きぼう屋

生きているから生きている

しつこくかかわってくれる神

2009年02月22日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「熱情の神・・・しつこくかかわってくれる神さま」

先週と今週で「十戒」を分かち合いますが、
先週は前半部に記される熱情の神を学びました。
かつての聖書では「ねたみ深い神」と訳され、
私はしつこく関係を求める神と受け止めますが、
このなんとも生々しい神さまが、
実に私たちを救ってくれます。

ではその部分を少し見てみましょう。

神さまは言います。
「わしの前に他の神を置くな」。
私たちは「了解」と応えます。

しかし神さまはさらに言います。
「でもあんたは他の神に頼ってなくても、わしを勝手にイメージして偽のわしをつくるではないか。そんな偽もんに頼るな」。
私たちはやはり「了解」と応えます。

すると神さまはさらに、
「ならば偽のわしをつくったら、わしはその罪をあんたの共同体みんなに問うぞ!そういう雰囲気はみんなの罪だ!」と言い、
さらにさらに「でもわしを愛するなら、あんたの共同体を永遠に救う」と言います。
だから私たちは半ば喜び半ば恐れつつ「了解」と応えます。

でも神さまはしつこくもさらに
「しかしあんたは自分に都合のいいこと、ありがたいことのときだけ、勝手に神さまのおかげだって言うではないか。
そういう風に勝手に神を用いる者は必ず罰する」
と、とても恐ろしい警告を最後にします。
 
神さまはこういうなんとも生きているお方です。
コンピュータのように冷静に(冷たく?)答えをはじき出す方ではありません。
だからキリスト教は原理になることは不可能です。
抽象思考として脳みそで扱われることもキリスト教は拒否します。
ただただキリスト教は生きている神さまを探し求めます。

といいつつ、
キリスト教会は神を原理とし、思考としてきました。

そのゆえにわたしたちは、生きている神さまを無視し、
結局は無意識にも地上の権力や金などの
原理として分かりやすく思考しやすい他の力たち(他の神たち)を頼り、
さらには自分の都合で(思考しやすいように)勝手に神を解釈し、
さらにその神を都合のいいときだけ持ち出すということを、
歴史上繰り返してきました。

おおげさでなく、
人の歴史はこれのみと言っても過言ではありません。

でも、そういう神さまを無視している私たちの目の前に、
このしつこい熱情の神さまは
なんと!現れるわけです。

こちらが神さまを探し求めるのを忘れていても、
神さまが私たちの目の前に現れるのです。

そして神さまは、私たちの目を見て、肩を持ち、揺さぶり、
「私が神なんですが!」「私があなたを救うのですが!」
と言います。
さらにきっと
「脳みその中でイメージした神から解放されて、目を覚まして私を見てくださいな!」
と言ってくれていると思います。

そうやって神さまはしつこくしつこく私たちの目の前に現れるのです。

むろん、わたしたちの視覚や触覚という限界を超えて信仰において現れるのであって、
私たちの感覚になじむ仕方で現れるという胡散臭さ(カルト臭さ)はありません。

と言いましても
人間の認識できる範囲で真理を確定したいという時代なので、
つまりカルト臭さに真理性を感じてしまう感覚の時代なので、
こういう聖書の語る真理が届きやすいのか否かは
実はわたしもよくわからないのですが

しかし、なにはともあれ
本日も熱情の神は現れるのです!!

アーメン!