坂本幸子『緩く、木々の下を流れ来て』(石の詩会、2010年05月10日発行)
坂本幸子『緩く、木々の下を流れ来て』の「貝」という作品に不思議な1行がある。
このあと潮干狩りの様子、映画「わたしは貝になりたい」への感想などが綴られていくのだが、私が不思議に感じたのは、
という1行である。なぜ、この行を書いたのか。その日がたまたま「旧暦元旦」だったというだけのことかもしれない。そうかもしれないけれど、いや、そうであるからこそ、そこに坂本の「思想」を感じだ。「肉体」を感じた。
あ、この人は、自分が「いま」「ここ」にいるということをしっかりと確かめながら書くひとなのだ。そしてそのとき、「いま」「ここ」に「流通」しているものとは違うものを探して、それを重しのようにつかっているのだ。ことばを、「いま」「ここ」という流れに乗るためにではなく、「いま」「ここ」の流れから流されないためにつかっている。自分独自の(といっても、それは、どこかで他人とつながっている、「いま」「ここ」を支配している流れとは違ったものとつながっている)何かを起点にして、「いま」「ここ」から切り離し、切り離すことで、坂本自身の「いま」「ここ」を確かめようとしている。
それとは別に(いや、別に、というのは正確ではないかもしれない、並列して、ということになるかもしれない)、とても美しい1行がある。
この1行のなかの、「借りて」ということば、その感覚、先の「旧暦元旦」と書いてしまう感覚はつながっているのかもしれない。
何かを「借りて」、自分を確かめる。そして、そのとき「借りる」のは、ふつうに「いま」「ここ」に「流通」しているものではなく、何か、時間から取り残されて沈んでいるもの、動かないもの、という感じがする。動き回るものではなく、動かないものへの愛着がある。
その動かないものの代表的なものとは何か。「思い出」である。「記憶」である。「いま」「ここ」という「流れ」には乗らずに、どこかでじっと動かずにいる「思い出」。そういうものを「借りて」、「いま」「ここ」を見つめなおすのだ。自分自身を見つめなおすのだ。
そうするときに、戦争を体験してきた坂本は「わたしは貝になりたい」ということば、その状況に、自然に触れるのだ。
「記憶」(思い出)と「いま」「ここ」を行き来しながら、「いま」「ここ」にいたる自分自身の足どりをたどりなおす。そこから何かを生み出す--というようなことを坂本はしない。そこからあたらしいことばの運動をひきだすということを坂本はしない。そういう意味では、坂本の書く詩は「現代詩」ではないのだが、ことばの「生き方」(詩人がことばをどう生きるか)というひとつの方向性を示している。
「もやもや草」の後半。
「現したいのか 隠したいのか」「言いたいのか 秘めたいのか」。坂本は二者択一を迫る行を繰り返して書いているが、人は「二者択一」などできないのである。両方を生きることしかできないのである。現しながら、隠したい。現すことで、隠したい。言いながら、秘めたい。言うことで、秘めたい。
言いなおそう。
現す、ということを「借りて」、隠したい。
言う、ということを「借りて」、秘めたい。
「借りる」という行為のなかに自分自身を隠しながら、「借りる」ときの、ゆずることのできない「欲望(本能、命懸け)」の何かを伝えるのだ。
坂本が「借りる」のは、もっぱら記憶(思い出)であるのは、記憶、思い出こそが、坂本の生きて来た証だからである。他人の思い出というのは、「旧暦」に似ている。そういうものがある。たしかにある。けれど、それをもとにして「いま」「ここ」は「流通」しない。「流通」しないけれど、ふと、それが「流通」しているものだけではうまくいかなくなったとき、その動きを修正する(ととのえる)のに役立つときがある。
坂本は、記憶(思い出)を書くことで、「いま」「ここ」にいる坂本自身の姿を、すっきりとしたものにととのえ直そうとしているのかもしれない。それが、坂本の、正直な「肉体」なのだと感じた。
坂本幸子『緩く、木々の下を流れ来て』の「貝」という作品に不思議な1行がある。
砂浜の風紋を長靴が破る
旧暦元旦の
春を含んだ海風は
陽の光を借りて
少し緩やかだ
このあと潮干狩りの様子、映画「わたしは貝になりたい」への感想などが綴られていくのだが、私が不思議に感じたのは、
旧暦元旦の
という1行である。なぜ、この行を書いたのか。その日がたまたま「旧暦元旦」だったというだけのことかもしれない。そうかもしれないけれど、いや、そうであるからこそ、そこに坂本の「思想」を感じだ。「肉体」を感じた。
あ、この人は、自分が「いま」「ここ」にいるということをしっかりと確かめながら書くひとなのだ。そしてそのとき、「いま」「ここ」に「流通」しているものとは違うものを探して、それを重しのようにつかっているのだ。ことばを、「いま」「ここ」という流れに乗るためにではなく、「いま」「ここ」の流れから流されないためにつかっている。自分独自の(といっても、それは、どこかで他人とつながっている、「いま」「ここ」を支配している流れとは違ったものとつながっている)何かを起点にして、「いま」「ここ」から切り離し、切り離すことで、坂本自身の「いま」「ここ」を確かめようとしている。
それとは別に(いや、別に、というのは正確ではないかもしれない、並列して、ということになるかもしれない)、とても美しい1行がある。
陽の光を借りて
この1行のなかの、「借りて」ということば、その感覚、先の「旧暦元旦」と書いてしまう感覚はつながっているのかもしれない。
何かを「借りて」、自分を確かめる。そして、そのとき「借りる」のは、ふつうに「いま」「ここ」に「流通」しているものではなく、何か、時間から取り残されて沈んでいるもの、動かないもの、という感じがする。動き回るものではなく、動かないものへの愛着がある。
その動かないものの代表的なものとは何か。「思い出」である。「記憶」である。「いま」「ここ」という「流れ」には乗らずに、どこかでじっと動かずにいる「思い出」。そういうものを「借りて」、「いま」「ここ」を見つめなおすのだ。自分自身を見つめなおすのだ。
そうするときに、戦争を体験してきた坂本は「わたしは貝になりたい」ということば、その状況に、自然に触れるのだ。
「記憶」(思い出)と「いま」「ここ」を行き来しながら、「いま」「ここ」にいたる自分自身の足どりをたどりなおす。そこから何かを生み出す--というようなことを坂本はしない。そこからあたらしいことばの運動をひきだすということを坂本はしない。そういう意味では、坂本の書く詩は「現代詩」ではないのだが、ことばの「生き方」(詩人がことばをどう生きるか)というひとつの方向性を示している。
「もやもや草」の後半。
あなたはバラを
現したいのか 隠したいのか
胸につまっていることを
言いたいのか 秘めたいのか
迷うことの多い明け暮れに
その人の想いを重ねて
もやもや草を活ける
「現したいのか 隠したいのか」「言いたいのか 秘めたいのか」。坂本は二者択一を迫る行を繰り返して書いているが、人は「二者択一」などできないのである。両方を生きることしかできないのである。現しながら、隠したい。現すことで、隠したい。言いながら、秘めたい。言うことで、秘めたい。
言いなおそう。
現す、ということを「借りて」、隠したい。
言う、ということを「借りて」、秘めたい。
「借りる」という行為のなかに自分自身を隠しながら、「借りる」ときの、ゆずることのできない「欲望(本能、命懸け)」の何かを伝えるのだ。
坂本が「借りる」のは、もっぱら記憶(思い出)であるのは、記憶、思い出こそが、坂本の生きて来た証だからである。他人の思い出というのは、「旧暦」に似ている。そういうものがある。たしかにある。けれど、それをもとにして「いま」「ここ」は「流通」しない。「流通」しないけれど、ふと、それが「流通」しているものだけではうまくいかなくなったとき、その動きを修正する(ととのえる)のに役立つときがある。
坂本は、記憶(思い出)を書くことで、「いま」「ここ」にいる坂本自身の姿を、すっきりとしたものにととのえ直そうとしているのかもしれない。それが、坂本の、正直な「肉体」なのだと感じた。