詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

志賀直哉(8)

2010-05-18 23:37:21 | 志賀直哉

「早春の賦」(2)(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

  140ページ、昔住んでいた家を訪ねる場面。

 私は昔から用もない品々を雑然と身辺に置く癖があり、永くさうしてゐると、つまらぬ物にも愛着を生じ、捨て難い気持になりそれらに取巻かれてゐる事で、自家(うち)といふ感じもするのだが、今、此所に来て、それらが一つもないと、最早自家の感じはなく自家とは家屋よりも寧ろさういふ品々の事かも知れないと云ふやうな事を思つた。

 これは、とても納得がいく。とても納得がいくし、あ、さすがに小説の神様はしっかりした視力をもっているなあ、とあたりまえのことに感心する。
 そして、そのぼんやりした感心に、次の文章が襲い掛かってくる。たたみかける、というのではないが、静かに書かれて、次の段落で、私はうなってしまった。

 二階の客間で昼飯の御馳走になつたが、此部屋には前から余り物を置いていなかつたためか、却つて、ゐた時の感じがあり、懐かしい気がした。戸外(そと)は山国らしく、遠く青空のみえたまま、綿雪がさかんに降つて来た。

 物を置かなかった部屋。それが、部屋そのものなので、「ゐた時の感じがあり、懐かしい気がした。」こういうことは、誰も書いていないのではないだろうか。目があらわれるような気がした。
 そして、このすばらしい文章を、志賀直哉は、「戸外(そと)」を書くことで、そっと隠している。「自家(うち)」は、このとき、まさに「内」になる。「内」の、こころの懐かしさ--それを、知らん顔でひろがっている「外」。
 余韻がある。

志賀直哉随筆集 (岩波文庫)
志賀 直哉,高橋 英夫
岩波書店

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピエール・モレル監督「パリより愛をこめて」(★★)

2010-05-18 23:30:34 | 映画

監督 ピエール・モレル 出演 ジョン・トラボルタ、ジョナサン・リース・マイヤーズ、カシア・スムトゥニアク

 アクションにこだわった映画である。その撮り方は、ポール・グリーングラスとはまったく違う。ポール・グリーングラスはカメラに演技をさせるが、ピエール・モレルは役者に演技をさせる。カメラは動かない。カメラのフレームの中で役者が動く。カメラが移動するとき、手振れで画面が揺れる、なんてことはない。アクションの一部がフレームからはみだしてしまうなんてことも、もちろんない。いや、これは、映画としてはあたりまえなのだけれど、いまではなんだか古風に感じられる。とてもなつかしい感じがする。
 で、そういう映画だと、主役はやっぱり役者の肉体ということになる。
 ジョン・トラボルタとジョナサン・リース・マイヤーズは対照的な肉体をしている。くわえて、動きそのものがアメリカスタイルとフランススタイルで差があり、このキャスティングは、演技をするのは役者であってカメラではないというピエール・モレルの主張に沿ったものなのだろう。
 しかし、それではどうしたって紋切り型である。アメリカの過剰なアクション。フランスのヒューマンな(?)アクション。これに、もうひとつテロリストの非情なアクションが追加されるのだが。象徴的なのは、テロリストに銃を向けるが、ジョナサン・リース・マイヤーズは引金をひけない。テロリストがジョナサン・リース・マイヤーズの構えている銃の引金をひいて自殺するシーン、そして、その「射殺」をジョン・トラボルタが何でもないことのように評価するシーンに、3人の違いが出ている。
 まあ、それはそれでおもしろいといえばおもしろいのだけれど、これに「愛」がからんでくるのが、なんとも、なんとも、なんとも、なんともフランス的。「愛」といっても、男の純情のようなものなのだけれど、変な具合に映像がねじれていくなあ。ジョナサン・リース・マイヤーズのアクションが、どっちつかずになる。ラストシーンで、彼が恋人のテロリストを射殺するシーンなど、わかる? 彼は、女を油断させるために「愛」をことばにしたのか、それとも本心だったのか? フランス人ならわかるのかも。私には、判断がつきかねる。
 それに。
 その肝心のテロリストも、なぜテロリストになったのか、よくわからないねえ。「信義」に共感したのか、それともテロリストの男にほれたのか。二人がわかれるシーンなんか、死んで、天国で会いましょうみたいな表情になる。
 この強い「愛」に、けっきょくフランス男はどうしたのさ。

 とても中途半端な映画である。


96時間 [DVD]

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北川透『わがブーメラン乱帰線』(3)

2010-05-18 00:00:00 | 詩集
北川透『わがブーメラン乱帰線』(3)(思潮社、2010年04月01日発行)

 北川の「朗読しないための朗読詩」はライブ詩である。

私は眠れない。
毎日、詩を書くと決めてから、きょうで三日目。

 で、私も、それにあわせて(?)ライブ感想。きょうで三日目。三日目の部分を読む。三日目の感想を書く。

スイスの哲学者カール・ヒルティの『眠られぬ夜のために』を読む。
不眠に逆らうな、と書いてある。
不眠は精神生活を向上させる、と書いてある。
不眠は人生に最大の宝を得るための、神の賜物だ、とも書いてある。

 「……と書いてある。」そう繰り返すことで、北川のことばはリズムを獲得する。本に書かれていることの要約なら、この「書いてある」の繰り返しは、邪魔者だ。
 北川は、カール・ヒルティについても、『眠られぬ夜のために』についても、書きたいわけではない。北川の書きたいのは、詩である。ことばの暴走である。暴走させるためには、加速するための「弾み」と、加速をスムーズにするリズムが必要である。
 「……と書いてある」と繰り返すことで、北川は、そのリズムを手に入れている。

 そして、その「書いている」ということを確認するというのは、不思議な作用をする。「書きことば」は、不思議な具合に北川を動かしていく。
 その書かれたことばは、書き写した瞬間から、北川のものになる。そのことばを、次にどう展開していくかは北川の自由なのだ。『眠られぬ夜』のなかで、それがどのような「位置」を占め、どう動いていくか、ということとは無関係に、北川は北川のことばを動かすことができる。まったく自由にことばをつないでいくことができる。

ヒルティさん。あんたは唯一絶対の神を信じているからいいさ。
わたしは暗がりで目を開いても、
暗い網膜に神様など見えたことがない、不信心、不逞の輩だ。
目の中いっぱいに、ただ、広がる虚空……
夜もなければ朝もなく、ただ、寝返りを打つばかり。
黒い鼠が一匹、ちょろ。
黒い鼠が二匹、ちょろちょろ。
黒い鼠が三匹、ちょろちょろちょろ。

 北川のこんな感想(?)のために、(そういう感想を想定して?)、ヒルティは『眠れぬ夜のために』を書いたわけではないだろう。「黒い鼠が一匹、ちょろ。/黒い鼠が二匹、ちょろちょろ。」という行は、ヒルティの想像を絶する反応だろう。
 そういう無関係な感想を、ことばは書くことができるのだ。
 こんな感想は無関係であるから、無効である--と学校教科書作文なら切り捨ててしまうかもしれないけれど、そういう無関係、無効なことばが、ことば自体として動いてゆける。
 これは、とても不思議でおもしろいことだ。そして、それは「書きことば」にとっての、一種の特権でもある。
 ことばの動き自体をいうなら、同じことばを「話しことば」としても話すことはできる。けれど、その「話しことば」は話した先から消えていく。いまは、録音装置があるから、消えない、という主張もあるかもしれないが、その音を再生させるときは、話しことばの順序どおりに音が再生され、その音は同時にひとつの「音」としては存在しえない。
 「書きことば」は、そういう制約を受けない。
 「書きことば」は無関係を、並列させることができる。同時に存在させることができる。私たちの目は、かけ離れた「文字」を同時に見ることができる。
 この「同時性」、同時に違ったものが存在するということを利用して、ことばは暴走する。

 そして、書いている「いま」を、ここには存在していない「時間」と「同時」にしてしまう--というのは、
 あ、
 ちょっと変な論理だね。
 うまく書けないのだけれど、そんなことを、ふっと、私は感じた。
 「書かれたことば」(書きことば)がそこに存在する。そのことばは「無関係」であるけれど、同時に存在し、その同時に存在するときの、存在する力(能力)のようなものが、ことばを動かしている。
 リズムが、それに加担する。

黒い鼠が、黒い鼠が、ちょろりん、ちょろりんちょろちょろりん。
黒い鼠が、黒い鼠が、神の賜物だなんてとんでもない、ああ……。
黒い鼠が、黒い鼠が、白い歯を剥き出し、
黒い鼠が、黒い鼠が、わめきながら襲い掛かる。
黒い鼠が、群れを成して、わたしの身体の真上に。
黒い鼠が、わたしの耳を、鼻を、咽喉を、踵を齧る。
黒い鼠が、わたしの内臓から湧き出る、寄生虫を齧る。
黒い鼠が、わたしの踏み潰された肝っ玉、どぶ板を齧る。

 ことばは、なんでも書くことができる。書きながら、ことばは、そこにたしかに定着する。そして、そこにリズムが確立されるとき、そのリズムはリズム自体で、ひとつの存在の「理由」になる。
 リズムのなかで、実際には存在しないはずの「黒い鼠が」、ことばとして存在し、定着してしまう。「黒い鼠」を想像する(創造する?)北川を通り越して、「黒い鼠」ということば自体が存在してしまう。存在してしまうまで、北川は、ことばを書く。書きつづける。
 無意味なことばが、書かれることで、存在してしまう--その存在にかわる瞬間が、詩ときっと重なり合うのだ。
                                  (つづく)
 

わがブーメラン乱帰線
北川 透
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする