鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」(「文藝春秋」2025年3月号)を読んだ。そのなかに「ジャムとサラダ」という「比喩」が出てくる。ジャムは混淆、サラダは渾然という概念に相当する。混淆は混沌とも言い換えられている。曼陀羅や万有ということばも出てくる。ストーリーを概念で彩りながら、ティーバッグのタグに書かれていた「名言」がほんとうにゲーテの書いたものが(言ったものか)を追いかける一種のミステリーである。ミステリーであるから、まあ、それでいいのかもしれないが、人間が描かれていない。「あ、こういう人間がいる」という感じで「肉体」が見えてこない。
というのは、きょうの「枕」。
鈴木が書いている「ジャムとサラダ」=「混淆と渾然」から、私は「無と空」ということばを思い出してしまった。「ジャム=混淆(混沌)=無」「サラダ=渾然=空」。さらに「ジャム=混淆(混沌)=無(肉体)」「サラダ=渾然=空(ことば)」という具合に考えた。
私は、世界に存在するのは「肉体」だけだと考えている。「こころ」は存在しない。少なくとも「肉体」のような存在の仕方ではない。「こころ」は「肉体(人間)」が作り出したものであって、どこかに存在するのではない。作り出さない限り、存在しないものである。人間が作り出したものを存在させる「場」が「空」である。そこが「空」であるからこそ(何も邪魔するものがないからこそ)、なんでも作り出せる。しかし「真理」でなければ、それは瞬時に消え去る。「真理(法)」ならば、いつでもそこに呼び出し存在させることができる。それを足場に、さらに何かを作り出せる。
「無」はすべてのものが区別なく、存在する「場」である。つまり、すべてのものが溶け合って存在する「場」である。そこから必要なものを引っ張りだして(必要なものを作り出して)「空」のなかに存在させるという運動を人間はしているのだと思う。
それぞれが、それぞれの「運動」をしているのだと思う。作り出したものを「精神」とか「こころ」とか呼んでいるのだと思う。
この作り出したもののなかには「行為」というものもある。「行為」というのは「人間(肉体)の運動」のことである。これは「声」とおなじように、たしかにそこに存在しているかのように見えるが、いつでも存在し続けるわけではなく、なんらかの形で「記録」しないと消えてしまう。「行為」とは「肉体のことば(声)」なのである。
これはメモなので、テキトウに飛躍するが。
大岡昇平は「推理小説」をたくさん書いている。「謎解き」をたくさん書いている。それは「ストーリー」なのだが、鈴木の「ゲーテはすべてを言った」とはまったく違う。大岡は「謎解き」よりも人間に関心がある。ストーリーは、大げさかもしれないが、どうでもいい。言いなおせば、「解決」を必要としない。それは、大岡がイギリスの「未解決事件」を「未解決」のまま、「こんな未解決な事件があった」と書いていることからもわかる。同時に、「わからないものはわからないままにしておくイギリス人の生き方(選択)を高く評価しているところにもあらわれている。
「結末」というのは人間が作り出したものであって、ほんとうは存在しない。存在するのは、人間である。人間が「わからないもの」を抱えたまま、行動しているということである。それが描ければ、それでいい。
で、なんだったか、よく思い出せないが。
大岡昇平の小説(推理小説ではなかったかもしれない)に、たしか、女が夫の客を見ながら「この人、胸毛があるかしら」と思う瞬間がある。そのことがストーリーとは無関係にぽつんとさしはさまれている。いやあ、びっくりしますねえ。えっ、今、何が書いてあった? 同時に、そのことばを読んだ瞬間、その女が「肉体」として見えてくるから不思議。人間というのは、思ってもみない瞬間に、思ってもみなかったことを思ってしまうものである。それが、ストーリーとは無関係に(ほんとうはあとで関係してくるかもしれないけれど)、あらわれる。「こころ」がつくられてしまう。
これは女が、「あのとき、私は、あの男に胸毛があるかしら、と思った」と言わなければ、「事実」として存在しない。
イギリスの「個人主義」というのは、これに似ている。男に胸毛があるかないか、それを想像したかどうかは、ひとがそれを「ことば」にしない限りは「事実」として存在しない。あるひとが「犯罪」を犯したとしても、それをそのひとが「犯罪を犯した」と言わない限り、「犯罪」は存在しない。そのひとが隠しているなら、存在しない。(証拠があって、それで証明できるときは別だが。)
これは、たとえばある男とある女がキスをしているのを偶然見てしまったとする。しかし、その二人がキスをした(あるいは愛し合っている)と誰かに言わない限り(ことばにしない限り)、他人が(目撃した人が)キスをしていたと言ってはいけないということである。二人が言えば「事実」になる。しかし、第三者が言っても「事実」にはならない。「事実」として認めない。こういうプライバシー感覚が、たぶんイギリス人の「個人主義」である。それはアメリカの個人主義ともフランスの個人主義とも違う。
「こころ」の作りが仕方が違うのである。
「こころ」は存在しない。「こころ」は作り出していくものである。それは「ことばの運動」である。
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