きぼう屋

生きているから生きている

訓練

2009年02月15日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「訓練」

「訓練」と聞くと、なんだか厳しくて敬遠したくもなりますが、
しかし、あらゆる生命は「訓練」なくして生きることはできません。
生命は生きるために「訓練」します。

赤ん坊は立つ訓練、歩く訓練、食べる訓練を。
子どもは話す訓練、書く訓練、読む訓練を。
生徒たちは考える訓練、交わる訓練、ひとりでこなす訓練を。
二十歳を超えれば、他者と共に生きる訓練、奉仕する訓練、働く訓練を。
親になれば、育てる訓練、見守る訓練、身代わりになる訓練を。
高齢者になれば、包み込む訓練、伝える訓練、死を受ける訓練を。

そしてキリスト教会は、
そのひとつひとつの訓練をキリストに基づいて行います。
(とりわけヘブライ書が訓練について多く言及しています)。

その場合の訓練は、
キリストが生きるゆえに、教会家族、および世界全体が生き、
さらに自分自身が生きるためのものであり、
決して、自分ひとりが、あるいは自分の身近な交わりのみが生きるというための訓練にはなりません。
(むしろ後者の訓練は排除されます)。

そして次週に開催される総会は、
現在人間が持ちうる訓練における最大のものだと思います。
そこでは、
みんなで静まってキリストに聞き、
自分の感情や感覚、利益から解放され、
キリストが生き、
ゆえに教会が生かされ、
さらに自分自身が生かされるための
目的、方策、企画、会計などが、
議論され、共有されます。

だから総会は嬉しく情熱あふれるものです。

ゆえに私たちは総会に向けて祈り、豊かに参加できる準備を整えます。

決して総会に対して第三者的なかかわりを持つことは選びませんし、
ゆえにたんぱくで冷たい総会となることを拒否します。

しかし同時に総会はキリストの思いと私たち各々の思いが交錯し、こんがらがり、
何から解放され何にこだわるべきかがわからなくなる最たる場面です。
そこでは互いに何が善で何が悪であるかをわからないまま、
しかし互いに善を主張していると思い込みつつぶつかるという、
これまた最大の緊張も発生します。

だからこそ、総会は最大の訓練の場です。
キリスト信仰の訓練の場です。

総会でキリストから聞く!
ぜひ共に担いたいと願います。