詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『深きより』(20)

2020-12-19 09:44:28 | アルメ時代


高橋睦郎『深きより』(20)(思潮社、2020年10月31日発行)

 「二十 流されつづけて」は「京極為兼」。

歌の師たる者の為ごとの第一は 歌の場を整へること
生まれる歌に新しい息吹を吹き込みつづけること

 そのためには何が必要か。常に歌が生まれるとき、そこにいないといけない。ところが京極為兼は追放される。それも一度ではない。
 しかし、

わたくしにとつて二度の遠島は むしろ二つの誉れ

 為兼は、これを「誉れ」と言い直している。
 為兼が追放されたのは、為兼の「歌の場を整へる」力、「生まれる歌に新しい息吹を吹き込」む力を、ひとが恐れたからだ。
 日本が、

歌の国 主上以下の歌の力により 政事たれる国

 であるならば、結局、「歌の師」が「政事」を先導・指導してしまうからである。しかも為兼には、それを「つづける」力がある。だれが「主」になろうが、その「主」のために「場」をととのえ、その歌に「新しい息吹」を吹き込む。
 その「連続性」をこそが恐れられたのだ。
 主が交代しても為兼がおなじ仕事をつづけるのならば、それは為兼こそが「影の主」でとして生きつづけることになる。
 だからこそ、都から遠い場所、「遠島」へ追放された。それは都とは「つづいていない」ところである。
 だが、そういうことをしても、歌はつづいていく、歌はつながっていく。人間と違って、歌は(ことばは)、「場」には拘束されない「息吹」だからである。つまり、「場」はいつでも生まれ、「息吹」はいつまでも途絶えることがない。「場」はいつでも整えることができるし、どんな歌にも「新しい息吹」を吹き込むことはできる。為兼は、そう知っているからこそ、運命を静かに受け入れる。
 「流されつづける」ことこそ、間接的に、為兼の「歌(思想)」の正しさを証明するからである。






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高橋睦郎『深きより』(7)

2020-11-20 09:51:42 | アルメ時代


高橋睦郎『深きより』(7)(思潮社、2020年10月31日発行)

 「七  勝利したのは」は「菅原道真」。

 菅原道真を滅ぼしたのは誰か。これを菅原道真自身に語らせている。「六 事実か真実か」についても言えることだが、ことばが「論理」を追いかけ始めると、肉体が動かなくなる。ことばのなかから「万葉集」が持っていた力が消え、「古今集/新古今集」を支配する頭の力が動き出す。高橋はもともと「万葉集」というよりも「古今集/新古今集」をひきつぐ詩人だと私は思っているが、この作品にはその特徴があらわれている。
 道真を滅ぼした「真犯人はかく申すわたしく自身」と書いたあとで、ことばは、こう展開する。

詩は志といふ などと騙るとつ国の世迷ひ言を受け売り
詩心こそ政りごとの心と信じた いや 信じるふりをした
わたくしに外ならぬ ではわたくしはそもそも何を望んだのか
全き詩人であること そのためには世間的に全き敗残者になること

 ここでは「詩」と「政治」が対極にあるという認識が書かれている。「詩心は政治である」と「信じるふりをした」。このとき「政治」とは「権力(者)」であり、「勝者」である。それは「敗残者」ということばと対比される形で書かれている。そして、この対比のなかで「詩=敗残(者)」という定義が生まれる。
 だが「敗残者」は「敗残者」ということばとともに生き残る。「被害者」として生きつづける。注目を浴びるのは、加害者よりも被害者であることが多い。それは「世間」は被害者で満ちているからだ。「政治」の権力を握る人間よりも、権力者になれない人間の方が多いから、どうしても「敗残者」が世間のこころを引きつけるのだ。世間は自分に似た存在に共鳴するのだ。「勝者」たちは「敵」という汚名にまみれる。

それでも足りず 千百年ののちの現在もなほ わが詩篇は
いやさらに新しく 受難の光を放射しつづける 眩しく 痛ましく

 「受難の光」。これは「青春の輝き」でもある。敗北を「受難」と正当化するするとき、そこに「精神性」が忍び込む。そして「抒情」が生まれる。しかし、この「誕生」を促すのは「肉体」ではなく「精神(頭)」である。
 「肉体」は滅んでも「精神=詩=ことば」は滅びない。それはそうなのかもしれないが、私は、このときの「生き残る」という動きのなかに「肉体」の動きが重ならないものを信じたくない。そういうものは、道真の認識ではなく、「他者」の捏造した「後出しじゃんけん」のようなものである。





                



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アルメ時代32 傾斜する私

2020-02-02 15:28:37 | アルメ時代
アルメ時代32 傾斜する私



   1
あの日あの街角で
時間を殺さなかったか
アスファルトが白く光って
キョウチクトウが重たく揺れた
曲がらずにまっすぐに行った
あのときのことだ

   2
まだ引き返せる

   3
凝縮された影の上を
影からはみださないように正確に
郵便配達の赤い自転車が走る
角を曲がって消える
ブレーキが軽くきしむ

(逆だったかも)

   4
(振り返ったときに見えるものは
自分の背中だけである)
(振り返ってもみえないものは
自分の背中である)

   5
影が蒸発してしまったのか
色が形を離れ
ザラザラうわついている

   6
(落雁のように)

   7
ここにいるのに
ここが遠い

   8
(落雁のように
均一な粗さに押しかためられた
甘さ……)

   9
電柱に耳を押しあてる
やけたコンクリートのなかから
何かが聞こえる
名づけたくはない
名づけることで
すべての存在に対して
運命が平等であるということを
自覚したくはなかった

   10
遠近法が揺れる
打ち水をした場所で
ほこりが強く匂う
簾の細い横線が光をはじいている
誰かがのぞいている
気配がある

   11
まだ引き返せる
(どこへ
いつへ)

   12
細工がふらつく

   13
ボールが転がってくる
支柱にぶつかり止まる
カーブミラーのなかへはだれも入ってこない
円周へなだれていく無数の焦点
そのあたりで
くらくなる色

   14
境界線はたしかにある
決してあらわれない視線も
どこかにある
アスファルトは白く光って
四方にのびてゆく
キョウチクトウがまた揺れた

   15
まだ引き返せる
(かもしれない)




(アルメ252 、1987年09月25日)
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アルメ時代31 猿芝居

2020-01-26 10:01:06 | アルメ時代
31 猿芝居



原始の形をしている
すべては私から生まれた
と自負している猿
人間を不安がらせることを仕事と心得ている
何かの拍子で猿になったかもしれない
そう錯覚させることを使命と考えている
桜の季節にはセックスをしてみせる
ささやきも前戯もない
素人芝居の台詞回しのように
見つめ合い情を深めるフリなんてしない
後ろからあっという間
「猿の精液も白いのね」
まっすぐな視線で女がいう
男は少し話をずらす
「知ってるかい首吊りすると
激しく勃起するんだ そして
とめどもなく射精する」
これは目が合うことをおそれた大根芝居
あるいは知的会話という猿芝居
見られていると
見つめる奴らのスキが見えてくる
猿は猿だ 羞恥心を知らない
言ってしまえばおしまいなのに
昨夜が気になって話をかえる知恵が浮かばない
「脇の下にキスしてと言えばよかった」
「長く持たせようと数を数えたのが失敗だった」
反省などするから声がうわずっている
さて猿は猿 人間から生まれたわけではない
しかしおまえらの淫乱は私から生まれた
わからせるために再び背後にまわる
「ねえ、あの猿何しているの」
答えなくていい
ガキはみんな知っている
土曜の夜ごとのクスクス笑い
「やっと眠ったわね」
扉を閉めおわらないうちのくすぐりあい
みんな知っている
知っていることを知らせたい
自己主張して困らせたいだけなのだ
聞こえなかったフリをして歩いていけばいい
おまえなんか付録だと言い放って
腕でも組んで歩いていけばいい
捨てられやしないかと必死になって追いかけてくるはずだ
さのもの日々にうとし
さるもの追わず
などということはない
ないからこそそんな言い方をする
猿には木から落ちた経験がある
弘法にも書き損じたことがあるはずだ
能のない猿のように
真似してみせればわかる
「あいつは猿真似しかできない」
剥き出しの批評を待って
さて 反論の時間だ
「真似は批評の一種である
真似るだけの価値があると
世間に広めるべく努力をしているのである」
「論理をすりかえるな
オリジナル、その実現への努力に対して非礼じゃないか
それが猿真似の意味だ」
「真似されてはじめて
オリジナルという価値が生まれる
真に個性的なものに意味などない
真似されること、つまり自分の歩みが
常識となることを願わない
哲学者、科学者、芸術家がいただろうか」
中間派を装いながら
どこまでもごまかしていけばいい
引用を細工しながら自尊心をくすぐってやれ
真似されたと不機嫌になる奴なんか
くっきりと映りすぎる鏡に
欠点を見つけ出し
あばかれることを恐れているだけなのだ
横向きに鏡の位置をかえてやればいい
ちょっとからかって
「秘密を教えてくださいよ
どの手が最高ですかねえ
あれもこれもモテ方にあやかりたいと
真似しているだけなんですから」
ランチタイムに耳打ちしてやれよ
「ほら見ろよ、あいつまた
同じ奴と同じ体位でセックスしてらぁ」
童貞のニキビが笑う
本で読んだだけだと知られまいと
最初に口をきいたおまえのことだ
ハーフタイムを知らない欲望がいちばん嫌いだ
どうしていいかわからなくなって
一生の間にいくつできるか
眠らずに考えつづけたんだろう
ゲスなチンピラめ おまえだな
「猿にオナニー教えたら
やめられずに死じまった」
などといいふらしたのは
あらゆる進歩は消化不良のゲップにすぎない
いったいいくつ空想を信じるつもりなんだ
オナニーのために




(アルメ251 、1987年08月10日)
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アルメ時代30 盗人猫

2020-01-25 11:50:32 | アルメ時代
30 盗人猫



ときどきまやかしの静寂を披露する
首を伸ばして虚空をみつめる
尻尾で床を磨いているが
動かしている自覚がないので
止めることができない
見られていることには気づかない
何をしていいかわからず
ちょっと爪を研いでみる
きょうの線はきれいに引けたと悦に入る
上調子にひらめいてしまう
おもむろに声を出してみる
「意識はいくつもの層にわかれている
いま引いた一本の線を一つの層と仮定する
もう一つはこれだ
少し離れたところにある
それはけっして交わらない だから
跳びうつる間を測ることが大事なのだ」
とんでもない話だ
いったい何を引用しているつもりなのだ
正確な記憶がないから
脈絡のある話ができないだけなのに
自己弁護を交えてことばをつないで
先手を打ったつもりでいる
思いつくままというやつだ
信用されていないのに
深い感銘を与えたと思い込む
図に乗って先に進む
ごみ箱に足をひっかけたかと思うと
ブロック塀に跳び乗る
だれもあとをつけられないのは
歩みがオリジナルだからだと錯覚してしまう
さらに唐突になって
「ひとつ教えてやろう
芸術とは対象との一定の距離だ
つかず離れず渡り歩くことだ
距離を精密に測れるよう
敏感な髭を生やしたまえ」
昨夜の恋狂いで荒れた声で
どこへでも出入りする
とがめられないのは重要視されていないためだ
という考えは思いつかない
責任がないことを自由と思い込む
無視されたことを受諾と勘違いし
言うだけ言うと離れていく
屋根に移り木に移ろうとするが
自分の話に酔ってしまっているので
爪をひっかけることができない
くるっとまわってアスファルトに落ちる
しかし何が起きたか理解できない
痛さにうめくことがないので
綱渡りをしたという反省がないばかりか
失敗したことに気がつかない
日向をさがしてゆっくりすわる
体をなめまわす
きれいになったところで
集まってきた新入りに話を聞かせる
「恋のために磨くんじゃない
ノミや抜け毛、あらゆる汚れを
のみこみ消化してこそ
しなやかな対応ができるようになる」
だがクロやミケやブチの
垢でしめった耳にはなじまない
目を細めてくすぐったそうな顔をするだけだ
鼻の頭にミルクの滓をつけた奴
帰る場所を知ってる奴だけがニヤリと笑う
「私がきのう読んだ本に
鴎は塩からい魚の肉ばかりで暮らしている
という一行があって笑ってしまった
ほんとうのことはいつでも滑稽だ
あんたの話にはユーモアが欠けるなあ
ホンモノとは言えない
猫をかぶってだれにといりるつもりかな」
しばらく目のなかをのぞきこむが
大きな欠伸をすると首を伸ばして虚空をみつめる
いま聞いた話を聞いてくれる相手を探し始める





(アルメ250 、1987年06月25)
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アルメ時代29 春の歌

2020-01-24 14:36:30 | アルメ時代
29 春の歌



   1
欄干という音の美しさに負けて
また橋を渡っている
川の水は潮で甘くなっている
ぷっくらとふくれてけだるい
「結局はわからないんだ」

   2
「川の名前は言いたくない
音の組み合わせに
ひなびたひろがりがない」

   3
ひきずりこまれかけている

   4
猫を頼りに路地をまがる
自分に出会わなくてすむように
(何も言うな)

   5
陶器屋の前を通る
何に驚いたか
こらえきれずに陶器が落ちる
アスファルトの上で白い花になる

   6
鏡張りのビルがある
きみが通るとき教会の横顔をふいに映し出す
見えないはずのものが
視線をおしひろげる
「ここでまがれば
昔へいけるだろうか」

   7
(何も言うな)
(言ってしまえ)

   8
遠くがぼんやり光をためている
大通りとぶつかる場所だ
車が途切れ向こう側が見えることがある
「路地も幻想を見るだろうか」

   9
「意志が消える一瞬がある
魂が消える瞬間があるだろうか」

   10
ひきずりこまれかけている

   11
ふたたび角をまがる
雲の影がアスファルトの上に落ちて動いていく
ブロック塀にぶつかり垂直に立ち上がって
動いていく ふたたび

   12
私は私でありたくない
アスファルトの白でありたい
アスファルトの青でありたい
光や影や雨によってかわる濃淡でありたい

   13
ひきずりこまれかけている

   14
さらに角をまがる
煉瓦色の舗道を光がひいていく
砂浜から水がひくように
「金緑の砂の干潟よ」か

   15
ひきずりこまれるな

   16
小倉金栄堂で売れ残った本を開く
「太陽の沈んでいく速度ってかわるのかしら
冬の間はじれったいくらいに空をそめつづけていたのに
春が近づくとなんだか
すとんと落ちていく気がするわ」

   17
歩道橋から見えるのは
静かに折れている国道の角度
夕日は地平線に乗ったまま動かず
一日は終わる



(アルメ249 、1987年05月10日)

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アルメ時代28 冬の水たまり

2020-01-23 21:53:17 | アルメ時代
28 冬の水たまり



 冬の水たまりをのぞきこんだとき「沈滞した空虚」ということばが脳を切り裂いた。衰弱の発作がまたやってきたのだ。ビルの背後にある傾斜した空を映す水の薄い膜、水のたわみを隠している不確かな存在に叙情的懐疑を投げ込み、ことばは何を引き出すつもりなのか。美しい形に整えたい主題などもちあわせていないのに。
 「あるいは欲望の放棄」と執拗にことばにしてみる。放射冷却で白くなったアスファルトよりも繊細に浮かぶ断片の密度が薄れていく。網膜には空の青さに侵入してきた雲がすみつき、不可解な形で動いている。意識も不定形に揺れはじめる。虚構を構造化しなければ、水たまりを覗いたときの、水とことばの密着度は維持できなくなった。
 あのとき、最初の光が網膜の深部をつらぬき、ことばの内部にひそむ本能を照らしたときこそ否定の計画を実行するときだった。幼年期の無邪気さで踏み砕いてしまえばよかった。「明晰さを希求するものは判断停止という罠に飛びこまなければならない」という箴言に従うべきだった。そうすれば沈黙と和解できたのだ。古くさい象徴を探して、視界が脳髄の色に染まるのを見ている必要もなかった。水は静かな平面を失い、雲の形を乱反射する光のなかに吸収していたはずだ。そしてことばは、その乱反射の暗さ、光のなかの鋭角的な闇に封印されたはずなのだ。
 郷愁の冷たさ、発芽の脅迫--それは確かに存在した。ことばはいま、思い出すことができるのだから--を、ことばはなぜ誤読したのか。氷の割れる音、足裏にこめる力を逆にたどって脳へのぼりつめる音を利用すべきだった。それが、救済不能の精神から、感覚を生成する器官の豊饒な闇へと避難する唯一の方法だと認識しながら、なぜ普遍という不毛性の誘惑に負けたのか。
 一定の強度という口実、重力のように存在と運動に解体されていくものが、後悔や啓示のようにことばの不徹底を照らす。「錯覚が帰属する相対的逆説」ということばが実体を求めて浮遊する。氷をみつめ、筋肉を動かすときに体内を走る電流という幻を盲目的に反芻すれば、平衡が消失する。模造の困惑が器官を放任する。感覚の形状的説得力。誤謬の不確実的限界。未消化の装飾節に拘束されて、ことばは動けなくなる。水たまりのなかで雲が形を変えるのをみつめたまま。


(アルメ248 、1987年03月25日)
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アルメ時代27 秋の女

2020-01-19 14:42:56 | アルメ時代
27 秋の女



夕暮れになると
「こころのかわりをしてくれそうなものが
静かにやってくる」
影が長くのびて
テーブルの上に胸の形が休み
頭は床の上に落ちる
「川を渡ってくる光の角度
ビルに隠れる風のしめり」
私は小学校の
チャイムの音の行方をながめる
女はサッシの窓をすべらせ
カーテンを引いてゆく
「でも頼りすぎてはいけない」
床に散った夕日の色が
粉のように集められ
隙間から吸い出されてゆく
「でも頼りすぎてはいけない
ある日突然気づいた
ガラスの中に半透明の私がいて
私を見つめ返していた」
逆光に透けていたシャツが消え
女はくらい顔になってふりかえる




(アルメ247 、1987年02月10日)
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アルメ時代26 海の光

2020-01-15 22:44:48 | アルメ時代
26 海の光



遠い海の光
岸を打つこともなく
ぐるぐる回りつづける潮のかなしみ
それに似たものがある

わたしたちはことばを知っているが
動かすほんとうの方法は知らない
何か言おうとすれば
どうしてもそれてしまう

遠い海を迷いつづける青い色
「強い情熱をあらわす
動詞が思いつかない」
垂直に打ち寄せる波に

こころを託している女
風は沖から吹いてくる
音い光はわずかにふくらみ
水平に去ってゆく




(アルメ247 、1987年02月10日)
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アルメ時代25 紙について

2020-01-09 20:32:09 | アルメ時代
25 紙について



 一枚の紙がある。幾筋もの折り目が残っている。裏側の色がかすかに透けて見える。青系統の色らしい。四辺を広げてみる。無数の凹凸がしずかに呼吸している。手を離すと少し縮む。そのときである、見え隠れしていた折り目、やわらかな署名が浮かび上がるのは。深い折り目、裏側の青か、紺か、あるいは緑に白をまぜたときにできるあいまいな色をにじませる第一の折り目の端から新たな折り目が走る。
 全体を求める未熟な精神は、第五のかすかにふとった折り目にぶつかると唐突に向きをかえ、第一の折り目の右端へとまっすぐに駆けだす。しかし、第四の、二回折ったときにできるらしいぶれた折り目の底なしの淵を落ちていく。そのときの声がこだまする一点から類似の、つまり微妙にずれた折り目が、様様な折り目を喚起しながら上辺の中央へ向かう。それらが展開する継続的な乱れが視力にひそむ装飾的な連想を吸収し、否定し、直感をととのえる断念の領域へ認識を誘い込む。
 新しい紙を取り出し、二つの角を合わせる。ふくれた紙の稜線を指でしごく。交錯する折り目の角度を思い出しながら繰り返す。対称に折り、対称に広げる。折り目という不可逆性がはらむ豊かさを夢み、さらに繰り返し、立体になる直前に、ほどいていく。掌を伸ばす。手を離す。ゆっくり縮む時間の、危うい光を見ている。判断し、検討し、分類し、完結を求める意識のようにだらしなく動いている。



(アルメ247 、1987年02月10日)
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アルメ時代24 秋の花

2020-01-08 18:03:59 | アルメ時代
24 秋の花



ビルの壁が斜めに降ってくる光を受け
具象と抽象のあいだをさまようので
私は一本の木を求める
梢の幾枚かが明るく輝き
残りは肌寒い影にのみこまれている
そんなアンバランスな木を
窓から見つめていたい
木と私との距離を利用して
たぶん私は物語をつくる
雨に叩かれて芽吹いた木の葉が
思いがけない角度で電話線をこすったが
いまはだらしなく濁っている、と
時間の枠組みをつくる
それから女を出したりひっこめたり
季節の変わり目に吹く風のように
急に向きを変えたり温度を変えたりする
二、三のことばを引用する
ときには見せ消ちを残し
陰影をつくっていく
どうにもならなくなったときは
湿っているアスファルトのにおい
その底にある土を呼吸する樹液
のようなものを狙ってみる
つまり私の物語が木に似ることを願いながら
遠近法の中心へもどる
それから象徴というものを考える
「象徴とは思考をやめたとき
ふいにあらわれてくるものである」
という行を挿入すべきかどうか
しばらく頭を悩ませたりする
そうするうちに宇宙は動いていって
木がビルの影にのみこまれて
なんとなく秋はおわる




(アルメ246 、1986年12月25日)
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アルメ時代23 幸福

2020-01-07 09:22:12 | アルメ時代
23 幸福



「星のつまった袋を持っている
つまり宇宙を持っている」
と男はくりかえした
酔うとひとつの話しかできなくなる
「それは少し脳の形に似ている
つまり皺が入り組んでいて」
女の視線が動くのを待って
男の舌はゆっくりつづける
笑いをおさえるように
しばらくあともどりをする
「それは少し脳の形に似ている
そのためだろうか
ときどき 袋で考えることがある」
男のひとり笑いが
うすくらがりで吊るされて揺れる
女はよそを向いて
泡の消えたビールを決意のように飲む
「幸福を追い求める気持ちが
急にしぼんでしまった」




(アルメ245 、1986年11月10日)
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アルメ時代22 壊れた木の椅子を分類する

2020-01-06 22:00:04 | アルメ時代
22 壊れた木の椅子を分類する



   1
 懐疑に属するもの/曲線の輝き。まがるとき、一本の直線がもちはじめる艶。ひめられた水分が浮きでて、静かに広がっていく時間を、埋めるように満ちてくるあつい息。男は木をまげながら、思い出す。ある日、同質のものを女の体に見たことがある。女もまた直線から曲線へ変形していく生き物であるか。(これは視覚から出発し、見ることを放棄した精神、あるいは不在を透視する精神の領域に属することがらでもある。)

   2
 仮説に属するもの/しなる曲線のなかで用意される抵抗。抵抗のなかで用意される亀裂。復元を願うものと復元を拒むものが同じひとつの名で呼ばれる。抵抗--それはひとつの意志である。模索する男は、美しさはすべてその仮説からはじまることを知る。(これは触覚、体験の領域と重なりながらはみだした場所で明らかにされることである。あるいは突然の破壊にはじきかえされる予感のなかにのみ訪れるものであるか。)

   3
 独断に属するもの/たわむ存在であろうとするものを、ねじれた状態ととらえなおす男の網膜。しなやかさを生きる弾力を、不徹底な構造と見る男の触覚。内部に分け入り、力を分類し、鍛え、整えなおそうとする男の筋肉。(これらは虚無に属する力の差用である。存在を価値でとらえなおすのは誤った哲学である。想像力が不気味なのは、優しさが含まれているからであることを忘れた男の方法である--と女は言った。)

   4
 秩序に属するもの/濃密なニスのにおいを破ってあらわれる色。偶然の冬、断念の弱い光。どこにでもある符号が密接さを生成するとき、男の視覚をかすめるのは女である。この必然は失なわれたとき確実になる。(しかし、これは主観に属するものと呼ばれることもある。何に最初に触れたかによって自在に変形していく物語、あるいはどの領域に引き寄せるかで決定されることだからである。)




(アルメ244 、1986年09月25日)
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アルメ時代 21 マリアンへの手紙

2020-01-05 18:30:21 | アルメ時代
21 マリアンへの手紙



 幾つ目かの角を曲がるとき、低い声を聞きました。¿Dónde estoy? ふりかえると、やわらかな光の中を紺の制服の男が歩いています。人を避けながら部屋の端まで歩き、しばらく立ち止まって向きを変えます。その歩き方には習慣だけがもつ無防備なところがあります。そう気づいたとき、私は思いました。彼の声ではありません。強い欲望に動かされ、からだが突き破られてしまうかもしれない不安――私が聞いたのは、そうした矛盾に満ちた声でした。無防備な男には不釣り合いな響きでした。

 ある種の絵の前を通ったとき、窓から見えるわずかな空に疲れた目を休ませたとき、ソファーから立ち上がって次の部屋へ行こうとしたときにも聞きました。まだ絶望する力があることに驚いているような響きでした。
 回廊を渡り、階段をのぼり、何度もその声を確かめました。そして、この声を聞くために私はバルセロナまでやってきたのだと思うようなりました。

 ピカソ美術館の作品はそれほど好きではありません。この街で描き始めたといわれるブルーの時代の絵にもこころが動くことはありません。
 不思議に思われるかもしれませんが、気に食わないからこそ、実際に見てみたかったのです。単に絵のうまい少年がどんな具合にして天才に生まれ変わったのかではなく、ピカソにも平凡な時代があったのだということを納得したかったのです。画家のつまらない部分を通して、自分を少しでも安心させたかったのです。

 作品の多くは画集で見ていたときよりも貧しく弱く、つたなく感じられました。
 しかしそのために、つまり、予想が的中してしまったために、かえって裏切られた気持ちになりました。安心のかわりに不安な気持ちに襲われました。
 ピカソにも平凡な時代があったと認識し自分を励ましたいという思いの一方で、ピカソは最初から天才だったという答えで自分の欲望をきっぱりとあきらめてしまいたいという思いがどこかに潜んでいたことを、そのとき知りました。
 私は私の欲望さえも明確にしないまま旅を始めたのです。そこへ行けば自分が明確になると思っていたのです。

 私はほんとうは何を求めていたのだろうか。
 自分をかかえそこねて回廊を行ったり来たりしました。窓越しに美術館から出て行く人、門をくぐって入ってくる人の姿を見つめたりしました。彼らは皆、行くべき場所を知っています。しかし、私はこの美術館を出るべきなのかとどまるべきなのかもわかりません。迷子のように冬の空気を見つめているのです。
 そして、もう一順したら出ようとようやく決心したとき、突然、最初に書いた不思議な声を聞いたのです。
¿Dónde estoy?
 
 「それはあなた自身の声ではありませんか?」とあなたは言うでしょう。
 道を失なうたびに私は何度も問いかけました。¿Dónde estoy? ラス・ランブラスをコロンブス像までまっすぐ歩き、地中海の色を右手に見たあと、左へ折れてゴシック街へ入りました。カテドラルに立ち止まり、王宮の庭に迷い込み、旧市役所の閉ざされた扉に古い地球の地図を見たりもしました。そんな具合で、角を曲がるたびに、私は訊ねるしかありませんでした。¿Dónde estoy?  ¿Cómo puedo ir al Museo de Picasso?

 「迷子のように冬の空気を見つめているのです」と私は書きました。「その不安なこころが外にあふれ、一つづきのことばになったのです。それを自分の声ではなく他人の声と勘違いしたにすぎません」とあなたは付け加えるでしょう。
 確かにそうしたことは起こりうることです。
 しかし、私はその声をピカソの声に違いないと信じています。

 彼は問いつづけたのです。¿Dónde estoy?「ここはどこなのか」「私はどこにいるのか」と。もちろんそれは地理的な問いではありません。
 私はスペイン語が未熟で誤解しているのかもしれませんが、ピカソはそう問うことで、自分の作品が美術の運動のどのような位置を占め、どのような働きをしているのか問いかけたのだと思います。
 しかし、美術教師をしていた父の夢、いつかは画家になるという夢を叩き壊すほどの力量をもっていたピカソに、誰が答えることができたでしょうか。誰も答えられなかったに違いありません。だからこそ彼の声はしだいに絶望に近づき、絶望だけがもちうるひとつの純粋さにまで高まったのです。
 私が聞いたのは不安の声というよりも、絶望の張りつめた声、絶望だけがもちうる自己同一性に貫かれた声でした。

 「あらゆることばを誤読する」とあなたは何度も手紙で私の欠点を指摘してきました。そのとおりなのだと思います。誤読するから精神が濁り、突然動けなくなるのだとそのたびに反省しました。
 しかしいまは、誤読する精神の勝手気ままな動きのままに、考えたこと、感じたことを書きつらねたいと思います。

 ¿Dónde estoy?
 幼い子供のように同じ問いを繰りかえしながら、バルセロナの街の構造だけでなく、私は、カタルーニャのなまりや人のこころのあたたかさ、路地にこだまするざわめきも知りました。それは私のこころを広げてくれました。美術館へたどりつくということには直接役立たないけれど、ピカソの声を聞くのに役立ったと思います。
 ピカソもこの街で迷い、昨夜の雨に濡れた石畳の匂い、キオスクを飾る花、小鳥の歌声、働く人が見せる疲れの色から何かを学んだはずだという思いが、いくらかピカソの絵に私を結びつける力になったと思い返しています。
 もちろん私のこころを広げたものがピカソのこころを広げたとはいいきれません。むしろ彼をさらに苦しめただろうと思います。世界には描かなければならないものが無数にある。いったいそのうちのどれだけを描くことができるか。表現をどう変えていけばいいのか。彼はそうやって問いの数を次々に増やし、つまり迷いの数を増やしつづけることで内部の地図を精密にして言ったのです。

 道に迷っても決して忘れない場所があります。¿Dónde estoy? そう問いかけた街角です。答えてくれる人はいなくても、そこへ帰ると明るい一本の道が見えてきます。何かの拍子に街を一巡してしまったときに、ふいに、あ、ここで道を尋ねた、あそこを左へ曲がるのだったな、と思い返すことがありました。
 ピカソは自問しながら内部の地図を具体的な手触りにかえていったのです。そうすることが ¿Dónde estoy?に対する彼自身の答えだったのです。

 迷うこと、問いつづけることは「私」を決定しないでいることだともいえます。私たちはいつも何かを決めて、それにあわせて自分を整えていきます。しかしピカソはバルセロナ時代、自分自身を決定しませんでした。ただひたすら問いつづけ、自分自身の迷路を正確に見つづけることだけをこころがけたのです。そうした時間があったからこそ、次々に新しい刺戟に反応し、自分の迷路を切り開き、自分自身の深奥にある目的地へと走りつづけることができたのだと思います。
 迷うことは、ピカソのその後の変化に耐えるだけのすそ野の広がりを準備することでもあったのです。

 「別々のことをこころのなかでかきまぜて同一視することは危険なことです。それは新しい独自の視点と呼べるものではありません。西欧ではそれを錯覚と呼びます」。あなたの冷徹な頭脳は、私をそんなふうに笑うかもしれません。
 それでも私は錯覚を恐れず、幻の声を胸にしまって東の果てに帰ります。そしてどうしていいかわからななくなったときには自問するつもりです。答えが見つかるまで何度でも何度でも¿Dónde estoy?と。


















(アルメ242 、1986年06月25日) 
 


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夏目美知子『ぎゅっとでなく、ふわっと』

2020-01-05 14:46:21 | アルメ時代
夏目美知子『ぎゅっとでなく、ふわっと』(編集工房ノア、2019年11月01日発行)

 夏目美知子『ぎゅっとでなく、ふわっと』の「小窓」。自宅の玄関わきの小窓から空き家になった隣家を見る、という詩だ。

半ば草に覆われた地面。草は枯れたり繁ったり、新しい
種類が混じったり、多少の変化がある。
急に暗くなったかと思うと、雨が降って来る。窓枠の向
こうで、石蕗の葉が雨粒を受け、上下に揺れ始める。小
石も、破れた金網も地面も次々と濡れていく。情景は誰
かの横顔のようである。私はそれを見ている。降りしき
る音が辺りに響き、その為に静けさがある。すぐ傍なの
に、何処か遠いところのように見える。

 「横顔」ということばに私は立ち止まる。夏目が見ているものが、ふいに見えたような気がする。雑草が茂っているのを見ているわけではない。そこに、そこにはいない人の「顔」を見ている。「横顔」だから、目と目があうわけではない。その人と同じものを見ているわけではない。その人が何を見ているか、それを想像している。
 その情景はしかし、夏目の見ているものに違いない。つまり、夏目は、その人になって隣家の情景を見ている。だからこそ、それを否定するために、つまり現実ではないことを強調するために、「私はそれを見ている」と「私」が突然登場する。
 私はその人になって、その人の庭を見ている。その家の内部からではなく、その家から出た場所で。
 この「家を出る(外にいる)」という感じが「遠い」ということばになって動く。どんなにそばにいても「出る」という感覚が「遠い」を誘う。もう、戻らない(戻れない)を誘う。どこに行くかわからないが、ここには戻らない。この決意を「静けさ」と名づけることができる。
 詩は、このあと、こう展開する。

しばしばそこは、固有の表情を見せる。木枯らしの時、
淋しさが剥き出しになる。短い草にピンクの小花を散ら
せて、汚れた壁に日が当たり、穏やかに憩って見える時
もある。

 「顔」ではなく「表情」という表現がつかわれている。その瞬間、「人」はいなくなる。「肉体」がなくなり、観念的になる。「情」というのは観念ではないだろうが、「横顔」に比べると、やはり「ことば」で整えられたものになってしまう。
 さらに、こう変化する。

けれど、私には解っている。道路に出て行き、覗いてみ
ると、壊れかけた扉の中では、古家が、間が抜けたよう
に佇んでいるだけだ。

 「解る」ということばが、観念として整えられたものであることを指し示している。こんなふうに動いてしまうのはことばの宿命かもしれない。しかし、だからこそ私は、「横顔」のところで踏みとどまってほしいと思う。
 谷川の詩に書かれていた「意味」が、どうしても出てきてしまう。
 そうすると詩は「味」がなくなる。

自宅から再び、小窓の向こうを見る。夕日が射して、小
さな枠の中にオレンジ色に染まった庭がある。美しい夕
暮れが凝縮している。徐々に光が消えるまで見届ける。

 この「予定調和」のような終わり方は残念だが、だからこそ前半に出てきた「横顔」が強い印象で残るのかもしれない。 

 「空の鳥 食卓のリンゴ」の書き出しと最終連。

卓上で、リンゴを真半分に切る。ナイフが最後にたてる
音を避けて、ぎりぎりで止め、あとは、手首を捻って、
二つに割る。

雨の日、鳥は来ない。
そんな時どうしているのか、想像もつかないけれど、
鳥は鳥の規模で、適正に生きているに違いない。

 書き出しは、肉体の動きをていねいに追っている。それは「想像」というよりも「追認」である。「ぎりぎり」は「規模」と「適正」をあらわす「肉体」のことばだ。観念で判断しているのではない。「手応え」のようなもので判断している。
 鳥は夏目の「肉体」ではない。だから「ぎりぎり」のようなものを「ことば」にしてしまうことはできない。だから一気に飛躍して「規模」と「適正」ということばにしてしまうのだが、書き出しのていねいさと向き合わせると、ふいに「鳥の横顔」が見えたような気がするのである。意味(観念)を書いているようで意味になりきれないものが、詩として動いていると感じる。








*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2019年10月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168077138
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

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2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
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