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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田清子「三月、歌ってくれないか」ほか

2025-03-22 23:18:55 | 現代詩講座

池田清子「三月、歌ってくれないか」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年03月17日)

 受講生の作品。

三月、歌ってくれないか  池田清子

すぐに終わると思っていた
三年前の三月
突然の破壊
穏やかに人々の暮らしていた
美しい街並み

本当は
春に向かって 明るい豊かな 三月
らっぱ水仙、レンギョウ、ユキヤナギ、ムスカリ・・・
自由で伸びやかな 三月

終わるまで
書き続けようと思っていた詩も
2回でとん挫
無力さを恥じる

こんな時 昔は
若者が歌っていたよね

「イムジン河」「戦争を知らない子供たち」
「死んだ男の残したものは」「フランシーヌの場合」・・・

ねえ、髭男よ、YOASOBIよ、Mrs.GREENAPPLEよ
歌わないか、歌ってくれないだろうか

ボブディランのように
風に吹かれて

 「三年前の三月/突然の破壊」はロシアのウクライナ侵攻を指す。それは五連目のいくつもの歌によってくりかえされる。
 私は最近の歌は知らないのだが(六連目に登場するグループの歌はもちろん知らないのだが)、彼らはどんな歌を歌っているのだろう。「歌わないか、歌ってくれないだろうか」からは、若者に期待する声が聞こえる。そういう声が聞こえるということは、彼らは、「反戦ソング」を歌わないということなのか。
 私たちの時代には、池田が上げている歌のほかに、最終連に登場するボブ・ディランやジョーン・バエズもいた。
 そうした歌は、つづいてほしいと思う。
 三連目の「終わるまで」はすこしむずかしい。書いている池田にはわかっていることだが、読者に通じるかどうか。一連目に「すぐ終わると思っていた」ということばがあるので「戦争が終わるまで」と読んでしまう。私は、そう思って、ここでつまずいたのだが、池田によると「書き始めた詩が、書き終わるまで」という意味。戦争を知って、それについて書こうとした。けれど書き終わることができなかった。この場合、「終わる」ではなく「書き終わるまで」か「完成するまで」の方がいいだろうと思う。つぎの行の「書き続ける」に配慮して(「書く」ということばを重複させたくなくて)省略したのだと思うが、わかりにくい。
 この連が「自分は挫折したけれど」と反省をこめた連だとわかると、それからあとの若者に託す「思い」ももっと明確になると思う。ノスタルジーとして書いているのではなく、祈りとした書かれた詩なのだった。

巡る  杉惠美子

庭の土が ほぐれる音がする
春の光をうけて
木々はいっせいに 自分の呼吸を確かめる
土は温かい感触で 顔を出し
いのちの波動を足もとから伝える

今更ながらに
はるは幾度も巡り来る
かならず巡り来る

みずに映る透明な春は
芽吹き
動き
押し上げ
包み
そして 呟く

私の内なる
重さと軽さも
弾み始める

春は全てが 自分のできることをはじめる

 漢字とひらがなの書き分けが、とてもおもしろい。興味深い。最終行の「はじめる」を読んだとき、その直前の「始める」との対比と同時に、ふと、一行目の「ほぐれる」とも呼応している感じがするのである。
 自分で何かをする。そのとき、それまでの自分が「ほぐれ」てゆく。固いものがやわらかくなり、そうすることで何かがはじまる。「始まる」では意味が明確になりすぎる。「解れる」もイメージが固定されてしまう。「ほぐれる/はじまる」と意味から解放されて「音」になると、「ほぐれる」というのはどういうことだったか、「はじまる」というのはどういうことだったか、と一瞬、あいまいになる。同時に、「肉体」が意味から離れて、いのちそのものとして手さぐりで動く感じがする。
 二連目の「巡り来る」の繰り返しの前に「かならず」がつけくわえられているのもいい。「幾度も」を言いなおしたものとも言えるのだが「かならず」がひらがななのも、読んでいて落ち着く。
 三連目の「みずに映る透明な春は」の「は」という助詞は、ない方がリズミカルになるだろうなあと思う。「呟く」は次の連の「内なる」ものと結びつくのだが、「弾む」で終わって、次の連の「弾む」と連動させると、四連目のなかに三連目のリズムがよみがえると思う。

糸水仙  青柳俊哉  
 
ホワイトアウトきえ
あしもとへ 水仙
ふる 鮮麗な
藍のそらから 凍
土へ
 
北極から 腐敗した地
へ 
 
恩寵--
 
 
うみへむしんにみしんふみならすときはなれる
なみをおるぶぁいおりんししゅう
あいのそらきらら
さんしょくのね

 「ホワイトアウト」は猛吹雪で視界が真っ白になること。「地吹雪」という言い方もあるかもしれない。地面の雪さえも風で吹き上げられ、目が白い闇に覆われる。そういうときひとは足もとしか見ないのだが、水仙が見えたからホワイトアウトが消えたのか、ホワイトアウトが消えたから水仙が見えたのか。わからないのが、いい。「凍/土」という行わたりの表記も、おもしろいと思う。ホワイトアウトが消えたのと同時に、藍色の空が見えたのと同時に、「凍土」が「凍る」と「土」に分かれた。それは水仙が突然あらわれるのと同じ感じだろう。
 最終連のひらがなの連続。「うみへむしんにみしんふみならすときはなれる」この一行が、とても音楽的。その音楽が「ぶぁいおりん」を呼び寄せるのだと思う。「さんしょくのね」の「ね」は「音」かな、と思ったりする。
 一連から四連目への変化のためには、二、三連目が必要なのかもしれないが、思い切って省略しても楽しいかもしれない。その方が飛躍が大きくて、いろいろ想像できる。「腐敗」「恩寵」に意味があるすぎる感じが残る。

最後の晩餐  堤隆夫

最後の晩餐について思う時
戦争や災害や事故のため
最期の晩餐にありつけることなく
この世から逝ってしまった
幾千万の方々の魂の感しみを 思わざるを得ない

果たして 最期の時 私は最後の晩餐をすることができるのであろうか
その時 私の身体に口から食することができる機能は 維持されているのだろうか
病のため 中心静脈栄養や経管栄養等の人工栄養法に頼らざるを得ない時
元気だった日々の食の喜びを想起することは
残酷な思い出でありはしまいか
思いは千々に乱れる--

生きることを続けていれば
私たちは皆 老い 障害を背負い 末期患者となり 摂食・嚥下が困難となる
口腔機能を可能な限り維持することは 死を迎えるまでの間 
生活する意欲や回復への意欲 生き続ける希望を維持することでもある
自分の口で食べること 飲むことは その人らしく生きるための人としての尊厳

最期の時 私は叶うことなら 愛し 信頼している人と共に 
たとえ一個のおにぎりを分けあってでもいい
小学生の時の遠足の日のように 安穏で幸せだった日々を思い出しながら
最後の晩餐ができれば もう それで十分だと思っている--
 
 堤の詩は、論理/倫理性が強い。「最後の晩餐」というと、いや「晩餐」というと、どうしても豪華なものを連想するが、それと「一個のおにぎり」を対比させる。単に「一個のおにぎり」なのではなく、それは「分け合う」ものとしての「一個」なのである。「分け合う」とき、そこには「愛」がある。「幸せ」がある。
 この詩では、私は、そうした「論理/倫理」のことばの運動よりも、三連目の「生きることを続けていれば」に強く引かれた。「生きていれば」でも意味は似ているかもしれないが「続ける」が挿入されることで、意志というか、祈りのようなものが、ことばの奥をささえている。
 堤の詩に何回も登場する「愛」とは、「生きる意志」のことなのだろうと私は思っている。「愛する」ということと「生きる」ということは、「意志」の根本なのだろう。堤のことばは、常に、そこから動いている。


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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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池田清子ほか (大井川賢治)
2025-03-23 18:04:03
堤さんの「最後の晩餐」を読んでいたら、何やら、目がしらが熱くなってきました。今回も皆様、読み応えのある詩の数々、ありがとうございました。
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