詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「微光」

2010-05-09 12:01:36 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「微光」(「歴程」568 、2010年04月30日発行)

 詩は、いつでも「矛盾」のなかにある。池井昌樹「微光」にも、「矛盾」があり、その「矛盾」の前で、私は一瞬、方向性を失う。放心してしまう。その瞬間に、詩を感じる。

わたしはどこからきたんだろう
そうしてどこへゆくんだろう
ははとくらしたいなかのうちから
つまとふたりでくらすうちまで
たかだかしれたみちのりを
いままたひとりかえるころ
わたしはもっととおくから
そうしてもっととおくへと
かえりつづけていたような

 「もっととおくから」「かえりつづけ」る。これは、多くの人が感じることかもしれない。自分の過去が、知っている過去を超えて、もっと遠くにもある。過去のむこうに過去がある。それは、たとえばこの詩で書かれている「はは」の過去、そして出会う前の「つま」の過去であるかもしれない。「人間の過去」「いのちの過去」と言えば、その深いふかい過去があたたかい血のように鼓動を打っているのがわかる。
 でも、「もっととおくへ」「かえりつづけ」る。これは、どうだろう。
 「もっととおく」には何があるのか。「ははのうち」は、あるのか。「つまのうち」(つまと、わたしのうち)は、あるのか。
 そもそも知らない「とおく」、「未来」へ「かえる」ということばはありうるのか。

 そういうことばは、ない。

 そういうことばは、ない。
 あるのは、「未来」へ「ゆく」ということばだ。

 未来「へ」かえる--ということばは、ない。そして、それは「矛盾」だ。
 そういうことばは、ない。ないけれど、書いてしまうと、そこにあらわれてくる。それは書いたときに、はじめてあらわれてくるものである。
 書くことによって、ことばによって、なかったものが、「いま」「ここ」にあらわれてくる。
 これが、詩である。

 そして、詩のなかで、「矛盾」は別の「矛盾」を呼び込み、それをとかしてしまう。区別をないものにしてしまう。

こんなみにくいひとのよなのに
こんないやしいひとのこなのに
なもないみどりにつつまれた
なもないまちのどこかしら
なもないあかりのともるころ
やがてついえるみにくさに
やがてついえるいやしさに
ついえぬものの
ほほえむような

 「ついえるもの」と「ついえぬもの」が出会い、そこに「ほほえみ」だけが残される。「矛盾」は「ほほえみ」になる。
 その「ほほえみ」が、「ほほえむ」と「動詞」になっているのは、そのとき池井自身が「動詞」だからである。「人間」という存在ではなく、「いのち」という「人間」を超えて、過去も未来もないところまで動いていく「動詞」だからである。

 でも、それは、何と名づけるものなのだろう。私は仮に「いのち」と呼んだけれど、ほんとうは何と呼ぶべきものなのだろう。
 池井は、それに対して「答え」を書いている。

なもない

 あ、それには「名前」などないのだ。それは「名前」で呼べないのだ。
 「名もない存在(何か)」を、「流通言語」では、価値のないものと定義している。「名前」とは「価値」なのだ。
 だが、池井はそうではなく、別の「なもない」をここでは書いているのだ。
 「なもない」何かは、その存在がことばに比べて尊すぎるのだ。

 とうとい--のなかにはとおい(とうい)が含まれている。そこへ、池井は帰る、帰ろうとしつづけている。まだ、池井のことば(なまえ)で汚されていない、純粋な、何かへむけて。
 そのときの「帰る」という「動詞」をまっとうするとき、その先にあらわれる「ほほえみ」は、池井の「帰る」という「動詞」を「ほほえむ」という「動詞」にかえて、のみこんでしまうだろう。

 そういう「動き」(動詞)としてのありようを、池井は「微光」として感じているのだ。



童子
池井 昌樹
思潮社

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小池昌代『コルカタ』(4)

2010-05-09 00:00:00 | 詩集
小池昌代『コルカタ』(4)(思潮社、2010年03月15日発行)

 詩集の4作品目で、やっと「音」が出てくる。「タオヤカ」。

カンチ、カンチ
ミセス・カンチは
クマトリー街に住む 女偉丈夫
三十歳 工房をしきる親方である

 「カンチ」は名前。最初の1行は、「意味」的にはなくてもいい。省略して2行目からはじめても「意味」はかわらない。けれど、小池は「カンチ、カンチ」と繰り返したあと「ミセス・カンチ」と言いなおしている。
 小池は、ここでは「他人」に出会っている。一葉でも、ウルフでも、石牟礼でも、泰淳でも、タゴールでもない。知らないひと。その「他人」であるひとの、最初のことば「名前」である。「名前」の「音」である。
 その女の描写は、あるいはその女にかぎらないけれど、ひとの描写は「名前」からはじめる必要などない。けれども、小池は「名前」からはじめる。「名前」、その「音」からはじめる。「音」を「肉体」のなかに取り込み、外に「声」にして出す。そういうことを繰り返して、「音」そのものを「肉体」になじませる。ぎこちない「音」ではなく、自分になじんだ「音」として、女に近づいていく。
 「声」として近づいていく。
 「バルバザール・朝」には、

男たちはみな 痩せていた
焦げた瞳で ぶしつけに見た
だからわたしも 見返すのだ
見て 見返す
ことばのない 視線の群れが
蒸され もうもうと湯気をたてる

 という行があった。「ことば」をもたない視線は、互いを拒絶し合う。その拒絶を距離を乗り越えて、小池は「カンチ」という音から、いま、目の前にいる女に近づいていく。「名前」を呼ぶことで、私はあなたを知っている、知りつつある、もっと教えて、と近づいていく。
 そして、女が祭壇に飾られる女神の像をつくっていることを知る。女の仕事に一族のいのちがかかっていることを知る。何のためにつくるのか。

「食べるためよ ああ、食べるために作るのよ」

 小池は、そのことばを「声」をとおして聞く。そのとき、小池は、「声」とは別に「視線」でも女と、その一族を見ている。

一族は
彼女のかせぎにかかっている
ああ 樋口一葉 だわね
工房を出て 家へ着くと 奥から わいてくる
おば おじ めい いとこ たにん
「食べるためよ ああ、食べるために作るのよ」
なにを聞いたのだったか わたしの質問に
彼女は 半ばあきれ 半ば絶望し 吐き捨てるように言ったのだ

 「おば おじ めい いとこ たにん」は「視線」がとらえた「存在」である。その「一族」と小池は、ことばでは「交流」しない。「名前」は省略して、ただ視線で、出会う。その出会いのなかに

たにん

 がいる。
 この1行は、とてもおもしろい。興味深い。「声」をかける。「名前」を呼んでしまうと、そこには「他人」ではない何かがあらわれてくる。「視線」では「他人」であったものが「他人」ではなくなる。
 そういうことを意識しながら、小池は、「声」をとおして女に近づき、女から「声」を受け取る。そして「他人」ではなく、視線で拒絶し合う「他人」ではなく、いっしょに生きている人間になる。
 それを描いた次の部分がとても美しい。

「食べるためよ ただ 食べるために作るのよ」
それなのに カンチは泣いてしまう
「祭礼の最後 わたしの作った女神像が
みんな ガンジス河に流されてしまう
見ていられない 見ることなんか できない
いままでだって 一度も見たことがない」
女神の像は泥で作られている
すべてが終わったら 河へ流す
それを思って
わたしもカンチといっしょに泣いた(心のなかで)
その声はまるで産声のよう ね

 「泣く」--その「声」が「産声」。
 私は先日、ヤン・イクチュン監督の「息もできない」を見た。(05月01日の「日記」に書いた。)その映画では、やくざの男と女子高校生が出会う。その映画のハイライトのシーンで、男と女は涙を流して、「人間」に生まれ変わる。(最後に、男は血を流して死んでしまう。人間は血を流すと死ぬが、涙を流すと生まれるのだ。)それを、ふと思い出した。
 泣くことによって、いま、カンチという女と、小池がいっしょに生まれ変わっている。その泣き声は、「悲しみ」あるいは「絶望」かもしれないが、同時に「産声」でもあるのだ。「産声」であることを、小池は実感している。
 この「産声」、その「音」。この世に生まれてきて、最初にあげる「人間の声」。この「声」は不思議だ。それは「世界」で共通している。どこの国でも「おぎゃー」と泣いて生まれる。「おぎゃー」と叫んで生まれる。その「声」を聞いて、赤ん坊が生まれた、ということ以外を想像できる人間はいない。
 ひとが、丸裸で、つまりどんな「意識」(「頭」で考えたあれこれのことば)をほうりだして、無防備でつかみとる真実。「いのち」の「誕生」。

 いま、この瞬間、小池は、ことばを「音」として、「声」として取り戻したのだ--それがつたわってくる詩である。
 ここから、小池は生まれ変わっていく。




タタド (新潮文庫)
小池 昌代
新潮社

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