりする。
 「論理」は「頭」で処理することができるが、「感性」は「頭」だけでは処理しきれない。ここに詩を読むとき(批評するとき)のむずかしさがあると、私は感じている。

北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
北川透
思潮社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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思潮社

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(193)(未刊・補遺18)

2014-09-30 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(193)

 「貨幣」はインドの文字を刻んだ貨幣について書かれた詩である。ただし、実際にその貨幣を手にしての詩ではなく、それについて書かれた本を読んでいるのだろう。「この物知りな本は」ということばが詩の中にあるから。その貨幣は、王国の名前が刻んであり、それは「この物知りな本」によれば、

エプクラチンタザ、ストラタガ、
マナントラザ、エアマイアザ。

 こういう固有名詞を並べる時、詩人は何を思っているのだろう。音のおもしろさ、知らない音に触れた時の不思議な感じが、それをそのまま引用させているのだと思う。そういう知らないものに触れた後、知っていることがあらわれると、「肉体」のなかに何かがめざめる感じがする。

だが この本はまた見せてくれる、
もう片面、そう、裏側に、王の姿を。
おお、ギリシャ人ならここで眼がぴたりと止まる。
そして感動する。ヘルマイオス、エウクラティデス、
ストラトン、メナンドロスとギリシャ語が続くからには。

 「音」のなかには「意味」以上のものがある。土地の名前、人の名前、その「音」から、それがどこか、何に帰属しているかがわかる。
 この詩は、インドの貨幣のなにかギリシャに通じる音(名前)を見つけ、インドとギリシャの交流(つながり)を発見し、喜んでいる詩であるという具合に読むことができるが、そういう「意味」よりも、私はカヴァフィスは音の発見に喜んでいるように感じる。
 インドにはインドの音があり、ギリシャにはギリシャの音がある。ギリシャの音はもちろんカヴァフィスには馴染みのものだが、インドの音に触れた後ギリシャの音に触れると、瞬間的に「眼がぴたりと止まる。/そして感動する。」ということが起きる。この瞬間のことをこそ、カヴァフィスは描きたかったのだろうと思う。
 それに先立つ一行、

もう片面、そう、裏側に、王の姿を。

 このリズムの躍動感。こころがすばやく動いている感じがそれを明瞭に伝える。読点「、」を多用した中井久夫の訳がすばらしい。感情の「意味」(主観)は、こういう呼吸の変化(読点のリズム)によって、「肉体」に迫ってくる。
 原詩(ギリシャ語)を知らずに書くのは無責任だとは思うが、この詩は中井久夫の訳によって、原詩よりも輝いていると思う。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

「リッツォス詩選集」(中井久夫との共著、作品社)が手に入りにくい方はご連絡下さい。
4400円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。
メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
ご希望があれば、扉に私の署名(○○さま、という宛て名も)をします。
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孤独が終わるのを感じた、

2014-09-30 00:33:22 | 
孤独が終わるのを感じた、

廃墟を背にした写真がある。
逆光のため顔がよく見えないが、肉体の輪郭から彼だとわかる。
裏面をつかって自家製の絵はがきにして送ってきた。
「その瞬間、孤独が終わるのを感じた。もう二度と孤独はやってこない。

二〇歳をすぎたばかりのときだ。
若い時代に突然やってくる老成したインスピレーションが書かせた、
ずるい智恵が感じられた。
彼は孤独を自分のなかに隠しただけである。モラトリアムである。

思考によって、つまりことばによって全てを支配しようとする意思はあっても、
彼の記憶はまだ現実を知らない。
未完成な虚構が、未完成ゆえに巨大さを誇示するのだが、
そのとき虚構と廃墟の輪郭が、なんともまあ、似てしまうことか。


*



新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
です。
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田島安江「果実酒」

2014-09-29 09:07:58 | 現代詩講座
田島安江「果実酒」(「現代詩講座@リードカフェ、2014年08月20日)

 今回話題になったのは、田島安江「果実酒」。

果実酒 田島安江

瓶に詰めると日を追うごとに
トロリと甘くなる
果物から酒に変わる瞬間はなかなか見えない
ただその一瞬を境に
甘さがやわらぎトロリと溶けてくる
ちょうどよい飲みごろは一瞬にして去るから
空の向こうの遠い場所で雷が鳴ったときとか
傘をさして角を曲がった人の目線の先とか
絵の中に寝転ぶ黒猫が知っている
ということだってあるかもしれないから

空はずっと灰色で
耳をがりっとかじる音が響いて
おおいつくした影から送り込まれる霧の
霧の中から立ちあがるやわらかい湯気の
セーラー服を着た古い少女の写真からも
ぱちんと缶ビールを開けた指先ににじむ血のあとも
いつだって予感はあるのに
酒に変わる一瞬を
ローソンの灯りに吸い寄せられていく蛾でさえ
その一瞬を知っているのに
トロリと甘くなる一瞬の
その予感に打ちのめされて
ちょうどよい飲みごろをのがした
雨の多いこの8 月

 話題にはなったが、そのときの話題になり方(?)が少しブレがあるように感じた。「甘ったるい感じが、書けそうで書けない。おもしろい」「田島さんらしくない。時間をとらえようとしている」「2連目の耳は猫の耳?」「2連目のがりっとかじる音がわからない」というようなことろからはじまったのだが、受講生によって詩の見え方がずいぶん違う印象があったので、いくつかの質問をしてみた。

<質問>  果実酒の「果実」はなんだと思う? 何を想像して読んだ?
<受講生1>洋梨
<受講生2>黄色かゴールデンの柑橘類
<受講生3>赤。イチゴとか、ザクロ。
<受講生4>トロピカルなもの。パパイヤとか。
田島    晩夏のある一瞬。

 えっ、作者の言っているのは「果実」ではないね。
 だから印象も違うのか。最初にひとりが言った感想の「甘ったるい感じ」は「晩夏のある一瞬」と「比喩」の水準で近いかもしれない。

<質問>  「がりっ」というのはどんな音?
<受講生1>たくさんかじった感じ。
<受講生2>砂なら「じゃりっ」。感情をかじった音。
<受講生3>耳に受けた刺戟
田島    耳はいちばん感じるところ

 うーん。作者はなかなか刺激的なことを言って読者を挑発する。
 その挑発にのる形で、また尋ねてみた。

<質問>  「トロリ」ということばが何回か出てくる。「トロリ」を言いかえると?
<受講生1>トロピカル
<受講生2>ぽってり。ドロリはいやだな。のみごろ、かな。
<受講生3>ぺろり、ぺろろ。
<質問>  詩のなかにあることばで言いかえると?
<受講生2>溶けてくる、溶ける
<受講生4>予感
<受講生1>指先ににじむ血
<受講生3>予感も指先ににじむ血もとめられない。

 あ、いいところへ視線が動いてきたな、と思う。
 詩は(あるいは文学は、あるいは音楽は、絵画は……)何か大事なこと(作者の肉体のなかで動いている本能)のようなものを何度も形を変えながらことばにする。
 果実酒のトロリとした飲み頃--そのことを書いているようでも、その背後には別な肉体(飲み頃に通じる肉体の官能)が動いている。
 作者は「耳がいちばん感じる(感覚が集合している)」という。「感じる」というのは「とめられない」何かである。受講生のひとりが言ったように「予感も指先ににじむ血もとめられない」。予感は肉体の奥からやってくるのか、外からやってくるのか、区別がむずかしい。指先ににじむ血は、あきらかに肉体の「内部」からやってくる。自分の「肉体」なのに、その動きをとめることができない。自分ではどうしようもない。
 そう思って詩を読み返すと、もっと切実な「とめられない」をあらわすことばがあることに気づく。

ローソンの灯りに吸い寄せられていく蛾でさえ

 現代の風景だから「ローソンの灯り」。少し前なら燃え上がる炎。それはローソンの蛍光灯よりも危険だ。そのまま身を焦がしてしまう。
 作者の「挑発」を私はそのまま信じるわけではないが、その「挑発」にのる形で詩を読むと、たとえば「飲みごろ」ということばが出て来るが、これは「果実酒」だから「飲みごろ」。女の肉体なら、どうなるだろう。「食べごろ」。俗なことばだが、わざと、俗に読み直して、この詩の可能性を広げてみるのもおもしろい。
 「霧の中から立ちあがるやわらかい湯気」の「やわらかい」は「湯気」よりも「湯気」のなかに隠されているあいまいなものを浮かび上がらせる。「セーラー服を着た古い少女の写真」は「古い」と「写真」ということばが「セーラー服を隠した少女(処女)」を隠している。すると「缶ビールを開けた指先ににじむ血」はもっと違う「血」になるかもしれない。そう「予感」させる。「誤読」を迫ってくる。
 この詩はしかし、真剣に「誤読」を誘いこみ、読者を笑ってしまおうとはしていない。嘘になりきれていない部分がある。そのために、最初の「印象(感想)」が受講生によってばらばらになるという形であらわれてしまった。
 もっと平気で「嘘」を書いてしまうと、詩としておもしろくなる。
 何が書いてあるのか--それを読むときのポイントは、いつでもどのことばとどのことばが呼びあっているか、その呼びあい奥にはどんな欲望(本能/正直)が隠されているかを探ることである。
 「嘘」をつくとき(詩を詩としてととのえるとき)、実は「嘘」をつくのではなく、正直になって自分の「本能」と向き合い、その「本能」を切り開かなければならない。自分が知らなかった自分を「嘘」をつくことで見つけ出したとき、その「知らなかっ自分」が作者ではなく「読者の知らなかった自分」と重なり感動する--それが詩である。
 作者や自分を発見し、読者も自分を発見する。その偶然の一致、その出会いが感動というものである。

 1連目の「空の向こうの遠い場所で雷が鳴ったときとか」以下の3行のことばは、「嘘」をつきかけている。それを受けて2連目は「うそ」をふくらませないといけないのだが、トーンが変わってしまった。音楽で言う「転調」ならいいのだが、「転調」しきれていない感じがする。もっと違う展開があったのでは、と思う。


トカゲの人―詩集
田島 安江
書肆侃侃房

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(192)(未刊・補遺17)

2014-09-29 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(192)(未刊・補遺17)2014年09月29日(月曜日)

 「ソシビオスの大宴会」。ソシビオスとは、中井久夫の注釈によれば「前三世紀プトレマイオス三世フィロバトルの大臣」。そこで大宴会が開かれる、そこに招かれているので行かなければならないのだが、詩の前半はそのことがまったく書かれていない。

私の午後は申し分なかった。まったくなし。
櫂はいともかろやかに水面に触れる。櫂の愛撫。

 それぞれの行が、行のなかで同じことを繰り返している。「申し分なかった。まったくなし」「櫂は水面に触れる」「櫂の愛撫」--繰り返すことで、その「時間」に酔っている。満足するだけではなく、その満足をもう一度味わっている。
 これをもう一度、別な言い方で言いなおしている。

あまやかに滑らかなアレクサンドリアの海よ。
この息抜きが入り用だった。仕事がきつかったもの。

 仕事を終え、午後のあまった時間を仕事以外のことにつかって息抜きしている。
 繰り返しの、甘いことばの響きは、なにかしらセックスを想像させる。「愛撫」や「息抜き」ということばが、それを補足している。「あまやかに滑らかなアレクサンドリアの海よ。」という広がるような音の響きと、最後の「よ」という詠嘆がここちよい。
 それにつづく三連目の、

時にはものを見る目が無邪気に優しくなったと思う。

 この一行も美しい。「無邪気」という濁音を含んだ音が、耳に気持ちがいい。「音」を楽しんでいる。ことばの音楽を悦ぶ耳がある。
 これがこのあと「別の遊びに変える潮時だ」ということばから、がらりとかわる。

名家(言ってしまえば大ソシビオス夫妻)の
宴に招かれている。

戻らねば、われらの陰謀に、
またしてもうんざりの政争に。

 それまでの伸びやかな、伸びやかゆえにどうしても長くなってしまう行から一転して、ばっさりとたたききったような行。音。「言ってしまえば」という「主観」をむき出しにしたことば。
 「陰謀」「政争」ということばが、前半と「対照」をつくっている。前半は、やはり愛の睦言の世界なのである。


リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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散りこぼれた萩の花が

2014-09-29 00:09:14 | 
散りこぼれた萩の花が

散りこぼれ、道路の端に一列に並んだ萩の花を観念の一形態のように叙述することと、
その表現から回避されてしまった色彩への嗜好を抒情として震わせることのあいだに、
私という人間を措定してみることの是非に答えはあるのだろうか。


*



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クリント・イーストウッド監督「ジャージー・ボーイズ」(★★★★★)

2014-09-28 18:00:11 | 映画
監督 クリント・イーストウッド 出演 ジョン・ロイド・ヤング、エリック・バーゲン、マイケル・ロメンダ、ビンセント・ピアッツァ、クリストファー・ウォーケン



 映画を見ていて、途中で不思議な気持ちになった。映画を見ている感じがしない。主人公たちが生きている、それを直接見ている気持ちになる。「フォー・シーズンズ」を私は知らない。「シェリー」はどこかで聞いたことがある。ほかの曲もかすかに聞いた記憶はあるという程度だ。そして、彼らはもう「過去の人」(ロックの殿堂入りをしたグループ)なのだが、「過去」という感じがしない。「いま」という感じがする。一瞬一瞬に、どきどき、はらはらしてしまう。ときどき、ばかだなあ、と思ってしまう。胸が熱くなったりもする。
 なぜなんだろう。映画が終わってからしばらく考えたがわからなかった。
 こういうとき、私は、どのシーンがいちばん印象的だったかを思い出してみる。そして、なぜ印象的だったのかを考えてみることにしている。
 いちばん印象的だったのは、彼らが「シェリー」をはじめて歌うシーンだ。電話機に向かって、四人ができたての曲を練習もせずに歌いだす。レコード・プロデューサーに聞かせるためだ。その曲は、バスのなかで突然ひらめいた曲。15分前にできた曲。作曲者はもちろん自信があるのだが、初見でヴォーカルが飛びつき、その歌いだしに仲間が反応し、歌いだす。
 探していたものを発見し、それに夢中になって、形をつくっていく。その、止めることのできない衝動、本能のようなものが輝いている。
 この映画の魅力は、ここにある。何かを発見し、それに夢中になること。「過去」を描いているのに、それは「思い出」ではなく、「発見」。「発見」の瞬間をつぎつぎに積み重ねてゆく。新曲に行き詰まったとき、テレビを見る。女が殴られる。泣くか。「大人の女は泣かない。」テレビを見ていたひとりがそう言う。その瞬間に、そのフレーズが音楽になった響く。
 何かに偶然出会い、その瞬間に、何ごとかひらめく。あ、これがおもしろい。これがいい。気に入った。これが好き。そのこころが動いたものへ向かって、こころを集中させる。こころを形にしていく。その瞬間、ひとは、たぶん「自分」というものの「枠」を超える。「自分」がなくなる。「自分」を捨てて、わけのわからない何かに向かって動いていく。
 これは人間の、一種の本能だ。美しい欲望だ。
 女を見て、美しいと思う。セックスしたいと思う。独特の声を聞いて、この声はすごいと思う。この声で歌を歌ったら、曲はどんなふうに響くだろうか、と思う。それを確かめてみたい。女とセックスをしたい--というのは「自分」を捨てることではなく、自分の欲望を実現することという見方があるかもしれないが、やはり「自分」を捨てること。「自分」を見失ってしまうこと。「自分」を見失いながら、動いてしまうことだ。たとえばヴォーカルの男は結婚していて妻子がある。それでも別な女性にひかれてしまう。セックスし、結婚まで夢みてしまう。「恋」してしまう。「愛」してしまう。「自分」を超えて、新しい「自分」になろうとする。
 恋のような「わけのわからなさ」(血迷いごと?)だけではない。
 グループのリーダーが莫大な借金をつくる。どう解決するか。そのときヴォーカルのとった生き方は、その借金を背負う(肩代わり)するということである。もっとほかの生き方、他人の借金など気にしないで「自分」の人生を堅実に生きるという方法もあるはずなのに、どうなるかわからないことをしてしまう。「自分」を超えて、何かをしてしまう。それを「友情」とか「恩義」とか、別のことばでいうことはできるが、たぶん、そういう「ことば」ではほんとうのことはつかみきれない。したいから、する。それだけなのだ。その瞬間に感じた何か、これをするべきなのだ、ということが突然ひらめき、将来を考えずに、それをしてしまう。いや、将来は、考える。借金を返済すれば、何かが解決すると、考える。そして、それがどんな結果に何か考えずに、動きはじめる。
 あらゆることが「初めて」のことなのだ。
 人生は、あらゆることが初めてである。「フォー・シーズンズ」の「過去」、誰もが知っている「過去」さえも「初めて」のこととして、この映画のなかでおきている。そのために、昂奮する。

 イーストウッドは「ワンテイク」主義のようにいわれることがある。どのシーンも一回しかとらない。それがこの映画を美しくしているほんとうの力かもしれない。
 あらゆることは、その瞬間におきる。繰り返してみても、それは最初の瞬間にはかなわない。「初めて」こそが人間を動かしている。

 これは最後のシーンに象徴的に表現されている。「いちばん幸福だったのは」という問いにヴォーカルが言う。「街頭の下で自分たちのハーモニーをつくっていたとき」、つまり、このグループの出発のとき。「シェリー」を無伴奏で歌い、ハーモニーを、「フォー・シーズン」の「音」をつくっているとき。まだ形のないものが「初めて」生まれてくる。その誕生に立ち会える。自分たちで生み出しているのだけれど、その生み出したものは、まるで自分で生まれてきたみたいに生き生きと動いて行ってしまう。それを追いかけるようにして生きる。
 これは音楽だけではなく、あらゆる芸術につながる喜びだ。
 その「シェリー」のハーモニーを作り上げるシーン、4人の歌が街に流れ、そこに映画の登場人物が次々に現れ、歌い踊る、舞台ミュージカルのエンディングのようなラストシーン。これは、現実にはありえないのだけれど、あ、これが彼らの夢みていた「音楽」なのだと、納得してしまう。一緒に歌い、踊りだしたくなる。楽しい。何があっても、音楽があって、ダンスして、みんなが生きている。「初めて」のように歌を歌い、初めてのように踊り、それが初めてなのに完璧に調和する。
 いいなあ。
 何度でも見たくなる。私は、眼が悪いこともあって、最近は二度、三度と繰り返して映画を見ることがなくなってしまったが、この映画は見たい。何度でも見たい。毎日でも見たい。何度も何度も「初めて」を味わいたい。

 「初めて」の「意味」にこだわりすぎて、影像のことを書きそびれたが、どの影像も美しい。特に最初のシーンがすばらしい。ニューヨークの空が映し出され、カメラがだんだん下におりてきて、ふるい街角を映す。そのとき空の色はモノクロに近い感じだ。街におりてきても、通りも壁もウインドーもモノトーンに近い。最初の散髪屋のシーンもセピア色、あるいはモノトーンに近い。髭を剃るためのシャボンや床屋のおやじの白い服がモノトーンを強調する。それが徐々に色づいてくる。その感じが時代は「過去」なのだけれど、生きている人間にとってはすべての瞬間が「いま」なのだ、そこに生きている人間には血が流れているのだと静かに語りかける。剃刀の刃でクリストファー・ウォーケンが血を流すシーンが象徴的だ。
 どのシーンもむだがなく、さらに思い入れたっぷりになりそうなところもさらりと動かしている。どんな瞬間にも「時間」を止めない。あるシーンに特別の「情感」をこめない。「見せ場」をつくらない(役者に「熱演」をさせない)。見終わったあとで、あ、あれはああいうことだったのか……と思えばそれでいいという感じである。考えてみれば、人生は、そういうものだね。どんなことも「一瞬」のうちにおきる。過ぎ去ったあとで、あれはああだったのか、と思い起こすだけである。ある瞬間を、時間を止めて「熟考」などできない。新しい「初めて」をつぎつぎに繰り返すしかない。
 あ、また、同じことを書いてしまった。
     (2014年09月28日、ユナイテッドシネマ・キャロルシティ・スクリーン6)



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中井久夫訳カヴァフィスを読む(191)(未刊・補遺16)

2014-09-28 11:07:37 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(191)(未刊・補遺16)2014年09月28日(日曜日)

 「庭付きの家」は庭付きの家がほしい、という欲望を描いている。しかし家でも庭でもなく、ほんとうは動物が飼いたい。そのためには庭付きの家が必要だ。どんな動物を飼うのか。

何をさておき猫が七匹。二匹はつやのよい黒猫。
二匹は雪白の白猫。対照さ。

 残り三匹については書いていないが、「対照」ということばがここで出てくるのが面白い。対照によって、それぞれが明確になる。「一九〇六年六月二七日午後二時」では嘆く母親と絞首刑された息子の沈黙が対照になっていた。嘆く母親は大地を転がりまわる。息子は空中に「若い形のよい身体」をまっすぐに垂れさがらせている。
 この猫の後の「対照」がおもしろい。

目立つ鸚鵡が一羽。派手にいわれた通りを
しゃべくるのが聞きたい。
犬は三匹でいい。
馬も二頭いるといいな(小さい馬がすてきだね)。
それから必ずあの愛らしいすばらしい獣、
そう、ロバ、だらしなくロバに乗り、
あの頭をなでるためさ。

 鸚鵡が「派手にいわれた通りを/しゃべくる」のなら、犬は黙っていわれた通りをするのだろう。不思議な「対照」がそこに省略されている。
 さらに馬とロバ。ロバは何頭とは書かれていないが、一頭だろう。馬は乗るため、ロバも乗るためだが、乗ってどこかへ行くことを目的とはしていない。乗って、そのロバの頭をなでる。何かを伝える、無意味なことを伝えて、時間をすごす。「一体」になって時間をすごすためである。
 そのロバを「愛らしいすばらしい獣」と呼ぶのに対し、カヴァフィス自身を「だらしなく(乗る)」と描写し、対比させているのもおもしろい。「だらしない」時間を受け入れてくれる動物がほしいのだ。
 ただ「だらしない」時間をすごしたい。そのために庭付きの家がほしい。「だらしない」感じをカムフラージュするために、馬が、犬が、鸚鵡が、猫が必要なのだ。
 引用では省略した部分に、庭には花や樹木、野菜はあった方がいい。あってしかるべきだ。「見た目がよいから」とある。ロバだけを飼って、だらしなく乗って、頭をなでているだけでは「見た目」はよくない。それを偽装するために、ほかの動物たちも飼いたい、ということなのかもしれない。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

「リッツォス詩選集」(中井久夫との共著、作品社)が手に入りにくい方はご連絡下さい。
4400円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。
メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
ご希望があれば、扉に私の署名(○○さま、という宛て名も)をします。
代金は本が到着後、銀行振込(メールでお知らせします)でお願いします。
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その人

2014-09-28 00:21:01 | 
「内臓が貧困で満たされているような人間だけが口にする
紋切り型というものがあるように思えてならない。
私はあなたの意見に反対するわけではないのだが、

そんなふうに語られてしまっては、どんなに清潔な概念にも影ができる、
「文体の定義」で私が書こうとしたのは、
と私の意識は反論したかったのだが、

「しかし、過酷な心理というものは厳しすぎる。
どこかで聞いたことのあることばに支えられていないと……

とその人は語尾を濁したまま誤植のように本のなかにまぎれていくのだった。
あるいは余白に書いた鉛筆のメモだったのかも、





新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
です。
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岸本美奈子「寓話」ほか

2014-09-27 12:55:41 | 詩(雑誌・同人誌)
岸本美奈子「寓話」ほか(「カラ」17、2014年09月01日発行)

 岸本美奈子「寓話」はとても短い詩である。

そこに幸せを感じる。
レースカーテンのさみしさを知る。
寝転びながら
わたしは教科書から目を離し、
炭酸水が弾けるとき、

 文章が「倒置法」なのか、それとも「末尾」が切断されたまま中断しているのか。読み方はいろいろできると思う。
 私は、ことばが動いたまま、それを並べたのだと感じた。「倒置法」とか「切断」(中断)などということは考えずに、ただ、ことばが動くままに動かした。「意識の流れ」というのとも違うけれど、まあ、意識なの流れなんだろうなあ。
 1行目の「幸せ」と2行目の「さみしさ」は、ふつうの感覚(流通感覚/常識?)では矛盾というか、同類の「感じ」ではない。「幸せ」なら、ふつうは「さみし」くはない。けれど感情というのはもともと矛盾したことろがあって、感情には矛盾がないとも言える。好きだけれど、嫌い。嫌いだけれど、好き(許してしまう)。--というようなことは誰でもが経験する。感情は整理できないものなのだ。
 「さみしさ」を感じることができる「幸せ」というものがあるだろうし、「幸せ」を感じながらその静けさ(落ち着き)を「さみしい」と思うこともあるだろう。
 「矛盾」ではなく、そういうことってあるなあ、と思う。
 それが1、2行目。
 それからあと、私はごく単純に、岸本は寝転びながら教科書を読んでいる姿を想像した。その想像には、私の体験が重なる。教科書を読むのがいやになって、ふと教科書から目を離すとレースのカーテンが見えた。それはこんな昼下がり(と勝手に思う)、ひとりで教科書を読んでいる私の「さみしさ」のように静かに揺れている。でも、カーテンが揺れるのを「さみしさ」と感じることができるのは「幸せ」というものかもしれない。側にはコップに入れた炭酸水が弾けている。
 私の書いたことは違った順序でおきるかもしれない。順序は違っても、たぶん、同じだ。そこでおきていることは一瞬のこと。順序をきちんとととのえて言わないとつたわらないような複雑なことではない。どんな順序にでも置き換えられる。順序は、読者に任されている。--その「自由」な感じ、適当な感じに、あ、これが詩だなと思う。
 「論理」は「こと」の順序を正確にしないと、きっと違った「こと」になってしまう。しかし、詩は「順序」を解放するものなのだ。何かがおきる。その順序を解きほぐして、順序に縛られるまえの状態、未生の状態、混沌の状態にもどすものなのだ。

 この感じは「草原」にも通じる。

船に乗るのは、左肩の後ろが注意したので止めた。
なんとなく、もよおしたから、その場を離れた。
全てがそうなるはずだった、とは言い切れない。
誰もがそうなるはずだった可能性の世界にいた。
草原を走り出す縛られていた足は縺れてしまえばいいのにそうはさせない。
片時も後ろを向いてはならない掟に反抗期の自分を閉じ込めて。
安らぎの膝を想い出し硬い草原で静かに息をする。

 通じると入っても「草原」は、それほど自由な感じがしない。1行1行が「論理的」に見える。「意味」がありそうに見える。「論理」をばらばらにして、「順序」で「意味」をととのえようとしていない。逆か。「意味」をばらばらにして、「順序」で「論理」をととのえようとしていない。
 --というようなことは、まあ、なんとでも言えるなあ。
 でも、この詩の魅力が「ばらばら」な感じ、「順序」を読者に任せきっているところにあるというのは、似ている。

 私は「寓話」の方が好きだが、なぜかと言うと、全体が具体的で、一瞬のうちに全体をつかみとれるからだ。「全体」を「誤読」できる。
 「文意」は「草原」の方が「論理的」に見えるが、ほんとうに論理的であるかどうかはわからない。こういう「偽装」のようなものが全体を支配しているのを感じ、「誤読」すると、「誤読だ」と指摘されそうで、窮屈な感じがする。
 ただことばをほうり出しただけの「寓話」方が「自由」の度合い大きくて、気持ちがいい。「寓話」(寓意)というものを、私はぜんぜん感じないので、まあ、私の読み方は間違っているのだろうけれど。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(190)(未刊・補遺15)

2014-09-27 09:27:27 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(190)(未刊・補遺15)2014年09月27日(土曜日)

 「一九〇六年六月二七日午後二時」は公開処刑の様子を描いている。息子が処刑される場に立ち会った母親の姿。

「ああ、たったの十七年。十七年だ。一緒にいたのは!」
息子が絞首台の階段を登らされ、
十七歳の若い無実の首にロープが廻され、
絞められて、若い形の良い身体が
中空にあわれに垂れさがって、
暗い怒りのすすり泣きがたえだえに聞こえてきた時、
犠牲の母は大地に転がりまわった。
彼女の嘆きはもう歳月ではなかった。
「たったの十七日」と彼女は号泣した。
「おまえとおれたのはたったの十七日だったよお」

 「十七年」が「十七日」にかわっている。区別ができなくなっている。混乱している。それが母親の嘆きの深さを語っている。
 原文がわからないので推測だが、この「十七年」と「十七日」は「十七年」と「十七」かもしれない。後の嘆きは「歳月」をあらわす序数詞をもたないかもしれない。どのような時間の「単位」を選ぶかは、読者に任されているかもしれない。それを中井久夫は、対比が明確になるように「日」を補って訳したのかもしれない。
 この母の激しい動き(精神の混乱)を描くと同時に、カヴァフィスは、絞首刑にあった青年の姿も描いている。

十七歳の若い無実の首にロープが廻され、
絞められて、若い形の良い身体が
中空にあわれに垂れさがって、

 この描写は母親の描写に比べると、とても静的である。この「静」があって、母の「動」の激しさがより際立つ。
 また「若い形の良い身体」という表現がなまめかしい。美しい身体には死が似合う。それも不幸な死が似合う。これはカヴァフィスの好みなのかもしれない。
 若者の死に向き合いながら、こういう「感想(思い)」が動くのは不謹慎かもしれない。けれど、感情というのはいつでも不謹慎なものである。つまり、その場の「雰囲気」にあわせるよりも、まず自分の欲望にしたがって動くものである。
 それは母親の激情と同じである。母親は、そんなふうに大声で嘆くことがその場にふさわしいことかどうかなど考えない。その姿が息子の精神にどんな影響を与えるか、その母の姿をみた息子がどう思うか、など考えない。また、その場に居合わせた他人がどう思うかも考えない。同情するのか、批判するのか。そこには「主観」しかない。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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たとえばもっとほかの方法で

2014-09-27 01:15:44 | 
何かを書くにしても、たとえばもっとほかの方法で書けばよかったのだ、
隣に座っていたあるひとが私に耳打ちした。
直接的に非難すると、意味は通じても感情がつたわらないのだ、
(私は恍惚も深遠も信じているわけではないのだが、

その声は私の鼓膜のなかよりも外の方に大きく響いた。
もしかするとそれは何度も発表されてきた意見かもしれない
と思い、顔をそのひとに向けると、そこにはもう誰もいなかった。
                              ということを
たとえばもっとほかの方法で書くことはできるだろうか。

*

新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
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粒来哲蔵『侮蔑の時代』(10)

2014-09-26 10:58:23 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(10)(花神社、2014年08月10日発行)

 人にはわかっていることがある。わかっていることは、わからないことよりも説明がむずかしいかもしれない。自分で納得しているので、他人に説明する必要がない。「あれだよ」と言えば、「そうか、あれだったのか」と答えて自問自答は完結する。ところが「他人」には「あれだよ」では通じない。自分がわかりきっていることを、何も知らないだれかに説明するとき、何を言えば彼にわかってもらえるか、その「基準」のようなものが見当たらない。「あれだよ」と言われたとき、「あれだよ」ではわからないのだが、あ、この人は何かをわかっている、ということだけがわかる。
 まだるっこしいことを書いたが、「あるいは樽のようなものであるかも知れぬ」を読みながら、そう思った。
 粒来には「あるいは樽のようなものでもあるかも知れぬ」といったとき、「樽のようなもの」が何を指しているかがわかっている。けれど、突然、「樽のようなものかも知れぬ」と言われても、私にはわからない。何を指している? 「あるいは」という限りは、それは「樽のようなものではない」かもしれない。別な何かがあって、「あるいは」と言われている。--ということも、わかる。
 また、「あるいは」と言いなおさずにはいられないのは、それが粒来にとってとても重要なことだからである。「わかっている」。けれど、それは「正確」ではない。「正確」に近づきたい気持ちがあって、「あるいは」と言いなおさずにはいられない。--ということも、わかる。
 粒来が、大事な何かに向き合っていて、それを語ろうとしているということがわかるが、「それ」がわからない。「それ」がわからないだけ、「それ」を語りたいという粒来の思いがわかる。--矛盾した言い方になってしまうが。
 この「矛盾」は、この詩集についてまわる。そのために、私は「怨念」のようなものを感じる。きちんと晴らすことができない思い(明瞭に、正確にできない思い)が残っていて、そのために何かが隠されているような、その隠されているものこそ粒来の語りたいものなのに、そして粒来はそれを語っているはずなのに、私には「怨念」としかつかめない何か……。

 こんなことはいくら書いてもしようがないか……。
 詩を読むと、最初に「写真」が出てきて、その写真のなかには「女」がいる。でも、それは見えない。「女が確かにいた証拠に、さびれた木椅子の上に口と唇がのっている。」これは、記憶に残っている口と唇のことか。
 そう思っていると場面が変わり、「敵」が出てくる。
 それからまた場面が変わり、「樽」が出てくる。

 あるいは樽のようなものであるかも知れぬ。棒のようなものであ
るかも知れぬ。見えすいた嘘で固めた来し方の道。眺望は冴えたか、
はるか向うに浮かれ女の手指のような白浪は見えたか、溺れたか。
--まなじりを決して銃把を握った時眼前にいた敵なるものは後ろ
にもいて、いつもにたにた笑っていたのだ。がに股の大隊長が前へ
前へと叫びながら機銃一挺分の弾丸の全てを腹部に受けた時には、
覚えている、胴が千切れても血は一滴も出なかった。血は初めから
無かったのかも知れぬ。葉先の鋭い草っぱも吾らも一薙ぎに薙ぎ倒
されて、鳥もひとも泣き声一つ挙げなかった。その時この私に梅干
を一つ口に入れてくれた曹長殿!状況ヲ報告シマス。ヒトハイマセ
ン。立ッテイルノハ、ヒトノ影バカリデス……。

 突然、「あるいは樽のようなものであるかも知れぬ。」と言われる。「棒のようなものであるかも知れぬ。」と言いなおされる。
 何が?
 いちばん手直にあることばは、「見えすいた嘘で固めた来し方の道。」
 いままで歩いてきた「道」が「樽」、あるいは「棒」なのか。「棒」はまっすぐ(だけとは言わないが)で硬い。「歩いてきた道」は「棒」という比喩になるかもしれない。「棒」だから、あまり頼りにはならない、武器にはならないが。
 その「棒」と「樽」は似てはいない。「棒」は基本的に「長い」「細い」。中には木の繊維があるだけ。「樽」は「短い」「太い」、そして中に何か「入れている」(空っぽを入れていることもある)。「樽」も「棒」のように木でできている。
 「樽」が「棒」のように「歩いてきた道」の比喩だとすると、その「道」はどんな感じなのか。短く、丸いでは道にならない。「来し方」に注目するならば「過去」が「道」。そして、その「過去」が「樽」ということは、そのなかに「過去」が入っているということになるのか。
 何が入っている?
 何も入っていない。「血」さえも入っていない。ただ、銃に撃たれて死んでゆくという「運命」のようなものが入っているだけなのか。
 人は戦場で死んでいく時、何を見るのか。自分の人生が「棒」のようにはかなく折れる、大して長くもない「一本」の姿として見えるのか。あるいは何も入っていない空っぽの「樽」だったなあ、と思って死ぬのか。
 どちらにしろ、うれしい人生ではないなあ。

 間違って生きていて、それでは死者の数が合わないと死神に後頭
部を拳銃で撃ち抜かれた友よ。死んでなお侮られ蔑まれて、軍靴の
先で犬ころのように転がされた友よ。お情けに半分土をかけられた
墓穴は暗いか。闇は即ち樽の如きものか。ようやくにそこまできみ
を搬んだ末に吹きとんだ杖の所在を知っているか、それは折れたか
裂けたか、腐り果てたか……。

  ここに、また「樽」が出てくる。「棒」は「杖」に変わっている。「棒」を「杖」にして戦場を歩いてきた。歩いてきて、たどりついたところが「銃殺」された場所。そこで墓穴を掘られ、埋められる。墓穴は友の終のすみか。それは「樽」のようなものか。樽の中の「闇」。暗い闇。
 「友」の歩いてきた道(来し方)は「棒(杖)」のように銃弾を浴びて砕けたか、腐り果てたか。
 この友の一生を象徴するには「樽」がいいのか、「棒」がいいのか、わからない。わかるのは、その友のことを語る時、粒来は「樽」、あるいは「棒」を思うということである。その無念さは、「樽」や「棒」のように扱われてしまったということである。
 死んでもなお、「樽」「棒」と呼ばれて侮蔑される男--その「怨念」のようなもを感じる。

 最後にまた、冒頭の写真が出てくる。男がいる。女は、いた気配があるが、実際は写ってはいない。子どもがいる。男は「収容所還りの疥癬病み」のよう。男の子は震えている。そういう描写のあとに、

                            誰も
彼らを罰したわけでもないのだろうが、彼らは侮られ蔑まれる時を
待っている。カメラのシャッターを切ったひとは、写真の中にはい
ない。彼はとうに背景へと立ち去っていて、今しも聖なる袈裟衣を
脱いで笑っているところだ。

 「彼らは侮られ蔑まれる時を待っている。」と、この詩集のタイトルにつながることばが、またここに出てくる。「侮蔑」。
 だれから「侮蔑」されるのを待っているのだろう。
 「聖なる袈裟衣を脱いで笑っている」カメラマンか、あるいはその写真を見るだれかからか。
 それがわからないのと同じように、その写真を見た時、「侮蔑」されるのはほんとうに写真の中の人物なのか、それとも写真を見る人間なのか。
 「ことばの意味」だけで言えば、写真の中の男と少年、そしてそこには写っていない女(たぶん、男の妻)が侮蔑されているということになるのだろう。その男の歩いてきた道(樽/棒という比喩でとられられた過去)が侮蔑されていることになるのだろう。
 けれど、もし彼らが「侮蔑される」ことを待っているとしたら?
 もしかすると、それを見て「侮蔑」する私たちが侮蔑されるということになるかもしれない。



島幻記
粒来 哲蔵
書肆山田

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(189)(未刊・補遺14)

2014-09-26 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(189)

 「敵」はソフィストの「認識」を書いている。あるいは、ことば(認識)への評価の問題について書いている。名声は羨みの種を蒔く。「きみらには敵がいる」というコンスルに対してひとりのソフィストが答える。

「わたしどもと同世代の敵は大丈夫でございます。
わたしどもの敵は後から来るのでございます。新手のソフィストどもです。
われわれが老いさらばえて、みじめに寝台に横たわり、
あるものははやハデスに入った時です。今の
ことばとわれわれの本はおかしく思われ、滑稽にも思われましょうな。
敵がソフィストの道を変え、文体を変え、流行を変えるからでございます。
私たちも、過去をそういうふうに変えてきましたもの。
私らが正確、美的といたすものを
敵は無趣味、表面的といたすでございましょう。

 ことばはいつでも言いかえられる。批判される。新しい基準が提唱され、文体も変われば流行も変わる。それは自分たちがしてきこことと同じだ。同じことが繰り返される。それがことばの「歴史」なのだとソフィストは言っている。
 これは「意味」が非常に強い詩である。「意味」が強すぎて、おもしろみに欠けるが、カヴァフィスの実際の詩のことを思うと、興味深いものがある。カヴァフィスは歴史から題材を多くとっている。「墓碑銘」のようなものもたくさん書いている。それは、史実を踏まえながらも、カヴァフィスのことばで脚色されている。つまり、「過去の書き換え」をやっている。
 そうすると、カヴァフィスもソフィスト?
 あるいはソフィストというのは、一種の詩人?
 そうなのかもしれない。人のいわなかったことばを発する。人のいわなかったことばで人をめざめさせ、新しいことばの「流行」をつくる。--これはソフィストか詩人か、よくわからない。

 この作品は、そういう「意味」とは別に、奇妙なおもしろさがある。中井久夫の訳がかなり風変わりだ。「わたしども」「われわれ」「私たち」「私ら」と「主語」の表記が少しずつ違う。(引用の後の方には「私ども」も登場する。)ふつう、こういう「話法」はとられない。「主語」の書き方はひとつだ。
 これは中井久夫が「わざと」そうしたのだろうか。
 ことば、文体、表記は、常に変わるものである。そういうことを、のちのソフィストの実際として語るのではなく、いま/ここで話していることばさえ変わる。中井は、そういうことを「実践的」に提示して見せているのだろうか。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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作品社

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粒来哲蔵『侮蔑の時代』(9)

2014-09-25 09:50:05 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(9)(花神社、2014年08月10日発行)

 「妄執 2」はやはり「作家故梅崎光生氏に」ということになるのかどうかわからないが、同じように戦場でのことが書かれている。オランダ兵を収容する捕虜収容所で賄いを担当している。食べるものが何もない。男はいろいろ探して牛蒡をみつける。牛蒡を栽培して食べさせる。ふるさとの母が効用を語ってくれた牛蒡。よく育った。

         手首程の太さもある牛蒡は、それでいて柔らか
で、男は故郷の母への手紙でそれを誇ろうとさえ思った程だった。
捕虜達は黙って牛蒡を噛んでいた。

 一度、脱走兵を捜索するために牛蒡畑が荒らされたが、それでも

 幸い大方の牛蒡はうす紫色の花をつけ、収穫期には相当の嵩をも
たらした。引き抜いてみた牛蒡の土を手でこそぎ、男はそれを火に
くべて焼き牛蒡にして食ってみた。芳香は男の腹にしみた。--おっ
母、うめえよ、と男は呟いた。

 食べ物をつくる男の喜びがあふれている。ものをつくるというのは、つらいが、なぜか楽しい。そこには人との交流もある。男は牛蒡をつくりながら、母と一緒に生きている。男は、その喜びのようなものが、当然捕虜たちにもつたわっていると思う。
 ところが、そうではなかった。
 敗戦になり、捕虜の立場が逆転する。男が捕虜になり、オランダ兵たちが男を裁く。男は絞首刑を宣告される。男には……

捕虜に木の根を食わせて虐待したという罪名が付いて回った。木の
根とは男が愛して止まない牛蒡のことだった。彼自慢の、味の確か
な牛蒡のことだった。

 ここに出てくる「愛」「自慢」が男の牛蒡に対する気持ちをあらわしていると同時に、男の捕虜たちへの気持ちをも表わしている。男は捕虜たちを愛していた。つまり、親身になって捕虜たちの食料のことを考えていた。そして、牛蒡を食べて元気でいる捕虜たちは、男にとって自慢できるものだった。同じものをつくり、同じものを食べることで、男は捕虜たちと家族になっている。
 そういうことは書いてはないのだが、「愛」「自慢」ということばが、そういうことを想像させる。男の「人間性」を感じさせる。土とともに生きる「百姓」の生き方の誇りのようなものがある。慈しみ、育て、それを食べることで、一緒に生きる--そういう喜びが男の生き方だ。そして、それは母から学んだものなのだろう。
 あたたかく、美しいことばだ。

 詩の、最終段落。

 某日男は後ろ手に縛られ絞首台に上った。目隠しをされ、首に縄
をかけられた。踏み板が外された時、おとなしい男はここで大きく
放屁した。刑務官はたじろいだ。男は牛蒡臭い靄を体に巻きつけた
まま奈落の底に落下した。男の牛蒡臭い体は宙ぶらりんのまましば
らくは揺れていた。

 これは、なんともおかしい。
 粒来のこの詩集には「怨念」のようなものがある。この詩にも男の「怨念」が含まれているかもしれない。けれど、それは、この詩では笑いのためにずいぶん軽くなっている。そして軽い分だけ共有しやすくなっている。なんといえばいいのか、男は「怨念」を持たずに死んで行ったと思える。
 男は「怨念」を放屁して、死んで行った。 
 この、「怨念」を持たずに、「怨念」を捨て去って死んで行ったということが、なにか安心を呼び起こす。よかった、という思いを誘う。「怨念」をもったまま死につづけるのはつらいと思う。「怨念」をもったままだと、いわゆる「成仏できない」という感じ。それが、この詩にはない。
 「あんたたちを恨んだってしようがない。あんたたちにはわからない。あんたたちには屁の臭いで充分だ」
 この「怨念」の捨て方には、一種の「侮蔑」もある。
 この詩集の多くの詩は「侮蔑」されて生きる人間(動物)のことを書いているが、ほんとうはそれだけではないのかもしれない。侮蔑される。評価されない。それに対して「怨念」を生きるだけではなく、どこかで侮蔑する人間を「侮蔑」しているかもしれない。侮蔑と侮蔑が絡み合って、そこに「怨念」が動いて見えるのかもしれない。
 けれど、この詩では、その「怨念」の動きはない。
 「怨念」を捨て去った後の、死の、悲しい静けさがある。

 牛蒡の効能--母が語っていたという牛蒡の効能が、この最後の段落になってやっと出てくのところもおもしろいなあ。
 牛蒡は繊維が多い。だから便秘の解消に役だつ。繊維が多いから、どうしたって屁もたくさん出る。男は、最後に牛蒡の効能を最大限に発揮して死ぬのである。母と一緒に死ぬのである。母と一緒だから、男は、それほど悲しくはない。死ぬことがそれほどつらくはない。--とは言えないかもしれないが、そういうことを想像させる。その連想も、この詩を「怨念」から解放している。
 不思議に、何度も何度も読み返してしまう詩だ。



島幻記
粒来 哲蔵
書肆山田

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