きぼう屋

生きているから生きている

2007年も共に

2007年01月01日 | 教会のこと
2007年おめでとうございます。
今年も共に生きましょう。
よろしくお願いします。

我が家からのクリスマスカード&年賀状はもうしばらくかかります。
すみません。

かわりと言ってはなんですが、

昨日の年末感謝礼拝と
その前のクリスマス礼拝の
週報の巻頭言を。

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12月31日の週報巻頭言

「2007の希望」

♪ あなたが疲れ落ち込んで
  涙あふれるなら
わたしがぬぐう
  他の友を見失ってつらいときは
わたしが一緒にいる
  あなたがふさぎこんで
  歩みを進めることができなくて
  夕暮れをむかえるなら
  わたしがなぐさめる
  わたしが身代わりになる
  さらに闇が深くなり
  苦痛に囲まれるなら
  嵐の海にかかる橋に
  わたしはなる     ♪
サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」の歌詞です。
 教会の具体的希望は、いつでも互いにこういう教会家族であることだろうと思います。ただ日本の教会は、まだこの精神が成熟期を迎えるほどは歴史を重ねていないとも言えるでしょう。ということは、成熟することがそのまま希望でもあるということです。またそれは私たちの目標であり生き様でもありましょう。
 でもこの段階でも、教会家族の長子イエス・キリストは、私たちみんなにとって、「明日に架ける橋」として存在します。これこそ救いです。
 1月に、Aさんはお母さんになり、Bさんはおばあちゃんになります。新しい命の誕生というよくわかる希望があることはきわめて幸いです。私たちはやわらかで透明な赤子と出会うなら、その赤子の「明日に架ける橋」になりたいと願うでしょう。これは自ずからの願いというより、神が与えてくれるところのステキな願いだと思います。そして本日木崎さんがバプテスマにおいて新しい命を得ることも実は同じ出来事で嬉しいかぎりです。
 教会の元気がなくなったと言われて久しいですが、それは、よく言われるような、社会変化や日本文化のせいではないと思います。ただ教会家族みんなの、この「明日に架ける橋」にあるような「信仰、希望、愛」へのこだわりが重ねられていく歴史の成熟度の問題ではないでしょうか。だから実は端的にこの希望を受け、この希望にのっとって生きることを続けることで、教会が教会となるし、そのように生きたらどんなに幸いか想像もできるのだろうと思います。
 2007年もぜひみんなで一緒に歩みましょう。よいお年を。


12月24日の週報巻頭言

「クリスマスが年末にあるのは・・・」

クリスマスおめでとうございます。
今年もクリスマスがやってきました。主イエスが繰り返し「いのち」を世界に示し、同時に世界のすべての「いのち」を再び誕生させるという、つまり復活の「いのち」を私たちみんなに与える、神の約束の象徴的な日です。
 このクリスマスが年末にあるのは有意義だと思います。今年を振り返るならば、それは地球や社会全体においても、個々人においても、決して喜ばしいことばかりではなく、様々な悲哀や苦痛、閉塞感などを、私たちは経験していることと思います。そしてそういう経験が想起される中でクリスマスを迎えることがゆるされていることに意味があります。
 今年はどんな年だったでしょうか。清水寺の森貫主は、「命」という一文字を大きく書きました。恒例のこの行事は応募された中で最も多かった字を書くとのことですが、つまり、「いのち」を味わうクリスマスの本質と見事に重なった年であることがわかります。背景には、いじめの問題、自殺の問題があると報道されていました。
 そしてさらにその背景は次のようなものではないでしょうか。経済の世界化(グローバリゼーション)に伴う貧富の差が、同じ方法を取る日本においても私たちの生活に身近なこととしてあらわれはじめました。それは格差社会問題と呼ばれています。お金を持つ強い者と持たない大部分の弱い者を構造的に固定する戦前戦中と同じかたちになりつつあります。つまり、強い者のために、弱い者が利用される構造になったということです。
 そしてこの構造は戦争に不可欠な構造であることは歴史が証明します。たとえば、貧しい者が、家族を養うために、それなりの給料をもらうために軍隊に入るしかないという構造だからです。
 こうして弱い者の「いのち」が脅かされます。これは会社や学校など人間集団にあるいじめの構造でもあります。
今年は、こういう誰かの「いのち」がいつも脅かされているという、世界の中身が露わになった年でした。
 クリスマスは、この構造を打ち破る神の意志が強く働く時です。だからこそ心してご一緒にクリスマスを味わい、祝いたいと思います。
神に栄光!地に平和!