詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

チャン・フン監督「タクシー運転手」(★★★★+★)

2018-04-30 10:12:39 | 映画
チャン・フン監督「タクシー運転手」(★★★★+★)
                  (2018年04月29日、t-joy 博多スクリーン5)
監督 チャン・フン 出演 ソン・ガンホ、トーマス・クレッチマン

 これは韓国の「ペンタゴンズ・ペーパー」と言えるかもしれない。政府が「不都合な事実」を隠す。「事実」を「過少」に伝える。それをジャーナリズムがあばく。
 しかし、大きく違う点がある。
 「ペンタゴンズ・ペーパー」では「事実」を発見するのがジャーナリストであるのに対し、「タクシー運転手」ではタクシー運転手であることだ。「情報」の外にいた運転手が、現場にまきこまれてしまう。そこには「情報」というような、整理されたものはない。「事実」がただあるだけだ。軍隊が国民に向かって銃を撃っている。国民を守るための軍隊なのに、国民を殺している。負傷者を助けようとするひとまでも狙っている。動きが遅いから狙いやすいのである。反抗してこないから効率的なのである。
 さて、どう向き合うことができるか。
 運転手の「目的」は金だった。金があれば家賃が払える娘に靴を買ってやれる。平穏に暮らせる。しかし、「事実」を知ってしまうと、それだけではすまなくなる。
 この映画でいちばん興味深かったのは、運転手が光州にドイツ人ジャーナリストを置き去りにして、ひとりでソウルへ帰るシーンである。その途中、食堂に入る。食堂に集まってきている人たちが光州事件について話している。それは彼が見てきた「事実」とはまったく違う。多くのひとは「事実」を知らない。
 何ができるだろうか。
 食堂で、「事実は違う。私は光州で、こういう光景を見てきた」と語っても、だれにも伝わらないだろう。無残に死んで行く光州市民のために何ができるか。
 彼を動かしたのは何なのだろうか。光州市民を見殺しにはできないという「正義感」か。「ジャーナリズム」の必要性に、このとき気づいているとは言えないかもしれない。けれど、「情報」には「事実」と「ねじまげられた事実」があるということには気づいている。「この情報は間違っている」と気づいている。
 逃れてきた光州へ引き返す。そうすると事態はいっそう深刻になってる。きのう、音痴だと笑い飛ばした学生が病院で死んでいる。ほかにも数えきれない死者がいる。負傷者がいる。ジャーナリストも茫然としている。ここで、はっきりジャーナリズムの必要性に運転手が気づく。知らせなければ、だれも知らない。「事実」なのに「事実」にならない。
 ジャーナリストを励まし、映像を撮らせ、それからソウルへの脱出行がはじまる。運転手仲間がそれに協力する。「私服軍人」の追跡を命がけで妨害する。みんなが「伝えてほしい、知らせてほしい」という願いを託している。その思いに支えられて、脱出行は成功する。
 このあと運転手は、運転手集団というか、市民のなかに隠れてしまう。姿をあらわさない。自分の仕事は、そこまで、とはっきり意識している。光州市民を助けることができなかった、あるいは光州のタクシー運転手仲間に助けられたという思いが、彼を「隠す」のかもしれない。表に出てはいけないという気持ちにさせるのかもしれない。
 何をするべきなのかを知っている。
 これは、とても重要なことだ。
 途中に、運転手仲間とけんかするシーンがある。光州までの前料金を運転手は受け取っている。光州に着いてみると、とても危険だ。家ではひとり娘も待っている。早く帰りたい。どうすればいいのか。ジャーナリストが残りの料金も払う。「もう、帰れ」「それは受け取れない」。職業倫理だ。このやりとりに、運転手仲間が加わるから、ちょっとややこしいのだが、このシーンが非常にいい。
 何をするべきか知っているというのは、「思想」の問題である。
 よく中国人は経済で動き、韓国人は思想で動き、日本人は政治で動くというが、その「本質」がここに出ている。その行動は自分の「信念」にあっているか、「倫理」にあっているか、つまり「道」として動いているかどうか。「道」というのは、いつでもいくつにもわかれている。どこを通るか。それを「ことば」として言えるか。ことばとして「言える」のは「道を知っている」ということである。
 で、ここから、飛躍するというか、この映画のもうひとつの見せ場が、「道」を通して語りなおすことができる。
 光州からソウルへ脱出する。このとき高速道路はもちろん一般道路は検問で封鎖されている。ところが、「道」はどこにでもある。運転手仲間が地図を渡しながら言う。「この道は地元の人間でもあまり知らない。ここを通って行け」と。その土地には、その土地の「道」がある。「道」はどこにでもつくられている。
 だとしたら、その「道」をどう歩くか(行くか)というも、また、思想そのものになる。
 地元のひとしか知らない道にも「検問」はあった。なんとかして突破したものの、追跡される。そこでクライマックスのタクシー運転手集団が登場することになる。山の中から突然、というのは奇妙かもしれない(映画的すぎるかもしれない)が、だれでも「秘密の道」をもっている、「道」は切り開くことができる、と考えれば、そういうことはあってもいいのだ。
 自分がするべきことを知っているから、必然的に、そこに「道」はできるのだ。
 タクシー運転手という「仕事」がそのまま「思想」となって、動く。「道」を知らないとタクシー運転手は仕事にならない。知っている「道」を確実に進むことで、客に安心を与える。
 
 ここから「ジャーナリズム」の「道」とは何かを考えることも必要かもしれない。日本では、いま、ジャーナリズムがほとんど死んでいる。「隠されている情報」をどこまでも追及し、明るみに出すという姿勢が欠如している。
 森友学園、加計学園だけではない。
 いま沖縄で起きていることは、「光州事件」に類似している。死者こそ出ていない(出ていないと思う)が、機動隊員と市民が向き合い、市民が暴力的に排除されている。その「事実」はときどきネットで流れているが、新聞、テレビに大きく取り上げられることがない。矮小化されて報道されている。「光州事件」のさなか、「学生の死者は一人」という具合に報じられたのと同じである。
 「情報」が正確に報道されないと、どういうことが起きるか。「光州事件」はいつでも起きるということだ。安倍の「沈黙作戦(情報を与えず、議論させない作戦)」は、絶対に「光州事件」を日本でも引き起こす。すでに稲田は「自衛隊としてお願いします」と言ったが、あらゆるところに「自衛隊」が出動し、市民の行動を封じ込める。それは「報道」されず、隠されたままに行われる。安倍が独裁者のまま居座り、自衛隊が「合憲化」されたら、あらゆる市民運動が自衛隊をつかって封殺される。その結果、一切の議論がなくなり、安倍がしきりに口にする「静かな環境」が完成する。
 「光州事件」の再現シーンで、私は、そういう恐怖を感じた。
この恐怖から、タクシー運転手の「道」が救ってくれたのだが、さて、私にはどんな「道」が可能なのか、という問いをつきつけられた気持ちにもなった。

 まず、「不思議なクニの憲法2018」の上映会で、憲法について語り合うことからはじめる。福岡市での上映会は初めてです。ぜひ、ご参加ください。

日時 5 月20日(日曜日)午後1 時から(上映時間111 分)
場所 福岡市立中央市民センター視聴覚室(定員70人)
料金 1000円(当日券なし、要予約)
申し込み、問い合わせ 谷内(やち) 090・4776・1279
           yachisyuso@gmail.com

 ★1個追加は、いま、この映画を見逃してはならないという気持ちをこめて。安倍政権がつづくと、絶対に「光州事件」が日本で起きる。「天安門事件」かもしれない。「事実」を「情報」として共有する重要性について、考えなければならない。



 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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大橋政人「大きい女の人」、金井雄二「ぼくは、あったよ」

2018-04-29 09:42:02 | 詩(雑誌・同人誌)
大橋政人「大きい女の人」、金井雄二「ぼくは、あったよ」(「独合点」132、2018年02月08日発行)

 大橋政人「大きい女の人」。前半は、淡々とした描写がつづく。あるいは、だらだらと言ってもいい。

洋間で本を読んでいたら
門から大きい女の人が入ってきた
大股で堂々と入ってきた
玄関に行ってみたら
新しい新聞の集金の人で
さっきは見えなかったが
右肩に小さい女の子を乗せていた
ぐっすり眠ってしまって
ぐにゃぐにゃになっている女の子を
右手で押さえながら
大きい女の人は
左手で器用に領収書を切った
手をつないで二人で歩いてきたのに
途中で眠くなってしまって…
初めての幼稚園で気疲れがするみたいで…
私が何もきかないのに
大きい女の人は説明した

 「説明した」が文体の特徴を端的にあらわしているが、これは要するに「説明散文」である。このあと大橋のことばは、「感想」というか「空想」というか、女を説明することをやめる。女の子が主役になって動き始める。そこに大橋の書きたい「詩」があるのだと思う。
 それはそれで「感動的」なのだが、私は、この前半部分にとても魅力を感じた。「ほんとう」を感じた。
 「私が何もきかないのに」がとてもリアルでいい。ひとは、聞かれなくてもことばを発することがある。言う必要もない。でも、言ってしまう。そして、それを聞いてしまう。そこに人間の「機微」というものがある。こういうことは「散文」が得意とするところである。
 で、こういうことばの動きを「底」から支えているのが、

さっきは見えなかったが

 この一行だ。
 ここには書かれていないが、「さっきは見えなかったが」は「いまは見える」ということばを含んでいる。「見えない」が「見える」に変わる。
 この瞬間が詩なのだ。
 そして、こういうとき「いまは見える」が省略される。それは大橋にはわかりきっているからである。「肉体」になっている。「意識」にならない。こういうことばを私は「キーワード」と呼び、それを探して読むのが大好きだ。この場合、それは「動詞」でなければならない、と思っている。
 隠れている「動詞」がぱっと私の「肉体」をつかまえてしまう。私は瞬間的に大橋になってしまう。
 
さっきは見えなかったが

 は省略しても、この詩の「意味」というか、書かれている「客観的事実(?)」が変わるわけではない。だから、書かなくてもいい。でも、書いてしまう。書かないと、大橋のことばが動かない。大橋の「肉体」が要求している「必然」なのである。だからこそ、それをキーワードと呼ぶ。
 見えなかったものが、見える。
 「女の子」だけではない。女の人の動き、領収書の切り方が見える。(こういうものは、新聞代金を払うときに見る必要のないものである。必要なものがあるとしたら、領収書のはんこと、宛て先が大橋になっているかだけである。)
 「見なくてもいいものを見ている」は「見なくてもいいものを見られている」でもある。それは、その場にいれば「通じる」。だから女の人は、ついつい「説明」するのだ。必要以上に「見られたくない」から「見られてもいい」と判断したものを先回りして言ってしまう。
 女の人にしても、「さっきまでは見えなかったが」、いまは大橋が女の子の方に注目しているということが「わかる」。つまり「意識」の動きが「肉体」そのものとして「見える」。
 この「見える」と「見えない」がさらに変化して、後半の、いわゆる「詩」につながる。この後半(私は、あえて引用しない)がいいと言うひとはきっと多い。でも、私は前半がとても好き。
 大橋の「正直」がまっすぐに出ている。「正直」が見られているなんて、大橋は想像しないかもしれないけれど。



 金井雄二「ぼくは、あったよ」。

君は蜜柑を食べたことがあるかい
若い駅員が電車に合図を送っているのを見たことがあるかい

 とはじまる。たぶん、だれでも「ある」と答えることをあえて問いかけている。これは「私は君と同じだよ」ということを伝えたくて、そういう問いをしているのだろう。「同じ」というのは、「そばで支えている」、あるいは「支えになるからね」ということを間接的に伝えるためである。そばに「いる」、そばで「支える」というのは、ちょっと押しつけがましい感じがするから、なかなかことばにできない。だから、こういうことばの動きになるのだと思う。
 切々としていて、いいのだけれど。
 この詩の最後、タイトルになっている部分、

古びた椅子に座って
君は蜜柑を食べたことがあったかい
ぼくは、あったよ

 「過去形」が出てくる。ここで、私はつまずいてしまった。なぜ「あったかい」、なぜ「あったよ」なのか。
 そばに「君」がいるなら、絶対に「あったかい」「あったよ」という過去形でことばは動かない。
 「君」は、もうこの世界にはいないのではないか。
 この三行の直前に、

ぼくたちってこの地球のどこにいるんだい

 の「地球」は「この世」かもしれない。「君」を支えようにも、もう支えられない。

ぼくは、あったよ

 の読点「、」の一呼吸も、そういうことを感じさせる。「君」に話しかけるというよりも、自分自身に言い聞かせる(思い出し、それを納得する)ときの「一呼吸」がある。
 「あたたかさ」だけではない、「さびしさ」がことばの変化のなかに隠れている。
 見えなかったものが、最後の瞬間に、ぱっと見える。見えながら、消えていく。つまり、「君」の不在(非在)を断定はできないという意味だが。






*

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愛敬浩一『それは阿Qだと石毛拓郎が言う』(2)

2018-04-28 10:52:19 | 詩集
愛敬浩一『それは阿Qだと石毛拓郎が言う』(2)(詩的現代叢書28)(書肆山住、2018年04月05日発行)

 愛敬浩一『それは阿Qだと石毛拓郎が言う』。きのうとは、すこし視点を変えて。
 「映画『清作の妻』の佐助」という作品。
 映画の主役は佐助(千葉信男)ではない。あくまでも清作の妻(若尾文子)である。愛敬も若尾文子を見に行ったのだろう。佐助に目がとまったのは、彼が「カクさん」に似ているからだ。知恵遅れの、大男。

確かに昔はそういう人が
村や町に一人や二人はいたものだ

 と簡単に紹介したあと、

インテリだったカクさんとは全く違うタイプだが
佐助もまた
阿Qの一人には違いない
吉田弦二郎の原作小説とはちょっと違うが
映画では
孤立する、主人公の若尾文子を守って
そのため
かえって
村人から袋叩きにあったりする

 ここに愛敬の、おもしろいところがある。「原作小説とはちょっと違う」と指摘できる。つまり、愛敬は「無防備」で対象に向き合うわけではない。しっかり「予習」している。別な言い方をすると「学問」の裏付けがある。
 こういう言い方は愛敬は好まないだろうけれど。
 で、この「学問の裏付け」というのは、愛敬の友人の石毛にも通じるなあ。「庶民」というか、「そこに生きている人」に目を向けるのだけれど、「庶民」になるわけではない。「学問」によって「庶民」から切り離されたところにいる。このとき「学問」をどう隠すか。石毛は「学問」をつぎつぎに展開することで、「こんなものは学問というほどのものではない」という具合にやってのける。
 石毛と比べると、愛敬は、素朴というか、単純である。隠さない。さっと出してしまう。さっと「原作小説とはちょっと違う」と言ったあとで、

孤立する、

 あ、この一言が美しい。
 愛敬の「意識」そのものをつけくわえる。このときの「意識」は、「意識」というよりも、そっとそばに立つ「肉体」の感じそのまま。
 「孤立する」は「主人公の若尾文子」を描写すると同時に、佐助(千葉信男)をも描写する。「孤立する」(孤立している)のは、だれ? 一瞬、わからなくなる。その「わからなくなる」瞬間に、愛敬自身が「肉体」を寄せて、そばに「いる」。佐助になっているのかもしれない。若尾文子になっている、ともいえる。「肉体」で「孤立する」を具体化している。
 スクリーンと客席と、離れているのだけれど「孤立する」という動詞で「ひとつ」になっている。

 ここから、また、別なことも私は考える。
 「孤立する、」の読点「、」の絶妙さが一方にある。「、」によって一呼吸ある。これが「切断」と「接続」を揺り動かす。
 ここは「肉体」そのものが動くというよりも「意識」が動いている。でも、それを「意識」ではなく「呼吸」にしている。「肉体」を滑り込ませている。
 とてもおもしろい。

 さらに。
 この「孤立する、」は、この詩のなかで、それこそ「孤立している」。ちょっといいかげんなことを言うのだが、私の暮らしてきた集落では、どんなことがあっても「孤立する」というようなことばは動かない。そんな「しゃれた」ことばを口にするひとはいない。「のけものにされる」「なかにいれてもらえない」くらいか。「のける(退ける/除ける)」「入れない」とういように「肉体」そのものを動かすことばしかない。
 「孤立する」は「肉体」を動かしていない。こういう動詞は、私の知っている「暮らし」には存在しない。こういう動詞は、前にもどってしまうが、「学問」から入ってきたことばであって、暮らしが生み出したことばではない。
 でも、「孤立する」なら、いまの時代、だれでも知っているとは言える。少なくとも、詩を読む人間は。特別むずかしい「学問」をしなくても、だれもが知っている。
 「学問」をこんな具合に、さっとつかうことができる、というのが愛敬の特徴かもしれない。

 ここまでは、私は、愛敬についてゆく。
 けれど、「考察」のなかの、

三木清の言う「非連続的な時間」のなかを歩くため
原町の情景が
私の目の前に広がっているのか

 というような「異化」の仕方にはついていけない。「学問」が「手抜き」としてつかわれている。「非連続的な時間」という「学問」なしにはわからないことばをつかってしまうと、そこからはじまるのは「学問」の世界になってしまう。「肉体」の時間にひきもどさないと、その世界を歩くのは愛敬と三木清だけにある。もっと意地悪く言うと、そこには愛敬の「肉体」はない。三木清しか動いていない。

私のカクさんは、言葉を求める
私の感情は論理を求める
そうか、これがハイデガーの言う「時熟」なのか

 いくら、「そうか」と納得しても、そこに動いているのは愛敬の「肉体」ではなく、ハイデガーの「肉体」になってしまう。
 こういう「学問」がないと、

ちょうど今
映像の中の渡哲也は、
誰かに見られたか、という不安な顔を私に向けた         (待合室にて)

 というようなことばが輝かない、と考えるのかもしれないけれど。
 この三行、とってもかっこよくて、そのまま盗作したくなるくらいだけれど。この三行にかぎらず「待合室」はとても魅力的なのだけれど。
 ほかの詩とつづけて読んでくると、うさんくさいなあ、という感じもしてくる。
 いや、「うさんくさい」は「うさんくさい」でなかなか手ごわくて、それが愛敬の魅力なのかもしれないけれど。たぶん、「うさんくさい」ものが勢いをもって動いているところがいいんだろうなあ。
 だから「うさんくさい」っていいなあ、と、まったく逆なことも感じたりする。「うさんくさくない」と勢いが出ない。
 「うさんくさい」といえば、石毛も、ね。
 石毛について書くつもりはなかったんだけれど、詩集のタイトルに石毛がはいっているから、まあ、いいか。

 こういう詩を書きたい、でもこういう具合には書きたくない、そういう思いが絡み合うなあ。







*

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喩の変貌―愛敬浩一評論集
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南北会談(情報の読み方)

2018-04-27 14:42:02 | 自民党憲法改正草案を読む
南北会談(情報の読み方)

 南北会談が始まった。金正恩の「冒頭発言要旨」に、一か所面白いところがあった。
引用は2018年4月27日読売新聞夕刊(西部版・3版)から。

 今日の晩餐の食事について多くの話をして、苦労してやっと平壌から平壌冷麺を持って来た。大統領はくつろいで、遠くから来た平壌冷麺を・・・、(言い直して)遠いと言ってはだめだな、おいしく召し上がっていただけるとうれしい。

 たぶん予め用意した原稿なのだと思うが、途中で訂正している。
 ここに「本気」を感じた。
 直接、韓国の土を踏み、大統領と握手をする。そのことが影響している。気持ちが新たになって、ことばが変わった。考えながら、ことばを発している。
 これは簡単なようで、簡単ではない。
 私たちの国の「最高責任者」は、用意した原稿すら、ルビがないと読めない。自分でことばを語れない。
 大きな違いだ。

 この「言い直し」に、私は南北会談の大成功を確信した。歴史の大きな一歩が動き始めた。
金正恩は本気だ。


詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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愛敬浩一『それは阿Qだと石毛拓郎が言う』

2018-04-27 11:54:55 | 詩集
愛敬浩一『それは阿Qだと石毛拓郎が言う』(詩的現代叢書28)(書肆山住、2018年04月05日発行)

 愛敬浩一『それは阿Qだと石毛拓郎が言う』の感想を書くのはむずかしい。私が以前に書いた感想が「解説」として収録されているからだ。
 私は書くために考える。考えというのは、日々変わるものである。「変わらない考え」というものがあるかもしれないが、私は、そういうものを信じていない。変わってこそ、「考えた」ことになる。
 そして、私は私の書いたことをまったくおぼえていない。読めば思い出すだろうが、そんなめんどうなことはしたくない。
 だから、(あるいは、かもしれない)
 私は、いままで書いたこととは違うことを、平気で書く。あるいは、いままで書いたことを否定して、別なことを書きたいという欲望ももっている。どうせ考えるなら、同じことではなく、新しいことを考えたい。別な見方は(読み方は)できないか、私自身のことばを点検してみたい。
 これって、他人から見ると「いいかげん」に見えるだろうなあ。それが気になる。ほかのひとはともかく、愛敬は、ぜんぜん違うことを書いていると怒るかもしれないなあ。「矛盾したことを書くな」と。
 でも、書いてみたい。
 長い前置きになったが。

 石毛が「それは阿Qだ」と言ったのは、「少年時」というシリーズに登場する「カクさん」のことである。「カクさん」というのは、愛敬が少年のときに見かけた男。何でも知っている。でも、ぶらぶらしている。子ども相手に質問に答えてくれる。
 「少年時(その七)」には「カクさん」は「具体的」には書かれていない。

そうだ
もう、あの田んぼ道はないのだ
私の家があった高台の下から駅までの
田んぼの中の
うねうねとした
途中に一本柳のある
あの道は
もう、ないのだ
私の目には
はっきり見えるのに
そこに行ってももうない

 「私の目にははっきり見えるのに」「もうない」。これが愛敬のテーマ。「カクさん」も「もういない」。それなのに愛敬にははっきり見える。だから、書く。「不在」(非在)をことばで「存在」させる。「否定される何か」を「存在」として動かし、そこから見えてくるものを見つめなおす--石毛が「阿Q」を引き合いに出したのは、こういう運動を愛敬のことばに見いだしたからだ。それ以上の批評はない。
 だから、私は、「阿Q」性について、あるいはその「思想」性については書かない。
 私は引用した部分では、二か所に思わず傍線を引いた。このことばについて何か書いてみたいと思った。
 ひとつは、「私の目には/はっきり見えるのに/そこに行ってももうない」の「のに」。強い力を感じた。
 「のに」とは何か。
 「見える」と「ない(見えない)」が「のに」によって結びつけられ、結びつけられることによって「ことば」が動く。
 「のに」は「結びつける」という「見えない動詞」、ことばそのものを動かす力だ。
 「見えるのに、ない」というのは「矛盾」だが、それは「切断」されない。「結びつけられ/接続させられ」「矛盾」を存在させる。「矛盾」を存在させる力が「のに」にはある。
 なぜ「矛盾」を存在させたいのか。「矛盾」として否定したもののなかに動いているものをことばにしたいからだ。(あ、こう書いてしまえば、石毛の指摘したことと、かわりがないか。)
 この「のに」にいちばん近いことばが、「途中に一本柳がある」の「途中」である。「途中」というのは「あいだ」である。ふたつのものをつないでいる。「道」は「のに」のような「ことば」ではなく、実在のものである。「途中」も「実在」のものである。でもその「実在の途中」というのは、ほとんど重視されない。「道」にとって重視されるのは「出発(点)」と「到着(点)」である。「道」は短い方がいい、というのが「資本主義経済」の論理である。「うねうね」していては、だめ。
 でも、ひとは、その「省略されてしまう」部分、「途中」を一生懸命に生きている。「途中」がないと、どこへも行けない。「途中」を意識するために「一本柳」があるのかもしれない。
 ここからちょっと逆戻りして。
 「のに」も「途中」である。「見える」と「ない(見えない)」をつないでいる。その「中間」になる。でも、この「のに」を「うねうねとした道」としてあらわすのは、なかなかむずかしい。「のに」は意識の運動であり、意識は「飛び越える」ことを専門にしている。「肉体」では飛び越えられないものを「意識」は簡単に飛び越す。「うねうね」は意識にとっていちばんの「苦手」な運動である。逆に言うと「うねうね」を書くと文学になる、ということ。
 さて、愛敬は、どうやって「のに」を「うねうねした道」にし、その「途中」を何によって印づけるか。
 詩は、こうつづいている。

どういうわけでか
整備事業などというものがあり
小さな
それぞれ
まちまちな大きさの田が
ただの長方形になり
しばらく振りにふるさとに帰ってみると
その田んぼだった所に
大型のスーパーマーケットが建っていたりする
まるで知らない場所に変わっている

 「はっきり見える」のは「ちいさな」「それぞれ」「まちまち」という「形」である。「省略」されたのは、「個別性」なのだ。「個別性」というものが以前は存在していた。「個別性」が「うねうね」なのである。
 それを否定するのが「ただの長方形」の「ただの」であり、「大型のスーパーマーケット」の「大型」である。「単純」で「大型」のもの、合理化された大型のものが、個別性を破壊し、捨て去った。
 けれども、愛敬には、その否定されたものが「見える」。愛敬は、否定されたものを、生きている。ひきずっている、という言い方もあるが、ひきずるのは、それを復活させたいという思いがどこかにあるからだ。「個別性」のなかに、何かを感じているからだろう。
 この変化の過程(あいだ、途中)にどういう暴力があったのか。それは具体的にはどんな具合に「カクさん」に影響したのか。私はそれが読みたくなる。しかし、書かれない。
 書かなかったために、詩の最後の部分で、愛敬のことばは大きく変わる。

もちろん
カクさんがいまそこを歩いているはずがない
カクさんが
ゆっくりと
限りなく、ゆっくりと
そこから遠ざかっていくのは分かる
カクさんが歩くような道はもうどこにもない
カクさんが
遠ざかっていることだけが分かる

 「見える」が「分かる」と変わる。「のに」という意識の運動を「小さな」「それぞれ」「まちまち」から「ただの」「大型の」への変化として意識しなおしたとき、「見える」という「肉眼(肉体)」の動詞が、「分かる」という「意識」の動詞に変わる。
 とても正直な変化だが、ここは簡単に「意識」の「動詞」になってしまうのではなく、「肉眼(肉体)」の動詞のまま踏ん張ってほしかったと思う。「分かる」ではなく「見える」という動詞で詩を動かしてほしいと思う。
 「意識」で「カクさん」を追いかける(追い求める)のではなく、どこまでも「肉眼(肉体)」で追いかければ、愛敬は「カクさん」になれるのではないのか。「意識」にしてしまっては、愛敬は「カクさん」になれない。「分かる」は「分ける」でもある。分けてしまっては(分離してしまっては)、それは「追憶」に終わってしまう。「追憶」にせずに、肉体でつなぎとめればことばは「いま」を生きることになると思う。
 「分かる」というのは、都合がいいというか、「手抜きことば」なのだ。書いている人間は、分かってはいけないのだ。分かったら、書く必要はない。
 途中までは、ことばが丁寧だったのに……。







*

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高階杞一「フタ」

2018-04-26 10:12:38 | 詩(雑誌・同人誌)
高階杞一「フタ」(「詩の発見」17、終刊号、2018年03月22日発行)

 高階杞一「フタ」は、いわゆる「ライトバース」と呼ばれる詩なのかもしれない。さっと読める。そして、いいなあ感じる。
 でも、私は、同時に「違和感」もおぼえた。

たいていの容器には
フタがあって
中の物がこぼれたり
湿気たり
しないようになっている

人間にはフタがない
ので
ときどき
こぼれたり
湿気たりすることがある

大切なものを失って
体から
激しくあふれてくるものがあって
とめられない

醤油の瓶のように
傾けたときにだけ
思いを
出せるようになっていればいいんだけれど

  ごめんね ごめんね


ふりそそぐ光の中で
あふれてくるものが
とまらない

 三連目は、いわばこの詩の「さび」のような部分。読んでいて、意識がひっかきまわされる。「手術台の上のこうもり傘とミシンの出会い」のような部分である。予想もしなかった「比喩」によって、意識が活性化する。
 でもねえ……。

 始めから書き直そう。
 一連目。「容器」の「比喩」が「人間」なのではなく、「人間」の比喩が「容器」である。比喩からはじまっている。
 「フタ」も比喩なのだが、「人間にはフタがない」というとき、それは比喩ではなくなっている。「こぼれたり/湿気たり」しないようにするための意思、理性というものが「人間のフタ」という比喩として成り立つはずだからである。比喩のままなら「人間には理性というフタがある」と言えるはずである。
 「容器の中の物」とは三連目の「思い」である。この場合も「思い」が「事実」であり「中の物」というのは比喩である。
 「こぼれる」は「中のもの(思い)」が、外へ出ること。「湿気る」は外にある水分が中に入ってきて「中のもの(思い)」が変化すること。
 ここには「流出(する)」と「流入(する)」という二つの動きが書かれている。
 「流出する」は「流失する」でもあるかもしれない。
 「流出する」は「中のもの」が流れ出て行くこと。「流失する」は「中のもの」が出て行くこともあるが、自分の外にあるものが「失われる」を意味することもある。たとえば、橋が洪水のために「流失する」。
 「流出する」を「流失する」と言い換えて(?)、二連目はのことばは動く。
 「大切なものを失って」というのは高階の「中のもの」を失ってではない。「大切なもの」は「中」にはない。高階の「外」にある。それを「失ったとき」、失われたものへ向かって「体(中)」からあふれてくるものがある。これは「思い」があふれてくる。言い換えると「悲しみ」があふれてくる。これは「制御」できない。「大切なもの」ではなく「大切な人」を失ったときのことを思えば、ここに書かれていることがわかる。
 このあと、「醤油瓶」の比喩が出てくる。「醤油瓶」というよりも「醤油差し」かもしれないなあ。醤油が出てくるところは「フタ」なのか「注ぎ口」なのか。「フタ」とはいえないかもしれないなあ、と思うが比喩なのだから、このあたりは自在に動いていいとも思う。
 でも、このとき、二連目で書いた「あふれる」という動詞はどうなっているんだろうか。「あふれる」は「中」の変化だね。「醤油瓶(醤油差し)」なかでは、何かが「あふれる」ように動くことはあるだろうか。ないなあ。「醤油瓶(醤油差し)」のなかの醤油は、外から注ぎ入れたもの。それは「あふれる」という動詞とは結びつかない。「あふれる」があるとすれば、醤油を醤油瓶(醤油差し)に注ぐときだ。
 高階の「言いたい」部分は、

思いを
出せるようになっていればいいんだけれど

 の「出す」にある。自分で制御して「思い」を出せるならどんなにいいんだろう、ということにあるのはわかるのだが、「あふれるもの」を「思い」と言った先に、「あふれる」なんてないかのように書いている。「あふれる」という動詞が、ここでは完全に無視されている。
 そこに非常に違和感をおぼえる。
 この違和感は、最終連を読むと、いっそう強くなる。
 最終連、その最終行に

とまらない

 という表現がある。これは二連目の「とめられない」と「対」になっている。
 「体の中のもの(思い)」が激しくあふれてくる。主語は「思い」、述語が「あふれる」。しかし、この文章は、もう一つ動詞をもっている。「あふれてくるものをとめられない」というとき、主語は「私(高階)」である。「あふれる」という動詞があって、それが「私(高階)」を激しく動かしている。「あふれる」と動詞があって、「思い」を「とめられない」が成り立っている。
 これが最終連で「とまらない」になるとき、高階のなかで(体のなかで)何が起きているか。「私(高階)」は「あふれてくるもの」そのものに「なっている」。高階は、「容器」ではなく「中身」になっている。「あふれてくるもの」は単に「あふれる」のではなく、「容器」を突き破って、「容器」を呑みこんでいる。「あふれてくるもの」、「あふれる」という動詞が「容器」になって、そのなかに「私」がいるという感じ。「容器」と「中身」が入れ代わる、私が私ではなくなる、という「詩」そのものがここでは「体験」されている。
 わーっ、いいなあ、と私は思わず声を洩らす。
 声を洩らすのだけれど、えっ、それではあの三連目はなんだったのかなあ、とわけがわからなくなる。
 「感動」を盛り上げるためのテクニック?
 つまずいてしまうなあ。





*

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見聞きした意見?

2018-04-25 11:37:35 | 自民党憲法改正草案を読む
見聞きした意見?
             自民党憲法改正草案を読む/番外210(情報の読み方)

 2018年04月25日読売新聞朝刊(西部版・14版)。セクハラ事件を起こした福田財務次官が辞任したニュースの「社会面」の記事。
 そこにこんな部分がある。

麻生財務相は閣議後の記者会見で「セクハラは被害女性の尊厳や人格を侵害する行為で、決して許される話ではない」と述べる一方で、「(女性記者に)はめられて訴えられているんじゃないか、いろいろご意見がある」とも発言した。
 この発言に対し、同日午後に国会内で開かれた野党合同のヒアリングでは批判が集中。同省の担当者は「大臣が見聞きした意見を紹介したもので、ご自身の意見を表明したのではない」と釈明に追われた。

 麻生の「いろいろだご意見がある」を踏まえて、財務省の担当者が答えた、ということだが、そういう「答え」でいいのか。そういう「答え方」を許せば、あらゆることが「いろいろご意見がある」ですんでしまう。
 その「ご意見」の発言者はだれなのか、それを聞いて麻生はどう反論したのか。その意見について反対ならば、それをそのまま麻生が言うはずがない。その意見に「同調」しているから、それをそのまま「公言」するのだ。
 批判されると、それは自分ではやっていない、と言い張るのは、いわゆる「とかげのしっぽきり」の「流用」である。「自分は言っていない。言ったの他人だ」というのは、「自分はやっていない。やっていないのは財務省の職員だ(部下だ)。自分には責任がない」というのと同じである。
 「女性記者にはめられた」という表現そのものがセクハラである。女性記者はセックスを利用して取材していると断定することになる。
 たとえ女性記者が福田に言い寄ってきたとしても、「そういうお誘いはお断りします」と言えばすむことだろう。なぜ「おっぱいさわっていい?」というような受け答えをしないといけないのか。逆にテレビ朝日を叱責すればいいのではないのか。叱責する必要があるのではないのか。それこそ、福田の方が発言を録音し、テレビ朝日はこんな悪質な取材方法をとっていると告発すればいいだろう。
 ある意見に対して、「同調」しているときは、それをわざわざ言わない。紹介するのはそれが正しいと思うからである。その意見に対して批判があるかぎりは、「いろいろご意見がある」ではおわらない。私がいま書いているように、その「ご意見」には賛成できないとつけくわえるのが一般的なやり方である。
 こんな「釈明」を許していいはずがない。野党は、その後、その担当者に対して、どう詰め寄ったのか。「釈明」を受け入れたのだとしたらあまりにもだらしがない。マスコミも、そういう「釈明」を受け入れていることがおかしい。セクハラ被害の当事者の側のマスコミはもっと毅然と犯罪に向き合い、追及しないと、今後さらにセクハラが拡大することになる。


 

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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未知野道「いまからおもふと」、池井昌樹「あたし」「金色」

2018-04-25 09:31:10 | 詩(雑誌・同人誌)
未知野道「いまからおもふと」、池井昌樹「あたし」「金色」(「森羅」10、2018年05月09日発行)

 未知野道「いまからおもふと」もまた池井昌樹の作品だろう。

いまからおもふと
まっくろなかおりのよい
こおろぎのインクつゆにしめりながら
ゆめのなみだにひたっていたような気がする
網膜か体の中にある黒いガーゼの蜘蛛の巣のような
ゆれないひえた儒教ぼんさんの木々の透き間に
列車の一本のよいさけびを聞きながら
ぱろんとしためろん平面の夜空やら
かけらの星星やら月やらをながめながら
あまくあまくうつむいてた気がする
目の裏の皮と体の中の僕の胆嚢だけを
トラホーム色にねつねつひからせながら
ゆめのなみだにひたってたような気がする
からだも夜にはひるとなくなっちまい
目の下にしめった土ころだとかいもむしの糞ばかりがたんたんとあかるんでいて。

 「まっくろ」と「よい」の組み合わせ、「よい」と「さけび」の組み合わせ、「あまくあまく」「ねつねつ」「たんたん」という音の繰り返しにも池井の嗜好(思考/指向)が伺える。
 嗜好/思考/指向は、厳密には区別できない、ということを、別な角度から見直してみる。

こおろぎのインクつゆにしめりながら
列車の一本のよいさけびを聞きながら
かけらの星星やら月やらをながめながら
トラホーム色にねつねつひからせながら

 「……ながら」ということばが繰り返される。

ゆめのなみだにひたっていたような気がする
あまくあまくうつむいてた気がする
ゆめのなみだにひたっていたような気がする

 「……気がする」も繰り返される。「ゆめのなみだにひたっていたような気がする」は一行がそのまま繰り返されている。
 「繰り返し」は何のためなのか。
 書きたいことを離れないためである。ことばを動かす(書く)ということは、ことばの動きに従って、「肉体(自分)」そのものが動いていってしまうこと。自分が自分でなくなることを意味する。もちろん「動いた総体(軌跡)」を自分(肉体/思想)ととらえることもできるが、そうした場合、「思想」は自分のなかにある、自分だけのものということにもなる。
 もちろんそれでかまわないのだけれど(というか、そう考えるのが一般的なのだと思うけれど)、池井は、それでは「満足」できない。
 「思想(永遠)」というものは、自分にはない。どこか別なところにある。そしてその「永遠/思想」が自分を選んでくれている。選ばれた人間として、その思想(永遠)と向き合うのが詩人(池井)の「生き方(思想)」であるからだ。
 こういう「姿勢」をあらわしているのが「……ながら」なのである。池井は「……」をする。それをしながら、自分ではないものの「存在(永遠)」をみつめつづける。みつめつづけることで、みつめられる。「……ながら」というのは、池井自身の「行動」を説明しいるのではない。複数の行動を「する」ということを明らかにするために「……ながら」と書いているのではなく、「……ながら」が可能なのは、それを許す「永遠」がどこかにあるからだ、というのである。
 池井の側に「……ながら」があれば、他方「永遠」の方には「やら」「やら」「やら」がある。「夜空やら」「星星やら」「月やら」と、それは人間の制御をはなれた「永遠」である。
 「……ながら」を繰り返し、その繰り返しのなかに、自分の「肉体」を超えるもの、超越的な「永遠」をひきこむためである。分散させながら引き込む。引き込みながら分散させる。「論理」を複合的につくりあげるというよりも、「永遠」という単純な「論理」のなかに、世界をつくっている「存在」そのものを「複合」させると言えばいいのか。

 「離れながら、離れない」ということばの動きは、池井昌樹「あたし」「金色」にも見ることができる。

ねえかあさん?
かあさんといてうれしいな
こんなすてきなおへやでくらし
こんなすてきなおなまえもらい
たべるものならいつでもあるし
あつくもないしさむくもないし
だけどこのごろなんとなく
なんとなくものたりなくて                  (あたし)

ふかくあたまをさげていた
ふかくあたまをさげていた
はたらきつづけたほんやにむかい
きえさってゆくほんやにむかい
ふかくあたまをさげてから
ぼくはどこかへたびだって                 (金色)

 「散文」なら、こういう繰り返しは「不経済」である。詩でも、「不経済」と呼ばれるかもしれないが、その「不経済」こそが池井の詩である。離れながらもどる。その往復のなかに「世界」が生まれる。





*

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未知野道「旅行時計」

2018-04-24 11:42:58 | 詩(雑誌・同人誌)
未知野道「旅行時計」(「森羅」10、2018年05月09日発行)

 未知野道とはだれか。初めて見る名前だが、作品には、どこかで見た感じがある。
 「旅行時計」。

旅行時計というものを持っている
旅行時計を持っているのは僕が時計旅行をしている時だ
旅行時計は懐中時計に似ている錫製で
ふるくなるほど水晶の数珠のようにおもたくひえてくるがらすの扉のなかは
ずいぶん精密なみづの陶器でできている
旅行時計の龍頭をまくのは青い時間だ
掌につつんできりきりきりりと龍頭をまくと
旅行時計のなかはにわかにあわてふためいて
絵の具をつけた砂糖氷のかけらみたいなものがずんずん渦をまいている
きりきりきりりと龍頭をまくと旅行時計のなかに圧縮されたあたりの木の葉や
 山や町や黒い汽車に坐れなくてつっ立っている黒い僕が
玻璃製の松の針みたいにすきとおってきりきりきりりと良い玩具のように締ま
 りだす
時計旅行をする僕たちはつめたくおもたい旅行時計のなかで
ピンセットでひとつひとつ摘まれたたいせいな部品のように
またあたらしくきりきりきりりと発条(ぜんまい)をもどしはじめるのだ

 宮沢賢治に似ている。というよりも、宮沢賢治に似ていた詩を書いていた池井昌樹のことばにそっくりである。
 「懐中時計」は、もうほとんどのひとはつかわない。「錫製」「水晶」「数珠」「龍頭」「砂糖氷」「汽車」「玻璃」「発条」というのも、ほとんど「死語」だ。そういうことばは、池井が詩を書き始めたころ(私が池井の詩を読み始めたころ)、もう五十年以上も前のころから、すでに「死語」だったと思う。
 この「ほとんど死語」(言い換えると、子どもが見向きもしない古くさいことば)を組み合わせ、その「組み合わせ」た時にできる「空間」を「透明」なまま浮かび上がらせる。あるいは「透明」な空間を、硬質な「存在」が流動していく。「渦をまいている」に代表される「流動性」がある。この感じが、宮沢賢治であり、宮沢賢治に心酔していた池井昌樹の「ことば」にとても似ている。どうしても中学生の時の池井を思い出してしまう。
 一方に「精巧」「圧縮」「部品」という科学的なことばがあり、他方に「青い時間」というような不思議に透明なものがあり、「きりきりきりり」の音の繰り返しがある。

 うーむ。
 このあと、何を書くべきか。
 私は、かなり、悩む。
 もう書くこともない。

 でも、少し、いつもと同じ視点から詩を読み直してみようか。
 この詩をつくっている「動詞」は何か。
 「龍頭をまく」「発条をもどしはじめる」。「まく」と「もどす」は動きが反対である。「龍頭をまく」は「発条をまく」と同じである。「まいた」ものを「もどす」。「龍頭をまく」は「発条を締める」であり、「まく」「締める」は「圧縮する」。「凝縮」でもある。「圧縮」「凝縮」されたものは、「固まる」「硬くなる」。たとえば「錫(金属)」「水晶」「陶器」、あるいは「玻璃」。それらはまた「透明」とか「冷たい」「重い」ということばへもつながる。
 「きりきりきりり」もまた「まく」「締める」「圧縮する(凝縮する)」につながる。
 ただし、この「きりきりきりり」は、一種の「ことば以前」の感覚である。「動詞」はそのまま「翻訳」できるが、「きりきりきりり」は「翻訳」できない。それがつかわれている状況を「肉体」でおぼえるしかない。「肉体」を動かして、その動きを「意味」ではなく「音」にするとき、なんとなく「共有」されるものである。
 この「ことばにならない共有(翻訳できない共有)」のなかへ、何かを「もどす」。わたしが「死語」と呼んだことばが共有している何か、「絵の具」「砂糖氷」のような、「肉体」に対して甘くてせつないような何か。郷愁。「いま」より前に、「もどす」。「いまより前にもどす」から「時間旅行」なのだ。
 これが池井の詩なのである。
 (未知野道の詩なのである。)

旅行時計というものを持っている
旅行時計を持っているのは僕が時計旅行をしている時だ

 この反復とずれもまた「ことばにならない共有」を促す。「まく」と「もどす」が、緊密に絡み合っている。


*

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世論調査(情報の読み方)

2018-04-23 16:44:17 | 自民党憲法改正草案を読む


世論調査
             自民党憲法改正草案を読む/番外209(情報の読み方)

 2018年04月23日読売新聞朝刊(西部版・14版)一面。

内閣支持 続落39%/本社世論調査 不支持 最高の39%

 という見出し。
 関連記事が3面に載っている。その「グラフ」に驚いた。
 グラフは、数字を視覚化し、ひとめで理解できるように利用するものだが、作り方が変である。
 内閣(政府)の姿勢に肯定的か、否定的かが「一目」わからない。
 黒い方が政府に肯定的、灰色が否定的かと思うとそうではない。途中で色分けが逆転している。「文言」を「読め」ばわかるのだが、「見た」瞬間は、わからない。肯定と否定が拮抗しているように見える。
 これは、非常に問題の多いグラフである。

 文字もグラフも、きちんと自分で把握しなおさないと「事実」がわからない。
 そういう時代になっている。
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星野元一「髭がのびる」

2018-04-23 09:59:16 | 詩(雑誌・同人誌)
星野元一「髭がのびる」(「蝸牛」58、2018年04月20日発行)

 星野元一「髭がのびる」。

髭がのびていた
棺の中で
みんなが泣いて
湯灌も終ったのに
 ごりんじゅうです
医師の声が
まだ髭にはとどいてはいないのだ

 一連目の最後の「とどく」という動詞が印象的だ。強いものを含んでいる。「まだ髭には」という限定があるから、ほかの部分にはとどいたのか。心臓にはとどいただろうなあ。あるいは、逆か。心臓がとまったという「情報」がとどいたから、医者は「ごりんじゅうです」と言ったのか。いまなら脳波が止まったという情報が共有されたら(みんなにとどいたら)、「ごりんじゅうです」ということになるのか。
 とどいていないものは、ほかにもある。「みんなが泣いた」「湯灌もおわった」。それもとどいていないに違いない。
 この「とどいていない」は二連目で、違う風に動く。

このままだと顔中がもじゃもじゃになって
ぱくりと口を開け
枕飯をほおばり
味噌汁はないかといって
棺から逃げ出していくぞ
草鞋が合わないからではないか
杖や笠が安っぽいからではないか
六文銭はもたせたのか

 前半は、空想(予想)。後半も想像なのだけれど、この後半の部分に「とどく」が逆転した形で動いている。
 「草鞋があわない」「杖や笠が安っぽい」「六文銭がない」という不満が、遺族に「とどいていない」のではないのか。死者は、どんな声をとどけようとして、髭をのばしたのか。死者の声に、耳をすましてみる。何か聞こえてこないか耳を傾ける。聞こえない声を、聞きとろうとする。
 どれだけ死者の声を受け止めたか。死者の声は、生前、家族にとどいていたのか。
 もちろん、そんなことを星野は書いていないし、遺族を責めるというのではないけれど、ひとの「声」というのは、とどいたり、とどかなかったりする。そして、それはときどき、予想もしていなかった形で反逆(?)してくる。「ここには、その声はとどいていないぞ」と何かが言い出す。
 その「遅れてきた声」が、三連目で書かれている。遅れて「とどいた」声を、星野は、こう書いている。

野も山も桜だ
髭だって待っていたのだ
幟がなびいて太鼓も聞こえるぞ
ツバメが帰ってきたぞ
ブリキの自動車や船や飛行機や
ぬいぐるみや
カメやヒヨコやタコヤキやワタアメたちを引き連れ
寅さんたちもやってくるぞ
髭だって飛び出したいのだ
じょりじょりと子どもたちのほっぺたにこすりつき
きゃあきゃあと神社や森まで笑わせ
イッヘン!と
みんなを振り向かせ
べらんめえと
酒盛りの座敷に上がり込んで
髭だらけの口を押し上げ
昭和の歌でもうたいたいのだ
お経がおわって
引導が渡されても

 ひとは、いつでも存分に生きていたい、という「声」がとどいた。それは同時に、このひとは存分に生きてきた、うれしかったよ、という「声」として受け止めることもできる。「とどいた声」をどう聞きとるか。受け止めるか。
 星野は、「不満」ではなく、「肯定」と受け止めている。
 ああ、あのひとは存分に生きたひとだった。十分に楽しんだ。その「気配」のようなものが、まだ残っている。まだ、この世を楽しんでいる、と。
 「お経が終って/引導が渡されても」、まだ「声がとどかない」ふりをしている。しょうがないなあ。これは、あきらめではなく、共感だ。
 人の死を描きながら、楽しいのは、そのためだ。

 ひとの声はとどいたり、とどかなかったり。とどいても、とどかなかったふりをしたり。先回りしてとどけるひともいるけれど、忘れたふりをしてあとからとどけるひともいる。「聞こえ方」はさまざまだ。
 この詩は「とどく」という動詞がなければ、ぜんぜん違ったものになっていただろうと思う。


*

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何も言わなかった

2018-04-22 21:03:44 | 
何も言わなかった

 私は「天国」というものを信じていない。「天」を信じていないと言い換えた方がいいかもしれない。「ここ」を離れた場所を思い描くことができない。
 一回だけ、不思議な体験をした。
 父が入院している病院から電話があった。「あと一週間は持たない。会いにきたらどうか」。私の会社は小倉にあった。父は氷見の市立病院に入院している。いよいよというときに連絡をもらっても臨終に立ち会えない。
 私はめったに帰省しなかった。特に年末は会社が忙しくて抜け出せない。事情は父も知っている。この時期に見舞いに行くのは、死期が近いぞ、と教えに行くようなものである。残酷かもしれない。けれど死ぬとわかっているのに会いに行かないのも残酷である。
 病院についたのは午後だった。父はベッドで寝ていた。私が入っていくと、気づいて目を開けた。「会いに来たよ」と言うと、黙って目をつぶった。何も言わない。私も何も言うことがない。黙って父を見ていた。そばに私が買っておくった小型のカラーテレビがあった。私の唯一の親孝行である。しかし、テレビを見る習慣のない父は、テレビをつけていなかった。ブラウン管は、無言の私の顔を映していた。
 父が寝息を立て始めた。何時間すぎたのか。窓から入ってくる冬の光も、弱く、冷たくなった。淡い朱色の光が壁を染め、徐々に天上の方へ広がっていく。父のベッドがゆっくりと浮かび、天上に近づいていく。椅子に座って父を見ているのに、父に見おろされている。
 沈黙が過ぎていく。
 部屋を満たした最後の光が窓からふたたび遠くへ帰っていく。父のベッドも水平にもどる。部屋の明かり、蛍光灯の光に気がついたとき、ベッドはもとにもどっていた。
 借りてきた布団を床に敷き、一晩寄り添った。朝、「また時間があったら会いに来るよ」と言って、病室を去った。父は、やはり何も言わなかった。会社に帰り、仕事をはじめたら「父が死んだ」と電話があった。最後に見た父は口が少し開いていが、何も言わなかった。


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苗村吉昭「ふらんす日和」

2018-04-22 17:36:01 | 詩(雑誌・同人誌)
苗村吉昭「ふらんす日和」(「詩の発見」17、2018年03月22日発行)

 少し早起きして、出勤途中に見知らぬコーヒー店に入る。ガラス越しに街行く人を眺めている。そのときのことを苗村吉昭「ふらんす日和」は書いている。

頬杖ついて珈琲をすすり
エナメル靴の若い女性の足首や白髪紳士の黒鞄を
黙って黙って眺めていますと
そういえば前にもこんな日があったことが思い出されてくるのです
三十年前のふらんすの田舎町
小さなカフェで頬杖ついてカフェ・オ・レをすすり
黙って黙って美しい田舎町を眺めていました
あのころわたしはとても華奢で
そのうえ女の子のような髪型をしていましたので
カフェにきた杖つく老人に握手を求められ
「ジン・ジュール マドモワゼル」と話しかけられ苦笑したものです
そんなことなど思い出していますと
ガラススクリーンの向こうに
三十年前のふらんすがだんだんと拡がっていきます

 フランスの田舎町のカフェか。行ってみたいなあ。だれも知らない街で、ぼんやりと風景と人とを眺めていたいなあ、という気持ちになる。
 なぜなんだろうなあ。
 「頬杖ついて珈琲をすすり」「黙って黙って眺めています」、「頬杖ついてカフェ・オ・レをすすり」「黙って黙って」「眺めていました」。「すする」「黙る」「頬杖をつく」「眺める」と同じ動作が繰り返される。動詞が同じ。「肉体」が動くと、その「肉体」が動いたときの記憶が「肉体」の奥からよみがえる。
 こういうことが苗村だけに起きているのではない。
 三十年前の「ふらんす」。そこで出会った老人は、やはりカフェで珈琲(カフェ・オ・レ)を「すすり」「黙って」町を「眺めている」女性に会ったのだ。そして握手を求め「ボン・ジュール」と言ったのだ。吉村だけに、そう言ったのではない。「反復」がある。新しいことだけれど、それは反復である。
 もちろん、こんなことは苗村は書いていない。書いていないけれど、私は感じる。苗村が書いていることばの「主人公」は「わたし(苗村)」なのだが、そのことばのなかに、「もうひとりの主人公」を感じる。もし苗村が何年か後に「ふらんす」へ行ったら、カフェでカフェ・オ・レをすすっている女性に「ボン・ジュール」と声をかけるかもしれない。
 それは「三十年前のふらんす」なのか「何年か後のふらんす」なのか。わからないけれど、そういう具合に、思いが拡がっていく。その「ひろがり」のなかで、苗村と老人は、「ひとつ」になり、互いを「反復」する。
 その「反復(繰り返し)」のなかで、「誤解」は、「苦笑」のように、軽くあらわれて、静かに消えていく。

 そして、ここでこんなことも思う。
 「繰り返す」ということは「拡げる」ことなのだ、と。
 「繰り返す(思い出す)」は遠くにあるものを近くに引き寄せる。だから、それは「拡げる」というよりも「縮める」ということでもあるのだが、単に「効率をあげる」ために反復し、その動きを身につけるのではないときは、それは「縮める」とは違う動きをする。遠くにあったものが、すぐ身近になり、それが身近を通り越して(あるいは、身=肉体を突き破って)、身(肉体)そのものを解放する。拡げる。自由にする。

 「だんだん」ということばも、とてもうれしい。この「拡げる」にぴったりあっている。「徐々に」とか「少しずつ」とか、同じ意味のことばはあるが、ちょっと違うなあ。「だんだん」には、とてもあいまいな、「ことばにならない(説明にならない)」ものがあって、それが「繰り返し」と「拡げる」のつながりに、とても似合っている。
 「だんだん」は「段々」なのだろうけれど「暖々」のような、あたたかい感じがある。「だんだん」が「段々(一区切りづつ)」なんて、子どものときは気がつかない。けれど、子どもが最初におぼえるのは「徐々に」とか「少しずつ」ではなく「だんだん」だろうなあと思い返すと、ここにも不思議なものを感じる。
 「だんだん」って、何だったかなあ、と思い返す(思い出を繰り返す/反復する)と、私自身がコーヒー店でコーヒーをすすっているのか、「ふらんす」でカフェ・オ・レをすすっているか、それとも老人になって「ボン・ジュール」と女に声をかけているのか、わからなくなる。そこに拡がっている「世界」に「だんだん」溶け込んでしまう。


*

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松尾真由美「乾きという地理の密度」、三角みづ紀「けあらし」

2018-04-21 10:50:49 | 詩集
松尾真由美「乾きという地理の密度」、三角みづ紀「けあらし」(「詩の発見」17、2018年03月22日発行)

 松尾真由美「乾きという地理の密度」は、どう読んでいいのかわからない。

すでに
乾いた花と茎
気づかぬうちにかたくなり
擦れあう痛みがにぶくひびいて

 「乾く」と「かたくなる」のはわかる。「乾く」と「擦れあう」も通じ合う。湿ったものは「擦れる」とは、たぶん言わない。湿っていると「すべる」か「ねばる」になると思う。「乾いて」「かたくなり」「擦れあう」と、「痛み」が生まれる。
 これは、人間の「肉体」でいうと、「乾燥した(水分を失った)肌」が「硬くなり(しなやかさを失い)」、「擦れ合う(軽い衝撃を受ける)」と、割れてしまい、それが「痛む」というのに似ている。
 花(草)を描写しながら、それを自分の「肉体」で引き受け、「痛み」ということばで一体になる。
 私は、そう読んできて、「痛み」が「響く」というのも納得できるのだが、それが「にぶく」と書かれていることにつまずく。「鈍く」というのは、表面的ではない。「肉体の奥」で動く感じがする。「擦れ合う」は「表面」が「擦れ合う」こと。そういうときは「鈍く」なのかなあ。動詞と反応が、つながらない。だから、わからない。
 詩は、

距離のとれない一室が沼のようにおぼろげに

 という不思議な行を挟んで変わっていく。「一室」が謎なのだが、これは後半、こういう具合に言いなおされる。

好意とか悪意とか霞とか陽炎とか
あからさまにしどけなく鏡の壁を濁していって
不吉なほどに暗い色は私の形であるのだろう
種子を吐きだしたあとの殻の
事後の不明におののきつつ
とおい楽園を思い出す

 とても魅力的だ。
 「一室」とは「種子を吐きだしたあとの殻」である。それを「私の形」と呼ぶのは、松尾が「花(あるいは草)」と松尾の「肉体」を重ねているからだ。花が終わり、実(種子)もすでに草を離れた。残されているのは、種子が入っていたはずの「殻(一室)」である。その変化、「一室(殻)」になるまでの濃密な「時間」が、松尾と他者との「愛憎劇」ということになる。「肉体」の「愛憎劇」は「楽園」のことである。官能のことである。
 でも、そこに書かれるのは「好意」「陽炎」という明るさを含んだことばもあるけさど、重きは「不吉」「暗い色」「不明」の方にある。これは最初に引用した部分の「にぶく」を言いなおしたことばなのかもしれない。そういうものに「おおのく」からこそ「官能」を思い出すということなのかもしれないが、どうもすっきりしない。
 「肉体」がついていけない。「肉体」がほんとうに感じていることではなく、「頭」でこしらえた「ことば」の世界に思えてしまう。



 三角みづ紀「けあらし」も「自然(現象)」と「肉体」を重ねる詩である。

二月末、早朝の大津海岸にて。
幼いあなたは目を凝らして
たちのぼる霧をのがさない
わたしは海面から霧がたちのぼる理由を
すこしだけ考察した すぐやめた

 「考察する」。「頭」で考える。「頭」で察する。でも、やめた。「頭」を動かすことをやめる。そうすると、世界が突然変化する。

ここに存在するものと
ここに立ったあなたが
同じくらい拡がっていることを
忘れないでおいて。

降りそそぐ陽光で目覚めて
骨格をあらわにした白樺の
沈黙がたちまち語りだした

 「けあらし」の雄大なひろがり。それをみつめるとき、「あなた(人)」はけあらしの雄大そのものになる。「幼いあなた」の「肉体」は小さいが、それがけあらしと向き合うとき、肉体とけあらしが融合し、一体になる。あるいは入れ代わる。区別がつかなくなる。つまり、「一体」になる。
 この瞬間を「忘れないで」と、「幼いあなた」に三角はいうのだけれど、それは同時に三角も忘れないということ。「幼いあなた」「けあらし」「わたし(三角)」が「一体」になっている。
 この瞬間は、ある意味では「目覚め」である。「肉体」が新しく生まれ変わることである。だからこそ、詩は「目覚めて」ということばを含んだ連へと展開する。
 「骨格をあらわした白樺」は、新しく生まれ変わった「幼いあなた/わたし」であり、そこから動き始めることばは「沈黙(語られないことば)」である。詩が、生まれるのだ。
 三角の詩では、「肉体」がすばやく動き、「肉体」であることをやめる。新しい「いのち」へと生まれ変わる。そこに「停滞」とか「矛盾」がない。「加速」と「超越」がある。
 松尾の詩は、「沈滞」を描いているから、同じようにはとらえることはできないということかもしれないが、「頭」が「肉体」を押さえつけている感じがする。三角のように、「考察(頭を動かすこと)」をやめてしまえばいいのになあ、と私は思う。





*

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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
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不完全協和音―consonanza imperfetto
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近藤久也「暗くてみえない」

2018-04-20 09:55:51 | 詩(雑誌・同人誌)
近藤久也「暗くてみえない」(「詩の発見」17、2018年03月22日発行)

 近藤久也「暗くてみえない」の全行。

仄暗い
こころの中 みようとしても
暗くてみえない
偶然、ひかりさしても
奇怪なひだひだ入り組んで
とどきゃしない
チョーキングの
曲がった音
ひだひだの奥わけ入ってくる
と思ったら
生きてるみたいなシンコペーション
ずれずれの
リズム ひとりぼっちの
弾ける音
アーサー・ブラインド・ブレイク
どんなひとだか知らないが
暗い暗い箱の中
ひとりで入って勝手におもう
(信用できねえ、みえるもの)
かたちはいらない
すわりこんでも
おどってるおどってる
ずれずれリズムで
暗くてみえない
陽気な
ラグ

 アーサー・ブラインド・ブレイク。近藤は「どんなひとだか知らない」と書いているが、私も知らない。詩のなかのことば、「音」「リズム」を手がかりに考えれば、音楽家ということになる。たぶん演奏家。
 最初の、「仄暗い/こころの中 みようとしても/暗くてみえない」の「こころ」は、だれのこころか。アーサー・ブラインド・ブレイクのこころか、近藤のこころか。どちらともとれる。音楽を聴いての感想(?)なので、アーサー・ブラインド・ブレイクのこころかもしれない。

暗くてみえない

 これは単純なことばだし、だれもがいうことばでもあるが、正確につかみとろうとするとむずかしい。「暗くて」、そこにあるはずのものが「みえない」。けれど「暗さ」は「みえる」。「暗さ」そのものが「みえる」から、そこにあるものが「みえない」。でも、このことばの動きは、そこに何かが「ある」ということを前提としている。もし「暗さ」というものしかないのだとしたら、「暗くてみえない」という言い方は間違っていることになる。こういう「間違い」を私たちは平気でしてしまう。何かが「ある」ことを前提に考えてしまう。
 アーサー・ブラインド・ブレイクの演奏は暗い。暗さしかみえない。「こころ」が演奏を生み出していると考えるので、そのとき「みえない」は「こころの中」が「みえない」である。「みようとしても」が、この「こころ」がアーサー・ブラインド・ブレイクのこころであることを証明しているかもしれない。
 「偶然、ひかりさしても」というのは、曲を聴いていて「ひかり」のようなものを感じたということか。もしかすると、その光をたよりに何かが「みえる」と思ったのか。けれど、みえたのは「ひだひだ」。あるいは「奇怪」。それは「入り組む」という動詞といっしょにある。「ひだひだ」が「奇怪」に「入り組む」。そうすると「奥(内部)」にまでは光はととどかない。これが「暗い」という状態。「みえない」は「入り組む」ものの「入り組み方」がみえないということかもしれない。「入り組んで」いるということだけは、わかる(みえる)。これは「視力」の問題ではなく、別の問題だね。
 この「入り組む」という動詞に「わけ入る」という動詞が向き合う。
 「入り組む」は「組む」の内部にさらに「組む」が「入り」、からみついたもの。その「こころの中」、その「内部」は「奥」と呼ばれる。「ひだひだの奥わけ入ってくる」。「入り組んだ」ものの「組む」を「わけて(解体して/ほどいて)+入る」。
 と、ここまで書いてくると、ふっと、また最初の疑問にもどってしまう。これは、だれのこころ? アーサー・ブラインド・ブレイクのこころだとしたら、それは「わけ+入って+くる」でいいのか。「わけ+入って+いく」のではないか。「くる」というかぎりにおいては、その「こころ」の持ち主の「感じ」である。「くる」は自分に影響がある。「くる」と感じるのは「受ける」からである。
 だれのこころ、と区別できなくなっている。それこそ、アーサー・ブラインド・ブレイクのこころと、近藤のこころが「入り組んで」、「奥」がふかくなり、わけがわからなくなっている。しかしこれは、音楽の愉悦だね。そして、どんな芸術にも言えること。ある芸術から受け止めるのは、作者(演奏者/実演者)のこころなのか、自分が感じていることなのか。わからない。自分が感じることを、他人の中にみつけだしているということかもしれない。
 「入り組む」「わけ入る」と「入る」というこ動詞をつかったことが、自他の混同(融合?)を加速させ、「わけ入ってくる」になったのかもしれない。
 それは、アーサー・ブラインド・ブレイクのこころか、近藤のこころか、もう区別がつかない。だから、

ひとりで入って勝手におもう

 「勝手に」ということばが出てくる。近藤が、「勝手に」思うのだ。それはアーサー・ブラインド・ブレイクのこころだ、と。その「演奏(こころ)」のなかに「入る」。「こころ」の住人になる。「こころ」の中から世界をとらえなおす。これは近藤が「勝手に」思うことだが、思ったそれが瞬間からアーサー・ブラインド・ブレイクの思ったことになる。言い換えると、近藤はアーサー・ブラインド・ブレイクになって、世界をみつめる。アーサー・ブラインド・ブレイクの「肉体」のなかに入って、アーサー・ブラインド・ブレイクの眼でみつめる。(私は「こころ」というものがあるとは思わないので、勝手に「肉体」と言い換えるのだが。)
 そうすると、

(信用できねえ、みえるもの)

 このことばが、ぱっと動く。
 これは他の行とは違って括弧のなかに入っている。つまりアーサー・ブラインド・ブレイクの「声」である。アーサー・ブラインド・ブレイクの声と言っても、それはアーサー・ブラインド・ブレイクの肉体のなかに入った近藤の声である。アーサー・ブラインド・ブレイクになってしまった近藤が発する声である。アーサー・ブラインド・ブレイクの「肉体(こころ)」の中に入った近藤が、アーサー・ブラインド・ブレイクの声を聞き、聞いた瞬間にそれが近藤の声になって出てきた。
 これも入り組んで、実は区別ができない。でも、それが単純に近藤自身の声ではないということを明らかにするために、括弧のなかに入っている。

ひとりで入って勝手におもう
(信用できねえ、みえるもの)

 この二行を、私はさらに、こう読む。
 「おもう」とは、どういう動詞なのか。この「おもう」の前に書かれたことばは、すべて近藤が「思った」ことばである。
 「仄暗い/こころの中 みようとしても/暗くてみえない」も、実際に「みて」言っているわけではない。「ことば」で「みている」、思ったことを「ことば」にしているのであって、「客観的事実」ではない。
 でも、ここでは、どうなのか。やはり、「ことば」が動いているだけなのかもしれないが。
 何か、違う。わざわざ「おもう」と書いたのはなぜなのか。十行目には「思った」と漢字をつかって書いている。書き分けている。「おもう」を別なことばで言いなおすと、何になるのか。
 次の行の、

信用する

 である。この二行は、

ひとりで入って勝手に「信用する」
(信用できねえ、みえるもの)

 なのだ。
 みえるものは信用できない。だから「暗さ」のなかに身を沈める。あらゆるものを「入り組ませる」。そうやって作り上げた「奥」の「暗さ」は「信用できる」。そう聞きとって、近藤は、それを「信用できる」と言っている。
 近藤は、アーサー・ブラインド・ブレイクからつかみとった「信用」を書いている。「信用する」とは、別なことばで言えば、それから先は自分が自分でなくなってもいいと覚悟することだ。
 「暗くてみえない」、けれど「陽気」だ。「みえない」ことを受け入れ、身を任せたからだ。この「受け入れる」を受け身ではなく、近藤はアーサー・ブラインド・ブレイクに「わけ入る」という形で実践している。
 「入る」という動詞が、この詩の土台になっている。「入る」ことではじまる濃密なドラマを描いている。




*

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