詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノリサイタル

2010-05-07 23:10:26 | その他(音楽、小説etc)
イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノリサイタル(アクロス福岡シンフォニーホール、2010年05月06日)

 ラヴェルの「夜のガスパール」はプログラムの最後に演奏された。ショパン「ピアノ・ソナタ第3番ロ短調、作品58」、リスト「メフィスト・ワルツ」で、なんだか疲れてしまった聴衆が何人か帰っていったあとのホール。
 演奏の合間で、聴衆の出入りがあり、イーヴォ・ポゴレリッチは必ずしも心地よい気持ちでピアノを弾いていたとはいえないかもしれない。
 しかし、この雰囲気が何かしら不思議に、この演奏をきわだたせた。
 どこから響いてくのかよくわからない。とてつもなく激しい音、孤独な音である。そのひとつひとつは、ハーモニーを求めているのか、ハーモニーになってしまうことを拒絶しているのか、あるいは、その両方なのか。
 弦がたたかれている。たたかれながら、悲鳴をあげている。錆びた弦、疲れ切った弦の悲鳴を想像してしまう。その悲鳴はだんだん荒廃していく。荒廃していきながら、荒廃することで、遠くに「いのち」を感じさせる。「まだ、生きている」と、荒廃の奥から、透明な「いのり」のようなつぶやきが聞こえる。そのつぶやき、ささやきを聞きながら、弦はさらに絶望の声のなかに荒廃していく。
 ピアノ線という弦をたたく力は、たたいているうちに、そこから発せられる悲鳴が、絶望が、弦自身の声なのか、あるいは自分の声なのかわからなくなり、ひたすら力を込めてハンマーを振りおろす。早く、遅く。そして、そのとき、もしかすると「音源」は弦ではなく、ハンマーなのではないか、ハンマーではなく、それを振り降ろしている人間なのではないか、と思えてくる。
 イーヴォ・ポゴレリッチはフォルテの音を叩き出すたびに、椅子から飛び上がる。大きな体が椅子の上ではねまわる。その「肉体」が音を発している。
 そんな印象が、突然、炸裂する。そして、音楽は、突然、終わる。
 イーヴォ・ポゴレリッチがステージから去ると、そこには何もなかった。「余韻」というような甘いものは、イーヴォ・ポゴレリッチが彼自身の「肉体」でかっさらっていった。不思議な拒絶に出会った。その潔さにびっくりしてしまった。




ショパン:ピアノソナタ第2番
ポゴレリチ(イーヴォ)
ユニバーサル ミュージック クラシック

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小池昌代『コルカタ』(2)

2010-05-07 00:00:00 | 詩集
小池昌代『コルカタ』(2)(思潮社、2010年03月15日発行)

 詩集の2篇目は「バルバザール・朝」。この詩では、小池は「見る人」になっている。きのう読んだ「雨と木の葉」では「聞く人」であった。
 前に、誰の詩について触れたときかもう忘れたが、私はセックスとは視覚ではなく聴覚の仕事(?)であると書いた。これはいまでもかわりはない。小池が「見る人」になるとき、そこからはセックスは消えている。

でもここには 男ばかり
踏み入っていく このわたしは
かごから落ちた 一個の果物
汚れ 石のようにかたくなになり
犯され 視線に回されていく

 と、「犯す」「回す」(お、すごいことばだなあ)と、セックスがらみのことばは出てくるが、そこにはセックスは描かれていない。セックスの拒絶が描かれている。

男たちはみな 痩せていた
焦げた瞳で ぶしつけに見た
だからわたしも見返すのだ
見て 見返す

 「見る人」はセックスをしない人である。セックスを拒絶する人である。
 こういうとき、ことばは動いて行かない。
 ことばは「肉体」をとおらない。そうなると、ことばはおもしろくなくなる。ことばは知っていることばを繰り返すだけになる。
 引用が前後するが、この詩は冒頭から、ことばが停滞し、同じことばを繰り返していた。

たわわに実った青いバナナ オレンジの山
頭のうえに 重い果物の実りを乗せて
漂い 流れていく男
どこへいくの
どんな路地から わいて来たのか
蝿がわくように 蚊がわくように

 「たわわに実った」「……の山」という常套句「た」わわ、あ「た」ま、「た」だよい、という「音」、「ど」こへ、「ど」んなという「音」、「わいて」「わくように」「わくように」という繰り返し。

際立っている 生のかたち
ひとのかたち 犬のかたち
寝ている犬は 死んでいるのかもしれない
と思うそばから
ゆうらり たちあがる

 ここでも「かたち」の繰り返し。きわ「立」っている、「た」ちあがるの繰り返し。
 ここには「肉体」がない。ことばが「肉体」をとおった痕跡がない。
 ここから、小池は、ことばをどんなふうに取り戻すのか。ふいにやってくる最後の部分が美しい。

からのかごを頭に乗せた男が
蜃気楼のように 目の前をいく
からのかご からのかご
からからからの
かごのかるさよ

 「から」「かご」が繰り返され、「から」から「かるさ」(軽さ)がひきだされるとき、そこにふいに「肉体」があらわれてくる。ここで描かれている「かるさ」は「肉体」が受け止める軽さである。
 「からのかご」の「から」は「視線」が向き合っている世界であるが、その「かるさ」は「視線」の担当分野(?)ではない。「触覚」をはじめとする「肌」や「筋肉」が、そして「骨」が受け止めている。
 そこに「肉体」が生まれれば、その「肉体」と向き合うもうひとりの人間も生まれ、そこにセックスの可能性が広がる。

からのかご からのかご
からからからの
かごのかるさよ
行きはあんなに重かった荷を
どこで 降ろしたの 誰のために

 あ、いいなあ。
 小池は、いま、「わたし」と「他者」という世界ではなく、いま彼女がいる世界には、「他者」と「他者」の世界、他者と他者のセックスが存在するということを実感している。
 「世界」の中心は「わたし」ではないのだ。

からのかご からのかご
からからからの
かごのかるさよ
行きはあんなに重かった荷を
どこで 降ろしたの 誰のために
いま 虚しさを頭上に置いて
さびしい という言葉もない
そんなふやけた抽象語は
ナイ ハ アル
アル ハ ナイ
バルバザール

 「虚しさを頭上に置いて」の「頭」という文字が象徴しているかもしれないが、この「わたし」は「世界」の中心ではないという哲学(?)は、まだ、小池の「肉体」ではなく、「頭」のものかもしれない。けれど、そうであることを小池は「抽象語」ということばのなかに封印して、この詩を閉じている。
 自分の知っていることば、たとえば「あるはない、ないはある」というような哲学を捨て去るために、捨て去って新しいことばをつかみとるために、小池は「コルカタ」へやってきているのかもしれない。




小池昌代詩集 (現代詩文庫)
小池 昌代
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする