詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇267)Obra, Joaquín Llorens

2022-12-31 12:04:15 | 詩集

Obra, Joaquín Llorens
T.Hierro (azul cobalto) 53x33x20 M.N

 Hay un movimiento curioso en esta obra.
 Las dos piezas de hierro se han movido antes de transformarse de esta forma. Y seguirán moviéndose. El momento como "proceso" es esta forma.
 Por utilizar una analogía, el movimiento es como cuando dos bailarines saltan y alcanzan su cúspide. En el vértice, el movimiento se detiene por un momento. Pero es una quietud que no se alcanzaría sin una fuerza intensa. Y luego una quietud para seguir moviéndose después. Es una tensión, pero al mismo tiempo hay una liberación infinita. Así es. Yo puedo escuchar sus voces: "Ahora he saltado hasta aquí. La próxima vez podré saltar más alto". La alegría de competir y soñar hace que el movimiento se sienta aún más vivo.
 Es una forma y un movimiento que sólo puede captar quien conoce la voluntad y el deseo de hierro.

 この作品には不思議な動きがある。
 この形になるまでに、二つの鉄片は動いてきた。そして、これからも動いていく。その「過程」としての瞬間が形になっている。
 たとえて言えば、二人のダンサーがジャンプして、その頂点に達したときのような動き。頂点で動きは一瞬静止する。しかし、激しい力がなければ到達しない静止。そして、その後も動いていくための静止。緊張であると同時に、無限の解放がある。そうなのだ。いま、ここまでジャンプできた。次はもっと高くジャンプできる。競い合って夢見ることができる喜びが、動きをいっそう生き生きと感じさせている。
 鉄の意思と欲望を知っているものだけがつかみ取ることのできた形と動きだ。

 

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「現代詩手帖」12月号(22)

2022-12-31 11:48:01 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(22)(思潮社、2022年12月1日発行)

 四元康祐「手相」。

この線は
トルコを追われた
アルメニア人の死の行進の跡

 手相には、そのひとの歴史が刻まれるのか。「手相占い」は、そういうことを根拠におこなわれるのだろう。
 さて。
 四元は、だれの「手相」を見ているのか。「だれ」ではなく「時代(現代)」の手相であると四元は答えるかもしれない。
 頭のいいひとは、それで納得するだろうが、私は納得できない。もし「時代の手相」であるなら、アルメニア人を追い出したトルコのひとの手相と合わせてみないといけない、というようなことを言うのではない。
 そのニュースを知ったとき、四元の「手相」にどんな傷が残ったのか。それを見せてもらいたい。いや、その傷跡(手相)というのがこの詩である、と、また頭のいいひとが答えているのが聞こえる。
 「わざと」しか、私には感じられない。「わざと」ではなく「技」である、と、頭のいいひとは言うかもしれないけれど。

 天沢退二郎「本文と註(春の章)」。句集、らしい。

春一番去って脚註散乱す

春の嵐本文の字も乱しけり

註を食って冬生き延びた紙魚も居て

 5・7・5が乱れていくところがとてもいい。語調をととのえる「技」が追いつかないのである。あるいは「技」を追い越して、書きたい欲望があふれてくる、といえばいいのか。そして、その欲望、私はいま「(天沢の)書きたい欲望」と書いたのだが、「主体」は天沢ではないかもしれない。「ことば」そのものが、天沢の「頭の支配」を突き破って動きたがっている。それに天沢が反応している。そんなふうにも読むことができる。
 天沢が書きたいのではない。ことばが書かれたがっている。天沢に。
 「註」と書いているが、註をつけたことがあるひとなら、註こそが本文を突き破って動きたがっていることばだ、と感じたことがあるだろう。天沢のことばは、そうやって動いている。動き出すと止まらなくなっている。
 どれ、とはいわないが、むかし読んだ天沢の詩に似ている。何が書きたいかなんて、知ったことではない。ことばが動いていく。それについていく。制御しようとすればするほど狂暴さが増す野性のことば。

註と来て註と汁(つゆ)出る凍み豆腐

 これは「ちゅう」という音が暴れている。

本文に蕗の芽ピチと割註す

 「ちゅう」と書くなら「ピチ」も書いてとことばが言ったかどうか知らないが、「割註す」は、「割註、ほら、かわいいでしょ? 見落としていたでしょ? ちゃんと書いてね」という声が聞こえそうだ。「私は割註ということばを知っているんだぞ」という天沢の自慢かもしれないけれどね。
 ここには四元の「トルコ」や「アルメニア人」とは違った、天沢自身の「手相(過去)」が刻まれている。
 
 新井高子「空気の日記 から」。註に「第二波。コロナにも斑点模様にも水玉模様にもおびえていた」とある。青葉の裏側に並んだ赤い斑点(毛虫の卵?)を見て、風疹(たぶん)の斑点を思い出す。それからコロナウィルスのことを思う。
 で。

ほんとうは見えているんじゃないか、
ウィルスを
赤茶色のその斑点を
突風が運んできた瞬間だって

見えているんだよ、
だから
怖いのさ

 「手相」をいうなら、この新井のことばが「手相」にあたるだろう。見えないって? 手相に刻まれているよ。見えるひとには見えるんだよ。
 新井は、コロナウィルスを書くために、「わざわざ」風疹体験を持ち出してきている。それは違うよ、と頭のいいひとに言われることを承知で、それでも書かずにいられない。風疹体験が、新井の肉体を突き破って、いま、「手相」として出現してきている。それが新井に見える。新井は彼女自身の「手相」を読んでいるのである。それがことばになるとき、ことばは新井を映し出すだけではなく、「世界」を映し出す。
 もちろん、新井の書いていることを否定するのは簡単である。「ウィルスは目(肉眼)には見えない」と。でも、「ことばの目」には見えるのだ。

 


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「現代詩手帖」12月号(21)

2022-12-30 16:18:57 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(21)(思潮社、2022年12月1日発行)

 峯澤典子「ひとりあるき」いっしょに生まれるはずだった兄弟を思うとき、夢を(たぶん、同じ夢を)見る。その夢が作品の中心。

この夢を見はじめた夜いらい、わたしのすべての感情は、あなたから切り離されたつまさきの重い痺れをくぐってから、息のそとに出てゆくようになりました。

 「息のそと」は「息の外」か。「息の外」へ出て行くとどうなるのか。わからないが、自分の「いのち」をはなれて動く感じがある。新しい息を手に入れることができるか、息以外の何かを手に入れることができるか。
 わからないけれど、わからないからこそ印象に残る。

 宮尾節子「牛乳岳」を読むと、「息の外へ出る」とは、こういうことかもしれないと、ふと思う。脈絡もなく。ただ、突然に。

「冷やしたぬき」
なんて看板見ると1メートル位は
(むねのなかで)
ゆうに跳び上がります。

 (むねのなかで)、あるいは 峯澤なら「夢の中で」というだろうか。なんでもできる。そのなんでもというのは、「ゆうに跳び上がります」の「ゆうに」のことである。そんなことはほんとうはできない。けれど、なんの努力もせずに、らくらくと。それが当然のことであるかのように。とても自然に。
 「息の外」は、ほんとうに「息の外」ではなく、「息の中」にある。「息」がそれまでの「息」とは違ってしまうこと。「息」が違ってしまったことを「息の外へ出る」というのだろう。
 瞬間的に、今までとは違ってしまう。そのとき「ゆうに」が起きている。
 それは、その人だけが感じることができる「別次元」である。
 だから峯澤は、

ゆき
ゆきだよ。

どこまでも
あかるい ゆきだよ。

と、「別次元」を描写し、宮尾は、それをこう書く。

キモイ(気味悪い)のは
そっちもこっちもおなじです。

からだに
詩が来ているときは
まあこんな塩梅です。

 「別次元」を、宮尾は「からだに/詩が来ている」と書く。峯澤が「息のそと」というなら、宮尾は「息のなか(むめのなか?)」というのだろうが。

 森本孝徳「蚤卵論」。森本はことばが好きなのだろう。そして、森本が好きなことばは、私とは関係ないところを動いている。

身から出た錆とはいえ永遠の散歩に誘い出すなら、
末弟(ボロッキレ)よ、
ここを拭き取るのが薔薇色のかかとだ。」

 峯澤は「つまさき」と書いていたが、森本は「かかと」と書く。どちらも私にはわからないのだけれど、森本の方が「わざと」が強いだろうなあ。

 

 


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Estoy loco por espana(番外篇267)Obra, Calo Carratalá y Lu Gorrizt

2022-12-30 11:22:50 | estoy loco por espana

Obra, Calo Carratalá (arriba) y Lu Gorrizt

 De repente me acordé del trabajo de Calo Carrata y Lu Gorrizt. Estaba leyendo un ensayo de Hisao Nakai. Nakai vivió en una pensión cuando era estudiante. El problema era que tenía que pasar por el dormitorio de la pareja principal cuando iba a orinar por la noche. Esta historia es difícil de entender en el Japón moderno, y lo sería aún más en Europa.
 Las casas japonesas antiguas no tienen paredes. Las casas europeas tienen paredes. En las casas japonesas antiguas, las habitaciones privadas tienen "puertas" por los cuatro costados. Puertas correderas SHOJI y FUSUMA. Hay una puerta corredera que da acceso a cualquier habitación. Las habitaciones privadas europeas están rodeadas de paredes. Normalmente sólo hay una puerta.
 Esto afecta a las actitudes hacia la pintura.
 En las casas de los amigos españoles que visité, había cuadros en todas las habitaciones. En Japón, este tipo de amigos son escasos. En Japón, los cuadros solían colgarse encima del KAMOI, es decir, cerca del techo, porque no era posible colgarlos en puertas correderas (SHOJI o FUSMA). En cambio, en los grandes edificios (templos, castillos o casas de poderosas), se pintaban cuadros en las puertas correderas. No eran cuadros, sino "muros". Eran "dispositivos" para hacer de una habitación una habitación privada, un mundo completamente distinto de las demás habitaciones.
 A la inversa. Los cuadros de las casas europeas son "puertas" que liberan estancias privadas. Desde ahí, puedes entrar en otro mundo. Más que una "ventana", es una "puerta" por la que el espíritu puede entrar en otro mundo.
 Cuando vi la obra de Calo y Lu, me extrañó su tamaño.¿Dónde podría colgarse un cuadro tan grande? Al menos, no en mi casa. ¿Quién lo compraría? A menos que los vendan, no podrán ganarse la vida. 
 Pero de repente me di cuenta de que sus cuadros eran "puertas". Antes los pensaba como ventanas, pero son mucho más grandes, dispositivos para que la gente entre y salga. Al mirar los cuadros, el espíritu escapa de la "habitación privada" y entra en "otro mundo". Igual que siento en un templo japonés, en una sala con pinturas FUSMA, que la sala es "otro mundo". En un caso, cuando abrí la puerta corredera y pasé al otro lado, me encontré con que estaba dibujada la parte trasera de una montaña. Las pinturas fusuma no son muros, sino incluso "montañas".
 Teniendo esto en cuenta, resulta extrañamente persuasivo que el cuadro de Calo de un barco de refugiados esté en la pared de una habitación en la que trabaja con su ordenador, y el cuadro abstracto de Lu esté en una habitación en la que disfruta conversando. Esto no es un cuadro, ni un dibujo. Es una "puerta oculta" hecha en la pared. No sé cuántas personas pueden abrir esa "puerta", pero es una "puerta" importante para quienes la necesitan.


 Calo Carrataと Lu Gorrizt の作品をふいに思い出した。中井久夫のエッセイを読んでいたときである。中井は学生時代下宿していた。困ったことは、夜、小便に行くとき、主人夫婦の寝室を通らないといけないということだった。この話は、現代の日本では通じにくいし、ヨーロッパではもっと理解しにくいだろう。
 日本の古い住宅には壁がない。ヨーロッパの住宅には壁がある。日本の古い住宅では、個室は四方すべてが「ドア」である。障子、襖。引き戸があり、どの部屋にも通じる。ヨーロッパの個室は壁に囲まれている。ドアはたいていの場合一つである。
 これは、絵に対する態度に影響してくる。
 私が尋ねたスペインの友人の家では、どの部屋にも絵が飾ってあった。日本では、そういう友人は少ない。日本では、昔、絵は鴨居の上、つまり天井の近くに飾ってあったが、それは襖や障子に絵を掛けられないからである。かわりに大きな建物(寺や城、あるいは豪族の家)では襖に絵を描いた。あれは、絵ではなく「壁」だったのだ。部屋を個室に、他の部屋とはまったく別の世界にするための「装置」だったのだ。
 逆に言えば。ヨーロッパの家に飾ってある絵は個室を解放する「ドア」なのだ。そこから別の世界へ入っていくことができる。「窓」というよりも精神が他の世界へ行くための「ドア」。
 CaloとLuの作品を見て、私が最初にとまどったのは、その大きさだった。こんなに大きな絵を、どこに飾ることができるのだろうか。少なくとも、私の家には飾ることができない。だれが買うのだろうか。売れないかぎりは、彼らは生活できないだろう。他人のことながら、私は、余分なことを考えたりした。
 しかし、突然、彼らの絵は「ドア」なのだと気がついた。以前は、窓と思ったこともあったが、もっと大きな、人が出入りするための装置である。絵を見ることで精神は「個室」を抜け出し「別世界」へ入り込む。日本の寺、襖絵のある部屋で、私が、その部屋が「別世界」であると感じるように。ある襖絵は、襖を開いて向こうへ行ってみると、山の裏側が描かれていた、ということもあった。襖絵は壁どころか「山」でさえあるのだ。
 そのことを思うと、Caloの難民ボートの絵がパソコンに向かって仕事をする部屋の壁にあること、Luの抽象的な絵が会話を楽しむ部屋にあるのも、不思議な説得力を持つ。これは、絵であって、絵ではない。「壁」に作られた「隠されたドア」なのである。その「ドア」を開けることができる人は何人いるかわからないが、必要とする人のための大事な「ドア」なのである。

 

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Estoy loco por espana(番外篇265)Obra, Angel Castaño y Antonio Pons

2022-12-29 22:29:31 | estoy loco por espana

Obra, Angel Castaño y Antonio Pons

 Angel Castaño fotografía la obra de Antonio Pons. Es la obra de Antonio, pero no es su obra.
 ¿Por qué?
 Porque es una expresión del trabajo de Antonio que yo nunca pudo ver con mis propios ojos; es algo que Ángel vio, y al fotografiarlo, así yo pudo ver por primera vez.
 Siempre he visto el trabajo de Antonio en términos de "sofistocada". Ángel le añade "fino" y "delicado".
 Antonio utiliza diversos materiales en su obra. Madera. Hierro. Aluminio. Cuerda. Son materiales que han vivido épocas diferentes. Tienen historias diferentes. Cuando se encuentran, es necesario realizar ajustes complejos, que Antonio lleva a cabo con sumo cuidado. Integra el conjunto uniéndolo de forma minuciosa y sutil. Las fotografías de Angel lo demuestran. El énfasis en los detalles lo hace más claro.
 La fotografía es también una crítica, que da nueva fuerza a la obra. El nuevo trabajo potenciado no es sólo de Antonio, sino también de Angel.
 Hay aquí un feliz encuentro y nacimiento artístico.

 Angel Castaño がAntonio Ponsの作品を写真に撮っている。それはAntonio の作品であるけれど、Antonio の作品ではない。
 なぜか。
 それは、私の目では絶対に見ることができないAntonio の作品の表情だからである。Angel が見て、それを写真に撮ることによって、初めて私にも見えるようになったものが、そこにある。
 私はAntonio の作品を「洗練」ということばでとらえてきた。Angel はそれに「細密」をつけくわえる。「繊細」をつけくわえる。
 Antonio の作品にはいくつもの素材が使われている。木材。鉄。アルミニウム。縄。それらは別々の時間を生きてきた存在である。異質な歴史を抱えている。それが出会うとき、複雑な調整が必要である。Antonio は、その調整を、ていねいにおこなう。細密に、繊細に結びつけることで、全体を統合する。それがAngel の写真によってわかる。細部の強調によって、鮮明になる。
 写真もまた一つの批評であり、作品に新しい力を与える。新しい力を与えられた作品は、Antonio の作品であるだけではなく、Angel の作品でもある。
 ここには、幸福な芸術の出合いと誕生がある。

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「現代詩手帖」12月号(20)

2022-12-29 12:27:22 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(20)(思潮社、2022年12月1日発行)

 北原千代「オルガンの日」。古くなったが、壊れてしまったとは言えないオルガン。

指をあずけるとすぐにうたう
通いなれたこみちだから
うたはじぶんでうたってしまう
よしろう、かつき、なみ、うらら
あなたたちは知らないでしょう
あのころわたしは作曲家だった
たった一度きりのうたを千より多く知っていた

 「一度」と「千」の比較。それが美しい。「百」だと足りない。つまらない、「一万」だと多すぎる。「一」はだれでも体験できる。「千」はかなりむずかしい。「千」を発見するまでに「よしろう、かつき、なみ、うらら」の四人が必要だったのだろう。四人によって「千」は「必然」になった。
 それは「うたはじぶんでうたってしまう」と重なる。「自然」が「必然」。この「自然」から「必然」への移行がとてもいい。
 「現代詩」の「わざと」とは無縁である。つまり、「現代詩」ではなく、詩。

 中尾太一「長い散歩 Ⅲ」。

「今日」を越えることなく
わたしがなくしたものの
死んだ人のような体と表情を見て
いっせいに立ち止まってしまうここで
「明日」への態度を愛として苦しんでいたいと思った。

 ここに書かれる「今日」は「今日という一日」ではなく、「今日を成立させる千日」のようなものかもしれない。「過去」のすべてである。一方「明日」は「明日一日」である。「明日」の向こう側に「千日(永遠)」はない。
 もし「永遠」があるとすれば、それは「明日」あるいは「明日の向こう」ではなく「愛」のなかにある。しかも、それは「苦しむ」ための「愛」である。その矛盾を成立させるために「立ち止まる」。「いっせいに」と中尾は書くが、この「一(斉)」のなかには「一」と「千」の固い結合がある。(それは、あとで引用する部分に、別の形で書かれる。)
 それにしても。
 「愛を苦しむ」か。ただ苦しむだけではなく「愛を苦しんでいたい」。それは欲望して、そうなるのだ。「思う」という動詞がそれに念を押す。
 北原のことばに比べると、それが「わざと」であることがわかる。「現代詩」だ。しかし、これは鍵括弧でくくる「現代詩」かもしれないなあ。「現代」に意味があるのではなく、「定型化した現代詩」という意味である。
 「定型」だから、とても安心して読むことができる。

「キミガ世界ノ構造」を書くのなら
「ワタシハ個の構造」を書いて
いつしかそれを一つに合わせてみよう

 どうせなら、

「キミガ世界ノ構造」を書くのなら
「ワタシハ個の構造」を書いて
いつしたそれを千に砕いてみせよう

 と書いてほしかった、と私は思う。
 ここでこんな思いを書いていいかどうかわからないが、たぶん北原の詩の中に「よしろう、かつき、なみ、うらら」という四人の「あなた」が出てきたから思うのだが、私は母親がせっかく肉体を分離して、子であることをこえて個として産んでくれたのだから、徹底して個になりたいと思う。すべての「一」を叩き壊して「千」のなかに消えていきたいと思う。まあ、これは私の思いであって、中尾とは関係がないのだけれど。

 伯井誠司「DE IMITATIONE CARTI」。

いかに汚き、われらみな…… 人のため、また世のために
働くこそは何よりもつまらぬ役務なるべけれ。
いかなる恥を忍ぶれどもはや褒美もかひも無し、
演ずる人も見る人もすでに飽きたる芝居ゆゑ。

 このことばは、すべて「わざと」書かれたものである。「ソネット/定型詩」のために。ただ、ソネットといっても十四行詩になっているだけだ。ソネットという定型(構造)のために、伯井がどれだけ彼自身のことばを破壊したのかわからない。たぶん破壊したという気持ちはないかもしれない。だとしたら、それはやっぱり破壊ではない。
 中尾の書いた三行が、まざまざとよみがえる。

「キミガ世界ノ構造」を書くのなら
「ワタシハ個の構造」を書いて
いつしたそれを一つに合わせてみよう

 伯井と中尾は、それぞれ「違うことをしている」と主張するだろうけれど、私には「同じこと」をしているように見えてしまう。「完成された定型」(定型という完成)を生きている。

 

 


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Estoy loco por espana(番外篇265)Obra, Fco Javier López Del Espino

2022-12-28 22:18:06 | estoy loco por espana

Obra, Fco Javier López Del Espino
Retrato.

 Es natural que el retrato tenga un aire tridimensional, pero este cuadro de Fco Javier me sorprende. Es una forma extraña de decir que me parece más tridimensional que tridimensional real, pero el desnivel es abrumador. Es como si una fuerza interior del cuerpo estuviera a punto de atravesar la superficie de la cara  y emerger. Si lo toco con la mano, las protuberancias se moverán para repeler mi mano. Si no hubiera piel en la cara, no tomaría forma y se dispersaría en el espacio. Esta expresión, las protuberancias que componen este rostro, son el movimiento mismo de la vida que estalla en el interior de este hombre. 

 肖像画が立体感を持っているは当然のことなのだが、このFco Javierの絵には驚いてしまう。立体よりも立体に見えるというのは奇妙な言い方だが、その凹凸に圧倒される。まるで肉体の内部にある力が、顔の表面を突き破って出現しそうな感じだ。手で触れば、その手を撥ね除けようとして、凹凸が動き出すだろう。もし顔に皮膚というものがなければ、それは形にならず、空間に飛び散ってしまうだろう。この表情、この顔を作る凹凸は、この男の内部で爆発しているいのちの運動そのものなのである。 

 

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「現代詩手帖」12月号(19)

2022-12-28 11:21:23 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(19)(思潮社、2022年12月1日発行)

 石毛拓郎「夢か、」。すでにブログで感想を書いた。どう書いたかは、もう忘れた。忘れるために書くのだから、それでいいと思っている。読むたびに違ったことを書きたい。できるなら前に書いたことと反対のことがいいと思うが、思い通りにいくとは限らない。きょうは、次の部分を引用してみる。何が書けるか。

夢か、
尾道の親不孝通りで、林芙美子の父が
----汽車に乗っていきゃア、東京まで、沈黙っちょっても行けるんぞ。
娘は、心配顔で訊く
----東京から先の方は行けんか?
父は、東京行きを制するように
----夷(エビス)が住んどるけに、女子供は行けぬ。

 「東京行きを制するように」は、誰のことばだろうか。石毛は、この連を林芙美子「風琴と魚の町」を参照にして書いている(と、注に書いてある)。林芙美子は「尾道の親不孝通りで、林芙美子の父が」とは書かないだろうから、「字の文」は石毛の創作かもしれない。そうだとしたら、どうして「東京行きを制するように」と書けたのだろう。どうして石毛に、林芙美子の父の気持ちがわかったのだろうか。かりに林芙美子が書いたとしても、どうして林芙美子に父の気持ちがわかったのだろうか。
 と、書けばわかるのだが。
 気持ちなんて、だれにでもわかるのだ。気持ちを隠すことはできないからだとも言えるが、気持ちなんて、先に言ったものの勝ちなのだ。ことばにした瞬間、気持ちは決定づけられる。それは時として、言った本人の気持ちを超えて、「真実」になる。「わかった、きみはこう言いたいんだろう」とだれかが叫べば、言ったひとが「そんなつもりはない」と否定してもむだである。なぜか。気持ちとは「共有」されたものだからだ。「共有」されないものは気持ちではないからだ。
 だからね。
 石毛は、それを「共有」するために、林芙美子のエピソードを「わざと」書いてる、ということよりも、私は、こうつづけたい。
 だからね。
 いつ、どこで、だれに「共有されたか」が重要になる。「夢」のように。だから石毛は埼玉で詩を書いている。この詩でのように東京にこだわりながら。石毛の詩のタイトル「夢か、」は、そういう意味を含んでいるかどうかは知らないが。

 井戸川射子「育ち喜ぶ草」。隣の家から侵入してきた蔦のようなものを取り除く作業をことばにしている。まあ、独り言のようなものだ。そのとき、

連なって滝みたい、と褒めると
そうやって何かに喩えるのはやめて
と強い声を出される

 あ、ここがおもしろい。
 草が(植物が)、声を出すわけではない。しかし、井戸川は聞いてしまう。それは、誰の声? これは特定してみてもおもしろくない。「だれ」は気持ちではないからだ。ここでの「気持ち」は「そうやって何かに喩えるのはやめて」だ。
 井戸川は、「共有」してしまったのだ。
 それに従うかどうかは問題ではない。従うにしろ、無視するにしろ、「共有」が先にある。それは一瞬とさえも言えない瞬間である。
 「わざと」とか「わざわざ」を持ち出して、考えることを忘れてしまう。

 岡本啓「音楽」。

音は通らないけれど
この世でぼんやり聞いていた音が
なぜかよく聞こえる

 そうですか。「わざわざ」書いてくれて、ありがとう。
 ところで。
 石毛拓郎の「夢か、」の最後の部分、

父は、「どうだ!」とばかりに
自転車の荷台に
わたしを、きつく縛りつけた

 この「「どうだ!」とばかりに」が「気持ち」というものなんだよなあ。それは、説明しないときは、すごくよくわかる。しかし、説明しようとすると、とても面倒くさくて、「そんなのこと、知らんよ」と言いたくなる。「知らんよ」は「よくわかる」を含んでいる。その「よくわかる」で大事なのは、「わかる」ではなく「よく」という部分。それが「気持ち」というもの。
 岡本は、「よく」聞こえると書いているが、その「よく」を私は共有できなかった。「わざと」書いていると感じた。岡本は必死になって聞き取っているのに(聞こえないものを聞こうとしているのに、そして「やっと」聞き取ったのに)、それを「よく」とすり替えている。「やっと」を否定し、「よく」と自分に言い聞かせている。「よく聞こえる」ものなら、井戸川の詩のように、突然、拒否できないものとしてあらわれるものなのだ。
 もちろん「やっと」聞き取ったものを「よく」聞こえるということもある。だれかを説得するときに、つかうね。岡本の「よく」は「やっと」と書き換えた方が「気持ち」になるのだが、岡本は「やっと」はいやなんだろうなあ。自分の「苦労」をみせたくないんだろうなあ。
 井戸川は、草むしりなんか面倒くさい(苦労)を隠さずにみせているから、「気持ち」の変化が丸見えになり、それが楽しい。

 詩は、比較しながら(?)読むと、楽しい。


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Estoy loco por espana(番外篇264)Obra, Joaquín Llorens

2022-12-27 16:24:11 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

 Tres anillos de movimiento entrelazados. Y sombras. Pero ¿hasta qué punto es esculturas? ¿Dónde empieza la sombra?
 Si cambia la posición de la luz, también cambia la forma de la sombra. ¿Pero es verdad? ¿Está la sombra determinada por la forma? ¿Los tres anillos de hierro no cambian de forma según la sombra? Al ver la sombra que cambia libremente según la posición de la luz, ¿existe el deseo de transformarse dentro de los anillos de hierro en busca de nuevas formas?

 Puedo oir la voz de la sombra provocando al hierro.
 "¿Puedes convertirte en esta forma como yo? ¿Puedes hacer que sus curvas sean más flexibles? Quiero alargar esta parte delgada. ¿Puedes hacerlo?"

 La sombra es quizá la idea de Joaquín. La idea dice al hierro. 'Haz esta parte un poco más redondeada y atractiva. Haz esta parte más redondeada y atractiva, hazla tan excitante que uno sienta una corriente eléctrica al tocarla. Puedes hacerlo, ¿verdad?".

 O quizás el hierro está provocando a Joaquín. "¿Quieres ver lo que escondo? ¿Ves lo que estoy ocultando? ¿Sabes hasta qué punto mi cuerpo es libre de cambiar?".

 Esta conversacion se corre de un anillo de hierro a otro. "Mueve tu espalda más atrás. No toque tu mano no allí, sino aquí. Para los ojos de todos se encuentren aquí". 

 

 絡み合うように動く三つの輪。そして、影。だが、どこまでが彫刻なのか。影はどこからはじまっているのか。
  光の位置が変われば影の位置も形も変わる。しかし、そうなのか。影は形によって決まるのか。鉄の三つの輪が、影に合わせて形を変えることはないのか。光の位置よって自在に変わる影を見ているうちに、鉄の輪の中に新しい形を求めて動き出す欲望はないだろうか。

 私には、影が鉄を挑発している声が聞こえる。
 「きみは、この形になれるかい? そのカーブをもっとしなやかにできるかい? 私はこの細い部分をもっと長くしたいんだよ。それができるかい?」

 影は、もしかするとホアキンのイメージ。イメージは、鉄に呼びかけるのだ。「ここをもう少し丸く魅力的に。ここは、触ると電流を感じるくらいに刺激的に。きみならできるだろう?」

 あるいは、鉄がホアキンを挑発しているのかもしれない。「私が隠しているものを見たいかい? 私が隠しているものが見えるかい? 私のからだがどこまで自由に変化できるか知っているのかい?」

 それは鉄の輪同士の対話に広がっていく。「そこはもっと背中を後ろにそらして。その手は、そこではなく、ここに。みんなの眼が、ここに集まるように。そこからどこまでも滑るように動いていくように。」 

 

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「現代詩手帖」12月号(18)

2022-12-27 09:28:51 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(18)(思潮社、2022年12月1日発行)

 川満信一「在るものの不安」。

いのち、地上の、地下の、空中の命
滔々と流れる無限の大河
休むことのない動詞よ
重さを想えば地球を背負うように
瞑想すれば炎の色に躍動するもの

 私は困ってしまった。「休むことのない動詞よ」とあるが、「動詞」が見つからない。いや、「流れる」「休む」「想う」「背負う」「瞑想する」「躍動する」と存在する(在る)が、「動いている」が感じられない。「地球を背負う」とあるが、それが「重い/重さ」に結びつかない。「瞑想する」から「躍動する」への変化は、ほんとうならブラックホールが爆発するようなものだが、まったく「躍動する」が感じられない。そこに「在る」のは「動詞」と名付けられた「名詞」のような感じがする。
 これは、「わざと」?

躍動するいのちの 炎の大河を跨ぎ
異星の峰へワープせよ ランボー!

 ことばが「頭」のなかできらめいている。しかし、それは「在る(状態)」のであって、「動き(動詞)」ではない。「状態」をあらわす「動詞」というのもあるのだけれど、それは「休むことのない」とは別の「動詞」だと思う。

 高良勉「フボー御嶽」。

男の人は
特に島外の人は
入ってはいけない
タブーが生きている
フボー御嶽

 高良は、したがって「一度も入ったことが無い」と書いている。高良にとっては、肉体的には「存在しない」。しかし、意識的には「存在する」、その場所。その「意識的存在」を「具体的存在」に変えるのは何か。
 高良は、他人の撮影した「写真」を利用する。「写真」に映し出された「場」。「白装束の神女たち」が「神祀りを行っている」。
 これも「動詞」ではないなあ、と私は感じる。「動き」が「状態」として、固定されている。肉体が動いていない。
 「入ってはいけない」と言われたとき、高良の「肉体」のなかで、どんな運動が起きたのか。「してはいけない」と言われたとき、「肉体」にはそれを「したい」という欲望も生まれるだろう。それをどうやって「してはいけない」と言い聞かせたのか。どんな葛藤があったのか。なかったのか。
 高良は「わざと」それを書かなかったのか。
 神女たちを

 マイヌシュラヤー 舞いの美しさよ

 と書かれても、それがどんなふうに美しいか、私にはわからない。美しさに触れたとき、高良の「肉体」がどう動いたのか、それが知りたい。「マイヌシュラヤー 舞いの美しさよ」ということばが、注釈にあるように比嘉康雄『神々の原郷 久高島』のことばなら、なお、そう思う。
 高良は、ここでは、自分のことばではなく、単に他人のことばを伝達しているにすぎない。

 松尾真由美「凍える雛のひときわのざわめきから」は、何が書いてあるかわからないが、だかこそ「信じてもいい」。松尾には信じているものがある。それはタイトルの「凍える雛のひときわのざわめきから」にあらわれている。
 「ひな」と「ひときわ」の音のつながり。「ひときわ」と「ざわめき」の音のつながり。ことばをつないでいく「の」の音の脈絡。
 それは、書き出しの一行にもある。

受け入れてもらえないかもしれなかった。りり、りらら。

 「受け入れてもらえないかもしれなかった」のなかにある「ら行」の音。「し」の音が強い「い」。それが結びつき「り」という音にかわる。ここから「る/ろ」ではなく、明るい「ら」へ転換するのは、松尾が、基本的に明るい音のことばを優先させる「肉体/声帯/口蓋/のど」を持っているからだろう。「ら」のなかの「あ」を引き継いで「たどたどしい」と動いていく。松尾の「ら行」は「R」ではなく「L」で発音されるのかもしれない。

とおいほど反論できない分かりきった蜃気楼を飲みこんで、みれどしら。

 この「みれど」は音階の「ミレド」だけではなく「飲みこんでみれど」とつながる「動詞」のようでもある。そのとき「みれど」の「ど」は「とおいほど」の「ど」につながっている。
 途中に「らそふぁみれららら」「らしどれみふぁみれ」と「ふぁ」という音がある。「遠いほど」ではなく「おおいほど」と書くのだったら、「とほいほど」と書いた方がもっと音が響きあったかもしれない。
 「わざと」を押し通し、「わざわざ」に変えてしまうのが松尾の詩であると仮定しての話だが。

 

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中井久夫『記憶の肖像』(2)

2022-12-26 22:32:34 | 考える日記

 中井久夫はカヴァフィス、リッツォスだけではなく、他のギリシャ詩人も訳している。そのことを「ギリシャ詩に狂う」に書いている。そのなかで、こういう文章がある。エリティスの詩のなかの「風」について触れている。

舞い、ひるがえり、一瞬停止し、どっと駆け出す風のリズムがあった。

 あ、これは私が中井久夫の「訳詩」から感じ取ったものだ。「狂ったザクロの木」一部をエッセイのなかで紹介しながら、こう書いている。

歌い出しは「南の風が白い中庭から中庭へと笛の音をたてて/円天井のアーチを吹き抜けている。おお、あれが狂ったザクロの木か、/光の中で跳ね、しつこい風に揺すられながら、果の実りに満ちた笑いを/あたりにふりまいているのは?/おお、あれが狂ったザクロの木か、/今朝生まれた葉の群とともにそよぎながら、勝利にふるえて高くすべての旗を掲げるのは?」である。全六連の最後までザクロの木を歌っているのか風なのか定かならぬままにしばしの陶酔を私に与えてくれる。

 中井の訳もすばらしいが、私は「最後までザクロの木を歌っているのか風なのか定かならぬままに」というこの感想が大好きである。詩の陶酔は、何を読んでいるのかわからなくなることである。
 私は、この「陶酔」の感覚を、中井と共有できたのではないかと、秘かに感じている。私は中井のことばのリズムに酔った。そのことを最初の手紙に書いたと思う。そうしたら、中井から、私のことばのリズムは、ある詩人のリズムに似ている、という指摘があった。それは外国のとても有名な詩人だった。私は読んだことはなかったが、名前は知っている。別の機会にも同じことを言われた。驚いて、その全集を買ったが、「訳詩」が私には合わなかったのか、少し読んで挫折した。リズムが、違っている。「ザクロの木を歌っているのか風なのか定かならぬままに」という感じにならないのであった。中井の訳で読んでみたいと思った。ことばのリズムに陶酔する。--それが詩を体験することだと、私は中井の訳詩(ことば)をとおして、あらためて学んだ。味わった。

 中井久夫が死んだ直後は、いろいろ書くことをためらったが、いまは少し書いてみたいと思う。私の「中井体験」は、他のひとの中井体験とは違うだろうと思う。多くのひとは「思想」について語っている。しかし、私にとっては、中井は「ことば」のひとであり、そのことばというのは「リズム」なのである。「意味」ではない。「意味」も重要だが、「意味」の前に、私は「リズム」に共感して読んでいる。
 きょう取り上げたエッセイでは、中井自身が「ことばのリズムの人」であると語っていると思う。

 写真は、中井久夫が送ってくれた「みすず」と、「みすず」のコピー。三十年前のことである。


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「現代詩手帖」12月号(17)

2022-12-26 09:09:03 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(17)(思潮社、2022年12月1日発行)

 山田裕彦「遠雷」。

言葉でなく
口を噤んで
白紙の上で
泡立つもの

 「言葉」と「口を噤む」の対比が「白紙」と「泡立つ」と言い直される。そこに強い緊張がある。
 その最終連は、

あれから娘は二十九になり
病む日にどもるわたしは
いまだ吃音
空白を
どもり続けている

 「どもる」と「吃音」。動詞と名詞。繰り返さずにはいられないものがある。それが最初の連と最後の連の間で、それこそ「吃音」のように、聞き取りにくいがゆえに、聞かなければならない切迫感で展開される。
 引用はしなかったが、「五歳の娘」と「あれから娘は二十九になり」から、その「切迫感」のなかには二十四年間がある。だが、時間とは、物理的なものであって物理的ではない。ある人の二十四年間はとても長いが、山田の二十四年間は吃音、どもるときの、ことばにならない瞬間的な音の空白、沈黙のなかにある。音が破裂する瞬間にある。それはいつでも「いま」という一瞬の時間であり、濃密、凝縮された時間である。
 これは「わざと」でも「わざわざ」でもない。山田の「必然」である。ひとが必然とするものは、それぞれによって違う。

 安俊暉「回帰」。(原文には一行空き、二行空きの区別があるのだが、一行空きで引用した。)

われ
折るゝところ

靄の

その先の

いつも
佇む所

こぶし花
咲く

 安のことばは吃音ではないが、吃音に似ているかもしれない。言いたいことが肉体の内部から、肉体を破って出てくる。「先」「その先」へと。それは、とても短い音だ。音は短いが、その音が生まれ、それがことばになるまでには時間がかかる。それぞれの音、ことばが過去をもっている。
 「過去」は「いつも」になる。「いつも」は「いま」になる。つまり「過去」は「いま」になる。山田の「隠された二十四年」が「いま」であるように。
 そして、それは安の場合、「こぶし」になり、「花/咲く」。
 この詩の「咲く」は非常に強い。それは「状態」ではなく、「運動」なのだ。しかも、それは繰り返し咲くのである。つまり、そのつど「いのち」がよみがえるのである。
 先に繰り返された「光」は、こう形を変える。


届き来る
わが命
あるところ


帰り来る
足音

 「届き来る」「帰り来る」。「来る」という動詞が結びつける「君」と「わが命」。これは「予定調和」ではなく、何度でも繰り返される「必然」である。
 安のことばにも「わざと」はない。

 太田美和「砂金 詩人ユン・ドンジュをしのぶ会」。その最後。

日本語訳であなたの詩を読み上げたことも
許してください
原詩と日本語訳と英語訳で朗読される詩の
英語訳のぎこちなさから察すれば
日本語訳では掬い取れない原詩のエッセンスが
さらさらと砂金のように
こぼれ落ちては光を返す

 散文のような、事実をひとつひとつ積み上げて真実にたどりつこうとすることばの運動。「エッセンス」という生硬なことばが、ここでは、それこそ「砂金」のように輝いている。
 比喩は、詩の場合、それこそ「わざと」書くものだが、その「わざと」が「自然」になるとき、そのことばの奥では「必然」が動いている。「許してください」と言えた大田だからこそ、たどりつけた自然な「発光」がある。反射ではない光がある。おのずから発する光である。

 

 

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中井久夫『記憶の肖像』

2022-12-25 22:44:14 | その他(音楽、小説etc)

中井久夫『記憶の肖像』(みすず書房、2019年10月21日発行)

 思い立って中井久夫を読み返している。みすずから「中井久夫集」が出ているが、あえて、単行本を開いた。私が持っている本のカバー写真は、裏焼きである。中井がドイツで撮ったものだが、車が左側通行している。中井自身が、わざわざ手紙で写真が裏焼きだと教えてくれた。黙っていれば、たぶん、私は気がつかなかっただろう。中井はきっと知っていることを黙ったままにしておくことができない人間なのだと思う。誰に対しても非常に誠実なのだと思う。
 そして、それはときどき奇妙な「はにかみ」のような形であらわれるときがある。
 「N氏の手紙」というエッセイがある。西脇順三郎と手紙をやりとりしたときのことを書いている。その最後の部分。

 私の友人に、未見の人の写真も一たび目に触れれば記憶に残るという映像記憶能力を持っていた男がいる。精神医学で「エイデティカー」といわれる種類の人である。彼が酒場でN氏に会った。ものおじしない彼は、相手の名前を確かめ、それはいつもの通り当たっていて、その夜は汲み交わす仲となった。氏は、友人の経歴を聞いて、私を知っているのかと聞かれ、今どうしているか、と尋ねられたそうである。書簡往復の七年後である。

 私が医学部に行ったむねをいうと、氏は「そりゃいかん」と叫ばれたそうである。その意味は分からない。文学を捨てたという意味でないことは明らかである。往復書簡当時の私は法学部の学生だったから。氏は、むしろ医学と文学の二足わらじでもはこうとする心得違いを思われたのではないだろうか。私には、そのつもりはなかったのだが--。

 そのまま読めば、中井の友人が西脇と酒場で会った。西脇が中井の消息を聞いた。友人は医学の道を歩んでいると答えた。それに対して西脇は「そりゃいかん」と叫んだ。それを聞いて、中井はあれこれ思った。そのあれこれは正確には書いていない。
 私は、この「友人」を中井自身だと思って読んだ。中井は西脇の写真を見たことがあるだろう。だから西脇だと気づいて話しかけた。西脇は書簡をやりとりしたが、たぶん、中井の顔は知らない。しかし、書簡のことは覚えているだろう。それで、いまはどうしているのかと聞いたのだろう。中井は、医学の道を進んでいると答えた。
 中井が西脇と書簡をやりとりしたのは十八歳のとき。それから七年後、二十五歳である。私は医学部のシステムを理解しているわけではないが、中井が卒業した直後であろう。その当時、中井がどれくらい「文学」に向き合っていたか、私は知らないが、この「そりゃゃいかん」という叫びを聞いて、文学の道も捨てなかったのではないか、と想像している。
 中井が「エイデティカー」であるかどうかは知らないが、視力の記憶力が強いということは、中井の描いた絵を見ればわかる。私は数枚を見ただけだが、デッサンがとてもしっかりしている。文学と同じように素人の域をはるかに超えている。中井は、その目の記憶力ゆえに、西脇とすぐにわかって話しかけたのだろう。
 なぜ、こんなことを考えるかというと。
 「氏は、友人の経歴を聞いて、私を知っているのかと聞」いたというが、書簡を通じて中井が知らせた「情報(経歴)」というのは、十八歳で大学を休学中くらいだろう。法学部の学生だと名乗ったかどうかもわからない。だから「友人の経歴」を聞いて(友人が何を語ったにしろ)、中井を知っているかとは質問しないだろう。質問できないだろう。京都大学の学生は、何人もいる。中井は法学部から医学部に針路を変更しているから、法学部時代の友人がいたとしても、中井とずっと親しいと想像することはむずかしい。その友人が西脇と会った。友人が中井の話を出さないかぎり、西脇は中井のことを聞かないだろう。
 西脇は、中井に「今はどうしている」と直接聞いたのだ。もちろん、そのことを知っているのは中井だけである。どこにも、証拠はない。だからこそ、そのことを中井は「虚構」にして語っているのである。
 だいたい、中井は、他人のことを「私の友人」というようなあいまいなことばでは表現しない。「匿名」のままであるにしろ、職業や肩書を書くことで、それがどういう人物か想像できるように書く。しかし、この文章では「私の友人」としか書いていない。いや、映像記憶力の強い男と書かれているが、これでは「その友人」を直接知っている人以外には伝わらないだろう。そして、そのことは逆に言えば、中井を知っている人なら、この「友人」とは中井自身のことであるとわかるように書いているということだ。
 この少し手の込んだ文章に、私は、なんとなく中井の「はにかみ」を感じるのである。それは西脇を「N氏」と書いていることからもわかる。注釈で「N氏」が西脇であると書いているけれど、注釈で書くくらいなら、最初から西脇と書けばいいのである。そう書かないのは、やはり中井の「はにかみ」だろう。
 中井は、私のような人間にもとても親切に接してくれた人だけれど、それは中井の「はにかみ」が影響しているかもしれない。「友人」の性格を「ものおじしない」と中井は書いているが、誰かに対して「ノー」ということ、拒絶することに対しては、とても「ものおじ」のする人だったのだと思う。他人を拒むことが苦手な人だったのだと思う。

 注・西脇は1982年に死んでいる。中井がこの文章を書いたのは、1985年である。だれかが、西脇に対して、中井久夫に会ったことがあるかと確認しようにも確認できない。そういうこともあって、中井はあえて「友人」という形で、西脇との交流を補足しているのだろう。
 末尾の「私には、そのつもりはなかったのだが」にも、「はにかみ」がある。医学と文学の二足のわらじをはくつもりはなかったが、いま思うと二足のわらじ状態だ認識している。しかし、そこには後悔はない。中井は何も拒まないと同時に、自分のしていることを後悔しない人間だ。常に、前へ進む。しなやかに変化し続けて、進む。

 

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「現代詩手帖」12月号(16)

2022-12-25 10:58:24 | 現代詩手帖12月号を読む

「現代詩手帖」12月号(16)(思潮社、2022年12月1日発行)

 平鹿由希子「集真藍忌考」。あづさいいみこう、とルビが振ってある。「集真藍」が「あづ(じ)さい」。本当の藍色を集めた花、ということか。音が漢字のなかで意味になるのか、音を漢字の意味が破壊するのか。
 どちらかわからないが、平鹿は、「わざわざ」こんな書き方をしている。私は「わざと」違う読み方をする。
 私は、漢字に破壊されても破壊されても、よみがえってくる音、音がよみがえってる部分が好きだ。たとえば、

水は火をけす魂鎮め 相生醒める浮気者の心根のよに七変化
「あなたは冷たい あなたは冷たい」
憂き言の葉は 萼の四片の咎じゃない

 「あいおい」「あだびと」「あなた」「あなた」。繰り返される「あ」が「あじさい」を呼ぶ。「がく」「とが」の逆さしり取りみたいな感じの響きが、「あなたは冷たい あなたは冷たい」を「花占い」のことばのように感じさせる。「あなたは冷たい あなたは温かい」ではなく「冷たい」と繰り返すところが、恨みがこもっていていいなあ、と思う。

おたくさ たくさ しどけなく なまじの花器を拒むよに 花盗人の訪れを待つ
「おはさみ かりんこ おはさみ ちんりこ」茎剪み

 ここも「音」がことばを動かしている。

 平田俊子「ラジオ」。

畳の下から声が聞こえる
一階の人が
今夜もラジオをつけたらしい

 「畳の下」が「わざと」である。平田は、いつもかどうかはよく知らないが、「わざと」ひとを喰ったようなことばの動かし方をする。
 昔、私がまだテレビを見ていたころ、和田アキ子が司会していた番組で出演者が「あてこすり」の会話をするコーナーがあった。中尾ミエが、出色だった。「いま」をあてこするのではなく、少し前のことをあてこする。だれもが知っている。そして、忘れかけている。それを思い出させる。
 平田の「畳の下」が、それにあたる。
 いまの若い世代は、きっと「意味」が取りにくい。これがぴんと来るのは、木造のアパート、畳の部屋(四畳半のアパート、がよりわかりやすいか)で暮らしたことがある人。いまは鉄筋、コンクリートの床が主流だから、想像はしにくいかもしれない。しかし、木造のアパートで暮らしたことがある世代(たとえば、私や平田)なら、これだけで一つの情景が浮かぶ。その情景を「念押し」するのが「ラジオ」である。深夜ラジオが流行していた時代がある。(そのひとたちが、「ラジオ深夜便」を聞いているとか。)

畳を通して聞こえる声は
誰かのおしゃべりも歌も
くぐもっている
意味を失い
音だけになった言葉が
階段を使わずに二階に届く

 これが半世紀前に書かれたのなら、それはそのまま、マンガ「同棲時代」になるかもしれない。
 平田が「いま」を書いているか、過去の「記憶」を書いているのかわからないが、「いま」にしろ、そこには「過去」が入り込んでいる。これは、平田の「わざと」である。「わざと」、平田自身の「肉体」を見せるのである。私がよくつかう比喩を持ち出せば、いわゆる「役者の存在感(肉体の過去)」である。
 それはそれでいいけれど。
 でも、そういう「存在感」って、何か、鼻持ちならない。「ひとを喰っている」という印象は、そこから生まれるかもしれない。これは、私だけが感じることかもしれない、と私は「わざと」書いておく。

 松下育男「川ひらた」。「私が生まれたのは九州福岡です。」と、松下は、これから書くのが「過去」であると、あるいは「過去」を思い出している「いま」であると「わざわざ」書き始める。「わざと」かもしれない。
 そして、それは

東京に出てきてから父はさらに寡黙になりました。晩年は穏やかな顔から「ほとけさま」とあだ名されていました。この詩を書きながら私も「川ひらた」を思います。父母はどのように私をここまでたどり着けてくれたのかと。わが家は浅瀬でどれほどにしなったのかと。

 予定調和の「余韻」で終わる。「父はさらに寡黙になりました」の「さらに」が、私が引用しなかった部分をすべて暗示させるだろう。つまり、逆に言えば、最初からずーっ読んできて、ここで「さらに」が出てきた瞬間、この詩は「おわる」ということがわかるように書かれている。
 それが松下の「作詩術」である。「術」であるから「わざと」であるといえるが、松下は「わざと」とは感じていないと思う。「自然」と感じていると思う。そして、私はこの「錯覚」が実は嫌いである。「さらに」では、ぞっとするひとは少ないかもしれないが……。次は、どうだろう。

この詩を書きながら私も「川ひらた」を思います。

 この「私も」の「も」はいったい何なのだ。私は、ぞっとする。松下以外の、いっ  たいだれが「川ひらた」を思い浮かべているか。松下の父か、母か。
 なんというか、松下が思い浮かべるものとは違うものを思い浮かべる人間がいるということを、松下は拒否している。世界を閉ざすことで「完結」している。そして、それを「わざ」とではなく「自然」と思っている、らしい。そればかりか、それを「理想」と思っているようにさえ見える。「さらに」に、その「予定調和の理想」の「押しつけ」がある。「も」に「予定調和の理想」の念押しがある
 ついでに書いておけば。
 「父母はどのように私をここまでたどり着けてくれたのか」の「たどり着けてくれた」は妙な言い方ではないだろうか。「たどり着かせてくれた」「たどり届けてれた」が自然ではないだろうか。「たどり着く」は自動詞。父母が主語なら、他動詞をつかうのが自然だろう。ここにも松下の自他の混同があると思う。松下の「予定調和」はあくまでも「松下の予定調和」であって、それを押しつけられたくないなあと私は感じる。

 

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なぜ、いま?(読売新聞記事の書き方、読み方)

2022-12-24 13:16:46 | 考える日記

 2022年12月24日の読売新聞(西部版・14版)の一面。
↓↓↓
「特定秘密」漏えいか/防衛省 海自1佐処分へ/OB依頼 複数隊員通し(見出し)
 海上自衛隊の1等海佐が、安全保障に関わる機密情報にあたる「特定秘密」を外部に漏えいした疑いがあることが、政府関係者への取材でわかった。防衛省は近く1佐を懲戒処分にする方針だ。特定秘密の漏えいが発覚するのは初めて。
 政府関係者によると、海自OBが、知人の現役隊員に接触し、複数の隊員を経て1佐の元に依頼が届き、漏えいにつながったという。
↑↑↑
 「政府関係者への取材でわかった」と書いてあることからわかるように、これは防衛省の発表ではない。「特ダネ」である。
 どうして、わかったのだろうか、というよりも、私は「いつ」わかったのだろうか、ということの方に関心がある。
 きょうの、ふつうの新聞各紙のトップは「来年度予算」だと思う。(確認していないので、わからないが。)その内容といえば予算規模が114兆円、防衛費が今年度より6・7兆円増えることだろう。
 なぜ、そんなに防衛費だけが増えるのか。
 だれもが疑問に思うだろう。
 その疑問に答えるには、日本が攻撃される危機が強まっている、というのがいちばんである。その「攻撃の危機」は、特定秘密の漏洩という形でも起きている。日本の情報が狙われている。
 でも、どこの国が、あるいは誰が、特定秘密を手に入れたのか。それは、読売新聞の記事には、まだ、書いていない。「海自1佐」が漏洩した(処分を検討する)というところまでわかっているのだから、当然、漏洩先もわかっているはずだが、それは「政府関係者」から教えてもらえなかったのか、教えてもらったけれど、「特ダネ」の第二報に書くために残しているのかわからないが、書いていない。
 これは逆に言うと、今後もこのニュースが「一面トップ」に書き続けられるということである。そして、それは「予算」の問題をわきに押しやるということである。
 これが、このニュースのほんとうのポイントだと私は考えている。
 「安保の危機」をアピールする。その結果として、防衛費の増額を当然のこととする。その方向に世論を誘導していく。
 「特ダネ」だから、今後次々にたの報道機関がこのニュースを追いかけるだろう。つまり、このニュースのつづきが、紙面を埋める日がつづくのである。その間、防衛費が大幅に増えるということが忘れられる。あるいは、「特定秘密」まで狙われている、防衛費が拡大されるのは当然だという方向に世論が誘導される。
 そういう誘導をするための、リークである、と読む必要がある。

 で、問題はもとへもどって、「いつ」リークされたか。
 やはり、このタイミングで、リークされたのだ。予算の閣議決定に合わせてリークされたのだ。
 読売新聞の記事を読むかぎり、漏洩した人物は特定されている。そこからさらに漏洩が広がるということもない。すでに漏洩された内容も把握されている。処分することも決まっているらしい。
 海自1佐と漏洩を巡る「過去」はこれから次々に出てくるが、きょう以降(未来の時間に)漏洩が起きる可能性はない。だから、このニュースは、海自1佐を処分してからの発表でもかまわないわけである。
 だとしたら、やはりいちばんのポイントは「リークした時期」、なぜ読売新聞がその記事をきょう書いたかである。
 一面のトップ記事が予算ではなく、「特定秘密」漏洩か、という疑問形のニュースであることの意味を、私たちは考える必要がある。そのニュースは、私たちの生活に直結する予算よりも重大なニュースなのかどうか、考える必要がある。

 

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