「早春の賦」(3)(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)
雪の描写が美しい。151 ページ。宇奈月温泉へ向かう場面。
桃色と紫。朝の雪はたしかに色が違うのだ。ここでは雪というよりも、朝の光を描写しているというべきなのだろう。
次のざら雪の描写は、なんでもないようだが、「近い雪の面」の「近い」に私はびっくりしてしまう。
降り積もった雪が再結晶するというと変だけれど、六角形の美しい結晶がとけて塊、小さな氷になり根雪になる--その根雪の表面の雪。その「粒立つ」感じは「近く」でないと見えない。そんなことはわかりきったことなのに「近い」とわざわざ書く。
ここに志賀直哉の視覚(視力)の正直さがでている。
桃色と紫は遠い景色である。その桃色と紫も近くで見ると桃色、紫は意識できない。桃色、紫よりも、雪の「粒立つ」感じの方に視覚が引っ張られるからである。
「近い」がないと、この描写は生まれてこない。
視覚の強靱さ、その感覚をきちんと肉体に取り込む力は、剣岳越しに昇る朝日の描写にも強く感じる。155 ページ。
「未だ物足らぬ気もした程であつた。」がとても強い。画家の再現した光よりも、自分の肉体(視力)の記憶を美しい、と志賀直哉はいうのである。
このあとすぐ、月の描写も出てくる。これも美しい。
富山の早春の朝の、いちばん美しいものだと思う。
「空は銀色に澄んで暗く」の「澄む」(透明)と「暗い」の対比が強烈である。
志賀直哉の視力は、ほんとうに驚くほど強い。
雪の描写が美しい。151 ページ。宇奈月温泉へ向かう場面。
陽のあたつた所は桃色に、影の雪は紫がかつて見えた。近い雪の面(めん)は粒立つて光り、地を被ふ雪の厚さは自(おのづか)らそれと知れた。
桃色と紫。朝の雪はたしかに色が違うのだ。ここでは雪というよりも、朝の光を描写しているというべきなのだろう。
次のざら雪の描写は、なんでもないようだが、「近い雪の面」の「近い」に私はびっくりしてしまう。
降り積もった雪が再結晶するというと変だけれど、六角形の美しい結晶がとけて塊、小さな氷になり根雪になる--その根雪の表面の雪。その「粒立つ」感じは「近く」でないと見えない。そんなことはわかりきったことなのに「近い」とわざわざ書く。
ここに志賀直哉の視覚(視力)の正直さがでている。
桃色と紫は遠い景色である。その桃色と紫も近くで見ると桃色、紫は意識できない。桃色、紫よりも、雪の「粒立つ」感じの方に視覚が引っ張られるからである。
「近い」がないと、この描写は生まれてこない。
視覚の強靱さ、その感覚をきちんと肉体に取り込む力は、剣岳越しに昇る朝日の描写にも強く感じる。155 ページ。
剣山(つるぎさん)の後(うしろ)から湧き上る曙光は恰(あたか)も金粉を吹き出すやうで、後年、伝源信(げんしん)作「山越弥陀(やまごえみだ)」を見て、其時の曙光を憶ひ出し、感心もしたが、未だ物足らぬ気もした程であつた。
「未だ物足らぬ気もした程であつた。」がとても強い。画家の再現した光よりも、自分の肉体(視力)の記憶を美しい、と志賀直哉はいうのである。
このあとすぐ、月の描写も出てくる。これも美しい。
月は能登(のと)半島の上へ落ちて行き、その空は銀色に澄んで暗く、東の空は金色から段々明るくなつて行つた。
富山の早春の朝の、いちばん美しいものだと思う。
「空は銀色に澄んで暗く」の「澄む」(透明)と「暗い」の対比が強烈である。
志賀直哉の視力は、ほんとうに驚くほど強い。
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