詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岳こう「桜姫」

2016-02-29 09:57:28 | 詩(雑誌・同人誌)
清岳こう「桜姫」(「兆」169 、2016年02月05日発行)

 清岳こう「桜姫」は変な詩である。

残念ながら どうしても好きになれない人がいるものだ
どこが嫌いと訊かれてもあそこがここがあれもとは挙げられない
透きとおった肌の完全無欠に美しい人だが

 書き出しの三行。「どうしても好きになれない人」なのに、その人をめぐって、このあとも詩がつづくのである。ことばがつづくのである。
 うーん、めんどうくさい。
 嫌いなのかなあ。否定したいのかなあ。否定したいなら、ことばをつづける「意味」はなんとなく、わかる。感情が積極的に動くのもわかる。けれど「好きになれない」という「引いた」感じのとき、ことばって動くかなあ。

自分の領分にかかわることには感情むき出しにして誰にも譲らず
自分にかかわりのないことにはうすら笑いを浮かべ知らんぷり
ひがな日音楽室にこもり 夕陽の頃まで音楽室にこもり
ただ ピアノのうねりあるいははげしい連打と
きりりと結ばれた口元たおやかな指の動きだけが想われ

 しつこくことばを動かしている。「論理的」にことばを動かしている。特に一行目を二行目で言い直すところが、「論理的」で「しつこい」。「好きになれない人」のことを、こんなふうに、わざわざ「言い換え」てまで書くということは、どういうことかなあ。
 「想われ」と書いているのだから、実際に見たこと以外も書かれているのだが、その「見ていない」ことも、何と言うか、「論理的」なのだ。あ、説明的か。
 で、その「説明/論理」なんだけれど。
 「ピアノのうねりあるいははげしい連打」「きりりと結ばれた口元たおやかな指の動き」というのは「定型」という感じがしない? 「しつこく」ことばを動かしているわりには、清岳独自の「発見」がない。「きりり→結ぶ→口元」「たおやか→指(の動き)」というのは、言い古された表現。「しつこく」感じるのは、きっと、それが「定型」になっているからだな。「聞いたことがある」という印象がある。つまり、「聞かなくたってわかる」という印象があって、それが「しつこい」や「うるさい」感じに変わるのだろう。一連目の「透きとおった肌の完全無欠に美しい人」も、同じように言えるだろうなあ。

 これが三連目で変わる。

花の中では山茶花が好き
山茶花の中でも校庭の隅に咲いているのが好き
そのひとすじを見上げれば散りいそぐ花びら
何かのひょうしに桜姫が好きといった好きになれなかった人

 「花の中では山茶花が好き/山茶花の中でも校庭の隅に咲いているのが好き」というのは、ゆっくり読めば、いや、読み返せば「好きになれなかった人」が言ったことばだとわかるのだが、最初は清岳のことばかなあ、と思って読んでしまう。
 「完全無欠の人」は「好きになれない」。けれど山茶花が好き。校庭の隅に咲いている山茶花が好き、と清岳は自分自身が好きなものを語っているのかと思った。「好きになれない人」のことを言い続けるのは、ことばの健康にとってよくないからね。
 ところが、四行目になって、あ、「好きになれない人」が言ったのだとわかる。
 この瞬間、私の「肉体」のなかで、ちょっと奇妙なことが起きる。
 「頭」では、たしかに「山茶花が好き」と言ったのは「好きになれない人」なのだが、「肉体」は清岳がそう言っているように思ってしまう。三行目の「見上げれば」ということば、「見上げる」という動詞が清岳自身の「肉体」の動きを伝えてくる。(この一か所だけ、清岳は「ことば」ではなく「肉体」を動かしている。)その「肉体」の動きが見えてしまうので、これは清岳のことばだと勘違いするのである。
 そしてそのとき、私は、清岳は「好きになれない人」そのものになっているとも感じる。単に「好きになれない人」のことばを繰り返しているのではなく、「肉体」で「好きになれない人」の「動き」も繰り返し、その人になっている。「肉体」が重なっている。
 清岳も山茶花が好きなのかもしれない。「好きになれない人」のことばのなかに、花を見上げるその人の「肉体」の動きのなかに、清岳自身がいるのかもしれない。それは意識してこなかった清岳自身なのだが。
 そういう思い出(というか、いま、思い出していること)があって四連目。

音楽室で発見された時 もはや張りつめた気性は抜けていて
床にはフレアースカートとつややかな髪が広がり
心不全だった
物理の山本先生が悲鳴をあげて泣き
巨体を揺すり床をたたきしゃくりあげ
郊外に瀟洒な一戸建て妻に三人の子持ちに
一体何があったのか

 「好きになれない人」の突然の死が書かれたあと、これまた突然に「山本先生」が闖入してくる。ことばが、突然「山本先生」に集中し、「一体何があったのか」と連が閉じられる。
 これが、不思議。
 不思議だけれど、納得してしまうなあ。変な具合に。
 たぶん「山本先生」と「好きになれない人」とのあいだには、複雑な関係があったのだろう。あるいは単純すぎると言った方がいいか。男と女の、だれもが想像してしまう関係が。
 で、そのだれもが想像してしまう単純な関係というのは、人と人が重なること。これを「セックス」ではなく、もっと抽象的にみつめなおすと……。
 ほら、三連目につながらない?
 「花の中では山茶花が好き/山茶花の中でも校庭の隅に咲いているのが好き」ということばのなかで、知らず知らずに重なってしまった清岳と「好きになれない人」の姿にならないだろうか。山茶花を見上げる二人に重ならないだろうか。
 人間は、誰でも、どこかで重なり、どこかで離れていく。「好き」になったり、「好きに」になれなかったり、「嫌い」になったり、「嫌い」なくせに気になったり。重なり方や離れ方はさまざまなのだけれど。

 「好きになれない人」と書きながら、その人のことを、ことばも「肉体(花を見上げるという動き)」も繰り返して思い出している。
 あの三連目が、とてもいいのだ。
 「好き」になる瞬間、「好き」という動きへ動きはじめる可能性のようなものがあって、それが「追悼」になっている。

校庭の丑寅の隅
冬の光へとまっすぐに小枝を伸ばし
淡い光へと伸ばした小枝の先から
ひたすらに散りいそぐ花びら
散りいそぐしかない咲き方もあって

 この最終連には「追悼」にふさわしい「祈り」が動いている。


九十九風
清岳こう
思潮社

*

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松尾静明「夏日」

2016-02-28 21:07:02 | 詩(雑誌・同人誌)
松尾静明「夏日」(「折々の」37、2016年03月01日発行)

 松尾静明「夏日」はタイトルどおり夏の日のことを書いている。

夏の陽が 地表で白く跳ねている

腹を見せて転がっている蝉に
蟻が群がりはじめる 美味しい死

 この「美味しい死」が奇妙に気になってしまった。
 蝉の死骸に蟻が群がっているのは、私も見たことがある。蝉ではなく、蝶とか、ミミズの場合もある。そのとき、「こんなものを食べてうまいんだろうか」と思うことはあるかもしれない。そんな軽口を友達とやりとりしたこともあったかもしれない。だから、とくに珍しいことを書いているようでもないのだけれど。
 でも、気になった。
 「美味しい死」と松尾が書くとき、松尾は「こんなもの(蝉の死骸)が美味しいんだろうか」という想像を突き抜けている。「美味しい」と思っている。といっても、松尾にとって「美味しい」というわけではない。松尾は「美味しい」と書くとき、蟻になっている。
 で、蟻になりながら「美味しい」というだけではなく、「美味しい死」と言うのだが。
 うーん、ここだな。つまずくというか、気になってしまったのは。あるいは、詩があるとすれば、ここにあるのだな、と思ったといえばいいのか。
 もし私が蟻ならば、「美味しい」とは思っても、「美味しい死」とは思わないだろう。「美味しい食べ物」と思うだけだろう。
 「死」はあくまで、松尾の「概念」である。見方である。
 「美味しい死」と書くとき、松尾は蟻であると同時に松尾自身でもある。
 これが、おもしろい。

 詩人はよくばりなのだ。

 詩は(現代詩は)、かけ離れたものの突然の出合い、ということができる。これはシュールレアリスムの「定義」だが、「芸術」の定義、詩の定義でもあるだろう。
 いま、松尾は「蟻」という「比喩」を借りて、「生きるための欲望(美味しい)」と「死」というものを「出合わせている」。松尾の「肉体」のなかで出合わせ、松尾の「肉体」を詩にしているといえる。
 ただ、こうしたかけ離れたものを結合させたままにするのは、とてもむずかしい。

やがて
すっかり食べつくされた蝉の
残された二枚の羽が
ここに たしかに
かたちがあったことをふるわせて

 この三連目は、何と言えばいいのか、「肉体」を失っている。
 「美味しい死」というのはかけ離れたものの結びつきであり、かけ離れたものの結びつきであるがゆえに「観念」に似ているが(観念がかけ離れたものを結びつけるのである)、「美味しい」というひとことで「観念」を「肉体」にひきずりおろしている。その結果、「死」も「肉体」のできごとになっているのだが、ここでは、そういう「肉体」は存在していない。
 蝉が羽だけ残して食べつくされている。その過程を松尾が見ていたのかどうか、わからない。たぶん、そんな悠長なことはしないだろう。想像したのだろう。蝉が食べつくされたら、羽が残る。(きっと、羽は「まずい」のである。)そして羽と羽との「あいだ」には何もないが、そこには「かたち(蝉の頭、胴体、足)」があったはずである。その「ない」けれど「あったはず」のものを、「かたち」として松尾は思い浮かべている。そのとき「思い浮かべる」の「主語」は「肉体」ではなく「頭」である。つまり「概念」である。(精神と言ってもいいかもしれないが……。)
 「概念」の運動(ことばの動き)は美しい。その美しさのなかには「抒情」が準備されている。
 しかし。
 この美しさは「美味しい死」ほど、強い印象を残さない。
 ここに、「抒情詩」の問題が凝縮されているように感じる。
 「美味しい死」というのは完全な嘘。つまり、それを松尾は確かめたわけではない。おそらく誰も蝉の死(死骸)が美味しいかどうか、確かめることはない。蟻が食べるから、蟻には「美味しい」と想像しているだけだ。蟻に聞いたわけでも、自分で確かめたわけでもいなから、これは「嘘」と言える。
 一方、蟻に食べられてしまった蝉というものがある。これは「事実」。そこには蝉の形があった、というのは「嘘」ではなく「事実」。「事実」であるにもかかわらず、それが「肉体」に響いてこない。その「事実」に「肉体」がどう参加していいのか、わからない。「目」が、「形を見た記憶」が、「蝉の形」に参加するといえばするのかもしれないが、どうも「手触り」がない。「論理がつくりだす事実」という感じの方が強い。「論理」というものが動かなければ、そこに「蝉の形」は存在しない。
 意地悪ないい方をするなら、蝉が蟻によって食べられはじめ、その形がなくなるまで、それを見るひとなど、滅多にいないということである。「肉体」をその場にとどめておいて、変化を「目」で確認するひとなどいない。「肉体」で時間をかけて確認するかわりに、「論理」で「事実」をつくりだしている。
 ここに書かれている「事実」は「事実」だとしても、「虚構=嘘」なのである。「抒情詩」は、多くの場合、こういう「嘘」といっしょに動いている。
 「論理」がつくりだした「嘘=虚構」を「イメージ」と呼びかえてみると、「抒情詩」の問題が明確になるかもしれない。論理がつくりだす「イメージ」は、たいていの場合、「美しい」。松尾の詩にもどっていえば、「かたちがあった」というのが「イメージ」。そのとき「かたち」は決して腐敗していない。崩れていない。思い浮かべるのは「死んだ直後(ほとんど生きている)」の「かたち」である。「死」は、そのとき、忘れ去られている。

 「美味しい死」は奇妙、とても変。変だが、それは、私には「いや」ではない。何か納得させられるものがある。「肉体」があるから、納得してしまう。
 しかし、この三連目は、美しいし、論理的にも「正しい」のだけれど、その「正しさ」が、私には「うさんくさく」感じられてしまう。「いやだなあ」と思ってしまう。

 このあと、詩は、また変化する。

風が 羽を持ち去ると
そこは
傷のない よい天気

 この四連目は、気持ちがいい。きっと「傷のない」ということば、それが「よい天気」と結びついているのが気持ちがいいのだ。
 「蝉のかたち」という「論理」でつくりだされたものが消し去られ、何もない。「傷のない」は「形のない」に通じ、目で見た「事実」であ。そして「傷のない=形のない」は「ない」こと、つまり「無」に通じる。「ナンセンス」である。「論理」を拒絶している。それが、とてもさっぱりしている。
 このあと、詩はさらに変化するが、私は、その部分も好きではない。「美味しい死」と「傷のない よい天気」というふたつのことばが中心になって動くといいのになあ、と残念な感じがする詩なのだった。


 
不去不来 (1980年)
松尾 静明
松尾静明
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小津安二郎監督「秋刀魚の味」(★★★★)

2016-02-28 09:43:35 | 午前十時の映画祭
監督 小津安二郎 出演 笠智衆、岩下志麻、佐田啓二、岡田茉莉子、東野英治郎、杉村春子、中村伸郎、北龍二

 小津安二郎の映画をスクリーンで見るのは初めてである。こういう評価の定まった作品の感想を書くのはむずかしい。
 最初に驚くのは、役者たちの演技の淡白さである。笠智衆、中村伸郎、北龍二の仲良し三人組(?)の酒を飲んでのやりとりなど、ただの棒読み。感情というものが感じられない。東野英治郎、杉村春子の父娘が、演技といえば演技っぽい。ただしまわりの役者が淡白な演技をしているので、浮いて見えてしまう。
 えっ、昔のひとは(現代でも評価が高いのだが……)、こういう演技を見て感動していた? 登場人物に共感していた?
 と、思いながら見ていて、ほとんど後半、ラスト近くになって。
 岩下志麻の結婚が決まり、花嫁衣装を着て、お決まりの父への挨拶をする。これがまた、そっけないのだが。そのあと、結婚式に出かけてしまい誰もいなくなった家のなかが映される。ここで、私は、「うーん」と唸ってしまった。椅子に、ぐい、と体を押さえつけられたような衝撃を受けた。
 岩下志麻のつかっていた鏡台だとか、窓だとか、畳だとか。そういうものが、とても美しいのである。
 スティルライフ、静物画ということばを思い出した。すばらしい「静物画」、たとえばモランディやセザンヌの絵を見たときのような美しさを感じた。スティルライフ、静かな生活でもあるのだが、「静かな生活」ではなく「静物画」の視点からこの映画を見つめなおすと、その美しさがわかるのでは、と考えた。
 たとえば薬罐とポットとコップの「静物画」があったとする。そのとき、その薬罐、ポット、コップは最初からそこにあるのではない。そこにそれがあるのは、それをつかっているひとが、そこに置いたからである。その「位置」が決まるまでには、それなりに繰り返される時間があり、同時にひとの動きがある。すぐれた「静物画」はものの形を書いているのではなく、そのものがそこに収まるまでのひとの動き、暮らしの時間を描いている。そのものが、その「色」に落ち着くまでの暮らしの時間、ひとの関わり方を描いている。
 その、「暮らしの時間/ひとの関わり方」の蓄積に通じるものを、最後になって、私は強く感じた。あるものが、ある位置に定まるまでには、はげしいできごともあったかもしれないが、そういうものは沈澱してゆき、淡々とした暮らしが繰り返され、そこに落ち着くのである。
 この「静かな生活(あるいは静かないのち、かもしれない)」の美しさは、「わかっている」ということばで言い直すことができるだろう。
 この映画のなかで、その「わかっている」を拾い上げると。
 花嫁衣装の着付けが終わった岩下志麻が膝をつき「お父さん……」と言おうとすると、笠智衆が「わかっている」と言う。何も言わなくてもいいと言う。この「わかっている」である。笠智衆は岩下志麻のことが「わかっている」。岩下志麻は笠智衆のことが「わかっている」。このままの暮らしではいけないということも「わかっている」し、いままでの暮らしを変えると大変だということも「わかっている」。「わかっている」から、むずかしい。どう動けばいいのか、悩んでしまうのである。
 この映画では、すべて「わかっている」ことだけが、「わかっている」ままに描かれる。逆に言えば「わかってほしい」と誰も主張しないのである。笠智衆の仲良し三人組が酒を飲む。そのとき三人は互いの家庭のことを、みんなわかっている。中学の教師をまねいて同窓会の話をするのだが、そのときだってきちんと詰めないといけないようなことなど何もない。みんな「わかっている」。だから、ただ顔をあわせて、台詞を棒読みするだけである。「感情」を主張する必要などない。自分を打ち出す必要はない。みんな「わかっている」のだから。
 どのシーンについても言える。佐田啓二、岡田茉莉子の夫婦がゴルフのクラブを買うことで揉める。岡田茉莉子が「だめ」と言いながら、最後には最初の月賦二千円を渡すまでのやりとりなども、岡田茉莉子はどうせそうするしかないのが「わかっている」。「そのかわり、私は白いハンドバッグを買うからね」と岡田茉莉子が言うことも、佐田啓二はどこかで「わかっている」。夫婦なのだから。
 それにしても……。岡田茉莉子が「トマト二個貸してちょうだい」と隣の部屋へトマトを借りに行くシーンは驚いたなあ。たしかに昔は、そういう貸し借りがあったなあ。いまは、そういうものがすっかりなくなり、他人が「わからなくなった」。昔は、だれもが他人がどうしているか「わかっていた」。
 いっしょにいれば、だれもが相手のことを「わかる」。「わかっている」から、声高に主張しなくてもいい。したがって役者も「感情」を動かして見せる必要はない。「感情」はそれぞれの観客のなかにあって、観客がつくりだすもの。観客が、それぞれが「暮らし(いのち)」のなかで反復し、育てるものなのである。この「感情」、わかる、知っている、自分も経験したことがある。そういうことを、ただ、思い出し、それを丹精に育てなおす。薬罐やポットやコップ、鏡台の位置や、カーテンの開き方、窓の開け閉めのように、それにふさわしい位置、動きにととのえる。そうするために見る映画なのだと感じた。
              (午前十時の映画祭、天神東宝6、2016年02月26日)










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早矢仕典子「膝頭」ほか

2016-02-27 11:06:41 | 詩(雑誌・同人誌)
早矢仕典子「膝頭」ほか(「no-no-me」24、2016年02月10日発行)

 早矢仕典子「膝頭」は、よくわからない。

この道を行くと
田の方から 冷気が
つよい米の匂いがする
どこの田も もう刈り入れは終わっているというのに
ここだけに

 その田を越えて「お堂」へ行く。読経がつづいている。

ひんやりしとした眼の 如来
その両脇には 大和坐りの菩薩像

どんな祈りが 捧げられているのか
菩薩の腰が
わずかに浮く
両の腿に 膝に 力が籠もる
ぎっしりと 詰まっている
それもまた 米 なのか

 一連目の「冷気」が「ひんやりとした」ということばになって「如来/菩薩(ふたつは違うものかもしれないが、私には区別がつかない)」と通い合ったあと、菩薩の描写のあとに、突然「米」ということばが出てくる。一連目にあった「つよい米の匂いがする」の「米」である。
 そして、この「米」は「力が籠もる」「ぎっしりと 詰まっている」を言い直したものである。「力が籠もる」「(力が)詰まっている」。この「動詞」の「比喩」が「米」なのだと思う。「存在(もの)」を言い換えたのではなく、「ものの内部の状態/動き」を「米」と言い換えている。
 --というのは、私の「感覚の意見」、あるいは「直観」というもので、うまく説明できないのだが……。
 「米」とはたしかにただの「実り」ではない。「米」には「力」がある。そして、その力は「自然」の力であると同時に、それを育ててきた「人間」の力である。「祈り」という「名詞」を「動詞」にして言い換えると「祈る」だが、この「祈る」を別の「動詞」をつかって「比喩」にして語るなら、やっぱり「力(思い)が籠もる/力(思い)を籠める」「力(思い)を(ぎっしり)詰める」ということだろうなあ。ひとは、自分の「祈り」のすべて、「力」のすべてを籠めて、「米」をつくる。「米」は百姓のいのちである。
 私は貧乏百姓のこどもなので、そんなことを思った。田を耕し、種籾を蒔き、苗を植え、稲を育て、米を実らせる。刈り取る。米のなかには、時間(暮らし/思い/思想)が詰まっている。そういう「籠められた力(思い)」のようなものを、早矢仕は「菩薩」に見ている。「菩薩」の「腿」と「膝」に見ている。「肉体」に見ている。
 それは、さらに言い直されている。

何時いかなるときも 速やかに
衆生の掬いに向かうための 肉付きのいい
膝頭
 ここにタイトルの「膝頭」が出てくるのだが。
 うーん、と私は唸る。
 そうか、菩薩の「膝頭」には、これから人間を救いにいこうとするときの力が籠もっているのか、動き出そうとしているのか。
 私は菩薩の「膝頭」を思い出すことができないけれど、そうだったのか、と納得してしまう。

私たちは
どんな処へふたたび 解放されていこうとしているのか
ひたすらに
祈りが捧げられている

行方知れずの風が むざんにも吹き抜けていった

段々の上に
虫食いの
落ち葉いち枚 無為にほどかれて

 「祈り」は豊作への感謝の祈りではなく、凶作の苦しみから救ってくださいという祈りなのかもしれない。「虫食い」とか「落ち葉」がそういうことを想像させる。
 よくわからないが、わからないのだから私の読み方は「誤読」なのだろうが、「米」という「名詞」のなかに「力がこもる」「(力が)ぎっしりと 詰まっている」という「動詞」の「比喩」があると感じ、またその「比喩」のなかに農民の暮らしの時間が反映されていると感じた。それが「菩薩」の「膝頭」に結晶していると感じた。

 「米」が出てくる詩が、もう一篇ある。「氾濫する」というタイトル。母が台所で泣いているのを見たときの詩である。泣いている母を「台所」に「降りしきる雨」という比喩の形で書いたあと、

ある朝
ついに台所は はげしく傾いて
冷蔵庫
米櫃
食料棚
瓦斯コンロ
と 一列に並び
その下には 川が流れ
昨日まで
小さなせせらぎ と思っていたものが
急激に水嵩を増し 濁流となり
うねり せり上がり
手のつけられないような
氾濫をはじめ

せめて
炊飯器でも と
フタを開けたら
その中も 容赦なく泥水があふれ

そのとき手は
ご飯粒ひとつ
掬うことが出来ないのでした

 「せせらぎ」は母の涙。それが「小さな」流れではなく、川になり、濁流になる。それは炊飯器のなかの「ご飯粒」まで台無しにする。
 「米」のあたたかさ、美しさは、そのまま「母」の喜び、美しさなのだろう。そういうものが「詰まっている」「籠もっている」のが「ご飯」なのだ。
 そういうことを感じさせる。
 台所が傾き「冷蔵庫/米櫃/食料棚/瓦斯コンロ」が「一列に並び」流れていくという描写の「一列」には、母が「台所」を「統一している」という「動詞」がひそんでいる。「一つ」にする力が籠もっていて、それが「一列」になるのだろう。
 「米」は「ご飯」の言い換えではなく、きっと「いのち」の言い換えである。



詩集 空、ノーシーズン―早矢仕典子詩集
早矢仕 典子
ふらんす堂
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ジャック・オーディアール監督「ディーパンの闘い」(★★★★)

2016-02-26 09:23:13 | 映画
監督 ジャック・オーディアール 出演 アントニーターサン・ジェスターサン、カレアスワリ・スリニバサン

 スリランカの内戦を逃れてきた難民の物語。見知らぬ男と女、少女が家族を偽装してフランスへ入国する。女の方はフランスではなく家族(親族?)がいるイギリスへ行きたかったのだが、割り振られた入国先がフランスだった。そういうこともあり、この「偽装家族」はなかなかすんなりとは暮らせない。
 やっと見つけた仕事はアパートの管理人。ただし、このアパートというのがドラッグの売人の巣窟。(でもないのかもしれないが、そういうひとが多くで入りしている。)女はそこで老人介護の仕事を見つけるが、その息子はドラッグの売人。で、その売人同士のトラブルに「一家」が巻き込まれていく、というストーリーなのだが。
 忘れられないシーンがふたつある。
 ひとつは主人公の男が見る悪夢(?)。木の葉が揺れる。何かが動いてくる。何かわからない。ぼんやりした暗闇のなかから、突然、巨大な塊があらわれる。象、のように思える。象の顔のアップ。左半分くらいしか映っていない。
 主人公がジャングルに逃げ込んで見た象なのかもしれない。
 そのとき主人公は何を感じただろうか。「悪夢」と最初に書いたのだが、もしかすると「悪夢」とは逆なものだったかもしれない。象に殺される、というよりも、象もまた「内戦」を逃げてきて、ジャングルに隠れているのかもしれない。隠れて、生き延びているのかもしれない。そういう「共感」も感じたのではないのか。人間と野生の「共生」も感じたかもしれない。それは、そのまま、もう一度ジャングルのあるスリランカへ帰りたいという深い欲望の象徴かもしれない。
 もうひとつは、スリランカから難民として逃れてきたひとたちのコミュニティーといえばいいのか、交流といえばいいのか。「祝日(だと思う)」に寺院(?)に集まり、そのあとピクニックにゆく。娘が野の花を摘んで、男に渡す。男はその花束を女に渡す。偽装の家族だが、この一瞬、「家族」になっている。その象徴が「野の花」。これは男が夢に見る象とは対極にあるのだが、対極だけれど「同じひとつ」でもある。自然とともに生きている暮らしである。ここでも「共生」ということばが自然と思い浮かぶ。
 故国を離れているが、故国を忘れてしまうことはできない。そういう感じが、このふたつのシーンにあふれている。
 主人公の男も、強い印象残す。
 偽装家族(夫婦)だからセックスの関係はないのだが、同じアパートに暮らす男と女だから、どうしてもそういう関係になってしまう。なってしまうが、それがそのままなし崩しに「夫婦関係」になっていかない。欲望を抑えている。その抑圧が、逆に、なまなましい。それをドアのすき間から見える女の体の半分(半分はドアや壁に隠れている)姿に象徴させている。ジャングルのなかで象の顔とぶつかったときは、顔が近すぎて半分しか見れないのとは逆に、女の体は全身が見ることのできる近さにあるのにドアと壁に隠されて半分しか見ることができない。
 何か、いつも、半分なのだ。完全でないのだ。
 この「半分」隠している、という感じが「全身」からあふれてくる。常に自分自身の「半分」をどこかに隠して生きている感じが、とてもなまなましい。
 で、その隠されていた「半分」がラストのドラッグ密売組織の「内紛(?)」に巻き込まれた女を助けにゆくときに、ぱっと解き放たれる。硝煙で薄暗いアパート。その階段を男がしっかりと上がっていく。銃撃戦がある。それをかいくぐり、女を助ける。あ、内戦のときの、反体制側の兵士だったのだということが、このとき「肉体」として表現される。(それまでも、ことばで、そしてやはり難民として逃れてきた「上官」との対面などで、それは表現されるのだけれど……。)修羅場を潜り抜けてきた力が、そこに動いている。

 ほんとうの最後。ドラッグ組織の内紛から生き延びた「偽装家族」は女の親類がいるイギリスに渡りほんとうの家族になっている。こどもが生まれている。血のつながらない少女もいっしょにいる。三人は四人になり、女の親類の家族といっしょに明るい陽差しのなかにいる。--これは、「現実」なのか、それとも男の新しい「夢」なのか。
 どちらでもいいと思う。
 それにしても、と思うのである。
 「難民」が「難民」となるのも、むずかしい。つまり、「難民」として故国を逃れ、異国にたどり着くことも非常にむずかしいが、「難民」が「国民(市民)」になるのも、とてもむずかしい。まず、仕事がない。男はアパートの管理人という仕事を手に入れるが、そのアパートは都会の安全なアパートではない。田舎の、ドラッグの密売人がたむろするアパートである。女も仕事を見つけるが、老人の介護という手間のかかる仕事である。どちらも、いわばその国(フランス)で、誰もがつきたいと思っている仕事ではない。だから、「難民」にそういう仕事を押しつけるのである。ほんとうの「共生」ではない。
 でも、まだ「難民」を受け入れているから、ヨーロッパの諸国は難民問題といきちんと向き合っているといえるだろう。こういう映画がつくられることも、難民問題を自分の問題として見つめる姿勢のあらわれだろう。日本はどうなのか。「難民」が日本に助けを求めてやってきたとき、どう向き合うのか。どう「共生」していくのか。そういうことも考えさせられた。
                       (2016年02月20日、KBCシネマ2)










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原口哲也「実り」

2016-02-25 08:49:59 | 詩(雑誌・同人誌)
原口哲也「実り」(「雨期」66、2016年02月20日発行)

 原口哲也「実り」はことばで世界をつかみとる、あるいはつくりだすという意識が強い詩である。

庭の木が 赤い実をつけた。
色にやどるかすかな震えが
風に紛れようとしている。
それを祓って なお迸ろうと輝く。

 一行目は静かな描写である。これが二行目から変わっていく。「色(赤)」を色ではなく「震え」でつかんでいる。しかも「かすかな」震えであり、それは色に「やどる/震え」だ。
 このとき原口は何をいちばん重要なものとして提示しようとしているのだろうか。
 日本語の語順からいうと、大事なものは最後にくるから、「震え」がいちばん重要なのだろうか。三行目は「震え」を引き継いでことばが動いているから「震え」が重要なのだろう。しかし、その直前の「かすかな」も三行目の「紛れる」ということばに引き継がれているに思える。こうした連続感(緊密な接続性)のあることばの動きがあるから、ことばによって世界をつかみとる、つくりだすという印象がするのだと思う。連続感/緊密生はことばによってはじめてあらわれてくるものだからである。ことばにする前は「赤い実」という「もの」があるだけだ。
 で、こんなにことばに緊密感があると、どのことばが原口のいちばん言いたいことなのかわからなくなる。「赤い実」について書いているが、その「赤い実」をいちばん的確にあらわしているのは、どのことば? それが、わからなくなる。
 さらに「やどる」ということばは、四行目の「迸る」「輝く」ということばにつながっているように感じられる。「やどる」とは「内部」にやどる。その「内部」から「迸り」、それが「輝く」という具合にことばが動いていると思う。
 そうなると、ますますどれが「重要」なのか、よくわからなくなる。
 どのことばというよりも、やどる→迸る→輝く、かすか→震え→紛れるというふたつの運動が平行して(共存して)動いていることがよう重要なのだろう。ことばが緊密にれんぞくするということ、意識がしっかりつながるということが重要なのだろう。
 「祓う」は「かすか→震え→紛れる」という表面的な動きを否定して「やどる→迸る→輝く」という運動が表に出てくるということだろう。「輝く」が「色(赤)」に、もう一度結晶するのである。この一度否定を含むというのは「弁証法」の「止揚」の動きのようだ。それがさらに緊密な論理を呼ぶ。あるいは浮かび上がる論理をいっそう緊密にする。

 「赤/色」を「視覚」で「赤」とつかみ、それで終わるのではなく、その「色/赤」の「内部」を、「赤」がどのようにして「赤」になったのか、ということを「視覚」とは別の「動詞」でつかみとる、あるいはつくりだそうとしているように感じられる。
 ことばが、世界を生み出していく、という印象がする。

ここにある ここにない かつてあった あったこともなかった

 これは二連目の一行目。「ある」のか「ない」のか、「あった」のか「なかった」のか。いったい、どっち? と、問うことは、意味がない。ここに書かれていることは「事実」ではなく、「ことば」であり、そのことばが「ある」と言えば「ある」し、「ない」と言えば「ない」。ことばが「ある」か「ない」かを決めるのである。
 「事実」があって「ことば」がそれを報告するのではない。「ことば」が「事実」を生み出していくというのが原口の詩なのだ。

ここにある ここにない かつてあった あったこともなかった
やがてくる 無数の実りが その輝きで満たされる。
いのちが此処に至った証しを
たしかに「時間」と呼びならわすのだ。

 「ある」か「ない」か、「あった」か「なかった」かではなく、ことばがその「実」を「赤」と呼ぶときに、それは「赤」になり、「輝き」と呼ぶときに「(赤い)輝き」になり、それは「内部からあふれだすもの」であり、つまりそのとき「内部は満たされている」ということでもある。「赤」は「表面」を描写しながら、同時に「内部」の運動をあらわすものになる。
 それはすべて「事実」というよりも「ことば」の緊密な運動が生み出したもの。
 この「ことば」のつくりだした運動を「いのち」と言い直すとき、それは「実」の運動にとどまらず、「人間」の運動にも重なっていくる。
 「運動」の結果として「ここ」にあらわれてくる。そのとき「実」は「運動」の「証し」。ひともまた「運動」の結果として「ここ」にいる。「ある」。
 「運動」というのは「経過」である。たとえば弁証法の止揚である。「経過」だから、そこに「時間」もあらわれてくる。いや「時間」がつくり出される。
 この「つくり出し」を原口は「呼ぶ」という動詞で表現しているが、「呼ぶ」とは「名づける」でもあるだろう。「呼ぶ」もそうだが「名づける」も、「ことば」でそうするのである。「ことば」が世界をつくりだしていく、そのつくりだすという運動に原口は「詩」で参加しているということになる。

 もう一篇の「坂の名」の二連目。

のぼりきったところには
たとえば屋敷がある。
青空を映す屋根がある。
「ある」よりさきに その「名」がある。
閉ざされた窓が 窓の数だけ
孤独な体温を孕む。
生よりも死が 言葉をつかみ取ろうとする。
けれど 遠く水脈を引く

 「文脈(意味)」を無視して書いてしまうが、「「ある」よりさきに その「名」がある。」「言葉をつかみ取ろうとする。」は、原口のことばの運動の特徴を象徴的に語っているように思える。
 「実り」では「やどる」という「動詞」があったが、この詩では「孕む」という「動詞」が動いている。「やどる」も「孕む」も「内部」の現象/運動である。そして、ともに「生む(生み出す)」という動詞へとつながっていくものである。
 原口は、目の前に「ある」何か、現象/事実を、内部から「運動」としてとらえなおそうとしている。目に見えない「内部」の運動を、「ことば」によって見えるように(つかめるように)している。

花冠
原口 哲也
書肆山田
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古内美也子「泣きながら原」

2016-02-24 12:49:15 | 詩(雑誌・同人誌)
古内美也子「泣きながら原」(「雨期」66、2016年02月20日発行)

 古内美也子「泣きながら原」は短い作品。

湧蓋(わいた)山の麓
すすきが哀しい慰めのように
やさしく揺れ
ひとは知らないものを探す
影のかたまりが風に乗り
水分を冷やしていく
根にいのちを溜め
枯れてゆく草々
琺瑯の空がどこまでも広がり
謎は謎のままふくらんで
当てもなく
とんでゆく

 ことばのつながりに、聞き慣れたものと聞き慣れないものがある。
 一行目。「湧蓋山」いうのは固有名詞だが、私は知らない。(たぶん多くの読者も知らないと思う。こういうとき、熱心な読者は固有名詞を調べるのだが、私はずぼらなので調べない。)しかし、「湧蓋山」は知らないが、「山」は知っており、それにつづく「麓」もわかる。それで、自然と「情景」を浮かべてしまう。古内の思い描いている「情景」とは完全に一致しないだろうけれど。
 一行目は固有名詞を含んでいるので「聞き慣れた/聞き慣れない」ということばのつながりという例にしていいのかどうか少し迷うが、「聞き慣れた」つながりを手がかりに、私は山の麓、麓の原っぱという「情景」のなかへ入っていく。タイトルが「泣きながら原」なので原っぱを思うのである。
 二行目。「哀しい」と「慰め」はどちらも「聞き慣れた」ことばだが、「聞き慣れた」という印象は「哀しい」誰かを「慰める」という結びつきのときである。ところが古内は「哀しい慰め」と書いている。これは「聞き慣れない」。「聞き慣れない」のだけれど、両方とも知っていることばなので、微妙に「知っていること/わかっていること」が刺戟される。「哀しみ」そのものに、こころが落ち着くということもある。「哀しみ」に対する「共感」のようなもの。「哀しみ」に共感し、それを共有することが、自分を安心させる。「哀しむ」ひとの側に立って生きている、ということをこころの奥で自覚するのかもしれない。
 こういうことは、説明しようとするとむずかしいが、「肉体」が何かを覚えていて、その「覚えている何か」を刺戟してくる。「聞き慣れない」のに、あ、そのことは「知っている/覚えている」と感じる。
 「哀しい」は形容詞。これを「用言」として見ていくと、そこに「哀しむ」という「動詞」がある。名詞「哀しさ」よりも動詞「哀しむ」は「哀しい」を結びつけて、「哀しんだ」ことを思い出すとき、きっと「共感」は生まれる。これにさらに「慰め」という名詞に「慰める」という「動詞」になって動く。そのとき「共感」の幅がひろがる。「哀しい」や「慰め」を自分の外にある「客観」としてではなく、「哀しむ」「慰める」という「肉体」の「動詞」として自分自身の「肉体」のなかで動かしながら、私は古内の書いていることばのなかに参加していくのだ。同じことを、つまり「名詞」を「動詞」に無意識にかえながら古内もまた「肉体」を動かして詩を書いているのだと思う。そういう「動き/動詞」としての「肉体」を感じるからこそ、それに誘われ、私は古内と同じことをしてしまう。
 三行目「やさしく揺れ」は「聞き慣れた」ことばである。この「やさしく」は前の「すすき」をあらわしている。「(すすきは)やさしく揺れ」である。だが、それだけではなく同時に「慰め」とも「やさしく」は結びついている。「やさしい/慰め」「やさしく/慰める」。ここでも「慰め」を書かれていることばをそのままの形ではなく、「慰める」と「動詞」にした方が、より「聞き慣れた」感じになる。「動詞」でことばをとらえると「肉体」が動き、「肉体」のなかに「思い出」がわき上がってくる。そして「共感」が強くなる。
 「共感」というのは「こころ」の動きなのだが、きっと「こころ」というようなことばにはならない、「こころ以前」のところで動きはじめるのだろう。「こころ」となづけられる前の「肉体」のどこかで動きはじめる。だから「動詞」でことばをつかみ取る方が「共感」がつよく動くのだと思う。
 そのあと、四行目。

ひとは知らないものを探す

 あ、と声が出てしまう。
 ひとは「知っているもの」を探す。たとえば、自分の財布を。持っていたものを探す、と言ってもいい。ここれは「聞き慣れた」こと。
 でも「知らないもの」は探せない。「知らない」のだから、それに出合ってもそれが「ほんもの」かどうか、判断のしようがない。
 でも、これは「日常の論理」。
 「知らないもの」を探すということは、実は、ある。
 科学では「知らないもの」を探す。探し出したとき「発見」という。「発見」というのは「新しいもの」を見つけること。
 で、ここに書かれている「知らないもの」というのは「新しいもの」である。
 たとえば、この詩に書かれていることで「新しいもの」は何か。「聞き慣れないもの」は書かれていなかったか。
 「哀しい慰め」
 これが「新しい」、「聞き慣れない」。
 そういうものを「探す」のである。
 そして、「新しい」と言いながらも、それが「発見される/探し出される」ということは、それはすでに「存在していた」。つまり「見落としていた」ということである。
 「哀しい慰め」も「見落としていた」ものなのである。
 それは、最初から「ある」。「ある」けれど、それとは気がつかない。古内が「哀しい慰め」ということばを書いた瞬間に、目の前に「あらわれてきた」。これを「哀しい慰め」という「形容詞+名詞」(存在)としてつかみとろうとすると、なんだかつかみきれないのだが、「哀しむ+慰める」という「動詞」として思い起こすとき、「肉体」のなかで「哀しむ」と「慰める」が「ひとつ」になって動く。「哀しむひとを慰める」「哀しんでいるときだれかが慰めてくれる」。「哀しむ+慰める」は、入り乱れて「共感」になる。区別できないところで「ひとつ」になって動く。
 詩の後半は、この「知っている」けれど「知らない(見落としていた)もの」を言い直したもの。
 「影のかたまり」は「すすき」の揺れる姿だろう。すすきにも「影」ではない部分があるのだが、「哀しみ」にこころを寄せている古内は「影」に共感している。すすきが、風に揺れ、すすきが枯れている。「水分」を失って「枯れてゆく」。風が「水分」を吹き飛ばしていくのかもしれない。けれど、枯れながらもすすきは「根にいのちを溜め」ている。この「いのち」は「水(水分)」ともいえる。「水分」は「涙」であり、「哀しみ」である、と言ってしまうと「抒情」になりすぎてしまうが、ふとそういうことばが思いつくのは、「溜める」が「慰める」と深いところでつながっているからかもしれない。
 私の、こういう「うるさい」感想は、この詩には、たぶん似合わない。
 この詩に似合うのは、「琺瑯の空」という古内の書いていることばどおり、何か、「哀しみ」を拒絶するようなきっぱりとした「非情」である。非情の「美しさ」が似合うのだが、前半部分を非情の形で動かしてみるのはむずかしいね。

ひとは知らないものを探す

 は

謎は謎のままふくらんで

 と言い直されている。
 「哀しい慰め」というのは「謎」である。私はテキトウなことを書いてきた。厳密に言おうとしても、言い切れないものがどうしても残ってしまう。
 それを「抱え込む」ではなく、「とんでいく」とぱっと手放したところに、古内の、自然の「非情」に向き合ったときの生き方がある。思想がある。
 この「きっぱり」した感じに向き合うと……。
 「とんでいく」は「影のかたまり」とも「謎」とも読めるのだが、私はまた「琺瑯の空」そのものが「とんでいく」とも読みたい気持ちになる。「影のかたまり」や「謎」が「そらを飛ぶ」ということはあっても、「飛ぶ」の「場」である「空」そのものは飛ばない。「空」が飛んでしまえば、ほかのものは飛べない。--というのは「理屈」であって、すべて(世界)が「空」になって「空」から飛んでゆく、「湧蓋山の麓」だけが残っている、という感じがいいかなあ、と思ったりするのである。

黄金週間
古内 美也子
書肆山田


*

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松本秀文『環境』

2016-02-23 10:30:36 | 詩集
松本秀文『環境』(思潮社、2015年11月30日発行)

 松本秀文『環境』には複数のスタイルの詩が収録されている。どの詩の感想を書けばいいのか、迷う。「環境」という「くくり」のなかの「環境」ということばを含む「(劣悪な環境がいやらしく紙を靡かせるエリア」という作品について書いてみる。
 原文は行末がそろっていて、書き始めがばらばら。大地に木が生えているように、ことばが立っているスタイルである。そのままの形では引用がむずかしいので行頭を揃えた形で引用する。原文は詩集で確かめてほしい。

鮫たちがtrigger の橋付近で集会を行っている
「君を歓迎する」
老いたロバ(芸術)が辿る過去のデータの蓄積
狂ったフルート吹きの部屋
天才の出現と消滅
さようならデモクラシー

 書き出しの5行。
 読みながら、ことばが「きちんとしている」ことに驚く。この「きちんとしている」という印象をどう語りなおしていいのかよくわからないのだが、たとえばきのう読んだ小笠原鳥類のことばは松本のことばのように「きちんとしている」とは私には感じられない。また一昨日読んだ金澤一志も「きちんとしている」という印象ではない。松本のことばと比較すると、小笠原や金澤のことばは句読点が独特であり、呼吸があわせにくい。
 一方、松本のこの作品には句読点がないが、しかし、句読点があるように感じてしまう。それぞれの一行が句点「。」をもっている。それが「きちんとしている」という印象になる。
 松本は句読点を書いていないが、私は句点「。」を補って読んでしまうのである。
 行末が揃ったこの詩の形式では、特に、その印象が強い。どの行末にも句点「。」があって、それが「きちんと」整列している。そういう「美しさ」私は感じる。
 金澤はかっこ( )の内と外を入れ替えながら句読点をさらにあいまいにしていたし、小笠原は辞書からの引用と記憶からの引用をかきまぜることで句読点(意識の区切り)をあいまいにしていたのに対し、松本は、まず一行の独立、一行の句点「。」を大切にしているという違いがあるように思える。
 私は古い人間なので、句読点のはっきりしていることばの方を読みやすく感じてしまう。ことばが「きちんとしている」なあ、と感じる。
 でも、こういう「きちんとしている」という「感覚」は「錯覚」かもしれないとも思っている。ことばはいつでも、そのことばを発した瞬間から、ほかのことばと向き合って動きはじめるので、「きちんとしている」としたら、それはどこかに「無理」があるかもしれない。強制的に「ととのえている」ものがあるかもしれない。
 そうであるなら、そこに「書かれていることば」(発せられたことば)よりも、その「ととのえる力」の方が、ことばの「本質/本能」であるかもしれない。
 で。
 松本のことばを読みながら、私は、その「ととのえる力」を、感覚の意見のまま書いてしまえば「音楽」だと思った。ことばのなかに「音楽」がある。「リズム」と「音階」があって、それがことばを自然に美しくととのえている。
 「リズム」は大きく言ってしまうと、行末の書かれていない句点「。」によってつくられているが、小さく言えば助詞(てにをは)がつくっているように感じられる。助詞(てにをは)のあとには読点「、」が隠れていて、それが「リズム」をつくっている。

鮫たち「が」trigger 「の」橋付近「で」集会「を」行っている

 ほんとうは離れているかもしれないものを助詞が結びつけている。そのときの、あ、結びついたという感じ、同時にその結合から離れていこうとする感じ。接続と切断が、助詞といっしょにそこに存在している。読点「、」が奥深いところに隠れている印象が「リズム」をつくっている。
 助詞のかわりに、動詞が連体形をとって名詞と密着する形をとるときもある。「老いた/ロバ」「辿る/過去」というようなことばの「/」の部分は「てにをは」と同じようにことばを接続詞ながら切断している。
 そして、これは何と言えばいいのか……。
 私には、とても「文学」っぽく感じられもする。
 松本がつくりだしていることば、「音楽」なのだけれど、「文学」の「歴史」を感じる。「古典」は、こういう「音楽」でできていたなあ、と感じてしまう。それこそ「データ(文学)の蓄積」を感じ、その「蓄積」をとても「自然」に感じてしまう。
 「文学」になってしまった「ことばの肉体」というものを感じる。きっと大変な読書家なのだ。「ことば」が「ひとつの肉体」となって動いていて、無駄がない。そして、その「ひとつの肉体」が動くたびに成長していくという印象がある。
 小笠原や金澤もまた読書家だろうけれど、彼らの「ことば」は「ひとつの肉体」になっていない。「統一」されていない。何か、余剰を含みながら、これから「一つになっていく」という感じがする「肉体」である。細胞分裂している過程といえばいいのだろうか。(逆の言い方をすると、「未分節」へ向かって解体していく「ことばの肉体」ということになるかもしれない。「ひとつ」を目指すにしても、方向性が松本とは反対という感じがする。)

 「音階」について言えば。
 「ロバ」と「芸術」というかけ離れた存在の「比喩」。「比喩」による相互入れ替え。「過去/データ/蓄積」という「和音」的な調和。「出現/消滅」という「衝突」がつくりだす瞬間的な輝きと「天才」への結晶、あるいは逆に「天才」が「出現/消滅」という瞬間に解体される錯乱のようなもの。
 「ストーリー」をつくるのではなく、ストーリーを「ビッグバン」として破裂させてしまうイメージの「和音」。
 そういう感じ……。

 こんなことはいくら書いても「印象」の領域を出ない。
 しかし、「印象」しか書けない。私は「文学」というものをほとんど読んでいないからだ。松本が読んでいる「文学」の量が圧倒的に多くて、「文学の肉体」というものが、私には「別次元」に見えてしまう。だから「印象」になってしまう。
 古い「比喩」をつかって言い直すと、たとえば、私がスピッツの泳ぎを見て「美しい」と言ったり、ルイスの走りを見て「美しい」と言ったりしても、それは「印象」であって、絶対に「批評」にはなりえないのに似ている。私が「美しい」なんて言っても、スピッツもルイスも、「こいつ、何を言ってるんだ」と思うだけだろう。同じように、松本は、私が「松本のことばは美しい」とは書いたのを読めば、「こいつ、何を言ってるんだ」と思うだけだろう。

 視点をかえて……。
 私は松本の熱心な読者ではないので知らなかったのだが、この詩集には、えっ、松本はこういう作品も書いていたのか、というものがある。ひらがなとカタカナだけで書かれた「まいごのひろば」という章(?)。そのなかから、「まいごのひろば」。

あをぞら
きょうもぼくはまいごだった
うまくママとはぐれて
うそなきをしながら
やさしくて
きれいなおねえさんがいる
まいごのひろばに
やってきた

ぼくのほかにも
たくさんのまいごがいた
なかには
せかいとほんきではぐれたがっている
おんなのこもいたりして
ぼくはただおねえさんに
あいたいだけだったので
じぶんのあさはかさを
すこしにくんだ

 この作品でも句読点が明確である。不自然な改行などはない。
 そのなかにあって、注目したいのは、二連目の「おんなのこもいたりして」という一行である。この行だけ、あいまいな感じが残る。「おんなのこもいたりして……」と「……」を補って読みたいような感じがある。断定できない。句点「。」を直接つけてしまうと、「文章」が叩ききられた感じになる。
 で、ここに注目するのは。
 実は、このあと、この作品のことばが少し「変質」するからである。「変化」するからである。「あさはか」ということばが出てくる。「あさはか」ということばをつかう「まいご(幼い子)」は、たぶんいない。
 そして、いないといえば「せかいとほんきではぐれたがっている」というこどももいない。だから、詩の「変質/変化」は「せかいと……」という一行からはじまっていると言えるかもしれないのだが、「ほんき」「はぐれる」「……したがる」は、まだこどもにも「つうじる」ことばである。
 少しずつ「変質/変化」してきたことばが、「おんなのこもいたりして」という中途半端な終わり方をして、その「あいまいさ」を跳び越えて、「あさはか」につながる。「飛躍」がある。その「飛躍」の「跳躍台」として、その一行がある。
 句点「。」で完全に切断してしまうのではなく、一行のなかにエネルギーを残しておいて、それを「飛躍」につかっている、という感じがする。
 こういうことができるのは、句読点の意識が強いからである。句読点の意識が「ことばの肉体」そのものになっているからである。
 そうやって「飛躍」したあと、その「飛躍」を利用して、さらにもう一段「飛躍」する。それが最終行の「にくんだ」。「にくむ」という動詞。この「にくむ」は「おねえさんにあいたい」というような単純な「欲望」ではない。「曲折」がある。その「曲折」の感覚を詩と呼んだりする。あるいは「抒情」とかね。で、その「曲折」に「すこし」というような修飾語がついていると、「うーん、このすこし、がいいんだよなあ。感じることができるひとだけが感じればいい、というのが詩の本質なんだよなあ」などと言って、自分の「感受性」に酔ったりするんだけれどね。読者も書き手も。
 ま、そういうことは、どうでもよくて。(よくないかもしれないけれど。)
 ともかく、私は松本の句読点意識の強さに、とても感動する。こういう強い文体意識のあることばが好きなのだ。私は古くさい人間なのだ。
 最後に。
 書き出しの「あをぞら」の「を」のつかい方。この「を」によって書き出しの一行は、さらに独立する。句点がくっきりと見える。ほかの行とは違うんだぞ、という「主張」が聞こえる。
 松本は、そういうところにも気を配っている。「文学のひと」なのだ。


環境
松本 秀文
株式会社思潮社
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小笠原鳥類「カオドリとしてのフクロウ」

2016-02-22 09:38:32 | 詩(雑誌・同人誌)
小笠原鳥類「カオドリとしてのフクロウ」(「issue」3、2016年02月01日発行)

 小笠原鳥類「カオドリとしてのフクロウ」は「他人のことば」と「自分のことば」を行き来する詩である。

今回はいろいろなフクロウについて、ポプラディア大図鑑から出発して--出発して--出発して--調べて、思ったことを書く。

 「他人のことば」というのは、たとえば「ポプラディア大図鑑のことば」、つまり「既成のことば」であり、「調べ」たこと。「自分のことば」とは「思ったこと」。
 こんな具合。

 ポプラディア大図鑑の鳥には、フクロウについて、こう書いてあったのである「フクロウのなかまは、南極大陸をのぞく世界中にくらし、」南極にはペンギンがいた。南極には、コケが、少し発生していたかもしれない。南極を歩く人がいて、ペンギンのように歩いた。フクロウは歩くかどうか、知らない--「その多くが夜行性で、するどいくちばしとかぎづめをもつ動物食です。ひらたい顔は「顔盤」とよばれ、」人間はペンギンのように歩く、フクロウのような猿のような人間だ。
 かおどり、という語を、思い出す。カオドリと発音する(かもめ?)の古語「かほどり」で、『ベネッセ古語辞典』(ベネッセコーポレーション、一九七七)によると「【容鳥・貌鳥】」で、「古くは「かほとり」」で、かおとり、かおとり、と、発音すると、クチバシを食べながら歩いている。そしてカオドリは「語義未詳。」わからないのである。

 「既成のことば/調べたことば」と「思ったこと(ば)」のあいだにあるのは何か。どんな「関係」があるのか。よくわからない。ただ「思ったこと(ば)」は、勝手な想像というよりは、小笠原の「過去」であるだろう。小笠原にとって「既成の事実(ことば)」であるだろう。「辞書/既成のことば」と「小笠原自身の既成のことば」が出合って動いているのである。
 このふたつのことばの出合い、そこからはじまる動き(ネットワークづくり、脈絡づくり)というのが、きのう読んだ金澤一志「これ、ナイアガラ」の「肉体」と「精神/感覚」の向き合い方とどこかつながるような感じがしておもしろい。自己(過去)を解体しながら、自己の奥にあるもの、なんとか「ことば以前」のものにまで自己を解体し、それまで存在しなかった脈絡(ネットワーク)をつくろうとしているように思えるからである。
 「既成のことば/辞書のことば」というのは「分節され、整理されたことば」。「思ったこと(ば)」は、分節されてはいるけれど、まだ「整理されてはいない」。どこか「未分節」のものを含んでいる感じがする。「過去」は完全には整理されていなくて、瞬間瞬間に「いま」という時間に噴出してくる「衝動/本能」のようにも感じられる。「肉体」が動いている、という感じがする。
 これが、おもしろい。
 規則性があるのか、ないのか、よくわからない。きっと良く読めば、そこに小笠原の「本能/欲望」の形が「わかる」かもしれないが、わからないかもしれない。どっちでもいい。この「ゆらぎ」のなかで、私はかってに小笠原はこういう人間だなあ、と「誤読」するのである。脈絡を支えるどこかに、「なま/肉体」のおがさわらがいるに違いないと想像してみるのである。それを見つけ出したいと思うのである。
 そして、次のようなことを考える。
 万葉集の「かおどり」が登場する歌を引用したあとの、

最後の部分が「ことはたなゆひ」(「許等波多奈由比」)だ、注によると、この部分も「未詳。」であるそうだ、万葉集にはわからないことが多い。多い波と波の間が等しくて、そうであることを科学のこどもたちが合唱の声で許すと、奈良県の学者が波が発生する理由を他の場所と比べている、ということだろう物理(よくわからない)。私は物理が苦手だ、私は物理が苦手だ、ことはたなゆひ、ことはたなゆひ、ゆらゆらっと、琴は棚油火、琴を作る人は、琴の表面を燃やして木材の色を暗くする。フクロウは木の色であるなー、フクロウの長歌なんだろう。

 小笠原は、こんなふうに書くのだが。
 小笠原は、ことばをつかみとるとき、目(漢字)の方が耳(音)に優先しているように見える。ことばを「文字」でつかみとり、自分のものにしてきたのだなあ、と感じる。それが「木材の色」「木の色」に出ているが、何よりも「暗くする」という「動詞」のなかに、強く出ているか。「色の変化」というもの、変化させる行動(肉体の動き)というもを小笠原は知っていて、その動きに小笠原の肉体を重ねることで、色の変化そのものを実感するだけではなく、そのとき小笠原は「琴をつくるひと」にもなっている。つまり小笠原を超越する方法を発見しているとも感じる。
 ここをぐいぐい押していけば、きっと小笠原の「本能/欲望」をつきぬけ、「人間存在のあり方」にまで迫ることができるかもしれないと夢想する。
 一方、肉体の持ってる他の感覚は、小笠原にどう働いているか。「ことはたなゆひ、ことはたなゆひ、ゆらゆらっと、」は「音(耳)」を少し感じさせるが、すぐに「漢字まじり」のものにとってかわられる。
 辞書を読む、というのも目が優先している。小笠原は「目」の詩人であり、目で認識するひとなのだ。
 でも、そうすると……。
 小笠原の「過去」というのは、やっぱり「既成のことば」になってしまわないか。印刷され、動かないことば。その固定化した既知のことばで、「いま」出合っていることをととのえることになりはしないか。

 うーん。
 小笠原が視覚優先の詩人、ことばを「漢字/表意」でとらえる詩人だと感じた瞬間、私のことばは突然動かなくなった。

 そして、うーん、と唸った瞬間、私は、突然違うことを考えはじめた。小笠原の詩から離れてしまうが、思いついたことを書いておこう。
 昨年の「現代詩手帖」7月号で、野村喜和夫、城戸朱理、山田亮太が「ポスト戦後史、20年」という鼎談をしていた。おぼろげな記憶だが、そのとき0年代の詩人以降(2000年以降)、詩のことばがかわってきた、ということが話題になっていた。それが近年、特に著しいというよなことが語られていたと思う。政治、経済の動きとも連動している、というふうに語られていたように思う。
 そのとき私がいちばん疑問に思ったというか、わからなかったのが、そのかわったことばが政治とどう連動しているかである。たとえば安倍政権が独裁化(極右化)している。それにともない経済格差が社会のなかで拡大している。そのことに連動して、安倍ふうのことばになっているのか、安倍のことばを支える形でことばが動いているか、それとも反発して違うことばをさがしているのか。その「指摘」が、私には読み取れなかった。安倍のすすめる「戦争をしたい国」に賛同する形でことばがかわっているか、貧富の格差の拡大のなかで「富裕層」をめざしてことばが動いているか、貧困を拡大する政策に対抗するためにことばがかわっているか。
 多くの詩人がいるわけだから、全員が「同じ」傾向とはいえないだろう。どの詩人が、どんなふうにかわったのか、それが知りたいなあ。野村、城戸、山田が、それぞれ個別の詩人のことばがどうかわったかを指摘してほしかったなあ、と思う。
 たとえば、小笠原のことばは、安倍を支援することばなのか、それとも批判することばになるのか。
 そういう具体的な指摘が鼎談のなかにはなかった。「かわった」は抽象的な指摘のままだったように思うのである。

 で、さらに飛躍して。

 私は詩人のことばがかわってきたかどうか、よくわからない。そんなにたくさん詩を読んでいるわけではないので判断できない。
 政治についても、テレビは見ないし(目が悪いから、見ていない)、新聞もほとんど読まないので表面的なことしかいえないが、ことばについて言えば「政治のことば」は非常にかわってきたと感じる。
 たとえば最近、安倍は「憲法学者の7割が自衛隊は違憲だと言っている。このままでは立憲主義が成り立たない。だから憲法を改正すべきだ」と主張した。また、高市総務相は「偏向した報道をする放送局の免許を取り消すこともありうる」という発言をした。
 私は古い人間なので、こういうことばには、その発言が「憲法違反」「放送法違反」という批判しかできない。憲法は国家権力の暴走から国民を守る(国民の自由を保障する)ものだし、放送法は放送局の認可権を持つ総務省の介入から放送局を守る(包装の自由を保障する)もの、法律はそもそも弱者を守る(自由を守る)ためのものであって、権力が国民(弱者)を支配するためのものではないと思う。ある政策を実施し、その政策が正しいと主張するために憲法の解釈を変える、憲法そのものをかえてしまうというのは、国家権力の暴走、国家によるクーデターであると思う。完全に間違っていることだと思う。
 安倍の発言も、高市の発言も、昔なら「辞任」問題になったと思うが、いまは野党の追及も非常になまぬるい。安倍や高市のことばをたたき壊すことばをもっていない。突き破っていく論理を持っていない。
 安倍は、憲法や法律がどういうものであるか、という「理念」をことばにするのをやめてしまって、「現実」を優先させて憲法、法律の「解釈(理念)」を変更して平気である。政治家(権力者)のことばが、激しく変質してしまっている。その激変ぶりに、国中がふりまわされている。
 少なくとも野党は完全にふりまわされている。「理念」を語ることさえ、忘れてしまっている。
 こういう安倍一派のことばに、詩人のことばは、どう立ち向かえるのか。
 0年代以降の詩人たちは、どう立ち向かい、自分のことばを鍛えなおしているのか。それが、私には、わからない。

 強引に、小笠原のことばにもどってみる。
 小笠原は「辞書のことば(既成のことば)」に対して、小笠原が辞書以外で読んできたことば(過去のことば)で向き合っている。「辞書のことば」はいわば「権威のことば(権力のことば)」である。その「権力/権威」に対して、小笠原個人の読書体験(言語体験)をぶつけることで、「権威/権力」を揺さぶっていると言うことができるかもしれない。
 一種の無秩序、アナーキー状態を呼び起こそうとしているのかもしれない。あらゆることばは等価である、権威のヒエラルキーの存在を否定するという方向へ行こうとしているのかもしれない。
 だから、楽しい。
 「権力/権威」のことばよりも、「個人的体験/個人的感性からの誤読」の方が楽しい、その楽しさを打ち出すことで、「権力/権威」から自由になろうとしている、と言い直すこともできる。
 だが、ほんとうに、そうなのか。
 たしかに「辞書のことば」に対しては、この方法は有効である。読んでいて、とても楽しいから、有効であると私は言ってしまう。
 だけれど、いま現実に起きている「政治のことば」(安倍の繰り出すむちゃくちゃな、理論を逸脱したことば)と戦い、そのことばを突き破るには、小笠原のように「漢字(目で見ることば)」でいいのかなあ、とふいに思ったりするのである。
 「木材の色を暗くする」の「暗くする」という動きには、何か、「漢字/表意」の攪乱以上のものがあると感じるが、小笠原はそのことに対してどれくらい自覚的なのかよくわからない。
 詩のことばは安倍のことばと向き合う必要はないかもしれない。ないかもしれないが、ちょっと考えてしまう。
 このごろ。


素晴らしい海岸生物の観察
小笠原 鳥類
思潮社
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金澤一志「これ、ナイアガラ」

2016-02-21 15:06:44 | 詩(雑誌・同人誌)
金澤一志「これ、ナイアガラ」(「issue」3、2016年02月01日発行)

 金澤一志「これ、ナイアガラ」はかっこ( )のつかい方がおもしろい。

(足が床につく)ひさしぶりに自分の体重を。
(まとわりつく)重い空気が渦を巻きながら。
(ふりかえる)暗がりのなかで線を。毛布のエスキースが。
(木の床は冷たい)まったく上下動を。湖面をすべる船のように。

 かっこのなかをどう読むか--私は「ぼく(あとで出てくる)」の実際の「肉体」の動き、行動と読んだ。(足が床につく)という文では、「足」が「主語」、「つく」が「述語/動詞」という形式をとっているが、現実的には「ぼく」が「主語」であり、「ぼく」が足を動かし、その足を床につける、ということだと思う。
 かっこの外の「ひさしぶりに自分の体重を。」は「足を(床に)つく」という「動詞」を別のことばで言い直したものだろう。「足」とは「自分の体重」のことであり、「足を床について」、自分の「体重」を「感じる」ということを言い直したものだろう。「肉体」の動きを、「肉体」以外のもので言い直しているのだと思って読んだ。
 かっこのなかにくくられることばというのは、一般的に、「主語」が思ったこと(ことばとして発せられなかった思い)が書かれることが多いと思うが、金澤は逆のつかい方をしている。かっこのなかが実際の行動。外から見える(?)ことがら。そして、それにつづくかっこの外の方が「感じたこと/思ったこと」のように思える。
 (まとわりつく)というのは、「現実」である。何が「ぼくに/ぼくの肉体に」まとわりつくと思ったのか、感じたのか。「重い空気が渦を巻きながら」まとわりつく。そのまとわりついてくる目に見えないもの、「感じ」。
 「重い空気が渦を巻く」というのが「現実」であり、それが「まとわりつく」というのが「感じ」というとらえ方もあると思うが、「重い空気」というのは「比喩」である。「比喩」は実際には、そこには存在しない。「意識」のなかに存在する。
 (まとわりつく)は「肉体」に対する動き。「重い空気」は「比喩」として「精神」を動かしている。「空気」なんて、「重い」はずがない。けれども、そう「感じる」。「肉体」が感じるのではなく「精神/感覚」、いわゆる「肉体」の「内部」にあって、見えないものが「感じる」。
 ここから逆に、かっこ内を「肉体が肉体にまとわりつく」という具合に「肉体」ということばを補って読み直すこともできる。「肉体」を自在に動かせないのは「重い空気」がまとわりつくからではなく、現実には「肉体の部位」に「他の肉体の部位」が「まとわりつく」のだが、それを「肉体以外のもの」、つまり「重い空気」と言い直すことで世界をととのえていると、読むことができる。
 一行目にもどって、「自分の体重を/(感じる)」のは「肉体」か「精神/感覚」か。むずかしいが「感じる」のだから「感覚」だと、私は仮定するのである。「まとわりつく肉体の部位」を「重い空気」と言い換えることで世界をととのえたように、「足」というものを「体重/重さ」ととらえなおすことで、金澤は、いま向き合っている世界ととのえなおしていると感じるのである。
 かっこの外は、「精神/感覚」が世界をととのえなおすときに動いていることばなのだ、と感じてしまう。
 三行目の(ふりかえる)は「ぼく(ぼくの肉体)」がふりかえる。そうすると「暗がりのなかで線を」感じる。その「線」とは何か。「毛布のエスキース」の「線」。毛布が乱れている。そのときの乱れの「線」を「エスキース」と呼んでるのか、よくわからないが、その「エスキース/線」とともに「比喩」である。そこには存在しない。「精神/感覚」がそこにあるものを「線/エスキース」と呼ぶときにはじめてあらわれてくるものである。
 かっこのなかに書かれているのは「現実」。かっこの外に書かれているのは、ことばにすること、「比喩」にすることによって、はじめて「あらわれてくる」存在。「気持ち/精神/感覚」であるように、私には感じられる。一行目の「体重(重さ)」、二行目の「重い空気」は、世界をととのえなおしたもの。「重さ/重い」ということばによって、世界がはじめて明確になったように感じられる。世界というものが「重さ/重い」ということばをとうして、はじめて明確にあらわれてくるように感じられる。「ことば」が世界に「輪郭」をあたえ、世界を生み出す--そういう感じ。
 特に四行目にそういうことばの動きを感じる。
 (木の床は冷たい)は「現実」。もちろん、その冷たさは「肉体」が「感じる」ものだが、「肉体」が「感じる」と「精神/感覚」が「感じる」では、少し事情が違う。「肉体」が「感じる」冷たさは、温度計で測ることができる。「精神/感覚」で「感じる」冷たさは計測できない。その「精神/感覚」がつかみ取る、計測できない「冷たさ」が「比喩」によって明確な形で存在として生み出される。
 「床」は「湖面(冷たい水)」という比喩になって動きはじめ、「湖面」が「船」という比喩を生み出し、それが「湖面をすべる船のように」「まったく上下動を」しない、という形に結晶する。「名詞」としての「比喩」ではなく「運動」を含んだ「比喩」になる。
 ここでことばの順序がいわゆる「倒置法」のようになっているのは、「感覚/精神」というものは、「肉体」のように動く順序がきまっていないからかもしれない。もしかすると、「先取り」してしまうのが「感覚/精神」というのものかもしれない。
 何かを感じるから「比喩」がうまれるのではない。「比喩」が先にやってきて「感覚/精神」を生み出す(つくりだす)のかもしれない。
 そんなことを思ってしまう。

 ちょっと省略して、二連目。

ぼくには間が持てないときに数字をかぞえるという奇妙な習慣がある。
目を覚ましたのは部屋に忍びこんできた冷気のせいだ。

 これは「現実」の「描写」のように読むことができる。いや、「現実の描写」として受け取った方がいいのかもしれないのだが。(小説などでは、ごく一般的にこういう描写をすると思う。)
 だが私は、そうは読まない。
 「習慣がある」というのは「精神」が「認定」していることである。「ぼくには間が持てないときに数字をかぞえる」というのが「事実」であるとしても、それを「習慣」と呼ぶのは「肉体」ではない。「精神」が、そう定義するのである。「精神」が存在しなければ「習慣である」という「認定/判断」はありえない。「奇妙な」という「評価」もありえない。だから、これは「精神」がとらえた世界(認識)である。
 「目を覚ましたのは部屋に忍びこんできた冷気のせいだ」という「認定/判断」も「精神/頭脳」が動かしていることばである。「現実」には「ぼくは目を覚ました」という事実と、部屋の空気が冷たいという事実があるだけである。後者の事実を「部屋に冷気が忍びこんできた」と書くとき、その「忍びこむ」もまた「比喩」である。
 で、そういう、一見「事実」を書いているように装った文章のあとに……。

(そう遠くないところから)電子音がかすかに(部屋のなか)(すぐそば)(耳の近くで)唸っている。(低温の魅力)部屋の四方から冷たい空気が這って、滑って、にじり寄ってくるのを(耳が)感じ取る。音がない。(音がする)

 ここで、私は、唸ってしまった。
 この部分で、かっこのなかと、かっこの外のことを真剣に考えはじめ、書き出しに戻ったというのが、「時系列」的には正しいのだが……。
 (低温の魅力)は、ちょっと説明がむずかしいが、「肉体」が直接感じる「冷たさ」(覚醒/目覚めを引き起こした力)ととらえればいいのかもしれない。
 そのほかの、(そう遠くないところから)(部屋のなかで)(すぐそば)(耳の近くで)(耳が)というのは、断片的で、「文章」になっていない。「状況」が漠然としている。漠然としているが、その「中心」に「肉体」がある。「耳」という「肉体」が「中心」にあって、そのまわりにことばが動いている。これが、あ、かっこのなかは「肉体」を描いているのだという印象を引き起こすのである。「事実/肉体」があるとしたら、断片として書かれているかっこのなかにしかない。それは「ことば以前」の、つまり「未分節」の「肉体」なのである。
 この「未分節の肉体」をととのえるために、電子音を「かすか」と「感じる」精神/感覚が動く。それを「唸っている」という「比喩」にしてしまう精神/感覚。それから冷たい空気が「這って」「滑って」「にじり寄る」という「比喩」にしてしまう精神/感覚。空気(冷気)は動くだろうが、その動きを「這って」「滑って」「にじり寄る」と呼ぶのは精神/感覚である。
 音がかすかに唸っている、と一方で書き、つぎに「音がない」と矛盾する「精神/感覚」。「精神/感覚」というのは、「嘘」をつくものなのである。「比喩」をつくり出してしまうものなのである。「肉体」はきちんと(音がする)と「現実」をとらえているが、「精神/比喩」はそれを裏切って動く。

 ここには説明することが不可能な何か、かなり面倒な動きがあるのだが。
 ここから、ぱっと飛躍して。(私は目が悪いので、長い間書けないので、省略/飛躍してことばを動かしてしまう。)

(窓を開ける呪文)
このときを待っていた白い、白い、つめたい、開いた窓から室内に、床に衝突した気体は大きく跳ねあがったあと、放心してゆっくり落ちていく。(これ、ナイアガラ)

 と、ここにタイトルの「これ、ナイアガラ」が出てくる。
 でも、それって「ほんとう」のナイアガラ? 違うね。「比喩」だね。
 そうすると、私が書いてきたこれまでのことは、無効になる。かっこのなかこそ「比喩」であって、かっこの外は「現実の描写」にならないか。
 そうではない、と私は思う。
 この「ナイアガラ」は「精神/感覚」がつかんだ「比喩」ではない。「肉体」がつかみとった「比喩/直接性」なのだ。このとき金澤の「肉体」は「ナイアガラ」になっている。
 で、ここで「肉体」が「ナイアガラ」になってしまったために、ここから詩は、逆になる。かっこの内と外が、ふつうの(?)作品のようになっていくのだが、この転換点までのことばの動かし方がていねいなので、うーん、おもしろい。何度も読み返してしまう。
 「比喩」が後退したあと、36ページの「19、20と数える」で終わった方が刺戟的だが、これは私の「誤読」であって、金澤は後半をこそ書きたかったのかもしれないのだが、私は「わがままな読者」なので、好き勝手なところで読むのを終えて、また最初から読み直したりするのである。

 「肉体の直接性としての比喩」というものについて考える手がかり、補助線のようなものがこの金澤の作品(ことば)のなかにあるのだが、目が痛くなったので、もう考えられない。

 もちろん私の読み方とは逆の読み方もできるし、逆にも読んでみないといけないのだ。どちらが肉体、どちらが精神/感覚と断定するのではなく、瞬間瞬間に、そのふたつのあり方を入れ替え、断定しないで読むというのが正しいのかもしれない。あらゆる断定を拒否し、「断定」を内部から解放しながら読むと、金澤のことばの世界はいきいきと動き出すに違いない。
 その「いきいきとした動き」にたどり着くために、私は、一方の読み方をしてみたということである。
 私は「精神」とか「こころ」とか呼ばれているものを存在するとは考えていない。存在するものは「肉体」だけだと考えている。その「肉体」が「床」からはじまり、「部屋」のなかを動いていたはずなのに、もし、「肉体」が何かになるとしたら、せいぜいが窓から振り込む「雨」になるくらいが「現実的」なのに、遠くかけ離れた「ナイアガラ(滝)」になってしまう、その飛躍する「肉体」の力に、ぎゃっと叫び、飛び上がって興奮する。「肉体」と「精神/感覚」と仮定した何かの運動の果て、あることを「ことば」にするという運動をくりかえしたあと、「肉体」は突然、遠く離れた「ナイアガラ」という「肉体」を呼び寄せ、同化する。その過激さに、あ、「ナイアガラになってみたい」と思うのである。


北園克衛の詩
金澤 一志
思潮社

*

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2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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トッド・ヘインズ監督「キャロル」(★★★★)

2016-02-20 11:00:19 | 映画
監督 トッド・ヘインズ 出演 ケイト・ブランシェット、ルーニー・マーラ

 ルーニー・マーラにつきる。
 写真で見ると美人ではない。だが映画で見ると引き込まれる。特に目がいい。いちずにケイト・ブランシェットを見ているのだが、そのとき見えているものが何かわからない感じがいい。
 「わかる」というのは、相手になること。
 ルーニー・マーラはデパートのおもちゃ売り場の店員。ケイト・ブランシェットは裕福な家庭の妻。ルーニー・マーラはケイト・ブランシェットの豪華な美しさに目を奪われる。ことのときは、まだ豪華な美人と感じているだけで、「わかる」というところまでは行っていない。つまりケイト・ブランシェットになっていない。むしろ「なれない」ということが「わかる」。言い換えると、「違い」が「わかる」。「違い」を自覚する。
 これが、どうやって、ケイト・ブランシェットを「わかる」ようになるか。
 「恋愛」なのだから、どうやってというようなことをいちいち説明するのは面倒だし、説明してしまえば「うそ」になってしまいそうだが……。
 おもしろいなあ、と感じるのは、ストーリーが忘れ物の「手袋」を自分で郵送するところからはじまること。「遺失物係」にまかせる、会社にまかせるというのではなく、ルーニー・マーラが「自分」で郵送する。「自分」を押し出している。
 これは、「私はあなたの名前、住所を知っている。あなたにも私の名前を知ってほしい」という一種の「ラブレター」である。手袋をとどけるだけならデパートの名前、売り場の名前で十分なのに、自分の名前を書いている。
 それがきっかけで、ケイト・ブランシェットから売り場に電話がかかってきて、いっしょにランチをすることにてるのだが、このシーンが、とてもおもしろい。
 ケイト・ブランシェットは手慣れた感じで注文し、マティーニーも頼む。ルーニー・マーラは「同じものを」と注文する。これは自分でランチの注文もできないという控えめなことばでとらえるとき「自画像」になるのだが、そうではなくて、この瞬間ルーニー・マーラはケイト・ブランシェットをなぞることで、ケイト・ブランシェットになってみようとしているのだ。ランチタイムにマティーニーを飲む。そうなると、どんなことが起きるのか。知らない、わからないことを、「わかる」、わかろうとしている。だが、何も「わからない」。一方、ケイト・ブランシェットは、ルーニー・マーラが「わかる」。ルーニー・マーラにとって、こういうことは初めてなのだと「わかる」。
 ケイト・ブランシェットが「わかっている」ことを、ルーニー・マーラは「わかっていない」。その「わかっていない/知らない」ことを「わかる」にかえたがっていることが「わかる」。
 ケイト・ブランシェットにすすめられ、ルーニー・マーラがたばこを吸うシーンがある。それまで、ルーニー・マーラがたばこを吸ったことがあるかどうかはっきりしないが、その吸い方から「はじめて」が感じられる。目がたばこを吸うという「行為」からはなれて、ケイト・ブランシェットの方を見ている。どう見られているかを気にしている。「わかられる」のが、怖い。「わかってもらいたい」のに「わかられる」のは怖い。あるいは「わかられしてまった」ことが、怖い。けれど、「わかられてしまった」のだから、もう平気だ、という感じもある。
 この視線の動きを、ルーニー・マーラがボーイフレンドといるときの目と比較してみるとはっきりする。ボーイフレンドといるとき、ルーニー・マーラは「わかる/わからない」をゆらがない。ルーニー・マーラがボーイフレンドになることもないし、ボーイフレンドがルーニー・マーラになることもない。ルーニー・マーラは「あなたは私のことをわからない」と拒絶した目で相手を見ている。ルーニー・マーラは「私はあなたになりたい」という気持ちを、ボーイフレンドに対して持つことはない。ルーニー・マーラはボーイフレンドといるときは自分というものがゆらがない。
 ルーニー・マーラはケイト・ブランシェットといると、自分自身のなかにある「わかる/わからない」がゆらぐ。そのぎに重なるように、ルーニー・マーラーはケイト・ブランシェットの、知らなかった家庭の事情(ケイト・ブランシェットが押し隠しているゆらぎ)を知る。そして、ケイト・ブランシェットが不幸であることも「わかる」。わかってしまう。わかる必要のないものを、「わかる」。悲しみが「わかる」。悲しみが「わかる」ということは、ケイト・ブランシェットになって「悲しむ」ということでもある。
 で、二人でクリスマスの旅に出るのだが。
 最初は別々の部屋を取っていたが、「リーズナブルなスイートルームがある」とホテルのひとが言ったとき、ルーニー・マーラーは「スイートルームにしたら」と言う。それはルーニー・マーラの「声」であるけれど、ケイト・ブランシェットの「声」でもある。ケイト・ブランシェットはほんとうはいっしょの部屋がいいと思っているが、それを口に出せないでいるということが「わかる」から、ルーニー・マーラーは、そう言うのである。ケイト・ブランシェットが拒まないと「わかる」から、そう言う。このとき、ルーニー・マーラはケイト・ブランシェットになっている。
 はじめてベッドに誘うのもルーニー・マーラの方である。何も知らない(初めてであるはずの)、ルーニー・マーラがケイト・ブランシェットを誘う。そのとき、ルーニー・マーラがケイト・ブランシェットに「なっている」。ケイト・ブランシェット以上にケイト・ブランシェットに「なっている」。
 この、相手以上に相手になる。その「以上」が「恋愛」ということなのだなあ。いままで知っていた人間「以上」のものになって、自分を愛する。これは、いままで知っていた人間「以上」のものに、自分を愛させるということでもある。自分を愛させることで、自分自身もまた自分「以上」のものになる。区別がなくなる。自己と他者の区別がなくなる。
 ただ、「いま以上」という動きがある。
 恋愛をとおして、二人は「いま以上」のルーニー・マーラとケイト・ブランシェットに「なる」。

 うーん。

 これは、なかなか大変な映画だなあ。
 同性愛が異端視されていた時代、抑制し隠そうとしていた時代。その時代のなかで、愛に目覚めていく過程を描いているのだが。
 恋愛というものが、人間を「いま以上」のものに育てるという部分に本質があるのだとしたら、どんな愛も、きっと「社会の暗黙の了解」を突き破って動いてしまうだろう。「いま以上」というのは、すべてを否定するからである。すべてを超越していくからである。
 でも、こんなことは、けっして「わからない」ことなのだ。
 「わからない」まま、そこに何か自分を壊し、超えていく力があると「わかり」、そこに向かっていく。ラストシーンは、ルーニー・マーラとケイト・ブランシェットが違いに「あなたはそこにいたのか」という目で見つめる。そこにいるのは「ほんとうのあなた」か、そうではなくて「ほんとうの私」なのか。ことばにしようとすると「わからない」が、ことばにしなければ「わかる」。

 わからないもの、自分以上のものになる、というその目の輝きは、すこしオードリー・ヘップバーンに似ているとも感じた。
                        (天神東宝8、2016年02月07日)












「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
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上原和恵「せんこう」

2016-02-19 10:00:07 | 現代詩講座
上原和恵「せんこう」(現代詩講座@リードカフェ、2016年02月17日)

「せんこう」   上原和恵

呼吸を整え
足裏のひびわれを
眺めながら胡坐をかき
手を頭の上で合わせた合掌のポーズで
瞑想にふけようという瞬間
顔がぞろっとたるみ
皺が刻まれたふけた顔が
壁全面に張られた鏡に映り
その瞬間鏡が痛くなり
線香花火の白色光の
まばゆいひびわれの閃光が目に刺さる

ヒミコの鏡の光の束かと
思わず目の前に鮮紅が散らばり
目は穿孔され開かない
恐る恐る目を先行するが
その「せんこう」の行方に振り回された

閃光の先に目を這わすと
透明なガラスをつき抜けた先の
自動車の窓ガラスに
蜘蛛の巣状に張りついた
白色光のひびわれに
ヒミコの涙が光っている

青銅の鏡が振りかざされ
白色光のまばゆさに
人々がひれ伏したヒミコの遠い光は
私を呪術にかけるように
古代からの記憶の「せんこう」を呼び覚ました


<受講者1>タイトルの「せんこう」は仏壇の線香かな。ヨガのポーズから連想した。
      香が記憶のように作品化されている。
<質  問>タイトルの「せんこう」に漢字をあてるとどうなるか。
      感想のとき、いっしょに言ってみて。
<受講者2>「鮮紅」がこの詩のなかでは特殊。「白色光」から「閃光」と思った。
<受講者3>一連目から「閃光」を思い浮かべた。
      「閃光」と決めつけたくなくて「せんこう」にしたのだと思う。
      作為に富んだ詩。
      ただ、「せんこう」が多すぎる。少ない方が「せんこう」がきわだつ。
      「顔がぞろっとたるみ」が、全体とは関係なくおもしろい。
      タイトルは違う方がおもしろいと思う。「ヒミコの涙」とか。
<受講者4>とがった感覚。「せんこう」は「閃光」。
      ほかの漢字をあてられているものも、全部「閃光」と思って読んだ。
      「せんこう」にこんなに多くの漢字があることが新鮮。
      ヒミコが出てくるのもおもしろい。
<受講者5>「鮮紅」「先行」かな。
      二連目の「振り回された」ということばが印象的。
      「どのせんこう」だろうと作者が振り回されている感じがする。
<受講者6>ヒミコから時代の「先行」を思った。
      「せんこう」とあえてひらがなにして複数の意味を持たせている。
      「せんこう」ということばで遊んでいる。
      目の前の鏡からヒミコの鏡へ移行するところがおもしろい。
      瞑想にふける、顔がふけるということば遊びもある。
<受講者3>「尖光」というものあってよかったのでは。
      造語になるが、そういう遊びもあっていいと思う。
      「先生」を軽蔑して呼ぶときの「先公」というようなことばも。

 最後の指摘はおもしろいと思う。
 「せんこう」ということばでいろいろなことを書こうとしているのだが、ことばが「限定的」。おとなしい。「先公」というような乱暴なことばがあった方が、詩の広がりが豊かになる。
 そういう意味では「ヒミコ」は、私は、あまり感心しない。
 ヒミコを出すと、現代だけではなく太古がでてきて時代が豊かになるけれど、一方でイメージがどうしても縛られる。最終連の「人々がひれ伏した」「呪術」「古代」というようなことばがとうしてもでてきてしまう。そして作品を統一してしまう。予定調和になる。
 「光」に関係することば、輝きに関係することばが多いのだけれど、「潜行」というような「逆向き」のことば、もぐりこむ、見えなくなるというような動きもあってもいいのではないだろうか。

<上  原>最終行の「せんこう」は、その「潜行」の意味をこめて書いた。
      呪術でのろわれている感じを出したかった。
      パソコンで漢字に変換するとき、20くらい候補が出てきた。
      そこからことば遊びを思いついた。

 詩を全体的に見渡すと、に連目にヒミコが出てきてから、ヒミコにひっぱられすぎている。ヒミコの出て来ない一連目の方がイメージが拡散していて楽しいと思う。
 <受講者3>が指摘しているが「顔がぞろっとたるみ」が、私もおもしろいと思う。芥川賞を取った本谷有希子「異類婚姻譚」を思い出したのだけれど。
 そして、その顔の弛みが、

鏡が痛くなり

 と変化するところが特におもしろい。
 自分の老けた顔を見て衝撃を受けるのは、顔の持ち主。つまり、本人。こういうとき「痛み」は自分が感じるもの、だと思う。「顔に驚く」「顔が痛い」。
 しかし、ここでは逆転している。
 鏡という感情/感覚をもたないものが「痛くなる」と言っている。
 この瞬間、作者は「人間」ではなく「鏡」になっている。「鏡」が上原なのだ。
 上原のつかっていることばを借りながら、もっと正確(?)に言おうとすると……。
 こういうとき、「顔」と「鏡」のあいだに亀裂(ひびわれ)が起きている。「こういう顔だろう」と思っている想像(私)と、「こういう顔だ」と映し出す鏡のあいだに、一種の齟齬が起きて、それが亀裂を引き起こす。「こういう顔だろう」と思っていた想像が打ち砕かれる。想像と現実の亀裂(ひびわれ)と言ってもいい。
 想像と現実とのあいで亀裂がおきるというのは、想像と現実のあいだで混乱がおきるということでもある。
 「想像」が私か、「現実」が私か。
 「現実」というのは「ほんとう」でもある。
 「鏡」の方が「ほんとう」。「私ではない/鏡」の方が「ほんとうの私」。
 そして、その「ほんとう」の顔が「痛む」。

 あれっ、変。
 何か、ごまかされた感じがしない?

 自分で書いておきながら、こんなことを書くのは「ずるい」のだが。
 この奇妙なごまかし/ごまかされ/錯乱のなかに、詩の本質に通じるものがあるのだと思う。
 錯乱/混乱というのは、「区別」がなくなること。「ほんとう」の定義のなかで「私」と「鏡」が入れ替わり、「想像」と「現実」の区別が消えて、どちらが「痛い」という感覚を生きているのかわからない。そのわからないところから、それでも「痛い」という感覚が動き出している。
 これをはやりのことばで言い直すと、「痛い」がそこから「分節」されるということ。「錯乱/混乱」は「痛い」が「未分節」の状態。(「未分節」というのは、私がかってにつくり出した、いわば「造語」。ふつうは「無分節」というのだが、「無分節」では、説明しにくいので、私は「未分節」と書く。)
 この「未分節」にヒミコを持ち込むと、どうしてもヒミコにひっぱられる。ヒミコが作者の実際に感じたことよりも「先行」してしまい、せっかくの「現実」のなかでつかんだ「実感」が既成のストーリーになってしまう。そういう「誘惑」を振り切って、もう一度、自分自身の「肉体(未分節)」のさらに奥へと「潜行」するということが詩を深くするのだと思う。

*

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陶山エリ「無言」

2016-02-18 10:16:39 | 現代詩講座
陶山エリ「無言」(現代詩講座@リードカフェ、2016年02月17日)

 陶山エリ「無言」は、いつもとは少しスタイルの違った詩。一行がずるずると長く、途中でねじれることがない。ふつうの(?)詩のように行わけになっている。

無言 陶山エリ

椿は口が堅い
だから
首からごろんと落ちる
何も見なかった
誰も触れなかった
いい残して落ちる
無言とはそういうこと
アスファルトに落ちた花は
肉厚に育った無言
黒いブーツに踏まれ
押し花になれない
コサージュになれない
好きな男に会えない日が続く
書きかけの詩を持ち歩く
こころならずも
などと前置きしながらどこかに
たどり着けばいいのだけれど

コンビニでおでん買う
コンビニのおでんの容器は軽い
飲み干したとたんからころん
乾いた指から乾いた音転がし
むきだしのまま逃げてしまう
コンビニのおでん買う
おでんの容器
軽すぎる
のみほしたとたんからころん
空っぽを追いかけつまずき
ひざまずく
うやうやしく手を添える空っぽの
からころんからころん
手のひらのするするの空っぽ
もう何も注がない
そそがれないまま
書きかけの嘘を持ち歩く
報われないとはそういうこと

男に会えない日を続けながら
こっそり
まぎれ込んでしまった市立美術館
1 階ロビーは
階段が好きだ
屋内の階段にしては横幅広い
いちだんいちだん薄い浅い
ノートの余白に定規当て
ひとおもいにやぶりました
二センチ弱の幅の蛇腹
ひたすらに折りました
上るひといない
降りるひといない
記憶少ないいぬふりかえる
犬のまま吐き出す無言の
けぽっ


<受講者1>一連目は「肉厚に育った無言」という行など、すごく重みがある。
      二連目は一連目とは対照的に軽い。
      「空っぽを追いかけつまずき/ひざまずく」がおもしろい。
      三連目のノートは男か。男を破って蛇腹にしているようでおもしろい。
      最後の二行がおもしろい。
<受講者2>いつもと違いふつうの形の詩になった。
      二行目の「だから」は必要だろうか。説明っぽい。
      ことば遊びがおもしろい。最後の二行がおもしろい。
<受講者3>「けぽっ」はどういう意味だろう。
      (擬態語、意味はない、という詩的の声)
      「無言」というタイトルは日常的に出合うことば。
      しかし、日常とは違った緊迫感がある。
      淡々としているが強いものがある。
      「男に会えない」がさらっとしている。
<受講者4>一連目、椿が首ごと落ちるは人間の首が落ちる感じ。
      最後まで生々しい感じが持続する。
      二連目は「おでんの容器」が軽い。
      「おでんの容器」はいまの自分の反映だろうか。
<受講者5>「無言」は日常の象徴、状態をあらわしている。
      「いい残して落ちる/無言とはそういうこと」など論理が出た。
      「そういうこと」が繰り返されるが、そこに自己を出している。
      男に会えないやるせなさ、報われなさが、おでんの軽さに出ている。
      最後の二行は陶山節の真骨頂。
      「記憶の少ないいぬ」を持ってくるところがいい。
<受講者6>ことばが立っている。ことばが落ち着いてきたと思って読んだ。
      読んでいくと世界がひろがっていく。
      三連目の階段の描写は市立美術館の情景が思い浮かぶ。
      「薄い浅い」と書いているとおりの情景だ。
<受講者1>三連目「やぶりました」「折りました」の「ですます調」に意志を感じる。

 いろいろな感想が出たが、一連目二行目の「だから」は必要だろうか、という意見と、ことばの動きが論理的という指摘は、重なる部分があると思う。「だから」ということばを必要ととしているのは「論理」を必要としているということだろう。
 男に会えない、報われないという空しさが、何かをもとめている。「論理」のなかにたしかさをもとめているということになるかもしれない。
 で。
 私は、その「論理」が色濃く出た一連目が、実は好きではない。
 椿が首から落ちるというのは、椿の花の描写の「定型」。それが陶山のほんとうに見た風景であっても「首から落ちる」という「定型」をつかった瞬間に、「文学」になってしまう。「歴史」に吸収されてしまい、個性が消えてしまう恐れがある。
 「無言」をただ黙っているではなく「いい残して」と言い直しており、その「いい残す」という言い方が魅力的だけに、特に、そう感じる。「いい残した」ことはばを内に秘めている。それが「無言」というのは、強い表現だ。
 そして、その「無言」を「肉厚に育った」と押し進めていくのも、とてもいい。「ことば/いい残し」が少しずつ多くなる感じ、大きくなって、自己を突き破る感じがする。
 だからこそ、椿の「首からごろんと落ちる」の「首から」が気になる。
 「首から」がなかったら、陶山が発見したものがもっと強い形で出てくるのではないかと思った。

 二連目が、私はとても気に入っている。
 三連構成で、それぞれの連がそれだけで一篇の詩になると思うが、特に二連目がおもしろいと感じる。これは、一連目の「椿が首から落ちる」という「定型」を読んだ反動かもしれない。「定型」を読んだあと、「定型」ではないものを読むと、それがよりあざやかに見えるということかもしれないのだが……。
 コンビニのおでんの容器が軽い。これは、誰もが知っていることだ。誰もが知っていることだが、それをことばにするということは、まだ誰もしていないのではないだろうか。それがおもしろい。
 誰も書いていないから、それをことばにするとき、どうしても自分の「肉体」をとおして語らないといけない。

飲み干したとたんからころん
乾いた指から乾いた音転がし

 「飲み干す」という動詞があり、「乾いた指」という陶山自身の「肉体」がある。そこに「からころん」という「音」が入り込む。
 容器の軽さ(測定可能な重さ)は「からころん」という測定できない「音の重さ」にかわる。音の「響き」の軽さだけではなく、測ることができないという「軽さ」が、おもしろい。
 このとき、きっと、意識のなかで、あるいは感覚のなかでというのだろうか、「肉体」のなかの、明確に区別できないところで「軽さ」と「重さ」がいれかわっている。
 「軽さ」「測定不能」は「手応えのなさ」になり、その「無力感」はやがて「空っぽ」と言い直され、「空っぽ」なのに「重い」。はねのけることができない。
 一連目の椿は「首」が意味を持ちすぎ、重すぎる。「首」が陶山自身の「重さ」を通り越して「文学/定型」の重さを頼りにしているのに対して、「おでんの容器」は「意味」を頼りにできない。「意味」を語ろうとするなら、自分で「意味」をつくりだしていかなければならないという切実さがある。
 ここから「からころん」という「音」を頼りにするところが、陶山の「肉体」である。個性/思想である。「軽い」を表現するには「色/視覚」「におい/嗅覚」「手触り/触覚」もあるが、陶山は「聴覚」で世界をつかみなおす。
 軽さを発見したあと、

軽すぎる

 とさらに、「軽さ」を定義し直している。これも、とてもいい。
 ひとは大事なことは何度でも言い直す。定義しなおす。そして、その定義が深まっていく。
 そのなかで、

のみほしたとたんからころん
空っぽを追いかけつまずき
ひざまずく
うやうやしく手を添える空っぽの
からころんからころん

 「追いかける」「つまずく」「ひざまずく」「手を添える」という動詞が動く。「肉体」が「軽すぎる何か」をさまざまに体験しなおす。
 ほんとうに「軽い」ものなら、そんなものに「つまずく」ということは、ない。足がふれた瞬間に「軽い」何かは足先から逃げていく。
 いや、だからこそ「つまずく」もありうる。足が感じるはずの抵抗がそこにはなくて、その「予想を裏切る軽さ」が逆に足をまごつかせる。
 あ、そうなのだ。
 「おでんの容器の軽さ」は「裏切り」そのものなのだ。
 重くあってほしい。重い方が、手にずしりとくる方が、持ったという実感を誘う。軽いと実感がない。「重くあってほしい」という「期待」が裏切られた感じが「軽い」という表現、その「軽い」という発見にこだわる理由でもあるのだ。

 「だから」という「理由」を導く接続詞、あるいは「……とは……ということ」という「断定」。そういう「文法」の「論理」よりも、ここにはもっと重要な「論理」がある。「肉体」がつかみ取る、「文法」では表現できない「論理」がある。「定型」化されていないことばの運動がある。

 一連目、「椿の首」には意味がある。「首切り」という武士の嫌った「死」のイメージがある。それは「苦痛の訴え」であり、会えない男への「非難」でもある。
 でも、「おでんの容器が軽い、軽すぎる」では、「非難」にならない。言い換えると、無惨に首を切られたというときは、他人の同情を引くことができる。けれど「おでんの容器が軽い」では、誰も同情してくれない。真剣に、その訴えを聞いてくれない。
 この誰も聞いてくれないことこそ、聞いてもらいたいことだねえ。

 「軽さ」は「空っぽ」。そうであるなら、その「軽さ」を解消するには「空っぽ」を解消すること。つまり、「容器」を何かで満たすこと。「容器」に何かを「そそぐ」こと。ここにも「そそぐ/そそがれる」という動詞がしっかり動いていて、「肉体」を感じさせる。
 二連目は、どの行、どのことばにも陶山の「肉体」がある。

書きかけの嘘を持ち歩く
報われないとはそういうこと

 この「嘘」は「嘘」ではなく「ほんとう」なのだが、誰にも通じない陶山自身の「ほんとう」なので「嘘」としか言いようがないのだ。「客観的」、つまり誰かに共有されるものではない/共有されることのないもの、「客観的事実」になれない悲しみである。
 それは「書きかけ」、言い換えると「現在進行形」である。
 この二連目にだけは「男に会えない」ということばがない。ないからこそ、それが切実に響く。「男に会えない」ということは、この二連目では陶山にはわかりきっていること。言わなくていいこと。つまり「肉体/思想」になってしまっている。だから書き落としてしまったのだが、こういう「書き落としてしまうことば」こそが「キーワード/思想」であって、それが詩を支える。
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坂本法子「鰯」

2016-02-17 16:19:36 | 詩(雑誌・同人誌)
坂本法子「鰯」(「どぅるかまら」19、2016年01月10日発行)

 坂本法子「鰯」は、

わたしは歯医者へ行った
 右下の大臼歯が虫歯になって
 大きな洞穴があいています
 神経もやられています
 洞穴の中にイワシの骨が残っています

 とはじまる。
 虫歯の記憶、歯医者に行ったときのこと、というよりも「食べた」記憶が刺戟される。歯のあいだに食べたものがはさまった感触とか。虫歯の「穴(洞穴)」にイワシの骨が残っているということはありうるか。ないと思うが、「肉体感覚」としては、「わかる」。あ、小骨がはさまった……という感じが。
 そういう「思い出」が刺戟されるからだろうか。坂本の詩は、やっぱり「食べた」ことを思い出す。ただし、ここに少し飛躍がある。家でイワシを食べるのではない。ポルトガル旅行中に食べる。「場」がすこし「日常」から離れる。
 これが効果的だ。
 二連目を省略して、三連目。

彼は「ぼくは五ツ星ホテルに泊まっているのだよ
 ここに来たらイワシを食べないと」と言う
私は「私たちは民宿に泊まっています
 でも見るところはあなたと同じだから」と言い返す
皆で白いテントに入ってイワシを食べた
漁師たちはイワシを食べながらワインを片手に持って
ファドを歌っている

 どこに泊まろうが、「見るところはあなたと同じ」という主張はいいなあ。はつらつとしている。
 こういう会話が日本でもなりたつかどうか、ちょっと微妙だ。
 で、「あなたと同じ」は、また、そこに住んでいるひとと「同じ」ということにもつながる。漁師といっしょにイワシを食べれば、「私たち(彼も)」は、きっと漁師になる。漁師になって、イワシを食べる。家でイワシを食べるのと、少し違う。
 その「少し」とは何か。
 それが四連目(最終連)なのだが、うーん、「少し」のはずが、「少し」ではない。「大きく」変わる。

大西洋から泳いできたイワシのフィッシュボール
クジラやシャチに食べられながら
おじいさんが網で受けとめたイワシ
中国船にぶつかりながら捕ってきた
イワシ イワシ イワシ
今もイワシの匂いがわたしの歯の中にしみついている

 イワシを食べながら、坂本はイワシになっている。四連目の「主語」は「イワシ」なのである。この「主語」の変化がとてもおもしろい。三連目で「私/わたし」が、「彼」になるのを拒んで「漁師」になった弾み(勢い?)で、「イワシ」にまでなってしまう。その「勢い」が、海外旅行という「非日常」と重なっておもしろい。
 「私/わたし」は「イワシ」になって、フィッシュボール(魚群のかたまり)になりながら泳ぐ。クジラやシャチから逃げる。でも、つかまってしまう。結局人間に食べられるのだけれど……大西洋を泳いできたことを思い出しながら、食べられる。
 この「思い出しながら」というのは、まあ、人間の錯覚というか、かってな思い込みなのだけれど。このかってな「思い込み」のなかで、「思い出す」が交錯する。自分がイワシをポルトガルで食べたこと。ポルトガルのイワシは大西洋を、クジラやシャチや中国船の網から逃げてきた。食べられることを逃げてきた。それが食べられているということが、不思議な形で重なる。
 あのイワシの骨。きっと、イワシからの復讐。
 そんなこともないのかもしれないけれど。
 最終行で「主語」は「わたし」にもどっているようにも読める。「わたし」が「イワシの匂いが歯にしみついていると感じる」という「意味」に受け取るのが自然なのだろうが、私はここでも「イワシ」を主語にして読みたい。
 「イワシの匂い」がではなく「イワシ」が歯の中に、「しみついている」ではなく「すみついている」(生きている)と読みたい。「イワシの匂い」がではなく「イワシ」がそのまま「主語」になって、坂本の虫歯にすみついて、歯の洞穴を泳いでいる感じがする。
 坂本の「肉体」は「大西洋」になって、その「肉体」のなかをイワシが泳いでいる。坂本に食べられながら、なお、生きている。そう思うと楽しい。

 で、詩を読み返してみると……。
 一連目、書き出しこそ「わたし」が「主語」である。しかし、最終行は「イワシの骨が残っています」と「イワシの骨」が「主語」になっている。「イワシ」が「主語」なのだ。
 あ、こういうことは、「文法」を厳密にあてはめて考えることではないね。
 「主語」は「わたし」と「イワシ」を自在に行き来している。「私」と「イワシ」は最初から入れ替え可能な「主語」である。というか、ある「状況」は「主語」を入れ替えることでさまざまに変化するのだから、「主語」を入れ替えながら「世界」をつかみなおすしかないのだろう。
 そのつかみなおし、「主語」の入れ替え、読み直しのなかに、詩は生きているのだと思う。
 急にイワシを食べたくなった。食べながら、イワシがクジラやシャチからフィッシュボールになっ逃げたことや、大西洋/太平洋を泳ぎ回ること、中国の船から逃げ回るイワシになってみたい気持ちになった。



雪上の足跡―坂本法子詩集
坂本 法子
砂子屋書房
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ダニー・ボイル監督「スティーブ・ジョブズ」(★★)

2016-02-16 08:10:44 | 映画
監督 ダニー・ボイル 出演 マイケル・ファスベンダース、ケイト・ウィンスレット

 スティーブ・ジョブズが生きていたら、この映画は完成しなかったかもしれない。スティーブ・ジョブズの代名詞である「i」のつく商品は「iMac」しか出て来ない。つまり、この映画はほんとうの流行商品を売り出すまでのスティーブ・ジョブズしか描いていない。しかもその描き方が、人間的魅力に欠ける。自分の子どもを認知せず、技術者に当たり散らす。未完成の商品を「完成品」として紹介する。一種の「ペテン師」の姿しか描いていない。
 ダニー・ボイルの狙いは何なのか。コンピュータなんて、「ペテン」だということか。現代人はペテン師がつくり出したペテン商品に欲望をあおられて現実を見ていないということか。
 うーん。そこまではつきつめてはいないなあ。
 私がおもしろいと思ったのは、マイケル・ファスベンダースよりも、ケイト・ウィンスレット。彼女は技術者ではない。マーケティングを担当している。商品と顧客をつないでいる。そのなかで「誠実」を発揮する。そういう役どころ。
 スティーブ・ジョブズも商品開発の担当者も、顧客(使用者)のことを考えていない。もっぱら、この製品を支えているのは自分のアイデアだ、自分の技術だという主張である。スティーブ・ジョブズは小沢征爾のように「コンダクター」をめざしている。技術を集結させ、個々の技術だけではなしえない「新製品」という「芸術」をつくりだす。他方、技術者たちは「新製品」が存在しうるのは自分の「技術」があるからだ。それを尊敬しろと、スティーブ・ジョブズの姿勢をいらだたしく思っている。言い換えると、両者とも「自分は天才だ、自分に従え」と主張したがっている。
 この軋轢に、コンピュータなんて何とも思っていない恋人と、恋人が産んだ娘がからんでくる。恋人は浪費家だが、コンピュータは買わない。コンピュータ以外のもので浪費する。このエピソードが「薬味」のように効いている。
 「大ヒット商品」というのは、この恋人のように、そんなものなんか必要ない。ほかのものがほしい、と思っているひとの関心をひきつけたとき、初めて生まれる。こういうものがほしいと熱望しているひとは、そういうものを探し出してきて買う。そうではなく、みんながつかっているから、あ、それはおもしろそう、と無関心だった人間が関心をもつようになると「大ヒット」する。
 そのとき必要なのは「革新性」と同時に「信頼」である。
 この「信頼」の部分を、ケイト・ウィンスレットが、地味な形で支えている。新製品のプレゼンテーションがうまくいかない。そのとき、不具合を解消するために、新製品にはつかわれていない部品(技術)を臨時につかう。「詐欺」で不具合を乗り越えようとする。これに対し、技術者ではないケイト・ウィンスレットが、「それではだめだ」と異議を唱えるシーンに、それが象徴的にあらわれている。
 ケイト・ウィンスレットは、たぶん、スティーブ・ジョブズを「信頼」していた唯一の人間である。自分はスティーブ・ジョブズを信頼している。だから、ほかのひとも信頼してほしい。信頼すれば、そこから何かがかわる、と信じている。だから、スティーブ・ジョブズについていっている。
 で、これが……。
 この映画には、そこまでは明確には描かれていなくて、私がかってに想像しているのだが、最後に「美しい形」で結晶している。
 スティーブ・ジョブズは昔の恋人とのあいだに「軋轢」をかかえているが、娘ともうまくいっていない。娘のことは好きなのだが、元の恋人が原因で、関係がぎくしゃくしている。そのぎくしゃくを、ケイト・ウィンスレットが取り持ったあと。映画のほんとうのラストのラスト。スティーブ・ジョブズが娘がつかっているウォークマンを見て、「そんな煉瓦みたいなみっともないものではなく、もっといいものをつくってやる」と言う。「iPod」のことである。このとき、スティーブ・ジョブズは娘の「欲望」に付き従っている。自分のほしいもの、というより娘がほしがるだろうなあというものを発見している。人間の「和解」が人間の欲望(本能)を解き放ち、そこから新しい何かが生まれる。(娘が最初にパソコンをつかった描いた絵をスティーブ・ジョブズは大切に持っている。娘の欲望、つまり「一般市民/無意識の市民」の欲望に導かれるようにして、スティーブ・ジョブズは新しいものをつくりだしている。)自分の欲望だけではなく、他人の欲望を発見し,それを自分のものとして洗練させていく。
 その瞬間を、あ、美しいと感じる形で、とてもシンプルに描いている。
 この「大ヒット」の秘密は、スティーブ・ジョブズを解雇し(会社から追い出し)、再び迎え入れるという動き、その解雇を主導した経営責任者との「和解」にも静かな形で描かれている。「和解」こそが新しいものをつくりだしていく。
 ここからこの映画を見つめなおすと、ダニー・ボイルがひたすら、スティブ・ジョブズの「問題行動」、特に技術者との軋轢に焦点をあてつづけたかがわかる。新製品がなかなか完成しないのは、アイデアと技術が「和解」していないからである。技術が自然に動いていない。アイデアにひっぱりまわされている。そういうとき、技術のなかに「不満」がたまり、それが技術の進展をじゃまする。いまのままで動くのに……という不満だね。
 スティーブ・ジョブズは技術(コンピュータ)との「妥協」ではなく、「和解」を願っていたのだ。コンピュータと人間の「妥協/協力」ではなく、「和解」が生み出していく新しい世界を夢見ていたのだ。
 「和解」こそが、この映画のテーマである。「和解」というのは、まあ、古くさいテーマである。実際、この映画はスティーブ・ジョブズの革新性というよりも、古くさい人間の問題を描いている。
 で、衝突から和解へ、人間と人間のあいだの軋轢をどう和解させていくか、どう乗り越えるか。というようなことを考えていると。
 この映画のマイケル・ファスベンダースはスティーブ・ジョブズではなく、ダニー・ボイルの「自画像」かもしれない、という気がしてくる。映画というのも「総合芸術」。監督のアイデアを具体化するには、さまざなスタッフが必要である。そのひとたちがきちんと動かないと映画はできない。スタッフをどう動かせば、映画が新しい世界を開けるか……そのことに苦悩している監督の自画像をそこに感じることもできる。
 でも、そんなことを感じてしまったら、もうこの映画は「スティーブ・ジョブズ」ではなくなる。だから、つまらない。
 繰り返しになるが、このつまらない映画を、きちんとした形に成り立たせているのは、とてもつまらない役どころを誠実に演じているケイト・ウィンスレットがいるからだなあ。ケイト・ウィンスレットの演技に、私は、はじめて感動した。
                        (天神東宝3、2016年02月14日)










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