きぼう屋

生きているから生きている

個人主義?

2009年02月20日 | 「生きる」こと
WBCのメンバーが宮崎でキャンプをしておりますが
イチローさんのカリスマがすごいですねえ。

そのイチローさんが
キャンプの練習時間が長い!と申したようでして
大リーグでは
全体練習は短くて
あとは個人でやるとのことで
そのやり方を適用したようです。

そして他のメンバーもイチローさんの意見に興味を示しているようでして・・・

でもわたしは
これはただの個人主義であって
日本の野球界という個人主義とはほど遠い雰囲気の中に生きてきた人が
このもう決して新しくはない個人主義の雰囲気に
興味を覚える
というが起こっているのかなあと思いました

これは野球界の流行なわけです。

そして
わたしはこんなこと考えてしまいます。

信仰生活は
みんなでする礼拝はさっさと短く済まして
あとは個人でそれぞれ
祈ったり瞑想したり聖書読んだり勉強したりしたらいい

という
キリスト教会で流行していた雰囲気があるなあ

ということです。

これは
時期はそれぞれ別としても
世界的に流行した個人主義による雰囲気です。

西ヨーロッパで
アメリカ大陸で
そして日本でも

これは流行しました

そして
その結果

キリスト教会は
ぼろぼろになりました

今の日本がちょうどそういう状態だと思います。


でも
聖書を読むかぎり
信仰生活は
すべての生活を共有するくらいの勢いで
それこそいい意味でべったりと
長い時間一緒に過ごすところにポイントがあるのだと思います。

たとえ意味がないと思われようとも
意味もなく共に同じ空間で時を過ごすことをどれだけしたか
ということが

家族の人間関係をはじめ
信仰共同体にしろ地域共同体にしろ
野球チームにしろ

筋力の強さがどれだけか
ということに直結するのだと思います。


今、教会が元気な地域は
意味を明確に言えなくとも
なにしろ集まり
祈り
しゃべり
食べ
礼拝する
という

べったり共に貼りつき生きる教会がつくられているところではないでしょうか。

あるいは
教会がぼろぼろになって困ったので
カリスマによる支配や
原理による支配や
マーケット理論による運営で
盛り上がっている地域もありますが

それはどうでもいいことであって

わたしたちが注目せねばならないのは

べったり共に貼りつき生きる共同体
なのだと思います。


しつこくも共に生きるからこそ
キリストの十字架なしに共に生きることができないことをも知るわけでして・・・

そこではじめて
「個人」を知るわけでして・・・
(個人主義はなくてもいいけど「個人」は当然大事!!)

個人という枠に逃げるなら
十字架がいらなくなって
栄光ばっかりを求めるようになります。



日本の教会も
個人主義という流行に乗り
元気だった教会が
これからどんどん元気がなくなるでしょうし

そうすると
カリスマか原理かマーケット理論に走ることに
世界の流れ的になると思うのですが

どっこい
ここは
べったり共同体を見直すことって
とても大事だと思います。


というわけで
イチローのもたらす流行が
しばし野球界でもたはやされるだろうなあ
と思いつつ

しかし野球こそ
強いチームになるために
わりかしすぐに
べったりと一緒に練習するというスタイルの重要性に
気が付きそうな気がします。


ではでは。