詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇444)Obra, Alfredo Bikondoa

2024-06-06 23:07:05 | estoy loco por espana

Obra, Alfredo Bikondoa 
PUERTA PALESTINA
-2005- Óleo s/lienzo - 195x260 cm.
Colección CIRCA XX - PILAR CITOLER
Museo Pablo Serrano de Zaragoza

 No puedo encontrar las palabras. Las palabras no se mueven.
 Pero incluso entonces puedo escribir: "No puedo encontrar las palabras. Las palabras no se mueven". ¡Qué contradicción!
 ¿Es esto una blasfemia? ¿Pero a quién y a qué? ¿A Palestina, o a mis propias palabras?

 ¿Son mis palabras similares al rojo y negro de este cuadro? ¿Qué significan el rojo y el negro? ¿Qué simboliza? ¿Rojo está intentando moverse?  ¿O Negro está intentando moverse? Simplemente están ahí como una fuerza estrictamente opuesta.
 Puerta Palestina. ¿Está Palestina más allá de la puerta? Al contrario, ¿estoy más allá de esta puerta? ¿La puerta está en Palestina? ¿O está en mi cuerpo? Las palabras intentan convertirse en preguntas y conmover, pero no pueden convertirse en preguntas que conduzcan a respuestas.

 ことばが、見つからない。ことばが、動こうとはしない。
 だが、そのときも、こうやって「ことばが、見つからない。ことばが、動こうとはしない」と書くことができる。何と言う矛盾だろう。
 これは、冒涜だろうか。だが、だれに対して、何に対して? パレスチナに対して、私自身のことばに対して?

 私のことばは、この絵の赤と黒に似ているか。赤と黒は何を意味しているか。象徴しているのか。赤は、動こうとしていることばか。黒は、ことばを動かすまいとしているか。厳しく拮抗する力として、ただそこにある。
 パレスチナの門。門の向こうは、パレスチナか。あるいは、パレスチナから見た私か。それは、パレスチナにあるのか。それとも私の肉体の中にあるのか。ことばは、問いになって動こうとするが、答えにつながる問いになることはできない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最果タヒ『恋と誤解された夕焼け』

2024-06-06 13:09:25 | 詩集

 

最果タヒ『恋と誤解された夕焼け』(新潮社、2024年05月30日発行)

 最果タヒは21世紀の谷川俊太郎である、と私は思っている。私には、ふたりはとても似ている。もちろん違う部分もあるが、とても似ているところがある。まだ半分読んだだけだが(49ページまで読んだだけだが)、その最後に読んだ「パール色」という作品にこんな行がある。

血の巡りは独立したまま、
ぼくらは他人のままでいつまでもさみしく、
それなのにとても近かった、

 ここから寺山修司を、あるいは飯島耕一を思い出すひともいるかもしれない。いや、「血の巡りは独立したまま、/ぼくらは他人のままで」ということばを通して、寺山を、飯島を思い出したのは私なのだけれど、その後の展開で、ああ、谷川俊太郎だなあと、改めて思ったのだ。「さみしく」ではなく、次の「それなのに」。
 私は最果の声を聴いたことがない。谷川の声は聴いたことがある。そして、この「それなのに」ということばを、私は谷川のことばを通して聴いたかどうか思い出せないが(それがどの詩につかわれていたか思い出せないが、たぶんつかっていないだろう。なぜなら、それは「キーワード」だからである。「肉体」にしみついたことばであり、谷川にはわかりきってることなので書かない)、「まざまざ」と肉声が聞こえてきた。
 「それなのに」は逆説の接続詞である。反対のものを結びつけるというか、前に言ったこと(書いたこと)を否定し、その先へ進んで行くときにつかことばである。このとき、「それなのに」ということばを発したひとは、ことばが行き着く先をはっきり知っているのだろうか。知ってはいなくても、はっきり予感しているだろう。何かしらの確かさを信じている「それなのに」。
 そして、その「それなのに」は先に言ったことばを(先に存在したことばを)完全に否定しているわけでもない。もし前提がなければ、ことばは先へ進んでいかない。否定はしているけれど、それはことばが先へ進むために必要とした何かなのである。
 だから、というと奇妙な言い方になるが。
 ここには矛盾というよりも、何か深々とした「和解」、あるいは「包容力」のようなものがある。ことばを超える「肉体」そのもののようなことば。だから谷川は書かないが、最果は書く。そこに大きな違いがあるのだけれど、とても似ているところもある。

 もうひとつ似ているなあ、同じことばの動きだなあと感じるのは、最果も谷川も、彼ら自身だけのことばをつかわない。どちらかというと、それは彼らのことばというよりも、だれのものでもあることば、あるいはだれかが話したことばをつかう。シェークスピアみたいに、といえばいいだろうか。ひとが話していることばを受け止めて、それからその声をしっかりと聴いて、そのなかから「自分」を見つけ出してきて語る。そこには谷川がいて、最果がいるだけではなく、もっと多くのひとがいる。その多くのひとのなかへ消えていってしまうことばをつかう。
 そして、違いがあるとすれば、そのときの「ことばが消えていく」先の「ひと」の姿が違うということだろう。別なことばで言えば、「生きている世代」が違う。同じ時代だけれど、同じ時代でも「世代」が違う。
 引用のつづき。

赤い光、青い光、緑の光、
重なれば白くなれると思いながら
それでいいと誰かに言ってほしがっているようだ、

 ことばの「リズム」が違う。音は似ているところがあるのに、谷川と最果では、リズムが完全に違う。
 先の引用した部分でも、「それなのに」をのぞけば、谷川が書けば違うリズムの動きになると思うが、特に、この三行に、それを感じた。最果のことばは、とても急いでいる。谷川が落ち着いて言う部分を急いで言う。最果には、急いで言わないと、だれにも聴いてもらえないという気持ちがあるのかもしれない。それはいまの若い世代(私より若い世代という意味だが)には、とても強いのかもしれない。

きみの心を彗星に乗せて、
さみしさなど追いつけないスピードで、
宇宙の果てに連れて行ってあげる。

 この「彗星の詩」は実は、まだ読んでいない後半に出てくる。帯にあったので、偶然目に留まったのだが、「さみしさなど追いつけない」は谷川も書くと思うが、谷川はそのあとで「スピード」ということばで説明するとは思えない。ここに「スピード」をつかわざるを得ない最果の「急いでいる気持ち」がとてもよくあらわれている。

きみの心を彗星に乗せて、
さみしさなど追いつけない
宇宙の果てに連れて行ってあげる。

 では、最果の詩にはならないのだ。「スピードで」を削除すれば、谷川の詩に、さらに似てくる。「宇宙の果て」ではさらにさみしくなるかもしれない。「それなのに」宇宙の果てに連れて行く。そのときの「スピード」のなかでこそ、「ぼく」と「きみ」はいっしょに生きている。「宇宙の果て」でどうなるか、そんなことは知らない。わかっているのは、いっしょの「スピード」で「いま」を生きているということ。
 
 「浜辺の詩」。

悲しみや痛みに名がなければすべては恋と呼べたのに、
もう涙は海ではないし、すべて愛の言葉にはならない。

 この二行のあいだには「それなのに」が省略されている。「それなのに」と言っていると、その分だけ「スピード」が遅くなる。そうすると、たぶん最果と最果よりも若い世代にはことばが届かないということを、最果は知っている。

 「川じゃない」にも、独特の「スピード」がある。

私の肌はきみと私の間に流れる川じゃない、
私の肌は私のものだ、お前の輪郭を確かめるための川じゃない。
わかる?

 「川」は、聴きようによっては「皮」につながる。「それなのに」、「川」は「皮」に、「皮」は「皮膚」に「肌」につながらない、「川」と「皮」は違うから、もちろん「皮膚」とも「肌」とも違うようなことを言っているわけではないが。
 その「それなのに」を省略したからこそ、「わかる?」と念を押す。
 谷川は、「念を押さない」。「それなのに」とは言うけれど、絶対に「念を押さない」。読者のことばが動くのを、ただ、待っている。最果は「わかる」ということばで、読者のことばを誘い出そうとする。

 「氷の詩」。

きみ優しい子だと言われた回数だけ、
心は柔らかくなり、傷つきやすいまま大人になった。
悲しみを知っている分だけ優しくなれる、
なんて間違いで、悲しみがある分だけ、
昔の私が優しかった証明だった。

 この詩にも「それなのに」が隠れている。このキーワードの隠し方も谷川に似ている。谷川は、しかし「証明だった」とは書かないだろうなあ。「わかる?」と念を押すような書き方はしないだろうなあ、と思う。
 急ぐのが最果のことばの特徴かもしれないし、それが魅力なのだとも思うけれど、急がなくなったことばの運動も読んでみたいなあと思う。私はときどき、その速いスピードに追いつけず、急かせることばを省略して読んでいる自分に気がつくことがある。
 それでは読んだことにならないのだと思うので、こういう感想を書いてみた。「証明だった」まできちんと読んで、それを受け止めている若いひとの感想を聴いてみたい。

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする