大宮氷川神社参道の紅葉
一の鳥居から「是より宮まで十八丁」(・十八丁=2Km)
中山道から延びる参道の長さは約2kmあります。現在はケヤキが主で三十七種、およそ650本が立ち並んでおりますが、昭和初期には鬱蒼とした杉並木で「並木十八丁鉾杉つづき」と歌われており、さらにさかのぼると松並木の時代もありました。
江戸時代初期まで、氷川神社の参道と中山道は同じでした。街道の旅人と参詣客が入り乱れて、大分混乱したようです。門前町なのに治安も悪化したのでしょう。そこで参道と中山道を区分して、新たな中山道を作ろうと言うことになったようです。中山道の”バイパス化”です。一の鳥居から三の鳥居の手前の参道を通らない中山道の区割りは、伊奈忠次備前守が行こないました。新道にあった農家を移転させ、旅籠や店を設置する事業です。この事業のおかげで、大宮は、門前町と宿場町の二つの顔が出来、大きな商業都市へ発展する基礎が出来ました。
大宮は、門前町です。門前町は、例外なく商業都市です。
この商業都市になった門前町の代表格は、武蔵一宮の大宮は勿論ですが、善光寺がある長野も、それに当たります。
まだ、商業が発展してなかった中世に、貨幣経済の芽生えとともに、”市”が立ちました。
この市が立った場所は、神社の参道や境内、仏閣の参道や境内でした。
参道や境内は、もともと人の集まる場所で、時の権力者や神官や僧侶も、市を積極的に認めていた伏があります。現代に繋がっている、祭りの屋台は、その名残かも知れません。
神社の参道や境内に立った市から、商都・門前町は発展していきます。この大宮は、その典型的な例です。
一方、仏閣の市については、二つの方向があるようです。ひとつは、長野善光寺の門前町のように商都に発展系をみます。もう一つは、寺院の境内を商業基盤とする、寺院城塞化の方向です。浄土真宗(一向宗)が、経済基盤に”市”を積極的に活用しながら、強兵化した、仏閣城塞化の吉崎や岡崎の一向一揆の例です。
”市”を積極的に、政治利用したには「蓮如」でしたが、一向一揆の後、武家の棟梁が、市を積極的に取り込んでいったのが、織田信長であり、秀吉、家康と続く天下統一の武将たちでした。
蓮如と信長は、経済的なセンスの持ち主でもあったようです。