詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長嶋南子「かさぶた」「糸みみず」

2007-03-31 11:48:36 | 詩(雑誌・同人誌)
 長嶋南子「かさぶた」「糸みみず」(「暴徒」56、2007年03月18日発行)。
 「かさぶた」は変な詩(いい意味である)である。「子ぶた」をもらって育てている。「子ぶた」は「大ぶた」になり、雨の日は笠をかぶせてやって「笠ぶた」。そしてそのあと、

ぶたにやる芋を切っていたら指を切ってしまった
走り寄ってくるぶた
傷口をなめまわす
あっというまにかさぶたになった

 ことばの遊び--と言ってしまえばことばのあそびなのだけれど。その「遊び」のなかに、どうしても長嶋がまじってくる。彼女の生きてきた時間が入り込んで、「遊び」をゆがめる。そこがおもしろい。
 「笠ぶた」は「かさぶた」を引き出すための入口のようなものだけれど、なぜ「笠」ぶた? 「傘」ぶたではない? 「笠」は手に持たなくてもいい。「傘」は手に持たなくてはならない。手のないぶたには「傘」はむり。「笠」でないと……。
 論理的に見えるけれど、とても変。
 「笠」って、今、どこにある? 阿波踊りか風の盆の踊りか、そんなときにかぶるくらいだろう。昔は、たしかに雨の日の野良仕事には不可欠だったが、そんなものが今、どこにある? 長嶋の家には「笠」をおいてある?
 そうした今はないけれど、長嶋の記憶にあるものが、今、ここにふいにまじってくる。そのことろが、妙に変で、妙におかしく、それだからこそ、何かほんとうのことを書いてあるという気持ちにさせられる。

 「糸みみず」も似たようなところがある。

糸みみずが目のなかに入ってきた
ぐにゅぐにゅぐにゅ
そんなに無理しちゃ痛いじゃないの
やめて 変な気持ちになるよ
あー 入っちゃった
目のなかを泳いでいる
糸みみずだと思っていたけれど
死んだ夫の「あれ」にちがいない

 このあと長嶋は夫の視線を取り入れながらことばを動かしていく。何かするたびに、夫が顔を出す。「うるさくてしかたがない」。そんな感じ。
 「糸みみず」がなんであるかは関係ないのだ。「糸みみず」を詩のなかに持ち込むことで、ことばを動きやすくしている。何を書きたかったのか。

無駄遣いばかりしてと「あれ」がいう
難癖つけられて買う気が失せる
家に帰ってテレビをみる いちいち講釈する
北千住駅前丸井食品売り場の見切り品を食べる
しみったれたものを食べているなといちゃもんをつける

 そうした生活があったこと、そんなふうに女と男の暮らしはつづくこと。それを書きたいのだと思う。「糸みみず」のかわりに「夫」そのままを出してもそういうことは書けるが、「糸みみず」の方が自由に書ける。
 「自由」を手に入れる方法が「ぶた」だったたり「糸みみず」だったりする。

 「あそび」というのは現実から離れるためであるけれど、離れて現実を見つめなおすことでもある。
 「あそび」のなかで長嶋はしっかりと現実をみつめている。現実に復讐している。この復讐の仕方は鮮やかだ。とても楽しい。



 ちょっと脱線しよう。長嶋の詩にあわせて(?)遊んでみよう。
 「糸みみずが目のなかに入ってきた」の「目」を「まなこ」と読んでみよう。ちょっと(かなり?)飛躍して「まなこ」を「ま●こ」と「誤読」してみよう。
 そうすると、長嶋の書いている世界がぐっと現実的(?)になる。誰もが知っていて、知っているけれど言えない(わけではないが)、言いたいことがらになる。「糸みみず」が何かの比喩に見えてくる。
 最終連。

目のなかに「あれ」が住みついている
つべこべいってもほっておく
節穴はやることがいっぱいあって忙しい
きょうは別の夫に会いにいく
目のなかの「あれ」が動きまわって
ぎゃあぎゃあ騒いでいる
ムクムク大きくなってはじける

 女は意地悪だなあ。意地悪な復讐をするものだなあ、と感心してしまう。
 男は、たとえば「目」を「まなこ」と読み替え、さらに「ま●こ」と頭の中で読み替えて遊ぶけれど、それはあくまで「頭」のなかの視力の遊び。女に笑われていることも知らずに、子どものまま「ぎゃあぎゃあ騒いでいる」だけなんだなあ。女は男が「ぎゃあぎゃあ騒いでいる」だけということを、いつでも知っているんだなあ。意地悪だなあ、と心底思う。思い知らされる。



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真田かずこ『あたらしい海』

2007-03-30 23:41:28 | 詩集
 真田かずこ『あたらしい海』(思潮社、2007年03月05日発行)。

冬のある日
わたしは
焼き場の裏の小道を
独り登った

突然目の前に
見たことも無い海が展がり
思いがけない高さの水平線と
聞こえない波の音    (「あたらしい海」)

 「思いがけない高さの水平線」がリアルだ。海は波の音が聞こえないくらい下にある。しかし、水平線を高く感じる。「小道を/独り登った」という思いが、水平線を高くする。
 「頭」で書かず、肉体で書いている。

暮れなずむ頃
わたしの庭はショパンが好き
心鎮め耳を澄まして
窓から聞こえるCDを聴き
息を呑む気配  (「暮れなずむ頃」)

 「わたしの庭はショパンが好き」がいい。「わたし」が「庭」になっている。「新しい海」の「思いがけない高さ」のあとでは、この「わたし」から「庭」への変身が、とても気持ちがいい。
 真田の肉体は、すーっと変身してしまう力を持っている。
 もの、というより、風景に変身してしまう力を持っている。
 とても気持ちよく感じられる。肉体が「わたし」から解放されて、宇宙にひろがっていく感じである。

わたしは一枚の薄い紙になって
テーブルに置かれている
手も足も頭もなく

窓から射す光を反射し
文字が消えた白い紙
陽にかざすと温もりが通り抜けていった  (「変身」)

 「手も足も頭もなく」。その「頭もなく」が、とてもいい。
 「頭」を放棄して、肉体を解放している。解放されているから、他のものと溶け合う。溶け合って、どこまでもひろがっていく。
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荒川洋治「干し草たばね人」

2007-03-29 22:52:49 | 詩(雑誌・同人誌)
 荒川洋治「干し草たばね人」(「現代詩手帖」2007年04月号)。

逃げていった城門のようなところ
朝、横になり
まどろんでいた殺人犯テスは
「そうね」
といい
死の国へ向かう その見えない足首
テスはかわいそうだ
みんなあの男(途中からテレビをつけたから
二番目の男のことしかわからない)
が悪いと思い 五平は
いてもたってもいられなくなり
次の日から
テス! テス!
と叫んでまわった
ただ叫ぶと
重みがなくなることがあり
テスという名前は
エマに変わる
そういえばエマも
かわいそうだったなと思い(読んだことはないのに)
テスとエマ
になっていった

 この連がとても好きだ。この連だけ何度も読み返してしまった。
 「城門のようなところ」というずらしかたが絶妙だ。知っていても「知識」を出さない、というところに荒川の強い意志を感じる。ことばを、体のどこで動かすか、ということに関する徹底した意志を感じる。
 「そうね」という単純なことばをすくい上げてテスの人生すべてを代弁させる人間理解力のすごさも感服するしかない。人間の思想はいつでも単純なことばのなかにあらわれる。人間はいつもいつも「頭」で考えるわけにはいかない。むずかしいことばではなく、いつもつかっていることばで考えてこそ、自分自身のことばになる。

 「ただ叫ぶと/重みがなくなることがあり」。
 この2行の正直さは、とてもすごい。
 「知識」を出してしまっていたら、こんな正直さは出てこないだろう。一度「頭」で書いてしまうと、ことばは「頭」にひっぱられる。「頭」はいつでもことばをひっぱる。先に書いた思想と矛盾するようだが、人は「頭」で考え続けることができないのに、「頭」に頼ってしまう。「頭」で考えるとき、自分だけで考えるのではなく、「他人の頭」をりようできるからだ。ことばを「頭」で書くことに、「他人が頭で考えたことば」を書くことに、人間は慣れてしまっている。荒川は、その慣れに対して、厳しく抵抗している。
 「そういえばエマも」以下も、どきどきするくらい美しい。
 「なっていった」。ああ、「なる」というのは、確かにこんな具合につかうのだと思い、ぞくっとする。

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三角みづ紀「白線の内側までお下がりください」

2007-03-28 23:51:16 | 詩集
 三角みづ紀「白線の内側までお下がりください」(「現代詩手帖」2007年04月号)。
 「白線の内側までお下がりください」。聞き慣れたことばである、ように思えるが、少し違う。最近は聞かない。最近聞くのは「黄色い線の内側までお下がりください」。たとえば新幹線のホーム。点字ブロックの黄色いライン。白線は私の利用している新幹線のホームにはない。
 「白線」とは何だろうか。

白線の内側までお下がりください
白線の内側までお下がりください
危険ですので
白線の内側までお下がりください
危険なんだよ
早く下がれよ

(絶望)

違います、(渇望)です。ひともじちがうだけでおそろしいことになるのです。

 私が思い浮かべるのは「死体」である。事故死した死体。そのまわりに引かれた白い線。
 「死」を私は体験したことがない。あたりまえのことかもしれないが、そうではないかもしれない。
 「死」を熱望したこともない。「死にたい」と思ったことがない。
 「死にたい」と思うのは「絶望」だろうか。「絶望」ではないような気がする。では、何か。「渇望」と三角は書いている--ように思える。あ、そうなのか。「死」は絶望して死ぬのではない。渇望なのだ、と思うと、ふっとわかったような気持ちになる。「死にたい」というのは、絶望しただけでは、実現できない。渇望しなければ、死を手に入れることはできない。力業なのである。エネルギーがないとできない。
 三角の詩と関係があるかないか、わからないが思い出したことがある。
 あるお婆さんの今際の際。とても苦しんでいる。見かねて、側にいた人が「もう少しだから、がんばってね」と手を握った。すると、お婆さんは、大きく息をついて、死んだ。死ぬのはとてもエネルギーがいる。力をふりしぼって頑張らないと、死ねない。
 たしかに、そういうことなのかもしれない。

白い線をひいた
あちこちにひいた
とらわれた
おおぜいの
あなたたち
わたしたち
鳥になんて
なるものか

 列車への飛び込み自殺、ではなく、ビルからの飛び下り自殺。その死体の場所。白線。白線の内側。とらわれた人。その形。そのもの。鳥のように空を飛ぶのではない。鳥を拒絶して、墜落する。死への渇望。
 だが、三角は生きている。死への渇望を引き止めているものがある。何か。「絶望」だ。

(絶望)

違います、(渇望)です。ひともじちがうだけでおそろしいことになるのです。
ああ、ようやくわかりました。わたしたちもあなたたちも色が違ってもおんな
じなんです。かたちをとどめていなくともおんなじなんです。おんなじなのに
どうして、こうやって、つながれないのですか。

 「死」と「つながれない」--そのことが「絶望」だ。死んでしまったひとたちは、どこかでつながっている。そのつながりを生きている三角は感じる。しかし、三角自身は、死んだ人との「つながり」を感じられない。つながりを渇望しながら、つながることができないことに絶望している。
 どうしようもない苛立ちがことばを動かしている。

 危険な熱さが、ある。この熱さは非日常ではなく、日常のなかにうごめいている。「白線の内側までお下がりください」という日常的に聞くことば--実際は、聞いていると勘違いしていることばのなかに、うごめいている。
 「白線の内側までお下がりください」。日常的に聞いていると勘違いしている。頭の中で信じ込んでいる。本当は、そういうことばは日常には存在しない。違っている。違っているけれど、私たちは、かってにすり替えて理解している。自分の都合のいいようにすり替えている。
 「黄色い線の内側までお下がりください」なのに、「白線の内側までお下がりください」ということばに出会った瞬間、「黄色い線」と聞いたはずなのに「白線」とすり替えて、駅のホームを連想する。そうした「ずさん」な想像力。そういうものに対して、三角は、ほんとうは怒っている。そういう「ずさん」な想像力が「絶望」と「渇望」を読み違える。すり替える。
 三角の怒りは、とても熱い。「詩」という形で発散しなければ、たしかに燃え上がってしまうだろうと思う。

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ニコラス・ギエン「大いなる喪のギター」

2007-03-27 14:12:20 | 詩(雑誌・同人誌)
 ニコラス・ギエン「大いなる喪のギター」(恒川邦夫訳)(「現代詩手帖」2007年04月号)。
 チェ・ゲバラに捧げられた詩。音楽にあわせて歌うようにつくられた「大いなる喪のギター」がとてもおもしろい。

 Ⅰ

ボリビアの小さな兵士
おおボリビアの小兵士
銃をかついで行く、その
銃はアメリカ製、その
銃はアメリカ製、小さな
ボリビアの兵士、その
銃はノース・アメリカン。

 1連目だけで引き込まれる。ボリビア、小さな兵士、銃、アメリカ製、ノース・アメリカン。繰り返されることばが、繰り返しによって「物語」を暗示させる。繰り返されるのは、そこで語られたものを忘れてはならないからだ。
 「小さな兵士」「小兵士」。原語では「兵士+小さい」「兵士+縮小辞」で書かれているのだろうか。繰り返しのなかにある、その微妙な変化も、詩人のチェ・ゲバラへの愛情を感じさせる。それを日本語に訳出するときの感情移入というのだろうか、変化が絶妙に美しい。
 書き出しの2行で、私は、この詩に引き込まれてしまったが、ギエンの詩に惹かれたのか恒川の日本語に惹かれたのか、ちょっと区別がつかない。恒川がギエンそのものになりきっている。
 「さび」の部分もすばらしい。

 Ⅴ

わたしのギターは深い喪に
おおボリビアの小兵士、
沈んでいるが、泣いてはいない、
たとえ泣いたほうが自然でも、
たとえ泣いたほうが自然でも、
ボリビアの小さな兵士、
たとえ泣いたほうが自然でも。

 繰り返しが、悲しみを怒りに、怒りを力にかえてゆく。それを後ろからぐいぐいとおして行くようなリズムだ。

 Ⅵ

ギターは泣かない、なぜならば、
おおボリビアの小兵士、
いまはハンカチや涙のときではない
山刀(マチェーテ)をふるうときだから、
山刀をふるうときだから、
ボリビアの小さな兵士
山刀をふるうときだから。

 恒川の詩を読むといつも原語で詩を読みたくなる。

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井坂洋子「ふた葉」

2007-03-26 11:54:27 | 詩(雑誌・同人誌)
 井坂洋子「ふた葉」(「一個」創刊号、2007年春)。
 井坂洋子という詩人は、いい意味での悪意に満ちている。
 「ふた葉」。

木の階段をのぼるとき
何人もの靴の先で削られた
へこみに誘われる

 こういう書き出しに出会うと、繰り返される暮らし、人の営みの積み重ねをついつい考えてしまう。いわゆる「生活詩」などを。
 ところが井坂のことばは「暮らし」というとき思い浮かべがちなものへは動いては行かない。

古い建物の
ガラス戸の向こう
卍のポーズでねじれたままの女のひとがいる

 ヨガをする女性の肉体、その形へと、ことばが動いて行く。木の階段を上ったことと、ヨガのポーズと何の関係がある? ヨガをする女と何の関係がある?
 井坂は、なんとも不思議な、悪意に満ちた関係をさらりと書いて行く。

数日前 園芸センターでみた
レモンの鉢植
は あんな細枝に
大ぶりの実ったレモンが
図体を感じさせたが
からだの重い ひとの
図体をきゅうくつそうにしているのは
なんだか可憐だ
ヨガ教室の ヨガをするひとを通りすぎて
部屋に辿りつくまで
埋めた種に
ふた葉が生えてくる
私は質問したことがないが
疑問が歯のぎざぎざのように湧く
性愛に関した二、三のこと
滅びについても一点
初潮を迎えた十二の年から
月とは関わり深かったが
かぐやのように
じきに天にのぼり
十二以前の細い躯になるのは楽しみだ
                (谷内注「躯」は原文は正字体)

 「質問したことはないが」。
 ここに悪意がある。
 なぜ質問しないか。知っているからだ。肉体に関することは、それぞれが自分で答えをもっている。間違っていても(他人と考えが違っていても、という意味である)、それはどういうことはない。性愛についても、同じである。間違っている(他人と違っている)ということが、個人であることの証明である。だから答えを求めるように質問などする必要はない。
 それなのに、井坂は「質問したことはないが」とわざわざ書く。
 そういう質問は自分を知ることにはならない。他人がそれについてどう考えているかをはっきりさせるだけである。そんな厭味なことをしない、とわざわざ井坂は書く。そう書くことで、そんなことは知っている、とも告げるのだ。
 誰も傷つけない。
 すべてを井坂自身で受け止め、受け入れる。

 こういう「いい悪意」は批判できないゆえに、とてもやりきれない。
 同じ「一個」に発表されている佐々木の作品と比べると、佐々木のことばの、なんとセンチメンタルなことか、という思いがする。
 「つながり」など、どこにもない。木の階段のうえのへこみだって、「つながり」なんかではないのだ。「くらし」なんかとは関係ないのだ。
 井坂には井坂の肉体があり、それを井坂は受け入れる。それだけである。肉体はもちろんそのときどきに応じて、たとえばレモンの鉢植にも人間の肉体との共通性を感じるけれど、だからといって深い意味はない。命があるものはなんでも重なり合う。それだけのことである。重なりを感じたからといって、井坂自身の肉体が、その感じによってかわるわけではない。
 肉体への、この強い「実感」のようなものには、とても太刀打ちできない。
 太刀打ちする必要などないといわれればそれまでであり、たしかにそのとおりである。その、そのとおりであるとしかいいようのないことを井坂は書く。そこに、何とも言えない悪意を私は感じる。

木の階段をのぼるとき

じきに天にのぼり

 この2行にあらわれる「のぼる」の強さ。共通の「動詞」で肉体をしめくくる強さ。これは、やはり「悪意」としか、いいようがない。
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清岡卓行『一瞬』再読

2007-03-25 03:06:39 | 詩集
 『一瞬』はさまざまな一瞬を描いた詩集だ。巻頭の「ある眩暈(くるめき)」には「一瞬」ということばは登場しない。隠れている。

 それが美
 であると意識するまえの
 かすかな驚きが好きだ。
 風景だろうと
 音楽だろうと
 はたまた人間の素顔だろうと
 初めて接した敵が美
 であると意識するまえの
 ひそかな戦(おのの)きが好きだ。
 やがては自分が無残に
 敗れる兆しか。
 それともそこから必死に
 逃れる兆しか。
 それほど孤独でおろかな
 それほど神秘でほのかな
 眩暈(くるめき)が好きだ。

 「かすかな驚き」「ひそかな戦き」「ほのかな/眩暈」。「かすかな」「ひそかな」「ほのかな」という「小さなもの」。それが「一瞬」だ。そしてそれは「意識するまえの」の「まえ」でもある。「まえ」とは、出会っているものが何か、それが明確に意識される寸前の小さな小さな「間」だ。その「間」を「驚き」「戦き」「眩暈」が駆け抜ける。
 そうしたものを清岡は「美」と対比しながら「好きだ」と告げる。「美」を何よりも尊ぶ清岡が、ここでは「美」よりも「美/であると意識するまえの/かすかな驚きが好きだ」という。隠れている「一瞬」が好きだという。
 「一瞬」のほかにも隠れているものがある。「と」。「と」が隠されている。
 この詩では「何かと清岡」が出会っている。「何か」は省略され、「清岡」も省略されている。
 何かと清岡は出会い、「それ(何か)が美/であると意識するまえの/かすかな驚きが好きだ。」何かと清岡が省略されたために「と」も省略されている。
 かわりに「が」がある。
 「それが美/である」「敵が美/である」の「が」。
 「が」は主語と述語を結ぶ格助詞だ。この詩では、すこし不自然な形でつかわれている。清岡の詩にはめずらしく行のわたりがおこなわれており、述語部分は「美/である」という不思議な「間」とともにつかわれている。
 「間」には何かが隠されている。潜んでいる。何が潜んでいるのか。「運動」(動き)だ。「意識する」という精神の運動が潜んでいる。この「意識する」という運動の主語は省略された清岡である。清岡という主語が省略され、「それ」というあいまいなものを主語にかかげたために「美/である」とという不思議な「間」ができてしまった。
 清岡という隠された主語を完全に消し去ると最初の書き出しはどうなるだろうか。「意識する」という運動を消し去ると、どうなるだろうか。
 「それが美/になるまえの/かすかな驚きが好きだ。」
 「ある」ではなく「なる」。
 ほんとうに隠されているのは「なる」という動詞だ。「意識する」という動詞は「なる」という動きを隠すために書かれている。
 清岡はいつでも「なる」を描いている。「と」によって始まる世界、それが「円き広場」を通って、いままで存在しなかった「美」に「なる」。
 「なる」とは再生であった。
 再生を意識すると、「敵が美/であると意識するまえ」の「敵」の理由がわかる。再生のためには、いったん死ななければならない。死をもたらすものが「敵」である。そして、その死があたらしい美を誕生させることを知っているがゆえに、清岡は敵を受け入れる。敵なしには、それまでの自分を破壊しないかぎりは、真の再生はないからだ。

 やがては自分が無残に
 敗れる兆しか。
 それともそこから必死に
 逃れる兆しか。

 清岡の選択には「敗れる」「逃れる」はあっても「打ち勝つ」はない。つまり、以前の自分は否定されている。以前の自分を否定し、再生することだけが美と出会う方法だ。

 「なる」と「再生」は「美」のなかで一致する。「ひとつ」になる。「円き広場」のような「全体」になる。
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佐々木安美「送電線が山を越えている」「芽生え」

2007-03-24 10:51:28 | 詩(雑誌・同人誌)
 佐々木安美「送電線が山を越えている」「芽生え」(「一個」創刊号、2007年春)。
 「ヒトもモノも混ざり合っている」。この感じは、「送電線が山を越えている」「芽生え」でも共通している。

ときおり、わたしたちはひとつの夢で繋がり、離れているときもたがいの存在を感じあっていた。母は大きな犬を連れて霧の中を歩いている。声にならない息のやりとりが、ここまで伝わってくる。(「送電線が山を越えている」)

 「わたしたちはひとつの夢で繋がり」というときの「わたしたち」。「わたし」と「母」。「母」と「犬」。「犬」と「わたし」。その区別がつかない。「わたし」と「母と犬」かもしれない。「わたしと母」と「犬」も考えることができる。「わたしと犬」と「母」という関係もあってもいいだろう。
 混ざっているものを感じる。混ざり合うという関係、それを受け入れるという力があるからこそ、そこにはあらたに風景が加わるということも自然ななりゆきである。

ときおりふたりのたましいは、夢ではなく別のもので繋がり、離れているときもたがいの痛みを感じあっている。母は大きな犬を連れて霧の中を歩き回り、目のなかの透明な皿に溜まっていく水分の重さに耐えている。母と犬の、声にならない息のやりとり。それは霧のように心に忍び込み、目覚めの時へと浮上する意識を包んで、再び重く沈めてしまう。(「芽生え」)

 「ふたりのたましい」の「ふたり」。人間だから、「わたし」と「母」か。しかし、ヒトとモノが混ざり合っているのだから、人間と犬もまざりあう。「ふたり」が「母」と「犬」ではないとはいいきれない。「母」と「犬になったわたし」という関係だってありうる。
 関係のあいまいさ。それを利用して、複数の時間を生きる。複数を生きながら、自己に固執しない。そういう感覚が佐々木の詩を豊かにしている。ひよわ(?)な感覚を表面に出しながら、奥深いところで、原始的な(始原的な)いのちのありようを感じさせる。
 「目のなかの透明な皿に溜まっていく水分の重さに耐えている」のは誰か。「母」か「犬」か。それとも、それは想像(夢)なのだから、「わたし」の「目」であり、「わたし」が「耐えている」のかもしれない。そういう混沌をくぐりぬけるからこそ、「わたし」の「心」に忍び込むということが起きる。

他者と他者が擦れる音。耐えているのは、母と犬だけではない。光速で、身がよじられる。われら、おまえら、そのかたわらの虫も糸屑も。(「芽生え」)

 ヒトとモノの混ざり合いは、ここまでくる。
 「われら」とは誰のことか。「わたし」と「母」と「犬」ではおさまりきれない。あらゆる「他者」。「虫も糸屑も」「われら」である。
 そして、ここまで読んできて、はじめて佐々木の「キーワード」が「も」であることに気がつく。
 「ヒトもモノも混ざり合っている」(「妹」)。
 ヒト「と」モノ「が」混ざり合っている、ではなく、ヒト「も」モノ「も」混ざり合っている。「も」であるかぎりは、そのまえに別の何かと何かが混ざり合っている。
 佐々木は、その何かと何かを消しながら、何かも別の何かもという関係へ広がっていく。
 これは「わたし」の希薄化か。それとも拡張か。
 佐々木は、二者択一をしない。希薄化であると同時に拡張である、と言うだろう。自己を希薄化させながら拡張する。その矛盾。矛盾なのかに、佐々木の思想がある。詩がある。それをあらわしているのが「も」という係助詞である。
 「一個」に発表されている5篇だけではわかりにくいかもしれないが、詩集になったとき、「も」の働きがもっとくっきりわかるはずである。「も」という係助詞をつかわないと、佐々木の詩はなりたたない。そういうことばを私は「キイワード」と呼ぶ。

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佐々木安美「妹」「車輪」

2007-03-23 23:17:20 | 詩(雑誌・同人誌)
 佐々木安美「妹」「車輪」(「一個」創刊号、2007年春)。
 「ヒトもモノも混ざり合っている」という行が「妹」にある。佐々木の詩を読んで感じるのは、この「混ざり合い」を佐々木が受け入れているということだ。「混ざり合った」ものを分けない。混ざり合ったことを受け入れながら、混ざり合ったものを、揺らぎながら生きる。つまり、視線が常に変化し、「私」というものに拘泥しない。固執しない。固執しないということにおいて一貫した生き方をする。

妹は地下を流れる川の
かすかな水音の中で眠っている
水音はこの世の外にも洩れていて
点在する外階段のひとつを見つけてのぼっていくと
わたしの家の屋上に すこしずつ姿をあらわす
日の光で薄れたり光ったり
部分的にはっきり見えたり
夕暮れまで言葉の断片は乱反射していて
ヒトもモノも混ざり合っている

 水のなかに泳いでいる泥の動きに似ている。動き続け、やがておさまる。泥は沈み、清らかな水が上澄みとして残る。それまでの時間を受け入れる。そんな生き方である。

妹のうつくしいくちびるがすこしひらく
そこからすこしずつ顔が見えたと思ったのに
地下を流れる川はついに終点に到り
断崖から滝となって激しく落下している

 「かすかな」「すこし」。そういう力に頼っている。信頼している。「かすかな」「すこし」の繰り返しの果てに、「激しく」がやってくる。「激しく」に至るまで、佐々木は「混ざり合っている」ことを受け入れる。受け入れていれば、必ずすこしずつそれぞれのものが落ち着くところに落ち着く。「激しく」落ち着く。

 「車輪」では「ヒト」と「モノ」ではなく、「ヒト」と「ヒト」が混ざり合う。あるいは「ヒト」(私)と「詩人」(詩を読む人)が混ざり合う。「詩人」は「ヒト」ではなく「モノ」かもしれない。

一行の長い詩を読む人の
身体が途中でひしゃげているのはずいぶん前からわかっていた
そのほかに 遠くの風景をじっと見ていて気がついたのだが
ものの輪郭が重なり 濃くなっているところがあり
あるいは色褪せ めくれて裏がはみだしているところもある
ああこれは
読む人のせいではなく
わたしの気力のおとろえのためだと思う

 「詩を読む人」の身体がひしゃげていると気づく(気づいた、わかっていた)わたし。そのわたしが風景を見つめて、「ものの輪郭が重な」っていることに気がつく。気がつく主体は「わたし」なのだから、その気づくという行為の原因(せい)は「読む人」の「せい」でありうるはずがない。そのありうるはずのないことを、わざわざ「読む人のせいではなく」と断るのは、佐々木の中で「詩を読む人」と「わたし」が混ざり合っているためである。「詩を読む人」になったり、「わたし」になったりしている。それを明確に識別せず、どちらの視点(視線)も、受け入れて生きる。
 細かな泥が渦を巻く水。それはほんとうに細かな泥が渦を巻いているのか、それとも水が渦を巻いていて、泥がそれにつられて動いているのか。その区別がつかないように、佐々木は混ざったものを混ざったまま動くにまかせている。
 激しい動きはしない。
 その激しい動きを拒んでいるところに、佐々木の「激しさ」がある。
 この詩には「おとろえ」とか「むなしさ」とか「はかなく」とかがことばをかえながら繰り返される。それを、動かずにじーっと見据えようとする「激しさ」が佐々木である。他人を、ものを、受け入れてしまう「激しさ」が佐々木である。

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小笠原茂介「遺言」

2007-03-22 23:41:51 | 詩(雑誌・同人誌)
 小笠原茂介「遺言」(「火牛」58、2007年03月05日発行)。
 感想を書こうとして、なにも書くことがない、という詩にときどき出会う。小笠原の「遺言」がそれである。とてもいい。とてもいいとしか、ことばが出てこない。

暗くして古いレコードを聴いていると
隣の椅子がカタカタ音を立てる
遺言状を忘れたのでこれから書くという
もういらないというのも可哀想で
またすこしでも側にいてほしかったので
なにか紙は?---探していると
もう机には紙が置かれ
手に毛筆らしいものももっている
書きながら激しく震え
水のなかのように墨が滲んでいくので
ほとんど字になっていない
---よっぽど寒いところからきたの?
聞いたが 黙って書きつづける
紙はいつか巻紙のようなものになり
どこまでもするする延びていく
いつまでたっても字は読めないが
なぜか意味はつたわってくる
ふと手をとめ
型がひどく凝ったという
小首を傾げてこっちを流し目でみるようすが
いかにも誘っているようで つい
---揉んであげようか
いってはならないことをいってしまったが
はにかんだように笑い
くすぐたいからいい という

 「もういらないというのも可哀想で」がとてもいい。次の行の「またすこしでも側にいてほしかったので」も、しみじみと読んでしまう。「で」「ので」と、言い切ってしまわない口語の調子が、「肉体」を感じさせる。
 私たちはたぶんことばを肉体に隠すようにしてつかっている。
 ことばはたいへん危険だ。相手を簡単に傷つけてしまう。そういうことを意識してかしないでかはわからないが、ことばがことばとして勝手に歩いていってしまわないように、半分くらいを体のなかに隠したままつかっている。
 そういう不思議な、どこか、言った人の体の奥へ引き返してゆくような感じ。
 「可哀想で」、それからどうした。「ほしかったので」、それからどうした。
 というような詰問を私たちはしない。
 「で」「ので」のあとにつづくことば(こころ)は、ことばにしないまま、肉体で受け止めるものである。
 「いつまでたっても字は読めないが/なぜか意味は伝わってくる」
 そういうことは、たしかにあるのだ。これは「で」「ので」を繰り返し繰り返し、共有してきた人間のあいだで起きることがらだ。
 「可哀想で」、それからどうした。「ほしかったので」、それからどうした。そのあとは、誰もいわない。それから先のことばは誰もことばにしないし、聞くことはできないが、「意味は伝わってくる」。

 この不思議な感覚を、私たちは大切なものだと知っているが、ついつい、そこを踏み越えてしまうこともある。ことばにしないまま、共有しているものが、いっぱいになり、肉体からあふれだしてしまうのかもしれない。
 「いってはならないことをいってしまったが」。
 それから、どうなるんだろう。
 言わないことで感じあっていたものが、一瞬、崩れる。肉体の奥で通じ合っていたものが、ちょっと乱れる。でも、悪い感じじゃない。とてもいい感じなのだ。たぶん、あふれだしたものに、無理がないからだ。あふれだしたものを、あふれるままにしておくことができない。あふれてゆくものは、ことばが必要なのだ。
 それで、つい、ことばにしてしまう。
 それから、どうなるだろう。
 「くすぐったい」。
 ああ、「くすぐったい」か……としみじみと思う。「くすぐったい」は肉体の感覚(皮膚感覚)であると同時に、こころの感覚でもあるのだ。
 くすぐられると人は笑う。
 こころが笑っているのか、肉体が笑っているのか、よくわからない。わからないけれど、その笑いが何かをときほぐす。
 何かが肉体からあふれてくる。ことばにならないから、笑う。この幸福。愛にあふれた幸福。

 どう感想を書いていいか、わからない。
 でも、とてもいい詩だ。今年読んだなかで、一番いい。そしておそらく、これをこえる詩を今年は読むことはないだろう、という予感もする。

 死を描いた作品を読んで、とても幸せになったと言ったら、不謹慎だろうか。
 だが、私は、幸せ、としかいいようがない。
 愛を静かに語って、ひとことも嘘がない。そんな愛に触れさせていただいたことに、ただ感謝したい。

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小松弘愛「じゅこん」

2007-03-21 15:27:19 | 詩(雑誌・同人誌)
 小松弘愛「じゅこん」(「火牛」58、2007年03月05日発行)。
 土佐弁をめぐる詩。「じゅこん」。「入魂な、親しい間柄の」という意味であるらしい。「昵懇」とも。
 以前、小松の詩を取り上げたとき「てんぽうな」について、私は、土佐弁を無視して「誤読」を楽しんだ。「てんぽうな」は「高知方言辞典」には「無鉄砲な」と標準語訳されているようだけれど、私にはちょっと違う感じがして「天法な」と勝手に漢字をあて、「無邪気な」「天真爛漫な」と読みかえてみた。こころのどこかに「天衣無縫な」ということばもひっかかっていた。
 今回の「じゅこん」についても、「誤読」をしたい。「じゅこん」そのものについてではなく、小松が「入魂」と「樹根」を比較している部分について、「誤読」してみたい。

「じゅこん」よ
お前は
わたしの手許にある
岩波書店の『国語辞典』になく
旺文社の『国語辞典』になく
三省堂の『新明解国語辞典』になく
小学館の『現代国語例解辞典』になく
ただ
引くのが億劫になるほど重い『広辞苑』には載っている
「樹根」と並んで

「じゅこん」よ
お前は
「樹根」と違って
この『広辞苑』でいつまで生きてゆけるだろ
池知先生の「じゅこん」のうた
あの
「じゅこんになった小父さんに」の一首は
ありし日の
お前の姿をとどめる挽歌になるかもしれず
わたしの
この 「じゅこん」一篇もまた
お前をしのぶ
追悼詩となるかもしれない。

 「入魂」と「樹根」。「入魂」から「樹根」へ。
 私にはここに小松の願いがこめられているような気がする。「入魂」が「樹根」のように、大地に根を張って生きて行けるように、という願いがこめられている気がするのだ。そう読みたいのだ。
 実際の「樹根」は永遠には生きないが、広辞苑のなかではいつまでも生きて行く。一方、「じゅこん」の方は、広辞苑のなかでも、「いつまで生きてゆけるだろう」かわからない。時代とともにことばはかわり、辞書はとその変化を映し出すからである。
 そう書きながら、小松は、辞書なんかは関係なく、「じゅこん」に生きてほしいと願っている。辞書の中ではなく、「樹根」が大地に生きるように、「じゅこん」が人間の生活のなかに生きてほしいと。
 そのためには、「じゅこん」はつかわれつづけなければならない。
 その具体的な使用例を小松は、小学校のときの女の先生の歌に見出し、こころを通わせている。歌の内容に共鳴してというより、「じゅこん」ということばをつかうという、そのことに対して、願いのような、祈りのような思いを通わせている。
 「じゅこん」は挽歌であってはならない。追悼詩であってはならない。そうしたくない、という思いがこもった詩だ。「追悼詩となるかもしれない」は不安ではなく、そんなふうにはしたくないという熱い思いなのだ。

 こんなふうに愛されることばは幸せだ。こんなふうにことばを愛したことがあるだろうか、と自分に問いかけてみて、不安になってしまう。小松のように、自分が聞いたことがあることばすべてを愛さなければならないのだ。詩人であるなら。

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倉橋健一「這い這い」

2007-03-20 15:03:16 | 詩(雑誌・同人誌)
 倉橋健一「這い這い」(「火牛」58、2007年03月05日発行)。
 
朝早く行方をくらませたひとりの赤ちゃんがこの地域にまぎれ
 こんだかもしれないと噂があって
夜半ぼくらは集会所にあつまった
誘拐、略取、置き去て……、ありとあらゆるケースを想定した
 が
事件に巻きこまれた形跡がないことから
家出人にした、とお巡りさんが説明した
それにしても
やっと這い這いをはじめたばかりの赤ちゃんが
どうして家出などしたのだろう
どうせお腹もぺこぺこだろうから
おいしいものをあちこちに仕掛けて誘(おび)き出そう
などと意見が出て
なによりも赤ちゃんを怯えさせないためには
われらも図体を小さくして目線を低くしなければ、の配慮から
全員四つ這いで行動することも決定した

 「それにしても」。
 この1行に私は引き込まれた。
 なぜだろうか。
 「それにしても」の「それ」が省略されているからだ。「それにしても」というかぎりは、それに先立つ「それ」が語られなければならない。「それ」が、ああでもなければ、こうでもない、と議論(?)が煮詰まって、その後ようやく「それにしても」という声が出るはずである。
 ところが、ここでは肝心の「それ」(それら)が省略されている。
 省略することで、倉橋のことばはスピードを上げる。速くなる。その速さにのせられて、一気に読んでしまう。何が書いてあった? そんなことは私は覚えてはいない。
 私が一読して覚えていたのは、「赤ちゃん」ということばをのぞけば、空で思いだせたのは「それにしても」だけであった。
 そして、この作品のことばは「それにしても」の「それ」を省略することで、どんどん軽くなる。事実(?)を無視して、想像力が勝手に走り回る。
 「どうせ」ということばも出てくるが、これも「それ」を無視しているから出てくることばである。「それ」のなかに含まれているはずの本物の「赤ちゃん」が無視されているからである。ほんとうに「赤ちゃん」を気にしていたら「どうせ」ということばなど出てこない。
 この詩は「赤ちゃん」を気にする「形」を利用して、人間の想像力が(ことばが)、どれくらい加速するかを描いている。
 「想定」「説明」「配慮」「決定」。
 そんなことばをつかって、私たちは、自由気ままに、ことばを動かすことができる。
 「詩」は、ことばの暴走なのだ。
 現実、事実をどこまでゆがめて書くことができるか。--この実験には、ゆがめて書かれた事実(?)は問題とはならない。事実はゆがむけれども、ことばは絶対にゆがまない。そういうことを確かめる実験である。
 「家出した赤ちゃん」ということばは事実をゆがめている。そういう事実はありえない。そういう事実でないことを書いても、ことばは傷つかない。そうした力がことばにはある。ただし、そうしたことばは、頭の固いひとたちからは嫌われるかもしれない。でたらめを書くな、と。
 そういう「でたらめ」に触れながらも、でたらめと無縁なことばが、やはりあって、それが「それにしても」である。論理を新たに出発させることば。論理に新たな視点をつけくわえることば。「でたらめ」(ありえないこと)を書きながらも、ひとはどうしても、本当のことを書いてしまう。
 「それにしても」が、その本当のことに当たる。
 本当のことを抜きにしては、どんなでたらめ、空想も書くことはできない。
 「それにしても」ということばを6行目で書かなかったら、この詩は先へ進まなかったはずである。(もちろん、書き上げたあとに別のことばに差し替えることは可能である。しかし、そういう操作は「技法」の問題である。)

 本当のことというのは不思議な力を持っている。「それにしても」が本物だから、「どうせ」も本物になる。「どうせ」がひんしゅく(?)をかわないとすれば、それは「それにしても」という逸脱を「どうせ」を聞いたひとがすでに受け入れているからである。「それにしても」を受け入れることができないひとは「どうせ」も受け入れることができない。
 「それにしても」は短いことばだが、この作品の中では、もっとも重要なことばである。だからこそ1行として独立している。(1行仕立てにしたのは、倉橋が意識的にしたことか、無意識的にしたことか、判断しようがないが、たぶん無意識だろう。そして、それが無意識であるからこそ、そこに思想=詩人の本質があるとも言える。)

 「それにしても」は実は、この作品では引用しなかった後半にもう一度出てくる。
 そこでも、「それにしても」をきっかけに、ことばは加速する。
 「それにしても」はたしかに、こういう使い方をする。
 こういう本物があってはじめて、最後の方の「たまらなくなって」「じれるな」という感情を「なま」のままあらわすことばも輝く。
 とてもおもしろい詩だ。

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清岡卓行『ふしぎな鏡の店』再読

2007-03-19 22:44:29 | 詩集
 清岡卓行『ふしぎな鏡の店』再読(思潮社、1989年08月01日発行)。
 この詩集は夢を描いている。
 「ふしぎな鏡の店」では、清岡はさまざまな形の鏡が展示されている店へ入る。そこで1枚の鏡に惹かれる。

わたしがとりわけ惹かれたのは
空中から見た
いびつな火口の形である。

--鏡のたわむれの中で
  ひとは無限に表面にいる
夭折した評論家の言葉だ。

店の主人は ほかならぬその表面を
鏡の枠のさまざまに奇抜なデザインで
鮮やかに示したかったのか
それとも隠したかったのか。

不規則な魅力の火口の形をした
鏡の右端(みぎはし)を
わたしは右手の指でそっと突き
鎖で吊りさげられたその鏡を
ゆっくり半回転させた。

--あっ 裏もやっぱり鏡なんですね!
わたしは思わず声をあげた。

左右は変わったが
同じ火口の形をした鏡。
わたしは頭がくらくらとし
脾臓のあたりに 深い快感が生じた。

--そうですとも
  表面の裏側は またしても表面だ
  なんて 書いていますからな
店の主人が得意そうに応じた。

 この作品には3人の人物が登場する。「わたし」と「評論家」と「店の主人」。この3人が「言葉」をとおして不思議な具合に重なり合う。
 「蘭陵酒」では、李白のことばと清岡のことばは重なり合わなかったが、この作品では3人のことばが重なり合う。というより、3人が、評論家のことばをとおして重なり合うというべきなのか。
 そして、この重なりあいは、とても奇妙だ。
 たとえば「長城」では、清岡が兵士や娘と重なることで世界が拡大して行き、その世界のなかには歴史まで入ってきたが、ここではそういう「広がり」はない。むしろ、凝縮がある。「わたし」「評論家」「主人」の区別がなくなる。同じことを考えている。つまり「表面の裏側は またしても表面だ」と。それと同じように、3人も区別がなくなっているのだと。
 そしてこれはまた、「示したかったのか」と「隠したかったのか」が、「表面の裏側は また表面」と言うのに等しいことを意味している。「示す」と「隠す」はぴったり重なり合い、どちらから見ても「表面」なのである。「裏面」は存在しない。あるいは、どちらも「裏面」であり、「表面」は存在しない。
 「示したかったのか」それとも「隠したかったのか」は、二者択一ではない。両方ともしたかったことなのだ。
 そして、この論理にしたがうならば、「鏡のたわむれの中で/ひとは無限に表面にいる」は評論家のことばではなく、同時に「わたし」のことばであり、また「主人」のことばでもある。
 そう考えるとき、この作品で清岡は「夢」について語っているというよりも、「夢」そのものを語っているように思える。
 清岡の詩、そのことばは、もちろん清岡の書いたものであり、清岡のものであるのだが、それがいったん読まれてしまえば、清岡のものであると同時に読者のもの。ことばのなかで、清岡と読者が分離不能に重なり合い、ことばを共有する--そういう詩の夢が託されているのではないのだろうか。
 水平に広がるのではなく、いくつもの層を重ねるように重なる詩人と読者、読者の数だけ層があるのだけれど、その層は区別がつかない。そうした世界への夢が託されていないだろうか。

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ステファヌ・プリゼ監督「愛されるために、ここにいる」

2007-03-19 22:13:06 | 映画
監督 ステファヌ・プリゼ 出演 パトリック・シェネ、アンヌ・コンシニ

 タンゴを踊るうちに男と女の距離がしだいに近付いて行く。音楽の使い方が変化がとてもいい。
 とてもすばらしいシーンが三つある。
 一つ目。
 最初に男と女が近付いたあと……。女が男に「車で送ってくれ」と頼む。その車内。タンゴの曲は流れていない。流れていなけれども、とても小さく幻のように、リズムが聞こえる。そんな感じで男と女の様子が映し出される。そのふたりの胸の中で、静かに思いだされているメロディーとリズム。それが胸に響いてくる。あ、どこかで絶対、極小の音がなっているはず、と耳をすます。しかし、耳からは聞こえない。私の体のなかから聞こえる。この瞬間、私は、この映画が好きになった。
 音楽なしで音楽を感じさせる。そういうことができる監督であり、また出演者だ。
 映画の醍醐味である。
 あとは、加速度的に突き動かされていくだけだ。
 二つ目。
 2度目の車内。男と女はタンゴのステージを見た。男と女が激しい情熱を隠しながら踊っている。その音楽が車内に鳴り響く。もちろん、これはカーステレオではなく、男と女の内部で鳴り響いている音楽が、そのまま映画として再現されている。このシーンは、先に書いた音のない音楽があってこそ、とても感動的だ。1回目の車内では音として表現していないのに、それが音として聞こえる。それがあるからこそ、2回目が、いわばバックグラウンドミュージックなのにバックグラウンドミュージックではなく、心そこから響いている音楽だと感じられるのだ。
 三つ目。
 いったん不仲になった男と女がよりを戻す。そしてタンゴを踊る。部屋の中。このときの音楽は? レコードをかけている? かけていない? わからない。わからなくていいのである。
 実際にレコードで音楽が鳴っていようが、あるいは鳴っていまいが同じことなのである。二人のなかには音楽が存在し、二人はそれを単に思いだして聞くだけではなく、それにあわせてダンスができる。耳をすまし、幻の音楽を聴くことはだれにでもできる。しかし、その幻の音楽を共有し、それにあわせてタンゴを踊ることができるのは、愛し合っている二人だけである。数も数えなければステップもことばにしない。体が共鳴している。
 そして、このときわかるのだ。
 レコードは鳴っていない、と。たとえ鳴っていたとしても、二人はレコードの音楽を聴いて、それにあわせて踊っているわけではない。二人のなかにある音楽にあわせて踊っているのだから。
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粒来哲蔵「百舌(もず)」

2007-03-18 11:50:18 | 詩(雑誌・同人誌)
 粒来哲蔵「百舌(もず)」(「火牛」58、2007年03月05日発行)。
                             
 百舌が来て妻を咥(くわ)えていった。私は妻の帯が解けかかっていたのを気にしていたが、百舌は山門近くの枳殼の棘に妻を突き刺したまま飛び去ってしまった。

 書き出しである。こんなことってある? ない。すると、これは何? 「百舌」は「百舌」ではないのかもしれない。何かの譬喩かもしれない……、と考えはじめると、粒来の詩はぜんぜんおもしろくない。あくまで、百舌は百舌である。
 しかし、不思議なことに、百舌だとどんなに意識しても百舌以外のものを思い浮かべてしまう。特に、次のような部分。

 百舌はひとを啜(すす)るというが、本当のようだ。赤子の場合は腹から啜り下肢にに向う。よく熟れた女の場合は、腹を啜るのも慎重だ。
 まず羽先で胸をかるくたたいて乳頭をもたげさせ、声を出したらつと局所に触れる。女が身悶えすると、百舌は頭を振り振り女の産道を逆にたどり、甘露をゆっくりと啜り込む。
 物知りによれば、この行為でかなりの数の雄百舌が、笑いながら溺死するという。

 どうです? 百舌を思い浮かべられます? 違うもの、説明しなくてもきっと私とあなたは同じものを思い浮かべていると確信を持っていえるものを想像していませんか?
 粒来のやっていることは、そういう意地悪(?)なのである。
 想像力なんて、みんな同じ。人間は、だれでも同じことしか考えられない。
 「乳頭」「局所」「産道」。そんなふうに、ちょっとずらしたことばを重ねてみても、実際に読者が想像しているものは「乳頭」局所」「産道」とは普通は呼ばないものである。もっと違ったことばで呼ぶものを想像してしまう。そして、その想像したものは、たとえ読者が 100人だろうが1000人だろうが、きっと同じものである。ひとによってもしかすると、その呼び方は違うかもしれないが、肉体の部位としては同じものである。
 
 人間はことばで考える。だが、ことばの本質は名詞ではない。名前(呼び方)が違っても、そういう呼び方とは関係なしに、私たちはことばの運動全体が描き出すものを優先して追いかけ、「あれは、乳頭と呼ばれていたが、あれのことだ」「局所、産道なんて、へんに冷たい呼び方をしているが、あれのことだ」と、粒来の書いたことばを自分流にねじまげている。
 ことばを(特に他人のことばを)ねじまげて解釈する--そこに人間の想像力のとてもおもしろい部分がある。

 想像力を定義して、事実をねじまげる力、といったのはバシュラールだが、私たちはなんでもねじまげて自己流に解釈する。そして、自己流にねじまげることによって、それでは間違えるかといえば、まったくそういうことはない。ねじまげることで、「正解」(?)を手に入れる。「乳頭」「局所」「産道」というようなことばをそのままねじまげずに正しく受け止めたりする読者がいたら、それこそ「誤読」というものだろう。

 そして、そう考えると、また変なところへ出てしまう。
 では、「百舌」は? それは、粒来が、事実をどんなふうにねじまげた結果「百舌」になったのか?
 こういうわからない答えを私は求めない。なんだっていい、と思う。

 粒来は、想像力がどんなふうに動くか、それだけを描きたくて「百舌」という作品を書いた。(この作品だけではなく、すべての作品が同じ動機で書かれていると私は思うが。)
 想像力によってねじまげたことば--。ことばはねじまげられているけれど、想像力はねじまげられない。いつも「正解」を知っている。「正解」が確実に存在するからこそ、平気でことばをねじまげる。ことばをどこまでねじまげることができるかを楽しむ。

 しかし、こういう遊びができるのは、「文体」が確立されているからである。「文体」が「日本語の歴史」で鍛えられているからである。何を省略し、何を書くか、ということばの選択、ことばの間合いを見極める力があるからだ。

 粒来のことばを読んでいると、「文体」とはことばの間合いだということがよくわかる。「意味」ではなく、「間合い」、そこにただよう「空気」が、とてもリアルだ。「間合い」「空気」は、そして実は「人間」そのもののことでもある。手にとって掴めないものではなく、逆に手にとってつかめるために、取り逃がしてしまう何かだ。肉体をつかませることで、そこにたしかにその人がいるということを感じさせて、逆に、こころをはぐらかしてしまうような呼吸--そういう、私たちが日常で感じるものが「文体」そのものである。
 次の、禅問答のような部分。

 大輪のか?と私が訊いたら、いや野菊の仲間だ、といった。では野菊は何処から来るのか--と重ねて訊ねたら、迷いからさ--と笑いやがった。

 常に私たちが出会っている「間合い」「呼吸」によって鍛えられた文体。それを粒来は常に描いている。比喩でも意味でも寓話でもない。「間合い」「呼吸」が粒来の「文体」であり、「詩」だ。

 最初の引用にもどれば、「乳頭」「局所」「産道」ということばの「間合い」、その日常的にはつかわないことばとことばの「距離」、そのあいだに広がる「空気」、それが粒来の「文体」であり、「詩」であり、「思想」だ。

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