きぼう屋

生きているから生きている

過越の祭

2009年02月01日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

この間は巻頭言のみですみません。
昨年末から
このような世の状況においていくら時間があっても足りず・・・

年末年始にあれだけ暴飲暴食したのに
体重3キロ
体脂肪2%
減ってしまっております。

これは悪いことではないのですが
そろそろ体力的にぎりぎりですので
なんとかせねばと思いつつも

でもやるっきゃないのです・・・

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「過越の祭」

先週の教会学校では、
過越の祭の根拠である出エジプト記の物語を各クラスで学びましたが、
みなさんはどんな気持ちを抱きましたでしょうか。
私はそこでなんとも苦い思いをするわけですが、同じ思いの方が多かったのでは?と想像します。

つまり、この祭で繰り返し物語られる出来事は、
私たちにとって
喜びを持っていただくことがむずかしいに違いないのです。

この物語は、
主なる神が
夜中にエジプト人の家に侵入し初子をどんどん殺し、
さらに金銀食料を持ち出してイスラエルの人々に与える
というものでした。
ここでは主が殺人者であり、侵略戦争者です。
だから苦い思いが起こって当然です。
この物語をどう受けたらいいのか?と悩み迷います。

さらにガザで大量の血が流れている現在、
この過越の祭の物語を受けることが危険でもあることをも、
私たちはよく知ります。
つまり、
戦争をするとき、
それを正義の戦争、聖なる戦争、あるいは自衛の戦争という名で、主の計らいを物語ることが、
過越の祭の物語から生まれる危険性を、
私たち信仰者は肝に銘じねばなりません。

ではこの物語は何なのでしょう。

エジプト内で大勢となったイスラエル人は
迫害に耐えられず、
夜中にエジプト人を一斉に襲った!
とは読めないでしょうか。
エジプトの政策において
イスラエル人の人数調整のために赤ん坊が殺されたように、
エジプトの初子を殺した!
ということが起こったと読めないでしょうか。
またそうなると、
イスラエルの男たちが誤ってイスラエルの家を襲わないよう、イスラエルの家の柱には血を塗ったこともよくわかります。

この物語は、イスラエルの起こした戦争の物語です。
しかし、その戦争の主語を「主」とするところから、
現代の文法感覚でいくと、
イスラエルが戦争を肯定し、今でも正義の戦争を神の名で行う!と読めるのですが、

わたしは実は全く逆だと考えています。

つまりイスラエルの人々はその戦争を肯定することはできなかったのです。
だから、主語を「イスラエル」とはできず、「主」としたのです。
この変換は、主をイスラエルの戦争の理由にしたのではなく、
「主」を語ることで、自らの罪がさばかれることを忘れないためのものです。
つまり「主」を主語にすることは、主語を自分にする以上に、自分に責任がかかることなのです。

過越の祭は主を畏れることを忘れないためのものであり、
主を戦争の理由にするものではありません。

この物語は受け方次第で180度変わってしまいます。
が、聖書はそういう物語だらけです。

だから聖書は、祈りつつ信仰で読まされることが大切です。

今週も私たちは、聖書の物語を丁寧に祈りの中で頂きつつ歩みます。