小倉金栄堂の迷子(5)
いつも、ことばが先にいた。あるときは歩道橋の途中で立ち止まり、下を流れていく車の列の、赤いテールランプが見えるまで風の音を聞いていた。あるときは、エレベーターに乗らずに、小さな灯しかない階段を上っていった。手すりにふれると、ことばの体温がまだ残っているのだが、それは筆跡のように(それは「書き癖のように」と書いたあとで修正されたのだが)、はっきりと、それがことばのものであることを証明していた。
ドアを開けると、ことばは絵を見ていた。ひとつのことばがシーツのなかで裸の胸の汗を、ランプの光に輝かせていた。もう一つのことばはベッドに腰掛け、靴下を手に持っていた。
「おわったところだろうか、これからはじめるところだろうか」
先に、ことばが、そう言った。振り向かなかったが、追いかけてきていることを知っていて、わざと声に出したのだ。
ほかのことばたちが、ことばと私、そして絵のなかのふたつのことばを見比べるようにながめて、後ろを通りすぎながら、あるいはわざと近づきながら、アルコールで臭くなった息を破棄ながら、ささやいている。まるで、その絵が、私たちであるかのように。
ことばに無視され続けている、嫉妬深い別のことばが、言った。
「おわったところだろうか、これからはじめるところだろうか」
どっと笑いが起きた。無防備な裸を見られたような気がした。