きぼう屋

生きているから生きている

優しさ

2007年02月18日 | 教会のこと
2月18日の京都教会週報巻頭言です。

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主イエスは優しい。
本物の優しさで私たちに接する。
主イエスの優しさを本物というのは、偽物の優しさもあるから。

その本物の優しさは、徴税人ザアカイにも注がれた。
いつの時代にも社会システムがあり、それはきわめて不平等だ。
そしてどの社会システムにも権威が生じる
その権威を利用して自分の益を求めたのがザアカイ。

なるほど、私たちも日々の報道情報の中に同じものを見る。
もっと言うと、自分自身の中に、ザアカイと同じものがあることに気がつく。
気がつかねばならない。

そしてイエスはこういう私たちに本物の優しさを注ぐ。
その優しさは必ず結果を見せる。
それは私たちが変わるという結果だ。
ザアカイが変わったように。

金持ちの青年にも主イエスは優しさを注がれた。
青年は、困窮にある隣人を助ける必要をよく知り、そう生きていると思っていたが、
しかし主イエスによって、
自分の取り分と安全を確保し、あまった分でのみ隣人とかかわるという
本質を見抜かれた。
そしてショックを受けて主イエスから離れた。

私たちはザアカイ以上にこの金持ち青年に自分の本質も見るだろう。
それが現代日本社会で生きる者の正直な告白だろう。

そしてこの青年も主イエスの本物の優しさを受けて変わった。
確かに青年にはザアカイのような、人にわかりやすい劇的な変化はなかった。
しかし彼は明らかに自分が変わらねばならないことを体に刻み込んだ。

本物の優しさは私たちを変える。

しかし巷にあふれる優しさは、逆に「変らなくてもいい」という安堵感を与える。
だから気分を一時良くする程度で終わる。
しかもこの術はもてはやされる。
この術を持つ者は尊敬もされる。

これが偽物の優しさだろう。
偽物の優しさのとりこになっている私が、あなたが、社会が、そして教会がいる・・・

しかし!主イエスの本物の優しさは
一時の気分の問題ではない!
我々を深くさらに深くえぐり、我々を変える!

正直に言うしかないが、私は本物のあの優しさをいまだ持ち得ていない。

しかし私は確かにあの優しさに出会って自分が変わる経験をしてきている。
そしてそれは優しさを注いでくれる人の深い痛みからあふれてきた。

それは深い困窮にあるホームレスを強いられた人の優しさであり、
一日500円で生きるしかない高齢者の優しさであり、
貧しさなどの困窮をかかえる家庭で生きる子どもの優しさだった。

彼らから優しさを注がれた時、そこには必ず涙があった。
そこには十字架が立っていた。

そうだ!イエスの優しさは十字架だ。

わたしは本物の優しさを受けてなお変わるか。
あなたは本物の優しさを受けてなお変わるか。

それとも・・・

主よ!
私たちに本物の優しさを注いでください!
私たちを本物の優しさを注げる者にしてください!
本物の優しさあふれる現場に立たせてください!