詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ロネ・シェルフィグ監督「17歳の肖像」(★★★★)

2010-05-27 21:16:47 | 映画
監督 ロネ・シェルフィグ 出演 キャリー・マリガン、ピーター・サースガード、エマ・トンプソン

 予告編を見たとき、キャリー・マリガンの魅力がよくわからなかった。頭がよくて、利発な少女というのは、そんなに珍しいものではない。演技をしているという感じも、「地」のナイーブな輝きを発揮しているというふうにも感じられなかった。
 ところが。
 本編でキャリー・マリガンを追っていると、その表情の変化に呑み込まれていく。
 ストーリーは少女がおとなの女性に変化していくという、いわば、ありきたりのものである。そこには当然ずるい男がからんでくる、というありふれたものである。
 この映画は、そのストーリーに、しかし、少しだけ特別な味付けをしている。少女の両親(家族)もいっしょに男にだまされる、ということを描いている。
 そして、そこにいっしょに騙される両親がいることで、キャリー・マリガンの演技の幅の広さ、素材のおもしろさがいっそう際立ってくる。家族の中では、家族が(特に父親が)、人生の疲労感を家中に満たしてしまう。少女はその疲労感がたまらなく嫌い。その疲労感から脱出するためには父がいうように有名な大学に進学しなければならない、という一種の疲れて切った人生観と向き合っている。そこでみせる若さ。それが、この手の映画ではちょっと珍しい。(学校、校長、担任とのやりとりのなかにも類似のことが起きるが……。)
 そのキャリー・マリガンが男の前では一変する。どんどん「抑圧」から解放されていく。若さ特有の無邪気、無防備(うぶ)から、秘密の共有、悪の容認、罪のよろこび……。その果の疲労。そして、そこからの覚醒。
 キャリー・マリガンは21世紀のオードリー・ヘップバーンとも呼ばれているらしいが、オードリーと違うのは、キャリー・マリガンは「純粋な夢」、その精神性だけで観客をひっぱるのではなく、もっと肉体を感じさせることだ。肉体といっても、マリリン・モンローのような肉体という意味ではなく、そこに生きているというときの肉体という感じ。キャリー・マリガンの「恋愛」はオードリーの恋愛と違って、あいての男を改心させない(たとえば「昼下がりの情事」)、つまり恋愛そのものとして昇華しない。燃え上がらず、燃え残ってしまう。
 その燃え残った何かをていねいに具体化してみせることができる。それがキャリー・マリガンである。この燃え残りの肉体というのは、最初に書いた両親、それから学校の校長、教師の疲労感ともつながっていくものでもあるけれど、それがそうであることを知って、いま、ここ、つまり青春にとどまる--そのときの肉体の強さ。そういうものをしっかりと体現している。
 ファニーフェイス(?)の魅力だけではなく、演技力をもった女優として、とてもおもしろい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子兜太『日常』抄

2010-05-27 11:13:41 | その他(音楽、小説etc)
金子兜太『日常』抄(「ふらんす堂通信」124 、2010年04月25日発行)

 「ふらんす堂通信」124 に金子兜太『日常』の抜粋が掲載されている。冒頭の句がおもしろい。

猪の眼を青と思いし深眠り

 私は俳句は知らない。「深眠り」がもしかすると季語なのかもしれない。だが、まあ、季節とは関係なく、深い眠りのなかで猪と出会っていると思えば楽しい。このとき、猪は対象なのか金子なのか、ちょっとわからない。猪の目が青いと思うのもいいけれど、もし自分が猪なら目は青だぞ、と決めて(句では、「思い」と書いているが、「思う」のうちには、「決める」というこころの動きもあるだろう)、深い眠りに入る。
 青い目の猪--というのが、ちょっと「異界」を感じさせ、なんだか、その異界の「王」にでもなった感じ。百獣の王といえばライオンだが、ライオンのいない日本では狼か猪くらいが百獣の王だろう。狼のようにいかにも狂暴そう、こわそうというのではなく、体つきがなんとなく愛嬌もある猪。でも、強い。そのあたりのアンバランスも、夢見るにはいいかなあ。

木や可笑し林となればなお可笑し

 これは、おかしいね。林は木がふたつ。そりゃ、おかし+おかし=なおおかし、だね。「山笑う」というようなことばも、ふと思うねえ。山には木がたくさん。「おかし」×無数。笑ってあたりまえだね。
 でも、そう考えると、またおかしいねえ。
 「木や可笑し」と思っているのは「私(金子)」。木二本(?)の林は「可笑し可笑し」、木が無数の山なら「可笑し×可笑し」になってしまうかもしれないけれど、そう思うのは「私(金子)」。で、笑うのはたいてい「おかしい」と思っているひと。金子だね。「山笑う」は「山が笑う」ということであって、金子が笑うというのとは、違うね。木がいくらおかしくても、その木が何本集まっても、おかしいと思うのは「私」であって、山(木)自体がおかしいと認識するわけではないから、笑わないね。
 こうやって、論理的(屁理屈的?)にことばを動かしていくとわかるのだが、俳句というのは、どこかで「私」と「対象」が溶け込んでしまって、区別がなくなる世界だね。
 「山笑う」は山の緑が萌え出てきて、急ににぎやかになる、華やかになる様子をいうのだろうけれど、その山の木々そのものがおかしいと感じ、それを笑う「私」が存在すると、その「笑い」のなかで、世界そのものが融合する感じがする。笑っているのは、山? それとも「私」? こんな質問は、くだらないね。山が笑えば私も笑う。木がおかしければ、それを見て笑う私もおかしく、同時に楽しい。楽しさのなかで、木と「私」の区別がなくなる。
 「木は可笑し」というとき、木は木ではなく、木は「私」なのだ。同じように「林」というとき、そこに林があるだけではなく、その林そのものが「私」なのだ。対象と「私」は結びついて、離れない。その分離不能な状態のなかでことばが動くと俳句が生まれるんだろうなあ。

走らない絶対に走らない蓮咲けど

 これは、医者から「走ってはいけません」と止められている金子の様子かな? 蓮が咲いている。それが見える。もっと近くでみたい。近くで一体になりたい。その気持ちが肉体を「走る」にむけて動かす。でも、先生は「走ってはいけない」と言った。走らないぞ、走らないぞ、とことばで言い聞かせている。言い聞かせれば言い聞かせるほど、肉体は走りたがる。
 その矛盾と、蓮の、豪華な感じの対比がいいなあ、と思う。
 一方、(何が一方なのかしら、と書きながら思ったけれど……)

頂上はさびしからずや岩ひばり

 この清潔な感じも、おかしくていいなあ。



句集 日常
金子 兜太
ふらんす堂

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時里二郎「「《漂流物ノート》による《仮剥製辞譜》の試み」緒言」

2010-05-27 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「「《漂流物ノート》による《仮剥製辞譜》の試み」緒言」(「ロッジア」7、2010年01月31日発行)

 時里二郎「「《漂流物ノート》による《仮剥製辞譜》の試み」緒言」は、《わたし》が引き寄せた(わたしに漂ってきた?)ことばの「標本」に、「註解」をつけて詩を書くという試み--そのための「まえがき」のようなものである。ていねいにも、その「まえがき」に「註解」がついている。
 時里が愛用する「入れ子構造」である。
 「入れ子」によって、ことばは外へ出ていかない。ひたすら内部へと反射しながら、その構造複雑にしていく。そうすると、そこには「ことば」があるのか「構造」があるのか、ちょっとわからなくなる。あるいは、「ことば」そのものが「構造」になってしまうのかもしれない。逆に、「構造」が「ことば」そのものになる、ということもあるかもしれない。「構造」とは「ことば」によって書かれた「まだ存在しないことば」の全体(宇宙)なのである。いや、そうではなくて、ひとつの「ことば」そのもののなかに、いくつもの「ことば」が組み合わさっていて、ひとつにみえるもののなかに「宇宙」(全体)があるということを証明するために、時里は「入れ子」を利用しているのかもしれない。

 時里は、「仮剥製」という「ことば」から出発する。剥製が、たとえば鳥なら鳥の形をして木にとまっているのに、「仮剥製」は自然界にみる鳥の形をしていない。死体のまま、紡錘形にととのえられて、「モノ」になっている。
 その目撃から、時里は、次のような考えを思いつく。

 脚色のない、しかしそのことによって完璧な脚色となっている仮剥製という思想。野鳥の仮剥製を眺めながら、そふ頭をよぎったのは《ことばの仮剥製》というイメージだった。とりわけ詩というのは、鳥の仮剥製のようなかたちで差し出すべきものではないだろうかと。とまり木にとまらせたり、羽を広げてみせたりするのは詩人の仕事ではない。詩のことばは、日常のことばの死をいったん見とどけることにおいて、息を始めるものでなければならない。仮剥製の鳥が、《鳥》とは別の時空に滑り込むように、仮剥製のことばもまた、日常とは別の世界を切り開く。それは詩人にとっても、詩の読み手にとっても、未知の経験を含んでいるに違いない。

 「脚色」と呼ばれているのは、鳥を「とまり木にとまらせたり」することである。それは一見自然のとりに見えるけれど、そういうものよりも時里は不自然な形で死んでいるままの鳥の姿に興味を惹かれた。
 なぜなら、それはふつう考えられている鳥の時空とは「別の時空に滑り込む」からである。この「別の時空」を時里は「日常とは別の世界」と言いなおしている。脚色されていない剥製、死んだままの剥製は、「日常とは別の世界」を引き寄せる。想像させる。ことばも、脚色(日常的な、流通している使い方)から切り離して「モノ」のように独立させる(脚色の反対語が、独立、孤立である--何にもつながっていない、つながっているとしたら死とのみつながっている)と、そのことばは、「日常とは別の世界」、つまり「別の時空に滑り込む」、「別の時空(次元?)」で動きはじめる。
 そういうことが起きるのではないか。
 --こういう動き、この運動を、時里は、「完璧」と考えている。
 剥製の鳥をとまり木にとまらせるのが「完璧な脚色」であるなら、それをとまり木から遠ざけ死体そのものとして標本化するのは、「完璧な」別の時空へ誘うための出発点である。

 時里のキーワードは「入れ子」よりも、「完璧」かもしれない。

 時里が求めているのは、ことばの「完璧」なのである。「日常の世界」にしばられていることばは「完璧」ではない。それは「日常」の世界に「流通」しているだけである。それは「日常」の世界から出て行くことはできない。
 そういう運動が、なぜ、「完璧」なのか。
 これを説明するのは、少し、めんどうくさいが、「詩のことばは、日常のことばの死をいったん見とどけることにおいて、息を始めるものでなければならない。」が、その説明の手がかりになるだろう。死と再生。いったん死んで、息をふきかえす。甦る。それは、別のことばで言いなおせば、復活できる力、再生できることばをもっている、ということでもある。そんな力をくぐり抜けてきたもの--それが「完璧」である。
 これはまた別のことばで言いなおせば、そうやって死をくぐり抜け、再生したことばは、何度でも死に直面し、そのつど死を乗り越えて(切り開いて)復活できるということでもあるだろう。
 ことば→死→再生→死→再生→死→再生→→→→完璧なことば。
 そんなふうに「図式」にしてみると、あらら、不思議。死と再生が「入れ子」になっている。「完璧なことば」は、ことばの死と再生という運動(ことばの動きの構造)が「入れ子」になっている。

 時里にとって「入れ子」とは「完璧」と同義である。時里が「入れ子」の詩を書くのは、それが「完璧」をめざした運動だからである。




翅の伝記
時里 二郎
書肆山田

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする