きぼう屋

生きているから生きている

信教の自由を守る日

2007年02月13日 | 教会のこと
2月11日の京都教会週報巻頭言です。

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本日は「信教の自由を守る日」です。

バプテストは、信教の自由を守るゆえに、イギリス国教会に抗った群れから始まった教派です。
これこそはバプテストの特徴です。
よく、バプテストの特徴として、個人主義や民主主義が語られますが、
それを特徴というのは、まゆつばものだと思います。
これは近代の特徴であって、その特徴が自分のセクトから生まれたというのは、
誰しも自然に言いたくなるようです。
しかし
信教の自由を守るという覚悟は
バプテストの最たる特徴であることは、
その歴史からよく知ることが出来ます。

住井すゑの作品「橋のない川」で、
天皇に爆弾を投げようとした人が逮捕された事件を受けて、
先生がその人をキチガイと生徒に教えた時、
被差別で生きる孝二がこう言います。
「神さま(天皇)というのは、
少しでもいやなことをされると、
そのいやなことをした者にばちをあてるのだ。
神さまを祀ったお宮が、
どこもきれいで立派なのは、
ばちがこわいからにきまっている。
天皇陛下の写真を、
誰も通らぬ廊下の向こうのご真影室に祀っておくのも、
写真の出し入れをする時、
校長先生が特別立派な洋服を着て、
真っ白い手袋をはめるのも、
やはり天皇のばちがこわいからだ」。

「ばち」という表現で住井が言いたいのは、
人々を恐怖で脅し権威を保つ神さまこそ、人を不幸にする人間による偽物!
ということではないでしょうか。
そして、そういう偽物を神とする世界が、
被差別の人々がそうされたように、
踏みにじってもいい「いのち」を必要とし、生み出すということではないでしょうか。

恐怖で脅して人々を動かすこと、
逆に、脅すほどの恐怖感のある存在を、神さまとする人の習性、
こういうもので常に動く世界に抗って、
「ばち」などの脅しが怖いから信じ従うのではなく、
それと関係なく、
端的に寄り添う方がいるから、その方を神と信じる!
というのが、バプテストのひとつの出発点です。

そしてココから「信教の自由」「政教分離」という精神が生まれました。

しかし昨今アメリカを中心に、
聖書の神も、地獄などの「ばち」を用意する恐怖の神として語られます。
これを原理主義と呼びます。
これに飛びついている中心は、残念ながらバプテストだったりもします。
なぜ?
それはバプテストの特徴を個人主義や民主主義としてしまい、
信教の自由のためのたたかいの歴史を覚えることを忘れたため、
まさに、個人の一方の顔であるわがままと、
民主性の一方の顔であるところのその時代の最たる力への迎合が、
こういう原理主義を招いているのでしょう。
そして、これは住井から教わる日本の天皇観と本質は同じようです。
そして、踏みにじられる人々が世界にも、
日本のココの隣にも、たくさん生み出されるのです。

この神観が人の信仰を不自由にします。
人格を、生命を不自由にします。
そして神を不自由にします。

だから本日は、こういう神観からの解放を覚えたいのです。

住井の言葉からすると、
きっと神は、立派な教会堂も服も求めないのでしょう。
むしろ日々寝起きし食事し風呂に入る普段の姿で神と一緒にいることを望む気がします。
と、言いつつ、立派な会堂で立派な服を着て礼拝する私がおり・・・
この時代のキリスト教の最も大きな潮流にこうやって流される弱い者のひとりでしかなく・・・

しかしどうでしょう。
こんなところから、解放された教会の姿をイメージ出来るのも本日なのかも知れません。