詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

帷子耀「私刑」

2019-01-05 11:18:17 | 2018年代表詩選を読む
帷子耀「私刑」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 帷子耀の作品をはじめてみたのは大学受験が終わったあとだった。
受験の帰りに、坂出の池井昌樹の家へ立ち寄った。そこで「詩学」と「現代詩手帖」を知った。池井は「詩学」の投稿欄の常連だった。投稿欄を卒業していたかもしれない。ちょうど選者が山本太郎や宗左近らから、谷川俊太郎らにかわったころだった。私は「詩学」を見せられた。池井は「トマト」が出てくる詩を書いていた。谷川が「これはいったいなんだ」というような感想を言っていて、池井が怒っていた、ということを覚えている。谷川なんか嫌いだ、と言っていた。いまは大好きな詩人のひとりらしいが。
 で、そのあとの大学に入るまでの短い春休み。氷見の書店で一冊だけある「現代詩手帖」を見た。帷子耀は「私刑」(初出「妃」20号、9月)と同じように、逆三角形の形になる詩を書いていたような気がする。違う作品だったかもしれない。逆三角形の形になる詩を読んだのは、もっとあとかもしれない。けれど、その形がとてもおもしろいと思ったので、印象に残っている。
 そのあと、富岡多恵子が形ができすぎているというような批評をしていたこともなんとなく記憶に残っている。
 でも、詩を読んだ記憶はあまりない。難しすぎてわからなかったということかもしれない。気がつくと、帷子耀はどこにも詩を書かなくなっていた。
 その詩人が、突然復活してきた。
 その「私刑」。


咲く
ごとく
蜂起する
不敵な真実
毛深い憎悪を
拳にそよがせて

 「私刑」、暴力によってできた傷が鮮烈に開く。「咲く」という動詞が「花」を思い起こさせる。開花するときの力は「蜂起する」という動詞へと引き継がれてゆく。「不敵」ということばがそれを引き継ぎ、さらに「憎悪」というものを浮かび上がらせる。「憎悪」は名詞ではなく「憎悪する」という動詞として響いてくる。そのせいで「不敵」のなかから「敵」という漢字が独立して動き「敵対する/敵になる/敵として戦う」というような動詞にかわる。「憎悪」「戦い」は「拳」に引き継がれ、「そよぐ」ということばを引き寄せる。「そよぐ」は「戦ぐ」と書くと思う。
 このイメージの連鎖は、衝撃的である。頭が、あるいは目がといった方が正確だろうか、くらくらする。度の強い眼鏡をかけてみる風景のように、ゆがんだまま、脳の中にこびりつく。
 私の読み方は「誤読」かもしれないが。
 ここまでは、なんとなく「比喩」の動きを感じ取ることができる。ことばにならないものを、ことばの力を借りてことばにしようとしているという「暴力」を感じる。
 高校生のときに感じたのは、たぶん、そこまでだ。
 いまも、そこまでだが。

 私の同世代には、秋亜綺羅がいて、池井、本庄ひろしと三人が、いわば三羽がらす。帷子耀は大活躍していて、三羽がらすではなく、「鶴」というか、エリートだった。ことばの暴力という点では、秋亜綺羅の方がなじみやすかった。論理でことばが動いていたからだ。(池井は、どちらかというと古くさく、本庄は高踏派という感じだった。)私に理解できる暴力を帷子耀のことばははるかに突き抜けていた。
 
 あ、脱線した。 

 帷子耀の暴力は、高校生の私にはとてもついていけなかった。
 詩の引用をつづける。

暗文ばかりの夏は
暗くふくらみかけた
手錠のように鳴りつぎ
完黙を 羽交締めにする
みずみずしい風の咽喉笛に
そおら 茫々と銃声を吸わせ
はじめたぞはじめた受洗を逃れ
けれど心血でない何かで洗われた

 こうつづいていくと、何が何かさっぱりわからなくなる。「暗文」ということばを私は知らない。(高校生のときは、もちろん知らない。)次の「暗い」ということと連続しているのだろう。そして、それは「私刑」の「暗い」感じにつながっていると思うが。
 「手錠」や「完黙(完全黙秘?)」は犯罪を匂わせる。「羽交締め」は拷問(私刑)を連想させる。暴力が渦巻いている。「咽喉」という肉体のかんじと「笛」の結合は悲鳴を暗示させる。
 でも、これは単なるイメージであり、「誤読」にさえなっていないね。
 それなのに。
 「そおら」ということば、その掛け声のようなものに、なまなましい「肉体」を感じ、あ、ここはいいなあ、と思う。こういうことばの動かし方をまねしたいなあと、今でも思う。きっと高校生のときは、もっと強烈に印象に残ったと思う。
 いや、どういう詩を読んだか、すっかり忘れているけれど。

 こんなことは、どれだけ書いてもしようがないか。
 もうひとつ思い出すことは、たした帷子耀は山口哲夫と同時に現代詩手帖賞を取ったと思う。そのとき山口哲夫は「帷子耀の露払いとして」というよう受賞のことばを書いていた。
 誰もがみんな、帷子耀に驚いていたということだけは確かだ。
 そういうことを脈絡もなく、ただ思い出す。
 特に脈絡にしたいというわけではない。つまり、その時代の「テキスト」をもう一度見渡したい、時代をテキストとして読み直したい(誤読したい)という気持ちになるわけではないが、なつかしい。

少し吐きました
血ばかりです
そう書けば
向日葵の
ごとく
開け


 この最後は、最初と同じように「比喩」になっていく。こういう部分は帷子耀の「本領」ではないかもしれないが、あの時代を象徴しているなあ、とも思う。抒情が過激と同一視されていた。
 そういうことも思い出す。
 青春をしてみたい、という気持ちになる。

 ただ、「現代詩手帖」一月号の寄稿をなどを読むと、帷子耀は、とてもとても気配りをする人というか、「配慮」がありすぎて、それが気になってしようがない。もう誰にたいしても聞き配りをしなくてもいい年齢だと思う。いまこそ、もっと暴力的になればいいのに、と思う。他人の詩なんか全部否定して、自分の志田家が美しい、正しいと宣言してしまえばいいのに。詩人全部と喧嘩すればいいのに。
 気配りのことばを読むと、五十年前の暴力は、もしかすると、その時代に「迎合した暴力」だったのかもしれない、とちょっとがっかりする。
 とても頭のいい人なんだと思う。
 いまごろになって「頭のいい人」という批評は帷子耀にとって不本意だと思うけれど。私もそういうことばを帷子耀に書こうとは思っていなかったが、つい、そういうことばが出てしまう。
 また書いてしまうが、「文学」なんて、「芸術」なんて、全部ぶっ壊してしまえばいいのに。高校時代、私が帷子耀に感じたのは、そういうことだったと思う。第一印象から、私は逃げられないので、そう思う。不可能なかっこよさをもう一度見せてほしい。







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中村和恵「今後のあるまじろ」、野木京子「ウラガワノセイカツ」

2018-12-23 08:50:17 | 2018年代表詩選を読む
中村和恵「今後のあるまじろ」、野木京子「ウラガワノセイカツ」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 中村和恵「今後のあるまじろ」(初出「妃」20号、9月)。

食物連鎖の外で生きるのは
おそろしく孤独
よってわたし あるまじろは
漢方薬になりたい

 「あるまじろ」は「わたし」の比喩? あるまじろになったつもりで、あるまじろの気持ちを書いている? わからない。まあ、わからなくても、かまわない。
 「よって」というのは論理的なことばだが、あるまじろが「漢方薬」になるのは論理的かどうかわからない。ここからわかることは、ことばというのは「論理」を装えば、なんだって論理にできるということである。
 で、そういういい加減さ(?)というか、ずうずうしさ(きっと、こっちの方だな)を発揮してことばは展開していく。その部分はその部分でおもしろいが、引用すると長くなるので省いて。
 最後。

でね肝心なのはここんところなの
なにになってもならなくても
おしりとおでこをぴったり合わせ眼も閉じて丸まっていても
あるまじろはまだ ここ にある
あるまじろのままある
聞こえなくても聞いてみて
ほら トキトキいってるでしょう

 「でね」というのも論理のことば。でも、ぜんぜん論理的じゃないね。論理を捏造しているだけ。
 それなのに。

おしりとおでこをぴったり合わせ眼も閉じて丸まっていても

 この一行が「肉体」を誘う。
 「おしりとおでこをぴったり合わせ眼も閉じて丸まって」みたくなる。つまり、あるまじろになってみたくなる。「肉体」で形をまねると、あるまじろになれる気がしてくる。私なんかは。ここには「ことばの論理」ではなく「肉体の論理」のようなものがある。
 道端で腹を抱えてうずくまっている人を見ると、「あ、腹が痛いんだ」と思うのに似ているなあ。
 いや、あるまじろは人間じゃないから、どう思っているかは想像がつかないけれど、なんとなくあるまじろが感じていること、あるまじろの「肉体」の感じがわかるような気がする。
 そして「トキトキいってるでしょう」。これは、どうしたって心臓の音、血液が流れる音。「生きてる」と感じる。
 「おしりとおでこをぴったり合わせ」ということはできないが、「肉体」をかぎりなく丸めるとき、自分の心臓の音が聞こえない? そうやって心臓の音、血液が流れる音を聞いたことって、ない?
 そのとき、不安というか、安心というものを思い出すなあ。



 野木京子「ウラガワノセイカツ」(詩集『クワカ ケルル』9月)は、山田小実昌の「ポロポロ」を思い出させるような書きぶり。

きょうぽこぽこがわたしのところにおりてきて
ぽこぽこ
響きもなく周りをまわっている

 うーん、でも、むずかしいなあ。「ぽこぽこ」が「人間」に見えない。中村の「あるまじろ」が人間に見えるのとはずいぶん違う。野木は人間を書いているわけではない、というかもしれないけれど。
 何を書いているにしろ、私は「人間」を読みたいので、言い換えると「肉体」を読みたいので、あまりおもしろくない。
 「ぽこぽこ」が「関係」を意味する(象徴する/抽象化する)ものだと仮定して言えば、「関係」を書くのは、詩にはむずかしい仕事だと思う。詩はあくまで「具体」だから。「関係」であっても、抽象ではなく「具体」的な「比喩/もの」として提示されないと、つかみようがない。
 私は頭が悪いせいかもしれないが。



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タケイ・リエ「みとりとみどりと」

2018-12-22 09:20:31 | 2018年代表詩選を読む
タケイ・リエ「みとりとみどりと」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 タケイ・リエ「みとりとみどりと」(初出『ルーネベリと雪』9月)。二連目、三連目がおもしろい。

あらしのまえにみんなを抱え
黙々とかくれ
ぬくぬく育ったみどりのなかを駆ける
完熟ライム
あまいにおいの夜
窓は濡れて意味を灯した

温度にふれる
みみべりをすべる
枝のおもしろさを手折って
肌と話しあった
ゆびがゆるりほどけ
ひとりでもふたりでもおなじあかるさ

 音が交錯する。「抱え」「かくれ」「駆ける」という具合に、行を越えて響くことばがある。その「か」の音は「完熟」という名詞のなかで結晶する。その瞬間「完熟」は「完熟する」という動詞にかわる。これが「あまい/におい」という迷路を通って、「意味を灯した」という、それこそ「意味/象徴」に変わる。
 どんな「意味」か書かれていないが、詩(文学)なのだから、これでいい。ひとはそれぞれの「意味」を抱え込んでいる。作者の「意味」につきあわなければならない理由なんかない。こういう瞬間にも「意味」は生まれるということをつかみとればいいのだと思う。
 タケイは意図していないかもしれない。私が勝手に、ここに「象徴」というか、「抽象」のようなものが動いていると思うだけなのかもしれない。
 「みみべり/すべる」「枝/手折って」「肌/話し」「ゆび/ゆるり」にも音が交錯している。これは一行のなかで動いている。「ひとりでも/ふたりでも」も同じ。
 だから、どうした、と言われると困るのだが、私はこういう音を聞くとなんとなくうれしくなる。
 「肉体」が音に誘われて動く。
 特に「みみべり/すべり」がおもしろい。「みみべり」ということばを私は知らないのだが、「みみ」の「縁」だと思って読む。「へりをすべる」か。確かに耳の縁はつるりとすべりそうだ。ひっかかるものがない。
 「肉体が動く」というのは、説明が必要かもしれない。
 私そのものが、何か大きな「耳」のへりを滑り台をすべるみたいにすべっていく感じがする。そういう「感じ」を「肉体」そのものとして感じる。「思い出す」というと語弊があるが(そんなことをしたことがないのだから)、でも「想像する」というよりも「思い出す」という感じが近い。
 ほかのことばも、想像するというよりも「思い出す」という感じで「肉体」で反復してしまう。
 そしてこの「反復感(?)」が「ひとりでもふたりでもおなじあかるさ」のなかで、「意味」になろうとする。反復することで「ひとり」と「ふたり」が「おなじ」になる。違うひとであっても、反復するということで、「おなじ」動きになる。その「おなじ」の感覚が「あかるさ」につながる。

 私の書いていることはあまりにも抽象的すぎるかもしれない。私自身にもよく分からないことを書いているからだ。「予感」のようなものを書いているからだ。
 こういう形でしか書けない感想もある。おもしろい詩は、たいていそうである。あとになって、ああだったかな、こうだったかな、と思い返す。それが少しずつ「肉体」のなかにたまっていって、私を動かす力になる。
 「正解」はない。


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小林稔「一瞬と永遠」、浅見恵子「狂々」

2018-12-19 14:34:01 | 2018年代表詩選を読む
小林稔「一瞬と永遠」、浅見恵子「狂々」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 小林稔「一瞬と永遠」(初出『一瞬と永遠』8月)。いろいろ考えているうちに、この詩集の感想も書かずに置いてある。「現代詩手帖」のアンソロジーには「一、パリス、ノスタルジアの階梯」ともう一篇が収録されている。
 ギリシアをどう読むか。他の人のギリシアに関することばを読むと、違和感を覚える。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という思考でギリシアを見ていないか、と思ってしまう。精神と肉体、という「二元論」で見ていないか。

           少年たちの美しい形姿に似つかわ
しい魂を注ぐため、ノスタルジアの階梯をかつてわたしは
昇りつめたが、わたしは彼らに何を与え何を授かったので
あろうか。神象の視線は正面から捉えられ、一瞬の姿を永
遠の形相に変貌させた神の似像をまえに、わたしは精神の
羽搏きを感じて、しばらく立ち去ることを忘れた。

 「形姿」と「魂」、「似像」と「精神」。この対比が、私にはわからない。何度か書いたことがあるが「魂」ということばの前で、私は途方に暮れる。私は「魂」の存在を知らない。理解できない。読むと、そこに「対比」があることがわかるが、それはあくまで「頭」でわかっているつもりになっているだけで、私には「現実味」がない。「数学」の数式を読んでいるような感じで、「具体的なもの」が見えてこない。
 「似像」は「神の似像」と書かれている。この時の「似」は「似ている」というより「似させた」だろう。「像」は人間がつくったもの。そうであるなら「似させて」つくった像ということだろう。「似させる」という「動詞」のなかに人間がいる。こういう「動詞」に触れたときに、人間にどういうことが起きるのだろうか。私の場合は、どうしても「肉体」が動く。私にはこういうものをつくれない、と思う。同時に、その像をつくった人間の「肉体」を感じ、「人間がいる」と感じる。私の「肉体」がそう判断する。「精神」は動かない。
 でも、小林は「精神」を動かしている。「精神の羽搏き」を感じている。このときの「精神の羽搏き」というのは、小林の精神ではなく、その像をつくった人の「精神の羽搏き」ということだろうが、それを感じることができるのは、同じように小林の精神が羽ばたいているからだろう。
 私は、そういうことを感じられない。
 「神」というのものも、どうも、よくわからない。ギリシアの「神」は「人間の欲望」そのものに思える。人間の行動の「典型」を純粋化したものに思える。「精神」ということばは、どうもぴんとこない。「精神」というのは、キリスト教の「神」が出現したあとのものではないのだろうか。「新約聖書」を読むと、キリストは確かに存在した。目撃証言が微妙に違うのは、キリストが存在し、キリストに出会ったひとがことばを動かしているからだ、ということはわかるが、キリストが神、あるいは神の子であるかどうかは、私にはわからない。「新約聖書」の登場人物は、キリストがいたと語ること、その行動を語ることで、「精神」を語り継ごうとしている。デカルトの「我」というのもキリスト教の「神」と向き合っている。そして、そのとき「肉体」は脇に置かれている、と感じる。「肉体」と「精神」の分離というのはキリスト教によって始まって、デカルトが追認したというように思える。あるいはデカルトによって、より洗練された(?)という感じかなあ。
 私の感想なんて、あくまで感想で、いい加減なものなんだけれど。
 どういえはいいのかよくわからないが、小林の書いていることは「ことばの運動」としては完結しているが、そのことばの運動の中に私は積極的に入っていくことができない。「肉体」が入っていかない。「頭」だけがことばを追い掛けて読んでいる気持ちになる。どう整理すれば、私のことばが動くのか、よく分からない。だから、こうやって、くだくぐとことばをつないでいるのだけれど。
 私の「肉体」のなかに、ごちゃごちゃ整理されないまま動いているものがあり、それが整うまでは小林の詩について感想を書くのはむずかしい。



 浅見恵子「狂々」(初出『星座の骨』、9月)はおもしろい。

花という花から毛が生えて
土という土から溢れている
流れるそれは
すでに香りではない

 では、流れているの何? 私は即座に「肉体」だと反応する。このとき浅見は「花」になり「土」になり、「生えて」「溢れて」「流れ」ている。つまり、「ひとつ」の形ではない。瞬時に変形し、瞬時に「ひとつ」のものから「複数」のものになっている。「花即土/土即花」という固く結びついた「変化」そのものが「浅見の肉体」なのだ。
 浅見の「肉体」から「目」が飛び出していく。花をつかまえる。土をつかまえる。浅見の肉体がつかまえたものが浅見なのだ。
 「花」になって、「土」になって、浅見は感じる。

肉の内側から肉がにじみ
虫によって運ばれる
花粉の油
泥水の腐り
ミミズの吐息
芋虫の排泄
土壌から湧きだし
皮膚から入りこむ
ぬめったニオイに包まれ
雉や雲雀が
耕された畑の土手で
浮かされていることにも
気づかないまま

ひとり転がった地面の
花という花から毛が生える
土という土から春が溢れている

わたしの許しなく

 地面に転がって、浅見は「春」そのものになる。そのとき「肉体」は「花」のような美しいものだけではなく、「ミミズ」や「芋虫」も含む。「吐息(息を吐く)」「排泄(排泄する/糞をする)」ということを浅見は浅見の「肉体」で追認することができる。
 最後の「許しなく」がとてもいい。
 こんな無軌道な「変身」(自己拡張)を「許している」のは誰? 浅見の「精神」? ああ、そんな面倒くさいものは、生きている世界には存在しない。「肉体」は「精神」の許可など求めたりはしない。自分の好き勝手にやる。それが「肉体」の喜びである。「精神」なんていうものは、「他人への配慮」にすぎない。
 ギリシアの神は「他人への背理」なんかしない。自分の思うがまま。「肉体」が命じるままに動く。「わがまま=精神」、「肉体=精神」がギリシアだと思う。そのイコールは、けっして分離できない。

 小林の詩よりも、浅見の詩の方に、私はギリシアを感じる。

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一瞬と永遠
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北條裕子『補陀落まで』

2018-12-18 10:34:56 | 2018年代表詩選を読む
北條裕子『補陀落まで』(思潮社、2018年08月10日発行)

 北條裕子『補陀落まで』。「現代詩手帖」2018年12月号には「半島」が収録されているが、私は「時の庭」が好きだ。

寡黙な秋を前にして
丈の高い百合が
小さな百合をかき抱いて
揺れていて。
背の高いものたちがあらぬ方向をむいて
庭中に
てんでに乱れ咲いて。
そうだ 皆 いってしまったね。

  庭にはたくさんの花が咲いている。それは「あらぬ方向を向いて」「てんで」に咲いている。しかし、「丈の高い百合」だけは違う。「小さな百合をかき抱いて」いる。
 ただし、北條は、私が書いた順に目を向けたわけではない。まず百合に目がゆき、そのあとで他の花々に目を向けている。丈の高い百合が小さな百合をたき抱いている、ということが最初なのだ。このとき「百合」と「かき抱く」を分離することはできない。百合を見たのか、かき抱くという動きを見たのか。分離できないのだけれど、私は分離してみる。北篠は「かき抱く」という動詞を見たのだ。
 だからこそ他の花々は「あらぬ方向を向いて」「てんで」に咲いている、と描写される。他の花々は、もう一つの花を抱くという形では咲いていないのだ。「かき抱く」という動詞に、北條は特別なもの、北條だけにわたる「意味」を見ていることになる。小さな百合を北條自身だとすれば、丈の高い百合は、実際に北條より背がガ高いか、年上かのどちらかだろう。「いってしまったね」を意識すれば、そのひとは死んだことになる。北條よりも年上の可能性が高い。もちろん背も高いし、年上でもあるということもある。いずれにしろ、「小さな」北條が頼りにしていた人なのだろう。
 途中いろいろなことが書いてあるが、その最終連。

鎖骨に受ける 死線を避け
風を束ね
その行く先を整える。
(風は不実ではないのだから)
囁く声を無視して 顔をあげると
たくさんの陽の道筋が 広がっているのであった。

 「行く先を整える」の「整える」が美しい。「整える」に先立つ「束ねる」が「整える」を導いているのだが、この「束ねる」には最初に引用した部分の「かき抱く」が響いている。「かき抱く」は「束ねる」である。そうすると、おのずと「行く先」が整えられる。「かき抱く」とき、「そっちへ行ってはいけない、こっちだよ」と引き止める力が働いている。その「引き止める」力を感じるはずだ。抱かれた人は。
 だが、なぜ引き止められ、かき抱かれ、整えられるのか。
 最後になって、やっとわかる。
 「行く先」というのは無限にある。しかし「小さい」ころは、その「無限」がわからない。かき抱かれて(守られて)育ってきて、成長し、その腕を離れた瞬間、「たくさんの(陽の)道筋が 広がっている」ことに気づく。守られてきたから、いま、無限に広がるものがみえる。「陽の」というのは「比喩」である。明るく、輝かしい道が「たくさん」ある。そのどれを選んでもいい。それがわかるときが来るまで、「丈の高い百合」は「小さな百合(北條)」をしっかりとかき抱いてくれていたのだろう。
 ことばの奥に「ありがとう」が響いている。

 「たくさんの陽の道筋が 広がっているのであった。」は、「水面」では、

未だ剥いたことのない時間を
あらためて
明日と
名づける

 と言いなおされる。さらに、こうも言いなおされる。

水滴をはじく羽毛の鳥を
脇にかかえ 息をとめ
沼と呼ぶ 水のひろがりを
いっしんに かきわけていく

 「ひろがり」ということばは「広がっている」としっかり呼応している。ひろがりの中から(たくさんの道筋のなかから)、自分の選んだ道を「いっしんに」進んでゆく。「いっしん」は「一心」であり、その「一」には「束ねる」という動詞が生きている。




*

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伊藤比呂美「チャパラル」

2018-12-17 07:56:11 | 2018年代表詩選を読む
伊藤比呂美「チャパラル」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 伊藤比呂美「チャパラル」(初出『たそがれてゆく子さん』、8月)。

この土地に二十数年住み果てて
チャパラルということばを知った

 と始まる。つづきを読むと「竜舌蘭」の類の草木のように思えるが、よくわからない。「翻訳できない」という行を含んで、チャパラルの野(山)を歩く。
 そのあと、最終連。

どんぐりが生るのを見た
コヨーテの呼ぶのを聞いた
コヨーテの食べ残しを見た
それはうさぎの尻尾だった
月がのぼるのを見た
日がしずむのを見た
日がのぼるのを見た
雨が降るのを見た
雷が鳴るのを聞いた
人と出会って、人と別れた
花が咲くのを見た
咲いた花が枯れるのを見た
枯れ果てたのを見た

 「見た」「聞いた」が繰り返される。知覚動詞をとりはらうと「神話」になる。でも、伊藤は、これを「神話」にしない。あくまで伊藤個人の体験に閉じ込める。
繰り返される「見た」「聞いた」は、一連目に出てきた「知った」と、どう違うのだろうか。私は違わないと思う。伊藤にとって「見る」「聞く」は「知る」ことである。「知る」というのは、最終連のことばを借りて言えば「出会う」である。だから「別れる」はきっと「記憶する」である。「忘れない」である。
で、この「知る」「記憶する」「忘れない」を、私は「見た」「聞いた」というこことばがつかわれていない部分に補って読む。

それはうさぎの尻尾だった

それはうさぎの尻尾だと「知った」。そのうさぎの尻尾を「記憶する」。そのうさぎの尻尾を「忘れない」。
ここから最初の連に戻る。

この土地に二十数年住み果てて
チャパラルということばを知った

は、

この土地に二十数年住み果てて
チャパラルということばを「記憶した/忘れない」

 そう読み直すと、そうか、伊藤は「この土地」をいずれ離れるという意識をこめて書いているのだな、と「誤読」できる。すでに「離れた」のかもしれない。でも、けっして「忘れない」。そのために書く。




*

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佐々木幹郎「ここだけの話」

2018-12-16 12:36:57 | 2018年代表詩選を読む
佐々木幹郎「ここだけの話」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 佐々木幹郎「ここだけの話」(初出「みらいらん」2号、7月)にもわからないことがある。

この声は不思議だ
おふ おふ おふ と
曇天を糸のように連なって通りすぎていく
泣きガラスからの 伝言があり
姿もないのに 黒い電線の垂れ下がる 空の一角

 「この声」の持ち主が書かれていない。「曇天を糸のように連なって通りすぎていく」から想像すると、鳥の声のようである。「天」を通っていくのだから。さらに「泣きガラス」が伝言をつたえようとしているのだから。
 福間の詩のつづきで言うと、「固有名詞」がわからない。鳥の名前(鳥だと仮定して)がわからない。だが、その「声」は抽象ではない。つまり、意味ではない。「肉体」があるというか、「存在感」がある。「おふ おふ おふ」は佐々木のとらえた「声」であり、他の人がことばにすれば違ったものになるかもしれない。「カーカー」「ぽっぽっぽ」「ちゅんちゅん」という具合に「定型」になっているとは思えない。

この声は不思議だ
いくたびもわたしの小さな部屋を訪れる
朝の光の 言葉がずれていくときの 生きものの息づかい
おふ おふ おふ
わたしは 手にとられる「わたし」だから

 「わたしの小さな部屋を訪れる」と佐々木は書くが、私は「わたしの肉体を訪れる」と「誤読」する。佐々木の肉体が声を聞く。声は耳から入ってきて、佐々木の肉体を動かす。「おふ おふ おふふ」という声といっしょに「息」になる。「息づかい」になる。その「声」が息を整えるのだ。
 「言葉がずれていく」というのは、複雑な表現だが、そこに「朝」が関係してくると、そうかもしれないなあ、と感じる。夜の、夢のことば。朝の、現実のことば(目覚めのことば)。そこには「ずれ」があるかもしれない。というよりも、私たちは、ことばを微妙にずらして(ずれをつくりだして)、夜と昼を分けていないだろうか。夢と現実をわけていないだろうか。
 「おふ おふ おふ」は、夢と現実、夜と日中(朝)をわたっていくときの、佐々木の「息づかい」になる。佐々木は見えない鳥と一体化して動いていく。
 「わたしは 手にとられる「わたし」だから」は、よくわからない一行。「声」に導かれ、同時に「声」になって、「夜(夢)のわたし」から「日中(現実)のわたし」へと手を取られ(手を引かれ)、あるいは逆に手を取って(手を引いて)、動いていくときの姿かもしれないと想像する。手を取るわたし、手を取られるわたし。どちらが「主語」(主役)か、わからない。佐々木が鳥の声を聞いているのか、鳥は佐々木に聞かれた声を聞いているのか、鳥は佐々木に聞かれた声を知っているのか、(おふ おふ おふと鳴いたことはないと異議を唱えることはないのか)、その声はほんとうに「おふ おふ おふ」なのか、佐々木の「肉体」を通るから「おふ おふ おふ」という声になるのか、わからない。
 わからないけれど、そのわからなさのなかに、私は「佐々木」を感じる。あ、ここに佐々木がいるなと感じる。姿を隠すのではなく、姿をあらわそうともがいている感じがする。福間が「政治家、役人」という一般名詞のなかに姿を隠してしまうのとはまったく逆の動きを感じる。

太陽の舌にちろりと舐められるまで 眠っていよう
籠のなかの りんごみたいに
禿げ頭になっても 頑固に
皺だらけになって縮んでも 断固
リサイクルされない
おふ おふ おふ

 「禿げ頭になっても 頑固に/皺だらけになって縮んでも 断固」は「りんご」の比喩なのかもしれないが、佐々木の自画像にもみえる。老人になっても「リサイクル」されるなんて、まっぴらごめん。わたしは鳥になって飛んでゆきます。「おふ おふ おふ」と笑っているようにも感じる。

 私の感想は「誤読」だが、「誤読」できることが、私はうれしい。
 「正解」なんか、気にしない。ことばは人の気持ちを知るというよりも、自分の中にどんな気持ちがあるかを見つけだすためにある、と私は考えている。




*

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福間健二「この世の空」

2018-12-15 07:12:36 | 2018年代表詩選を読む
福間健二「この世の空」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 福間健二「この世の空」(初出「文藝春秋」7月号)。気持ち悪くなってしまった。
 全行引用する。

腑に落ちぬ世。百年前からずっと
同じことを言わされてきたが
きょうは大谷翔平がホームランと二塁打。
酒がうまい。この春からずっと
ぼくの野球少年は遠い空を見て落ち着かない。
去年の夏は藤井聡太で、いきなり将棋熱。
嘘に嘘をかさねて逃げきるつもりの政治家や役人がいて
それを許さない人たちもちゃんといて
天才もいる
この世の空、怖くなるほど青いときがある。

 世の中には腑に落ちないことが多い。だから大谷翔平や藤井聡太という「天才」の活躍を見て気分を晴らす。自分も「天才」になった爽快さを味わう。ここまでは、とても気持ちよく読むことができる。私も天才の活躍を見るのは好きだ。私は野球をしないし、見ることもないが、大谷翔平は見てみたい。大谷翔平が完封し、ホームランを打つところは見てみたい。私はミーハーである。
 では、何が気持ち悪いのか。
 後半である。嘘を重ねる政治家と役人と、それを許さない人が出てくるのだが、彼らに「名前」がない、というのが気持ち悪い。
 大谷翔平、藤井聡太は固有名詞なのだが、政治家、役人、それを許さない人は固有名詞がない。「嘘を重ねる」と「許さない」という「動詞」だけがある。「動詞」(動き)は認識するが、その「主語」は認識しない。ここが、とても気持ちが悪い。
 私は人間を判断するとき、固有名詞ではなく、動詞で判断するが、それはそれぞれの固有名詞と自分がどう向き合うかを語るためである。動詞の「主語」を「抽象」のままにしておいて動詞を問題にすることはない。固有名詞が、動詞(その人の動き)を隠す作用をしていないかどうかを明確にするために動詞を問題にする。
 福間を例にして言いなおしてみる。
 福間は詩人として確立された「固有名詞」である。多くの人が福間をすぐれた詩人だと認めている。その名声が、「福間の書いた詩はすばらしい」という形にかわり、どこに、どう感動したかを語ることなく、「福間が書いているのだから、この詩はすばらしい」と変化する。詩のなかでことばがどう動いているか、それを吟味せずに、福間という名前(固有名詞)が詩を価値づける。ほんとうにその詩がすばらしいかどうかは、詩のことばを実際に動かしてみないといけない。そのことばが自分にどう影響したのか、そこから何を考えたのか、その考えを自分のものとして引き受けることができるか、それを調べてみないといけない。
 私は、福間が書いている大谷翔平、藤井聡太についての行は、そのまま自分の「感情」として引き受けることができる。福間と「一体」になって、彼らの活躍を喜ぶことができる。大谷翔平、藤井聡太は、すごいよなあ、わくわくするよなあ(酒がうまい)。
 でも、政治家云々については、そのまま引き受けるわけにはいかない。安倍は嘘をつく。麻生も嘘しかつかない。佐川もそうだ。菅は、論理をはぐらかすだけだ。でも、前川はどうか。前川は、ほんとうのことを語らなかったか。
 「許さない人」のなかに政治家はいないのか。「許さない」を宣伝しながら、選挙になれば公明党にしか投票しない創価学会は、どういう「分類」に抽象化されるのか。
 世の中には理不尽なことがたくさんある。腑に落ちないことばかりだ。それは認識している。認識していることは、ちゃんと表明している。それでいい、というのかもしれない。「だって、長いものに巻かれないと、生きていけない」。それが「庶民」だ、というつもりかもしれない。そこまで、言うつもりはない、と福間は言うかもしれない。
 わからない。
 わからないけれど、私は気持ちが悪い。
 大谷翔平、藤井聡太は固有名詞を出して称賛するけれど、政治家や役人については固有名詞を出して批判することはない。「私はあなたを批判していません」と隠れるつもりなのだろう。
 そして「この世の空、怖くなるほど青いときがある。」というような、絶対的な「美しさ」、非情な美しさを、隠れた福間のかわりに提出して見せる。







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池上貞子「スコールにはキーメン紅茶を」

2018-12-14 09:25:58 | 2018年代表詩選を読む
池上貞子「スコールにはキーメン紅茶を」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 池上貞子「スコールにはキーメン紅茶を」(初出『もうひとつの時の流れのなかで』7月)。

 中国語の影響だろうか。ことばが引き締まっている。こう、始まる。

屯門はもと要塞の地
異国人のわたしはしばしの仮住まい
窓の外に重なり見える山の稜線
朝には濃い霧
鳥の声、人の声
わたしはひとりでいることはない

 ひとりでいても、鳥の声が聞こえる、人の声が聞こえるから孤独ではない、ということだろう。山があり、霧がある。自然に包まれている。名詞(体言)の積み重ねがすばやく、その重なりの間には不純物がない。透明な大陸の空気がある。
 そこに「時ならぬスコール」が襲う。スコールなかで池上はキメーン紅茶を飲む。その時間のなかに「歴史」が入ってくる。そこがこの詩のハイライトなのかもしれないが、私はそのあとのことばの変化の方に関心を持った。

紅茶の香りは のどから身体全体へ
そして わたしは リラックス

スコールがあがった 鳥の声、人の声がする
稜線は ふたたび 二列にわかれた
手前の山は 木々の色、かたちまで あざやか
うしろの山が 流れはじめた雲の下で 輪郭をつくる
あ ところどころに 山道が見える
またこの週末も 人びとに混じって あの道を歩こう

 突然、「分かち書き」にかわる。それまで「重なり」の間にあったものが、「重なり」を押し広げ、空間(隔たり)を主張する。間をつくっていた「透明」はそのまま透明なのだが、緊張感のかわりに、ゆったりした感じがひろがっている。
 これを「リラックス」と呼べばリラックスなのだろうが、すこし違うなあ、と思う。

うしろの山が 流れはじめた雲の下で 輪郭をつくる

 「流れはじめる」(流れる+はじめる)「つくる」とふたつの動詞がある。そして、その行は動詞(用言)で終わっている。他の行も、すべて「用言」で終わっている。「あざやか」ということばは「名詞」だが「あざやぐ」「あざやかな」ということばから派生している。「あざやかだ」と形容動詞にして読むと、行が落ち着く。
 一連目が「体言止め」が主流だったのに対し、最終連では「用言止め」に変わっている。「鳥の声、人の声」が「鳥の声、人の声がする」に変わっている。文体が根本的に変わっている。
 ここが、とてもおもしろい。
 池上は、ここでは「日本人」に戻っている。一連目も日本人であることにかわりはないのだが、中国語の影響を受けてことばが動いているのに、ここではその影響がやわらいでいる。

うしろの山が 流れはじめた雲の下で 輪郭をつくる

 この行は、いかにも中国らしい風景だが、中国語で書いたらもっと短くなる。「山道が見える」から「あの道を歩こう」までも、中国語(漢詩)なら一行にしてしまうだろうなあ、と感じる。
 日本語は「動詞(用言)」のなかで、自分の肉体をゆったりと動かし、他者との「間合い」を測ることばなのかもしれない、と思った。






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森雄治『蒼い陰画』

2018-12-13 08:10:22 | 2018年代表詩選を読む
森雄治『蒼い陰画』(ふらんす堂、2018年11月15日発行)

 森雄治という詩人は初めて知った。『蒼い陰画』は硬い言葉で書かれている。崩れてゆかない、という意味である。「蒼い陰画」という作品はない。「陰画」ということばは「降霊術」に「ネガ」というルビ付きでつかわれている。

もうひとつの準備された世界の陰画(ネガ)が浮上する

 「陰画」とは「もうひとつの世界」である。「の」でふたつは結ばれている。けれども、私はそれを「言い直し」と「誤読」する。「意識」という作品が、そういう「誤読」を誘う。

ガラス玉の風景
そこに指紋をつけてはならない
なぜならつけるまでもなく
繊細にどよめき崩れてゆくだけだから

 「なぜなら」は理由を語るのだが、「理由」というのは、り言い直しである。だからこそ「つけてはならない」は「つけるまでもなく」と引き継がれる。言い直しは、世界を二重にする。この二重は、陽画(ポジ)と陰画(ネガ)のことである。陽画が「現実」であり、陰画が「虚構」というわけではない。ふたつはしっかり結びついている。けっして分離しない。分離させないために「なぜなら」ということばがある。

瞼におおわれてもいないので
それはごく自然な摂理なのだ
希薄な硝煙のさざなみが表面を擦っている
そのしみいるような静かさに怯える幾千万の粒子の氾濫
薄明の夢の凝縮が
遠い叢林の狂乱を青く染まる

 これらの行に「なぜなら」は書かれていないが、すべての行に「なぜなら」を補ってみるといい。不自然な感じに響くところがあるかもしれないが、「言い直し」であることがわかる。
 「なぜなら」は「理由」を語ることで、新しい「比喩」を生み出す。あらゆる「比喩」は「陰画」なのである。比喩が現実の隠れていたものを象徴し、そこから「意味」を育てていくように、「陰画」は現実の隠れていたものを浮かび上がらせ、陽画という「意味」を育てる。この「意味」はすべて「意識」を構成する。
 タイトルが「意識」となっているのは、そのためである。

遠い叢林の狂乱を青く染まる

 ここには「蒼い」ではなく「青」がつかわれているが、森は「意識」を「青/透明につながる色」と考え、それを重ねることで「世界」の「意味」と「意識」を重ねようとしたのだろう。そのようにして「意味」の構築が「意識」の構築になるのだ。





*

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白石かずこ「最初に鳥が飛ぶ」、野村喜和夫「骨なしオデュッセイア」

2018-12-11 08:58:23 | 2018年代表詩選を読む
白石かずこ「最初に鳥が飛ぶ」、野村喜和夫「骨なしオデュッセイア」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 白石かずこ「最初に鳥が飛ぶ」(初出『白石かずこ詩集成Ⅲ』6月)の書き出し。

最初に鳥が飛ぶ
空ではなく 鳥が飛ぶ
舟が浮かぶ
  どこへ ではない 西陽か朝やけか知らないが
太陽が空にウインクしてできた
             あついヒトミだ

 詩だなあ、と思う。何が詩か。リズムが詩だ。
 「空ではなく」というのは、とても奇妙な表現である。「空」が「飛ぶ」ということはない。「意味」だけを考えるなら「空ではなく」は不要である。しかし、その不要な部分が詩である。余剰/過剰が詩なのだ。「空ではなく」という短いリズム、歯切れのよさが、空が「飛ぶ」ということがあってもいいと錯覚させる。
 空を飛ぶ鳥を見たことを思い出す。鳥は空に止まっていて、空が動いている、という風に見える。そのとき「空が飛ぶ、鳥ではなく」ということばが動く。そういう錯覚を「空ではなく」ということばは否定するのだが、否定されることで、逆に可能性として「空が飛ぶ」が見えてくる。
 この錯乱をつくりだすのはリズムだ。
 このリズムに乗って「舟が浮かぶ」が唐突にやってくる。「どこへ ではない」と白石は書くが、私は「水ではなく 空に」と思う。「空ではない」ということばが動いたときから、主役は「空」なのだ。
 「西陽か朝やけか知らないが」は、もう、「空」のことしか書いていない。
 けれど、主役というか、主語は、固定されない。

太陽が空にウインクしてできた
             あついヒトミだ

 「あついヒトミ」は「太陽」のことだろう。太陽が空にウインクする、そのウインクは太陽である。太陽と空の、主役の位置はあっと言う間に交代してしまう。
 このスピードは「鳥」と「空」が交代したときよりも加速している。



 野村喜和夫「骨なしオデュッセイア」(初出『骨なしオデュッセイア』6月)。

 ストッキングに「文字」が印刷されている。文字が印刷されたストッキングを履いた若い女を見た。あるいは女が履いているストッキングに文字が印刷されていたのか。同じことだが、まったく違うことでもある。
 で、ことばが、こんなふうに動く。

文字列を読み取るためには、ふくらはぎとの距離を、
もっともっと縮めなければならない、
ふくらはぎは女に、女は公共に、
属している、それをつかまえるという、
わけにもいかない、秋の柔らかい陽射しが、
いや人口の冷たい光が、まだらにふくらはぎに、
文字列にあたる、私は追う、何が、
何が書かれているのだろう、読み取るためには、
まず公共から女を離し、女からふくらはぎを離し、
ゆっくりとそれを、本のように、
まるみを帯びた肉感的な本のように、
持ち上げなければならない、

 「属している」という動詞があり、その対極に「離す」という動詞がある。何が何に属しているのか、何を何から離すのか。これは「任意」である。つまり、言い換えることができる。いちおう、「ふくらはぎ(ストッキング)」に属している(書かれている)「文字列」を、「ストッキング(ふくらはぎ)」から離すという風に読むことができるが、いったん離されてしまえば、ほんとうに「文字列」が「ストッキング(ふくらはぎ)」に属していたのか、それとも「ふくらはぎ(ストッキング)」に「文字列」が属していたのか、よくわからない。
 主語と対象。その間で動く動詞。動詞を中心に見直すと、主語と対象(目的語)は、あっという間に入れ代わる。これは言い換えると、ほんとうに存在するのは「動詞」だけであるということになる。
 (私は、いつでもこの視点から詩を読むのだが。まあ、それは、おいておく。)
 だから、ほら、こうやって詩を読むと、野村が「ふくらはぎフェチ」だから女のふくらはぎ、ストッキング、文字に目がいってしまったのか、文字に目が行って、ストッキングに目が行って、よくみるとそこにふくらはぎがあり、ふくらはぎにたどりついたときに野村は「ふくらはぎフェチ」になるのか、区別がつかなくなる。
 こういうことが起きるのは、やはり、ことばにリズムがあるからだ。
 野村は、私の印象では、昔はとってもめんどうくさい詩を書いていた。でも、最近はことばがひたすらリズムに乗って動く。その結果、どこへ行くのか、そんなことなんか気にしていないという感じで書いている。私は、こういう詩が好きだ。



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倉橋健一「そのときも」、須永紀子「中庭へ」、中村稔「言葉について1」

2018-12-10 10:49:56 | 2018年代表詩選を読む
倉橋健一「そのときも」、須永紀子「中庭へ」、中村稔「言葉について1」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 倉橋健一「そのときも」(初出「時刻表」3号、5月)には不思議なことばがある。

あの濃霧は私に忘れさせることはないだろう
手を伸ばせばすぐ届くところに居ながら
あの人の姿はしぶとく
この自然の昏いきつい装いのなかに溶けていった
私はもう手当たりしだいに呼び続けるしかなかった

 三行目の「しぶとく」が不思議だ。「しぶとく」という副詞は「持ちこたえる」(維持する/変化しない)ということばと結びつくのがふつうだと思う。けれど高橋は「溶けていった」ということばへとつないでいっている。「溶けていかなかった」ではない。ここに、つまずく。つまずくけれど、倒れる、という感じではない。なぜ、「しぶとく/溶けていった」なのか。この、学校文法では否定されることばの動きで、倉橋は何を明るみに出そうとしているのか。
 「溶けていった」けれど、そこには「抵抗」があった。簡単に溶けていったのではなく、あらがいながら、時間をかけて「溶けていった」ということを予感させる。
 詩は、こうつづいている。

電線の音だけがびゅうびゅうと耳元を掠めていった
私は綾取り用の細いしなやかな組紐を買うために
臥った姉さん頼まれて町へ行った帰りだった
姉さん!セピア色のフィルムのなかにしか姿を残せなかった姉さん
私は山間の廃線トロッコ道を枕木を踏みながら急いだのだった

霧に被われたのはどのあたりだったか
今になってみればそれはもうどうでもいい気がするが
瞼に残るのは小さな琴、小さな鼓、小さな乳母車、月にむら雲、
ああ私の生きている分量の百分の一にも満たなかった
全身赤ん坊のままだった姉さん

あの濃霧は私に忘れさせることはないだろう
なんといっても姉さん!霧に溶けていったのはあなただからだ
じわじわと霧は私の目、私の手、私の足、に襲いかかり
恐いことなんか少しもないのにまったく動けなくなってしまった
身近な彼方にでもあの人は(そのときも)居るはずだった

 最後の連に「動けなくなってしまった」(動けない/動かない)という動詞が出てくる。これが「しぶとく」と呼応している。「しぶとく/動けなくなった」とは、やはり、言わない。けれど「動けなくなった」けれども「しぶとく」そこに「居た」ということはできる。
 「居る」という動詞が何回か出てくる。この「居る」と「しぶとく」が深いところでつながっていて、その感覚が、ことばを貫いている。
 「しぶとく/溶けていった」「しぶとく/動けなくなってしまった」はつながりにくいが、その「溶けていった」「動けなくなってしまった」けれど、そのときの「時間」の「長さ」が「しぶとく/居る(存在する/生きている)」とつながる。「しぶとく」は「長い時間」という形で、そこに「居る」人を浮かび上がらせる。
 「私(倉橋)」が霧に囲まれて身動きできずにいたとき、姉は病床で死と戦い身動きできずにいたのかもしれない。「私」と姉は、「身動きできない」という動詞の中で「ひとつ」になり、それぞれに「しぶとく」その時間を生きたのだ。その「しぶとさ」を倉橋は思っている。さらに、その「しぶとさ」は、姉の場合は「恐さ」との戦いであったかもしれない。



 須永紀子「中庭へ」(初出「栞」7号、5月)の二連目。

踏み出した足が土中にめりこみ
なかなか上がってこない
象のように沈んでいく身体
〈重い〉感覚が思考を中断させ
脳に侵入する
〈重い〉苦痛が脳を占拠して
神経系を分断する

 「〈重い〉感覚」を「〈重い〉苦痛」と言いなおしている。「侵入する」は「占拠する」と言いなおされる。「中断させる」は「分断させる」と言いなおされる。ただし動詞の呼応は、「中断する/占拠する」「侵入する/分断する」という順序で書かれている。だから「侵入する/占拠する」「中断する/分断する」と読むのは、「正しい」読み方ではなく「誤読」なのだが、この「誤読」のなかには、倉橋が書いていた「私/姉」の交錯のようなものがある。交錯した瞬間に、瞬間的につかみ取る何かがある。



 中村稔「言葉について1」(初出、詩集『新輯・言葉について 50章』5月)の最終連。

言葉は質量をもたず、鋭利でもないけれど、
集落が頽廃したとき、集落を消失させるほど
威力をもつことに誰も気づいていない

 しかし、また、ことばは「消失してしまったもの」をも呼び出し、いのちを与えることもある。
 倉橋の詩では、姉は死んでしまっているが、その詩を読むとき、私が思うのは「生きている」姉である。須永の詩からは、「重い」と感じるときの「時間」そのものである。それらはいずれも、詩を読む瞬間の、「いま/ここ」に生きている。



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工藤正廣「すべての祝福の始まり」、野崎有以「塩屋敷」、城戸朱理「目覚めよ、と呼ぶ声がして」

2018-12-08 10:57:20 | 2018年代表詩選を読む
工藤正廣「すべての祝福の始まり」、野崎有以「塩屋敷」、城戸朱理「目覚めよ、と呼ぶ声がして」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 工藤正廣「すべての祝福の始まり」(初出「午前」13号、4月)には「リルケとパステールナーク」という副題がついている。

遥かな野辺とプラットホーム
二人の話すドイツ語
少年はすでにドイツ語は完璧なほどに分かる
しかしこのひとのドイツ語は なぜだろう
いままで聞いたこともないふしぎなひびきだ

 これは少年パステルナークが出会ったリルケの印象である。工藤自身の経験ではない。でも、とても自然にことばが響いてくる。工藤自身がパステールナークになってしまっている。何度も何度も思い返した結果、自然にそうなってしまったのだろう。
 ブログに書いたが、この詩はとても好きな詩である。



 野崎有以「塩屋敷」(初出「交野が原」84号、4月)は、誰の記憶を書いているのか、わからない。野崎の体験を書いているとは思えない。詩は、詩人本人の体験を書くものではない、と言えばそれまでだが。

アメリカに行った女が大雪になりそうな日に戻ってきた
女はいつか大雪の日に雪かきをしろと亭主に言われたせいで出ていった
地主の亭主はえらく反省した
女このことを思い出すたびに家の若い衆を集めて塩を買いに行かせた
雪の降りはじめに塩を撒いておくと積もらないのだと聞いたからだ

 一種の「物語」として読めばいいのだろうか。
 間延びした「散文」のように感じられる。
 唯一おもしろいと思ったのは、次の部分。

こたつの上には亭主の読んでいた『家の光』
ノサカ・アキユキ
いるのかいないのか
往復書簡だけが連載され続ける
重なった生八つ橋のような往復書簡を一枚ずつはがしていくと
「農村生活の改善はカマドから!」というスローガンが発掘された

 という部分である。
 なぜ、おもしろいと感じたかというと固有名詞『家の光』が出てきたからだ。『家の光』は見たことがある。兄の父が死んだとき、兄の父の家で見た。私の家は貧乏だったから、教科書以外に本などなかった。初めて教科書ではない本だったから覚えている。農村向けの雑誌である。それこそ農村生活を改善するために発行されていたのだろう。
 でもこれは、私自身の個人的な体験を、野崎のことばに重ねて、過去を思い出しているだけであって、野崎が書こうとしていることと関係があるのかどうか、わからない。
 だから、詩を読んだ、という気持ちにはなれない。



 城戸朱理「目覚めよ、と呼ぶ声がして」(初出「マドレーヌの思ひ出」1号、5月)はカキを食べながらワインを飲む詩である。ワインは途中でスコッチに変わる。

二枚貝が成熟して
美味しい季節には
ワイングラスを片手に
退屈を噛みしめる
それは子供には味わえない夜だから
八時には口腔から鼻孔へ
潮風が吹き抜ける

 「味わう」というのは、なかなかむずかしい。何度も何度も体験して、やっと「ほんもの」に出会うということがある。あ、これがカキの味だ。これがワインの味だ、と気がつく。
 初めての体験なのに、いきなり「ほんもの」に出合うということもあるだろう。初めて食べるのにカキがとてもうまいと感じる。(おそらく多くの子供は、生カキをおいしいとは思わないだろう。)これは、たいへん幸福な人である。
 もうひとつ、とても不思議な「味わい方」ができるタイプの人間がいる。
 何度も何度も食べている、飲んでいる。それなのに、「いま初めて食べた、飲んだ」という生き生きとした肉体の動きをそのままことばにできる人がいる。そういう人にであうと、思わず、その人が食べているものを食べたくなる。飲みたくなる。食べたり、飲んだりだけではなく、あらゆることをそのまま体験したくなる。
 こういう書き方(ことばの使い方)ができる詩人に西脇順三郎がいる。教養が、西脇の体験を、瞬間瞬間、洗い流し、生まれ変わらせる。どこかの、田舎のおかみさんの里ことばさえ、古典のように「歴史」をかかえこんで、いま、ここに噴出してくる。西脇の教養が、そうさせるのだ。
 さて。
 きょう読んだ工藤、野崎、城戸の詩。
 工藤の詩は、繰り返し繰り返しの果てに発見した「ほんとう」が書かれていると感じられる。繰り返すことで、ことばの音楽を整えてきた。そういう美しさを感じる。
 野崎は、初めてなのに(未体験なのに)、「ほんもの」をつかみとるというタイプを目指しているのかもしれないが、「方法論」がそうなっているだけという感じがする。
 城戸は西脇を目指しているのだろうが、気障というか、気取りというか、「ほんもの」がつたわってこない。七行目の「潮風」は単なることばだ。カキだから「潮風」と書いただけだ。「定型」だ。城戸が食べているのは、粒が揃っているかもしれないが「養殖カキ」であり、その「潮風」も「養殖」されたものにすぎない。「潮風」を「ほんとう」にするためには、ほんとうの海を見る、自然に触れるという教養が必要なのだ。


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ジェフリー・アングルス「残るのは」、若松英輔「幸福論」

2018-12-07 07:52:15 | 2018年代表詩選を読む
ジェフリー・アングルス「残るのは」、若松英輔「幸福論」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 ジェフリー・アングルス「残るのは」(初出「ミて」 142号、3月)に印象深い行がある。

通りすぎるものはすべて消え
裏の風景だけが残存する
例えば 小学校の細やかな
出来事の代わりに残るのは
運動場の奥に連なる丘

「裏の風景」は抽象的だが、「運動場の奥に連なる丘」は具体的だ。「奥」というかぎりは「手前」がある。「前」が「表」になるだろうか。「表」はまた「出来事」でもあるだろう。日本の小学校ならば、たとえば「運動場」の「表」の「出来事」は運動会である。その記憶。運動会の風景そのものは消えたが、あのときもあった運動場の奥の丘は、いまも存在する。それは、いまの「出来事」だ。いま、ここにあらわれてくる。
その不思議な「関係」を思う。ジェフリー・アングルスが小学生のとき「運動会」というものを体験したかどうかわからないが。私は、作者の体験ではなく、自分の知っていることをジェフリー・アングルスのことばを読むことで確かめるのだ。
また、この詩では「例えば」ということばも、とても印象に残る。この「例え」は「比喩」ではない。「暗喩」「直喩」「換喩」でもない。あえて言えば、「見本」だ。「言い換え( ことば) 」ではなく、「実物 (もの) 」なのだ。「運動会」は「もの」ではなく「こと( 出来事) 」なのだが、そこには実際に動いた自分自身の「肉体」という「もの」がある。その「手触り」のようなものが、そのまま「丘」につながっていく。「実際にあるもの」。目の前にあるもの。
 「暗喩」「直喩」「換喩」のどれでもいいが、そのときつかわれる「ことば」はたいていの場合、「いま/ここ」にはない。けれど、ジェフリー・アングルスは、「いま/ここ」に、そして「永遠」に「ある」ものを語る。「例えば」ということばをつかって。



 若松英輔「幸福論」(初出、詩集『幸福論』3月)。

闇にあるとき 人は
もっとも 強く
光を感じる そう
言った 人がいます

あなたが わたしの
心に 残していった
この 暗がりも
光との 出会いを
準備する
ものなのでしょうか

 こういう抽象的というが、一種の宗教的なことば、その指し示す「世界」というのは、私は好きではない。「意味」が強すぎて、うさんくさい。
 でも。

でも わたしは
薄暗い 場所で
あなたと いられれば
それで 十分だった

 この三連目はいいなあ。
 「闇」ではなく「薄暗い」が「現実」なんだなあ。「闇」とか「光」だと「比喩」がそのまま「抽象」(意味)になってしまう。「薄暗い」は「抽象」になりにくい。あいまいだ。それが「現実」を感じさせる。
 「光」なんか、どうでもいい。重要なのは、「あなた」と「いる」という事実なのだ。「現実」なのだ。それを人が何と呼ぼうが関係ない。
 
明るいところで
ひとり
何をしろと
いうのでしょう

 「闇」と「光」が「対」なら、「あなた」と「わたし」も「対」である。「対」は向き合っているが、「対立」ではなく「出会い」である。
 「闇」と「光」がであったら、どうなるか。どちらにも「抽象」されず、「薄暗い」という、あいまいで、どうしようもないものになるのかもしれない。でも、それがいい。



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中上哲夫「叔父さんと叔母さん 父の兄弟たち」、広瀬大志「風景の機会」

2018-12-06 09:55:49 | 2018年代表詩選を読む
 中上哲夫「叔父さんと叔母さん 父の兄弟たち」(初出「space 」 138号、2月)には「言い換え」がたくさん出てくる。
 一連目には「叔母さん」が描かれているが、そのなかの「棘の塊を踏んだり」の「棘の塊」はウニのことだろう。比喩である。この叔母さんの名前は明らかにされていない。結婚して「船橋の叔母さんが清水の叔母さんになった」。名前ではなく、地名で呼ばれる。
 二連目には岡山の叔父さんが出てくる。「手に球状の物体を重々しくぶらさげて」やってくる。「球状の物体」とはスイカである。この言い換えも比喩である。岡山の叔父さんがくると、いつも鰻重をとった。「で、ぼくらはいったものだった。鰻の叔父さんがきたと。」この「鰻の叔父さん」という言い換えは、いわゆる換喩である。比喩ではない。この叔父さんは名前ではなく、換喩で呼ばれる。
 そして三連目。

ぼくらにはもう一人叔父さんがいた。ヒデちゃんという名前の。間違いなく、祖父母にもっとも愛された人間だった。とても勉強ができて、とってもやさしい子だった、と。でも、ほんとに、ほんとうだろうかとぼくらは思った。叔父さんはとっくの昔に亡くなっていたのだ。ぼくらが生まれるずっと前に。結核で。

 ここには比喩も換喩も出てこない。「言い換え」はない。でも、「ほんとう」が書かれているのか。「ぼくら」は疑っている。けれど、疑いようのない「ほんとう」が書かれている。「祖父母にもっとも愛された人間だった」。
 「清水の叔母さん」も「鰻の叔父さん」も嘘ではない。ほんとうである。でも、その「言い換え」は、ヒデちゃんの「ほんとう」とは少し違う。
 この詩は、それを明らかにしている。
 詩は、比喩でも換喩でもない。言い換えが不可能なところにある。

 広瀬大志「風景の機会」(初出「みなみのかぜ」3号、2月)は「言い換え」かどうかは、ちょっと言いにくいところがある。比喩とはっきりわかるものもあるが、そうではなく抽象的としか言えないものもある。でも、具体的なことを言わない、抽象的に指し示すという点では「言い換え」の一種だろう。

客観性のない避難場所
(そこでの薔薇)が
図星によると
おれの必然的な遅延であり
複製された時間の中で
次の衝突が起きるまで
絶望的な選択肢に
自慰する谺だ

 「自慰する谺」は何のことかわからない。完全な「暗喩」である。それまでの抽象的なことばを引き継いで、抽象を一気に「意味」に転換するための暗喩だと「解釈する」ことができる。どういう「意味」かはわからないが、「意味」を浮かび上がらせようとしている、広瀬の意図を感じる。
 作為、と言った方がいいかな?キザったらしくて、そのキザをあえてぎくしゃくとしたものにみせている。
 で、どこに詩がある?
 よくわからないが、この「作為」が詩なんだろうなあ。西脇は、わざと書くのが詩と言っていた。「わざと」というのは「作為」を持って、ということだ。
 そんなふうに「理解」する(頭で、なんとか考える)のだが、私の「肉体」がついていかない。私には教養がないので、広瀬のことばがどんなことば(出典)と交流しているかわからない。わからないなら読むな、という怒りが聞こえてきそうだが。
 中上の詩を読んでいたときは、具体的には書かれていないのだが、おじいちゃんおばあちゃんの「声」が聞こえてくる。「ほんとうだろうか」という中上の声も聞こえてくる。はっきり聞こえるので、それを「詩」と感じる。



*

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