きぼう屋

生きているから生きている

寄り添いネット新年活動

2007年01月08日 | ホームレス支援のこと
ホームレス支援機構・京都寄り添いネットの
初活動のお知らせ

<8日までこの記事がトップです。下にいくと最新記事あります。>

1月6日(土)午後 鴨川パトロール
(おにぎり持って訪問します)

ボランティアは午後1時に教会集合です。
(駐車場側の最北のドアよりお入りください)



1月8日(月)昼 新年炊き出し
(おせち付き。新年を味わうことも生きる力なり)

ボランティアは朝10時ごろに教会集合です。


今年も寄り添いネットをよろしくお願いいたします。




身体

2007年01月08日 | 教会のこと
昨日の教会週報巻頭言です。

*************************

 新年おめでとうございます。キリストが生まれて2007年目。世界がキリストの身体となることがゆるされて2007年目とも言えましょう。でも報道で知るのは、テロや残虐な殺人、虐待でした。暗く重たい気分になります。
 そして、この「気分」になるところに、私は自分の誤りを見ます。というのは、これらは「気分」という「心」の問題ではなく、キリストの「身体」の問題だからです。キリストの身体として生きるなら、私の身体が生々しい痛みを覚えるだろうからです。
 そこで新年の最初に明確にしたいのは、教会がキリストを「心」の問題にすることが多いのは間違いであることです。教会はキリストの「身体」とされており、それは世界がキリストの身体であるところの象徴であることをぜひとも思い起こしたいと願います。
 「心」の問題はどうしても個々人を分断し、あらゆる生命がひとつの「身体」であることを見失わせます。するとひとつの「身体」としての世界の癒しより、自分ひとりの「心」の癒しを求めるようになります。でも、そうすればするほど、ますます孤独で寂しくなる私たちもいます。そして恐ろしい事件を知ると、孤独なゆえにますます自分の「心」を守ることに興味を示すようになっていくのだと思います。
 でもそれは同時に、明らかに「身体」を持つ生命なのに、その「身体」を失っていることでもあります。それは生きる感触を失うことであり、実は、この喪失感によってますます「心」を病んでもいるのではないでしょうか。
 今、教会こそは「身体」を回復したいものです。それはそれぞれが身体の一部という生々しい交わりです。
 教会がそうなれば、世界の苦痛の癒しの現場になるはずでもあります。
 主よ。我々の個々人の間の不思議な距離が破棄され、キリストにつなげられるキリストの交わりという「身体」としてくださいますように。アーメン。