詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ロバート・ベントン監督「クレイマー、クレイマー」(★★★★)

2010-05-31 14:09:19 | 午前十時の映画祭
監督 ロバート・ベントン 出演 ダスティン・ホフマン、メリル・ストリープ、ジャスティン・ヘンリー、ジェーン・アレクサンダー

 「午前十時の映画祭」17本目。
 ダスティン・ホフマンとメリル・ストリープはほんとうにうまい。台詞を言っている時は、誰でもある程度観客をひきつけられる。人の話を聞くとき、人は、話し手をみるからね。
 2人は、黙っていても観客を引き付ける。そして、黙っているのに、その顔をとおして「ことば」が聞こえてくる。冒頭の、少し唇を開いたメリル・ストリープのシーンから、その印象があるが、法廷での2人の、それぞれ「証言」を聞いているときの顔がいい。
 ことばにすると対立ばかりが浮き立つが、無言で相手の言うことを聞くとき、あるいは誰かの話に困惑する相手を見つめるとき、その表情の奥に「理解」のこころが動く。あ、まるでほんとうに8年間夫婦だったみたいじゃないか。
 この「理解」が最終的に、すべての問題を解決するのだけれど、ことばにならないものを受け止め、受け止めたよ、とことばではなく、やはり肉体そのものとして相手にお返しするとき、涙というものが流れるんだね。
 ダスティン・ホフマンのアカデミー賞はいいとして、メリル・ストリープはどうして受賞しなかったんだろう。役どころで損をしてしまったのかな?
 また、ジャスティン・ヘンリーもすばらしくうまい。アイスクリームをめぐってダスティン・ホフマンと喧嘩をするところなど、芝居とは思えない。まるで本物の家族を見ているような感じがする。
 「ママが出て行ったのは、ぼくが悪い子だから?」と問いかけるのも、泣かせるねえ。
 最初と最後に、フレンチトーストが出てくるのも、いい感じだね。最初は、でたらめ(この、フレンチトーストをうまく作れないダスティン・ホフマンが、またすばらしい。上手は練習すればできるけれど、下手は練習すると上手になってしまうので難しい)だったけれど、1年半の間に父と子の間にチームワーク(?)が完成し、スムーズにフレンチトースト作りが進む。とても気持ちのいいシーンだ。

 この映画――といっても、映画そのものではないのだけれど。
 残念なことがひとつ。
 「午前十時の映画祭」は、福岡・天神東宝では、これまで5階の広い劇場で上映されてきた。ところが、今回は狭い劇場である。
先週の「バベットの晩餐会」は、昔、ミニシアターでみたもの。それを大きなスクリーンで見直すことができたのは大感激だった。けれど、以前は大きなスクリーンで見た「クレイマー、クレイマー」を今回は小さなスクリーンで見ることになってしまった。あ、ビデオ(DVD)じゃないか、これでは・・・。
来週は「レインマン」だが、まさか、ダスティン・ホフマン、トム・クルーズのサイズに合わせて、またミニスクリーン? スクリーンを小さくすると、登場人物はさらに小さく見えるんだけど、天神東宝さん、知ってる? 小さなスクリーンなら、小さい人が大きくなるということはないんですよ。





クレイマー、クレイマー コレクターズ・エディション [DVD]

ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河津聖恵『龍神』(3)

2010-05-31 00:00:00 | 詩集
河津聖恵『龍神』(3)(思潮社、2010年04月01日発行)

他者と出会い 他者と交錯して
私たちの生の山道は火照るように逸れ
昨日よりも少しだけ深い領域に迷い込むことができる

 この「野中(二)」の3行は非常に美しい。「他者」に出会う。「他者」と「交錯する」。そして、「私(たち)」の「生」が「逸脱」する。「逸脱」することで、その、いのちの領域が深く、広くなる。そして、その深く、広くなった「場」を「迷い」ながら進む。そのとき、「私」そのものの動き(運動)が、詩になる。「なる」ではなく、もしかすると、その瞬間に、詩が「ある」のかもしれない。
 詩は「なる」ではなく、たしかに「ある」ものなのだ。
 「補陀落(一)」には、「野中(二)」の3行よりも、もっと美しい4行がある。「野中(二)」では、まだ抽象的だったことばの動きが、「補陀落(一)」では具体的になり、そこに「肉体」がくっきりと刻印されている。

--その細い通路をとおって外に出られたんですよ
「その通路」をまるでその人のように身をほそめて辿っていく
--その手すりに身を凭せかけてよく海を見ていました
「その手すり」にそっと触れて眺めてみる

 「その人」の行動をことばではなく河津は「肉体」で反芻する。「肉体」で繰り返すことで「その通路」は河津の「肉体」にとっても「その通路」になる。「その手すり」も同じだ。ことばにするだけではなく、「肉体」でその存在を知る。
 そこに詩が「ある」。
 そこに「ある」詩を、ことばは、その「ある」を邪魔しないようにていねいに動く。そのとき、そのことばの動きが詩に「なる」。

 こういう美しい出会い、そして融合は、いつ、どうやったら起きるのか。
 それは、たぶん、誰にもわからない。
 けれども、わかることもある。間違っているかもしれないが、わかることが、ある。私には、そう思える。河津のことばの動きを見ていると、わかることがひとつだけある。
 ひとは、ことばを捨てない限り、詩には出会えない。詩はことばであるけれど、ことばが詩に「なる」ためには、ことばはことばを捨てなければならない。いままで知っていることば、つかっていたことばを捨てなければならない。
 これを「無意識」といっていいのか、「無我」といっていいのかわからないけれど、いままで河津のことばを呼んできた過程でわかったことを踏まえていえば、「無我」(あるいは、無心、放心)が近いだろう。「意識」という「頭」の問題ではなく、「肉体」全体をつつみこんで、そこにある「状態」そのものののような、「無」。
 「その人のように身をほそめ辿」る。(その人のように)そっと触れる。(その人のように)眺める。そのときの河津の「肉体」とことば。その関係。その人のように体を動かすとき、ことばはそこにはない。河津のこころは、ただその人の「肉体」を追っている。そうすると、その「肉体」のなかから、ことばにならないことばが動きはじめる。ことばを超えた、ことば。いままで、なかったことばが、そこに生まれてくる。そこに、ことばが「ある」。
 その「ある」はずのことばは、しかし、いま、ここでは語られていない。いままでのことばとは違うから、いま、ここにすぐには書けないのだ。それが詩だ。書けない。書けないけれど、その書けないということを別のことばで書き、やがて、そのことばが、どこからかやってくるのを待つ--そうすることしかできないものがある。
 それが、この4行にはある。

 河津はもともとことばの多い詩人だ。なぜ、こんなにたくさんのことばを知っているのだろうと私には不思議に思えるくらいである。「補陀落(一)」にも、そういう部分はある。

タッピング、今このときを消えていく人々の不在に足下を叩かれ
(うちよせる熊野灘の煌き返す七里御浜(しちりみはま)の鏡の反射)
ビブラート、絶望にくずれおちる人々の真空は天頂をふるわせ
(遠い瓦礫の海につらなり化石する誰しもの魂)
こまかな海岸線 山の稜線 木々の葉の輪郭に沿い
熊野という「うつほ」は音なくみずからをふるわせている
光と影、言葉と沈黙、愛と憎しみ、戦争と平和--そのあわいあわい
生は限りなく詩に近く色づき(限りなく黒に近い緑)
死は限りなく生に近く染み(限りなく青に似る朱)
水色の空と海 影を曳き走っていく光たち

 これらは「無我・無心・放心」によって書かれたことばではない。「無意識」でもない。いま、ここにあるものを隈なく書き表そうとする「意識」によって書かれたことばである。その華麗な組み合わせは--うーん、「詩」と呼ばれるものかもしれないなあ。けれど、私は、そういうものは詩ではないと感じている。そういうことばの動きがあってもいいのだけれど、ほんとうの詩は、それとは違うと思う。
 詩は、いま、ここに書かれているようなことばを捨て去って、「肉体」そのものを動かして、「無我・無心・放心」の状態にいるときに、ふいに、「向こう」からやってくるものなのだ。「向こう」というのは、たぶん「意識の向こう」、「意識」を超越したどこか、ということになると思う。
 でも、「意識の向こう」なんて、ことばで書くのは簡単だけれど、実際は、そりゃあ、なんのことだい、と聞かれたら答えようのないものだ。
 だから、私は逆に考える。
 河津は、いままで知っていたことば(いままで書いてきたような華麗な織物としてのことば)をまず捨てることからはじめているのだ、と。車に乗って(助手席、あるいは後部座席かもしれないけれど)、紀伊半島を巡る。そのとき見えるもの、感じるものを、知っていることばを総動員して書いてしまう。ことばを使い果たしてしまう。そして、そのあと、「他者」に出会う。「他者」との「出会い」を描写することばは、もう、残っていない。だから、ことばがないまま、「他者」のことばを河津の「肉体」で反芻する。ことばを反芻するように、そこにない「肉体」を、そこにある「肉体」で反芻する。そのこと、その人(他者)が語りえたかもしれないことばが河津の「肉体」のなかで動きはじめる。その動きを「先取り」して方向づけることば(流通言語、河津のなかの流通言語)はなく、河津はただことばに行き詰まり、「肉体」が何をしたかしか語れないのだが、その瞬間、その「肉体」のなかに詩が「ある」ことは、読者(私)にはわかる。

 「肉体」というのは不思議なものだ。何度も同じ例を書くけれど、見知らぬひとが道端でうずくまっている。腹を抱えている。そういう肉体に出会うと、あ、このひとは腹が痛いんだ。苦しいんだ。そう、わかる。自分の痛み、自分の苦しみでもないのに、そしてその人が「苦しい」とか「痛い」とか言っていないのに、「助けて」とも言っていないのに、私たちは、その「声」を聞いてしまう。
 それと同じことが詩でも起きる。
 河津は「肉体」のなかに生まれてきた詩を、まだことばにできない。河津はただ「そのひと」の「肉体」の動きを真似て、その人がそうしたように、そのことをする。そのとき、河津の「肉体」のなかで何かが動く。その動いたことが、読者にもわかる。
 河津のなかに詩が「ある」ということが、道端でうずくまるひとのなかに「痛み」「苦しみ」「助けて」という悲鳴が「ある」のがわかるのと同じように、わかってしまうのだ。
 河津がこのことをどれくらいわかっているか、ちょっと私にはわからない。河津のことばの振幅はあまりにも大きい。けれど、その振幅の一方の先端は、ことばを捨てたあとのことば、「無我・無心・放心」のことばである。
 そういうことばを追いかけて読むと、この詩集は楽しい。美しい輝きにつつまれる。




新鹿(あたしか)
河津 聖恵
思潮社

このアイテムの詳細を見る

龍神
河津 聖恵
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする