詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フィリップ・シュテルツェル監督「アイガー北壁」(★★★★)

2010-05-21 23:31:36 | 映画
監督・脚本 フィリップ・シュテルツェル 出演 ベンノ・フュルマン、フロリアン・ルーカス

 映画というのは不思議である。結末がわかっていても、違う結末を想像してしまう。「アイガー北壁」が描いている「事実」を私は知らないが(知らなかったが)、映画の冒頭で、北壁に挑んだ大切なひとが死んでしまった(登頂に失敗した)ことは明確に語られる。恋人の女性が、男が残していった手帳をめくりながら、回想する形で映画は始まるのだから……。
 それなのに、クライマックスで、恋人(男)は助かるのでは? と思ってしまうのだ。だって、映画でしょ? 映画だったら、恋人が助からないで、いったいどうする? ほら、最後の力をふりしぼって男がロープに手をのばす。その手はきっとロープにとどく。愛の力が奇蹟を起こすはず。
 この映画のテーマはアイガー北壁に挑んだ男たちの現実を描くことだけれど、ね、その背後にあった熱い愛、愛がいのちを救った--それこそ、感動的なテーマ。きっと、助かる。恋人が祈っているだけではなく、恋人の情熱に引きずり込まれるようにして、地元の登山家が救出に参加している。彼らは、単に、男のいのちを助けるために救出に山をのぼったのではなく、女のいちずな愛にこたえたいからでもあるんだよねえ。だから、きっと助かる。
 ほら、あと少し。もう一回、力をふりしぼって。頑張れ、頑張れ、頑張れ。
 あ、まるで、恋人を見つめ祈る女になりかわって、祈り、祈りながら、どきどきしてしまう。
 この不思議さ。

 そして、登場人物とのこの不思議な一体感のあと、もう一度不思議なことが起きる。それこそ奇蹟が起きる。
 主役は死んでしまう。アイガー北壁に挑んだ二人のドイツ人、二人のオーストリア人は死んでしまう。死んでしまったのに、その二人が、映画を見終わったあと、こころのなかで甦る。特に、トニーが強く甦ってくる。冷静で、いつも安全を、いのちを大切にしていた男。けがをしたオーストリア人登山家を助けることを優先して北壁登頂をあきらめた。その結果、最悪の悲劇が起きたのだけれど、そのトニーが他人に向けた愛--いのちを最優先にするという姿勢。それが、ふっと、甦ってくる。あ、あのとき、そのいのちを最優先し、万全の態勢で行動するということを守っていいたら、この悲劇は起きなかったのに……という後悔もいっしょに甦る。そして、そういう常にいのちを大切に生きるという姿勢がにじんでいるからこそ、他人(いっしょに行動する友人)を惹きつけ、恋人を惹きつけ、それから地元の登山家(救出に向かう登山家)を惹きつけるんだろうなあ、ということがわかる。
 とても立派な登山家だった。偉大な人間だった、ということがわかる。映画を見ているときは、はらはらどきどきしていただけだが、映画が終わって、トニーが死んだ瞬間から、トニーが私のこころの中で生きはじめるのである。
 私は登山をしないが、あ、そうか、登山のときは何に気をつけなければいけないのか、ということもトニーのことばとしてわかるのである。登頂よりも大切なものがある。いのちである。生きて下山するということである。どんなときでも、下山のことを考えておくべきである。むりはしてはいけない。けれども、可能ならばそれはしなければならない。それは、誰かのためではなく、自分のためである。

 映画の結末は、映画の冒頭でわかったが、映画が見終わったあと、私のこころの中で誰が生きはじめるのか、どんな奇蹟が起きるのか--それは、わからなかった。あ、この不思議な奇蹟を体験するために、映画はあるんだねえ。


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北川透『わがブーメラン乱帰線』(6、その2)

2010-05-21 22:25:39 | 詩集
北川透『わがブーメラン乱帰線』(6、その2)(思潮社、2010年04月01日発行)

 さて、七日目--のはずであるが、「ギャーッ」。七日目がない。

六日目の夜。
まだ、わたしは家には帰らない。帰れない。

 なんなだなんだ、六日目は「朝」と「夜」と二回、詩を書いている? 急いでページをめくると、スーページ先に、

夢にうなされて目が覚めた。
たしか七日目の朝だろう。

 おおおい、北川さん、裏切りじゃないか。裏切りだよ。こんなふうに、突然、朝と夜とに一日をわけるなんて……。
 と、書きながら、実は、私はこの裏切りが好き。なんというか、闘争心がわいてきますねえ。負けない、つきやってやるぞ、追い付いてやるぞ、なんて思ってしまう。こういう気持ちになるから(させられるから)、詩というか、文学というか、芸術って楽しい。
 いくら頑張ったって、私が北川のことばに追い付けるなんてことはありえないのだけれど、でも追い付きたいという気持ちにさせられる。ことばを読み進めたいという気持ちにさせられる。瞬間が、なんとも、うれしいのだ。
 追い抜いてしまった(そう感じる)ことばはおもしろくない。脇をすーっと走っていってしまうことばを見た瞬間、あ、追い付きたい、そのスピードにあわせて走りたい、そのスピードで走ることばが見るものを見てみたい--そういう気持ちになる。
 
 「ギャーッ」と叫んで、それから、私は大急ぎでことばを追いかける。速く追いかけないと、22日(7日目)になってしまう。

まだ、わたしの詩は一行も書けていない。
空漠とした天上から濃い闇が海面に降りてきて、
ポー、ポー、ポーと気だるく汽笛が鳴る。
高く低く、強く弱く、かすかな光が尾を引いて、
めざめる。ゆっくりと、それが何だと言うのではない。
わたしは幾度もことばを失った。でも、
いま、胸に響いているものは何か。

 きのうの「短歌」の影響だろうか、「汽笛」というような日本的情緒にことばがひっぱられている。ああ、この瞬間こそ、「ことばを失った」ということなのかもしれない。ただ、何かを言えなくなる、ことばがつづかなくなる--というのではなく、ことばが、それまであったことばのなかにかすめとられていく。その瞬間こそが、ことばを失うということなのだと思う。不思議なのは、そういうときも、「胸に響いている」ものがあるということだ。
 でも、それは、北川が否定すべきものだ。

そんなものはない。そんなものを信じて、
おまえの体内の真っ赤なインク壺をぶっちゃけるな。
汽笛は鳴っても……、繰り返し鳴ってはいるが、
船は影さえ見せない。詩はノスタルジックな汽笛ではない。
詩は経験のぼろ屑、世界に見捨てられた玩具、
詩は臭い断片の集積、おまえと他者が必死に生きて排泄した経験の、
詩は剽窃、裏切り、ひ弱で卑賤な感覚の綴れ織り、
詩は宙吊り、仮死、調子の狂ったコレクション、
詩はことばのチェーンスモーカー、中毒、四肢錯乱……

 詩を真剣に模索している北川がここにいる。





詩的レトリック入門
北川 透
思潮社

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小池昌代『怪訝山』(2)

2010-05-21 12:28:59 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『怪訝山』(2)(講談社、2010年04月26日発行)

 小池昌代が書こうとしている「いまこのとき」。その矛盾したというか、どこにも属さず、ただ生身の身体だけがあって、それが「ここ」ではないどこかへとつながってしまう感じ--それは詩、というものかもしれない。
 「いまこのとき」は「いま」から離れて、「いま」ではなく「過去」「未来」、「ここ」から離れて「どこか」と結びつく--いや、融合する。「空白」として、融合する。
 その瞬間に、詩があらわれる。
 小池昌代は、私にとっては小説家であるというより詩人なので、私はどうしても彼女の文章に詩を読みとってしまう。 
 たとえば、「木を取る人」の書き出しのあたり。湯船に入って、栓をぬく。お湯がなくなり、裸の体が残される描写。同じことを、小池は2度繰り返して書いている。1度では書き足りずに2度書いている。

 その、一瞬手前に宿る認識のようなもの。

 2度書きながら、「その、一瞬」と強調するときの「その、」が「いまこのとき」である。「いまこのとき」には、意識が過剰にふくまれている。過剰であることによって、「いま」を超え、「過去」「未来」、あるいは「ここ」ではない「どこか」と融合し、その瞬間に、それが「いま+ここ」、つまり「いまこのとき」になる。

 いま、私は、偶然のようにして、「いまこのときに」なる、と書いたが、その「なる」ということが「いまこのとき」に起きているすべてかもしれない。そして、何かが何かに「なる」という変化の瞬間こそが詩なのだ。
 「なる」ということばをつかった文章がある。そして、こそに詩があらわれてくる部分がある。「木を取る人」の後半部分。

 役割を終えた雑巾は、バケツの端に広げられてかけられる。その表情は、よく使われたモノだけが持つ、さばさばとして、いい具合にくたびれた感じがあった。義父の手にかかると雑巾さえも、それにふさわしい、ある輪郭を取り戻す。雑巾は雑巾になり、きみしぐれはきみしぐれになる。

 きのう書いた「怪訝山」にもどれば、「いまこのとき」、美枝子は美枝子になり、イナモリはイナモリになる。コマコはコマコになる。それは「過去」でも「未来」でも、「いま」でもなく、ほんとうに「いまこのとき」なのだ。意識の空白において、思うとき--その矛盾のとき。
 そういう「とき」に私はひきつけられる。すいこまれる。

小池昌代詩集 (現代詩文庫)
小池 昌代
思潮社

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北川透『わがブーメラン乱帰線』(6)

2010-05-21 00:00:00 | 詩集
北川透『わがブーメラン乱帰線』(6)(思潮社、2010年04月01日発行)

 ……六日目の朝が来た……雨が降って……庭の地面が柔らかいので……

 あ、もう六日目なんだねえ。私は何を書いてきただろうか。北川は何を書いてきたんだろうか。申し訳ないが、いい加減、記憶があいまいになる。わかるのは「六日目」だけですねえ。
 で、私の街では、いまは雨シーズン。きのうの雨が残っている。犬を散歩させていると、公園に水たまりがある。水が大好き、泥んこ遊びが大好きなわが家の犬は、水たまりのなかで立ち止まる。ちょっと顔を上げて、「いい?」と目で聞く。泥んこ遊びを嫌いなオーナーさんがいて、「だめーっ」「汚れる」と大声を出すときがある。私は平気だけれど、そういう「他人」の声にも反応する犬なので、「ご意見うかがい」を目でするわけなんです。
 「いいよ」と返事をすると、びしゃっと腹這いになる。そこからごろごろごろ。存分に体を泥水で冷やしたあと、ぷるぷるぷるっ。
 「すんだ? 遊んだ? きょうはお風呂だね」
 風呂が大好きなので、あとはとっとっとっとっと家まで小走り。

 あ、北川の詩とは関係ないことを書いてしまいましたねえ。でも、いいじゃないですか。六日目なんだもの、少しくらい寄り道したって。どんなことであれ、他人を刺激するなら、それは、詩。私は、いまが雨シーズンでなければ、きっとこの書き出しには反応しなかった。けれど、たまたま雨が降っていた。だから、それを「入り口」にして北川のことばに反応してしまった。
 詩には、そういう要素もある。いや、そういう要素しかないかもしれない。いまの自分とまったく関係ないことばに出会っても、そんなことばについてあれこれ考えるなんて、きっとできないと思う。
 で、「雨」から、きょう詩に接近していくのだけれど、つづかないですねえ。
 「雨」を振り切って、北川のことばが動いていく。ぜんぜん関係がないところへ動いていく。話者(?)も北川(らしい、男)から、北川の妻(らしい、女)にかわって、その妻は、なにやら嫁の浮気(?)を喫茶店で覗き見している。--このスピードと、ことばの動きに余分なものがない、いや、夾雑物だらけなのだけれど、スピードが速いので、それが夾雑物という印象がないので、そのままぐいぐいひっぱられていく。
 ストーリー(?)がつづかないのに、何がどうなっているのかわからないのに、そのことばのスピードにひっぱられて、いっしょに掛けだしてしまう。
 そして、その瞬間に思うのだ。
 北川が書いているのは、そういうことだな。「内容」ではなく(と言い切ってしまうと申し訳ないが)、ことばのスピード。軽さ。そして、強さ。いろんなものを抱え込みながら、どこまでもどこまでも疾走する。
 妻のことばは、かっこ( )のなかに、さらにかっこ( )にはいっている。つまり((…………))という形で書かれているが、それはある意味では、北川のことばのなかに乱入してきた「他人」のことばであるが、そういうことばさえ、北川はかっこにくくって自分のものにしてしまう。闖入してくるものを邪魔者として取り除くのではなく、あるいは闖入を拒絶するのではなく、どんどん取り込み、それを北川のことばを押し進めるエネルギーにしてしまう。
 なんでもいいのだ。ことばでありさえすれば、そのことばには詩になる可能性がある。いや、詩を生み出すためのエネルギー、圧力になる。過去の自分の詩集のことばも、中也のことばも、ネルヴァルのことばも、どんどん取り込む。取り込みながら、いまの自分のことばとの違いを見つけ出し、その「違う」なにかに突き進んでゆく。
 闖入してくることば、あるいは意識が呼び込んでくることば(引用)は、北川を邪魔すると同時に、北川のことばが突き進み、突き破るための対象にもなるのだ。この「矛盾」。「矛盾」をものともしないというよりは、「矛盾」をみつけて大はしゃぎする北川の、そのことばのよろこびが楽しい。
 (と、書いて、私は、ふとわが家の犬、いまキーボードをたたく私のそばで眠っている犬の、あの水遊びを思い出す。楽しいよねえ。むちゃくちゃができるは、楽しいよ。良識ある誰かが、「だめーっ」と叫ぶことをするのは楽しいよ。)

これ以上は危険だ。シマヴィ、わたしに近づかないでおくれ。
いや、近づいておくれ。おまえとわたしの区別がつかないほどに。
醜いがきれい、きれいが醜い、醜いがきれい。

 いいなあ、この何もかもが区別がなくなり、融合してしまう瞬間。醜い、だからこそきれい。きれい、だからこそ醜い。矛盾したものは、矛盾しているからこそ、矛盾していないのだ。
 そういうことばのあとに、北川は、なんとも不思議な愉悦に満ちたことばを書いている。

みずみずと熟したわたしのサクランボ噛んでもいいけどやわらかに

からはじまり、

錯乱よああサフランよランボーよ 地獄の季節に サクランボ摘み

 途中に「桜桃忌」ということばもでてくるが、最後は「サフラン摘み」だね。罪だねえ。このことば遊び。そして、このことばのリズム--なんと、短歌である。短歌の抒情的(日本的感性?)を突き破りながら、リズムだけ利用して、動くことば。
 ことばは、どこへでも動いてゆけるのだ。

 

窯変論―アフォリズムの稽古
北川 透
思潮社

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