詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

有働薫『モーツァルトになっちゃった』

2015-01-31 10:36:18 | 詩集
有働薫『モーツァルトになっちゃった』(思潮社、2014年10月25日)

 「モーツァルトになっちゃった!」はいくつかの断章で構成されている。そのひとつ「池袋の通りを歩いていると」はヤマハ楽器店で「クラリネット五重奏曲」の楽譜を買ったときのことを書いている。

You Tubeにアクセスして曲を聴きながら楽譜を追っかけてみた。これがすご
く楽しい。自分自身でいま曲を書いている錯覚におち、もともと楽譜も読め
ないのに、モーツァルトになっちゃった!
冬のぶり返しで冷え込む夜、本棚に死んだ猫の写真

モーツァルトを聴く人はみんなモーツァルトになって聴く
モーツァルトは聴く人をみんなモーツァルトにしてしまう

 ここには不思議なエクスタシーがある。モーツァルトに「なる」。楽譜を書くには、たしかにモーツァルトにならなければ書けないかもしれない。けれど、モーツァルトの曲を聴くにはモーツァルトにならなくても聴ける。ベートーベンだって、モーツァルトを聴いている。聴いても、ベートーベンはベートーベンのまま、
 というのは、しかし、ちょっと違うぞ。
 むしろモーツァルトにならないとモーツァルトの曲は聴けない、聴こえないということかもしれない。
 どこか自分とは離れた場所で鳴っている音楽を聴くのではなく、自分のなかから聴こえてくる音楽を聴く。自分のなかにある音楽がモーツァルトの曲になって駆け出して行く。人の音楽を聴くのではない。
 だからこそ、その前に「自分自身でいま曲を書いている錯覚におち」ということばがある。人は自分の「書いた」曲しか聴けない。自分の「知っていること(肉体でおぼえていること)」しか繰り返せない。
 だから、「他人(モーツァルト)」に「なる」ことは、自分の枠から出て行く(エクスタシー)であると同時に、自分の「肉体の奥」に引き返すことでもある。自分に「戻る」ことでもある。
 「他人」に「なる」のか、「(ほんとうの)自分」に「なる」のか。「自分」から「出て行く」のか、「自分」に「戻る(引き返す)」のか。--これは「論理」にこだわると、「矛盾」になってしまう。だから、こだわってはいけないのだ。「論理」を超えてというよりも、「論理」を破って(破壊して)、そのことばが動く瞬間にだけ感じられる「真理(真実/永遠)」というものがある。それは「論理」にこだわると消えてしまう。
 この不思議な「なる」を有働は別のことばで言いかえている。人は大事なことを何度も言いなおすものである。
 「音階にアルページョを」という断章。

つけただけじゃないかと、後世の譜読み自慢たちはしたり顔でけなすが、ぼく
は自分に聞こえている音楽の実在証明のために楽譜を用いているにすぎない。

 「なる」は「変化」をあらわす動詞。この詩では、たとえば「わたし(有働)」は「モーツアルト」に「変化する」と言いかえることができるのだが、「なる」を「変化」ととらえるのは「一面的」である。「変化」ではない。
 「なる」は「実在」(ある)なのだ。
 それは自分(わたし)を捨ててモーツァルトに「変化する」ではなくて、自分の「肉体」のなかに「ある」モーツァルトを、奥からひっぱり出してきて、「見える」ようにするということだ。それはモーツァルトがモーツァルトの「肉体」の内部に「ある」(内部にあるから、モーツァルトにしか聴こえない)音楽をひっぱり出してきて、楽譜に書き、見えるようにする、演奏して聞こえるようにする。
 それまで隠れていたもの、「ある」のだけれど外からは見えない、聴こえない何かを見えるように、聞こえるようにすることが「なる」。自分の「肉体」のなかに「ない」ものは「なる」にはなれない。「なる」とは自分の発見なのだ。

 有働は詩人であり、翻訳家でもある。翻訳を含んだ詩「サヴィニオ--まぼろしのオペラ」の、次の部分。

《Sperai vicino il lido Credei calmato il vento.....》
(岸辺に近いと願って 風がおさまると信じて……)

 原文(グルック「デモフォンテ」と有働は注釈をつけている)と翻訳を対比させているが、このとき有働はイタリア語(だと思う)を日本語に置き換えているのではない。グルックになっている。それは有働の「肉体」のなかに「ある」岸辺や風をひっぱり出し、願う、おさまる、信じるという動詞をひっぱり出すことでもある。(岸辺に近いと願って 風がおさまると信じて……)ということを有働が「肉体」で「おぼえて」いないかぎり、それはことばにならない。
 何かを願ったこと、何かを信じたこと、--そのときの「肉体」に戻って、ことばを動かす。そのとき有働はグルックになるというよりも、有働の「肉体」のなかに「ある」グルックを自分自身として「生きる」のである。

 「なる」「ある」は「生きる」という動詞のなかで切り離せない「ひとつ」なのだ。この詩集には、そうやって「生きる」人間がたくさん登場する。たくさんであるけれど、その複数の人は、みな「生きる」という「ひとつの動詞」で動いている。「いきる」という「ひとつの動詞」で「有働」として「生まれる」(生まれ変わる)。


モーツァルトになっちゃった
有働 薫
思潮社

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細い階段のぼったところにある

2015-01-31 06:00:00 | 
細い階段のぼったところにある

細い階段を上ったところにあるコーヒー店で、
ことばはきのうの詩のつづきになろうとする。

壁の棚には小さな白いカップがすっかり整頓されている。
その輪郭の反射が見えるだけの、つらくなるような薄暗さ。

ふたりは目をあわせないようにしながら視線の端で相手を確認していた。
テーブルの上ではコーヒーが冷えてざらざらした味にかわる。

--出ようか。
聞こえないふりをすると、

--出ようかと言ったのが聞こえないのか、聞きたくないのか。
--いいよ、ここに用はない。

(この男はけしからん奴だという思いが
ひとこと聞くごとに確信にかわってゆく。)

ということばを、どちらの男の胸のなかに走らせればいいのか。
ことばは迷いながら細い階段へのドアを描写する、その詩。


*

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安水稔和「道の辺の」、佐々木幹郎「静止点」

2015-01-30 10:14:55 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
安水稔和「道の辺の」、佐々木幹郎「静止点」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 安水稔和「道の辺の」(初出『有珠』2014年10月)は菅江真澄の足跡を追いつづける。菅江は何をしたか。(引用ではルビを省略した。)

有珠を立ち
道々。
道の辺の草々を手に
その名を問えば。

 萩  シケツプ
 芒  カバル
 藜  シルナキ
 木賊 ビシビシ

 その土地で草がどう呼ばれているかを尋ねて、それを記録した。そういうことを安水はどんな批評もくわえず、ただ書き記している。確かめている。
 このとき、安水は「菅江」になっているのか、その土地の人になっているのか。「菅江」になって、土地の人に聞いている。「菅江」の耳を反芻している。単純に考えると、そうなるのだが、私はときどき、そこから逸脱してしまう。
 「菅江」になって草の名前を聞き取りながら、次第次第にその「土地の人」になっていく。「シケツプ、カバル、シルナキ、ビシビシ」と繰り返していると、見なれた草が新しく生まれ変わっていく。その「土地の人」になって、草を見つめていることに気づく。「土地の人」に「なる」というのは「土地」になること、その「土地」がへてきた時間そのものに「なる」ことだ。

風が立ち
日が傾き。
道の辺の立木を仰ぎ
重ねて問えば。

 柳   シユシユニ
 榛   ホウケルケニウチ
 黄檗  シケンべ
 山胡桃 ニシコ

 「土地」「人」と一緒に、「土地」「人」を超え、「時間」になるとき、「風」はもうその土地という限定を超えている。「日が傾く」というのはどの土地でも起きる。その傾きは土地土地によって違うけれど、「日が傾く」という動きは同じ。それと同じように「風が立つ」という動きも土地の限定を超える。そして、「名前をつける(名前で呼ぶ)」ということも、その「土地」「人」と一緒にありながら、「土地/人」を超える。「人間」という存在の普遍的な「動詞」となる。
 普遍の風と光のなかで、ことばが動く。
 普遍の「人間」になりながら、安水はまた、「菅江」になり、土地の人になり、土地そのものになっていく。その往復。そんな姿を感じる。止まることのない静かな、そして強い「動詞」が隠れている。



 佐々木幹郎「静止点」(初出「イリプス Ⅱnd」14、2014年11月)。
 「スクティ」と呼ばれる羊の干し肉を舐めながら標高五千メートルの土地を歩いている。スクティの描写が簡潔で美しい。

歯で齧らず 舐めている
枯れきった肉に溶けているもの
ターメリック コリアンダー 唐辛子

 どこの土地とは書いていないのだが、私はネパールとかヒマラヤとか、アジアの山岳地帯を想像した。
 後半は、スクティを舐めると滲み出てくるものが「肉体」のなかに入って、そこでことばになって動く感じがする。

何度も山道で
突然湧き出てきた白と黒の羊たちに取り囲まれた
「人間など やめちまえ!」
「どうせ死ぬだけだ」
角を突き立て 口々に羊たちはわめき
流星のように走り去り
残されたわたしは
スクティを舐めた
魂が破れる 辛い かすかな音がして

 私は「魂」というものが自分のなかにあると感じたことがないし、自分の外にも感じたことがない。「魂」ということばをつかって何かを書こうと思ったことはないのだが、自分というものが「破れる」と感じたことはある。「肉体」がぱっと破れて、四方に開かれる。「肉体」が消えるという感じ。
 佐々木は「魂」と書いているのだが、私は、そこに書かれている「破れる」を手がかりに、自分の感覚を重ねてみた。そういう「こと」、そういう「瞬間」はたしかにある。
 そういうこと、そういう瞬間というのは……

「人間など やめちまえ!」
「どうせ死ぬだけだ」

 この部分。自分ではないものの「声」が突然襲ってきて、私を「破る」。
 誰の声?
 佐々木は、ここでは「白と黒の羊たち」と書いているが、羊は日本語を話すわけではない。
 佐々木の、自覚できなかった声、無意識の声。そして、その声は羊と出合ったとき、突然、聞こえた。佐々木が羊になっている。羊になっているから、羊の「ことば」がわかるのだ。
 「人間」である佐々木が破れた。「人間」が破れた。その「人間」を佐々木は「魂」と呼んでいる。
 「魂」が破れるとき「辛い」かすかな音がするのは、佐々木の舐めている「スクティ」の香辛料の味が「辛い」からだろう。佐々木は、佐々木を取り囲んだ「羊」と一体になっているだけではなく、その羊がその後なるだろうスクティにもなっている。羊の「一生」になって、生きている。その「一生」は死んで食べられるというのではなく、食べられて誰かの「肉体(魂)」になる、というところまで含んでいる。
 「羊」になったあと、佐々木は、さらに変わっていく。

崖の下から熱い砂嵐が襲ってくる
目をつぶると
馬も耳を垂れ 四つ足を垂直にして
目をつぶる
地上から 浮いていることがわかる
馬とともに
崖の上の山道で わたしは風に溶けた

 砂嵐のなかで「目をつぶる」、そのとき「馬」も「目をつぶる」。馬に乗っていたのかもしれないが、砂嵐に襲われて、佐々木は馬から下りて立っているかもしれない。「四つ足を垂直にして」というのは馬の描写だが、このとき佐々木は二本の足を垂直にしている、ふんばっているのだろう。「足を垂直にして立つ」「目をつぶる」という「動詞」のなかで「肉体」が馬と同化する。一体になる。そして、馬と一体になった佐々木は、そのとき「自然」そのものとも一体になる。風になる。羊→馬→自然(風)。この自然は「宇宙」と言いかえることができる。
 「魂」が「破れ」、「風」に溶ける(風と区別のつかないもの、風そのものになる)ことで、佐々木は、「宇宙」に「なる」。
 こういう瞬間を、この村の人たちは……

村人たちはみな
祖先が猿であることを誇っている

 という具合に言っていた。(引用の順序が逆になってしまった。)
 「人間」という「枠」をとっぱらう。「人間」という「枠」にこだわらない。「いま/ここ」に「ある」。「ある」とき、人は何かになっている。何になるか、こだわらず、「なる」が自在に動くとき、そこに「宇宙」があらわれる。動物とひとつづき、連続している、動物と一体であるというのは、それだけ「宇宙」に近い。だから「誇り」である。
 いいなあ。
 詩のタイトルは「静止点」。この「静止」は、止まっているというよりも、どこへでも動けるという「静止」だ。「自在」をささえる「静止」、ある動き(ベクトル)にこだわらない感じ、こだわりを「破る」瞬間だ。「点」であるけれど「宇宙」全体でもある。遠心と求心が合体した瞬間としていの「点」だ。
 アンソロジーの最後をしめくくるのに最適な詩だ。

明日
佐々木 幹郎
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夕暮れの灰色の空を

2015-01-30 06:00:00 | 
夕暮れの灰色の空を

夕暮れの灰色の空を固まっては崩れ、また固まって飛んでいる、
あの無数の鳥の群れは何という鳥なのか。

光をどこかに隠している灰色の空はどこまでも広く、
鳥の群れは無数に見えてもその広さを埋めつくすことができない。

黒い小さな影になって呼びあうこともない鳥の群れは
どこへ飛べばいいのかわからないまま、その形を崩しては建て直す。

はじき出され飛び散ってしまいそうになる一羽になることを恐れているのか、
一羽になってしまおうとする鳥がいることを他の無数が恐れているのか。

感情が割れてしまって別なものになるのを恐れるように
夕暮れの灰色の空を、固まっては崩れ、また固まって飛んでいる。


*

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藤原安紀子「ヲカタ カタン」、文月悠光「無名であったころ」、安田雅博「製材所の跡地」

2015-01-29 10:07:18 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
藤原安紀子「ヲカタ カタン」、文月悠光「無名であったころ」、安田雅博「製材所の跡地」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 藤原安紀子「ヲカタ カタン」(初出「びーぐる」25、2014年10月)は何が書いてあるのかわからない。タイトルが何語なのかもわからない。

みちのくわ地にまき来る よほう師の群れをみると ぼくはたってねむる
均等に 丘ごもり するためだ

 書き出しの2行だが、読んで情景が浮かぶのは「ぼくはたってねむる」。主語、述語のつながりが納得できるからである。
 ただし、「意味」は「わかった」とは言えない。直前の「よほう師の群れをみると」の「みると」は「見る」だと思うのだが、「見ると」「ねむる(眠る)」が対立(?)する動詞なので、私は悩んでしまう。
 「見る」のをやめて「眠る」のか。
 「みる」と「ねむる」の関係、切断/接続がわからない。「ねむる」と次の「丘ごもり」の「こもる」は「接続」がわかる(かってに「誤読」できる)。「ねむって/こもる」。冬眠のような「こと」を想像する。そう「誤読」する。
 私は、詩は「ことばの切断/接続」の関係のなかにあると思っている。あることばが別のことばと結びつくとき、それまでの関係を断ち切り(切断)、新しい関係を結ぶ(接続)。その「新しさ」が詩だと感じている。「誤読」の可能性が詩だと感じている。
 切断/接続がわからないと、お手上げ。
 また、どんな国のことばでも「動詞」が基本だと思っているので、その動詞の関係(何を切断し/何を接続するか)がわからないと、そこに書かれていることばについていけなくなる。
 藤原に言わせれば、切断/接続がわかってしまうと、それは詩ではなく「論理」になってしまうのかもしれない。「論理」にならない状態の発語、観念を経ない発語こそが詩であるということかもしれない。
 「論理」というのは、どうしたって「観念」。
 「観念」の世界では、「論理」なしでは何事も起きない。叙述できない。--これを逆手にとって、「論理」なしで何かを叙述すれば、それは「観念」ではなく、「観念」以前のことば、詩になる、ということかもしれない。
 そういうことは、考え方としてありうるかもしれないけれど、私はどうも納得できない。

こうして旋回時間のきやくが わからない川縁を歩き ふんぬして投球する
いくたびも胸打たれ ふりしぼって掴み 夏の木の葉にぶら下がる

 「きやく」「ふんぬ」は「規約」「憤怒」だろうか。「客」ということばも不意に浮かんでくる。「投球する」も「ぶら下がる」もほかの「歩く」「ふんぬする」「打たれる」「ふりしぼる」「掴む」も動詞としてわかるのだけれど、それを私の肉体でつないでいくとき(その動きを想像してみるとき)、それが一続きにならない。どういう「感情」がそれだけの動詞を接続させているのか、わからない。「誤読」できない。
 藤原にとっては、「動詞」さえ、ばらばらにばらまくことができる「名詞」なのかもしれないなあ。名詞をあらゆる「こと」から切断し、「ここ」に集めてみせるとき、その多様性が詩であるということかな?



 文月悠光「無名であったころ」(初出「ユリイカ」2014年10月号)にもわからないところはあるが、藤原の詩を読んだあとだと、全部「わかる」と言いたくなる。「接続」が多い。

音を拾いはじめたマイク、
きみは忠実に話す。
これはテストではない。
落とされた影、
光はもう降りそそいでしまった。

 どこかで「きみ」が話している。マイクに声が拾われているのだから、広い会場だろう。「落とされた影」は「影」をつくるライト(光)を浴びているということだろう。「テスト」ではなく「本番」だ。
 そのあと(散文形式の3連目)に、

吸って吸われて空気、歪みはじめている。

 という魅力的なことばがある。魅力的と感じるのは、1連目のライトを浴びて何事かを話しはじめた「きみ」が、(あるいは「きみのことば」が)、変化しはじめるということに通じるものがここに書かれていると「誤読」できるからである。「誤読したい」という欲望をそそるからである。ことばは接続/切断を繰り返すから、それはどうしたって「客観的な世界」とは別の「きみの世界」(固有の世界)になる。その「固有」というのは「歪み」である。
 この「固有の世界」の誕生は、そのまま「神話」でもある。

まぶたをおしあげる力が
この星をかたちづくった。
空が、月が、海が、できていくのを
わたしたちは尾を振りながら見ていました。
土と契約し、
雨と契約し、
風と契約し、
記述できないまなざしを交わし合った。
世界が無名であったころ、
わたしたちの血は
見えない宇宙にも流れていた。

 その「契約」が、文月にとっては詩ということになる。世界との固有の契約(文月語によって書かれた契約)--それが、詩。



 安田雅博「製材所の跡地」(初出『跡地の家族たち』2014年10月)は文体(思想)がおもしろい。独特である。製材所には当然のことだが材木があった。そして、そこでは人が働いていた。跡地に立って、その消えた人と材木を思っている。

何十万本何百万本の脚の踏み固めた地面を呑み込んでいる跡の更地に
層をなして積もる踏んだ一歩一歩の時間の残滓の上に 用済みになり
いなくなった人たちの 材木に取り付く何本もの手 押して進む何本もの脚
吐く息 前方を見つめる目
人も物も 下方から支えていた空無の底へ あるともないとも知れないところへ
落下している
「人」は<ノ>と<逆ノ>に
「木」は<十>と<ノ>と<逆ノ>に
「材」は<十>と<ノ>と<、>と<才>に 砕かれ
名前のないあらゆるものとともに

 「存在」(ひと/もの)が「存在」そのものとしてではなく、いったん「漢字」でとらえれらて、そこからことばが動いていく。「存在」が「観念」になって、その「観念」を「漢字」の構造(部分?)から見つめなおしている。「ノ」というカタカナや読点「、」まで登場するのだが、うーん「ノ」「、」かと私はうなってしまう。私は「木」の三画目を「ノ」と思ったことはなかったし、「材」の四画目を「、」と思ったことはない。「、」ではなく、安田の表現にしたがえば「逆ノ」だろう。「材」の「部首」は「木」だろう、と思ってしまう。
 私は、見える形と、その形が内包している「意味」は違うと考えている。「形」そのものがすでに「意味」によって変形させられている。合理的に処理されている。だから「形」から「意味」を探るときは慎重さが必要だと考えている。ところが、安田は「形」が内包している「意味」(「材」の部首は、「木」というようなこと)をとっぱらって見ている。「意味」なんかなかったという具合に見ている。「時間の残滓」ということばが出てくるが、「意味」をとっぱらってしまうと、それは「意味」をつくるときに捨ててきた「残滓」のように見えてくる。
 「残滓」を見つめながら、「残滓」ではなかった「時」へもどって「存在」をもう一度組み立て直しているような、奇妙な、粘着力のあることばの動きだ。「無意味」なことばの構築、それを可能にする粘着力というものを感じた。そして、それが「無意味」だからこそ、そこに詩を感じた。安田の「肉体」だけがかかわっている何か、そういうものを感じた。

 安田の詩を読むのは、私は、たぶん初めてだ。先日読んだ「色即是空」の中野完二も初めて読んだ。初めて読む人のことばは、とてもおもしろい。「初めて」のなかに、詩がある。

跡地の家族たち
安田 雅博
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詩のことば

2015-01-29 00:22:31 | 
詩のことば

女が歩いてくる。服が揺れる。
しなやかに光る布が、女の体の動きを少し遅れて反復する。
女の欲望がめざめて
表にあらわれてくるようだ。

詩のことばも、そんなふうだったらいい。

読んだ人のまわりで
ことばが揺れる。
意味をほどかれたことばが
人のおぼえていることを
少し遅れて反復する。
言いたかったことが
目覚めて動く。

少し遊びのあることば、
少し間違えたことば、
の方が
詩のことば



*

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アハロン・ケシャレス&ナボット・パプシャド監督「オオカミは嘘をつく」(★)

2015-01-28 20:47:41 | 映画
監督 アハロン・ケシャレス&ナボット・パプシャド 出演 リオル・アシュケナージ、ツァヒ・グラッド、ロテム・ケイナン、ドブ・グリックマン

 クエンティン・タランティーノが絶賛したそうである。予告編を見るかぎり、そういう名作という印象がなかった。そして、実際に見てみたら、やっぱり駄作。予告編の映像には立体感がなかった。映像の情報が紙芝居のように美しい。底が浅い。映像のなかに謎の情報がちりばめられているという印象がない。それが猟奇的な殺人とその謎解きというには、かなり不似合い。
 また、最後が大どんでん返しという触れ込みだったけれど、どこが? それ以外にない結末(犯人)だった。
 おもしろい部分をあげるなら、「目には目を」の精神がイスラエルには完全に根付いているのだと感じさせる部分。拷問がエスカレートしていく、そしてそれを楽しんでいるのがすごい。指を折る、爪を剥ぐというのは拷問の常識。「おまえは軍隊で何を学んできたんだ」という父親が登場し、「拷問にいちばんいいのは火だ」と教え、バーナーで体を焼く。「目には目を」をあっと言う間に超えてしまうんだけれど、その匂いを嗅ぎながら「いい匂い」とうっとりする。ブラックユーモアにかえてしまう。食事療法で肉を断っているので、肉のこげる匂いがなつかしい。父親が息子に「おまえは子どものときバーベキューが好きだったよなあ(ハンバーグだったかもしれない。忘れた)」というようなことを言いながら微笑みあうシーンなんか、傑作だなあ。
 あと、男同士の陰湿な拷問とストーリーが、母親、妻からの電話(女性からの電話)で何度も中断するのも、この映画をスリラー・サスペンスというよりもブラックコメディーに仕立て上げている。
 衝撃の大結末などという触れ込みではなく、ブラックコメディーを前面に出して宣伝すべきだろうなあ。そうしないとケーキ作りのシーン(ケーキを食べたあとのシーン)なんかが浮いてしまう。ストーリーの「ご都合」になってしまって、おもしろくない。ブラックコメディーだからこそ、わざわざ卵を割って、タイマーをつかって、というていねいな手順が効果的なのだ。
 売り方を間違えた映画だね。「謎解き」を前面に出すと、神経が「誰が犯人?」という部分に働いてしまって、気楽に笑えない。笑いの毒に、「あっ、やったね」と拍手が出来ない。そういう余裕が亡くなる。
 それにしても。
 最初のタイトル紹介の部分に「イスラエル(政府/大使館?)」がこの映画を「推薦」みたいなことをしているという表示がなかった? こんなイスラエルの「目には目を」主義を前面に出した映画を「政府公認」にしていいのかなあ。悪い印象が生まれない? それとも、何かあれば「目には目を」でやり返すぞということを映画を利用してアピールしたいのかな?
                      (2015年01月28日、KBCシネマ1)




「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
フットノート [DVD]
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アメイジングD.C.
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中森美方「春潮の喜び」、野村喜和夫「わが生涯」、藤富保男「向こう岸」

2015-01-28 14:24:14 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
中森美方「春潮の喜び」、野村喜和夫「わが生涯」、藤富保男「向こう岸」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 中森美方「春潮の喜び」(初出『幻の犬』2014年10月)は、「わたし」が海辺の、生まれ育った土地へ帰ったときのことを書いている。

 わたしはわたしに会いに来た しかし もうどこにもわ
たしはいないことを確認する 今のわたしはわたしでさえ
ない何者かだ 生きるということでわたしはわたしを失っ
たのだろうか 春潮はわたしの内部まで満ちてきている 
わたしは春潮の一部となって揺れ動く 空虚なわたしは喜
びに充たされる

 この最終連だけを読むと、「わたし」は空虚だ。けれど、その空虚を古里の春の潮が充たしてくれるので、喜びがわいてくる。古里の海はやさしい、という感じに読めないこともないのだが、「空虚」がどういうものか、中森のことばからは伝わってこないので、こころもとない。
 この直前の連には「人々の姿は消え小屋は失われ」という古里の状況が書かれているが、だから空虚?
 でも、さらにその前の連には「むこうからひとりの老婦が近づいてくる(略) その人はわたしの母のようでもあり祖母のようでもあり まったく他人のようでもある つまり すべての人のひとりだ」という行が書かれている。「地霊の化身に違いない」とも。
 私は「地霊」というものなど見たことも感じたこともないので、よくわからないのだが、そういうものを見たり感じたりするとき、それでもそのひとは「空虚」なのだろうか。「すべての人のひとり」を、それが「幻」であれ、見るとき、その人は「空虚」なのだろうか。それは、「わたし」の「空虚」を埋める「春潮」と、どう違うのか。なぜ「地霊」を感じたとき、「空虚なわたしは喜びに充たされた」とならなかったのか。
 詩は「論理」ではないが、中森のこの詩には「論理」というものがない。
 「すべての人のひとり」である「老婦」を見たのなら、そのとき「わたしはわたしに会いにき」て、そして「会っている」。会ったあとで、目を閉じて、その老婦を消している。そういう「殺人(自分殺し/自殺)」をしたあとで「もうどこにもわたしはいないことを確認する」、つまり「空虚」だと言われても、それは中森の行為が招いた必然に過ぎない。そういう必然の空虚を春の潮が充たしてくれる--なんて書かれては、ばかばかしいロマンチシズムに腹が立つだけである。



 野村喜和夫「わが生涯」(初出「びーぐる」25、2014年10月)。この詩では、野村は、那珂太郎をやっている。

ひと肌のひくみとか瑠璃色の旗ひとそろいとか
うすいひかりの呪符ひとひらにさえ驟雨添え
ない蛇の自在さほしさには海ひとつまみウニ人妻みえ

 これはソネットの3連目。「ひと肌のひくみ」が、私は、特に気に入った。「ひくみ」は「下ネタ」の「下」につながる「ひくみ」。この上品ぶった下品がとてもいい。「ひと肌」と「ひくみ」で「ひとそろい」、だね。
 次の行の「呪符……さえ」「驟雨添え」の音の揺らぎもおもしろい。さらに末尾の「添え」が行わたりして、「添え/ない」とつながるところが楽しい。
 あ、「人肌のひくみ」に「添えない」蛇(ペニス?)だったのか。残念だね。
 「海ひとつまみ」「ウニ人妻み」というのはだじゃれになってしまっていて、私は好きではないのだが、

かくてわが生涯にわたって宙まろか脂身あわく
アフロディテな泡食うひとひた走るひっかき跡
あわれあわれ襞ばしる皮下掻きアート

 とあくまで音で遊ぶなら、それはそれで楽しい。「ひた走る」「襞ばしる」って、何やら「人妻」の「襞」を大急ぎで愛撫しているようでおかしい。「そんなにひっかかないで」「いや、これは皮下掻きアート(皮/肌の下=内部、奥を掻くアート=芸術)なんだ」とくだらないいさかいをしているようで笑い出してしまう。
 「だじゃれ」というのは「論理」的だからばかばかしい。
 那珂太郎には、こういう「すけべ根性」のような遊びがなかったなあ、上品すぎたなあ、それが残念だなあと、なつかしく思い出してしまう。

 私は「だじゃれ」は好きになれないのだが(ふたつの「意味」を掻き混ぜるというのがめんどうくさい)、野村の人目をはばからない「下品」な肉体感覚、それを音にしていく強さは好きだなあ。「頭」をつかって音を探しているのに、その「頭」を「すけべ」で隠す--その「頭」に対する恥じらいのようなものが、とても「かわいい」と思ってしまう。純真なすけべというのは「常識」からすると「矛盾」なのだが、矛盾だからそこに野村の「肉体(思想)」が噴出してきていて、それが楽しい。



 藤富保男「向こう岸」(初出『一壷天』2014年10月)。「霊岸あるいは黄泉の国の様子を知らしめよ」と言って、「打出の小槌」を振る。そうすると、暗闇のなかに幹線道路がつづいているのが見えてきた。両側に、

 明かりがつづいて、ぼんやり光っている。よく見ると、
その光に映し出されているのは、理髪店、理髪店、理髪
店、理髪店、理髪店、理髪店、理髪店、理髪店、…………
 …………どこまでも理髪店。

 そのあと、理髪店の三色棒(サイン・ポール)についての蘊蓄が書かれていて、それがいわば「起承転結」の「転」のような働きをしたあとの「結」。

 この幹線道路には、どういうものか美容院が見当たらな
い。こちらが男性だからだろうか。
 大きく空咳をして、もう一度打出の小槌を振って帰還し
たのである。

 頭を撫でてみると、つるっと禿げていた。

 私は笑い出してしまった。私は藤富保男と会ったことがあるわけではないのだが、頭の毛が少ないのは写真で知っている。その「頭」を思い出したのである。
 「打出の小槌」というような「嘘」を書きながら、最後に「ほんとう」を書いて、「嘘」を「ほんとう」にしてしまう。「理髪店」ということばを何度も何度も書いて、それが潜在意識として定着していると、自分自身を笑ってみせる。
 そうか、ユーモアとは自分を笑ってみせる余裕のことか。

風の配分
野村 喜和夫
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誕生日の翌日

2015-01-28 01:35:03 | 
誕生日の翌日

青いガスの炎が花びらのように広がっていく、
その一行を書きたくて
コーヒー茶碗と受け皿とスプーンをととのえる
砂糖もミルクもつかわないが
朝の光をはじくためにスプーンはなくてはならない

テーブルの上に薔薇。
きのうの夜とは違った形で影をつくっている


*

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又吉直樹「火花」

2015-01-27 12:10:45 | その他(音楽、小説etc)
又吉直樹「火花」(「文学界」2015年02月号)

 「天才芸人の輝きと挫折/満を持して放つデビュー中篇!」という触れ込み。「文学界」増刷して4万部の発行とか。私はテレビを見ないので、又吉直樹がどういう芸人なのかまったく知らない。書店でみつけて、やっと立ち読み。

 大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい陽射しの名残を夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。
    (10ページ、私は目が悪いので転写ミスが多い。原文で確認してください。)

 書き出しである。文章が古くさい。「道は……踏ませながら」という日本語らしくない言い回し(昔の翻訳小説みたいな言い回し)が気に食わない。読むのをやめようかな。でも、雑誌で4万部の小説を書き出しだけで、つまらないからやめた、というのもいいかげんすぎるかなあ。どうせなら、ここも嫌い、あこも嫌いと書き並べてみようかな、と思って読みはじめた。
 すると、おもしろい。「僕」は芸人の「神谷さん」と知り合い、師とあおいで、ときどきいっしょに行動する。そのことが延々と語られる。ときどき「部屋を舞う埃が朝日に照らされ光っているのを眺めていた」というような「小説らしい」描写をはさみながら、漫才のオーディションの様子、漫才に対する「哲学」が語られる。その部分は「真剣」があらわれていて、とてもおもしろい。「真剣」というのは、どういときでも、そこにいる人間が「正直」に動くので、ついついひきつけられてしまう。ひきつけられるけれど、それで「わかる」のかと言われれば、まあ、わからないのだけれど、わからなくてもかまわない。作者も、読者がわかるかわからないかを気にしていない。気にしているかもしれないけれど、その読者への配慮を超えて、「真剣」が出てしまう。そこに、魅力がある。
 これは「僕」自身の「神谷さん」への「感想」とも重なる。

 神谷さんと一緒に吉祥寺の街を歩くのは不思議な感覚だった。神谷さんは、なぜ秋は憂鬱な気配を孕んでいるかということについて己の見解を熱心に聞かせてくれた。昔は人間も動物も同様に冬を越えるのは命懸けだった。多くの生物が冬の間に死んだ。その名残で冬の入り口に対する恐怖があるということだった。その説明は理に適うかもしれないが、一年を通して慢性的に憂鬱な状態にある僕は話の導入部分から上手く入っていくことが出来なかった。(21ページ)

 「熱心」とは「真剣(正直)」の別の言い方だろう。自分の思っていること、考えていることに対して真剣になる。そのとき、ひとは、その真剣についていけないときがある。ただし真剣はわかる。感じる。
 ここに出てくる「熱心」が、どの部分にも満ちている。「熱心」がことばを動かしている。
 この「熱心」の対極にある態度は、どういうものか。「神谷さん」に語らせている。

「聞いたことあるから、自分は知っているからという理由だけで、その考え方を平凡なものとして否定するのってどうなんやろ? これは、あくまでも否定されるのが嫌ということではなくて、自分がそういう物差しで生きていっていいのかどうかという話やねんけどな」(23ページ)

 「物差し」の構え方。自分の「熱心(正直)」から発したものではない「物差し」は個人にとって有効か。そういうことを、ふたりは考えている。
 ここから「ことば」に対する「哲学」が語られる。

神谷さんが面白いと思うことは、神谷さんが未だ発していない言葉だ。未だ表現していない想像だ。つまりは神谷さんの才能を凌駕したもののみだ。(63ページ)

神谷さんが相手にしているのは世間ではない。いつか世間を振り向かせるかもしれない何かだ。その世界は孤独かもしれないけれど、その寂寥は自分を鼓舞もしてくれるだろう。(63ページ)

 「僕」は「神谷さん」を通して「漫才のことばの理想」と出会っている。ことばを動かす情熱と出会っている。その出会いを、この小説は真剣に書いている。

神谷さんから僕が学んだことは、「自分らしく生きる」という、居酒屋の便所にはってある様な単純な言葉の、血の通った激情の実践だった。(72ページ)

「漫才はな、(略)共同作業みたいなもんやん。同世代で売れるのは一握りかもしれへん。でも、まわりと比較されて独自のものを生み出したり、淘汰されるわけやろ。こう壮大な大会には勝ち負けがちゃんとある。だから面白いねん。でもな、淘汰された奴らの存在って、絶対無駄じゃないねん。(略)一組だけしかおらんかったら、絶対にそんな面白くなってないと思うで。」(72ページ)

 こういう「激情」の「真剣」の美しさの一方、静かな美しさもある。私がいちばん好きなのは、「僕」が「神谷さん」と一緒に「真樹さん」のアパートへ「神谷さん」の荷物を取りにいくところ。「真樹さん」は「神谷さん」の恋人だった。けれどあたらしい恋人ができて、二人は別れることになる。新しい男のいるアパートへ行って、必要な衣服をまとめて、アパートを去る。そのときの男の様子は「いつも神谷さんが座っていた場所に、作業服を着た男が座っていた。(略)胡座をかき再放送のドラマを眺めて泰然とはしているが、静かに殺気だっていた」と短く書かれているだけなのだが、「再放送のドラマ」という具体的なことばで「時間(その男の過去)」が明確に浮かび上がってくる。一瞬しかとを登場しない人物の描写にも手抜きがない。そういう描写のあと、

もう二度と、このアパートに来ることはないだろう。上石神井に来ることもないかもしれない。この風景を大切にしようと思った。(52ページ)

 私は、ここで涙が出そうになった。「この風景を大切にしようと思った。」の「この風景」は、「僕」にしかわからない。でも「大切にしようと思った」の「大切」は、それを越えて伝わってくる。他人にとってはどうでもいい風景。けれど、あるとき、ある瞬間、そこで「おきたこと」と一緒にある。それは「大切」にするしかない。
 又吉は「大切」を書いている。
 「激情」「熱心」が動かす「哲学」は何度も語られているが、「大切」がそれを支えている。又吉は「大切」を書いたのだ。こんなふうに「大切」を描いた小説を、私は、最近読んだことがない。

文學界 2015年 2月号 (文学界)
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文藝春秋

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時里二郎「伯母」、中島悦子「声をめぐる」、中野完二「色即是空」

2015-01-27 10:42:07 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
時里二郎「伯母」、中島悦子「声をめぐる」、中野完二「色即是空」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 時里二郎「伯母」(初出「東京新聞」2014年10月25日)。

 山羊のいる蠣殻の白い坂道を岬にまでのぼり 中世の烽
火台跡のあるその突端に 伯母と二人して 私のリハビリ
は続いた
 アンドロイドである私に母がいるはずがないのに いる
はずのない母が 私の言葉に不具合をもたらしていると 
伯母は言う

 これは書き出しだが、ここに時里のことばの特徴が集まっている。「山羊」「蠣殻」「烽火台」と言った具体的だけれど、日常(身の回り)ではあまり見ないものが登場する。「もの」が「過去の時間」を抱え込んでいる。その一方で「アンドロイド」という日常には存在しないものが登場する。ただし、現実には存在しない「アンドロイド」(未来の存在)は、ことばとしては「山羊」「蠣殻」「烽火台」と同じように古い。誰もが知っていることばである。歴史的に見ると、「山羊」「蠣殻」「烽火台」と「アンドロイド」は同じ時代に生まれたことばないが、時里という「個人の時間」のなかでは「同じ時間」に存在する。時里がそれらのことばを自分のものにしたのは、せいぜいが半世紀の間のことである。時里の「半世紀」という「時間」のなかに「山羊」「蠣殻」「烽火台」も「アンドロイド」も「同時に」存在する。歴史的時間と個人的時間は違うのである。そして個人的時間のなかで歴史的時間は凝縮されて反復される。ふたつの時間の交錯、衝突、融合のようなものが時里の「ことばの肉体」をつくっていく。
 このとき、時里の「ことばの肉体」を動かす力の源、エネルギーのようなものは何か。それは「論理」である。そして、その「論理」は、少しおもしろい特徴を持っている。
 「アンドロイドである私に母がいるはずがないのに いるはずのない母が」という部分に「いるはずのない」が二回繰り返されているが、この「ない」を考える「論理」が時里の特徴である。「ない」ものは「ない」のだが、その「ない」を考えることができる。「ある」ものを考えるときは「実物」を動かして実証(実験)できるが、「ない」ものを考えるときは、それは「考え」のなかだけ。「ことば」のなかだけ。時里は「ない」を利用して、「ことば」のなかだけへと動いていく。どんなことも「ことば」にして、それを動かしていく。ことばを優先させて、「現実」をことばにあわせようとする。こういうことばと現実のありかたは、一般的には「非現実的」だが、「ない」ものを出発点にしているのだから、「非現実的」という批判はあたらない。そこではどんなことでも起きうる。現実に不可能なことも起きうる。いや、「現実になる」--時里が現実にしてしまう。ただし、ことばの動く範囲でのこと、ことばのなか、「虚構」のなかでのことではあるが。
 「ない」を起点にして動くことば、その矛盾といえばいいのか、嘘は、たとえばここでは「伯母」という形で具体化される。「母」がいるはずがない(いない)ということは、わかった(時里が書いている)。では、「母」がいないのに「伯母」がいるというとこがありうるのか。ありえない。ありえないけれど、それを無視して「伯母」の存在は絶対にゆるがないものとしている。「実在」も「非在」も、嘘なのだ。「論理」を装いながら時里のことばは動くが、そこには「実在」も「非在」もない。「こと」はただ「ことば」のなかにだけある。「ことば」という音のなかに「こと」が含まれるように。「ことば」だけが、時里にとっての「実在」であり、「論理」はその「実在」を「非在」へ向けて動かしていく。
 この詩では、時里のことばは、

 たひ やふ をす けさ おも わひ とふ

 標準日本語では何を指しているのかわからない二音節のことばと出会いつづける。「アンドロイド」はその「二音節」のなかに、「ことば」の発生を見ている。ある「実在」のものがあり、その「実在」を他者にとどけるために「声」で「音」を出し、「意味」にするという「ことば」の発生現場を生き直す。「ことば」の「論理」に頼る前のエネルギーを手に入れるという方向へ動いていく。
 それはしかし、「論理以前のエネルギー」にもどりたいからというよりは、そこにあるエネルギーをつかみとることができれば、「論理」をさらに強靱にできると夢見ているからだろう--と私は思う。
 時里のこの嗜好(指向?)は強烈で、その論理はあまりにも破綻がなさすぎて、ときどき、こんなにていねいに書かない方が詩らしくなるかもという印象を引き起こす。



 中島悦子「声をめぐる」(初出『藁の服』2014年10月)。

「悪い子はおらんかあ」。「泣く子はおらんかあ」。市民は低温火傷が痛いとようやく気付いているが、なすすべはない。「悪い子はおらおらおららんかあ」「泣く子はおらおらおららんかあああ」。涙を隠して、体育館で布団を敷き続けた。その布団にはまだ声が残っている。低温火傷は、見た目よりずっと深く、骨まで達している。
 
 こんなふうに詩の一部(引用したのは3連目)だけを取り出すと、何のことかわからない。いや、全体を引用しても、わかりにくさは変わらないと思うが、一部だけをとりだすとよけいにわからない。
 「悪い子はいないか、泣く子はいないか」と鬼が家々をまわる民俗行事。空中ブランコ乗りの話。小さな島国全部に毒が広がり、こどもが鼻血を出すという話が組み合わさる。体育館での避難も加わる。
 なんとなく、東京電力福島原子力発電所の事故を思い出す。放射能の影響は「低温火傷」のようにじわじわと肉体を蝕む。原子力発電に頼った生活は空中ブランコ乗りのように、「観念の中で幻のように存在する」ということか。
 中島のことばは「論理」的ではない。「こと」がばらばらに噴出してくる。中島の「肉体」のなかでは、「こと」はつながっているのだろうけれど、きちんとした「論理」でつなげることは私にはできない。できないのだけれど、あるいはできないからこそ、その「こと」を私はかってに結びつけて「論理」にしてしまう。「誤読」してしまう。
 つまり。
 私は中島のことばを借りて、中島がこんなふうにして東京電力福島原子力発電所、その事故の被災者のことを考えていると、かってに考える。あ、私も、この問題について考えてみなければいけないなあと、ぼんやりと思い返す。
 詩だけにかぎらず、文学(あるいは芸術の全てがそうかもしれないけれど)とは、そこに何が表現されているかということよりも、その表現に触れて、自分が何を考えるか、ということなんだろうなあ。
 中島の詩とは関係ないことを書いたかな?
 (『藁の服』はとてもおもしろい詩集。別の作品をとりあげて感想をすでに書いているので、検索して、そちらもお読み下さい。)



 中野完二「色即是空」(初出『へびの耳』2014年10月)は郵便物を投函にポストへ行く。その途中、へびを見かけるのだが……。

郵便物を投函して同じ道を戻った
へびはもういなかった
けれども
へびがいたあたりに
浅葱の色だけが横に長く浮いていた
ヒトのくるぶしぐらいの高さに
色だけが漂っていた
へびはもういないのに
実体はないのに
色だけがある
色は形だろうか
記憶だろうか
色のへびが
色だけで生きているように
ぷくぷく動く
色も変化する
浅葱から青空色になった
本日は晴天なりである
青空色のへびは
明日があると言うように
青渭神社に向かって
歩行者用押しボタンも押さずに
車道の上を飛んでいったが
とうとう見えなくなった

 あれっ、「色即是空」って、そんな意味? 何か違う感じがするのだけれど、そういうことかも。生命あるものが、死んで行く。あるときはへびの形をしている。しかし、へびという形にこだわってはいけない。こだわると、へびしか見えなくなる。
 「実体」のないところに「真実」がある。「実体」にとらわれていては「真実」はつかめない。
 というようなことを、ことばにしていくと、ややこしい。
 なんだか、とてもおかしいが、そのおかしさが、詩なんだなあ。
 へびは、もしかすると車にひかれてぺしゃんこの「色」になっていて、それが風に飛ばされ(車が走るときに起きる風に飛ばされ)、飛んで行った、ということかもしれない。いや、無事に車道を渡って逃げていったということかもしれない。
 書いてある通りに、へびをそこで見た記憶がよみがえり、その記憶の中では「色」の印象がいちばん強かったということかもしれない。
 どっちでもいいが(と書くと中野に申し訳ない気もするが……)、その「色」から「色即是空」を思い、「色即是空」に近づく(?)ようにことばが動いていく--その動き方がおもしろいなあ。
 いいかげん(?)でいいなあ。
 あ、このときの「いいかげん」というのは、「こだわりがない」という意味なんだけれど。
 時里のことばのように「論理」でがんじがらめではない。

あのへびは
亡くなられた
太極拳の師家・楊名時先生が
毎朝のようにくださった電話の代わりに
顔を見せてやろうと
この世にお出ましになったのではないか
志を色で見せてくださったのかもしれない

 そうだといいね。そうだと、うれしいね。
 とてもおもしろい詩だなあ。アンソロジーのなかでは、いちばん好きな詩と言えるかもしれない。

へびの耳
中野 完二
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前を歩いている男に

2015-01-27 01:36:10 | 
前を歩いている男に

前を歩いている男に追いつき、追い抜いた。
古本屋の前で。何度も通るが、行こうとするとたどりつけない
饅頭屋「駒や」の近くの、古本屋。

その瞬間、どこへ行こうとしていたのか忘れてしまった。
茶色の箱に入った古い活字の本がガラスのむこうに並んでいる、
背表紙の文字が読めそうで読めない男はガラスの半透明の影になり

本で埋めつくされた書架の路地に消えていく。
入れ代わり、闇の中から縁が変色した
別の男が出てきて、ことばのからだをすりぬけていく。

古いセーターの固くなった匂いと、積みかさなった本の匂いが似てくる。
そんなことばが、狭い犬小屋に閉じこもっている「駒や」の
柴のカタクナのように感じられる昼。

*

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須永紀子「森」、竹内新「歌」、谷川俊太郎「私より先にそっちへ行ってしまった人たちへ」

2015-01-26 11:34:27 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
須永紀子「森」、竹内新「歌」、谷川俊太郎「私より先にそっちへ行ってしまった人たちへ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 須永紀子「森」(初出『森の明るみ』2014年10月)。

どこから入っても
いきなり深い
そのように森はあった
抜け道はふさがれ
穴は隠され
踏み迷う

 「森」のなかに具象と抽象が融合している。「どこから」は「いつでも」かもしれない。場所と時間も融合している。具象を書きながら抽象にしてしまうのか、それとも抽象から出発してそれを具象にしているのか。いずれにしろ、須永の「森」は「個別/具体的」の森というよりも「観念」の森である。あるいは「精神」の森といえばいいのか。
  精神の詩は私は苦手だ。つかみどころに迷う。2行目の「いきなり」と「深い」が「肉体(思想)」の手がかりになるかもしれない。
 「いきなり」というのは「時間」としては存在していない。--という言い方は抽象的すぎるが……。「いきなり」はそれまでの持続している時間とは別個のものである。持続していた「時間」が「いきなり」切断される。別の「時間」と接続される。その変化を「深い」ということばで須永はつかまえている。
 「森が深い」というとき、それは「広い」という意味、あるいは「道」が存在しないという意味になる。「道」とは「接続」の象徴である。「持続」の象徴である。どこに「接続」しているか、わからない森。それを「深い」という。
 一方、「深い」は東西南北の「広がり」、水平方向の「広がり」とは別に、垂直方向の「広がり」をもつ。「森が深い」ではなく「深い」だけを取り出すとき、人は一般的に「垂直方向」の「広がり」を思い出す。須永は、この詩では、ふつうの「深い」とは少し違う感覚でことばを動かしていることになる。
 何かが「切断」される。その瞬間に「深い」があらわれる。それは密着して存在している。もう、このとき、須永は「森」を比喩として生きていない。「森」は比喩ではなく、「比喩を語ること」が「森」なのだ。「いきなり/深い」としか言えないものに触れて、「語ること/ことば」があるだけなのだ。

愚かさに見合った
わたしの小さな森で
行き暮れる
出口は地上ではなく他にある
そこまではわかったが
急激に落下する闇に
閉ざされてしまう

 「急激」は「いきなり」、「落下する」は「深い」。闇が落下するのではなく、須永が落下する。「いきなり/深い」を実感する。「持続」から切断され、そこに存在させられてしまう。「持続」からの「切断」は「閉ざされる」である。「解放」にならないがゆえに、1連目では抜け道は「ふさがれ」と書かれている。 
 ことばの呼応(繰り返し、言い直し)の正確さは完璧で、完璧すぎるために、須永の感じている「いきなり/深い」は、それが「思想」であることを告げるだけで、それ以外のことを感じさせてはくれないように、私には思える。
 美しすぎる詩だ。



 竹内新「歌」(初出『果実集』2014年10月)。詩集で読んだとき、漢語が気になってしまった。どの詩にも漢語が出てきて、それがイメージをかってに結晶にしてしまいすぎて、「肉体」が見えない。そういう印象があった。

歌のときこそ幸せのとき
歌のときこそ内面のとき

 「幸せ」は「内面」と言いかえられている。この「内面」という漢語が、私には抽象的すぎるように思える。「精神」と重なり、おもしろくない。「官能(肉体)」がどこかに置き去りにされている、と瞬間的に思ってしまう。
 しかし、

それがどんな器官によるのか
どんな形式なのか分からないが
まぶしい朝の光のなかで
たしかに蜜柑は歌っているように思う

 「内面」は2連目で「器官」と言いなおされていた。詩集で読んだとき、私は、このことばを読み落としていた。「存在するものの内面」をいきなり「精神」と抽象化せずに、いったん「器官」という具体的なものをくぐらせて把握している。その「器官」という具体物のつながり(関係)が「形式」とさらに言いなおされている。私は「器官」を読み落とし「形式」を「内面」の言い換えと読んでいた。先を急ぎすぎていた、と、いま、思う。
 「内面」→「器官」→「形式」というのは、抽象→具体→抽象という「弁証法」的展開と言いかえることができる。「弁証法」であるかぎり、まあ、それは抽象的(精神優位の二元論)ということになるのだが(私は、こういう世界観がなじめずに、どうしても否定的に反応してしまうのだが)、この弁証法という方法は持続がしつこいとき、ちょっと魅力的である。「持続」のなかに「精神の肉体」のようなものが見えるからである。「持続」することで「精神」が「肉体」のように立体的になる。動きが生々しくなる。

私の足取りは軽くなり
それに合わせて躍りさえするのだ
私が丘を登り下りするとき
空に接した蜜柑たちの斉唱は
光溢れる虚空へ
静かに広がってゆく
鳥がそこを飛ぶとき
鳥は広大な歌を渡っている
ときには声を弾ませたりするのだ

 「私」は「丘」になり、「蜜柑」になり、「斉唱」になり、「鳥」になり、「歌」になる。「蜜柑の斉唱」→「鳥の歌」。「斉唱」と「歌」の違いはむずかしい。「斉唱」を「歌」と言いなおしているのではなく、これは「斉唱」が「光溢れる虚空」と出会い、それが「鳥」をへて「歌」に昇華(止揚)されているのである。そんなふうに「止揚」することで、「内面」は「声」になる。
 「蜜柑の声」?
 いや、それは竹内の「声」なのだ。
 へええ、っと思って読んだ。
 一篇一篇、時間をかけて読む必要があったのだ、と反省した。

 で、この詩が、さらにおもしろいのは。
 「ときには声を弾ませたりするのだ」で詩は終わっていいはずなのに(そこでいったん止揚/昇華は結実しているのだから)、これがまだまだつづいていく。
 「声」という、肉体から外へ出たものを、もう一度「内面」に呼び込もうとする。しつこいのだ。精神そのもののしつこさが、ことばを離さない。全体を引用しないが、そのことばはもう一度「光溢れる虚空」を通って、「沈黙の深み」まで進み、

歌のときこそ内面のとき
歌のときこそ幸せのとき

 と、最初の行にまで戻ってしまう。出発して、止揚(昇華/結実)し、再びもとにもどる。もちろん、そのときの帰還は最初の「場(行)」とは同じに見えても同じではない。その「場(行)」の「内部」には矛盾→止揚という運動が隠されているというわけである。

 変なものを読んでしまったなあ、という印象が残る。「変なもの」というのは、個性的、めんどうくさいけれどおもしろい、という意味でもある。



 谷川俊太郎「私より先にそっちへ行ってしまった人たちへ」(初出「午前」6、2014年10月)。

水が滲んできているのに気づきました
空は青くどこまでも澄んで
微風が木々の枝を揺らしています
でも落葉が散り敷いた地面に
水が滲み出しているのです
ココロの森は行きつけの場所です
でもまだまだ知らない所がありました
泉が湧いてきていたのです
ココロの森の奥深く
音もなく泉が湧いてきて
流れずに湛えているのです

 「私より先にそっちへ行ってしまった人」というのは亡くなった人のことだろう。その人たちのことを思ったとき、「ココロの森」に「泉」があると気づいた。その泉の水は、地面に滲んでいるのに気づいた。「知らない所」から「泉が湧いてきていた」。その水は「流れずに湛えている」。
 というようなことが書いてあるのだけれど。
 平凡じゃない? もう亡くなった人を思うとき、ココロの森の泉が湧き出す、というのは。悲しみを、もってまわったような感じ。
 と、思っていると。

涙の比喩ではないかとお思いですか
でも私は泣いていません
泣きたいとも思っていません

 えっ、これは何?
 谷川さん、突然、呼びかけないでください。
 それに誰だって「涙の比喩」と思うでしょう。亡くなった人を思い出すとき、泣くのはふつうでしょう。
 泣いてもいない、泣きたいとも思っていない。それなのに「ココロの森の泉」から水が湧き出し、水があちこちに滲んでいる。この水は、それでは何? 何を「比喩」しているのですか?
 説明してください。

泉の水は透き通っています
濁っていて当然なのに

 私が詰問(?)したせい? この2行も奇妙だなあ。「透き通っています」は「泉」だから、当然だと思うけれど。「濁っていて当然なのに」というのはどうしてだろう。「ココロ」の知らない場所、あまり行かない場所、そういうところは「濁っている(汚れている/隠しておきたい)」所だから?
 よくわからない。
 谷川のことばは、つづく。想像しなかったことばがつづく。「涙の比喩」という具合に、簡単に想像できないことばが動いていく。

揺れながら水に映っているのは
若かりし日のあなたがたの姿
でも私はそれを見ているのではない
泉の水は生まれながらの体内の水と
すっかり混じりあっているから
あなたがたはもう思い出の中にいない
コトバでもイメージでもない水になって
私のからだを巡っています

 「揺れながら水に映っているのは/若かりし日のあなたがたの姿」は「私より先にそっちへ行ってしまった人たち」の「姿」。タイトルが、ここでは言いなおされている。言いなおすことで、ここから詩をはじめ直している。
 「水に映っている」と書きながら「見ているのではない」と言いなおしている。見ていないのに、どうして映っているとわかる?
 それは、

泉の水は生まれながらの体内の水と
すっかり混じりあっているから

 目で見る必要がない。「体内」の器官(組織/細胞)全てで、直接触れるのだ。それは対象(見るもの)ではない。
 泉の水が「濁っていて当然」と書かれていたのは、谷川はすでに老いていて、老いてくれば「体内の水」も老化して濁っていてもあたりまえという「常識」によるものかもしれない。老いて澄んでくるものもあるかもしれないが、老化というのは、悪化と道義のところがある。そういう気持ちがあるから、ココロの泉も濁っていても当然かもしれないのに、そうではなくて透明だった、と書く。
 そして、それが透明なのは、逆に言えば、谷川は老化にあわせ谷川の体内の水は老化して濁っているかもしれないが、「あなたがたの姿」は若くて濁っていない。その若くて濁っていないものが谷川の「体内の老化した水」と「混じり合い」、浄化しているからである。「あなたがた」は「思い出」でも「イメージ」でもない。谷川をいつまでも「透明なまま」に生かしてくれる「浄化装置」なのだ。「細胞組織」なのだ。谷川は「あなたがた」に生かされ、「あなたがた」といっしょに生きている。
 だから、もちろん、「涙」などとは無関係。

 谷川の詩(ことば)は、いつでも論理的だ。ときに論理的すぎると思う。論理を否定するときでさえ、論理的だからね。
 この詩も論理的だけれど、たとえばきょう読んだ竹内の弁証法の論理とは違う。形式のない論理。未生の論理と言えばいいのだろうか。谷川が書くことで、はじめてことばになった論理という感じがする。「ココロの森」の知らないところから、水が滲むように、滲み出てきた論理と言えば、詩に戻っていくことになるのかもしれない。

 この詩は「午前」で読んだ。読んだけれど、そのときは感想を書こうとは思わなかった。ほかの谷川の詩の感想を書きつづけていたからだが、こうやって感想を書いてみると、ただ漠然と読んでいるときと、それについて何か書こうと思い、書き出してみると、感想が変わってくる。私自身のことばの動きが変わってくる。
 竹内の詩の感想を書いたときも思ったが、読んで頭のなかだけで感想を走らせるときと、実際に感想をことばにするときでは、感想が違ってきてしまう。
 感想はことばにしなければいけない。感想は語り合わなければならない、と思った。私の感想が「正しい」かどうかではなく、詩なのだから「正しい/間違っている」はどうでもよくて、感想が動くとき、いっしょに詩が動くということを確かめるために、書かなければならないのだとあらためて思った。
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女がたばこを

2015-01-26 00:50:29 | 
女がたばこを

たばこを吸う女の横顔は野蛮で美しい。
この一行をどう思う?

野蛮よりも野性的の方がいい。
女がたばこを吸う、その横顔は野性的で美しい。

リバーサイドのホテル。川面の反射が、
駐車場のナンバー隠しのカーテンに飛び散る。

女は辛っぽい煙を吐き出し、人のつかった
バスタブを洗う仕事なんてもうやめてしまいたい、

そう思っている。野性的では美しすぎないか?
たばこを吸う女の横顔は破壊されたように美しい。

たばこを吸う女の横顔は憎しみのように美しい。
たばこを吸う女の横顔は醜くて強烈だ。

何度も相談して書き直したが詩にならなかった。
川面は冬の陽を、女のいないホテルに反射させている。


*

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ケン・ローチ監督「ジミー、野を駆ける伝説」(★★★★)

2015-01-25 12:38:04 | 映画
ケン・ローチ監督「ジミー、野を駆ける伝説」(★★★★)

監督 ケン・ローチ 出演 バリー・ウォード、シモーヌ・カービー、ジム・ノートン


 アイルランドが舞台の映画は、私はとても好きだ。映像が美しい。特に緑が美しい。たぶん、島国であること、湿気が多いことが影響しているのだと思う。(イギリスの緑も好きである。アメリカ映画の緑は、どうにも好きになれない。)北の、さむざむしい空気が、雪国生まれの私にはなつかしく感じられる。
 北のさむざむしい荒地と緑というのは、一種の矛盾かもしれない。たとえば東南アジアの豊かな緑の方が美しい、乾燥に苦しむことのない奔放な緑の方が美しい。暴力的な緑の爆発は輝かしい--という見方があると思う。それはそうなのだが、私は、アイルランドの(あるいはイギリスの)、一種の暗さを秘めた緑が好きなのである。根強く生きているという感じがする。
 この映画の舞台になっている「ホール」の姿にも、何か、その根強さと共通するものを感じた。歌ってダンスして楽しむ。その一方で、音楽を教えたり、詩を語り合ったりする。地域の人が自主的に集まってきて、自分のできることを教えあい、楽しみ、生きていく。そこから、どこかへ出て行くわけではない。そこに根を張って、そこで生きて、楽しんでいる。ほかのことは、望まない。その「ささやかであること」の強さ、貧しさ、寒さを団結することではね返すような強さ……と書いてしまうと「意味」になりすぎるのだろうけれど。そういうものを感じる。
 ここで生まれた、だからここで生きる、自分の意思で生きる、そのために工夫する。これは、どこでも必要なことだろうけれど、特に北の貧しい土地では、そういうことが必要だ。南国のように、放っておいても実りがあるわけではない。それが北の緑だ。
 この映画の主役は、地主の搾取、資本主義体制と闘い、そのために国外に通報された青年だが、その主張が「労働者(農民)の権利の拡大」というよりも、「いま/ここで生きる」ということを妨げるものと闘うという感じなのが手ごわい。外に出ていかない。ただ「ホール」を守る、「ホール」で歌い、ダンスをし、いっしょに学び、教えあう。つまり、そこに生きる人がみんな根を張ってしまう、というのが手ごわい。
 この映画で描かれているわけではないが、この「根を張る」という生き方は、資本主義にとってはいちばん困る問題かもしれない。資本主義は労働者をより合理的に組織しなければならない。人を集めなければならない。また、余分になったら、切り捨てなければならない。人が流動しないことには産業というのは合理的に組織できない。ひとと土地を切り離してしまわないと、人間は流動しない。
 主役のジミー、主役の「ホール」は、その「根を張る」拠点である。「ホール」があるかぎり、若者は「ホール」に集まる。その土地を離れて、どこかへ出て行く必要がない。もし必要なものがあればと、それを「ホール」に持ち込めばいい。そういうことの象徴が、ジャズとジャズにあわせたダンスだ。ジミーはアメリカに追放されていたとき、ジャズクラブでジャズを聴いた。ダンスもした。それを「ホール」で再現する。みんなが夢中になる。ニューヨークへ行かなくても、「ホール」がニューヨークと同じ「場」になる。「世界の中心」になる。人間の行動が、「場」を豊かにかえていく。そこに集まる一人一人が豊かになれば、そこが豊かになる。その豊かさは、「金銭」の豊かさではない。精神の豊かさだ。
 大人とこどもがいっしょになって詩を読むシーンがある。少女が朗読を終える。そのあと、詩の「意味」を問題にするのではなく、まずどう感じたか、何を感じたか、それを言ってみようと、その場のリーダーがいい、それに応じて一人が語りはじめる。語ることで、そしてそのことばを聞くことで、だんだんこころが豊かになっていく。そういう豊かさが、とても美しい。ことばを共有することで、豊かになっていく。
 ジミーは結局、再びニューヨークへ追放される。この「追放」は、また、資本主義の限界をあらわしているとも言える。ジミーがアイルランドにいるかぎり、「根を張る」という運動は生まれてしまう。「根」を遠ざけるしかない。「根」を分断するしかない。そこに資本主義の弱点がある。資本主義と闘うときの「原点」は、生まれた場所から離れない、そこで生きるという方法なのだ。人間は、どこでも豊かに暮らせる、豊かになるためには「ホール」が必要だ。
 北国の、緑の生き方を、そこに重ね合わせるように、私は映画を見た。

 アイルランドの、どの町かも私にはわからない小さな町(あるいは田舎といってしまった方がいい)を舞台に、私には聞いたこともない青年を取り上げ、きちんとその主張を、「ホール」のにぎわいのなかで具体化するケン・ローチに敬意をあらわしたい。「ありがとう」と伝えたい。
                        (2015年01月24日、中洲大洋4)






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