詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫「眩暈原論(2)」川江一二三「蕎麦を届ける」海埜今日子「《あついみず》」

2010-05-26 12:12:12 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「眩暈原論(2)」川江一二三「蕎麦を届ける」海埜今日子「《あついみず》」(「Hotel  第2章」24、2010年04月10日発行)

 野村喜和夫「眩暈原論(2)」は何を書いているのだろうか。何も書いていないなあ。強いて言えば、「書く」ということを書いている--いや、楽しんでいる。それだけである。「意味」をそこに求めてはいけないのだと思う。「意味」を求めると、わけがわからないし、おもしろくない。

最初のゆらぎはめざめのとき。宇宙めく夜のこめかみの境界を散り散りにして、胎児めく生気の何かしらクレッシェンド。その影が菫色になって、木の葉になって、霞になって、血の川の流れの絶え間ないノイズにもなって。だがやがて、眩暈地平にあっては、すべては絹、音楽も絹、乳房も絹、死ぬまでも絹。おいおい、誰の妙なる睡りを乗せて、あわあわと霊柩車は行くか。

 ここには何もないけれど、リズムがある。そして、野村はリズムだけで書いている。リズムに乗せてことばを動かしている内、そこから何か生まれてくればいい。生まれてこなくて、リズムだけが取り残されてもいい。
 何も考えていない。それが「快感」である。

死ぬまでも絹。

 これ、いいなあ。
 「死ぬまでも」なんだよ。と、わざと書いて、「死ぬ」って、きっと「いく」と同じことだよね、とわどと書いておこう。ここでは。
 ね、いいかげんでしょ?
 あ、これはきっと注釈がいるなあ。
 この「いいかげん」がいい、というのは、そこには「抑圧」がないからなのだ。ことばに対して「抑圧」がない。そのために、ことばが勝手に動いて行って、勝手に「肉体」になってしまう。そういうときの、伸びやかな輝きがここにある。
 (ちょっと「現代詩」っぽい感想になってきたかな?)
 だいたいねえ、「眩暈原論」はいいとして「眩暈地平」って何なのさ。「眩暈」の定義もまだなのに(それとも、この詩は2だから、1で定義がすんでいるのかな?)、その「眩暈」に「地平」をくっつけて、あたかもことばの運動が新しい次元にはいりこんだかのように装うなんて、
 わ、いいかげん、
 ことばの「論理」というか、「論理」そのものというか、いったい野村はどう考えているのか。「論理」というのは、ひとつひとつのことばの定義を明確にして、それから積み上げていくのものだ、野村は、そういう積み上げを最初から拒否している。拒否しながら「眩暈」+「地平」とことばを「積み上げ」てしまう。
 ことばはとても不思議で、積み上げると(組み合わせて新しい何かにしてしまうと)、そこにいままでなかったものが存在してしまう。そして、存在してしまうと、その「論理」が不明でも、次の「論理」の土台になってしまう、ということがある。
 そういうことを、「原論」というような、なにやら「論理」っぽいことばでひっぱって、やってしまう。野村がここでやっているのは、そういうことである。

おいおい、誰の妙なる睡りを乗せて、あわあわと霊柩車は行くか。

 あ、読んでいる私の方が「おいおい」と言いたくなる。
 おいおい、ことばの上にことばを乗せて、あれっ、でも「眩暈地平」って、「眩暈」の上に「地平」がのっているの? それとも逆? 「地平」の上に「眩暈」がのっているの? ああ、ことばの死、ことばの論理はどこへ行ってしまうのか。
 どうでもいい。「おいおい、……」の1行は、きっと「おいおい、」と書きたかったから書いただけなのだ。「おいおい、」と書くことで、「原論」を茶化したかったのだ。「現代詩」っぽいことばでいえば、「解放」したかったのだ。
 「原論」なんて、窮屈なものは、ことばを解放し、もっと「肉体」に密着したところから動かしていかないと形にならない--ということだろう。

時の軸のうえの逃走もまた眩暈主体を作動させるか。時を駆ける少女、とかいたな。それより、ガムようにいまこの瞬間を引き伸ばせたらどんなに面白いだろう。マジで眩暈とは、瞬間の永遠性がそこにのぞく時間の裂け目に呑み込まれることではないか。

 「疑似論理」を追いかけても、「疑似」世界にしかたどりつけないだろう。ここにあるのは「疑似」時間「論」である。ほんとうのことが書かれているとしたら「マジで」という部分だけだろう。
 前に引用した部分で、ほんとうのことばは「おいおい、」だけ。そしてここでは「マジで」だけてある。それは「流通言語」の「論理」が封印してきたことば、「書きことば」が封印してきたことばである。

 「書きことば」を書きながら(書きつつ、という意味ですよ)、解放したい。その矛盾と向き合いながら、ことばを揺さぶっている。そのゆさぶりは、効果があるのかどう、よくわからない。一冊にまとまると、「疑似」論理が「疑似」ではなくなるだろう。それまで、野村はことばにことばを「乗せる」。

 これは上に「乗せる」、積み上げるだけではなく、調子づかせる、という意味でもある。



 川江一二三「蕎麦を届ける」は1行の文字数を限定した「視覚」の定型詩である。「視覚」を重視しているから、その乱調もまた「視覚」の上において起きる。

     掛け捨てならひとりではなく大勢で
     にぎやかに太鼓を叩いて楽しみます
わたしはよそものです 五文字はみ出しており
     立っている場所はいつでも辺境の地
     あたたかい橙色のひかりをさけつつ

 後半にも、今度は上ではなく、下に5文字はみだした行があるが、省略。
 川江は、視覚にも「論理」があるということをからかっている。くすぐっている。

 海埜今日子「《あついみず》」はひらがなでかかれている。ここでは「意味」ではなく、音が音そのものとして、互いに呼び合っている。それは野村の書いている「リズム」に「乗る」というのとはまた違った「乗り」である。「乗り」というよりは、逆に「沈み」といった方がいいかもしれない。
 野村のことばが調子に乗って、適当に、いま、ここではないどこかへ飛んで行ってしまって、ほら、これが飛んだときの「奇蹟」じゃなかった、「軌跡」--つまり、「論理」と主張するとしたら……。
 海埜のことばは、ことばの奥底へ沈んでゆく。そうすることで、ことばが「論理」(流通言語)になるのを拒絶する。
 海埜は、この感覚を共有されたくない--という思いを共有してほしいと願ってことばを揺さぶっている。矛盾の中で、ことばを揺さぶっている。




ランボー『地獄の季節』 詩人になりたいあなたへ (理想の教室)
野村 喜和夫
みすず書房

このアイテムの詳細を見る

詩集 セボネキコウ
海埜 今日子
砂子屋書房

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マノエル・ド・オリヴェィラ監督「コロンブス 永遠の海」予告編(★★★★★)

2010-05-26 11:32:05 | 映画

 KBCシネマで、マノエル・ド・オリヴェィラ監督「コロンブス 永遠の海」予告編を見た。美しさに息ができなくなる。
 オリヴェィラのカメラは相変わらずどっしりしている。動き回りはしない。ただそこにあって、そこにあるものを映し出すだけである。それなのに美しい。それだから美しいというべきなのか。
 なんといっても海がすばらしい。海というのは、誰がとっても同じようなものである。海の方がカメラのフレームより大きいから、スクリーンに映る海は海の一部である。そうであるはずであるが、
 オリヴェィラの海は違う。色がおだやかで、どこまでもどこまでも遠い。遠くて、しかし、とても懐かしい。
 予告編でみる限り、この映画はコロンブスの見た世界(コロンブスの見た海)を夫婦がたどる映画である。若いときの夫婦、晩年の夫婦が出てくる。その夫婦の時間を超越して、海の時間がある。海の色、空の色、雲の色がある。(もちろんほかにも、街の色、建物の色があるのだが、海が一番印象的である。)
 その、二人のみつめる時間を超越した海が、時間を超越する力をそのまま利用して、そこにはいないはずのコロンブスの見た海につながる。いま、目の前にある海がコロンブスの海になるのではなく、コロンブスにつながる海になる。
 その「つながる」という感じのなかに、なつかしい、かなしい、うれしい、おだやかなものが拡がる。

 予告編で、こんなに胸が震えるのは久しぶりである。7月まで待ちきれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷部良一「ちっぽけな光が」ほか

2010-05-26 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
谷部良一「ちっぽけな光が」ほか(「火曜日」102 、2010年05月31日発行)

ローカルの
崩れかけたトンネルから
抜け出たような
ちっぽけな光が
今日も

ぼくのうす汚れた顔を
しきりに拭ってくれる

 谷部良一「ちっぽけな光が」の、この書き出しは、何のことなのかはっきりとはわからない。わからないのだけれど、ローカル線の(たぶん)トンネルということばが確かな風景をひっぱってきてくれる。トンネルの向こうに、ちいさな光が見えるということだろうか。トンネルを抜けると、そこは別の世界--そういう夢を見た記憶、それが「うす汚れた」何か、きょうの思いを洗ってくれるということかもしれない。
 この詩の途中に、とても好きな行がある。

 自分の手の平を見つめ直し
 自分の目の奥を聴き取り
 自分の喉ちんこのタクトを揺すり

 光に誘われて、「肉体」が反応している。その「肉体」をきちんとことばにしている。「目の奥を聴き取り」には、「肉体」の、感覚の、肉体のなかに在る感覚が互いに融合して、なにごとかを丸つかみするときの強さがある。その目と耳の融合に、喉の音楽が参加する。これは楽しいなあ、と思う。

 もう一篇「星座のブランコ」。

山をぼくが見るのではない
川の意志が窓となっている
時代の錯視が
曲がった遠近法で語っていただけ

空は宇宙の背もたれのあるベンチである
海は実にアメーバの眼球からの滴である

一本の樹に見られているぼく
流れる星に呼ばれているきみ
一つの森は静かに呼吸している

 谷部は「自然」そのものをも彼の「肉体」にしてしまう。「錯視」ということばは、ちょっと「頭」のことばという感じがするが、まあ、いいさ。

空は宇宙の背もたれのあるベンチである
海は実にアメーバの眼球からの滴である

 は、とても美しい。特に「空は」の1行はすばらしい。夢に見てしまいそうだ。この詩の最後は、

ヤアー

 という声で終わるのだが、ああ、そうなんだ。「宇宙」を「肉体」にしてしまうとき、ひとは、意味のない「声」を出すしかない。「ヤアー」という「意味」をもたない、「肉体」の奥からの声に比べると、ことばなんて、まあ、どうでもねいいね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする