きぼう屋

生きているから生きている

自由

2009年02月08日 | 教会のこと
今週の巻頭言です。

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「自由」

それに気が付いてから現代に至るまで
世界は「自由」を大切にしています。
でもその「自由」は一様ではなく、
変化もするし、力ある者に利用されもします。

ならば本当に大切にすべき「自由」とは何でしょうか。

聖書が語るのはキリストへの「自由」です。
世界がキリスト以外の力で動き、キリストが無視されるときに、
しかしキリストを信じる私たちは、
キリストの力と業とを選び取る(=信仰告白)「自由」を死守します。

それは
とりわけ一部の個人や共同体が財や権利を独占したり奪ったり、そのために殺したりすることが、
どこかで正当化される動きではなく、

「殺すな」「隣人を愛せ」「敵を赦せ」で動くことを選び取る「自由」です。

そしてバプテストはそこにこだわりました。
国家が戦争と搾取を繰り返し、個々人を支配する動きに反対し、
国家から「自由」になり、
キリストを選ぶことを実践するのがバプテストです。

そして今の日本ならば、
悪しき経済グローバリズムの動きに反対する「自由」であり、
このグローバリゼーションに賛成する企業や政治や教育など、
たとえそこと深い結びつきがあろうと、
いや、結びつきがあるからこそ、
そのしがらみの中で、
その動きではなくキリストの働きを選び取る「自由」を、
バプテストは聖書から信仰としていただくのです。

そして2月11日を、
世間は「建国記念日」としてですが、
国家の力を選ばない私たちは「信教の自由の日」として覚えます。

さて、
しかしいま「自由」はキリスト以外の諸力からキリストへの「自由」でなく、
自分自身の財や力や考え、感覚や感情への「自由」が多く語られます。

だから逆に神の言やキリストの物語に反対し、
自分の思いで神やキリストを利用する「自由」が増えていますし、
そのゆえに、「隣人を無視し」「敵を赦さない」という「自由」、
すなわち自分がそれなりにいい暮らししているから、他者は関係ない!という「自由」
がたくさん転がっています。

しかし!
私たち京都教会の信仰共同体は、「自由」をはき違えません!
これは神と地域世界に
高らかに宣言すべき!と思います。

共にキリストへの「自由」を選び取りたく願います。