詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

望月遊馬「湖畔」

2012-09-30 10:40:54 | 詩(雑誌・同人誌)
望月遊馬「湖畔」(「Aa」5、2012年09月?発行)

 望月遊馬『焼け跡』という詩集が手元にある。感想を書こう、書こうとしているのだが、ことばがどうも動かない。「助走」がいるみたいだ。で、「Aa」に掲載されている「湖畔」を読むことにした。
 「Aa」には望月を含め5人の詩人が作品を書いているのだが、だれが書いたかは奥付(?)にある「contents」を見ないとわからない。ほんとうに5人が書いたのかどうかは、読者がそれを信じるかどうかにかかっている。まあ、詩には、筆者がだれであるかは関係ないことだけれど。

くちびるに水がはしり
おまえが翅にふれる

肌をうすく染めたやわらかな
水のおもて
ゆるやかにながれる
沈丁花の葉

 ここに書かれているのは、何だろう。「contents」であると、私は思う。「contents」というのは、私は英語を話す人間ではないのでよくわからないが、そのことばのまわりには「内容」とか「中身」というような感じが漂っている。ただし「内容/中身」と言ってもその実際はよくわからない。「内容/中身」につけられたレッテルのようにも感じられる。別なことばでいうと「目次」というのがそれに近い。「内容/中身」が暗示されているだけで、ほんとうの「内容/中身」は別のところにある。「目次」ではない部分にも、「目次」が書かれている--というのが望月の詩である、と、これは私の「感覚の意見」である。
 と、いま書いてきた私の文章は、最後で「飛躍」しているのだが、この「飛躍」というのは簡単に言うと、「説明」の拒否というものだね。私の文章を読んでいるひとに対して説明を拒んでいるのはわかりきったことだが、実は私が私自身に対しても説明を拒絶している。面倒くさくなって、「論理」を棄てて、テキトウに「感覚の意見」というものを持ち出してしまうのである。
 そんなふうにしか、私には書けない。そんなふうにしか、私のことばは動いていかない。望月の詩を読んでいると。と、私は、私の「論理的破綻」を望月のことばのせいにしてしまう。責任転嫁してしまう。
 責任を転嫁してしまうと、「説明」は簡単になる。(ように、感じられる。--ことばは、まあ、いいかげんなものである。ではなく、私がいいかげんであるだけなのだが。)
 で、この詩のどこが「目次」か。「文」になっていないところが「目次」である。「文」というのは「主語+述語」という形で完成する。「目次」は「主語+述語」ではない。それは単なる「単語」である。

 「くちびるに水がはしり」だけを取り上げると、「水が(主語)はしる(述語)」という関係がそこにあるようだけれど、その「文」を「くちびるに」が壊している。いや、そんなことはない。「くちびるに」というのは場所を示しているのであり、この1行のなかにはちゃんと主語と述語がある、という見方もあるかもしれない。まあね。でも、それっていいったい何? 「くちびるに水がはしり」にどんな「意味」がある? わからないね。これだけでは何のことかさっぱりわからない。さっぱりわからないのだけれど、何かがあるように感じさせる。
 「おまえが翅にふれる」。何の翅に? なぜ? 何で? わからないね。1行目との関係もわからないね。くちびるに水がはしった「から」ふれるのか、くちびるに水がはしった「けれど」ふれるのか。
 次の「白」は何? 翅の色?
 「肌をうすく染めたやわらかな」は翅の肌のこと? あるいは「あなた」の肌のこと? これもわからない。さらにこの1行は次の「水のおもて」を修飾しているのであって、「白」とは無関係かもしれない。
 ことばの「つながり」が不明のまま、ことばが展開されている。これでは「文」にはならない。つまり、この「連」には「意味」はなくて、それは別のところにある、ような気がする。
 しかし。
 この1連目は、「おまえ(女)」が流れる水にくちびるをつけて、水を飲もうとしている。そのときその流れに沈丁花の葉が漂ってくる。それがくちびるにふれる。そのとき、女はその沈丁花の一枚の葉を蝶の翅のように感じる。いのちが破壊され、断片となったものが「おまえ」にふれて、「おまえ」のなかにいのちの断片を意識させるということかもしれない。それが1連目の「内容」かもしれない、という思いがふっとよぎる。
 「湖畔」というのだから、そのときの「水のはしり(流れ)」はほんとうの流れではなく、風がひきおこした波、湖全体でうけとめるゆらぎのことかもしれない。

 本の「目次」を読むと、本文は1行も読んでいないにもかかわらず、その「内容」はこういうことかなあ、とわかるときがある。このときの「わかる」はほんとうは「わかる」「理解する」ではなく「推測する」である。「事実」とは無関係である。
 「推測」しているだけで「わかる」というのはいいかげんなものだけれど、そうではないかもしれない。
 「わかる」にはいろいろな「方法」がある。「わかる」というのふつうは一つ一つ事実を確かめながら積み重ねて結論にたどりつくということを指すことが多いが、逆の方法もある。結論を推測し、それにしたがってことばを読み、結論にあう部分だけをつなぎあわせるという方法である。まわりにはほかのこともいろいろあるのだけれど、それは見なかったこと、聞かなかったことにして、「結論ありき」という形で世界をとらえなおす方法もある。
 望月の方法はどうも、それに似ている。何か書きたいことがある。それを「目次」のようにぱっと並べて見せる。それから、それでいいのかどうか、確かめる。それでいいように、形をととのえる。
 どこかに、都合よく言えば、望月の「肉体」のなかにある「コンテンツ」にあうように、「目次」をつくる。書かれているすべてのことばは、いわば「内容」を「抽出」したものであり、「本質」はそれとは別の場所にある。そして、その本質を強く感じることができるがゆえに、望月は、そのわかりきったものを省略して「目次」としてのことばを書きつらねる。

 私のことばはあっちへ行ったりこっちへ来たりとふらふらしているが、何となく、そういうことを感じる。望月はほんとうに書きたい「内容」を望月の肉体の内部にかかえこんでいて、それをそのまま展開するのはたいへんなので、とりあえず「目次」をつくっている。
 「目次」なのに、それがあたかも「内容」そのものであるかのように見えるのは、ほんとうの「内容」が非常に充実していて、「目次」にその一部があふれてきているからである。
 あらまあ、かっこいい。
 望月の詩はかっこいい--ということを「助走」にして、詩集を引き寄せれば、私のことばは動くかなあ、ときょうはそこまで考えてみた。

焼け跡
望月 遊馬
思潮社
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野村喜和夫『難解な自転車』(4)

2012-09-29 10:12:21 | 詩集
野村喜和夫『難解な自転車』(4)(書肆山田、2012年08月30日発行)

 野村喜和夫『難解な自転車』については、特に書くべきこともないのだけれど、何となく書いてしまっている。書きはじめると、ことばが勝手に動いていく。それは、まあ、この詩集がそれだけおもしろいということなんだけれど。
 で、この詩集について、私はどこから書きはじめたのだっけ? 「難解」ということから書きはじめた。最後に、その「難解」が出てくる「難解な自転車」。

ある日 家の まえに
誰の ものとも しれぬ 自転車が
放置 されて あった

 最初、自転車は「難解」ではなく「しれぬ(知れぬ)」であった。この「しれぬ」は「わからぬ」と置き換えられるね。この段階では「知る=わかる」であり、その否定形が「知れない=わからない」ということになるかな。
 で、その「しれぬ」の内容は、自転車が誰のものであるか、ということ。たとえばこれが私(谷内)の自転車だと、「誰の ものとも しれぬ 自転車が」ではなく「谷内の自転車が」ということになる。そんなこと、いちいち書かなくてもわかる? いや、そうなんだけれど、野村の詩の動きにあわせて、私はいちいち書いているのです。
 この詩には、便器と噴水とか、手術台の上のミシンとこうもり傘だとか、まあ、いちいち書かなくてもいいことが、いちいちていねいに書いてある。いちいちていねいに書くことが、ここでは詩なのである。その「ていねいさ」が、ね。
 で、3連目。

おいおい こんな ところに 棄てるなよ
と 思いきや 棄てたに しては まだ 十分に
あたらしい そうか 駐輪場 代わりに されたんだな
しかし 翌日に なっても 自転車は そこに あるまま
誰も 取りに 来て くれない それに わが家は
住宅街の どまんなか 近くに 駅も スーパーも なく
自転車を 置いて どうこう なる 場所では ないのだ
あるいは もしかしたら 嫌がらせ? 私や 家人が
困る ようにと 誰かが わざと そこに 置いた?

 「しれぬ」対象(?)が「誰のものか」から変わってきている。「放置」は「放置」なのか、ということがまず問題になる。「放置」ではなく「一時的に置いた」のかもしれない。つまり「止めて置いてある」のかもしれない。その根拠(?)は自転車が棄てるのにしては新しいからだ。
 次に、でも誰も取りにこないので、それは「一時的に置いたのではない」という推測に変わる。根拠は、自転車を止めておいて用事をすませるには、その場所は変だからである。駅からもスーパーからも遠い。ここに止める理由が「しれぬ」ということになる。
 次に野村のしたことは、なぜ?と放置の理由探しである。駅からもスーパーからも遠い 私(野村、と仮定しておく)の家の前に止めるのは野村に対するに対する嫌がらせかもしれない……。
 と、ここまで書いてくると、いろんなことが思い浮かぶ。そして、それはすべて「思いきや」の「思い」に関係している。
 「思い」はまだ「事実」になっていない。言い換えると、その自転車が誰のものであるか、その「事実」がわからない。そしてなぜ棄てたのかという「理由」も他人につたわる「事実」にはなっていない。「理由」とは、そのひとの行動の「根拠」であり、それは「思い」のなかにある。「なぜ、こんなことをしたんだ」「こうこう思ったからです」の「思った」が理由だね。その「思い」に誘われて、野村は「嫌がらせ?」と思うのだが、これは「事実」ではない。野村の「思い」にすぎない。たとえ、その思いが的中していたとしても、いまは「事実」ではなく、「思い」である。
 そうすると、「思い」というものは実に変なものである。「的中」していても、その「的中」を誰かが認定(?)しないかぎりは、単なる「思い」なのだから。うーん、めんどうくさいものである。

 で、なぜ、私がこんな、読めば誰でもわかることを長々と書いているかと言うと。

 「思いきや」ということば、それがこの詩の「キイワード」だと言いたいから。キイワードは、ほんとうはなくてもいいことば。あるいは、ほんとうは書かれないことば。無意識的に書いてしまうことば--肉体にしみついたことば、という具合に私は定義しているのだが。
 「思いきや」はなくてもわかるよね。「意味」はかわらないね。ただし、「思いきや」を省略すると、その直前の「と」は「しかし」にならないといけない。学校文法ではね。

おいおい こんな ところに 棄てるなよ
「しかし」 棄てたに しては まだ 十分に
あたらしい そうか 駐輪場 代わりに されたんだな

 と書いても、「意味」は変わらない。そこに書かれていることが野村の「思い」、つまり想像であることかわかる。「……だな」が推量をあらわしているから、そして推量とは「事実」ではなく「思い」なのだから。
 で、書かなくていいことばを書いているのは、そのことばには「比重」がかかっているからである。つまり、単なることばに見えるけれども、そしてふつうは書かないのだけれども、ついつい「強調してしまって」書いてしまったのである。この強調は、しかし「意味」としての強調ではない。野村の「思い」の強調である。これからつづくことばは野村の「思い」をあらわしていることばですよ、という強調なのである。
 そんなこと強調しなくたって、詩は「思い」を書いたもの--というかもしれない。
 いや、そんなことはないんです。
 で、ここで詩の冒頭に書いてある「シュールレアリスム詩」に対するコメントが隠し味のようにきいてくる。便器が美術館で「噴水」と名づけられたら芸術になる。手術台の上でこうもり傘とミシンが出合えば詩になる--その「詩」のなかにある「思い」は? 「思い」なんて、ない。それが、詩。
 おかしいでしょ?
 野村は、そういうことから出発しながら、ここでは「思い」を書いている。自宅の前の空間と自転車の出合い--それは詩ではなく、それについてあれこれ思うこと(思い)が詩であるとしたら、うーん、変。
 とっても、変。
 便器が美術館で「噴水」と名づけられたのを見るとき、見た人間のなかで「思い」がぶったたかられる。衝撃を受ける。「これ、何? これから何を思えばいい?」手術台の上でこうもり傘とミシンが出合うのを見たときも同じ。「これ、何? これから何を思えばいい?」という具合につづけていけば、まあ「意味」は重なりはするけれどね。(という具合に、感想をつづけていくこともできるんだけれど、そういうことは私はしたくない。この詩に関して言えば。)

 シュールレアリスムは「もの」と「思い」を叩ききった。そこに「笑い」がある。「思い」の否定は、人間を「思い」から解放することである。その解放が「笑い」だね。
 と、だけメモしておいて……。

 「難解」にもどろう。
 「難解」って、何? いま、野村を困らせていること、事態が「難解」であると思わせていることは何? 自転車をそこに置いたひとの「思い」がわからない、ということだね。
 それを確認した上で、次の行。

わからない でも
この 手の わけの わからなさ
この ところ 増えた ような 気が する

 「わけの わからなさ」の「わけ」は「理由」だね。「理由」は、ここではそれを実行したひとの「思い」だね。そして、それは増えたような「気が する」。この「気」は「思い」だね。「思い」と「思い」がうまく重ならない。うまく「交通」しない。
 こういうとき、つまり「この ところ」、そういうことを何という?
 私は一度も自分からはつかったことがないのだけれど、

「意味わからん」

 そういうふうに言わない? だれが言いはじめたことばなのか知らないが、しきりに耳にする。映画『奇跡』のなかでは大阪の(?)漫才子役がしきりにつかっていた。会社の同僚もよくつかっている。
 そして、それがつかわれる状況はというと、相手の言いいたいことはわかるが、納得できない。自分の「思い」とは違う、というときである。「意味わからん」は、「私はそうは思わない」。しかし、それでは何を「思う」のか。それをわざわざ言いたくはない。言いたいのは自分の「思い」とは違う、ということ、つまり「不満」である、ということ告げたいのである。「違和感」といっていもいい。
 自分がほんとうに思っていること(思い)を言うのは面倒くさい。言うときっと面倒になる。さらに面倒くさいことが起きるに決まっている。だから、言わない。言わないけれど、「不満」に思っていることを「漏らしたい」。だれかに。それは、いま向き合っているひとかもしれないけれど。
 
 この3行のあと、詩は、こうつづく。

詩が 難解である それは いい
数学が 難解である それも 許せる
でも 家の まえが 自転車が
難解である とは
無意味では ないか
無 意味 では ないか

 ほら(何が、「ほら」なのか、説明しないけれど)、「意味」ということばがでてきたね。「意味わからん」の「意味」と、私には重なって見える。
 野村は「意味わからん」とは言わずに「無意味では ないか(無意味である)」という。「難解な自転車」とは「無意味な(意味のわからない)自転車」である。
 なぜ、これに野村が過激に反応し、こんなに「ていねい」にことばを重ねつづけるのか。「難解(意味わからん)」のなかに「無」と「意味」が出合っているからである。野村にとって「無意味」とは「ひとつ」の「こと」ではない。便器と美術館、手術台の上のミシンとこうもり傘のように、「無」と「意味」の出合いなのだ。何かが出合うとき「思い」が動く。便器と美術館の出合いなら、そのとき野村のなかの「便器に対する思い」と「美術館に対する思い」が出合い、ぶつかる。その瞬間、「意味わからん」。つまり「無意味」が突然発生する。
 その「無意味」は「無」と「意味」から実は構成されている。
 「便器」が「無」? それとも「意味」? あるいは「美術館」が「無」? それとも「意味」?
 何をばかなことを書いているのだ--と思うかもしれない。まあ、ばかなことを私は書いているのだけれど、そんなふうに「思う」ことができ、その「思い」をこうやって書き残すことができるというのは、ことばのほんとうに不思議なところである。
 というようなことを、野村は、この詩集でやっている。
 と、強引に「結論」を書いて、きょうはこれでおしまい。




ヌードな日
野村 喜和夫
思潮社
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野村喜和夫『難解な自転車』(3)

2012-09-28 10:52:22 | 詩集
野村喜和夫『難解な自転車』(3)(書肆山田、2012年08月30日発行)

 詩は変なものである。あるいは、わけのわからないものである。と、書いて、その「変」とか「わけのわからない」というときの私自身を振り返ればどういうことになるのか。私はそれを想像していなかった、ということに落ち着く気がする。想像していなかったことが書かれているとき、いろいろな反応が起きる。びっくりして笑いだしたりする。で、そのびっくりと笑いだしたことをさらにじっくりと見つめてみると、想像はしていなかったのに、そこに何かしらわかることも含まれていることに気がつく。「変」「わからない」は「わかる」と隣り合わせである。ただし、その隣り合わせが「流通言語」とは違うのだ。
 「カタストロフ変幻」という作品。

子音を脱ぎ、
母音を脱ぎ、

くり返し、
廃墟はあらわれる、
記憶の森から、年代記の谷から、
くり返し、サブリミナルの閃光のように、

潟、巣、戸、露、府、
片、洲、吐、路、腑、

 いろいろ「変」だけれど、そういうこと(どういうこと?)を抜きにして、私はこの詩のリズムが好きだ。1連目の「対句」スタイルが気持ちがいい。2連目の、だんだん長くなっていく行の、長くなり方が、とても読みやすい。リズムがいいのだ。まあ、これは、たまたま野村がここに書いているリズムと私のことばのリズムがあうというだけのことかもしれない。
 この詩に、意味はあるのかなあ。
 無理に探し出せば(ほんとうは、思いつくまま書いているので、ぜんぜん無理はしていないのだが)、「カタストロフ」というのは、何か組み合わさったものから何かが脱落した瞬間に起きるのかな、そういう具合に野村がとらえているのかな、ということが1連目から感じられる。
 ことばは子音+母音の形で発音される。声になる。そこから「子音」や「母音」が脱落すると、ことばにならない。しかし、それを無理に想像すると(ほんとうは無理しているわけではなく、これも思いつくままに書いているのだけれど)、そこには「破壊」がある。破壊がありながら、こわれる前の何かが残る。あえて言えば(ほんとうはあえてではなく、これも思いつくままなのだけれど)「骨組み」みたいなものが。
 そうすると、それは「廃墟」のように思える。2連目の「廃墟」。たとえば、ことばをパルテノン神殿のようなものだと想像してみる。子音、母音がその建物のどの部分にあたるのかわからないけれど、いまはエンタシスの柱と屋根が少しだけ残っている。建物全体をつなぎとめていたものがなくなっている。その廃墟の感じと、「子音を脱ぎ、/母音を脱ぎ、」ということばの感じが似ているなあ、通い合うなあ、と思う。
 「わからない」といいながら、私は、何かを「誤読」して、わかってしまっている。
 「廃墟」「記憶」「年代記」--これは、連想ゲームだね。自然につながっていく。それが「くり返し」閃く。カタストロフの瞬間は、そういうものだ、と野村は考えているのかな?
 で、これはきのうのつづきだが、こういうふうに「考え」はじめると、実は詩はおもしろくない。「意味」がどうしても生まれてしまう。そして「意味」を書きはじめると、それがどんなに「誤読」だとしても、「意味」に引きずられてしまう。「意味」をつかみとることが「読む」ということだと考えてしまいがちになる。
 こういう瞬間、野村は、本能的に「意味」を破壊する。

潟、巣、戸、露、府、
片、洲、吐、路、腑、

 これ、何? 「カタストロフ」である。潟(カタ)、巣(ス)、戸(ト)、露(ロ)、府(フ)、
 なんだかばかばかしいねえ。そして、どうして「カタカナ」がこんな漢字になるのか、わけがわからない。変だ。
 さらに「潟(カタ)」「片(カタ)」だけ2音節なのも変だねえ。
 変なのだけれど、そうか「廃墟」には完全にばらばらな部分とひとところ形を想像させるものがあるところがあるから、そういうことをここではあらわしているのかな、とふと考えたりする。(←考えてはいけないんだけれどね。)
 で、考えてはいけない、というようなことにこだわってもしかたがないので、考えたことは考えたこと、でも、それは考えたのではなく瞬間的に感じたこと、なんて自分に言い聞かせながら先へ進むと、

子音ヲ脱ギ、
亜、阿、巣、於、尾、府、

 これって、とっても「変」。「潟、巣、戸、露、府、」は5文字、「亜、阿、巣、於、尾、府、」は6文字。「カタストロフ」は6文字だったから、子音を脱いだ方の表記の方が「カタストロフ」に近いのか。
 「カタストロフ」を「カタカナ英語」ではなく、「catastrophe 」と英語そのものとして聞き取っているのかな? アクセントは「タ」にあり最初の「カ」は弱音だから、それを聞いたときの肉体の記憶が「潟」「片」という文字に反映してしまったのかな? いや、英語だと「カタストロフィ」だなあ。フランス語の「catastrophe 」かもしれないなあ。フランス語だと、最後は「フィ」じゃなくて「フ」だから(たぶん)。フランス語のアクセントはアクセントはどこにあったっけ。聞く機会がないので、判断のしようがないが、前の方かなあ。英語と同じかな? たぶん野村は「タ」を強くするか、高くするか、そういうことを肉体的にしているのだと思う。(勝手な想像。)
 でね。それはそれでいいんだけれど、次に「巣」と「府」。これは、日本語でいうと子音を脱ぐと(取り外すと)、「ウ」になる。けれど、野村は「巣」「府」という形で子音があるように書いている。「変」でしょう?
 でも、変じゃない、と私のなかで私の肉体が異議を叫ぶ。「巣」「府」の「母音」はとても弱い。それは子音だけででてきている。だから「子音+母音」という形の「カ・タ」とは違って子音だけを脱ぐことはできない。だから「巣」「府」という形で表現するしかない。
 そうか。
 そうなのか?
 「カタストロフ」を日本語として発音するのか、英語として発音するのか、フランス語として発音するのか(フランス語はほとんど発音したことがないので、テキトーに書いてしまうが)、もし英語、フランス語の「子音+母音」という形でことばを聞き取るのだとしたら、変なところがない? カタ「スト」ロフ(ィ)の「スト」には母音はないんじゃない? 日本語だと6音節だけれど、英語だと4音節、フランス語だと3音節にならない?
 ことばの、音のとらえ方が、ごちゃごちゃになっている。
 野村とは10年以上前に一度だけ話す機会があったけれど、時間が短かったので、発音にどんな特徴があるか(癖があるか)わからなかった。英語、フランス語で話したわけではないので、英語、フランス語が野村のなかでどんな音になっているのか、それはもちろんわからない。わからないのだけれど、この音の感覚は、実に変。
 ネイティブのひとが日本語の表記を覚えたとして、野村が書いているような音の分解の仕方をするとは思えない。

 あ、私の書いていることがだんだんずれて行っている?
 そうですねえ。そのとおりですねえ。
 でも、このだんだんずれていく、ということがきょうの「日記」のテーマなのかもしれない。(私は最初から何が書きたいという「結論」があって書くのではなく、書いていて、そのうちに見つかったものを押し進めるだけなのです。)
 なぜ、書いていることがだんだんずれていくかというと、読んでいるうちにだんだん私自身がほんとうにわかってること(肉体がつかみとっていること)が野村のことばときちんと向き合うようになるからだ。野村の肉体と向き合うようになるからだ。
 あ、そこ、違う。そこは感じない。えっ、こんなところが感じるの? 信じられない--というセックスの感じだね。

 詩はさらに進んで、

母音ヲ脱ギ、
…、…、巣、…、…、府、

 「K」だけをあらわす文字がない。「T」だけをあらわす文字がない。「R」だけをあらわす文字がない。けれど「ス」だけなら「巣」、「フ」だけなら「府」。
 ほら、私が子音のところで書いてきたことが、ここで「証明」されているでしょ?
 でも、「スト」の問題は、残ったままだね。
 変だなあ、変なの、と私の考えは考えることをやめてしまう。

 まあ、いいんだけれどね。(何がいいか、わからないけれど。)
 で。
 この詩は、さっき引用した「子音」「母音」を脱ぐという連をはさみながら、別の連を持っている。
 その部分だけを引用してみる。

くり返し、
廃墟はあらわれる、
なぜ、という問いをも超え、
くり返し、私たちを貫き、私たちを置き去りにして、
そう、未来のどこかで、
また私たちを待っているのだ、
とてつもなく大きな斑猫の影のように、

ならば私たちも、
軽くなろう、貧しくなろう、
水母みたいに、ただの明るい発光体となろう、
そうしてある日、
つぎの廃墟があらわれ、
しかしその廃墟は、私たちを貫き、
私たちを置き去りにしたことに気づかない、

なぜなら、
光が光を、
通過しただけだ、

 「カタストロフ」を野村は「光が光を/通過」することだと「定義」しているようだね。そのとき、その強烈な光によって、まわりにある存在(それを目撃した野村)は、一瞬、自分のなかから子音、あるいは母音が奪い去られた感じになる。強奪された感じになる。そのときの肉体の印象(自分の印象)が「廃墟」の姿に似て感じられる、ということなのかなあ。
 よくわからないけれど、私の肉体が覚えていることは、そういうことを感じる。
 野村がここに書いている「カタストロフ」ということばの子音と母音の関係は、とっても変だけれど、それが変であるだけに、野村の「肉体」のなかにある「廃墟」が奇妙に日本語に訛っている、という感じがして、それが最後の「光が光を/通過」するという絶対的な美しさを逆にささえているようにも感じる。肉体に「訛り」がないと、肉体まで光になってしまいそうだ。



難解な自転車
野村喜和夫
書肆山田
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野村喜和夫『難解な自転車』(2)

2012-09-27 10:38:27 | 詩集
野村喜和夫『難解な自転車』(2)(書肆山田、2012年08月30日発行)

 「空白」について、私はきのうテキトウなことを書いた。どうもよく覚えていないが、でもそのときはほんとうにそう感じて書いたのだと思う。というのは正しい「弁明」ではなくて、正しくは、私は書くときは何も考えていない、のである。なにも考えずに書けるのかと問われたら、私は考えないから書けるのだとしか言いようがない。考えたら、ことばが動かない。
 で、きのうの「空白」とつながるかどうかわからないが、「探求」で「空白」を探求してみたい。(親父ギャグです、すみません。←というようなことを書いてしまうのは、やっぱり何も考えていないからだね。)

カーン、カーン、

とそれは聞こえてくる、何の音だろうと思って耳をすますと、どこ
かに身を隠したかのように、聞こえなくなり、それからまた、耳を
ゆるく保っていると、

カーン、カーン、

と聞こえてくる、静かに、執拗に、

 この書き出しには「空白」がある。つまり書かれていないことがある。書かれていないのは、それを野村が知らないからだ。具体的に言うと「カーン、カーン、」という音が、何の音か野村は知らない。(野村ではなく、詩のなかの話者というべきかもしれないけれど、そういうめんどうくさいことは苦手なので、野村は、ということにしておく。)どこから聞こえてくるかも知らない。
 この知らない部分が「空白」。つまり空白とは意識と対称の関係の途切れている部分、切断している部分である。
 しかし、それは完全に隔絶しているわけではない。途切れているのだけれど、つながっている部分もある。

カーン、カーン、

 音が耳に聞こえてくる。野村と音がつながっている。そこには「空白」はない。
 いや、そうかな?
 簡単には言えないかもしれない。
 まあ、これはちょっとむずかしい。
 別なことから書き直してみる。私は考えると行き詰まるので、行き詰まると考えることをやめて感想にもどるのだ。

カーン、カーン、

 この音、聞こえてくる? 私には聞こえました。「意味」はどうでもよくて、ただ聞こえたんですねえ。それも、その音が聞こえて瞬間、これは夜の街だと思った。夜、何も見えない(わけではないが、まあ、そういうふうに「常套句」で私は世界をとらえる。)何も見えないと感じるのは、たぶん、その音がどこから聞こえてくるか、それが何の音かわからないからだと思う。
 「見えない」と「わからない」が一致する。
 そこに「空白」がある。--のだけれど、夜だからそれは「空白」というより「空黒」かもしれない。「空白」というと、あいだに何もない感じがするが、「空黒」と書くと、あいだにいろんなものがつまっていて、それがじゃましているという感じがする。
 私がいま書いていることは、まあ、そういういいかげん、テキトウなことなのだが、意外とそのいいかんげん、テキトウのなにか、ほんとうがあるかもしれない。
 「空白」は虚無につながるが、「空黒」は虚無とは違うなあ。逆だなあ。「豊かな」感じがする。--あ、これに似たことをきのう書いたかもしれないなあ、と思う。
 いいかげん、テキトウに書いても、ことばはどこかでつながっているのだ。きっと。
 あ、また、考えはじめている。考えはじめると、すぐ行き詰まる。

カーン、カーン、

 これが聞こえる。その音が私には聞こえた。そしてその瞬間、夜の街が見えた。それが正しいか正しくないか、それはわからないが、正しかろうが正しくなかろうが、その音が聞こえ、そのときの情景が私の肉体のなかにくっきりと存在するなら--逆に言うと、私の肉体が野村の書いたことばのなかに入って言って、そこにあることばを自分のことばのように感じてしまったとしたら、あとは何を書いてもいいのだ。「誤読」していいのだ、と私は感じている。

カーン、カーン、

 これはたしかに「空白」を感じさせる音だ。このとき「空白」は「距離」でもある。つまり、自分のとなりにある音ではない。遠くで、「カーン、カーン、」と鳴っている。
 でも、鳴っているのかな?
 「聞こえてくる」と野村は書いているが、「聞こえてくる」とは書いていない。
 これは大事だなあ。
 もしかすると、その音と「遠く」にあるのではなく、「近く」にあるのかもしられない。「近く」にありすぎて「距離」がわからない。
 このとき「空白」はもっと「空黒」に近づくかもしれない。「空」は「空」ではなく、反対語は何?、「密」かもしれない。「密黒」。こんなことばはない(と思う)が、ふとそんなことばがどこからともなくやってくる。
 こういうことを書くとき、「空白」ではなく「密黒」というようなテキトウな造語をつくりだしているとき、私は、対称といえばいいのだろうか、ものといえばいいのだろうか、外部といえばいいのだろうかよくわからないが、そういうものではなく、逆のもの、つまり「身体」のことをふと思い浮かべている。

カーン、カーン、

 それは夜の街のどこかから聞こえてくるのではなく、自分の身体から聞こえてくるのではないか、とそふ感じる。
 野村も、そういうタイプかな?

カーン、カーン、

とそれは聞こえてくる、何の音だろうと思って耳をすますと、どこ
かに身を隠したかのように、聞こえなくなり、それからまた、耳を
ゆるく保っていると、

 「何の音だろうと思って耳をすますと」というのは「常套句」であるけれど、よくよく読むと不思議な気持ちになる。野村は「耳をすます」だけではなく、何の音だろうと「思って」耳をすます。そうすると、そのとき野村は「思う」ときの肉体の動きも「雑音」として聞いてしまう。「音」を純粋に聞くのではなく、「何の音だろう」という「思い」に対する「答え」を聞こうとしている。「思い」とそれに対する「答え」の方へ、もうひとつの耳が動いてしまう。で、その変な動き、聞こえない「答え」を寄稿とする「ノイズ」に邪魔されて、「カーン、カーン」が聞こえなくなる。
 で、「耳をゆるく保っていると」、つまり「聞く」ことをやめてぼんやりしていると、つまり「何の音だろうと思う」こともやめて放心していると、また

カーン、カーン、

 それは、つまり「何の音だろう」と「思うこと」をやめたときに聞こえる。
 もしそうであるなら、その音は外部にあるのではなく、野村の内部にしかない。もし外部にある音なら、何と思っていようと聞こえてくる。

カーン、カーン、

とそれは聞こえてくる、

 この「それは」もとてもおもしろい。なぜ「それは」と指示しなければならなかったのか。指示することで意識しなければならなかったのか。指示しないと存在しないからかもしれない。それは、つまり、その音が外部にはなく、野村の内部にあるからだ、ということの証拠にもなる。
 あ、私は、また考えはじめている?

 うーん、考えると、テキトウに感じるは明確につかいわける(?)のがむずかしいが、考えるのはやめよう。感じよう。感じたことを書こう。
 
 人はだれでも自分の「内部」にあるものしか理解できない。「外部」がどうやって内部に入ってくるのかわからないけれど、たぶん、知らず知らずにだろうなあ。なにかを繰り返しているうちに、知らず知らずに、受け入れるともなく受け入れているものが内部にたまってくる。そして、それがある日、突然、結晶する。
 たとえば、「カーン、カーン、」という音のように。その「音」に意味はあるか、ないか、まあ、聞こえたということは、意味になろうとするものがあるということなのかもしれない。
 こういうことはだれにでもある、と野村は断定して、この詩を次のようにつづける。

(1933年9月12日、
ロンドンのとある十字路でのこと、
歩道からサウサンプトン・ローへと足を踏み外した物理学者、
レオ・シラードの頭のなかで、突然、
群れ立つ鳩のように、
暗い未来を予想させる深刻なヴィジョンが閃いた--

《奴らを高く吊るせ》

 野村の「カーン、カーン」はレオ・シラードの《奴らを高く吊るせ》である。で、それを感じた瞬間から、野村はレオ・シラードになってしまう。私が「カーン、カーン、」を読んだ瞬間、野村になってしまったように。
 「空白」はそんなふうにして消えてしまう。
 「カーン、カー、」は街のどこから化ではなく「レオ・シラード」から聞こえてきたのだ。そのとき野村とレオ・シラードのあいだにあるのは「空白」ではない。かといって「空黒」でもない。
 何だろうなあ。
 あ、また考えはじめたね。私は。
 考えたことは振り捨てよう。ただ、野村とレオ・シラードが「一致」したことを感じよう。「カーン、カーン、」と《奴らを高く吊るせ》が重なり、結晶したのを感じるままに、感じよう。
 そこから「意味」を考えるのではなく、「意味」になりそうになったら、それを振り払って感じよう。

 なぜ、こんなことをしつこく書いているかというと。
 実は、この詩は、このあと「東北大震災(福島原発事故)」へとつながっていくのだが、その「つなぎ目」に「既製の思想(思考)」が侵入してこないように、激しく抵抗している。「流通言語」に頼って「考える(誰かの考えに引きずられ、染まってしまう)」のではなく、考えることを拒絶して「感じる」ことに徹しようとしている。
 考える、それをまとめるのはあとでいい。もっとあとにならないと、そういうものは肉体を正確にくぐりおわらない。阪神大震災のとき季村敏夫は『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれる」と書いたが、「考え」と遅れてしかやってこない。遅れを、私たちは待たなければいけない。待っていないと「考え」は「肉体」になるまえに「流通言語」として誰かに利用されてしまう。そういうことに、野村は、ここで厳しく抵抗している。
 あ、また私は考えはじめているね。
 なぜ、こんなふうに考えはじめてしまうかというと、きょうの「日記」にあてる予定時間をオーバーしてしまって、私が感じることをやめて、しまったからだ。
 まあ、いいか。

 この詩は「東日本大震災後」に書かれた、もっとも印象的な(つまりもっとも正直な)詩のひとつであると感じる。「東日本大震災」を野村は「カーン、カーン、」という音で実感した。そのことが、読みはじめた瞬間からわかる。わかるというのは、変だけれど、予感してしまう。この予感は、読み進むと「感じ」ではなく「考え」になる。そして「意味」にもなっていくのだが、私はそんなぐあいにこの詩を動かしたくないので、つまり、予感に引きずられて動いたということだけを感想として書き残したいので、あえて最初の2ページ分だけを引用して、そのときに動いた「感じ」だけを書いてみた。
 



風の配分
野村 喜和夫
水声社
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野村喜和夫『難解な自転車』

2012-09-26 10:29:47 | 詩集
野村喜和夫『難解な自転車』(書肆山田、2012年08月30日発行)

 野村喜和夫『難解な自転車』は難解な詩集なのか。そうあってほしいと思って野村はタイトルをつけたのかもしれない。「難解」というのは、わからない、ということだけれど、では何がわからないとき難解というのだろうか。
 「現代詩講座」の受講生がいると思って、いきなり質問してみようか。

<質問>「難解」ということば、知ってますか?
<答え>知っています。
<質問>どういう意味?
<答え>えっ、むずかしい、という意味です。
<質問>何がむずかしいのかな。
<答え>書いてあることばが私がふつうに使っていることばと違って、高級。
<答え>意味というか、結論がわからない。答えがわからない。
<質問>もし、書いたひとが目の前にいたとしたら、質問できる?
<答え>どういう意味ですか?
<質問>わからない部分を取り上げて、どんなふうにわからないか言うことができる?
<答え>できないと思う。どこがわからないか、わからない。

 私は、まあ、そういう「答え」が返ってくるまで質問をつづけると思う。「難解」というのは、実は、質問の仕方がわからないということだと思う。自分には何がわかっていて、そのわかっていることと、いまここに書かれていることばのわからない部分がどうつながっているのかはっきりしない。どこから質問をしていいのかわからない。
 変な言い方になるが、質問することができれば、そこからおのずと答えがうまれてくるんじゃないかと思う。答えは読んでいることばにあるのではなく、読んでいる読者の「肉体」のなかにあるのだと思う。
 では。
 野村の詩に対して、どんな質問ができるだろうか。うーん、とまどうなあ。巻頭に「(どこかで墨が匂ふね)」という詩がある。行わけで、その活字の並べ方がとても手が込んでいる。
 野村はどう答えるかわからないが、まあ、野村との一人二役をやってみよう。

<質問>なぜ、こんなめんどうくさい形にしたんですか?
<野村>したかったから。

 あ、これでは何も始まらない。質問の仕方が間違っているんだね。私は質問の仕方をしらなかったことになる。難解以前の問題である。

<質問>旧仮名遣いで書かれているけれど、なぜ旧仮名遣いにしたんですか?
<能村>したかったから。

 うーん、また行き詰まってしまった。

<質問>途中に、
   基
   (とか
   墓
   という行が出てくるけれど、これは何がいいたいのですか?
<野村>ただ書いてみたかったから。

 あれっ、また同じだ。
 たぶん、どこまでつづけても私は同じ答えしか受け取ることができないだろうと思う。私の質問のしたかは、では、どこが間違っているのだろうか。
 これは簡単。 
 私は私の「肉体」のなかにあるものをさらけだしていないからだ。最初の質問こそ「めんどうくさい形」ということばのなかに私が出てくるけれど、これははしょりすぎ。ほんとうは、たとえば次のように質問しなければならない。

<質問>この詩をワープロをつかって引用しようとすると、私は空白を数えないといけない。野村さんも空白を数えながらワープロで書いたんですか?
<答え>(省略)
<質問>私は一行一行数えるのがめんどうくさくて、全部打ち終わってから空白を調整したのだけれど、野村さんは最初から空白を意識しながらことばを書き進めたんですか?
<答え>(省略)
<質問>書きはじめた行が予想より長くなって、尻がそろわないときはどうするんですか? 空白を増やしたり減らしたりして調整するんですか?
<答え>(省略)

 こんな質問で、いったい何がわかるのか。見当がつかないでしょ? いや、私も見当がつかないのだけれど、そういうふうに質問してみると、私は、どうも書かれてることばと「空白」についてこの詩から何かを考えようとしている自分を発見する。
 つまり。
 ここから「誤読」が始まる、「誤読」できることを発見する。詩なんて契約書ではないのだから、勝手に読んで、勝手に「楽しかった」と言ってしまえばいいのだ。そうすれば作者に勝つことができるおもしろい体験なのだ。まあ、別に勝たなくてもいいのだけれど。作者をびっくりさせてやればいいだけのことなのだけれど。作者は読者をびっくりさせようとして書いている。そうであるなら、読者はびっくりするだけではなく、そのびっくりで作者に仕返し(?)をすればいいだけである。仕返しこそが「お礼」なのだ。
 で、どんな「誤読」をするか。
 空白を数えながら詩の形を調整すると、ここに書かれていることばがどれもこれも空白と向き合っていることがわかる。
 で、その「空白」って何?
 ここからは野村には質問しないで、自分の肉体のなかにある「空白」を探しにゆく。まあ、わからないね。「空白」というだけでは、自分の肉体のなかにどんな空白があるか、というのは抽象的すぎて、自分自身に対する質問にもなりえていない。
 で、少しだけ(ほんとうの形は引用とは違うのだけれど)引用してみる。

           逢ふやうに
    すすむまなざし
           (退屈なのね
        ちがふ
   まれであり束の間
           創世
           (でも

 空白を「目印」に、ことばがぽきっぽきっと折れて次の行へ動いていく。
 ここから私は、そうか「空白」というのは「飛躍」と関係があるのだな、と考えはじめる。つまり、「誤読」をはじめる。いまの私の書いていることがそのまま「空白」を含んでいるのだが--つまり言いなおすと、何かを書こう(言おう)としてことばを動かしている。ところが、そのことばをうまく「論理的」に結びつけることができない。きのう読んだ樫田の詩のように「だから」というような「理由の述語」でことばを結びつけていくことができない。下からことばを積み上げて「答え」という建物を造るのではなく、ふいにこれが答えだと思ったものをつかんでしまう。土台抜きで(論理的な道をへずに)、直感として答えをつかんでしまう。それから、もし理由を見つけることができればそれを書く。そんな具合に飛躍する。そういうことって、あると思う。
 かなりの脱線、余談になるのだが、私は小学校のとき「鶴亀算」が得意であった。問題を読むと、その場で答えが出てしまう。私は自分の答えがあっているがどうか、試し算で確かめるだけ。そういう感じ。下から論理で積み上げるのではなく、上からこれでいいのか論理を確かめる--そのときの飛躍のようなもの。
 空白は飛躍である、飛躍のジャンプ台である--と感覚の意見に従って、書いてみたりする。
 それから「旧仮名遣い」と空白の関係も考えてみる。
 「逢ふやうに」「逢うように」--このふたつを比較すると、旧仮名遣いの方に空白がある。「音」の空白がある。別な言い方をすると、旧仮名遣いのときは、私の声帯は動かない。喉は動かない。ことばが「音」、あるいは喉、あるいは耳を通らずに動く。それはほんとうは音も喉も耳も通っているかもしれないが、早すぎて認識できないのかもしれない。早すぎて「空白」を通りすぎた、あるいはショートカットした、という感じ。
 それはまた別なことばで言えば、旧仮名遣いでうごくことばは、口語の仮名遣いとは違う時空間を(空白を)動いているために、そこに「空白」を感じるということかもしれない。
 でも、それはほんとうに「空白」?
 違うかもしれない。その存在を知らないために「空白」と思っているだけで、ほんとうはそこは「豊かな」時空間かもしれない。
 そうだとすると、野村の書いている詩の形--その「空白」は、そこに書かれていることば以上に「豊かな」何かをあらわしているのかもしれない。
 でも、それって、抽象的すぎる。
 ほかに何か言えない?
 考えてみよう。調べてみよう。

        基
        (とか
        墓

 なんというか、ばかばかしい感じもするのだが、「基」と「墓」という漢字は字面の感じが似ているねえ。(だじゃれです、もちろん。)
 さらに、

        基
        (とか
        墓
 (とか思ひ描くと
   どこかで墨が
         匂ふね
           (ちがふ
     すすむまなざし

 あれっ、「基」「墓」は「墨」にも似ていないことはないなあ。
 何なんだろう。
 「まなざし」ということばがあるが、視力は、不思議な空白を飛び越えて、「基」「墓」「墨」を渡り歩く。そしてそのとき野村の肉体は「匂ふ」を引き寄せる。「基」「墓」「墨」を引き寄せるのは視覚(視力)なのに、それを統合するのは嗅覚(匂ふ)なのだ。この瞬間、ふっと、「肉体」が見えない? 感じられない?
 何か名づけることのできない「空白」をかかえこんで「ひとつ」になっている肉体が感じられない?
 ここから先を書いていくのは、またまためんどうくさいので、私のいいかげんな癖をそのまま拡大して結論を言ってしまうと。
 あ、野村は「空白」と向き合いながら「肉体」というもの、いまここに「私がある」ということを楽しんでいるのだなあ、と感じる。
 この「遊び」についていく? やめる?
 野村なら、逆な形で質問することになるね。

<質問>この「遊び」についてくる? やめる?





難解な自転車
野村喜和夫
書肆山田
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樫田祐一郎「告ぐ」

2012-09-25 10:36:32 | 詩(雑誌・同人誌)
樫田祐一郎「告ぐ」(「DIONYSOS」35、2012年08月30日発行)

 樫田祐一郎の文体はていねいである。ことばを叩ききって、その断面の力で訴えるということをしない。むしろ断面を隠す、と言った方がいい。そして、その隠すを「説明する」あるいは「補足する」という動詞に言いなおすとき、樫田の「ていねい」の意味が見えてくる。
 「告ぐ」の書き出し。

受動態は優しさをいつわるから気をつけなさい。

 「受動態は優しさをいつわる」と言い切った場合、そこに思想の断面があらわれる。「いつわる」だけでは、その指し示しているものがはっきりとはわからない。はっきりとはわからないけれど、それはことばを激しく動揺させる。まるで、暗闇のなかでふいに鏡を突きつけられて、「ほら、これがおまえの顔だ」と言われたような感じだ。たしかにそうだとわかる。けれどこのわかるは「頭」で整理できるわかるではない。ほかのことばに言い換えることができるものではない。ことばにならないが、たしたにそれを「肉体」が覚えている--その覚えているを刺激する「わかる」なのである。
 だから(?)、ふつう、詩は「受動態は優しさをいつわる」で終わる。けれど、樫田はそのあとに「から気をつけなさい」とつけくわえる。
 「いつわり(いつわる)」に気をつけなければならないのは現実世界の常識である。「おれおれ詐欺が横行している」と言えば、それは「だから気をつけなさい」を含んでいる。ほんとうは言う必要がない。気をつけなさいまで言わないとわからないような人は、きっと「気をつけなさい」と言ったところでだまされる。これが現実というものである。
 そうしてみると、「気をつけなさい」は誰に対することばになるのだろうか。
 相手ではない。自分自身に向けて言っているのだ。樫田のことばは自分自身に向かっている。そこに「ていねいさ」がある。他人に向けて言うことばはていねいである必要はない。他人なのだから、そのことばをどんなふうに理解するかはその人の勝手であり、そういう勝手な人間には途中でことばを叩ききって、あとは知らないと言う方が簡単でいい。あとは自分で考えなさい。あんたの責任だよ、という具合である。
 でも自分に対しては、そういう具合にはいかないねえ。ことばは常に反復し、肉体にしみこませないといけない。「受動態は優しさをいつわる」のなら、どうすべきか。気をつけないといけない。こういうとき、「受動態は優しさをいつわる。気をつけなさい」という言い方がある。「から」を省略する言い方である。現実は、それでいい。その方がいいか。短く言えるからね。その方が強く響くからね。でも、樫田は「受動態は優しさをいつわるから気をつけなさい」と言う。ここに、さらにもう一つの樫田のていねいさが見える。「論理的」である。
 この「論理的」というのは、しかし、変なものである。「から」があろうがなかろうが、そこには「論理」というものはある。「受動態は優しさをいつわる。気をつけなさい」という文章が、一文ではなく、ふたつの文章から成り立っている。そこに「論理」はない。あるのは「飛躍」だ、という人があれば、それはその人の「肉体」がどうかしている。「論理」というものは、わざわざ「論理的ことば(理由を説明する述語)」を通り抜けないと論理にならないと思う人がいるなら、それはもう「頭」でことばをつかみとることしかできない人である。
 だんだん書いていることがめんどうくさくなってきたのではしょってしまうが、ようするに、樫田はほんとうは必要もないのに、特に自分に言い聞かせるなら絶対に必要がないのに「から」という理由づけの述語を経由しながら、ことばを動かす。自分を説得させるのに「論理的」であろうとする。ここに、なんともいえないていねいさがある。
 このていねいさを、樫田は、あらゆることばのと関係に求める。ことばの関係とは、現実の「もの」と「もの」、「こと」と「こと」の関係である。

この声はわたしにだけ届く「のだから」

この目が視るすべてのものはいつか描いたきり忘れてしまった吹きさらしの自画像 「なのだから」

形の死後に残るのは声ではなく切り落としたわたしの指に似てどこまでも形である 「だから」 わたしは諦めなさい

 「……だから」を補わないと、樫田はことばを動かすことができない。それに気がつくと、この詩はまた違ったものも見えている。

受動態は優しさをいつわるから気をつけなさい 繃帯を巻いたままのわたしの手が自画像を描く 湿った暗室のなかで 殖えてゆく横顔に二人称で呼び掛けることへの欲望を 下腹部に宛てがうナイフの背で滅ぼしながら絶えず わたしたちの交信を対話と錯誤する危うさを知りなさい 口に含んだつめたい鉱水がおりてゆく昏い喉から骨をつたって この声はわたしにだけ届くのだから そして この目が視るすべてのものはいつか描いたきり忘れてしまった吹きさらしの自画像 なのだから あるいはそれらは表面をことごとく引き剥がし わたしがきみと呼べるものを捜しあばくとしても あらわになった黒土のうえ最後に見出すものは霜におかされ青褪めた稲穂でしかない 窓の隙から燈をふるわせ わたしの背骨をなぞるわずかな風がつくる盲斑の痕のような背後のひと その輪郭のほころびから 呼ぶ声 この部屋へと降りそそぐ遠い声を 疑いなさい

 ここには「から」がいくつも絡まっているが、この絡まりあいに、さらに「から(だから)」を追加することができる。

受動態は優しさをいつわるから気をつけなさい 繃帯を巻いたままのわたしの手が自画像を描く「から」 湿った暗室のなかで 殖えてゆく横顔に二人称で呼び掛けることへの欲望を 下腹部に宛てがうナイフの背で滅ぼしながら絶えず わたしたちの交信を対話と錯誤する危うさを知りなさい 口に含んだつめたい鉱水がおりてゆく昏い喉から骨をつたって この声はわたしにだけ届くのだから そして この目が視るすべてのものはいつか描いたきり忘れてしまった吹きさらしの自画像 なのだから あるいはそれらは表面をことごとく引き剥がし わたしがきみと呼べるものを捜しあばくとしても あらわになった黒土のうえ最後に見出すものは霜におかされ青褪めた稲穂でしかない 「だから」 窓の隙から燈をふるわせ わたしの背骨をなぞるわずかな風がつくる盲斑の痕のような背後のひと その輪郭のほころびから 呼ぶ声 この部屋へと降りそそぐ遠い声を 疑いなさい

 そして、こうやって「から(だから)」を補ってみると、樫田のことばの運動は「理由の述語」というよりも、世界を合わせ鏡のように向き合わせる装置のように見えてくる。「自画像を描く」ことと「暗室のなかで」「横顔」が「殖えていく」こととは無関係であるはずなのだが、樫田はそこに「理由」にならない理由をおしつける形でことばを動かす。そしてそれが理由にならないがゆえに、つまり樫田の肉体の中だけで納得できる理由であるから、ここでは「から(だから)」が省略されている。
 「稲穂でしかない」と「窓の隙」のあいだの「だから」も同じである。そこにあるのは「理由」ではない。
 では、それは何なのか。樫田が詩人であるがゆえに見てしまう断絶したイメージなのである。断絶した「いのち」なのである。そして、このとき「から(だから)」は実は省略されているのではなく、「湿った暗室のなかで……」という文章、あるいは「窓の隙から……」という文章そのものが「から(だから)」なのである。

繃帯を巻いたままのわたしの手が自画像を描く「から」 湿った暗室のなかで 殖えてゆく横顔に二人称で呼び掛けることへの欲望を 下腹部に宛てがうナイフの背で滅ぼしながら絶えず わたしたちの交信を対話と錯誤する危うさを知りなさい

 これは、

繃帯を巻いたままのわたしの手が自画像を描く「から」 わたしたちの交信を対話と錯誤する危うさを知りなさい

 と言うことなのだ。自画像を描くとき、わたしはわたしを見る。この目の形、鼻の形は違うんじゃないか。(自画像が、絵ではなく、自分の「行動」であるときはまた別の形になるが、そこまで書いていると複雑になりすぎるので--ほんとうは「行動」のことを書いているのだけれど、絵として「省略形」で書いておく。)そういうやりとり(交信)を自分自身との「対話」と錯誤する。それは、危ういことである。
 「自画像を描くこと」は「自己対話(自省?)」と「錯誤すること」「危ういこと」である。
 「こと」が重なり合う。
 樫田は世界を、たぶん、こんな具合に「こと」の重なり合い、重なりながらひとつの運動を形成しているものと見ていることになる。「こと」のなかには、何かしらの「理由づけの述語」がある、と感じ、それをまさぐっている、と言えばいいのかもしれない。
 これはこれ以上書くとまた面倒くさいことになるので、あとは省略。

 あ、最後の方に、

わたしの手に繃帯を巻いたのは誰か どんな傷が 布の向こうで膿みはじめているのか

という魅力的なことばがあったこ。つけくわえておく。


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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中本道代『中本道代詩集』(3)

2012-09-24 10:01:05 | 詩集
中本道代『中本道代詩集』(3)(現代詩文庫197 )(思潮社、2012年08月31日発行)

 詩人は変化する。これは詩人でなくても人間は、ということになるのだろうけれど。つまり画家は変化する、音楽家は変化する、でも通用するものであり、そのことは問題にしなくてもいいのかもしれない。でも、私は問題にしたい。
 私はピカソが大好きだが、ピカソは作風をめまぐるしく変えた。けれど、これは私には「変化」には感じられない。描きたい(つくりたい)という欲望と、できあがってしまったものではないものへ動いていくエネルギーが変わらないからである。
 詩人の「変化」、ときどき私にはわからないものがある。どうしてこんなふうになるのかなあ、と考えたとき、つっかかってしまうものがある。
 中本もそのひとりである。私は中本の「三月」のような作品が好きである。どこかに「いのち」というものがあり、その「いのち」が中本を通って、いま、ここにあらわれているという感じがする。ことばはまだやわらかくて、現代詩の「詩的言語」として流通しているものからは遠い。遠いけれど、その分、まだ汚れていない「いのち」とつながる豊かさがある。
 それがだんだん「流通言語」化していく。
 「祝祭」(『四月の第一日曜日』)の書き出し。

這う虫も飛ぶ虫も
ひとときの祝祭のなかにある

 たとえばこの「祝祭」。これは、どういう意味だろう。ギリシャ神話(?)でいう「バッコス」に通じるものだね。「アポロン」ではなく、「バッコス」。ロゴス的ゲシュタルトではなく、パトス的カオス。そういうものを書こうとしている、そういうものを中本は「読んだ」のだとわかる。そして、そこからことばをひっぱってきたということはわかる。「現代」の「流通言語」を勉強し、自分のなかに取り入れている。
 それはそれでいいのだろうけれど、やっぱり、私はいやなんだなあ。こういうのは。「いのち」に背いている、という感じがする。
 中本にもそういう気持ちがあるのかもしれない。2連目で「祝祭」を言いなおしている。

長すぎる昼に
身をふるわせて徐々に皮を脱いでゆく青虫
それは激しいよろこびのようにも
苦痛の極まる動作のようにも見える

 「激しいよろこび」と「苦痛の極まる動作」が「同じ」ものとしてあらわれている。ね、パトス的カオスでしょ? 「祝祭」なんて「流通言語」をつかわずに、こからはじめればよかったのにね。

昼のいちばん深いところで
たえきれなくなり
ふいに自分を手放してしまう人がいる

 この3連目の3行は、そのまま「青虫」だね。そうか、脱皮(で、よかったかな? 変態というべきなのかな?)は、いのちの極みで自分を手放すことか、エクスタシーしか、と納得できる。「祝祭」ということばに頼らなくても。
 ことばは学ばなければ新しくならないけれど、学んだあとそれをどう捨てるか、捨ててしまって何が残るか、ということが大事なのだと思う。学ぶというのは、きっと何かを積み重ねることではなくて、新しい何かで自分の「深み」をさらにえぐること、穴をあけること、「いのち」の源流に近づくこと。学んだことで「穴」をふさいだら何にもならない。
 嫌いなものをあれこれ言っても仕方がないので、好きな詩をあげておく。
 「鯉」(『花と死王』)。

都市の汚れた小さな川に
鯉が太り
夕暮れを映してひとすじに
曲がってさらに都市の中心へと
流れていく

小さな川も空を映せば
底なしになり
鯉はおびただしく
川を泳いでいるのか空を泳いでいるのか
わからない眼を見開いている

汚れた川と
汚れた家々

空が
幾十億度めかの夕暮れを
初めてのように染め上げると

深く巨きな虚無の闇が
どうしても また
宇宙の胎(はら)から拡がってくる

 鯉は「川を泳いでいるのか空を泳いでいるのか/わからない眼を見開いている」というようなことは絶対にありえない。鯉は空を泳いでいるとは思うはずがない。そう思うのは、鯉を見ている「私(中本)」であり、そう書くとき「私」は「私」ではなく、「鯉」なのだ。この詩には「私=主語」が省略されているが、その省略がとても効果的である。
 主語が入れ代わる(混同する)のは「私」と「鯉」だけではない。「川」と「空」も入れ代わるというか、区別がつかなくなる。そこには「もの(存在)」の区別はなく、「場」だけがあり、その「場」のなかで、「いのち」がその瞬間瞬間に「かたち」になってあらわれる。
 こういう運動は宇宙が始まってからのものなのである。「幾十億度」と繰り返されてきたことなのである。ただし、それは「幾十億度め」のことであっても、いつでも「一度め」のこと、つまり「初めて」のことである。
 いいなあ、この3行。
 私たちは「初めて(一度め)」をどうやって体験するだろうか。初めての恋。初めてのキス。初めてのセックス。繰り返しがきかない「一度め」。でも、何度でも「一度め」を目指して繰り返してしまう。求めているのは、何度繰り返しても「はじめて」なのだ。
 最終連の「虚無の闇」はつまらないことばだけれど、その次の

どうしても また

 これが、また、いいなあ。

<質問>「どうしても また」を自分のことばで言いなおしてみてください。
    説明してみてください。

 できないでしょ? 自分のことばで言いなおせない、ということは、心底わかった、とは言えないことになる。けれど、そんなことを言うと「なぜ? 私はわかっている。ただことばにならないだけなのに……」と不満がこみあげるでしょ? ことばにできなくても「わかる」ということはある。ことばにできないのは、私の質問が「一度め」だから。「初めて」だから。同じような「質問」を中本の詩を読みながら繰り返していくと、「どうしても また」の「どうしても」がだんだん「肉体」のなかにたまってくる。「どうしても」ほかのことばにならない。けれど「どうしても」を「どうしても」わかりたい。
 ことばが、ことばになろうとして動きはじめる。





春分―中本道代詩集
中本道代
思潮社
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アスガー・ファルハディ監督「火祭り」(★★★★★)

2012-09-23 09:32:41 | 映画
監督 アスガー・ファルハディ 出演 ヘディエ・テヘラニ、タラネー・アリデュスティ、ハミド・ファロクネシャード

 映画の最初の方にとても幻想的なシーンがある。主役の少女がバスに乗る。バスの窓を開け、手を半分出して風にあてる。その手が窓ガラスに映り、蝶のように見える。窓には街の風景が映っている。少女の様子はわからない。ただ手だけが風を楽しむ蝶のように動く。やがてつかれて窓の枠をつかむ。このときも手は窓に映って対称形のままである。やがてバスはトンネルに入っていく。このときもやはり鏡に映った手のように映像は対称形である。
 この映像がおもしろいのはただそれが対称形であり、蝶のように見えるからだけではない。ずーっと見ていると、窓から飛び出した手、つまり現実の手と窓に映った手のどちらが現実かわからなくなる。窓の内部にほんものの手があり、それが外部に映っている、という具合に見えてくる。外部の何に映るのか、というとそれはわからないのだが、つまりことばにすることはできないのだが、あえて言えば、少女ではなく観客、つまり私に映っているという感じなのだ。
 あ、きっとこれでは何のことかわからないね。
 言いなおそう。窓のなかには姿は見えないけれど少女がいる。その少女は街を眺めながら手を風に遊ばせている。これから働く街。そこにはどんな仕事があるのだろう。どんな人がいるのだろう。わからない「不安」が少女をとらえている。それは期待でもあるだろうけれど。その少女が実際に感じていることは「見えない」。けれど、それが見えるような気がする。想像してしまう。「想像された少女」というのは、ほんものの少女ではなく、私のなかに映し出された少女である。ちょうどガラス窓に映っている手のように。
 窓からさしだされた手、風にふれる手がほんものの手なのに、そしてその手にも表情があるのに、私は窓に映った手の方に激しくこころをひかれるのだ。その窓に映った手こそ少女なのだ、ほんものの少女なのだと思ってしまう。そしてこのとき「ほんもの」というのはより少女に「近い」、少女の「内面」でにふれているという意味である。街と手を映す光のせいで座席にいる少女は見えないにもかかわらず、私は少女を見ている気持ちになる。
 これはほんとうに不思議だ。なぜといって、その手は少女のものではないかもしれないからだ。私がかってに少女の手と思っているだけで、ほんとうはまったく別な客の手かもしれない。そうではない、という保証はどこにもない。窓からチャド(というのだっけ?)が一部はみ出し風に揺れるが、それだけでは少女とは断定できない。

 どうして冒頭の一分くらいの映像にこんなにこだわるかというと。
 この映像、この幻想的な美しさのなかに、この映画の全てが凝縮しているからである。少女は「家政婦」として派遣された家で、夫の浮気を疑う女に会う。夫が浮気をしているというのは女の妄想なのか。それとも夫はほんとうに浮気をしているか。「真実」はあるのだが、それは隠されている。少女は、ちょうど窓からつきだされた手を見ているような具合である。その手の向こう側、バスの内側には「ほんとうのこと」があるのだが、それは見えない。見えないのに、つきだされた手そのものが見えて、それを「ほんとう」と思ってしまう。
 そして、ここからがさらに幻想の国イランだなあ、と思わせることになるのだが、人はそれぞれ「ほんとう」をかかえているのに、自分のかかえこんでいるほんとうよりも、少女が映し出している「現実」をほんとうと思ってしまう。それを「ほんとう」にしようとして動き回る。少女の「ほんとう」にすがって動きはじめる。
 鏡像、虚像、いわば虚構にあわせて自分の生活をととのえはじめる。少女は夫婦が朝の四時にドバイ行きの飛行機に乗ることを知っているが、それを知った経緯について嘘をつく。その嘘にすがって、男と女が一瞬「和解」する--そのスリリングな緊張。それに少女自身もおびえるような感じになる。
 これはおもしろいなあ。

 あ、補足。
 鏡というか、鏡像というか--それが哲学的に利用されているのだが、少女が家政婦として働く家を最初に訪問するとき、窓ガラスが破れている家を見る。破れたガラス窓を見る。これはとても象徴的だ。その窓は鏡ではないが、鏡の役割をしている。それを破ったのは浮気を疑われている男なのである。夜、外は暗く内部に光があるとき、ガラスは鏡のように部屋の内部にいる人を映し出す。男は、そこに映し出された自分の姿を破ったのである。映らないようにしたのである。
 これは一種の「ネタバレ」というものなのかもしれないが、最初の10分、映画を集中してみれば、この映画で起きることは全て暗示されていることがわかる。そういうていねいさが、いたるところに張り巡らされ、すべてをしっかりと安定させている。
 それにしてもイランの女性はきれいだねえ。目が美しい。そして唇が美しい。夫の浮気を疑う女の妹を演じたレイラ・ハタミ(あっている?)は「別離」で主役を演じた女優だけれど、この人の目と唇はほんとうにいいなあ。会いたいなあ。
                 (2012年09月22日、t-joy 博多、スクリーン2)



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Happinet(SB)(D)
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石毛拓郎「イワシの頭」

2012-09-22 11:05:39 | 詩(雑誌・同人誌)
石毛拓郎「イワシの頭」(「パーマネントプレス」夏の号、2012年07月31日発行)

 石毛拓郎「イワシの頭」には「砂漠の空の下では、若者が不自由と闘っている」というサブタイトルがついている。で、その作品はというと。

おれの頭を銃弾がかすめていった
ふりむくと
声も出さずに
一人のおんなが倒れた
見覚えがある
かつてイワシの頭を
素手でもぎとるアルバイトをしていた人だ
はっきりと覚えている
目の前に倒れているおんなは
いつも年少のおれに猥褻な情句を
浴びせてくれた人だった
銃が荒れ狂っている
銃が泳いでいる
身元も問わず
呆然と立ちすくむおれの足元で
ピクリともしないおんなは
イワシ臭いコンクリの床に釘づけである

 なぜサブタイトルがついているのか。そんなことは、めんどうくさいのであとから考えよう。サブタイトルがついている、と書き出したのだが、それは実はそんなサブタイトルなんかめんどうくさい、と言いたいためなのである。
 なぜめんどうくさいか--ということは、しかし書いておきたい。私はこういうめんどうなことが好きなのだ。
 サブタイトルがめんどうくさいのは、それをふっとばすくらい「イワシの頭」がおもしろいからである。おれのすぐそばで、おんなが撃たれた? そんな現実って、ある? いまの日本にはありっこない。でも、おんながイワシの頭を素手でもぎ取るということは? そういうアルバイトは? あると思うなあ。おんながすぐそばで銃で撃たれて死ぬなんてことは私は「肉体」では感じとることができないが、イワシの頭を銃でもぎ取るというのは「肉体」で感じとることができる。いやあ、なまなましい。頭をもいで、それから指で腹を裂いていく、というのはしかし別のひとかな? 流れ作業で頭をもぎ取るということだけをしているのかもしれない。そういうとき、おれも同じように頭をもいでいるのだろうなあ。指は血まみれ。そのなまなましさが、「肉体」のなかに生きているものを刺激するねえ。猥褻なことばがどうしたって浮かんでくるだろう。
 この肉体にぴったりくっついている感じがこの詩の面白さであり、そこにぐいとひっぱられる。それをもっと読みたい。--のに、その感じをサブタイトルがじゃまする。これがめんどうくさい感じの原因である。
 石毛にしてみれば、砂漠のある国で戦いがあり、そこではだれもが日常をひきずったまま死んでいく。その日常は、たとえていえばおんなが素手でイワシを頭をもぎ取るような、なまなましい暮らしである。つらくておもしろくもない仕事だけれど、そういうことをやりながら「年少のおとこ」に猥褻なことばを浴びせながら、その反応を楽しむというよろこびもある、というようなものである。つまり、その日常というのは砂漠のある国に特徴的なものではなく、日本でも港のあるところへ行けばだれでも見ることのできるようなものである。日常というのは、時空を超えて繋がっているし、そこで動いていることばも似たりよったりである。それなのに、ある国では若者が戦いながら死んでいく。そして日本ではそうではない。そこから何かを感じたい、考えたいのかもしれない。
 あ、ここで私はまためんどうくさいなあ、と感じている。
 でもまあ、この詩は、そういう具合に、めんどうくさいなあ、と感じながら、そのめんどうくさいことにしばらくつきあってみるという気にさせるから、これは「大成功」なのかもしれないなあ。
 で、石毛の「正解(?)」は、そうやって砂漠の国へと想像力を暴走させながら、そこで「正義」を云々しないことだな。日本の現実へするっと戻ってくる。まあ、ここから日本の現実に対する批判をていねいにくみとろうとすると、まためんどうくさいことになる。だから、そういうめんどくさいことはしない。

かつてイワシの頭は
刃物を使わず素手で捌けといった
その教訓に拘泥しているからか
イワシの頭より銃に畏怖を感じるからか
生気の失せた加工場の若旦那が
猟銃の筒先で
日雇いの年端もいかぬ娘のあそこを
少年の耳目に鮮やかに残っている
イワシの腹に
指を食い込ませながら
おのがじしの殺めたい鬼気を
よほど避けられないでいる
だからよけいに
おれはイワシの身体を持て囃し
血走った眼で
呪いをかけている。

 砂漠の少年の戦いは、こうやっておれの戦いに交錯しながら変化していくのだが。
 そこにパラレルな情動がある、といってしまえばめんどうくさくない「流通言語の批評」になってしまうなあ。そういう危険性があるなあ、と私は一方で感じるから、めんどうくさい、めんどうくさいということばで、この詩を読んでいるひとをめんどうくさい方向へひっぱっていきたいと欲望しているのかもしれない。

 で。

 私の「現代詩講座」なら、ここでこんな質問をしてみたい。

<質問> 石毛が書いている「イワシの頭」を自分の日常にある何かと置き換えてみて。
     「イワシの頭」に一番近いものは何?

 答えられないよね。
 いや、これはね、答えられなくていいんです。私の質問はいつでも答えられないことを聞いているのです。答えられないとわかったとき、そのことばのすばらしさが納得できる。「イワシの頭」と石毛が書いたときの「発見」に触れることができる。イワシの頭をもぎ取るという仕事、そのなかにしかないものが、ふっと肉体に触れてくる。これを「体験」という。肉体にふれて、それから体験にふれる。それを揺さぶってみる。
 そのことばになる前の感じ、それを肉体で確かめるために、私は質問をする。
 「イワシの頭」は極端な例だったかもしれないが、以前河邉由紀恵の『桃の湯』をみんなといっしょに読んだとき、河邉の書いている「ねっとり」「ざらり」を自分のことばで言いなおすとどうなる?と質問したら、やはりみんな悩んでしまった。わかっているのに、ほかのことばが出てこない。言いなおせない。言いなおせなくて考えはじめる。それは自分の肉体をさぐりはじめることだ。肉体のなかに眠っている何かを揺り起こすことだ。そのとき、読者のなかで詩が動きはじめる。
 体験を自分のことばでとらえなおすこと--それがおもしろいのだ。
 めんどうくさいことは、めんどうくさいなあ、こんなことを説明するのはばかげている、言いなおさなくたってそれでわかるじゃないかと思いながら、それでも自分の肉体のなかへことばを探しに行く。めんどうくさいけれど、そうしてみると自分というものがだんだんわかっている。そしてそれがわかると世の中が少し違って見えてくる。その少しに、どれだけ長い間寄り添うことができるか。その「持続力」が問題になる。「持続」していると、つまりそういうことをいつも肉体にかかえこんでいると、その人も少しずつかわってくる。
 なんだか、ずれてしまったかな?
 石毛は「イワシの頭」ということば、いや「体験」、つまり石毛の肉体のなかに残っている「現実」をいま私たちの前に投げ出し、ふれてみろよ、と挑発している。「イワシの頭」を「体験」からひっぱりだしたところが、この詩のいちばんいいところだ。「イワシの頭」をひっぱりだしたら、それが勝手に動いていって、わいせつなことばを浴びせるおんなや、すけべな若旦那、あわれな少女を引き出し、それを見ている「おれ」をもひっぱりだし、動きはじめた。
 いい詩だねえ。




石毛拓郎詩集レプリカ―屑の叙事詩 (1985年) (詩・生成〈6〉)
石毛 拓郎
思潮社
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中本道代『中本道代詩集』(2)

2012-09-21 11:25:21 | 詩集
中本道代『中本道代詩集』(2)(現代詩文庫197 )(思潮社、2012年08月31日発行)

 中本道代の初期の詩では、「春の空き家」もおもしろかった。

道路が光ってまっすぐにのびている
時々自動車があらわれては消える
街はここから遠い
道路き両側に空き家がならんでいる
ま四角な白い家
窓が光りすぎている
家の向こうを少女の一群が歩いている
ことばを持たず
聞こえない音を聞く
なめらかでかたいはだかの少女たちが
つぎつぎにあらわれ
しっかりした足どりで歩いていく
空に磁気が満ち
道路が光りすぎて
人は息をすることができない

 読んだ瞬間、天沢退二郎を思い出した。宮沢賢治を思い出した、と言ってもいい。天沢も賢治も私はそんなに読んだわけではないのだが、ふっと思い出したのである。理由はとても簡単である。何度も出てくる「光る」という動詞のためである。1行目に「光って」があり、「光りすぎている」がその後2回出てくる。
 天沢の「ぼくの春」。

青ざめた泥濘はインクの襞のかなしさ
遠い空のへりではかすかに
高くハモンドオルガンが鳴る
傾いた日ざしはさびれた村道をてらし
右から左から波のように逼ってくる林の散兵隊
そのずっと向こうの
褐色に落ちた高杉のこずえの方で
ほら あのようにハモンドオルガンが鳴る

空はまだ破れたゴム毬のように青い ひるすぎの
この鎮んだ光の風景を
黒びかりのする二つの輪軸を繰りながら
斜めに斜めにめぐって行くもの

 ここに出て来る「光」は中本の「光る」と同じ性質のものである。共通するのは「硬質」というか、もしこんなことばがあるなら「鋼質」あるいは「鉱質」のものである。それは賢治の光にも感じるものだ。
 どこかで中本は天沢と同じように賢治を共有しているのかもしれない。
 こういう誰かと「共有する感覚」は、詩を書いているうちにだんだん薄れて来る。あるいはだんだんその人らしさがあらわれて、影響が消えていくということかもしれないけれど、そして影響を乗り越えて切り開いた境地こそその詩人のものなのかもしれていけれど、私は、誰かの影響が強く残っている詩の方がおもしろいと感じてしまう。
 「共有」と同時に、そこには「ずれ」があって、その衝突がなかなか楽しい。そうか、似たようなことを書こうとしても、どうしても人間というのは違ってきてしまうのだなあ、という印象がそこから生まれる。
 天沢は「ハモンドオルガンが鳴っている」と書いている。これはほんとうにオルガンが鳴っているのかもしれないが、鳴っていないのにそう書いているのかもしれない。つまり、嘘を書いている。で、その嘘を書く理由は、いま、ここでハモンドオルガンが鳴っていたらかっこいい、という欲望があるからだ。「遠い空のへり」がそのことを語っている。「かすかに」がそれを語っている。そんなものは聞こえはしないのである。聞こえはしないけれど、聞こえたらかっこいいから、それをほっするのである。こういう本能の欲望は正直で、絶対的に間違いがない。
 これが中本では「聞こえない音を聞く」という具合になる。聞こえない音であるから、それを聞くというのは矛盾である。つまり、ここにも嘘がある。本能の、欲望の嘘がある。
 で、この本能の嘘なのだが、二人を比較するとちょっとおもしろい。
 天沢は「鳴っている、中本は「聞く」。天沢は「対象」を客観化する。中本は「主観」を前に出す。天沢は「もの」が主役になる。中本は「少女(私を含む)」が主役になる。この違い。
 天沢は対象(風景)を描いている。中本も風景を描いているようだが、そのなかに登場して来る人間になって、そこに入り込んでいる。この登場人物のなかにはいりこむ感じがあるから、同じ硬質(鋼質、鉱質)であっても、なんとなく中本の方がやわらかい。どんな硬さも、中本にとっては「触覚」で確認した硬さである。天沢の場合、離れて感じる硬さ、目で見る硬さである。
 中本の、触覚をとおして確認した硬さは、「なめらかでかたいはだか」ということばのなかに特徴的にあらわれている。「かたさ」とひらがなで書いてしまう。それは単に硬いというより「たしか」ということかもしれない。「しっかり」は「たしか」を言いなおしたものである。その「たしかさ」を共有する形で中本は詩のなかに入っていく。
 だから、「人は息をすることができない」という具合に、肉体まるごと、少女にのみこまれていく。
 天沢は違う。最初の引用ではあえて書かなかったのだが、詩の最後の部分は、次のようになっている。

ほのかにかぎろう麦畑のこっちで
あるいはへんにあかるい松林のはずれで
進んでくる黒いぼくを見るぼく

  (遠く湧きあがる調べは
   葬送マーチよりも青い春の電車だ)

 「見る」。この動詞は、目と対象とが離れていてこそ可能な動詞である。「ぼくを見るぼく」のなかには「ぼく」の分裂がある。
 けれども中本の「息をすることができない」のなかには分裂ではなく「同化」「一体化」というものがある。
 硬質(鋼質、鉱質)を指向しながらも、中本は対象にふれる形で「一体化」をしてしまう。ここから、詩が動く。ことばが動く。




花と死王
中本 道代
思潮社
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中本道代『中本道代詩集』

2012-09-20 11:29:47 | 詩集
中本道代『中本道代詩集』(現代詩文庫197 )(思潮社、2012年08月31日発行)

 「現代詩文庫」のおもしろいところは詩人の若い時代の作品を読むことができる点だ。詩がどんなふうに誕生してきたか、ということが感じられる点だ。
 中本道代『中本道代詩集』。巻頭に「三月」という作品がある。

乳房にやさしいくちびるが
ほしい時がある
わきばらに荒々しいてのひらが
腰にかたついめが
のどにまっしろな歯の列が
ほしい時がある
男 のようなものでなく
それらがばらばらに
ほしい時がある
春になったばかりの
ひるねのころなんか

 全行である。
 あれっ、終わったの? という感じで終わってしまう。まだ何か書きたいことがあるかもしれない。しかしその書きたいことは、このあとにあるのではなく、いままで書いてきたことの中にある。言い換えると行間にある。これがたぶん若い時代の詩の特徴であると思う。
 書きたいことがあるのだけれど、ことばにならない。書きたいことを書かない内に次のことばがでてきてしまう。それを追いかける。
 その結果、行間がひろびろとした感じになる。行間をさわやかな若さが駆け抜けていく。これが実に気持ちがいい。
 で、この詩の場合、それでは行間は何か、というと。

ほしい時がある

 このことばが行間にあふれている。簡単に言うと、「ほしい時がある」を行間に次々に補っても、詩が変わらない。

乳房にやさしいくちびるが
ほしい時がある
わきばらに荒々しいてのひらが
ほしい時がある
腰にかたついめが
ほしい時がある
のどにまっしろな歯の列が
ほしい時がある
男 のようなものでなく
それらがばらばらに
ほしい時がある
春になったばかりの
ひるねのころなんか(に)
ほしい時がある

 で、これから、私は、まあ、「誤読」をしていくのだけれど。「ほしい時がある」ということばを省略するのは、それが中本自身にはわかりきったことであるからだ。書く必要はない。書かなくてもわかりきっている。肉体になってしまっている。ひとはだれでも自分にわかりきったことは省略してしまう。そのために人に自分の思いがつたわらないということが起きるのだけれど、この詩の場合、その「わかりきったこと」はわかりやすいし、2行目に書かれてしまっているので読者に誤解されることもないだろうけれど。
 でも、私は「誤読」したい。
 「ほしい時がある」というとき、中本の「力点」はどこにあるのだろう。「ほしい」の対象は何だろうか。「やさしいくちびる」「かたいつめ」「荒々しいてのひら」「まっしろろ歯」ということば、そしてそれをもとめている「乳房」「わきばら」「腰」「のど」を結びつけると、セックスを思い起こしてしまう。「ほしい」ものは「男」(セックスの時間)である、というふうに感じられるかもしれない。
 この詩が書かれたころ(1980年代なかごろ、と私は推測している)は「女性詩」が話題になった。女性の感受性、肉体感覚--そういうものにセックスはとうぜん結びついてくる。だから、この詩もそういうものを引き寄せているだろうと思う。
 でもねえ。
 ここにはセックスの匂いはぜんぜんしない。中本が書きたいこと、「ほしい」対象(補語)は、男(セックス)とは違うのだと思う。

男 のようなものでなく
それらがばらばらに
ほしい時がある

 「のようなもの」がすでに「男」を否定している。「ばらばら」がさらに「男」を否定している。「ばらばら」の肉体の部位は「男」ではない。ばらばらになってしまえば、それは「いのち」ではないのだから。
 では何が「ほしい」のか。「時」である。ある「時」がほしい。しかし、その「時」を説明することばがうまく見つからない。
 「乳房にやさしいくちびるが」「わきばらに荒々しいてのひらが」「腰にかたついめが」「のどにまっしろな歯の列が」と何度言いなおしても、違う。違うからこそ、言いなおしてしまう。言いなおすしかない。
 中本は、ことばにしようとしてできないものと向き合い、それと戦っている、そのために苦悩している--かというと、そうではない。それを楽しんでいる。言いたいことがあるのにうまく言えない。言おうとすると、なぜかこんな形になってしまう。それにとまどいながらも、そんなふうにことばが動いていく「時間」を楽しんでいる。
 これはいいなあ。
 少し色っぽいことばを並べてみる。きっとこんなふうに書くと、人は色っぽいことを思ってくれる。人にはそう思わせておいて、自分は、それとはちょっと違った場所で、その「時間」を楽しむ。
 そうだよね。詩を書く--詩にかぎらず人に何かをいうとき、ことばを受け取った人がどう反応するかは楽しみだよね。この詩が「ラ・メール」に投稿されたものかどうか私は知らないが、詩を投稿するときの楽しみというのは、こういうことばなら選者は反応するかな?と思うことだ。 詩は読者がいて初めて成立するものである。選者が同反応するか、別なことばで言うと投稿誌の場合は選ばれるかどうかということになるけれど、そういうことをうかがいながら自分のことばがどこまで動くか楽しんでいる。
 そういう時間も含んでいる。
 あ、脱線してしまったかな?
 詩にもどる。

ほしい時がある

 このときの「ほしい」が「男の肉体(セックス)」ではなく、「時」そのものであるというのは、最後の、

春になったばかりの
ひるねのころなんか

 という行に象徴されている。「ひるねのころ」の「ころ」は「時間」を指し示している。「春になったばかりの」というのは「ころ」を特定させるためのことばである。「ころ」へ向かってことばは一直線に動いている。「時間」と「ころ」は同じ意味なのだ。
 「時間」を「ころ」と言い換えてみる。

乳房にやさしいくちびるが
ほしいころがある
わきばらに荒々しいてのひらが
腰にかたついめが
のどにまっしろな歯の列が
ほしいころがある
男 のようなものでなく
それらがばらばらに
ほしいころがある
(それは)春になったばかりの
ひるねの時間なんか(である)

 そうすると、最後の2行が「意味」としてはわかるけれど、なんだか窮屈なことばの動きになる。つまり、無理がある。
 もとの中本の詩がはるかにいいことがわかる。
 「時間」と「ころ」は同じなのだけれど、微妙に違う。その微妙な違いを本能的に感じとり、その違いの中へことばを動かしていく--これが詩の秘密なのかもしれない。こういう違いを本能的に感じ、無意識的にことばを動かせるとき、その人は詩人になっているということだろう。
 私はいま「時間」と「ころ」を入れ換えながら、実はそれが入れ替え不能であることを確かめたのだけれど、こういう「入れ換え不能」のことばこそが詩であり、その人の肉体であり、キーワードなんだなあ。

 「ころ」というのは、とてもあいまいである。「ころなんか」と「なんか」をつけるとさらにあいまいになる。
 私は意地悪な性格だから、

<質問> 私の「現代詩講座」では、この「ころなんか」を自分のことばで言いなおすと
     どうなりますか?

 というようなことをよくやるのだけれど、きっと受講生は困惑する。
 「ころなんか」は「ころなんか」としか言いようがない。
 そこが「詩」何ですよ。
 別なことばで言うと。
 「乳房にやさしいくちびるが」ということばは言い直しが可能。中本自身「わきばらに荒々しいてのひらが」など次々に言いなおしている。けれど「ほしい時がある」はうまく言い直しができず、途中は省略し書かないで、最後になってやっと「ころなんか」という中途半端な感じでその「時」を補足説明している。
 このあいまいな、補足説明と言っていいかどうかわからない部分を、中本自身の生きている場所からひっぱりだす--この瞬間の、肉体のねじれのようなもの、そこに思想がある。
 こういうことばをもっている人は、正真正銘の詩人である。「三月」には、中本の詩人の「正直」な出発点がある。





中本道代詩集 (現代詩文庫)
中本 道代
思潮社
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鈴木孝『鈴木孝詩集』(3)

2012-09-19 11:05:56 | 詩集
鈴木孝『鈴木孝詩集』(3)(土曜美術社出版販売、2012年08月30日発行)

 『あるのうた』には「ある」という文字がゴシックで印刷されている。私の引用では、ちょっとパソコンの操作が面倒くさいので明朝のままにしておく。

あるのうたがきこえる。手をあげてもだれもたちどまりはしない夕暮れが、またぼくの中でひろがってゆく。ビルとビルにはさまれたぼくの手は、空をつかもうとしてあがく。だが、むなしさのみをつかみ、ひきさげるぼくの手をかすめて、あるのうたはきこえあるはいない。

 「ある」は何か。まあ、「ある」ととしか言いようのないものなのだろうけれど、私はずぼらな読者なので、ついつい「ある」を「ある」のまま維持できなくて、ほかのことばに置き換える。つまり、私の想像力が動きやすい何かを「ある」に代入し、それでことばを追いかける。
 私は最初「ある」を「存在する」という動詞、英語で言えば「be」のようなものかな、と思った。「ある」ということをテーマにした「哲学詩(?)」かな、と。それなら、これはおもしろいぞ、と期待した。「空をつかもうとしてあがく」という「流通言語」はつまらないが、

あるのうたはきこえあるはいない。

 このことばの動きはおもしろい。ふつうなら、

あるのうたはきこえ「る、しかし」あるはいない。

 と逆接の接続詞があるべきなのだが、それがない。これは鈴木の中で、歌が聞こえるということと「ある」がいないことが矛盾ではないことを語っている。歌が聞こえる、歌が存在するは、あるが不在であることと矛盾しないだけではなく、鈴木にとっては切り離すことができないものなのである。
 ほう。
 私はここでぐいと引き込まれる。

あるのうたはきこえ「る、ゆえに」あるはいない。

 逆接ではなく、順接。そうであるなら、「あるはいない、ゆえにあるのうたはきこえる」ということにもなる。
 この、逆接、順接は、いわば意識がとらえた「存在形式」である。
 これから、この詩は、どうなるのだろう。
 鈴木の書いているものが「存在形式」であるなら、これから以後はその「形式」を構成する鈴木の「存在論」になるはずである。鈴木の「外部の世界」ではなく、鈴木の「内部世界」になるはずである。「形而上学」か。そんな面倒くさいものを鈴木は詩で書こうとしているのか。
 ぞくぞくしてくる。
 ところが。

長くたれた神がふとぼくをさそう。もりあがった鉄骨の上で、ぼくをつつんだ夕暮れがぽっかりとわれ、あるの形がうかぶ。ある! その時から、あるということばがぼくの中で息づき、だが、ぼくの夕暮れの上には、巨大な街々が倍数倍に繁殖しつづけ、ちいさなあるは、その片隅でこわれたヴァイオリンをかかえてぼくをみあげる。

 「長くたれた髪」とは何の修飾だろう。バイオリンをかかえる「ちいさなある」とは何だろう。私は「ある」を別のことばに置き換えて把握できないかとずぼらなことを考えていた。そして、それが「あるのうたはきこえあるはいない。」で拒絶されたと思ったのだが、あれ、これは変だなあ。鈴木自身が「ある」を「あることば」のかわりにつかっているだけなのか、という疑問が浮かんでくる。
 「女」ということばを代入するとどうなるだろう。「ぼく(鈴木)」は女のことを思っているだけなのか。そして女のことを思っているということを、女ではなく「ある」ということばに置き換えることで、ことばの運動を何か特別なものにしようとしている、いわば「偽装」しているだけなのか。
 うーん。

 あるという言葉がぼくの中で息づき、

 これは微妙だね。「あるがぼくの中で息づき」ではなく、あくまで「言葉」が息づく。「あるのうたは聞こえる、ゆえにあるはいない、ゆえにあるという言葉がある。」ということになるのかな?「あるはいない、ゆえにあるという言葉がある」。ことばは常に「不在」のものを指し示す。存在するものの前でことばは不要である。
 ここには、そういう「哲学」があるかもしれない。
 そうすると、ここで描かれる「ある」、つまり「女」はもう鈴木にとっては「不在」の人間ということになる。俗っぽく言うと、失恋した男が昔の女を思い出して、それを「女」ということばを避けて、「ある」という意味ありげなことばで置き換えることによって、ちょっと変わったことを、目新しいことを書こうとしていることになる。

ふるえるオゾンの中、真蒼な波と波の中、俺はあるのまだ熟れていない乳房を、水あそびした後の桃のようにガブリと喰いついてやりたかった。(略)あるのちいさなてのひらが俺の昨夜の情事のあともそのままてのひらに重なっていることだけが、おれにわずかな理性を保たせていた。昨夜の女のみごとにもりあがった陰部、おれはあるの中にそれを求めている自分に自然さを感じていた。

 「女のみごとにもりあがった陰部」の「女」はなぜ「ある」ではないのか。どんなふうに意識しているのか、どこまで意識して書いているのかよくわからないが、鈴木は区別しているのだ。「女のみごとにもりあがった陰部」と書いているとき、鈴木は具体的なひとりの女(ある)を思い浮かべるのではなく、違う人間の陰部を、いわば「理想の陰部」を思い浮かべている。そしてそれを「あるの中に」求める。具体的な、いま、そこにいる女に求める。
 それを鈴木は「自然」と呼んでいるが、そうなのだろうか。セックスをしていてほかの女(理想の女)のことを思い浮かべるということは、まあ、あるだろうけれどというか、これって変じゃない? これじゃあ女は去って行って当然じゃないだろうか。女は「女という普通名詞」としての存在とセックスしてほしいわけではないだろう。ほかの女はどうでもよくて、ただ「私」という固有の存在とセックスしてほしい。
 何か、間違っていない?

 たぶんこの「間違い」は「ぼく(俺)」にとってかけがえのない存在を明確にするために、「女」ということばではなく、まだことばにならないことば「ある」ということばをつかったところから発生している。恋人が特別な女であり、「女」ということばでは言い尽くせない、だから「ある」という奇妙なことばにすがってことばを動かしていく--というのはいいのだけれど、それが簡単に「女」ということばに置き換えられてしまうようでは「ある」ということばをつかった意味がない。「ある」と「女」との違いを明確にするために「女」ということばを借りてきては、「ある」は「女」に引き込まれ、「その他多数の女のひとり」になってしまう。
 「女」ということばを拒んで「ある」ということばを選んだかぎりは、とんなことがあっても「女」ということばを出してはいけない。「乳房」や「陰茎」という個別の肉体のこだわりは、「女」そのものではない。たとえばデジタル時計にもパソコンモニターにもキーボードにも乳房や陰茎はある。なんとなれば男はデジタル時計やパソコンにもキーボードにも勃起できるからである。そういうふうに動くのが「現代詩」のことばの暴力である。

 で、と私は突然飛躍するのだが。

あるという言葉がぼくの中で息づき、

 この行にでてきた「言葉」が結局「まずい」のだと思う。「ある」と書いたとき、それはまだことばにならないことば、つまり「流通言語」にならない鈴木独自のことばだったが、それはことば以前のものなのだから「言葉」と呼んではいけなかったのだ。「言葉」と呼んでしまったために、鈴木のことばの運動は「流通言語」のなかに組み込まれ、そこで動くしかなくなったのだ。
 「言葉」に頼らず、「ある」は「ある」のまま生き続けなければならない。生かしつづけなければならない。動かしつづけなければならない。動かしつづければ「ある」は「ある」ではなくなる。詩とは、書いてしまえば、書いたことが別なものになってしまうことだからね。「ある」のまま書きつづければ、「女」を超えた、たったひとりの「恋人」に出合え、たったひとつの「恋」を生きることができ、読者をうらやましがらせること(夢中にさせること)ができたのに、と思う。
 鈴木は「頭」がとてもしっかりしている人なのだと思うけれど、その「頭」のしっかりさが「流通言語」と共鳴して、「理解」をつくりあげてしまうようにことばを動かす。どうも、おもしろくなりそこねた作品という気がしてくる。
 「わからなくてもいい、ただ俺の声を聞け」という具合にことばを動かすと、きっととてもおもしろいのだと思うけれど。





Nadaの乳房―詩集 (1960年)
鈴木 孝
ユリイカ
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鈴木孝『鈴木孝詩集』(2)

2012-09-18 10:31:13 | 詩集
鈴木孝『鈴木孝詩集』(2)(土曜美術社出版販売、2012年08月30日発行)

 鈴木の詩を読みながら、鈴木の声を聞きたいと思った。私は「音読」はしないし、朗読についても関心がない。けれど声にはとても関心がある。たとえば「乳房の寝室のなかで」という作品。

貧しさはゆたかな太股をけした
空から光をうばい
くり色にかおった世界の
おちていったすべての夕暮れを
毒のついた爪で柔らかな処女の下腹をかきむしったように
ぼくの胸板にのこした

 とても若い声が聞こえる。それはいまの私の年齢の男の声ではなくて、たとえて言うなら女というものがほんとうに「異」性であることを発見したときの声である。「異」性なのだけれど、「同じ」人間、あるいは「同じ」生き物であると発見したときの声である。そういうことは、たぶんみんな知っている。知っているけれど、あるいは知っているからこそ発見できるものなのだが、その発見の瞬間の声がある。それは書き出しの「貧しさはゆたかな太股をけした」の「貧しさ」と「ゆたかな」ということばの「矛盾」なのかに炸裂している。貧しさと豊かさは反対の概念である。「異」質のものである。けれど、それが愛の瞬間には出合うのだ。そして、それは輝くのだ。「ゆたかな太股をけした」とことばは動くが、そう動いてしまうのは、「ゆたかな太股(太股のゆたかさ)」はけっして消えないからである。消えないものであるからこそ「けした」ということばで向き合わないと、「同じ」質のものの暴走を抑制できない。まあ、抑制できなくてもいいし、抑制したつもりでも、抑制しきれていないのだけれど--そんなことはどうでもよくて、この矛盾のなかで、声が肉体を突き破って動いてくる、その「強さ」がとてもいい。
 だから、その声を聞きたいと思う。

毒のついた爪で柔らかな処女の下腹をかきむしったように
ぼくの胸板にのこした

 この2行の「暴力」とそのあとの「静寂」。その対比から生まれてくる「悲しみ」と「よろこび」。それはことばで書いてしまうとまったく別のものだが、声のなかでは、つまり肉体のことばでは同じものだ。からみあって、ほぐしようがない。同じものと書いてしまったけれど、同じというよりこんがらがっている。そのことに対して、ことばは苛立ち、焦っている。そこに不思議な輝きがある。
 だから、その声を聞いてみたい。
 「意味」を知りたいのではない。「内容」を知りたいのではない。声によって「意味」や「内容」がどう変わるか、ということには関心がない。私は、ただその声を聞いて、声を動かしている肉体のなかにある力に共感したい。それを感じとってみたい。「意味」「内容」は、こういう詩にあっては「体験のかす」のようなものである。そんなものは誰もが「体験」する「意味」であり「内容」である。違うのは、そのときに思わず噴出してくる声である。
 セックスは声でするものなのである。--これは私の「感覚の意見」である。目なんかでセックスはしない。声でする。なぜ、声か。声は耳から侵入し、相手の体のなかへ入っていくからである。相互に侵入しあい、相手の体のなかに触れる。耳でする、と言ってもいいのかもしれないけれど、それでは受け身一方である。やっぱり、声でセックスする、というべきだと、私の「感覚の意見」は断言する。
 いま、この詩を鈴木が読んで、それでは声が聞こえるかというと、まあ、すっかり違った声だろうと思う。だからこそ、声が聞きたい。そして、それがかなわぬことだとわかるから、私は私の肉体に耳をすましてみる。私の肉体のなかに残っている声を総動員して読む。
 そうしてみると、1行だけ、どうにも納得がいかないところも出てくる。

くり色にかおった世界の

 この1行は読むことができない。のどが動かない。これはほんとうに肉体から出てくる声かな?
 もしかすると、鈴木の声には、私が感じている以上に「強い頭」が動いているのかもしれない。肉体でことばを動かす以上に、「頭」でことばを制御する力があるのかもしれない。--これは、しかし、まだ読みはじめたばかりなので、保留しておこう。
 こういうことは鈴木自身も感じていることかもしれない。

ああ それは何であってもいけないのだ
ちいさな果実のほころびの中に帰る夢
果実であってはならないおまえの夢
手折られた片羽根にたえて泣く
ちいさな蝶のちいさな愛
愛であってはならないおまえの死
ただおまえの知で画かれた夕暮れ
おまえの死の唇である全て

 「何であってもいけないのだ」が「頭」のことばを否定しようと懸命に動く。この否定もまた「頭」の動きかもしれないが、それを声の力で乗り越えようとしている。「果実であってはならない」「愛であってはならない」という否定は、逆にそれが「果実である」「愛である」からこそ発せられる。「頭」はそれを「果実」となづけ「愛」となづける。しかし、声はそれを否定しようとする。「一般名詞」であってはならないのだ。鈴木と、そのときの「おまえ」との、「固有の名前」が必要なのだ。
 「固有の名前」「固有のことば」というものは、しかし、そう簡単には手に入らない。それを発見するにはたいへんな時間がかかる。
 しかし。
 声は違う。と、私の感覚の意見は、またここで主張する。声は、それぞれに個別である。鈴木が「愛」というときの声と私が「愛」というときの声は違う。そういう違いが、ほんとうはこれらの行に含まれている。でも、それはこうやって印刷されたものを読むと「違い」が見えない。活字になってしまうと「文字のくせ」もなく、どの「愛」も「同じ」愛に見えてしまう。けれど、声なら違うのだ。
 声にはそのときそのときの「肉体」がある。声を聞くことは肉体を「見る」ことと同じである。遠く離れた場所で、姿を見ずに声を聞くのではなく、目の前に鈴木がいて、その声を聞くとき、それは鈴木の肉体、鈴木の裸を見るのと同じである。つまり、自分が裸になるのと同じである。裸になって、鈴木の声を生きる。鈴木の声が自分の肉体のなかに入ってきて、そこで突き動かす(突き動かされる)肉体になって、自分の声が噴出してくるのを待つ。そういうことをしてみると、とてもおもしろいと思う。
 まあ、しかし、これはいまとなっては無理だね。鈴木と同時代を生きた人が少しうらやましい。この当時の鈴木の声を聞いた人がうらやましい。




泥の光
鈴木 孝
思潮社
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鈴木孝『鈴木孝詩集』

2012-09-17 11:43:42 | 詩集
鈴木孝『鈴木孝詩集』(新・日本現代詩文庫98)(土曜美術社出版販売、2012年08月30日発行)

 鈴木孝という詩人を私は知らなかった。読みはじめてすぐことばの「強さ」に気がついた。「みちゆき」の書き出し。(鈴木は「送り字」をつかっているが、引用では書き改めた。原文は詩集を参照してください。)

深雪の中 沈みかける日はギラギラと 遠くじっと止まり 原罪を閉じ込めたまま動こうとしないトラピストを 残酷に寒気の中に浮かび出す

 「原罪」「トラピスト」ということばから推測すると、鈴木はキリスト教と関係しているのかもしれない。人間以外のものと向き合った体験がことばを「強く」しているのかもしれない。私は宗教について考えたことがないので、私の考えは見当外れかもしれないが……。
 まあ、知らないことを書いてもしようがないので、私の知っていることに関係づけて「強さ」のことを書いてみると。
 ことばが対象のまわりを揺れ動くのではなく、対象に少しでも近づこうとする感じがある。焦点をしぼりきった感じでことばが動いている。「深雪」「ギラギラ」という厳しいひびきが迫ってくる。そして何よりも「沈みかける」と「じっと止まり」という動きの矛盾が--矛盾といっても沈みかけるものが止まるのは運動の一過程で、矛盾とは言えないのだが--ことばの流れを分断する。矛盾によって、ことばが立ち上がる。そうすると、ちょっと変なことが起きる。

原罪を閉じ込めたまま動こうとしないトラピストを 残酷に寒気の中に浮かび出す

 この「浮かび出す」という動詞のつかい方が、私には奇妙に感じられる。
 「主語」は何? 主語が私にはわからない。主語が何であれ、「トラピストを」なら「浮かび上がらせる(浮かび出させる)」になる。私の「文法」では。あるいはトラピストを「呼び出す」という動詞(述語)なら、なんとなく「わかる」。主語はわからないままだけれど、そこに描かれている「運動」がわかる。
 「浮かび出す」という表現自体、私にはなじみがないのだけれど、それを「浮かび出る」と理解していいなら、トラピスト「を」ではなく、トラピスト「が」「浮かび出す(出る)」ということになる。そのとき、主語は「トラピスト」である。
 鈴木はいったい何を書きたいのか。どういうことを書きたいのか、この書き出しからだけでははっきりしない。何か書きたいことがあるのはわかるが、その書きたいことの「内容」がはっきりしない。ただ、書こうとする「意思」がことばを、そういうふうにねじれさせているのだと感じる。書こうとする「意思」の強さが、ことばの「強さ」になっている。そして、それが強すぎるために、意思を、あるいは意識をねじ伏せて勝手に動いている、ということかもしれない。

かつて 愛は私の胸に息づく 誰かを愛さねば 誰かに愛されねば と云う鼓動でした

 2連目の書き出しだが、この「愛の定義」も、「愛」のなかに矛盾というか逆方向のベクトルが動いていて、しかもそれを矛盾ではなく「息づく」という肉体の必然的な動き、本能によって結びつけ、「鼓動」というこれもまた肉体の必然の本能に言いなおしている。何かが省略され、何かが過剰なのだ。
 宗教(キリスト教)に勝手に結びつけて(私はキリスト教徒ではないので、こういうことを気ままにやってしまうのだが)、ここには神が省略されていて、同時に神の意識が過剰にあふれている。神は書かれることはないが、常に鈴木のとなりにいる。鈴木にとって、その神は、すでに鈴木の肉体になっている(思想になっている)ので、わざわざ書く必要はない。だから省略する。省略するのだけれど、「主語」とならずにあふれてくる。
 「神(主語)は」トラピストを寒気のなかに「浮かび上がらせ(呼び出し)(他動詞)」、「トラピスト(主語)」は寒気のなかに「浮かび出る(自動詞)」のだが、それは鈴木の意識のなかでは区別がなくなる。というか、固く結びついてしまって、「造語(?)8」になってしまう。
 省略されているのは「神」ではなく、「神」といっしょにいる「私=鈴木」といった方がいいのかもしれない。
 この強い結合、融合は、次の連でもっと強烈に感じられる。

いくら祈ろうとけっして解かれることのないこの原罪を 皆 何故 まさぐり合うのです 何故 何故 許しの掌 さしのべ合うのです 静かに去ろうとするものを 何故 何故 大きく波立たせるのです

 「なぜ」と書きはじめたら、私は習慣的に「……ですか」と書いてしまう。「なぜ……ですか」と疑問形にしてしまう。鈴木が書いていることも、ふつうは疑問形で発せられるものかもしれない。

何故 まさぐり合うのです「か」

 と「か」を補っても「意味」はかわらないかもしれない。ふつうの人には。
 しかし、鈴木にとっては「か」をつけくわえると「意味」が完全に違ってくる。鈴木は「疑問」など書いていないのだ。一見、そこに書かれていることは「疑問」に見えるけれど、そうではない。疑問なら、それに対する「答え」が求められる。鈴木は「答え」を求めてはいない。もう鈴木の肉体のなかでは答えは出てしまっている。
 「原罪」をまさぐり合うしかないのである。まさぐり合うことを肯定している。「許しの掌(を)さしのべ合うのです」とさしのべ合うことを肯定している。「か」をつけて「疑問形」にしてまうと、そこにはまだ「迷い」がある。鈴木は迷ってはいない。「神」の声を肉体のなかで聞いてしまっている。「神」はまさぐり合いなさい、と言っている。掌をさしのべ合いなさいと言っている。
 その声が聞こえるからこそ、鈴木のこころは尾と聴く「波立つ」のだけれど、それはそういうものだと「神」が言っているのだ。何かをしながら、それでもなおかつ、こころが騒ぐ。乱れる。騒がせなさい。乱しなさい、とそれは「神」が命じているのだ。
 「原罪」を生きる。そのときにこころはさわぎ、乱れるのは、それが人間の生き方だからである。その結果、人間は何を手に入れるか。

ラザロが死したように 私のこの習性の祈りも いつか絶望するのです

 「絶望」を手にいれる。しかし、それが「神」が与えたものなら、絶望するしかないのである。「絶望」できる力が鈴木にはある、と「神」が判断し、それを鈴木の「天命」にしたということだろう。「神」は鈴木に、「絶望」という「天命」を見出し、そうしなさい、そうすればいつも私(神)はあなたとともいる、と告げたということだろう。
 そのことを、鈴木は肯定している。
 これは理不尽な(私のようにキリスト教徒ではない人間から見ると理不尽としか言いようがない)肯定であるけれど、その肯定する力が鈴木のことばを強くしているのだと思った。




泥の光
鈴木 孝
思潮社
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内田けんじ監督「鍵泥棒のメソッド」(★★★+★)

2012-09-16 10:10:24 | 映画
監督 内田けんじ 出演 堺雅人、香川照之、広末涼子

 私は広末涼子という役者が嫌いだ。変に透明ぶっている感じがする。この映画では、しかし、その透明「ぶっている」ところがとてもうまく生きていた。内田けんじはほんとうはどう思っているのかわからないが、こんな馬鹿な女はやってられない、とつきはなして描いている。広末涼子がその女を、この女は馬鹿なのではなくかわいいんだと信じ込んで演じているというか、信じ込もうとしている。あ、「ぶっている」というのは信じ込むということなんだねえ。そして末広涼子は信じ込もうとしているを通り越して、信じてしまっている、というようなところがある。まあ、いいけれど。内田けんじが「信じなさい」と言って演技させているのかもしれない。
 この対極にあるのが香川照之の演技だねえ。香川の演技のおもしろいところは、映画のなかで堺雅人に演技をつける部分に「自分が感じるかどうかはどうでもいいんだ。相手にどう見えるが問題だ」というおもしろいせりふがあるが、まさに、それ。本人がいくら感じようが、見ている人がそう感じなければ意味がない。歌舞伎の伝統がこんなところにふいに出てくるんだね、なんて思ってしまったなあ。
 堺雅人はちょうど中間。地を見せるふりをしながら、どう見えるかも考えているというようなところがある。堺雅人自身の「過去」を「いま」へ噴出させながら、物語のなかへ入っていく。
 ちょっと香川照之と広末涼子の演技を言いなおすと、香川照之は香川自身の「過去」を「いま」へとは噴出させない。「過去」を全部その場でつくりだしてしまう。ストーリーが求めるままに、人物の「過去」をつくりだしてしまう。その気になって「過去」を捏造し、それが見えるように演じる。香川を見ると、あ、こういうひとを見たことがあるとふいに思うことがあるでしょ? 捏造された「過去」が他人の「過去」と重なっているというか、他人の「いま」として噴出してくるのを見た記憶と重なる部分がある。ノートに丁寧に文字を書く、そのときのこだわりのような部分なんかに、それをちらりと覗かせる。文字の「はらい」の部分をていねいに書くところなんかね。その瞬間、不透明な香川照之が、ふっと透明になり、他人になってしまう。
 広末涼子は「私には過去がある、かわいいと言われつづけ、そしてそれをいまここにそのままもってきている。だから、これでいいでしょ?」という感じ。物語のなかへ入っていくというより、つねに「過去」へ引き返す演技である。簡単に言うと「学芸会」だね。「いま(ストーリー)」へは力なく入っていく。だから、今回のように、「まきこまれ型」の役だと、なかなかおもしろい味が出る。「わたし、間違えていないでしょ?(学芸会の主役の演技に関する主張)」。はい、間違えていません。でもねえ、人間の暮らしというか、人間が生きていくことって間違えることでしょ、と私なんかはいいたくなって広末涼子に腹が立つんだけれどね。(←この映画以外のことですよ。)
 で、堺雅人にもどると。堺雅人の役は「まきこまれ型」なのに「まきこみ型」の方にいってしまったために、あっちへいったり、こっちへきたり。そこに「過去」(堺雅人の人格と思われているもの、気弱そうな目、ついついやさしくなってしまう目)を噴出させながら、物語をつくっていくという動きが加わる。でも、これってばれるよね。そして、実際、映画でもそういうストーリーになる。
 また香川照之に話を戻すと。香川照之は、ほんとうは「まきこみ型」。だからまきこまれてしまっても、そこから自分を「まきこみ型」へもっていく。自分を自分でしっかり支配し、次に何をすべきかという方向を打ち立てる。香川自身の「過去」を封印し、求められている「過去」を捏造する。ノートに「自分」はどういう人間か書き込みながら把握しなおそうとする過程が描かれるが、笑ってしまう。実際に香川照之が演技をする前に、そういうことをやっているんじゃないかと思ってしまう。くそまじめを隠して、つまりいったん吸収したものを捨て去って、どう見えるかへと視点を動かすことができる。そして、そのどう見えるかという視点から自分を動かして見せる。
 この映画は、どうやらキャスティングがきまった時点で成功している。3人の人格がうまく交差している。脚本はあとからできたのじゃないのか、と思うくらいである。



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