きぼう屋

生きているから生きている

キリスト者の自立 その2

2007年02月05日 | 教会のこと
2月4日の教会週報巻頭言

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バプテストは自立を大切にする。
だからその中身を深めたい。
今週も共に分かち合いたい。

先週のこの場所で、自立とは、依存する相手が誰かという事柄だと分かち合った。
我々は、国や家族、時代の雰囲気、金などではなく、キリストに依存したいと願った。

また、自立とは、何にも依存しない事柄でもないことも分かち合った。
何にも依存しないと言う場合は、実は自己や、何かの集団に依存していることも考えた。
そして自己や集団に閉じこもりがちになり、自己愛、愛国心と呼ばれるナルシズムを抱く。

しかしこれが今の世界の潮流だろう。
世界中の教会共同体にも見られる現象であるはずだ。
「自立」の捉え違いが生んだ結果と言えるかもしれない。

繰り返すが、自立とは、何にも依存しないことではなく、
キリストに依存することであり、
しかもあの十字架で消されようとするキリスト、キリストの言葉に依存することだ。

人は何にも依存しないで生きられる強さはまず持っていない。
そういう罪人でしかない事実は痛みつつ確認されねばならない。

トインビーは言う。
「ラウドネススピーカーの口からは、我々はかの『いとささやかに静かなる声』を聞くことはできない。
(中略)救いの言葉と行いとは、我々の全く思いがけない一角から現れるのかもしれない」。

この指摘は大切。
私たちが大きな声、大きな流れ、雰囲気、心理、欲求という言葉を聞き、それに依存してしまうから。

しかしキリストの言葉は、十字架で消される小さな声だ。
だから私たちは探す。
地域の中の小さな声を。
自分の中の隠された小さな声を。
その声の出所であるキリストの十字架を。

さらにその小さな声の小さな言葉が我々をそこへ従うよう決断させることに驚かされるだろう。
これがキリストの招きであり、
この決断が信仰と呼ばれるものなのだ。

我々は依存するしかない弱い存在だ。
しかし依存する相手がいと小さき声に現るキリストであるときのみ、
キリストが我々を立たせる。
これのみが自立。

「自立」より「キリスト立」と言うべきかもしれない。
すべての生命は自分で立つのではなくキリストで立つのだから。