詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂本幸子『緩く、木々の下を流れ来て』

2010-05-16 11:42:50 | 詩集
坂本幸子『緩く、木々の下を流れ来て』(石の詩会、2010年05月10日発行)

 坂本幸子『緩く、木々の下を流れ来て』の「貝」という作品に不思議な1行がある。

砂浜の風紋を長靴が破る
旧暦元旦の
春を含んだ海風は
陽の光を借りて
少し緩やかだ

 このあと潮干狩りの様子、映画「わたしは貝になりたい」への感想などが綴られていくのだが、私が不思議に感じたのは、

旧暦元旦の

という1行である。なぜ、この行を書いたのか。その日がたまたま「旧暦元旦」だったというだけのことかもしれない。そうかもしれないけれど、いや、そうであるからこそ、そこに坂本の「思想」を感じだ。「肉体」を感じた。
 あ、この人は、自分が「いま」「ここ」にいるということをしっかりと確かめながら書くひとなのだ。そしてそのとき、「いま」「ここ」に「流通」しているものとは違うものを探して、それを重しのようにつかっているのだ。ことばを、「いま」「ここ」という流れに乗るためにではなく、「いま」「ここ」の流れから流されないためにつかっている。自分独自の(といっても、それは、どこかで他人とつながっている、「いま」「ここ」を支配している流れとは違ったものとつながっている)何かを起点にして、「いま」「ここ」から切り離し、切り離すことで、坂本自身の「いま」「ここ」を確かめようとしている。
 それとは別に(いや、別に、というのは正確ではないかもしれない、並列して、ということになるかもしれない)、とても美しい1行がある。

陽の光を借りて

 この1行のなかの、「借りて」ということば、その感覚、先の「旧暦元旦」と書いてしまう感覚はつながっているのかもしれない。
 何かを「借りて」、自分を確かめる。そして、そのとき「借りる」のは、ふつうに「いま」「ここ」に「流通」しているものではなく、何か、時間から取り残されて沈んでいるもの、動かないもの、という感じがする。動き回るものではなく、動かないものへの愛着がある。
 その動かないものの代表的なものとは何か。「思い出」である。「記憶」である。「いま」「ここ」という「流れ」には乗らずに、どこかでじっと動かずにいる「思い出」。そういうものを「借りて」、「いま」「ここ」を見つめなおすのだ。自分自身を見つめなおすのだ。
 そうするときに、戦争を体験してきた坂本は「わたしは貝になりたい」ということば、その状況に、自然に触れるのだ。
 「記憶」(思い出)と「いま」「ここ」を行き来しながら、「いま」「ここ」にいたる自分自身の足どりをたどりなおす。そこから何かを生み出す--というようなことを坂本はしない。そこからあたらしいことばの運動をひきだすということを坂本はしない。そういう意味では、坂本の書く詩は「現代詩」ではないのだが、ことばの「生き方」(詩人がことばをどう生きるか)というひとつの方向性を示している。
 「もやもや草」の後半。

あなたはバラを
現したいのか 隠したいのか

胸につまっていることを
言いたいのか 秘めたいのか
迷うことの多い明け暮れに
その人の想いを重ねて
もやもや草を活ける

 「現したいのか 隠したいのか」「言いたいのか 秘めたいのか」。坂本は二者択一を迫る行を繰り返して書いているが、人は「二者択一」などできないのである。両方を生きることしかできないのである。現しながら、隠したい。現すことで、隠したい。言いながら、秘めたい。言うことで、秘めたい。
 言いなおそう。
 現す、ということを「借りて」、隠したい。
 言う、ということを「借りて」、秘めたい。
 「借りる」という行為のなかに自分自身を隠しながら、「借りる」ときの、ゆずることのできない「欲望(本能、命懸け)」の何かを伝えるのだ。
 坂本が「借りる」のは、もっぱら記憶(思い出)であるのは、記憶、思い出こそが、坂本の生きて来た証だからである。他人の思い出というのは、「旧暦」に似ている。そういうものがある。たしかにある。けれど、それをもとにして「いま」「ここ」は「流通」しない。「流通」しないけれど、ふと、それが「流通」しているものだけではうまくいかなくなったとき、その動きを修正する(ととのえる)のに役立つときがある。
 坂本は、記憶(思い出)を書くことで、「いま」「ここ」にいる坂本自身の姿を、すっきりとしたものにととのえ直そうとしているのかもしれない。それが、坂本の、正直な「肉体」なのだと感じた。
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北川透『わがブーメラン乱帰線』

2010-05-16 00:00:00 | 詩集
北川透『わがブーメラン乱帰線』(思潮社、2010年04月01日発行)

 北川透『わがブーメラン乱帰線』の詩は「扉を開けよ、不眠の鳥よ 朗読しないための朗読詩の試み」はすでに読んだことがある。(ただし、タイトルが同じものだったかどうか、はっきりしない。)この「日記」でも以前に感想を書いた。しかし、そのとき、何と書いたのかよく覚えていない。だから、これから書く感想はまったく同じものになってしまうかもしれない。時間がたって、私自身が変わってしまっていて、まったく違うことを書くかもしれない。私は書く内容(テーマ)など決めずに、ふと思いついたら、その思いついたことをただ書くだけである。どれだけ長くなるか(短いものになるか)、見当もつかない。
 まったく違う感想なら、それはそれでおもしろいのでは、と思うが、もし、まったく同じだったらという不安がないわけではない。自分自身がなにも変わっていないのも変だし、同じだったら書く意味もないような気もする。
 でも。
 と、私は、強引にことばを動かすのだ。
 でも、詩集は、ほら、一度どこかで書いたものをまとめたものでしょ? 中身は同じでしょ? だったら、感想だって同じものをもう一度ここに書いたってかまうものか。

 あ、これは、いい加減すぎるかなあ。

 でも、気取って何かを書きはじめてもしようがない。自分の思っていること以外は、ことばにはならない。

岡山での「大朗読」の会に招かれている。
何ヶ月も先のことだったので、すっかり忘れていたが、
もう、十日後に迫っているではないか。
カレンダーが風に揺れている。わたしは取れ立ての鰯のような、
新鮮な詩を朗読しなければならない。
さあ、たいへん、わたしに朗読する詩があるか。
屑箱の中はカラッポ。書き損じの紙一枚入っていない。
でも、あわてない、あわてない。
毎晩、寝る前に一行書けば、十日で十行。
毎晩、十行書けば、十日で百行。
毎晩、百行書けば、十日で千行。
毎晩、千行書けば、十日で一万行。
わーい、たやすいことだ。塵も積もれば十万行。
わたしは十日で大詩人?

 この書き出しは楽しい。
 「さあ、たいへん」と言いながら、書くべきことがみつかって、逆に喜んでいる。ことばは、きっかけがあれば動いていく。どこへ動いていくか、そんなことは決めない。ことばが動いていきたい方へ動いていく。
 どこへ動いていくか--ではなく、どこまでことばの運動にエネルギーを補給しつづけることができるか、それが問題なのだ。詩は何を書くか、ではなく、どこまで書くかが問題なのだ。どんなことであれ、だれも書かなかった領域までことばが動いていけば、それは詩である。新しいことばである。
 そして、このときその運動のエネルギーというのは、どこまで自由でいられるかということと同じになる。ことばというのは不思議なもので、どうしても「枠」をつくってしまう。「意味」をつくってしまう。そして、そのなかで動こうとしてしまう。

毎晩、寝る前に一行書けば、十日で十行。
毎晩、十行書けば、十日で百行。
毎晩、百行書けば、十日で千行。
毎晩、千行書けば、十日で一万行。

 この部分にも、たとえば一日何行書けば十日で何行という「意味」が繰り返される。そこでは数字は増幅していっているのだが、それに反して「意味」は「枠」のなかで痩せてきている。このあと、一万行、十万行というふうに北川はことばを動かしてはいないが、同じように誰もが動かすことができる。
 そして、よし、それじゃあ、私も北川のマネをして一日百行ずつ書いて大詩人になってやろう、なんて欲望にとりつかれ、その気になったりもする。(いや、ほんとう、前に読んだときも、私はちょっと詩を書いてみようかな、という気になったのだ。)
 でも。
 そうすると、もうそこには詩は存在しなくなる。「流通する意味」だけが取り残されることになる。一日何行かのことばを書きつづければ、そこに詩が誕生するという「意味」だけが残って、ことばの自由な運動は見えなくなってしまう。
 そんな「意味」など、北川が書きたかったことじゃないよね。

 書く--というのは、ことばが「意味」に閉じ込められる、「意味」になって自由な運動をできなくなってしまう危険性と向き合いながらことばを動かすことなのだ。
 北川は、この詩では、「意味」という危険性と向き合いながら、北川のことばをどこまでもどこまでも自由にしようとしている。解放しようとしている。

 どうやって、「意味」にしばられずにことばを動かすか。ことばは「意味」を拒絶できるか。
 これは、とてもむずかしい。むずかしいのだけれど、それを北川は簡単そうにやってみせる。やっぱり、大詩人だ。

昨夜は気持ちよく眠れた。
何しろ、十日でわたしは一万行の詩を書く大詩人のはず。
待てよ。一日過ぎたがわたしはまだ一行も書いていない。
詩を一行書くって、身を削る想いなんだ。
それにわたしは人前で自分の詩を朗読したことがない。
詩を書くようになってから、五十年間、全体に隠し通したわが秘密。
それがばれてしまうよ、朗読したら。
わたしは困った。眠れない。眠れない。
本当のことを言おうか。
わたしは男の振りをしているが、男ではない。
詩を書き始めると声が変わる、でも、朗読しなければ分からない。
十行ほども詩を書いていると、わたしの胸は次第に膨らんでくる。

 「意味」を叩き壊すものは「無意味」(ナンセンス)である。
 このあと、北川のことばは、ナンセンスを過激に突っ走る。けっしてとまらない。加速する。(ぜひ、詩集を買って読んでください。)
 そして、そのナンセンスな疾走を読むと、ことばの不思議さにうっとりしてしまう。

わたしは男の振りをしているが、男ではない。

 私は北川と会ったことがないし、北川が男か女か知る必要もなかったから、北川が男か女かは知らない。知らないけれど、まあ、男だと思っている。そして、北川が男であるという前提で、いまこの感想を書いているのだが……。
 もし、北川が男であるとすれば、「わたしは(略)男ではない」というのはうそになる。「詩を書き始めると声が変わる」ということは、あま、ありうるかもしれないが、「十行ほども詩を書いていると、わたしの胸は次第に膨らんでくる。」はありえないだろう。そんなふうに人間の肉体は変化したりしない。 

 そこに、詩のおもしいろところがある。

 ことばは、実際には、ありえないことを書くことができる。うそを書くことができる。うそを書くだけではなく、そのうそを動かして、ことばの運動として確立させてしまうことができる。
 そして、ことばというか、そこに書いてある具体的なことはうそなのだけれど、ことばの運動そのもののなかには、奇妙なことに「真実」もあるのだ。

十行ほども詩を書いていると、わたしの胸は次第に膨らんでくる。
罪深い林檎が二つ、やわらかく盛り上がる。
でも、上から押さえつけて、背広を着てしまえば、
誰にも気づかれない……

 胸のふくらみは背広を着て隠すことができる--という「意味」は「真実」になりうる。うそを土台にしてことばを動かしているのに(ことばは動いているのに)、なぜか、「真実」のようなものが一緒に動いてしまう。
 なぜ?
 なぜかは、私にはわからない。
 いま引用した部分は、いちばんおとなしい(?)ことばの運動だが、その疾走が疾走を超えて暴走してしまっても、なぜか、それがことばとしてこそに存在しているということは、どんどんゆるぎのないものになってくる。
 ありえないこと、ナンセンスなことなのに、そこに書かれていることばのたしかさ、たしかにここにことばがあり、ことばが動いているということが「事実」として存在し始める。

 ありえなかったことばが、ことばの運動として、そこにある。
 この印象--それが、詩なんだなあ、と思う。

                                  (つづく)



補記

 (つづく)と書いたあとに「補記」というのも変な気はするが、ともかく、補足。

本当のことを言おうか。
わたしは男の振りをしているが、男ではない

 これは北川が注釈をつけているが、谷川俊太郎の「旅」の有名な行の「もじり」である。そして、こんなふうにして変更されて北川の詩の中に取り込まれてしまうと、その瞬間、あ、谷川の詩も、いま北川が書いているような詩になりえたのだと思えてくる。
 それが、とてもおもしろい。
 谷川の詩は、北川の詩のような「超過激」な印象を呼び起こさないけれど、ほんとうは過激なのだ。ことばが激しく運動している詩なのだ、と、私の「肉体」が反応している。急に谷川の詩集を開きたくなる。





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