詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『わがブーメラン乱帰線』(4)

2010-05-19 00:00:00 | 詩集
北川透『わがブーメラン乱帰線』(4)(思潮社、2010年04月01日発行)

 人間のことばは自由なようであって自由ではない。自由をめざして動く北川のことばも同じである。

無為の日を重ねて四日目。
眠れぬ夜のために、また、神様のことを考えちゃった。

 これは三日目のヒルティの『眠られぬ夜のために』の「神」と関係している。北川は、このあと西洋の「神」とは違った日本の「神様」へとことばを向かわせる。日本の神様は一神教の神に比べるとずいぶん違う。
 日本の神様は、

それはお太鼓叩いて、笛吹いて、
陽気に舞ったり踊ったり酔い潰れたりするカミサマで、
脅かしたり、罪を咎めたりする、いかめしい神ではなかった。
わたしはヒルティさんのように、
戒律を強い、命令する怖い神と向き合ったことがない。

 北川のことばは、ヒルティの神に反応して、日本の神様へと動いていく。そこで自由に動きはじめる。

セクシーな弁財天のストリップショーに笑い転げる大黒さんや
でっかい腹をもてあましながらトランペットを吹く布袋ちゃん。

 自由に動くことばは、何かを否定すること、何かを拒絶することと、どこかでつながっている。ヒルティの神を否定する、拒絶する。そして、自分の知っている神様を描写しはじめる。そのとき、否定、批判、拒絶の意識が、その描写を突き動かすひとつのエネルギーになっている。
 そして、いったん動きだすと、その動きそのものから加速度をもらって、ことばは暴走する。

七福神はみんな大きなふくよかな耳。
あの大きな耳の中でしか、蜂蜜の養殖はできなかった。
野や山や村々に溢れている福耳のカミ、
ホットケやゾウのピンクのミミは、
イナゴやキリギリスの佃煮のように摘まんで食べるもの。
不味ければ吐き出せばよかった。
世間から後指さされる悪戯を、
底なし沼が埋まるほど繰り返していた餓鬼どもを、
眺めては謡い、手拍子を取って舞う、
七福神が笑っていた。

 この暴走を、北川のことばはどこまでつづけられる。北川は、どこまでつづけることができるか。
 まあ、一生懸命(?)北川はつづけるのだが、そこに、ときどきとてもおもしろいことばがまぎれこむ。「思想」がまぎれこむ。

額に怖ろしい角が生えてきたり、
お尻に可愛いシッポガ生えてきたりする秘密を、
どうしてそんな気味のわるいほど楽しいことを、
頭痛や吐き気がするほど気持ちのいいことを、愛してもいない神、
あのチイチイモモンガァなどに告白できようか。

 「気味のわるいほど楽しいことを、/頭痛や吐き気がするほど気持ちのいいこと」。このことばは「流通言語」の「意味」からすると、とてもおかしい。「気味のわるいこと」は「楽しい」とは言われない。「頭痛や吐き気」は「気持ち悪い」ことではあっても「気持ちのいいこと」ではない。それが「流通言語」の「意味」である。けれど、北川は、そういうことを逆に「楽しい」「気持ちいい」と書く。
 「流通言語」からすれば「矛盾」である。
 そこに、北川の「肉体」と「思想」がある。「流通言語」ではたどりつけない何かをことばとして書きたい--その欲望が北川の「肉体」であり、「思想」なのだ。

 こういう「なま」の思想は、ほんとうは書かない方がいいのかもしれない。けれど、書かずにはいられない。--これも、まあ、矛盾といえば矛盾だけれど。
 でも、なぜ、書くのか。
 そんなふうに「なま」のことばで向き合うしかないほど、実は「流通言語」は手ごわいのである。矛盾をあえて書かないことには、矛盾の存在がのみこまれてしまうのである。それと抗うためには、どうしてもそう書くしかない。

 しかし、書くというのは不思議だ。ことばというのは不思議だ。
 たとえば、

どうしてそんな気味のわるいほど楽しいことを、
頭痛や吐き気がするほど気持ちのいいことを

 なぜ、ここで「楽しい」とか「気持ちのいい」ということばをつかわなければいけないのか。なぜ、そこにまったく新しいことばが書かれないのか。
 「流通言語」を拒絶し、それを超絶してしうのが狙いなら、もっと違うことばでもよさそうである。
 けれど、もしそういうことばがあったとしたら、では、どうなるのだろう。
 私たち(少なくとも私)は、そこに「矛盾」があるということに気がつかない。「矛盾」が「矛盾」であるということを知るためには、「流通言語」の一定の法則(?)を知らないといけないのである。「流通言語」にとっていったい何が「矛盾」になるのか、ということを知らないと、「矛盾」は書けない。

 「流通言語」を否定したいのに、そのとき、否定や矛盾を指摘するためには、「流通言語」のなかに存在する根強いことばの「流通意味」を使うしかない。
 このまだるっこしさ。
 「流通言語」を知っているものだけが、「流通言語」を否定し、拒絶し、それを乗り越えていくことができる。
 これを裏返せば、「流通言語」を知らない限り、ほんとうは詩を書けない、ということになる。

 神を否定するには神を語ることばを知らなければならない。ヒルティを否定するにはヒルティのことばを知らなければならない。
 そして、北川は、それを知っている。
 北川は「流通言語」を知っている。

 北川の文体は強靱である。それは彼が触れてきた「流通言語」が多いということと関係する。否定すべきもの、そして乗り越えるべきもの--その文体をどれだけ自分自身のものにするか。
 書くことは、その対象、あるときはヒルティという「流通哲学」をくぐり抜けることである。批判しながら、その批判の対象そのものの「文体」にさえなる。

 ヒルティのことは、私は知らない。北川が知っている何かについて私が知っていることはほんの少しなので、そこで描かれているものが何であれ、誰であれ、私は「知らない」ということば以外で向き合えないかもしれないが……。
 北川は、批判、あるいは乗り越えるべき対象を取り込む、というのは、たとえば次のような部分にあらわれている。

 ……わたしはわらっちゃあいないよ 脳の渚に響き渡っているのはサイレンだ 真夜中のサイレンだサイレンだ

 「サイレンだ」の繰り返しは中也である。
 もちろん、北川の書いている「サイレン」と中也の「サイレン」は同じものではないが、ことば自身は同じである。北川は、ここではおなじことば「サイレンだ」という音をかりながら、中也がそのことばを書いたときのエネルギーを受け取ろうとしている。

 北川は、たとえばヒルティでは、そのことば(神)を批判して、別なことば(日本のカミサマ)をぶつけることで、その反発力、反射してくる(跳ね返ってくる)力を借りて、いま、ここにはないことばへ動いていこうとする。他方、中也のことばと向き合うときは、そのことばのなかにあるエネルギーそのものにのってしまおうとする。--ことばの向き合わせかたには、簡便に分類してふたつあるということかもしれない。ほんとうはもっとたくさんあるだろう。
 そして、そのもっとたくさん、「無数」は、実は、書いてみないとわからない。ことばは、ことばにしてみないと、わからない。どこまで暴走するかわからない。暴走がほんとうに暴走なのか、失速なのかもわからない。
 それを知りながら、北川は、書く--あくまで、書くのである。

書く、という崖っぷちから飛び降りる
書く、という死に照らされて道化うた
書く、という淫乱な女に、手を取られ
書く、というのは誰と寝るかの、問題

 誰とでも寝る。誰とでもセックスをする。そのとき新しいことばを「妊娠」し、「出産」するのは、「誰か」であるとはかぎらない。北川かもしれない。いや、寝取った女の、「妊娠」し、「出産」する権利と喜びさえも北川は奪い取って、「わたしは女だ」と宣言してしまうかもしれない。

 男なのに、女。矛盾。矛盾? 矛盾かなあ。

 矛盾なんて、ない。もしことばで書かれたことが「矛盾」しているなら、それはそのことばが「矛盾」を叩きこわし、新しいことばになりえていないからだけのことである。
 書く--矛盾をのみこんで、書く。そのとき、そこに詩がある。
 書く--というのは、ことばでしかありえないことを「わたし」のものにしてしまうことなのだと思う。





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北川 透
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